【自伝?】死にたい年表
2026年5月現在、俺は26歳の女です。
俺は16歳(高校1年生)の時から
だいたい常に「死にたい。早く人生が終われば良いのに」と
思いながら、生きてきた。
そう思うのが普通だと思っていた。
しかし、常に「死にたい」と思い続けながら
生きることは、どうやらおかしいらしい。
俺には、死にたい気持ちが常にあるから
どんな出来事に付随して
その気持ちが湧いたのかをまとめようと思う。
人生のどこかで「死にたい」と思ったことが
あるみんなに届けたい。
本文章は、無責任に「死にたいなんて言うな」
「生きろ」と励ますものではない。
人生の大半を死にたいと願いながら
過ごしてきた、生きている人間がいることを
みんなに知ってもらいたい。
自分自身、記録を残す意味もある。
支離滅裂になることもあるかもしれないが、
自分の中から絞り出して書く。
辛くて二度と思い出したくない記憶を
掘り起こして書く。
俺は、今もなお、死にたい。
現在進行形で死にたいと思っている。
でも、この文章を書く。
1人でもいい。
届いてほしい。
死にたいと思いながらでも
生きられる。生きて良いんだ。
死にたいと思っても良い。
思うことを、湧き上がってくる感情を
押し殺すな。
以下、大まかな年表。
高校1年生---車に轢かれて死にたい---
高校2年生---帯状疱疹くそくらえ---
高校3年生---大学落ちたら人生終了---
大学1年生---幸せなキャンパスライフ---
大学2年生---メンヘラ革命---
大学3年生---まじで俺って不必要---
大学4年生---嘘をつく自分が大嫌いだ---
社会人1年目---まぁこんなもんだよね---
社会人2年目---ここで逃げられない---
社会人3年目---よしっ死のうか---
社会人4年目---正式に病気になる---
現在--史上最高に死にたいっ--
以下、各年の詳細。
高校1年生---車に轢かれて死にたい--
(16歳、2016年)
明確に死にたい気持ちが芽生えたのは
おそらく高校1年生の秋頃。
理由は単純で、部活に行きたくないから、
死にたかった。毎日帰り道で自転車を漕ぎながら
「あれ?今ここで車に轢かれたら、死ねて明日の部活
行かなくていいんじゃね?」と真剣に考えていた。
じゃあ部活を辞めたら良いのに…という声が聞こえてくる。
辞めて解決する問題ではなかったのだ。
部活名は控えるが、運動部だった。
部活は本当に厳しくて辛かった。
休みはほぼ無かった。平日は放課後に毎日練習。
土日は県外に遠征して練習試合。
俺はこの生活を2年半やり切った。
部活の疲れで、学生の本業である勉強は全く手に付かなかった。
授業の時間は睡眠時間。家に帰っても予習復習する気力は無い。
定期テストの順位はいつもクラス内でビリ、学年順位も
下から数えた方が早かった。
毎日毎日、部活に明け暮れて、同じことの繰り返し。
自分の好きなことや趣味を楽しむ時間も作れない。
俺は運動も下手くそだった。練習試合では負けばかり。
頑張ってはいるけれど、なかなか上手くならない。
部活を楽しいと思えなかった。
関東大会出場とか、インターハイ出場とか、
自分には程遠い夢みたいな目標に思えて、
いまいちそれを目標にして頑張るということができなかった。
しかも、同期とはめちゃくちゃ仲が悪かった。
本来、きつい練習の日々を同期の仲間同士で
励ましあって乗り越えるのが部活だと思う。
俺は、入部してすぐに頭のおかしい空気が読めない人間だと
同期から認定された。仲間外れにされるのは早かった。
しかし、1個上の先輩たちは
俺のことを面白いと気に入ってくれた。
1個上の先輩たちに可愛がられる俺を見て、
同期は手のひらを返して俺を仲間外れにすることをやめた。
あと、顧問もカスだった。
あまり汚い言葉は使いたくないが、
顧問は本当にカスだった。今もだいっきら~いっ。
顧問は気分の波が激しく、機嫌が悪いときは
理不尽に部員を叱っていた。
教員は生徒たちの手本であるべきだと、俺は考えている。
自分の感情をコントロールできず、生徒に八つ当たりする
人間のことなんか、到底尊敬できない。
人間関係はドロドロ、練習も楽しくない、
顧問はカス。部活を辞めたいなと毎日思うようになった。
しかし、俺は自分の考えを目上の人に伝えることが
かなり苦手だ。怖くてイカれた顧問に「辞めたいです」
なんて伝えられるわけがなかった。
それゆえ「車に轢かれて死にたいな~」と強く思うのだった。
クラスの友人に「部活に行かなくて良くなるから、
車に轢かれて死にたいと思うよね?」と質問したら
ドン引きされた。
高校2年生---帯状疱疹くそくらえ---
(17歳、2017年)
死にたい気持ちは継続しつつも、休まず練習に励んでいた。
1個上の先輩が引退して、ついに自分たちの代になった。
ここからが、本当の地獄の始まりだった。
まず、自分たちの代になって初めて迎えた夏休みの練習。
長期休みも、もちろんほとんど休みは無かった。
俺は、ターゲットになった。
顧問が機嫌の悪いときに八つ当たりする部員に
選ばれたのだ。なんという不名誉。
自分たちの代になってから、怒られなかった日の方が
少ないと思う。俺は毎日のようにネチネチ叱責されていた。
怒られると分かっていながら、夏休みの練習に行く日々。
家を出発する前に腹痛に襲われるようになっていた。
それでも、休んだらもっと怒られると思って無理やり
練習に行っていた。
その結果、夏休み明けに帯状疱疹になった。
皮膚科の医師には「ストレスと過労ですね」と言われた。
帯状疱疹は、体の半分に痛みを伴うブツブツができる病気だ。
俺は2週間ほどで治ったが、ピリピリする痛みとかゆみが
結構辛かった。帯状疱疹は他人にうつしてしまうことがあるらしく、
俺は1週間ほど学校も部活も休んだ。
顧問に帯状疱疹を患い、学校も部活も休む旨をメールで
伝えた時に「帯状疱疹は赤ちゃんがなる病気だぞ(笑)」と言われた。
お前のせいだよ。お前がどれだけ俺にストレスを与えていると
思ってんだよ。ふざけんなよ。悔しくて仕方がなかった。
今思えば、この時に部活を辞めれば良かったんだと思う。
だって、赤ちゃんがなるような病気になる弱い部員なんて、
必要ないでしょう?邪魔でしょう?
