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能「春日龍神」〜能舞台に立ちあらわれた龍神たち〜


    大学生の時に能楽と出会って以来、能について、不思議だなって感じることがらがいくつかありました。それらを少しずつ紐解きながら今に至っているのですが、その不思議や疑問が解決されるのは、案外、舞台をみている最中だったりするのです。


    1、龍神って何?


    ずっと不思議に感じていたことの一つに

       龍神って何?

    という疑問がありました。

    能には、龍神という言葉が入っている題名もあります。また、龍神といってもタイプは一つではなく、女性であれば、成仏するために龍女になったりもします。何の脈絡も説明もなく突然「龍神」が登場する能もあってびっくりさせられたこともありました。

    子供の頃のお遊戯会の舞台のように、登場人物の頭の上に、龍の姿が描かれたものを立てた冠を載せていて、これを能では龍戴(りゅうたい)とよびますが、

    「私は龍ですよ〜!!」 

    って登場する龍神たちが、なんだか素朴に楽しく感じられて、それでいて、あまりに当たり前に登場してしまう龍神たちの存在は摩訶不思議でした。

    しかしそのような不思議については誰に尋ねることもなく、龍も龍神も自分の中にしまい込まれて、いつしか忘れてしまっていたのでした。

    この龍神の不思議をちらっと思い出したのが十年ほど前のこと。世の中に龍神ブームが沸き起こって、龍が見える人や、龍神さんの声が聞こえる人がいるらしいとか、龍に付かれた人がいたり、龍を使うことのできる人もいるらしい、という話題が耳に入ってくるようになりました。

    案外、龍神好きな人は多いのね、って思いながらも、世間の流行と、室町時代に作られた能の登場人物を、いっしょに考えてよいものやら、両者は別のことなのだろうか、そんな風に考えたりしていました。その頃もまだ「龍って何?」という私の疑問に的確に答えてくれる人はいなかったのです。

    さらに五年ほど前には、日本の国土は龍の形をしているとか、日本人は金龍の遺伝子を持っている、という情報もキャッチできるような時代になりました。
    とても魅力的な話題で、日本の国を龍の形にみようとすればみえるけれど、金龍と言われると、一体何がその根拠となっているのだろう、と不思議は深まるばかりでした。

    ところが、ある時「春日龍神(かすがりゅうじん)」という能を観て、龍についての受け止め方が全く変わってしまったのです。


    2、釈迦の聖地・天竺へ旅立とうとする明恵上人を春日大明神が制止する!!


    実はそれまでの私は「春日龍神」という能に対してある考えを抱いていました。

    この能の龍神は、通常、主人公のシテとして一人(龍神の場合は、ご一体と表現すべきかもしれませんが)しか登場しません。
    ただし、謡の内容としては、八大龍王の面々が登場することになっていて、龍女も登場することが謡われます。
    もちろん、複数の龍神が登場する演出(小書)もあるのですが、たいていは一人で演技するという形なので、それが少し寂しくもの足りないようにも感じていたのです。できれば舞台に複数の龍神さんが登場して賑やかに力強く魅せてほしいなという気持ちがありました。

    そもそも「春日龍神」というのは、奈良の春日山に現れる龍神、という意味になります。
    どうして、春日山に龍神が登場するのでしょうか?

    能舞台に最初に登場するのは、唐に渡って天竺の釈迦の霊地まで出かけたいと切望する明恵上人(みょうえしょうにん)です。
    この、鎌倉時代初期の華厳宗の優れた僧である、明恵上人が、渡天する前に春日大明神に参詣するところから、能は始まります。
    この役は脇役担当のワキ方の役者がつとめます。

    では主役は誰かといえば、前半では、明恵上人の次に登場する春日社の宮守の翁、神職です。
    この地味な老人は明恵上人に対して、春日大明神が上人を待ちかねていたことを伝え、明恵上人が日本を去ることは大明神の思し召しに背くことになると説得します。

    春日大明神が、明恵上人のインド行きを止めようとするのも不思議だけれど、その理由はさらに不思議です。

    天竺に行くまでもない、ここ春日で良い。
    お釈迦さまは今、春日大明神と化現して春日山に御鎮座され、衆生を済度しているから。

    この宮守の返事を聞いたら、現代人であれば思わず、
    「え、麓に奈良公園が広がる、あの春日山はそういう山なんですか?」
    って聞き返したくなるでしょう。
    「それは初めて聞いた〜!」
    って、私もびっくりしました。

