メインコンテンツへスキップ
見出し画像

『こっきとやきいも、或いは憂国2026』

    公威(キミタケ)はJR市ヶ谷駅の改札を出ると、空を仰ぎ見た。

    肥え過ぎた馬が頓死するほど天高く、外気は凛とした冷たさを宿していた。公威がコートの襟を立てる。早朝の市ヶ谷はまだ人がまばらだった。

    一羽の薄汚れた鳩が公威に近寄ってくる。

    (俺が何をしにここに来たか分かるか?)

    鳩の代わりに答えよう。

    今日、公威は市ヶ谷で転向しようとしていた。

    「この国がいいね」と君が言ったから十一月二十五日は転向記念日  
    -詠み人知らず-

    公威が僅かに首を左右に振る。

    「日本、日本、わが愛する祖国、日本よ。我はいま汝のことを案ずるが余り、今日から左翼となる」と彼は俯きながら小さく唱えた。

    市ヶ谷橋の袂まで来ると、公威は立ち止まった。暫しの逡巡。公威は橋を渡らず、すぐ傍の外濠公園に身体を向けた。公園の入口には2階建ての白いタイルの交番があった。

    公威は左の黒目を極限まで左端に寄せて、中に警官が一人いることを確認した。 (心配無用だ。僅かでも存在を意識したら所作に緊張が現れる。そんなの百も承知だ。俺は何も見ていない。交番に警官はいなかった。何なら交番などハナからなかった)

    ぎこちない動きで、麹町警察署 市ケ谷見付交番前を通り過ぎた公威は、するりと外濠公園の中に溶け込んだ。公園の一部となった公威は、できる限り交番から離れようと、外濠沿いに公園を北上した。

    アオダイショウが飲み込んだ哀れな小動物のように、細長い外濠公園の中央付近に達すると、公威は足を止めた。左腕の鈍く光る腕時計、去年受けた文学賞の副賞の50万で買ったグランドセイコーを見る。

    6時45分。

    さっきと別の鳩が公威に警戒心無く近づいて来た。

    公威が再び問う。

    (ボルジア家の圧制はルネサンスを生んだが、スイスの同胞愛、そして500年の平和と民主主義は何を生んだ?)

    鳩がイノセントな表情のまま首を捻る。

    (……鳩時計だとさ)

    鳩が逃げ出すように、公威の元から市ヶ谷の空に飛び立つ。彼が今日初めて笑った。苦しみを紛らわすような顔の歪め方だった。 公威は公園の遊歩道を外れ、一本のヤマザクラの下に腰を下ろした。

    春のピンクに色づいた艶やかな姿と異なり、晩秋のヤマザクラは紅く染め上がっていた。

    (この姿こそが日本だ。枯淡の美だ。春の姿はありゃイカモノだ。いつまで騙されるんだ、日本人よ)と公威は歎息した。

    公威はコートのフラップポケットに右手を突っ込み、セブンスターとJT謹製のライターを取り出した。

    煙草に火をつけ、煙を肺の奥深くまで染み渡らせてから、ゆっくりと吐く。公威は煙草を咥えながら、黒いヌメ革の手提げカバンから布切れとアルミホイルに包まれた物体を手に取った。布切れは白地で中心にヤマザクラよりも紅い、真紅の丸印がついていた。そしてアルミホイルの中身はサツマイモだった。

    (この一本を吸い終わったら、転向の儀式を始める)と公威は決心した。

    今生最後の一服かのように煙草を静かに吸う公威の耳朶には、転向の儀式を彼に強要した男、マサカドの凍てついた声色がまだ張り付いていた。

    公威とマサカドは同じ大学の学生だった。
    2026年11月現在、公威が21歳で3年生、マサカドは4年生で24歳。 公威が昨年鮮烈にデビューした学生作家で、マサカドは学内で知らぬ者はない左派最大セクトの領袖で、首都圏の左翼学生のカリスマでもあった。 ただ学生間では名の知られたマサカドも、世間的な知名度では公威に遠く及ばなかった。

    マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日 あるいは淫蕩学校』を下敷きにした小説、日本主義者のファシストが国内の左翼を多数幽閉し、人権全否定で暴虐の限りを尽くす、アンチヒューマニズムの極北ともいうべき内容を格調高い雅文体で見事に描き切った作品が賛否渦巻く中、文学賞を取りデビュー。

    その問題作が載った文芸誌は売れに売れ、作品は後に単行本化されミリオンセラーとなった。一躍、令和文壇の寵児となった公威をメディアは放っておかず、様々な媒体に登場。若く端正なルックスに過激な発言内容と裏腹の紳士的な所作も受け、出版界のみならず、右傾化日本の寵児として君臨するのに一年もかからなかった。

    公威が手に入れた富と名声に世の若者は嫉妬した。復元力の限界まで右舷に傾く日本の象徴となった彼の周囲には、軽薄な羨望と奈落のような怨嗟が渦巻いていた。国内の左翼学生は"人民の敵"として公威を要注意人物として認定。中でも公威の影響力を一際危険視したマサカド一派は、彼を左翼にする為の計画を秘密裡に立案し実行に移す。巧妙かつ執拗なオルグに公威は取り込まれ、ついにマサカド一派の幹部たちが居並ぶ目の前で、右派日本主義者から左翼への転向を約束したのが、昨日11月24日だったのだ。



    11月24日 火曜日 セクト会議室

    能面そのものだったマサカドの顔が公威が転向を宣言した途端、慈愛に満ちた相貌に変わった。

    「公威君。おめでとう」とマサカドは祝福した。

    「公威君、おはよう!」「おはよう!」「おはよう!公威!」と幹部たちも口々に公威を祝福した。 その表情はどれもマサカドをコピーしたかのように慈しみに満ちていた。

    「公威君。これからは日本の公威じゃない。世界の公威になるんだ。日本や日本人ではなく、世界のことを第一に考えるんだ。世界には君を必要としている人々がたくさんいる。これからは僕らと一緒になって彼、彼女たちを救うんだ。どうだ、信じられないほど素晴らしいだろ?」

    「マサカド君。僕は何て言ったらいいんだ。言葉が出て来ない。クソっ、作家なのに…」

    「君ほどの人間が言葉に詰まるってだけで、感動の大きさが伝わった。公威君。これからは決して日本人や日本だけのことを考えてはダメだからね。今、この世界は理不尽と不公正と不正義と悲嘆に満ちている。まず万国のこと、万国に住む労働者の人権について考えるんだ」

    公威はマサカドのアジテーションに無言で頷いた。

    「公威、おはよう!」
    「おはよー!」
    「おはよう、公威君!」

    万雷の拍手が鳴りやまぬ中、一人の小男が手を挙げた。

    男の挙手にマサカドが気付いた。

    「どうした?同志エジョフ」

    エジョフと呼ばれた男は、無表情のまま手を下ろし起立した。そして不吉な咳払いをした。

    「祝福はまだ早くはないか?同志マサカドよ」
    「早い、とは?」
    「単刀直入に言おう。公威を信用するのはまだ早いと言ってるんだ」

    ザワついていた室内が静まり返った。

    エジョフは片方だけ口角を上げ、実に嫌な笑い方をしてから話を続けた。

    「公威のこれまでの経歴を忘れては困る。あの不埒な、実に怪しからん書物で世に出て以降、この男は恐るべき速さで極右日本の象徴に祭り上げられた。その間のバイラルな伝播力には我々の誰もが戦慄していたではないか。この一年間、この男のせいでどれだけこの国が右傾化したと思う?」