心から死にたいと思った。
帯状疱疹が治ってから部活に復帰した。
また毎日怒られる日々が始まって、
また毎日自転車に乗りながら「車に轢かれたい」と
思う日々が始まって、なんのために生きているのか
分からなかった。高2の10月下旬に、部活から帰宅して
意を決して母に「もう部活辞めるから、顧問に電話して」と
お願いした。母から顧問に「うちの娘が毎日泣いていて、
辞めたがっています」と伝えてもらった。
それで顧問が「あぁそうですか」なんて納得するはずもなく、
「娘さんにかわってください」と母に言い、俺がかわった。
そこから約2時間の説得。途中で俺の家の受話器が
電池切れをしたくらいだ。
顧問は俺に「辞めないでくれ」と懇願したのだ。
俺は驚いた。
だって、俺は試合に出ない補欠部員だったから。
レギュラーメンバーならまだしも、
下手くそで公式戦に出ることがない俺が
なぜ引き止められているんだ?と疑問に思った。
答えは、俺が部内のムードメーカーだったから。
相変わらず同期仲は最悪だし、一個下の後輩たちとも
折り合いが悪く、部内の雰囲気は決して良いとは言えなかった。
俺はひょうきんな性格のピエロを演じていたため、
同期と後輩を繋ぐ架け橋のような存在になっていた。
顧問的には、俺が辞めると部員同士の仲がさらに
険悪になるから困るという考えだったらしい。
2時間も説得されて、辞められなかった。
俺が顧問に辞めると伝えたことが、
のちのち同期にバレて仲間外れに拍車がかかった。
ウケる。
人間性の終わっている奴が、試合で結果を残せると思うなよ。
俺が辞めると伝えて1カ月間ほど
顧問は気持ち悪いくらいに優しかった。
ネチネチ怒られることもなく、
俺と話すときは笑顔だった。気持ちが悪かった。
1カ月経つと、元に戻り、またネチネチと毎日
怒られるようになった。
辞めたくても辞めさせてもらえず、
相談できる仲間もいない。
誰がこんな状況の中で「明日が楽しみ」と
思えるのだろうか。
高校3年生---大学落ちたら人生終了---
(18歳、2018年)
部活は高3の7月下旬まで。
結局俺は死にたい消えたいと願いながらも
引退までやりきった。
これは決して美談ではない。
忍耐力が鍛えられたとか
根性がついたとか
そんなことでもない。
むしろ、無理をして続けたことが、
10年経過した今でもトラウマとして
俺の人生に、俺の心に暗い影を落としている。
今も3日に1回の頻度で顧問に怒られたり
同期に怒られたりする夢を見ているからね。
最悪よ。本当に。
俺は、1回も公式戦に出たことがない。
もちろん、最後の引退戦ですら、補欠だ。
どんなに頑張っても公式戦のレギュラーに
選ばれない、準公式戦には数回出たが、勝てない。
俺は腐りかけていた。俺以外の同期はみんな
レギュラーとして公式戦に出ている。
後輩も公式戦にでている。
俺だけがずっと選ばれず、惨めだった。
努力はしていた。
朝練の前に一人だけ早く来て
自主練をしていた。
まぁ、努力の仕方が間違っていたのだろう。
だから、試合には出られなかった。
そんな状況で「もっと頑張ろう!
絶対に試合にでるぞ!」なんてもう思えないわけで。
後輩にも負けている奴が、今更チャンスを掴めるわけがない。
顧問には俺だけがネチネチ怒られている中で、
希望なんてない。目標なんてない。
モチベーションなんてない。
あるのは、死んでしまいたいという気持ちだけ。
死にたい気持ちだけは人一倍あったと思う。
今、この記事を書いていても辛い。苦しい。
こうして公式戦に出ないまま部活を引退した。
一息つく間も無く、今度は大学受験の勉強だ。
いわゆる進学校にいたから、周りに合わせて
GMARCHと日東駒専あたりの偏差値を目指した。
部活をやっていた時は全く勉強していなかったから、
受験勉強は大忙し。これまでやっていなかった分を
取り戻すべく、猛烈に勉強に励んだ。
受験勉強は苦しかったが、部活に比べれば100倍マシ。
だって、ネチネチ怒られることがないから。
やればやった分だけ、成績は上がった。
何より、英語も日本史も国語(現代文&古文)も楽しかった。
クラス内順位ビリ、学年順位も下から数えた方が
早かった俺だったが、高3の冬にはクラス順位は一桁、
学年順位は20番台にまで上がった。
俺、やればできるじゃん!と感動した。
結局GMARCHは落ち、日東駒専レベルの大学に進学した。
ただ、勉強をどれだけ積み重ねても、将来への不安が消えることはなく、
全部の大学に落ちたらどうしよう、浪人はできないし…という
不安から「どこも受からなかったら、まぁ死ねば良いか」と
考えていた。
クラスで仲良くしていた友人たちが
みんな指定校推薦で大学合格を果たしていた
ことも、俺の不安を増幅させた。
俺だけ一般受験なので、当然仲間はずれになった。
入試のための勉強をしなくて良くなった友人たちは
学校外では俺抜きで遊ぶようになり、そのうち、学校でも会話をしてもらえなくなった。
なんとご丁寧なことに、LINEのプロフィールアイコンに
俺抜きで遊んだ写真を設定してくれていた。
むかついたし、何見せつけてんだよって思った。
俺はまだ勉強があるから、遊ぶことはできないし。
しかし、クラスの中でも一般受験の人間は割といたのに、友人のうちの1人がクラスの皆に聞こえる声量で「センター試験めんどくさぁい。わたしはもう決まってるのにぃ」と発言をしていて、思いやりの欠片も無いのだなぁと感心し、こんな人間からなら仲間外れにされてもいいかと、勉強に集中しようと考えた。
でも、悔しかったけどね。
俺の死にたい気持ちの最大の要因
であった部活がなくなっても、
一度「死にたい」と感じることを覚えてしまうと、それは消えない。
いつも頭のどこかに「死ねば解決」「消えたい」が常駐している。
大学1年生---幸せなキャンパスライフ---
(2019年、19歳)
晴れて大学生になった。
大学1年生は、人生で1番楽しかったと
言っても過言ではない。
大学1年の間は「死にたい」という気持ちは
一時的に薄れていた。
まず、授業が終わってから部活に行かなくて良い
生活がこんなにも楽しく自由なのか!と知った。
放課後に友人とカラオケやショッピングに出かける
体験も初めてで、楽しかった。
授業は、可もなく不可もなく。
特別面白い講義は無いが、テストのために
きちんと聞いておこうという感じだった。
大学2年生---メンヘラ革命---
(2020年、20歳)
大学2年は再び「死にたい」が戻ってきた。
理由は、失恋。恋人に振られた。
恋人は俺のあまりのメンヘラ加減に
辟易してしまったそうだ。
俺は、こんなに大好きな人と別れてしまったら、
もう生きていけない。死ぬしかない。
俺が死んだら、あの人は悲しんでくれるかな。
メンヘラすぎて恥ずかしいが、
当時は本気で思っていた。
好きな人のためなら死ねると思っていた。
好きな人を失った喪失感に耐えることができず、
死んで楽になりたい、あの世に行きたいと
思っていた。
大学3年生---まじで俺って不必要---
(2021年、21歳)
時間が解決することって多くて、
失恋の傷も癒えてきたころ。
今度はコロナが俺の生活を脅かした。
未知のウイルスの襲来に伴い、
大学は対面授業を無しにして
オンライン授業へ移行、
ショッピングモールなども休業して
バイトも休みになった。