    さらに、宮守は続けます。

    だから、この春日山を、鷲(わし)の御山(みやま)、つまりお釈迦さまの説法の場であった霊鷲山(りょうじゅせん)だと思って拝めば良いのです。

    この宮守の発言ですが、能で、春日大明神が話題にされる時は、たとえば、能「野守」などでも同じ発想で書かれています。

    こうした問答などの場面が続いて、明恵上人はついに、渡航を思い留まることにします。そして宮守に、あなたはどなたですか、と尋ねます。

    上人が入唐渡天を思いとどまるならば、釈迦の誕生から、入滅までの全てをお見せしましょう。
    私は時風秀行です。

    このように名乗ると、宮守の姿は「かき消すやうに失せにけり」と、みえなくなってしまいます。

    ここまでが、前半です。

    そして、後半では、時風秀行が伝えた御神託の通りに、春日山が金色に輝き、釈迦が説法をした霊鷲山のイリュージョンの世界が描かれる場面となります。
    そこに現れるのが、釈迦の説法の場に参列していた、八大龍王と名乗る龍王たちなのです。


    3、実話にイリュージョンを加えた「春日龍神」の作者


    明恵上人については、春日大明神によって唐の国へ渡ることをやめるようにとの御神託があって渡航を断念した、という逸話が伝わっています。

    能の前半と後半の間に間狂言がしゃべる内容の、バリエーションの一つに、天竺への道のりが語られるという形もあります。実際に天竺へ行こうとしていた明恵上人が、天竺への道のりを考えて記録していた直筆の「大唐天竺里程書」が現在も残っています。
    作者は、この貴重な資料を、間狂言のヒントに用いたのだと思われます。

    前半の主役は、春日大社の神職として、時風秀行という名前の一人の人物が登場します。
    この名前については「鹿島立神影図(かしまだちしんえいず)」という、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が鹿に乗って常陸国(ひたちのくに)から御蓋山(みかさやま)つまり春日山にやってきたときの絵図があり、そこに描かれている二人の従者、中臣の時風(ときかぜ/ときふう)と中臣の秀行(ひでゆき/ひでつら)が元になっていると考えられています。
    時風秀行は前半の終わりに突然消えてしまうのですから、現地にいた神職で普通の人間とは言い難い存在です。この人物は、春日大明神の仮の姿、化身あるいは、その御神託を伝える霊的な存在として作られた役なのではないでしょうか。

    さらに後半の場面は、法華経というお経の中で、お釈迦様の説法の場、特に八大龍王が参列している場面の描写が元になっています。

    普通の人では集めたり見たりすることのできない資料にあたって、さらに、後半を、幻想的な場面に仕立てている。この、作者の作品作り・脚色の工夫に注目したい作品であります。

    そして、この後半の場面が、どんな風に、演技、演出されるのか、というところは観客としての楽しみとなります。


    4、能舞台に立ちあらわれた龍神たち


    私が、龍神というものに対する考え方を変えることになった「春日龍神」の上演は、令和五(2023)年3月19日に、名古屋能楽堂で開催された 名古屋宝生会 桃華能 でした。

    能「春日龍神」 kasuga-ryujin 出演者 
    時風秀行(前シテ) 和久荘太郎
    龍神(後シテ) 和久荘太郎
    明恵上人(ワキ) 飯冨 雅介
    末社の神(アイ) 伊藤泰
    笛  山村 友子
    小鼓 船戸 昭弘
    大鼓 河村裕一郎
    太鼓 加藤 洋輝
    地謡 辰巳 満次郎(地頭)
               小倉 健太郎 東川 尚史 内藤 飛能
       中村 成利  鶯野 健 能勢 涉 片桐 真
    後見 衣斐 正宜 髙橋憲正

    20230319 名古屋宝生会 桃華能
      

    能「春日龍神」では、春日山にお釈迦様がいらっしゃるという、現代人にとってはびっくりするような内容が前提となっていますが、能に書かれている通りに、そのまま受け止めることにします。
    作者は、それを証明するために、後半の場面で、お釈迦様が説法した、かつての霊鷲山を、霊鷲山のイリュージョンを、春日山に見せる、という場面をつくっています。