    そう言うと、エジョフははっきりと公威を睨めつけた。公威は俯いたまま微動だにしない。

    「エジョフ。公威の目の前で言葉が過ぎないか?公威の勇気ある転向が不満なのか?」とマサカドが窘めた。

    「不満じゃない。不満じゃないさ。でも正直まだ信用できねぇ」
    「どうしろと言うのだ?」
    「証拠が欲しい。公威が確かに俺たちのセクトに、はっきりと俺たち左翼に、間違いなく俺たちの同志になった証が欲しいんだ」とエジョフが高く耳障りな声で叫んだ後、パラパラと何名かの拍手が聞こえた。

    「証とは何だ?」
    拍手を打ち消すようにマサカドが苛立ちながらエジョフに問うた。

    「公威」とエジョフが呼びかけた。
    公威はビクッと身体を震わした後、顔を上げ、初めてエジョフを凝視した。

    「公威。国旗を燃やしてくれ」
    「国旗?」と公威はかすれる声で聞き返した。

    「そうだ。国旗だ。日本国旗だ。日章旗だよ。日本国の象徴の日の丸だよ」

    公威が助けを乞うような目でマサカドを見た。マサカドは公威に視線を合わせなかった。

    「今日お前はこの場でゴリゴリの日本主義者から左翼に転向したんだ。もう右翼じゃないのなら、日の丸くらい燃やせるだろ?」とエジョフが捲し立てた。

    公威はマサカドを見つめたままだったが、セクトの領袖は言葉を発しなかった。

    「右翼のお前に言ってるんじゃないんだ。そんな酷いことは流石の俺もしない。だって昨日までのお前は日の丸を見て勃起してたんだろ?日の丸見て惚けた顔でオナニーしてたんだろ?そんな大切な"オカズ"を焼けなんて、俺は言わないぜ」

    幹部の何人かが堪え切れずに笑った。
    エジョフは顔が上気し得意満面になった。

    「そうだ。公威は日の丸を焼け!」

    後ろに座る幹部の誰かが声を張り上げた。 拍手が続いた。大きな拍手のうねりが会議室を一瞬で覆い、その左翼学生たちの猜疑心は四方の壁や天井、床に吸い込まれていった。部屋は沈黙し、悪意のある静けさが公威の反応を待った。

    「教えてくれ、マサカド君。エジョフが言ってること、これは君たちセクトの総意、最高幹部会の総意なのか?」

    暫く前からマサカドは腕組みをして両目を閉じたままだった。

    「教えて欲しい。僕は日本国旗を焼かなければならないのか?」

    公威の悲痛な叫びに反応する者は誰もいなかった。

    「ここにいる全員が知っているはずだ。"国旗損壊罪"の存在を。僕に転向した証として、法を犯せと言っているのか。いや、何も国から処罰されるのが怖いわけじゃない。君たちから、、敢えて言おう。君たち同志から信じて貰えないのが僕は何より悲しいんだ」

    同志たちの無言は続いた。

    「よし、分かった。国旗を燃やそう。燃やしてくるよ。何あんな布切れ訳ないさ。僕は君たちの同志になった証に、左翼になった証に、日の丸を業火で焼き尽くしてみせよう」

    公威の目から涙が零れていた。
    拍手がした。
    マサカドだった。
    マサカドは力強く拍手しながら立ち上がった。

    「同志公威よ。良くぞ言った。そうだ。日の丸を焼いてくるんだ。我々の共存共栄の理念に反する、独善的で夜郎自大の象徴である日本国旗を焼き尽くしてくるんだ。お前の中に巣食っている自民族優越主義を、他国蔑視が裏側にベッタリと張り付いた歪んだナショナリズムを布切れごと全部燃やし切ってこい!」

    マサカドの神々しいまでの威厳と霊感が横溢したスピーチに、一人また一人とセクトの幹部たちが立ち上がり、嗚咽とも歓声とも言えぬ声を上げている。公威は両手両ひざを床について大泣きしていた。彼には感動の涙なのか、悔し涙なのか全く分からなかった。ただこれほど落涙したのは初めてだった。