コロナで一日先のことも分からない中で
就職活動のことを考え始めなければならなかった。
大学の学部と学科の詳細は控えさせてもらうが、
その学部に在籍する9割の人間が
とある職業に就職する。
俺は、とある職業へ就職しないことを決めた。
残りの1割の人間になることを選んだ。
この選択が、俺をまた、苦しめることになった。
大学の敷いたレールの上を歩んだ方が
心穏やかに過ごせていたのだと思う。
しかし、俺は、大学の授業で学ぶ度に
なんか違う気がする、
自分には合っていない気がすると感じてきた
とある職業に就職することは
できなかった。
自分の本当の気持ちに蓋をすることはできなかった。
大学側も、9割側の人間の就職は支援するが、
残りの1割側の人間の就職は大して支援しなかった。
俺は大学の支援は当てにならないと
早々に見切りをつけた。
自分で何とかするしかないと腹をくくり、
就活サイトを調べまくり、徹底的に自己分析をした。
就活に関する本を買い漁り、読みまくった。
ほとんど誰にも頼ることなく、
相談することもなく、
一人で黙々と進めていた。
友人たちも9割側の人間が多く、
気軽に進路のことを語り合える者は
いなかった。というか、オンライン授業になったから
友人とは会って話ができなかった。
コロナで夏の対面のインターンは
時間を短縮して実施する傾向があり、
一日数時間の企業説明会を実施するところが
ほとんどだった。
オンラインでの説明会がかなり多かった。
夏にオンラインと対面を含めて
3社ほど企業説明会に参加した。
どこもあまりピンとこなかった記憶がある。
「絶対にこの会社で働きたい!」と思える
会社にはまだ出会えなかった。
働くことって大変だなと
将来に対する恐怖は日々増幅していった。
秋にもオンライン説明会を実施する企業も多く、
1社だけ「ここアリかも」と思える会社に
出会えた。
また、気になっていたNPO団体の
ボランティアに挑戦しようと決め、面接に応募した。
面接はオンライン。自分なりに上手く話せたと思っていた。
しかし、不採用のメールが来た。
心から悲しかった。
「やってみたい!」と熱意をもって応募したのに、
採用してもらえなかった。
自分の何が、どこかいけなかったのか、
教えてほしかった。
選んでもらえないことがこんなにも辛いことだと、
この時に初めて知った。
ボランティアの面接に落ちるのなら、
もっと重要な就職の面接も落ちるのではないか。
自分は社会と世界にとって
不必要な人間だという認識が極限まで高まり、
電車の線路に飛び込んで死ぬことを考えた。
不必要な人間は、世界にいらない。
なら、死んでも良いじゃない。
誰にも迷惑はかけない。
秋には週に1回は、対面授業が再開していたため、
電車で大学まで向かっていた。
帰り道に、ホームに立って1時間ほどずっと
線路を眺めていたこともあった。
でも、あと少しの勇気が出ず、
結局飛び込むことはなかった。
とはいえ、この後もずっと
自分は不必要な人間で、死ぬべきだ
という考えがずっと、頭の中にこびりついていた。
どんなに消したくても消せない考え。
後から、大学の友人の1人が
自分は落ちたボランティアに採用され、
活躍していることを知り、さらに絶望した。
自分は何がダメだったの?
こんなに頑張って生きているのに。
あぁ、あの子だったら、なぁ。
あの子になりたい。
自分を辞めたい。
自分という人間を捨てて、あの子になりたい。
なれないのなら、もう、いいよ。
人生辞めたい。
どうして生きていなければいけないの?
本当にずっと思っていた。
もちろん今も思っているが、
大学3年のこの時が、自殺への渇望が最も
あった時期だと思う。
「楽に死ねる方法」「電車 飛び込み」などと
暇さえあれば検索していた。
いまだに「楽な死に方」は分かっていない。
分かる人は教えてくれ。
人と比べず、過去の自分と比べよう
って、よく言うよね?
俺からしたら意味が不明。
だって、俺たちは学校でもその後の社会でも、
常に人と比べて評価されているよな?
身近なものだと勉強や部活の成績、高校や大学の偏差値かな?
能力を比較して評価されるだけでなく、容姿だって比較される。
それなのに人と比べるなと言うのは、ある種の暴力だと思うし
無理がある。人と比較して少しでも上にいかなければならない。
社会は、世界は、そんな風にできていると思う。
生きていて他人と比較しないことなど到底無理ではないか。
俺は、この時気づいたことがあった。
自分の上位互換はいくらでもいるということに。
この考えが頭から離れなくなり、とても苦しんだ。
このように、いわゆる自己肯定感(俺は自己肯定感という言葉、概念が大嫌いである)というものが下がり続けて、常に死にたい気持ちを抱えながらも、
コロナで社会がどうなるか分からない不安も抱えながらも、
就活のための努力は怠らなかったし、
大学の授業も真面目に受けていた。
死にたい気持ちは隠せる。
全くそんなことを思っていませんよ?という振る舞いができる。
一度、母に「電車に飛び込んで死にたい」と
伝えたことがあったが、母は「電車に飛び込むと色んな人に迷惑がかかるから辞めなさい」と言われただけだった。俺は母に「お願いだから、死なないで」と言って欲しかった。
年が明けて1月中旬頃、以前オンライン企業説明会に参加して
「ここアリかも」と思っていた企業から
早期選考の案内メールが届いた。
結論から伝えると、俺はこの企業(仮名として以後A企業と表記)から
内定をもらえ、働くことになる。
最近、就活の早期化が問題になっている。
俺は就活の早期化には大反対でムカついているが、
現状は大学4年の4月になってから就活を開始したのでは、
間に合わないと思う。
実際、俺は3年の3月1日には内定をもらい
就活を終了させた。
珍しいかもしれないが、俺はA企業1社しか
面接を受けていない。
1社だけ受けて、運良く合格し、就活終了。
自己分析や面接練習を結構頑張っていたから、
努力が実ったのだろう。
A企業の面接は全部で3回あった。
俺は2次面接でモノマネを披露した。
みんなは面接でモノマネをする場面は無いかと思うが、
記録に残しておきたいと思ったから、ここに供養する。
ちなみに、千と千尋の神隠しのとあるキャラクターを
演じたぞ。
依然としてコロナによる生活への制限は
あったが、就活が終了して、少しだけ安心できた。
誰にも選んでもらえないかもしれないという恐怖から
解放され、モノマネを披露した自分を採用してくれる
会社に巡り合えたことが嬉しかった。
大学4年生---嘘をつく自分が大嫌いだ---
(2022年、22歳)
大学生活最後の1年間。
就活も終わったし、もう不安になることなんて
ないでしょう?と、読んでくれているみんなは思うかもしれない。
だが、俺には大きな試練が残っていた。
実習だ。内容は控えさせていただく。
わかる人には分かってしまうかもしれないが。
俺は2回実習に行く必要があり、
実習に行くことで単位の取得ができるシステムで、
実習に行かないと大学を卒業できなかった。
俺は、春と秋に2回、どちらも1カ月程ほど
実習に行った。
大学3年のパートで少し触れたように、
俺の所属する学部の9割の人間がとある職業に就職する。
そのとある職業に就職するためには、
免許が必要であり、免許を取得するための実習であった。
