
『犯人などいなかった』 第九話(最終話)
【9】最後の事件 『獅子身中の怪物』
2024年(令和6年) 10月20日(日)
いるま不動産が管理しているアパートの一つ、
ファーストハイツ小林の更新契約書を見ると、
105号の住人として、
朴 健二(パク ケンジ)
城崎 健二(キノサキ ケンジ)
1973年2月18日生まれと記載されていた。
また、同アパートの205号の住人として、
三浦 佑寿(ミウラ スケトシ)
1981年11月2日生まれと記載されていた。
城崎a.k.aパク、パクa.k.a城崎だが、パクが本名、城崎が通称名となる。なので本来はパク(城崎)と表記すべきかもしれない。
ただ、生まれた時から城崎姓を名乗り、疑うこと無く自身を日本人だと思いながら育ち、9歳の時に両親の前で正座させられ、「ケンジ、実はお前は韓国籍の在日韓国人で韓国姓だとパクと言うんだ」
と親から告げられた経緯を持つ城崎にとって、後から知ったパクより、城崎の方が馴染み深い苗字であるようだ。
城崎の希望もあり、ここでは城崎(パク)と表記しよう。
また三浦佑寿は、これまでのいるま不動産の店子全員、正確に言えば城崎以外の全員がそうであったように、ミウラスケトシとカナで表記する。
「これを私が読まないといけないのかい?」
鬼怒川は城崎(パク)から受け取ったA4サイズの紙の束を手にし、面倒臭そうに言った。
「はい」と城崎(パク)が毅然と答えた。
「城崎(パク)さん、これに何が書いてあるのさ?」
「僕がこの数年、205号のミウラにされた嫌がらせの全てです」
「口で言ってよ。今日は日曜だし、私も忙しいんだよね」
「すみません。経緯が複雑すぎて、口では説明出来ません。鬼怒川さんが読んでいる間は、電話対応から何から全部僕がやるので」
鬼怒川は今の感情はとても口では説明出来ないとばかりに、心底嫌そうな顔をした。
「そうは言ってもね…」
「いや、読んで下さい。鬼怒川さん、これはいるま不動産のアルバイトとしてではなく、ファーストハイツ小林の入居者として言ってます。キツい言い方になってしまいますが、管理会社の社員として、入居者からの苦情には真摯に対応して下さい」
「分かった。分かりました。そこまで訴えるなら読みますよ。でも、電話も来客も全部やってよ」と鬼怒川は渋々承諾した。
彼は自席から立ち上がってバックヤードに向かうと、船橋蒔絵硯箱を手にして戻って来た。
「社長の椅子で読ませて貰うよ。あ、あいつには内緒だよ」と鬼怒川は言って、社長の玉座に国宝座布団を敷き、寛ぐように腰かけた。
メガネを外し、目を細めながら紙の束の一枚目を読み始めた鬼怒川を城崎(パク)は無言で見つめた。
《鬼怒川さんの為にもう少しフォントをデカくした方が良かったか。ともかく彼に『私の訴え』を読ませるという、第一段階はクリアした。ただ、幾つも越えなければいけない壁がまだ残ってる。でも全てを乗り越えたら、俺の計算では今日中にミウラを終わらせることが出来る。少なくともミウラだけは…》
テレビから歓声が聞こえ、和田アキ子と峰竜太が画面上に登場した。城崎(パク)は反射的にリモコンを握り、チャンネルをNHK Eテレの将棋番組に変えた。
《そういや、上岡龍太郎も大昔の日曜昼に番組をやってたな…》
城崎(パク)が畏敬する"元"上方お笑い界きっての知性は、昨年の5月に亡くなっていた。
「読んだよー」と鬼怒川がダルそうに言った。
「ありがとうございます」
「久し振りだよ。こんなに活字を読んだの。賃貸借契約書以外だと、宅建の試験前に参考書読んで以来だよ。後、悪いけど文学ぽいこと書いてたところは読み飛ばしたよ。良く分からないし、苦情の件と無関係と思ったし。あそこは削った方が良いね」と鬼怒川はベテラン編集者のように確信的に助言した。
