
結末
彼と初めて目が合ったのは、職場のロッカーの前だった。
私は勤務初日で緊張しながらも、すれ違う社員に笑顔で挨拶をした。
「おはようございます!」
彼はその声に少し驚いたように目を丸くし、それからすぐに爽やかに挨拶を返した。
その後、奥へと続く通路を進み、指定された部屋へ向かった。カードキーの操作に手間取っていると、背後に気配を感じた。
振り返ると、さっきの彼が少し照れたように立っていた。
右手にドコモタワーの見える窓際に彼の席があり、私はその隣で彼の研修を受けるよう指示された。
同じ部署で、隣同士の席。初日の偶然が、思いがけない距離の近さに変わっていく。そんな展開に、少しだけ現実味のない高揚を覚えた。
彼は読書が好きだと言った。
「昔から自分を表現するのが好きで、そういう仕事をしている人に惹かれるんだ」
そう言う彼の言葉には、迷いのない輪郭があった。
彼はコールセンターの業務のかたわら、物語を書き、SNSに投稿していた。そこには“僕”と名乗る主人公と、隣に住む女性との断片的な物語が綴られていた。過剰なほど丁寧な情景描写が、かえって現実から遠ざけているようにも見えた。
「最後まで書きたいんだけど、母親には“何が書きたいのか分からない”って言われてさ」
彼はそう言って、少しだけ苦笑した。
私はその感想に、心のどこかで頷いてしまった。
それでも、彼が触れている世界は眩しく見えた。彼が夢中になるものは、すべて正しいように思えた。
休みの日には図書館へ通い、彼に薦められた本を読み進めた。正直、感情移入できないこともあった。それでも最後まで読むことだけはやめなかった。
疲れて帰る日々だったが、あの頃の私は、今よりも確かに生きていた。
なぜ自分がここまで惹かれるのか、時々分からなくなった。
彼が感動した作品。彼が影響を受けた表現。それらに触れていくことは、彼に近づくための唯一の道のように思えた。たとえ同じ感情になれなくても構わない。ただ少しずつ彼の輪郭をなぞっていきたかった。
それが、恋だと気づいた。
仕事帰りに食事へ行くこともあった。何度か会ううちに、私は彼への気持ちを言葉にした。彼はその後も変わらず誘ってくれた。そのことが、わずかな希望になっていた。
本屋へ行った日は特別だった。
彼は私に尊敬する著者を紹介しながら、目をキラキラさせて話すのだった。
「この本ではエレベーターのシーンだけで、これだけ情景描写が詳しくて、美しいんだ!」
ページいっぱいに手を広げながら無邪気に話す彼の表情。とても愛おしかった。
私が、彼の崇拝する著者の情景描写を擬人化したものにでも転生できたなら、この恋は成就していたのだろうか。
大恋愛が崩れていったのは、実に一瞬の出来事だった。
食事の帰り、ホテルに立ち寄ることが続いた。言葉にされないまま流れていく関係の中で、私はいつも不安を抱えていた。
「付き合っているのかどうか」を確かめることは、どこか怖かった。
以前、彼は曖昧な言葉でしか気持ちを示さなかった。
それでも私は、関係を壊す言葉を口にすることができなかった。
そしてある夜、私はとうとう尋ねた。
「私は、あなたの彼女になれる?」
彼は少しの間黙り、それから静かに言った。
「今は、誰かと付き合うつもりはない」
涙をこぼす私を前にしても、彼は止まらなかった。
「君を想うのをやめようと思う」
翌日、彼にLINEで伝えた。
それは、自分なりに選んだ別れの言葉だった。
しかし彼から返ってきたのは、仕事の都合を理由にした、どこか他人事のような返事だった。
その瞬間、何かが静かに崩れた。
私はそれ以上、返信をしなかった。
それから数日、何事もなかったように仕事を続けようとしたが、心は少しずつ均衡を失っていった。
やがて私は職を離れ、九州へ戻った。
三ヶ月近くが過ぎた頃、夢を見た。
そこにいた彼は、あの頃と同じように穏やかに笑っていた。エレベーターの情景描写の話をしていたときのような、無防備な表情だった。
目が覚めたとき、不思議なほど静かな気持ちだった。
憎しみでも未練でもない、ただの終わりがそこにあった。
彼はもう、この先の夢には現れないだろうと、なぜか確信していた。
それでいいと思った。