俺は、とある職業への就職は選ばず、A企業への内定が決まっていた。
つまり、免許だけを取得することになる。
とある職業への就職はせずに
免許を取得する為だけに実習へ行くことは
あまり良いこととはされていない。
とある職業に就職をする気が無いのなら、
実習に来られても迷惑だと言う受け入れ先もある。
とある職業は、免許を持っているだけでは
働くことはできない。
免許を持っていて、なおかつ、試験に合格する必要がある。俺はA企業に就職するから、試験は受けない。
実習先で「試験は受けませんが、大学を卒業するために
免許の取得が必要なので実習を行わせてください。とはいえ、実習をさせていただけることに感謝し、精一杯頑張ります!」
と言えたら良いのだが、言える訳がない。
そんなことを伝えれば、受け入れてもらえないだろう。
俺は、とある職業になるための試験は受けないし、
とある職業に就職する気もないが、かといって、
実習をてきとうに済まそうなんて考えはなかった。
実習先も、色々と忙しい中で大学生を受け入れてくれる。
お世話になる人たちに感謝の気持ちをもち、頑張ることは、
当たり前のことだと考えていた。
だから、2回あった実習はかなり真面目に取り組んだ。
とある職業に就職するという嘘をつきながら。
俺は、いや、みんなそうだと思うが、
嘘をつくことが嫌いだ。
実習先でお世話になった人たちに対しては、
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
本当はとある職業に就職しないのに、
もうA企業の内定は決まっているのに、
とある職業に就職する、試験を受けると
嘘をつきながら実習に励んでいることが。
本当のことを伝えられないもどかしさと
罪悪感でいっぱいになり、激しい自己嫌悪に襲われた。
嘘をつく自分は最悪で、
死んだ方がマシだと思うようになった。
俺はたたでさえ、出来損ないの人間なのだから、
せめて、正直な人間でありたかった。
この時に始めて精神科の受診を考えた。
スマホで精神科のことを色々調べ、
自宅から通えそうな所に予約の電話をしてみた。
俺は緊張しながら「初診で、予約がしたいです」と伝えた。
しかし、返ってきた返答は
「初診の予約は3ヶ月先まで埋まっています」だった。
俺は「そうですか、なら大丈夫です」と言って電話を切った。
この時とても絶望したことをよく覚えている。
自分でSOSを発信できた。しかし、届かなかった。
今すぐに助けて欲しいと思っていたのに、
3ヶ月先まで待てない。
でも、病院は悪くないとも思う。
精神科の予約が沢山になるほど、
俺のように心を病んでいる人間が多いのだろう。
悪いのは、社会だろう。
他にも2件ほど電話してみたが、
すぐに診てもらえる病院はなかった。
もっと沢山、電話をかければ良かったのかもしれない。
でも、そこまでの気力はなかったし、
何度も「予約は〇ヶ月先まで埋まっています」という
言葉を聞くことも辛いと思った。
拒絶されていると感じてしまうから。
結局誰にも自分の葛藤を相談することなく
2回の実習は無事に終えるのだが、
自己嫌悪と死にたい気持ちは増すばかりだった。
教育実習が終わり、大学の授業も残り少なくなっていた。
授業は対面に戻っていた。
授業の内容は全てが
とある職業に就職するための知識を
身に付けるためのものだった。
俺がとある職業に就かないことは
自分から話していないのにも関わらず、
なぜか同級生の間に広まっていた。
授業の中のグループワークや
休み時間に色んな奴から
「こり2(俺のペンネーム)さぁ、とある職業に
就職しないんでしょ?どうするの?」と
好奇心旺盛な感じで無遠慮に聞かれた。
俺はうるせぇよと思っていたし、
お前らに関係ねぇだろと思っていたし、
とある職業に就職することだけが
進路の選択じゃないしと思っていたし、
配慮なしにずけずけと進路を聞いてくる
無神経な奴らに開示する必要は無いと
思っていたから「うーん、ニートじゃね?」と
返答するようにしていた。
そうすると、聞いてきた奴らは困ったような笑顔をして誤魔化し、
無言になり去っていった。
まぁ、とある職業に就職する人間がマジョリティだから、
気が大きくなっているのだろう。
マイノリティの人間には何を言っても良いと
少し勘違いをしていたのだろう。
そんな奴らがとある職業でやっていけるのかは、
甚だ疑問だが。
他にも「就活なんて楽勝だよね、絶対どっかしらに
就職できるやん」なんてことも言われた。
自分のやっていないことに対して
過小評価をすることはやめてほしいと思ったし、
何を偉そうに…と思った。
進路に関するさまざまな活動(就活、国家試験など)は
どんな内容でもそれなりに大変だと思う。
比べること自体がおかしくはないか。
俺は、いつもその場ですぐに
言い返すことができないから、
無視していた。
でも、家に帰ってから怒りが湧いてきたり
寝る前に泣いたりしていた。
このように同級生たちから見下されている
ことも容易く感じ取れた俺は、
見下されていることに反抗したい、見返したいという
気持ちもありつつ、
やはり死にたい、自分は出来損ないで
いなくても社会は回ると考え続けていた。
卒論にもかなり苦しめられたが、無事卒業。
一度も単位を落とさなかった。
卒業式にも無事出席出来た。
なぜ無事に出席できたなんて書いたのかというと、
コロナに感染して出席出来なかった
同級生が何十人もいた。
まだ自宅待機や隔離?を厳しくやっていた時期だった。
卒業する少し前から、
職場に近い場所で一人暮らしを始めた。
社会人1年目---まぁこんなもんだよね---
(2022年、22歳)
ここからは、最近の記憶だから
濃密な記録になる。
社会人一年目、A企業で働きはじめた。
具体的な仕事内容は記載できないが、
それ以外はできる限り忠実に思い出して書く。
入社当時、まだコロナは猛威を振るっていて、
マスク必須だった。
入社式もオンラインで実施された。
社会人一年目は、高校時代の部活以上に辛かった。
慣れない職場の環境と一人暮らしの環境の中で
試行錯誤して奮闘した日々。
今思い出しても胃がキリキリしてくる。
俺が配属された職場(以降、A施設と表記)と
A企業について少し説明する。
A企業は中小企業。
たくさんの現場を持っていて、
それぞれの現場に正社員は3〜6名、
アルバイトは10〜20名ほどで構成されていた。
俺の配属されたA施設では、
俺を含めて正社員3名、
アルバイトは10名ほどだった。
正社員の内訳は先輩社員(以降、仮名でL先輩と表記)1名、
同じく4月1日入社の新卒の同期(以降、仮名でM同期と表記)1名、俺の3名。
先輩が1人しかいないということにいささかの不安は
感じていた。ましてや、その下は新人2人。
L先輩の負担があまりにも大きすぎやしないかと
感じていた。一旦、A企業とA施設の簡単な説明は以上。
出勤はシフト制で、年末年始以外は土日祝日も関係なく働く。
勤務時間も毎日バラバラだった。
朝から夕方にかけて出勤(早番)の時もあれば、
昼から夜にかけて出勤(遅番)の時もある。
遅番の勤務の次の日が早番で睡眠時間が
5時間以下になることも頻繁にあった。
実働8〜12時間で、週に1〜2日の休み。
2連休は月に2回あればラッキー、
3回あれば超最高という感じ。
月に1回しか2連休が無いことも多く、