    マサカドは座席に深く腰を下ろし、公威や幹部たちの様子を目を細めながら見入っていた。

    (この熱量があれば、左翼はまた世界を席巻できる)

    泣きはらす公威に一人の男が貼りつくように身を寄せた。エジョフだった。この"エモ"の坩堝を創るきっかけになった小男は、公威の耳元でこう囁いた。

    「公威。日の丸は芋を焼く"薪"にしな。国旗を燃やして食う焼き芋は美味いぞ~」

    エジョフは続ける。

    「そしてその芋と日の丸を燃やす光景を動画に撮ってこい。それが何よりの証拠だ。後で俺たちが確認してやる」 そう言うとエジョフは強過ぎるくらいの力を込め、手の平で公威の背中を叩いた。

    「その確認が済んだらこう呼んでやる。ど・う・し・き・み・た・け、とな」


    11月25日水曜日  市ヶ谷 外濠公園

    公威は一際深く吸った約5,300種類の化学物質(その中に約200種類の有害物質と70種類以上の発がん性物質)を紫煙にして市ヶ谷の空に吐き出すと、短躯になったセブンスターを地面の黒土で揉み消した。

    JT謹製の携帯灰皿に吸い殻を入れ、ゆっくりと立ち上がる。

    「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」と公威は伸びをしながら一人ごちた。

    (命が惜しかったからだよ。な、裕仁?分かるよ。誰よりも自分が人間だと知っていたお前が、自分を神に祭り上げた信者の為に「私は人間だ」と宣言する。この茶番を誰よりも滑稽に感じたのは裕仁、お前自身だったと俺は確信する。西洋の合理主義が神を殺した100年後、遅れて来た帝国主義国家の神であるお前は、合理的判断によって自分自身を殺し、狂信国家の絶対神という厄介極まる役目から解放されたんだ)

    公威は黒土を覆い始めたヤマザクラの老いた葉を両手で集め始めた。足手まといと見做され共に冬を越すことを許されず、本体から切り離された落葉は、微生物の助けを借りて腐葉土となり、新芽が芽吹く春には再び樹木を支える存在となる。

    これから公威に『こっきとやきいも』と共に焼かれる落ち葉は、その生死の循環から外され、彼の転向に殉ずることとなる。

    (儀式には供犠が必要だ。この儀式を終えて、俺は右翼から正真正銘の左翼になる。マサカドやエジョフに強制されたのではない。俺が自分の意思で主体的に日の丸を焼く。焼かなければならぬのだ)

    公威は落ち葉を掻き集めながら、日本国旗を焼かないかぎり、自分が本物の左翼になれないと信じ始めていた。

    (裕仁は神から人間になったが、俺は右翼から左翼になる。しかも奴のように日本ローカルの存在じゃない。世界的な左翼になるんだ。ナショナリストでは決して国境の壁を破れない。右翼にとって国境の外には、主人か敵か便利な奴隷しかいない。左翼にとっては国境の外、いや国境の中も外も収奪する者とされる者、人権を毀損する者と毀損される者しかいない。そして左翼は常に万国の収奪される者と人権を毀損される者の味方だ)

    いつしか公威の目の前には、ヤマザクラの落葉の小さな山ができていた。 外濠公園の脇を走る中央線の電車から警笛が聞こえてくる。

    公威は落ち葉を集める手を漸く止めた。
    転向の儀式を始める時が来たのだ。
    儀式の主役は右手にスマートフォンを握り録画を始めた。

    「セクトの皆さん、おはよう。公威です。今日は2026年11月25日水曜日。場所は市ヶ谷の外濠公園。天気は快晴。肌寒いです。時刻は7時18分。公園の外の道路には、もうスーツ姿の労働者が早足で歩いているのが見えます。