「で、どうでしたか?」と言って、城崎(パク)が鬼怒川の顔色を窺った。
「どうもこうも… 本当なの?ここに書いてる事って」今度は鬼怒川が城崎(パク)の顔色を探った。
「本当です…」
「事実なら大変なことだよ。ミウラは犯罪行為をしてる訳だから」
「事実です」
「……」
鬼怒川は言葉に詰まった。そして言うべきかどうか思案した後、こう述べた。
「城崎(パク)さん。これは2年以上も一緒に働いてきた同僚としてでなく、ウチが管理する物件の店子さんに対して言うね」
「はい」
「ミウラスケトシが盗撮している物的証拠はありますか?」
「あ~、これで玉の逃げ道がなくなりましたね。詰みです」と将棋番組の解説者が断言した。
「無いです」城崎(パク)は、鬼怒川の充血した大きな目を見つめながら言った。
「城崎(パク)さん」
「はい」
「じゃあ、ダメだ。私からは、いや、ウチとしては騒音の苦情として、ミウラに注意することは出来ない」
「何でダメなんですか? 鬼怒川さん、『私の訴え』を読んでくれたじゃないですか。なら分かってくれるでしょう。僕がこの4年間、どれだけ苦しんできたかを」
鬼怒川は余りに強く城崎(パク)が見つめてくるので、思わず視線を逸らした。
「うん、苦しんでいるのは分かるよ。それは私もあなたに同情する。良くこれまで同じ職場の私や社長に言わずに我慢してきたと思っている。でもあの訴えの内容だと、盗撮の物的証拠が無い限り、ミウラをどうこうするなんて出来ない。物的証拠があれば別だよ。あれば、それこそ我々が注意するとかのレベルじゃなく、完全に警察案件になる」
城崎(パク)は苛ついて自席から立ち上がった。
「物的証拠が無いなんて百も承知です。でも『私の訴え』を読めば、あいつが嫌がらせしてるのが完全に分かるじゃないですか。鬼怒川さん、ちゃんと読みましたか?証拠なんかなくてもこれを読めば分かるんです。もう一度読みますか?」
鬼怒川は想像以上に大声で訴えてくる城崎(パク)の姿に動揺し始めた。普段は鬼怒川の方が短気で、店子や大家相手に直ぐ感情的になって城崎(パク)に窘められていたのに、今日は立場が反転していた。
「城崎(パク)さん。落ち着いて。ちゃんと読んだから。いつもはもっと冷静なのにどうしちゃったの?」
「読んだんだったら、分かるだろ!」
鬼怒川には、城崎(パク)が泣いているように見えた。
城崎(パク)には、鬼怒川の目が徳富ハイツのトミヤスモトコを見る時と同じ眼差しに見えた。
「落ち着いて。城崎(パク)さん」
「あんな気違いのババァを見るのと同じ目で、僕を見ないで下さい」
鬼怒川は社長を呼んだ方が良いかもしれないと考え始めた。
「鬼怒川さん、ミウラをここに呼んで下さい」と城崎(パク)が絞り出すように言った。
「呼んでどうするの?」
「あいつに嫌がらせを自供させます」
「出来るのかい?そんなこと?」
「出来ます。僕と紺青色の自意識なら可能です」と言って、城崎(パク)は笑った。
「何を言ってるんだ。大丈夫か?」
「大丈夫です。だからミウラを呼んで下さい」
鬼怒川は少し沈黙した。城崎(パク)の状態を見ても、今ミウラを呼ぶのは危険だ。ただミウラを呼んで話しさせないと、彼がもっと危うい状態になる気がした。
「分かった。ミウラ君を呼ぼう。まだ一度も会った事はないよね?一度対面して、思うことを言ってみたらいい。そしたら気が晴れるかもしれない。でも冷静にね。絶対暴れたりしたらダメだからね。約束できる?」
「分かりました」と言うと、城崎(パク)は漸く倒れ込むように自席に腰を下ろした。
鬼怒川が右腕のSEIKOを見る。