心身ともに疲れが取れないまま勤務していた。
正社員が3人しかいないため、
有給を1日分消化することも滅多にできなかった。
社会人になって最初は、体力的に本当にきつかった。
中高6年間運動部だった俺は、体力には多少の自信は
あったが、仕事と部活はまた違った体力が
消費されている感じがした。
まず、毎日8時間以上働くことに慣れるまでが
辛い。8時間以上、常に気を張っている状態でいることが
こんなに疲れるとは思わなかった。
大学時代は飲食店でアルバイトしていたから、
フルタイムのシフトで働くことは経験していた。
しかし、アルバイトで8時間以上働くことと、
正社員で8時間以上働くことは全く違った。
責任の重さが違うし、仕事量も違う。
もちろん、精神的にもきつかった。
慣れない環境でまだ何もわからない自分。
L先輩に質問しなければ何もこなせないけれど、
L先輩は超絶忙しそうだから聞きづらい。
教わることや覚えるべきことが多くて
「忘れないようにしなきゃ」と必死で
食らいつく。まだL先輩ともM同期とも
信頼関係が構築できていないから、
話す時もいちいち緊張する。
入社して最初の1週間は疲れ果てて
それはそれはよく眠れた。
おまけに風邪もひいた。
入社して1カ月が経過して、5月。
俺とM同期は独り立ちした。
ここでの独り立ちとは、L先輩が休みの時に
正社員1人で1日A施設で勤務することである。
A施設には「運営時間帯は常に最低1人の正社員を配置する」という
ルールがあった。正社員が毎日必ず1人は勤務しなければならない。
アルバイトのみの日は作ってはいけない。
上記ルールを守り、正社員3人でシフトを回すには、
毎日2人の正社員が早番と遅番でそれぞれ出勤し、
残りの1人が休みを取る必要があった。
つまり、L先輩が休みの日は、俺とM同期の新人2人で
勤務しなければならない。
それでもシフトを回せない時は、
正社員1人だけで1日勤務し、
他の正社員2人が休むという方法をとることもあった。
1カ月に2回以上、正社員1人での勤務はあった。
もちろん、アルバイトも数名勤務するが、
L先輩が不在という事実だけで不安でいっぱいになった。
まだA施設で勤務をして1カ月しか
経過していない。
L先輩に聞きたいことがたくさんあるし、
何が分からないのかも分からない状態なのだ。
L先輩がお休みの時にイレギュラー対応が発生したら
どうしよう…。そもそもレギュラー対応ですら
ちんぷんかんぷんな状態なのに…。
という不安がとめどなく押し寄せた。
初めての正社員1人勤務の当日、
もうとんでもなく疲れたし、
仕事中に泣きそうになった。
まず、新人正社員の俺が、
アルバイトたちに上手に指示が出せる
はずがないから、効率的に業務を
進められない。
アルバイトの年齢層は学生からシニアまで
様々だった。シニアのアルバイトの人たちは
自分より年上で人生の先輩だから、
どのように接したら良いのか
距離感や指示の出し方が難しく
いつも悩んでいた。
初めての正社員1人勤務の日は
シニアのアルバイトが多く勤務していて、
気疲れがすごかった。
結局、なんとか1日を無事に終えることができたが、
こんなに不安な勤務日が毎月複数回あると
考えると絶望した。
でも、その日はちょっとしたサプライズがあった。
なんと、お休みであるはずのL先輩が
ジュースの差し入れを持って
A施設の様子を見に来てくれたのだ。
L先輩は「妻との買い物で近くまできたから
寄っただけよ」と言っていたが、絶対嘘だ。
L先輩はA施設からかなり離れた場所に住んでおり、
他県から電車で1時間半以上かけて通勤していた。
休日にA施設の近くに来る用事は無いはずだ。
これはL先輩の優しい嘘だ。
初めて正社員1人で勤務する俺を
心配して来てくれたのだろう。
数分だけでもL先輩の顔を見ることができて
どれだけ安心したことか。
未だによく覚えているし、本当に嬉しかった。
L先輩は、いわゆる体育会系のガツガツ?した
感じの力強いタイプの人間だった。
時には厳しい指導も受けたが、
良い部分も悪い部分もはっきりと教えてくれるから、
分かりやすかった。
俺は会社を辞めた今でも
L先輩のことを心から尊敬している。
とにかく仕事が早くて、頼りになる存在だった。
A企業の中でもとりわけ優秀な人材で、重宝されていた。
選ばれた人材にしか振られない
A施設外の仕事もどんどん
L先輩に舞い込んできていた。
だから、いつもかなり忙しそうだった。
ついでにM同期の人柄についても触れよう。
M同期は、俺とは正反対の人間だった。
もし学校で同じクラスになっても、
きっと俺たちが交わることはなかっただろう。
M同期は、おっとりマイペース。
いつも機嫌が良く、物腰柔らかで、
笑顔が素敵な人間だった。
俺はM同期の人間性は素晴らしいと
思っていたし、大好きだった。
しかし、仕事になると、俺はM同期に対して怒りの感情を抱いていた。
L先輩、俺、M同期の正社員3人という
少ない人員で仕事をしていくには、
最少人数で最高効率を出すことが
常に求められる。
でも、M同期が最高効率を出すことを邪魔するのだ。
なぜなら、絶望的な仕事の遅さ、理解力の無さ、
計画性の無さ、常に受け身という
効率化を阻害する要素がもりもりだったからだ。
当時の俺はM同期に対して「仕事が遅すぎてイライラする」
「なんでこんなこともできないの?」
「もっと自分で考えて動いてよ」
などと感じていたが、それは傲慢だったと思う。
そもそも、経験者1人と未経験者2人の正社員3人で
現場運営をする発想自体がおかしいのだ。
誰か1人でも当欠をすれば、
現場は回らなくなる。
毎日必ず正社員が1人は居なければならない。
実際、年末にL先輩がコロナに感染した時、
現場はやばかった。
もう、やばかったとしか言えない。
L先輩が1週間ほど休みになることは
仕方がない。コロナで体調も優れないだろうし、
自宅待機期間の縛りも2022年はまだ厳格に
やっていた。
でも、この時、A企業の人間は誰一人として
俺とM同期を助けてくれなかった。
L先輩の代わりに別の現場から助っ人が
来てくれるわけでもなく、
エリアマネージャーが助けてくれる
訳でもなく、新人2人に任せっきり。
俺とM同期の2人で1週間を乗り切った。
俺とM同期は交互に正社員1人勤務を繰り返した。
1人が勤務して、1人は休む。
朝から晩まで12~13時間ほどの勤務が続き
身体は限界を迎えていた。
この時、まだ入社して1年経過していない。
A企業の対応は、ひどいと感じた。
それとも、社会って、働くって、
こんなものなのかな、という諦めにも
近い感情が芽生えるようになった。
何回も辞めたいと思ったし、
転職も考えていたが、
新卒で勤めた会社を1年も経たずに
退職することは、転職活動で不利になると
考え、行動には移さなかった。
働く場所が変わろうとも、
働くことがきつい、辛い、大変である
ことに変わりはないだろうと思っていた。
給料もかなり安かった。
俺は一人暮らしをしていたから、
給料のほとんどが家賃、光熱費、通信費、
食費、日用品費に消えた。
娯楽のために使えるお金はほとんどなかった。
食費を極限まで削るために、毎日自炊していた。
沢山働いていても、お金は稼げない。
大変な思いをしても、息抜きをするための
お金もない。
これって生きている意味あるのかな?