    今からわたくし公威は、昨日皆さんに約束した通り、左翼への転向の証として日本国旗を焼きます。ただ普通に焼くだけだと面白くない。エジョフの助言で日の丸は焼き芋の薪として焼くことにしました。まずこれがさっきまで搔き集めていたヤマザクラの落ち葉。結構手間取りました。この上に国旗と芋を乗せて焼きます。芋は国産のサツマイモ、紅ハルカを2本用意しました。

    ここに来る前は焼いた後、本当に食べようと思ってましたがやめにしました。儀式の儀式性を高める為です。紅ハルカも日の丸も枯れ葉も今回の儀式の供犠に過ぎない。儀式の主役は私です。重要なのは私の精神の変容の具象化であるはずです。芋も布切れもその具象化の小道具に過ぎない」

    ここで公威は一旦動画を停止し、構図を決めスマホ用の三脚を準備した。 辺りを見回したが、この転向系YouTuberに関心を払う者は誰もいなかった。

    公威が再びスマホの録画ボタンを押した。
    アルミホイルを剝ぎ取り、2本の紅ハルカを落ち葉の上に並べる。

    ("映え"に銀紙は不要だ)

    公威は手提げカバンから日章旗を取り出し、カメラの前に大きく広げた。

    「これが今から焼く日の丸です。120×180cmあります。私を可愛がってくれていた右翼の大物から貰ったものです。皆さんが蛇蝎の如く嫌っている、良くご存知の右翼です。私の家には実に大小13枚の日本国旗がありました。その中でも今日は最高級のものを持ってきました。生地は最高品質の富岡シルク。それを嘉永年間から代々続く伊勢志摩の縫製職人が総刺繍で仕上げた一品です。私の転向を示す供犠として、これ以上の日の丸はないでしょう。あ、安心して下さい。残りの12枚は昨日の内に全て処分したので」と公威は柔和に言うと爽やかに笑った。これまで日本の右派を虜にしてきた笑顔だった。

    転向後、エジョフのような疑り深い左翼が公威に猜疑の目を向けるだろう。ただ、その猜疑と嫉妬の嵐を跳ね除け、左翼最大のスターになる素質が公威にはあった。

    (マサカドには左翼をより左翼にする魅力があるのは確かだ。ただ、左翼でない者を誰よりも多く左翼に出来るのは俺しかいない)

    公威を左翼にしたのは誰だ?

    (マサカドではない。ましてやエジョフでもない。俺だ。俺自身だ。この転向に洗脳はない。拷問もない。あるのは俺の意思のみだ。俺が全き自分の意思で左翼になるのだ)

    公威が昂然とした調子でスマホのレンズに向かって喋りだした。

    「日本に幽霊が出る。左翼という幽霊である。古い日本の価値を信じるすべての日本国民は、この幽霊を退治しようとして嗜虐的で自壊的な同盟を結んでいる……。

    今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。Tech Giantsが君臨し、天網が一市民の歯の裏側まで監視し、パランティアがAIとビッグデータを駆使して『現代の戦争』を定義する2026年の今となっても、あらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。 巨大資本はとっくの昔に海を跨ぎ、国境を越え、我々の頭脳と肉体、魂までも侵食している。

    グローバリズムを排除するのではない。グローバリズムに抗い戦え。排除ではなく抵抗せよ。まずそこからだ。その為にはもはや猶予はない。

    万国の労働者よ、団結せよ!失うものは鉄鎖しかない。得るものは世界である」

    公威はそう宣言するとカメラに背を向け、日本国旗を落ち葉と紅ハルカの上に覆い被せた。

    そしてJT謹製の銀色のライターを着火し、再びカメラを見た。

    「さようなら日本!おはよう世界!」

    日の丸の端をめくり、公威は落ち葉にライターの火を移した。業火は最初だけ緩慢な勢いであったが、閾値を超えたのか、火急の拡がりを見せた。下部から燃え広がる炎がついに日本そのものを捉えた。