12時13分。
家賃入金ファイルを手にし、ファーストハイツ小林のページを開いてミウラスケトシの携帯番号を確認すると、鬼怒川は電話機のボタンを押した。
《出るな!》と鬼怒川は念じていたが、5コール目にミウラが出た。
「あ、ミウラさんですか? いるま不動産の鬼怒川です。今いいですか? うん、用件と言うのがね、下の105号の入居者がさ、前からミウラさんが立てる騒音と言うか、音が気になってるらしくて、一度その件であなたと話したいって言ってるの。で、悪いんだけど、これから店に来れる?ちゃんと私の立ち合いの元で話し合うだけだから。心配しなくていいです。
………そうですか。ありがとうございます。昼ご飯とか食べた後、午後2時頃に来れるってことね。分かりました。じゃあ、お待ちしてますんで。はい、特に持って来て貰うものはないです。手ぶらで大丈夫です。はい。はい。じゃあ失礼しました」
受話器を置いた鬼怒川が話しかけようとすると、城崎(パク)が遮った。
「いや、もう言わなくていいです。来るんですよね、205号。ありがとうございます」
城崎(パク)は満面の笑みだった。
「もう昼ですよ。僕らもメシ喰いましょう。今日は自分がセブン行きます。鬼怒川さんの分も買ってきますよ」
「……ありがとう。じゃあ、頼むね」
鬼怒川が金を渡すと、城崎(パク)は跳ぶように店を出て行った。先程までの苛立った状態ではもうない。むしろ上機嫌だ。ただ、その躁の雰囲気が鬼怒川をむしろ不安にさせた。彼はスマホを取り、「城崎(パク)の様子がおかしいので、なるべく早く店に来て欲しい」と下呂にメールをした。
店を出た城崎(パク)は、何もかも自分の思い通りになっていると確信していた。
《『私の訴え』を読ませた後、妙に苛立った尋常ならざる様子を演出し、鬼怒川さんを動揺させた。これは俺の訴えが只ならぬ事を示す上で不可欠なムーブだった。読後の彼の反応など全て想定内だ。彼の知性だとあれが限界なのは分かっている。そして俺は鬼怒川さんにミウラへの電話を架けさせた。寝ている、仕事中、電車に乗車中、出れない可能性は幾らでもあったのに、奴は電話に出た。
しかも店に来る。俺が待ち構えているのを知った上でいるま不動産に来る。自分が「トン」や「ザー」を繰り返し、盗撮データをリトルに送り、嫌がらせを散々してきた被害者が待ついるま不動産にノコノコやって来る。
聞くに堪えない罵詈雑言や、"軟球投げ"や"金属バット突き"で逆襲してきた男が待つ場所にやって来る。ミウラスケトシは一体どういう男なのか。どういった風貌をしているのか。
何度か鬼怒川さんにミウラがどんな容姿か訊いたことがある。ただ表現力が皆無のあの男は「そこら辺にいる地味なお兄ちゃんだよ」としか答えなかった。四十過ぎで何がお兄ちゃんだ。まぁ、今日はその邪悪なツラをじっくりと拝んでやる》
城崎(パク)が二人分の昼食を買って戻って来た。その後、いるま不動産の社員とアルバイトは互いに全く言葉を交わさず、各々の席で食事を摂った。
鬼怒川がPCの時計を見る。
13時54分。
まだミウラは来ない。まだ下呂も来なかった。城崎(パク)は後ろ手にして、忙しなく店内を歩いている。
「城崎(パク)さん、さっきも言ったけど、くれぐれも興奮しないでね。私があなた達の間に入って、公平に話を進めていくから」
城崎(パク)は鬼怒川を一瞥したが無言だった。
城崎(パク)が入口に背を向けて店の奥に歩き始めた時、自動ドアが開いた。
スタジャンにジーンズを履いた男が店内に無言で一、二歩入って来る。
城崎(パク)が鬼怒川を見ると、老社員は一度だけ頷いた。後ろ手で右手を掴んでいた城崎(パク)の左手の握力が一瞬で増した。