この生活が死ぬまで続くのか?
なら、もう死んだ方がよくないか?
楽しみなことなんてない。
生きる希望がない。
毎日頭をよぎっていた。
仕事では、嫌なこと1000個、
良いこと100個の割合で発生する。
嫌なこと…例えば、ミスをして指導される。
ミスをして凹む自分に対する情けない感情。
電話対応が上手くできなかったこと。
M同期の仕事が遅すぎて俺の負担が増えたこと。
正社員1人勤務の時に不安が尽きないこと。
休みなのに電話がかかってきたこと。
アルバイトから説教されたり嫌味をネチネチ言われたこと。
アルバイトから明らかになめられていたこと。
1年目の時の嫌なことは大体こんな感じかな。
俺は心が強い人間ではなく、
自分で言いたくないが、かなり繊細な人間
であるため、嫌なことをスルーできない。
色んなことを考えすぎる癖もある。
まぁ何かの特性なんだろう。
自分ではどうすることもできない。
セルフケア関連の本や
ポジティブ思考になるための本などを
何冊も読んできたが、
一度もしっくりきたことはない。
常に不安と恐怖に支配されている。
ネガティブな思考しかできない。
一度起きた嫌なことは永遠に俺の頭の中を
ぐるぐると駆け巡る。
自分で停止ボタンを押すことはできない。
少し注意されただけで、
もう死にたいと思うくらいに落ち込む。
自分のミスで怒られることは仕方がない。
反省してもう二度と起こさないように
対策を考えるが、理不尽に怒られたり
嫌味を言われたりしたら、その場では
耐えるが、家に帰って「なんで俺だけ
こんなことを言われなければならないんだ」
と悶々とした。
毎日朝起きるたびに絶望した。
出勤の時は「仕事に行きたくない」と
100回くらい頭の中で唱えていた。
また「今日も1日、ミスなく平和に
終わりますように」とも唱えていた。
こんなに仕事に行きたくないのに
それでもA企業を辞めなかったのは、
仕事内容は大好きだったから。
環境と待遇はカスだったけれど。
あと、転職しても全ての問題が
解決するとは思えなかったし、
自分みたいな低能な人間が
他の企業で採用されるはずがないと
思っていたからであった。
休みの日も仕事のことが
頭から離れなかったし、
夢にも仕事のことが頻繁に出てきた。
夢でも仕事しているなんて、今思うと
完全に異常だった。
総じて、社会人1年目の2022年は
ずっとうっすら「夜に眠ってそのまま一生起きたくない」
と思っていたし、早く死んで何も考えなくて良い
クリアな頭を手に入れたいと願っていた。
社会人2年目---ここで逃げられない---
(2023年、23歳)
社会人2年目は、1年目よりほんの少しだけ
仕事には慣れたが、ますます忙しくなり大変だった。
俺は無能な人間だが、自分を殺して努力することが得意である。
そのため、1年目の途中で昇進試験を受けた。
受かるわけがないと思ったが、受かった。
2年目からはチーフとして働いた。
これはA企業の中では異例だったようで、
新卒1年目で昇進試験に合格する人は
これまではまず居なかったらしい。
昇進試験を受けた理由は、
一刻でも早く1人前になって、L先輩の
右腕になり、L先輩の負担を少しでも
軽くしたいという気持ちがあったからだ。
L先輩は毎日とにかく忙しく、
ゆっくり休憩を取ることが出来ていなかった。
そんな様子を見ていたら、
自分がしっかりしないと駄目だ!と
思うようになった。
社会人2年目も1年目と大体同じ感じ。
仕事内容にはやりがいを感じていたし、
大好きだった。
しかし、働く環境と待遇は悪すぎた。
もう1個1個嫌だったことを思い出して
書くのも辛いくらいだ。
年配のアルバイトは相変わらず
文句ばっかりで自分勝手な人達が多いし、
学生のアルバイトは舐め腐ってるし。
なんでこの人たちはワガママを
正当化して発言できるのだろう?と
疑問に思ったものだ。
そんな人たちと仕事をすると疲れる。
そんな人たちに指示を出すのも疲れる。
とにかく疲れる。
心も身体も酷使していた。
寿命を前借りして働いているような感覚。
仕事のミスやイライラしたことや
アルバイトたちに酷いことを言われて悲しかったこと
などが頭を駆け巡り、死にたくなる。
でも、やっぱり転職はしなかった。
ここで逃げたらダメだと思っていたから。
あと、働きながら転職サイトで情報収集をする
気力がなかったから。
今思うと、俺は本当にアホだったなぁ。
そもそも、逃げるってなんだろう。
転職したとして、それは「逃げた」のではなく、
方向転換をしただけだ。進む道を変えただけだ。
なのに、あの頃の俺は、ひとつの事を続けることに意味があると考えていた。
社会人3年目---よしっ死のうか---
(2024年、24歳)
社会人3年目になり、ガラッと働く環境が変わった。
まず、4月の初めに1年目からお世話になっていたL先輩の退職が決まった。
L先輩から「退職する」と聞いた時は、自然と涙が頬を伝っていた。
A施設で唯一の先輩。様々なことを教わり、指導してもらい、
俺は心から尊敬していた。そんな先輩との急なお別れ。
自分の思っていた以上に、参ってしまった。
こんな時、悪い知らせは重なるもので、
なんと、M同期がA施設から別の施設に異動するという。
俺はM同期には何かとイライラすることも多かったが、
同期として一緒にいろんな困難を乗り越えてきた。
また、テキパキ動く俺と、まったり優しいM同期のコンビが
軌道に乗ってきた頃だった。
M同期は別の施設への異動だから、
金輪際、一緒に仕事ができないというわけでもないが、
合同研修なのでたまに顔をあわせるくらいの距離感になる。
つまり、A施設の正社員3人のうち、
俺以外の2人がA施設から離れることになり、
俺だけが残された。
入社1年目からずっと一緒にやってきた先輩と
同期を一気に失い、絶望した。
ただでさえ辛い仕事なのに、
新しいメンバーとやっていくなんて
考えられなかった。
でも、時は待ってくれない。
すぐに正社員の空いた穴は埋められた。
しかし、俺の心はいつまでもぽっかりと
空洞ができて、もう閉じなくなっていた。
新しい2人のメンバー。
1人は、俺の上司となるN先輩(俺の5歳年上)。
もう1人は、俺の後輩となるT後輩(俺より10歳年上)。
T後輩は、後輩とはいえ年上だから、やりづらい。
それでも、優しい穏やかな人だったから、
可もなく不可もなくという感じだった。
N先輩がほんっとうに酷かった。
端的にいうと、陰湿で意地悪な人間だった。
そして、N先輩は俺をよく思っていなかったし、
嫌われていた。
N先輩が俺のことを嫌いな理由は、
俺が優秀な人材だと思われていたからであろう。
つまり、嫉妬されていたのだ。
俺は、力加減がうまくできない人間である。