    (鹿苑寺を焼いた若者は斯様な気持ちだったのか…)

    一昨日まで欲情の対象だった日の丸、その日の丸が炎に飲み込まれる姿に今の公威は発情していた。

    「何をしているんだ!」
    公威は怒声に気付かない。
    「コラ、何を燃やしとるんだ!」
    声量が増した怒声に漸く公威が気付く。

    振り返ると警官が2人、もう公威のすぐ傍まで駆け寄って来ていた。公威の左腕と右肩を掴み、間近で彼の顔を見た益田巡査長(32歳)は、その淫欲に堕したふしだらな相貌に驚いた。

    黒の短靴で踏みつけ、燃える日本を消し潰そうとした中村巡査(23歳)は、公威の顔と燃える炎の中に日の丸があるのを目視し驚いた。

    「おい、水は持ってないのか!」と益田巡査長が公威に怒鳴った。

    公威が手提げカバンを指差す。中村巡査がカバンから『富士山の天然水』のペットボトル(2リットル)を取り出し、こっきとやきいもに水をかけた。

    「おい、こんなとこで勝手に焚き火をしちゃいかんじゃないか。何を燃やしてたんだ?」と益田巡査長が詰問した。

    「……といもです」と公威が呟いた。
    「うん?何と芋だって?」
    「巡査長、この人、国旗を焼いていたようです」と公威が答える前に中村巡査が報告した。
    「何?国旗か?日本国旗か?」
    「はい」と巡査が答え、鎮火したばかりの塊りから煤けた日の丸の端を掴んで益田巡査長に見せた。

    「何と。日の丸か…。おい、あんた。これは国旗損壊罪になるぞ。おい、分かってるのか?」

    公威は無言だった。

    「まず身元を確認する。その後、応援を呼んでパトカーで署まで同行してもらうぞ」

    「巡査長」
    公威と益田は同時に中村巡査を見た。

    「巡査長。この人、公威さんです」

    「何だ。お前の知り合いか?」
    「違います!この人、有名人です。作家です。知らないんですか?」

    益田巡査長が接吻せんばかりの近さから公威の顔を凝視した。

    「離してくれませんか。僕はどこにも逃げません」と公威が毅然と言った。

    益田巡査長は公威のオーラに気圧され、思わず抑えつけていた両手を離した。

    自由になった公威は、財布から大学の学生証とマイナンバーカードを抜き取り、益田巡査長に差し出した。

    「どうぞ。身元確認なり何なり好きにしてください」

    2枚のIDカードを仔細に確認した益田巡査長が公威に言った。

    「いったん、これはお返しします。これからパトカーを呼ぶので署にご同行頂けますか?」

    「巡査長!」
    再び益田と公威は同時に中村巡査を見た。

    部下が上司に何事か耳打ちした。

    「公威さん。少し彼と話をするのでここでじっとして貰えますか?」と益田巡査長が言った。

    「僕は逃げも隠れもせんさ」

    益田巡査長は制帽の鍔に軽く触れ、公威に頭を下げた。

    「どうした、中村。何が気になるんだ?」と益田巡査長は10mほど先にいる公威を見つめながら小声で問うた。

    「巡査長、今から私が言うことは冗談じゃないです」
    「無論、真面目に聞くつもりだ」
    「ありがとうございます。結論から言います。巡査長。公威さんを国旗損壊罪の現行犯で逮捕するのは非常にマズいです」
    「なぜだ?」
    「巡査長は知らないようですが、公威さんが保守派の人気者だからです」
    「む、確かに俺はノンポリでその辺は疎いのを認める。しかし彼はそれほど有名なのか?」

    「有名です。自分と警察学校で同期だった仲間の殆どが彼のファンです。そして私も公威さんの信者です」
    「お前もそうなのか…」
    「はい。9月にあった神田での講演会を聴きに行ったくらいです。その時、彼のデビュー作を持参しサインまで貰いました。もちろん公威さんはそんなこと覚えてないでしょうが」