「やぁ、ミウラさん。いらっしゃい。悪いですね。お忙しいところ」と鬼怒川が愛想良く出迎えた。
城崎(パク)は先日トミヤスモトコにされたように、今度は自分がミウラを頭部からつま先まで高速でスキャンした。
ミウラは背が高く180㎝ほどあった。鬼怒川(168㎝)はもちろん、174㎝の城崎(パク)より高かった。痩せぎすで、髪は短髪。メタルフレームの丸メガネをかけていた。頬骨が張り出した肉付きの悪い顔をしていて、目の輝きは皆無、感情が希薄な容貌だった。
《カマキリみたいな気持ちの悪い野郎だ》
これが城崎(パク)の第一印象だった。
もっとも、長きに渡って嫌がらせしてきた加害者を初めて見て、好印象を抱く方が難しかった。また顔や骨格以外に、城崎(パク)はミウラの服装が気に入らなかった。スタジャンにジーンズのいで立ちは、まさに今日の城崎(パク)の服装と同じだったのだ。
《偶然、偶然》と自分に無理やり言い聞かし、城崎(パク)は鬼怒川が仕切るのを待った。
「じゃあ、ミウラさんはここに座って。で、城崎(パク)さんはこっち。お互い上と下で長年住んでいるけど、顔合わせるのは初めてなんですね。じゃあ、二人ともまず挨拶からしましょうか」
「105号の城崎(パク)です」
「ミウラです」
《特徴のない、カップ麺が出来上がる頃には忘れてそうな声だ》と城崎(パク)は思った。
「でだ。まずミウラさんに伝えておくね。ここにいる城崎(パク)さんなんだけど、実はウチでアルバイトとして働いてるんだ。で、ミウラさんに安心して欲しいのが、不動産屋の人間二人が相手で不安に思わないで下さい。これから話し合う近隣トラブルについて、私は中立の立場で二人の話を聞くんで。城崎(パク)さんに対しては店子として接するので、ミウラさんはその点は安心していいです」
「分かりました」とミウラは無表情で言った。
その時、自動ドアが動いた。店内にいた三人は一斉に入口を見た。
下呂幸三だった。
鬼怒川にとって、普段は恐ろしくて煙たいだけの存在だった下呂が、これほど頼もしく思えたのは初めてだった。
「社長、おはようございます!」「おはようございます」と鬼怒川と城崎(パク)が相次いで挨拶する中、下呂は無言のまま玉座に直進した。玉座には鬼怒川が戻し忘れた船橋蒔絵硯箱の座布団がまだ置いてあった。下呂が鬼怒川を刺すように見る。
「あっ!」と鬼怒川は自分のミスに気付いたが、下呂は特に怒ることなくそのままマッサージチェアに身体を埋めた。
鬼怒川が『私の訴え』を持って下呂に近づくと小声で言った。
「社長、来てくれてありがとうございます。これが例の城崎(パク)さんの苦情の訴えです」
「知ってる」
「へ?」
「だから知ってる」
「何でですか?」
「城崎(パク)さんが今朝がたLINEで私にデータを送ってくれたんだ。もう全部読んだよ」
「そうでしたか」と鬼怒川は呆気に取られて言った。
「分かったら、お前は戻って審判をちゃんとやれ。ここから全部聞いてるからな」と下呂は氷の釘を刺した。
城崎(パク)が下呂を見て二人の目が合った。城崎(パク)は『私の訴え』を読んでくれた事への感謝を込めて、その場で頭を下げたが、下呂は険しい顔のまま無反応だった。
鬼怒川が大きな咳払いをした。
「ミウラさん。あの人はウチの社長で今日はたまたま来ただけだから。この話し合いは私たち三人で行うので気にしないで下さい」
ミウラは下呂の方を見ながら無言だった。
「じゃあ、始めるね。まず今回音の被害を訴えている城崎(パク)さんに訊こう。あなたが書いた、例の苦情の訴えを今ミウラさんに読んで貰いますか?」
「いえ、その必要はないです。あの訴えはそもそも下呂社長や鬼怒川さんに読んで貰う為に書いたものです。加害者に読ませる為に書いたものじゃありません」