手を抜くことができないのだ。
それゆえ、仕事では常に神経を100%注いで
全身全霊で働いてきた。
(その分めっちゃ疲れる。でも手の抜き方がわからない)
新卒から常に一生懸命に働いていれば、
自然と色んな仕事ができるようになってくる。
また、俺の真面目に頑張る姿を見て、
次第にアルバイトたちが俺についてきてくれるようになっていた。
信頼関係が構築されていたのだ。
さらには、A企業から新卒採用活動のための
プロモーション業務を任された。
これは、会社の外に発信する仕事だから、
A企業の中でも選ばれた人間にしか振られない仕事だ。
L先輩もやっていた仕事だ。
N先輩はそんな俺を見て「鼻につくなぁ」と
感じていたのだろう。
N先輩の俺に対する言葉の節々に現れていた。
N先輩としては面白くないよね。
年下の仕事ができる人間、しかもアルバイトたちからは
慕われている。
一方、自分はA施設に配属されたばかりで
アルバイトともこれから信頼関係を構築していかなければならばい。
自分より年下で入社歴も下なのに、優秀な部下。
イライラしたのだろう。
N先輩は表面上は穏やかな人間を演じていたが、
俺には分かった。意地悪な顔をしていることが。
N先輩は、俺に仕事を振らなかった。
仕事は全て自分とT後輩の2人で進め、
徹底的に俺の存在を無いことにしようとしていた。
言葉では「こり2さんにこの仕事お願いしようかな」と
いうのだが、結局後から「やっぱりT後輩さんに任せることにした」
という流れを何度やられたことか。
俺の方がA施設での勤務経験も長いのに、
俺の方が知っているのに、
俺の方が今までA施設のために
尽くしてきたのに。
N先輩が来てからは、ほとんど仕事を任させる
ことはなくなり、暇だった。
でも、俺は何か自分にできることはないかと、
細部にも目をかけて、色々な提案をした。
ことごとく却下されたけどね。
俺が苦しんでいることには、
誰一人気付かない。
N先輩は皆んなに分からないように巧妙に
俺を排斥していたからね。
N先輩からの嫌がらせによって、
俺は1〜2年目の時よりも
さらに強固な「死にたい、消えたい、自分は必要ない」
という気持ちを抱くようになった。
仕事に行くたび、自分にはやることがなくて、
でもN先輩とT後輩は色んな仕事をやっていて
忙しいながらも充実してる様子だった。
この時は、「辞めたい」とは思わなかった。
「N先輩さえいなければ」とは思った。
せっかく新卒から一生懸命働いてきて、
3年目を迎えた。会社からも一定の評価を得て、
色んな業務をこなせるようになったのに、
なんで辞めなければならないのか。
ここで辞めたらN先輩に負けたみたいで嫌だ!
と、思ってはいたが。
それ以上に「死にたい、なんでこんなに辛いの」と
思う気持ちが勝手いた。
3年目の7月頃から、近隣の精神科を
調べるようになった。大学4年生の時に
精神科に予約の電話をしたが「3ヶ月先まで
埋まっている」と言われてから、なかなか行く気になれなかったが、
あまりにも死にたいと感じるようになっていたため、
そろそろ行かなきゃ行けないのではと思い始めていた。
色々精神科を調べるうちに、自宅から徒歩で行ける
精神科が見つかった。
ビクビクしながら初診の予約の電話をかけると、
すんなり初診の予約が取れた。
7月最終週。初めての精神科の受診となった。
精神科に初めて入って、まず驚いたことは、
いわゆる「変な人・危なそうな人」は誰一人として
いなかった。なんなら、スーツを着ている人までいて、
みんな働いていそうで、普通に生活していそうな
人ばかりだったことだ。
この人たちもみんな、俺と同じように心を
病んでいる人たちなのかな・・・そんなことを思った。
カウンセリングで死にたい気持ちの詳細を語り、
先生の診察。5分ほどで終わって、薬を飲みましょうと言われた。
初めて処方された薬は「エスシタロプラム」というもので、
一錠を半分にして飲むように言われた。
薬を飲んで、死にたい気持ちが無くなることはないが、
自分ではどうしようもない不安感や
劣等感は少し薄くなったような気がしたし、
精神状態が少し良くなったような気もした。
ただ、劇的に元気になることは、もちろん無くて。
2週間後にまた病院へ行き、エスシタロプラムは半分から一錠に
増やされた。(以降、現在に至るまで精神科への通院と服薬を続けている)
1ヶ月に1回の通院と毎日の服薬を続けた。
薬の種類も量も、だんだん増えていった。
でも、精神状態は良くなるどころか悪くなる一方だった。
相変わらずN先輩の陰湿な態度や仕事を任せてもらえないなどの
嫌がらせは続いた。基本的な仕事は任せてもらえないが、
誰もが嫌がるような大変な仕事や嫌われ役は、俺が担った。
N先輩は面倒な仕事だけは、俺に割り振った。
本当に陰湿だ。
でも、T後輩もアルバイトたちも、
俺がN先輩から嫌がらせを受けていることには
気づいていない。無理もないだろう。
俺は誰にも相談できなかったし、
N先輩は俺以外の人間には穏やかな態度で
接していたし、偽りのにっこりとした顔で
みんなと接していたのだから。
今思えば、精神科に通院しながらまで仕事を
続ける必要はなかった。
自分を犠牲にしてまで、大切な仕事なんて無い。
俺は精神科に通いながらも仕事を辞めなかった。
ここでN先輩に負けたら悔しい、
新卒からコツコツやってきたことが
無駄になってしまう、
仕事を辞めたら生活が出来なくなる、
などと考えていた。
でも、誰もが嫌がる仕事を任されたり、
自分のいないところで様々な事柄が
進行しているところを目の当たりにすると、
「俺って何のために存在しているのだろうか」と
感じた。こんなに辛い思いをするために生まれてきたのか。
もう死んでも良いか。よし、死のうか。と
思わずにはいられなかった。
俺は多趣味で色んな好きなものがあるが、
仕事の嫌なことや、ストレスが、
趣味をしていても、休んでいても
頭から離れないから、
何をしていても恐怖に怯えるような感覚になっていった。
気分転換をしようとしても、頭の片隅にいつも
N先輩のことや、高校の部活の嫌だったことなどが
住んでいる。
気分転換がしたくても出来なかったのだ。
2025年3月、社会人3年目もそろそろ終わりという頃に
転機が訪れた。
N先輩の退職だ。聞かされた時はびっくりしたが、
子育てに専念したいから退職するとのことだった。
確かに、シフト制勤務で毎日働く時間はバラバラだし、
1日に12時間以上勤務する日も沢山あるから、
子育てはかなり大変だろう。
N先輩の退職に伴い、俺がA施設での責任者に
なることになった。まぁ、昇進ということだが、
素直には喜べなかった。