    「分かった。お前の言いたいことが見えてきた。保守派に大人気の彼が国旗損壊罪で捕まったら、一大スキャンダルになると言うんだな?」

    中村巡査が大きく頷いた。

    「そうです。逮捕を嗅ぎつけたマスコミが面白おかしく右派の寵児の奇行を取り上げるでしょう。それにパヨクが大喜びしてSNSでコスり続けるに違いない。あいつら国賊を喜ばせる事態だけは断じて避けなければなりません。公威さんがなぜ国旗を焼いたのか、その意図は分かりません。しかし彼を国旗損壊罪で逮捕するのは、我々保守にとって大きなダメージになります。百田先生や有本先生がどれだけ嘆き悲しむか。長年の悲願として『国旗損壊罪』法案を成立させた高市総理もさぞ落胆することでしょう」

    「そんなに大事なのか?」と益田巡査長は呆れたように言った。

    「大事です。国家にとってマイナスです。日本の国益を毀損する反日行為です。巡査長。そうならない為に私に良い考えがあります」

    公威は密談する警官たちに背を向けてセブンスターを吸っていた。股を開いて両膝を立て、後ろ手にして中央線の激しい電車の往来をぼんやりと眺めていた。

    (なぜ良く晴れ、冷たく乾いた空気の中で吸う煙草はこれほどまでにウマいのか…)

    儀式は終わったのか?
    「終わった、と思う」
    お前は左翼になれたのか?
    「無論、なれたはずだ」
    左翼になって初めて吸う煙草は?
    「無論、格別だ」

    「公威さん!」
    後ろから益田巡査長の声がした。
    公威が立ち上がる。
    「ここは禁煙区域ですよ。参ったな」と巡査長は苦笑いした。
    つられて傍らにいる部下も笑った。

    「公威さんにお伝えすることがあります」と益田巡査長が続けた。
    公威は無言のまま煙草を吸っている。

    「我々は国旗損壊罪であなたを逮捕しません」

    公威が目で(なぜ?)と問うた。

    「なぜなら、あなたが日本国旗を焼いている光景を見た我々二人が、全く不快感や嫌悪感を抱かなかったからです」と巡査長は自信に溢れた口ぶりで言ったが、その両頬には日の丸が差していた。

    益田巡査長の隣で松本巡査が深く首肯している。

    「公威さんならご存知のはずですが、国旗損壊罪は具体的にどのような行為が処罰対象になるかと言うと、人に著しく不快感や嫌悪感を抱かせる方法で、公然と損壊・汚損などをする行為が対象となります。繰り返しますが、今回あなたが国旗を焼く行為を目撃した私たち二人とも、不快な気持ちにならず、嫌悪感を催しもしなかった。つまり公威さんが日本国旗を焼いた事実は、国旗損壊罪の処罰対象となり得ません」と益田巡査長は断言した。もう頬の日の丸は霧散していた。

    公威は肯定も否定もせず、短躯のセブンスターを地面に投げ捨て、靴底で揉み消した。

    「では、我々は署に戻らねばならないのでこの辺で。公威さん、後片付けだけはちゃんとやって下さいね。その吸い殻も含めて」と益田巡査長がにこやかに言った。

    「じゃあ、松本。帰るぞ」
    と言うと、巡査長は公園外の道路の方へ歩き始めた。

    その様子を見ながら、松本巡査が小声で言った。
    「公威さん、何で日の丸燃やしちゃったんですか?」
    「……」
    「まさか公威さん、反日になった訳じゃないですよね?」
    松本巡査が公威の目を覗き込みながら訊いた。