城崎(パク)が加害者と発した瞬間、ミウラが薄い唇を噛んだ。
「分かりました。では城崎(パク)さん。まずあなたが言う被害がどういったものか話して下さい」
城崎(パク)が深呼吸した。
ついにこの時がやって来たのだ。
「そもそもは2019年の夏、ミウラさんが故意に床を「ドスッ」と蹴るなりしたところから始まります。あなたはあの騒音の件をまだ覚えてますよね?」と城崎(パク)は鋭い視線をミウラに向けた。
「はい。覚えてます。でもそれは不動産会社の人にもう謝ってます」
「うん、対応したのは私だからね。良く覚えてるよ。城崎(パク)さんから聞いた苦情の内容も、ミウラさんから聞いた謝罪の内容も…」
城崎(パク)が鬼怒川の喋りを制した。
「いや、私も2019年の騒音の件を未だに腹立ててる訳じゃないんです。ただ、ミウラさん。あの時あなたは故意に音を立てていた事を認めましたよね?」
「認めました」
「あれ以来、私の中では下の住人の迷惑も考えず、必要の無い音をわざと立てる人だという先入観が出来ました。この先入観はミウラさんが原因で生まれたので、私を責めないで下さい。私に非は無いので」
ミウラは無言だった。城崎(パク)が話を続ける。
「そして本題の音の嫌がらせは2020年6月から始まりました。もう鬼怒川さんや社長を含め、全員知っている事なので恥を忍んで言いますね。ミウラさん。あなた、この2020年以降、幾度となく私が自慰して射精する瞬間に床を「トン」と叩いてますよね?」
鬼怒川が息を飲んだ。玉座に座る下呂も俯きながら、ミウラが発する回答に意識を集中させていた。
「何のことですか?知りませんけど」とミウラは困惑した表情で呟くように言った。
鬼怒川が城崎(パク)の顔を即座に見た。下呂は無表情のまま、玉座の肘掛けを指で叩くスピードだけが速くなった。
「嘘をつかないでくれ。私の射精時にあなたが何度も床を鳴らすもんだから、私は腹を立てて、一階から何遍も怒鳴っていたでしょう?」
「いや、知りません」
「知らないはずがない。何回も軟球を投げてきたし、金属バットでも突いてきたんだ」
城崎(パク)は本心か演技かは不明だが、再び苛立ってきた。
「僕は実は中耳炎であまり耳が聴こえないんです。軟球を投げたと言われても、分かりません。知らないです」とミウラは落ち着いて答えた。
「じゃあ、バット突きはどうなんだ。先月なんて2日連続で私が小便しているタイミングでトイレの水を流してきただろう。それに怒った私が何十回も天井を金属バットで突いたんだ。その内の一回は天井板を突き破るほどだった。それも耳が悪いから聞こえてないのか?」
喋り終わった後の城崎(パク)の呼吸が荒くなってきた。傍にいる鬼怒川はもちろん、離れた場所から見守る下呂も城崎(パク)の変化を感じ取っていた。
「バットか何かは知りませんが、床がゴツゴツ鳴る時はありました。いい機会だから言わせて下さい。怖いのであれ、やめて貰えませんか?」
「何を!」ミウラの来店以来、一番の大声を城崎(パク)が発した。
「当たり前じゃないですか。さっき言ったトイレの水が何ですって?僕は自分がトイレして水を流してるだけですよ。それの何が悪いんですか?」
「俺が小便するタイミングを見計らって水流してるだろうが。お前が流した水が排水管を流れ落ちる音が聞こえるんだよ」
「自分が流したトイレの水の音は聞こえますが、他の部屋のトイレの水の音なんて僕は聞こえませんよ。何せ耳が悪いので」
「耳が悪い割には、俺が最初小さい声でお前に話していた内容を良く聞き取れたもんだな」
「あのくらいの声なら聞こえます。今日は中耳炎の状態もマシなので。と言うか、不動産屋さん。この人の言葉遣いなんとかしてくれませんか。怖いです」