精神科に通院しながら、責任者なんて大役が
つとまるのか?と不安に感じた。
でも、引き受けるしかなかったから引き受けた。
N先輩と働かなくて良いと思うと嬉しかったが、
自分が責任者になって、正社員もアルバイトも
全員導いていけるのかということは恐怖だった。
だってこの時、まだ25歳だよ。
今思えば、25歳の新卒に責任者をやらせる会社は
おかしいのでは無いかという考えに至るのだが。
3月中旬頃、声が出なくなった。
本当に、声が出ないのだ。
出そうとしても、カスカスっという
声にならない声のようなものが出るだけ。
すぐに耳鼻科に行ったが、
声帯に異常はなく、原因不明と言われた。
医者からは「喋ると永遠に治らないから
会話はスマホのメモ機能とか使ったほうがいいよ」と
助言を受けた。
「原因不明」ということは、
おそらくストレスだろう。
2週間ほど声が出せない状態が続いた。
それでも仕事は休めないから、
きちんと出勤していた。
スマホのメモに話したいことを入力する
のは、なんだか不思議な感覚だった。
徹底的に声を出さず、スマホのメモで
コミュニケーションを取っていたおかげで
治って、声に出してコミュニケーションを
取れることのありがたみを感じた。
同時に、仕事のストレスのせいで
自分が弱っていくことに強い怒りも覚えた。
社会人4年目---正式に病気になる---
(25歳、2025年)
4月、新年度、新卒4年目。
俺は責任者として働くことになった。
結論から、俺は夏に仕事を辞めた。
本当に色んなことがあった。
辛かった。
では、振り返っていく。
前からそうだが、基本的にA企業は
従業員を助けない。
従業員のことを使い捨ての働く駒とでも
思っているのだろう。
A施設の中では俺が責任者でトップの立場だが、
俺よりも上のエリアマネージャーや
さらにその上の人間がいる。
俺は、上の人間に支援を要求した。
細かく書けないけど、本当に大変な対応が沢山発生していたから。
人間の生死に関わるような事案がいくつもあったから。
現場では全員精一杯やっていたが、
正社員とアルバイト共に限界が来ていたから。
でも。
上の人間は、全く助けてくれなかった。
俺のSOSは、現場の改善を求める声は、届かなかった。
切り捨てられた。
現場のことなんて見ていない。
エリアマネージャーってなんだ?
ただの肩書きか?アクセサリーか?
一つ一つの現場を見て、助言したりサポートしたり
するのが仕事だろう?
現場の声を、決死のSOSを、無視することが
あなたたちの仕事ですか。
心から、あなたたちのことを恨んでいるよ。大っ嫌いです。
おお、少し感情的になっちゃった。
本当にムカついたから。
まぁさ、新卒1年目の頃からずっと辛い思いをしてきて、
3年目には意地悪な先輩から嫌がらせを受け、
4年目になったら誰も助けてくれず、
一人で大変な対応をし続ける。
このようなことをしていたら、
人間は壊れるのだ。
俺は、次第に毎日耐え難い頭痛(どんな鎮痛剤も効かなかった)
に襲われようになった。
脳神経外科でMRIを撮ってもらったが、異常なしだった。
夜に不安が押し寄せて眠れなくなり、
朝は起きれなくなった。
買い物に行き、食材を買い、料理をすることができなくなった。
掃除ができなくなった。
休みの日は、ベッドから起き上がれず、1日中寝込むようになった。
仕事の日は、頭痛に耐えながら、這うようにして仕事に行っていた。
上の人間に何度も「休みたい」と訴えたが、
人手不足だから休ませないというようなことを言われた。
無理やり仕事に行っていた。
頭痛が2ヶ月ほど続いた頃、俺は遂に辞めることを決意した。
上の人間に「今夏限りで辞めたい」と伝えたところ、
やはり人手不足だからということで受け入れられなかった。
何回も説得され、しまいには「お願いだから辞めないでほしい」
などと戯言を言われる始末だ。
散々俺のことを都合良く扱っておいて、
「辞めないで」とは。笑っちゃうよ、あーはっはっはっ!
精神科でもらったうつ病の診断書を提出して、
ようやく退職を受け入れてもらえた。
俺は自分がなんの病気なのか知らずに
精神科に通っていた。
医師に会社提出用の診断書を依頼して、
診断書を開封した時に初めて「うつ病」という
診断名を見た。
あぁ。俺は本当に病気になったんだ。
壊れてしまったんだ、と思った。
うつ病の診断書を上の人間に見せてからも
1ヶ月ほど働き、退職した。
秋がはじまる頃、新卒から一人暮らしを
していた1Kの家とバイバイし、実家に戻った。
仕事に行かなくて良くなれば、すぐに元気になると
思っていたが、そんなことはなかった。
頭痛は続き、朝起きたら、からだが重い。
トイレと食事以外は、ベッドから起きることができなかった。
無気力と希死念慮が永遠に付き纏った。
幸いにも、母が食事を作ってくれ、
一緒にお風呂にも入ってくれ、大変な労力を注いで
俺を看病してくれている。まま、こんなこどもでごめん。
仕事で受けた理不尽や、それに対する怒りが、ずっと忘れられない。
忘れてしまいたいけれど、自分の意思ではどうにもできない。
こうして、無職になった俺は、1日中ベッドの上で過ごし、
家に引き篭もった。
現在---史上最高に死にたいっ---
(2026年、26歳)
2026年の6月。
結論から、俺は全く回復していないし、
毎日心から死にたいと思いながら生きている。
実行に移す度胸が無いから、生きている。
もし、苦しまずに眠るように死ぬことができる方法があるのなら、
迷わずその方法を選択する。
もっとポジティブに考えなよ!と思われるかもしれない。
でも、それが、どうしてもできない。
今も精神科に通院し、服薬を続けている。
でも、治るのかな、この状態。
もうずっとこのままなのかな。
俺は、死にたいと思わない人生を生きたかった。
当たり前のように「死」の選択肢が出てくる人生は
嫌だよ。
もしこの文章を読んでくださっている方が
いるのなら、あなたは理不尽なことは我慢しないで、
すぐに進路変更をしてね。
「逃げるな」というのは無責任な言葉だ。
そもそも「逃げる」とはなんだ。
自分を傷つけてきたり、適当に扱ったりする
人や環境から「去り」、新たな道を歩くことは、
「逃げる」ことではないと思う。
人生には無数の選択肢がある。
俺は、全ての選択肢を間違えたような気がする。
選択肢を間違えなければ、もう少しマシな今を生きられたのだろうか。
あの時、部活を辞めていれば。
あの時、仕事を辞めていれば。
後悔しかない。
もう何を言っても仕方がないのだけれど。
終わりに
もし、ここまで読んでくださった方が
いるのならば、心から感謝申し上げます。
俺と似たような境遇の仲間に届くことを祈っています。
ありがとう。