    公威が口を開いた。

    「汨羅の淵に波騒ぎ
    巫山の雲は乱れ飛ぶ
    混濁の世に我立てば
    義憤に燃えて血潮湧く」

    引用元:作詞作曲 三上卓:『昭和維新の歌』

    松本青年の目が突然輝きだした。

    公威は唄い続ける。

    「権門上に傲れども
    国を憂うる誠なし
    財閥富を誇れども
    社稷を思う心なし」

    引用元:作詞作曲 三上卓:『昭和維新の歌』

    青年松本の目から涙が零れ落ちた。

    「おい、松本巡査。いつまでいるんだ。帰るぞ!」

    松本巡査は公威に深くお辞儀し、上司の後を追って駆け出した。

    公威は再び座り込み、中央線の電車を見ながら煙草を吸い始めた。

    ああ人栄え国亡ぶ
    盲たる民世に躍る
    治乱興亡夢に似て
    世は一局の碁なりけり

    昭和維新の春の空
    正義に結ぶ丈夫が
    胸裡百万兵足りて
    散るや万朶の桜花

    引用元:作詞作曲 三上卓:『昭和維新の歌』


    8番まで唄ったところで、公威は疲れからそのまま眠ってしまった。 晩秋の良く晴れた朝、数羽の鳩が傍でイタズラし始めるまで、公威は気持ち良さそうに眠り続けた。


    エピローグ

    11月26日木曜日  セクト会議室

    マサカドやエジョフ、その他の幹部連が勢揃いする中、公威の転向動画の鑑賞会、エジョフに言わせると査問会が始まった。 最前列の中央に公威、左にマサカド、右にエジョフが座る中、55インチのテレビにセクトのYouTubeチャンネルのメンバーのみに共有された限定動画が流れ始めた。

    落ち葉を集める準備段階、続いて『こっきとやきいも』を焼くシーンで幹部たちが沸いたのは勿論だが、その後も回され続けた動画に、公威と二人の警官のやり取りがそのまま映っていたのが、最大のハイライトとなった。 23分の動画が終わり、会議室が明るくなる。

    「同志公威。ご苦労だった。良くぞ日の丸を、日本を焼き切った。途中の邪魔者も含めて最高の儀式になったな。よし、これで晴れて私たちの仲間だ。どうだエジョフ。文句無かろう?」とマサカドが転向の儀式を総括した。

    「ああ、文句は無いさ。ただ、どうせならあのまま国旗損壊罪で捕まった方が、もっと"同志"公威の転向がセンセーショナルに拡散されてセクトの伸長に寄与したんじゃないか?」

    一人、二人ほど後ろから拍手がした。

    「相変わらずエジョフは手厳しいな。もちろん公威の転向は我がセクトの宣伝に最大限利用させて貰う。その点は公威も了承済みだ。この後、警官二人にモザイクをかけたバージョンの動画をセクトのチャンネルで公開する。幹部や一般構成員を含め、各自のSNSで思う存分拡散してくれ」とマサカドが号令をかけた。

    公威は終始幹部たちの発言を涼し気に聞いていた。

    「では改めて同志公威の転向を、そして我がセクトの益々の繁栄を、そして世界中の労働者の明るい未来を祝おうではないか!」とマサカドが宣言した。幹部たちが最前列に集まり、公威を囲んだ。

    「公威君、おはよう!」「おはよう!」
    「おはよう!公威!」「おはよう、おはよう!」

    "エモ"の坩堝の中で口々に飛び交う祝福。
    漸く左翼の同志たちに転向を認められた公威は喜色満面だった。

    ただ、この"エモ"の臨界の何処かで、何者かの心内に太古からの呻うな りの如き言霊がこだましていた。

    (皇尊弥栄、皇尊弥栄、皇尊いやさか、すめらみこといやさか、すめらみこといやさか……)  
                                   完


     
     

    地蔵

     
     
    硬軟あらゆる文体に対応。(株)KADOKAWAから出版の書籍『今日のナンパ術』のリライトを担当。 関心事 owarai sports architecture literature politics

    あなたへのおすすめ