    なるほどそういう話なんですね、と内容を知って舞台を楽しむことができれば、それはそれで良いわけです。

    私もそのつもりでした。

    ところが舞台を見て受けた印象は、予想とは全く違ったものでした。

    地謡(じうたい)のリーダー、地頭(じがしら)の響き渡るような大きな声に、他の地謡の人たちの声が重なり、地の底を這うような謡の声が、一つの大きな砲丸のごとくにまとまって龍神にぶつかっていくようでした。
    舞台上の龍神は、大変力強く充実した印象でした。ただしこの時は、むしろアンテナのような役割を担った、まるで地謡のエネルギーを変換させる装置のような存在に感じられました。龍神が、受信したエネルギーを、上向きに発生させていくと、そのエネルギーは渦を巻いて能舞台の屋根を突き抜けて、能楽堂の高い天井まで昇っていきました。

    この時は、お囃子も勢いにのっていて、笛の音は元気よく伸びやかに奏でられ、小鼓は軽やかに響いていました。

    その中で、大鼓(おおつづみ)の耳をつん裂くような、人間の声とは思えないような、イヤアーーーッッ、という掛け声が発せられると、空中のエネルギーがムワムワっと蠢(うごめ)き始めて、その大鼓の音が、カーーーーン と鳴り響いたとたんに、空中のエネルギーはいっせいに、グワッーーーンとトグロを巻いて蟠(わだかま)る。その繰り返しでした。

    さて、ここに太鼓(たいこ)が入るとどうなるのだろう?
    太鼓がお囃子に加わると、その大きな音量のために、しばしば謡が聞こえなくなるほどです。これほど謡の声量が大きい上に、もっとどでかい音で太鼓が打ち鳴らされたら、、、。

    ところが、太鼓の演奏は予想を裏切るものでした。
    例えるなら、鬱蒼とした森の奥深くの谷川で、急な勾配を持つ大きくて黒光りのする岩肌を、ものすごい速さで音もなく軽やかに滑り落ちる水の流れのよう。

    思いもよらない、太鼓のリズムと音に驚きました。
    能の太鼓が、こんな風に演奏できるとは!
    そして、その軽やかさが、空中のエネルギーの運動をさらに速く激しいものにしていったのでした。

     これは何?
     エネルギーが渦巻いている?
     見えないけれど何かがあるの?
     私は、舞台の上に幻想を見ているの?
     妄想かも?
     いや違う。
     
     エネルギーが蟠(わだかま)る。
     それが龍! 
     龍のエネルギーには違いない!

    舞台の上に龍神が一人しかいないとなんだか寂しい。
    そんな心配をしていた自分がはずかしくなるほどの、見えないけれど、たくさんの龍のエネルギーを、実際にあるものとして感じたのでした。
    龍か龍神かその呼び方の区別はまだよくわからないけれど、ともかく、
    龍のエネルギーを感じてしまったのです。

    あっけにとられているうちに、能はついに終わってしまいました。

    能の作者は、観客が舞台に何をみるか、ということまで計算して、台本を書いていたんだ!
    うーん、なかなかやるじゃない!

    実際に目に見える形で登場しなくても、作者が意図した世界を、観客として心で、意識で楽しむことができたのです。 

    自分の体は今、この目に見える世界にあるけれど、自分の意識は、龍神が存在する目に見えない次元の世界の中に入りこんだ、という感覚でした。
    最初からそれを求めていたわけではなかったけれど、予想も期待もしていなかったけれど、龍という存在を実感できた。

    もちろん、このような体験ができたのは、舞台のパフォーマンス自体が、演者の波動が共振しさらに増幅もされて、とてもうまくいっていた、ということなのでしょう。
    私もわたしなりに舞台上の波長に合わせることができた、ということかもしれません。
    至福といえる体験となりました。

     龍神って何?

    その答えの糸口を、能楽堂の中にいて意識の世界で得ることができたのでした。


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    (了)

    お読みくださりありがとうございました。




     
     
    能は、気楽に楽しむにはわかりにくいけれど、興味と不思議は尽きることなく今に至っています。能楽(能と狂言)の切り口は、伝統文化、古典芸能、習い事、など様々ありますが、実は演劇として巧みにできているということを発信したくて、能と狂言をラジオドラマにして紹介しています。yossy

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