「城崎(パク)さん。冷静に」と鬼怒川が憐れみながらアルバイトの店子に注意した。
「逆に僕から訊いてもいいですか?何で二階にいる僕があなたが自慰したり、あなたがトイレで小便しているのが分かるんですか?」
「それはお前がカメラで俺の居室を盗撮してるからだろうが!」
鬼怒川と下呂は《とうとう言っちまった》という諦めの表情を同時にした。そして城崎(パク)と相対するミウラは勝ち誇った顔になった。
「盗撮?滅多なこと言うもんじゃないですよ。盗撮してる証拠はどこにあるんです?カメラはどこに仕掛けてあるんですか?」
「天井にCCDカメラを仕掛けてるだろうが」
「そのカメラをあなたは見つけたんですか?」
「まだ見つけてないわ。じゃあ訊くが、お前は何で前は引き戸を開け閉めしてたのに、最近は全くしなくなったんだ?」
ここで初めてミウラが無言になった。
「どうせ俺が小便する時に悟られないようにトイレに移動したくて、引き戸を開けっ放しにしてるんだろうが。分かってんだよ」
「何を言ってるのやら?僕は2019年に床を鳴らす音が煩いと言われたから、なるべく静かに引き戸を開け閉めしてるだけですよ」
「別に生活音だから普通に音立てて開け閉めすればいいじゃないか?そんな事で俺は苦情しやしねぇよ。どうせ俺に嫌がらせしてるのがバレるのが怖くて、引き戸を開けたままにしてるクセによ」
鬼怒川の目には、また城崎(パク)が泣いているように見えた。
「城崎(パク)さん、そこまでです」
玉座に座る下呂の良く通る声が店内に響いた。
「城崎(パク)さん、気持ちは分かります。ただ、物的証拠が無いとこれ以上その人を詰めることは出来ません。城崎(パク)さん、あなたならその事実をようく分かっているはずです」
城崎(パク)は俯いたまま無言だった。涙を零している姿を見られたくなかったのかもしれない。
「鬼怒川、もうその人を解放してあげなさい。今日のところは帰って貰いなさい」と下呂が厳しい口調で指示を出した。
「今日のところはってのが気に入らないな」とミウラが薄ら笑いを浮かべながら言った。
「今日が気に入らないなら永久に来なくて宜しい。安普請の店子が偉そうにしなさんな。2019年に城崎(パク)さんに騒音で迷惑をかけていたのは確かなんだから、あなたも必要以上に勝ち誇らなくてもいい」と下呂がミウラを睨みながら言った。城崎(パク)は項垂れたままだ。
ミウラはまだ何か言いたげだったが、自分が住むアパートの管理会社の社長に目を付けられるのは得策ではないと悟ったのか、渋々立ち上がった。
「じゃあ、俺は帰りますよ」とミウラが吐き捨てた。
「ちょっと待って!」と城崎(パク)が下を向きながら声を出した。
「ミウラさん、あんた×××て知ってるよね?」と城崎(パク)がミウラを見ながら訊いた。×××はリトルのアカウント名だった。
「は?知らないですけど…」とミウラは答えたが、一瞬顔色が変わったのを城崎(パク)と玉座から見つめる下呂は見逃さなかった。
「そう…」と城崎(パク)が呟くと、直ぐに鬼怒川の方を向いた。
「ところで鬼怒川さん。明日天井に開けた穴の修理の際に、建具屋の別府さんがユニットバスの点検口から居室の天井裏を調べてくれるんですよね?」
「…うん、そうだよ」と鬼怒川は咄嗟に空気を読んで返事した。
城崎(パク)と下呂、そして鬼怒川も、天井修理の話をしている間のミウラの挙動を逃さず見ていた。
「……じゃあ、もう帰っていいですね?」
「ああ、色々失礼があったかも知れないけど、今日はありがとね」と鬼怒川が言った。城崎(パク)と下呂は無言だった。ミウラは居心地が悪いのか、そそくさと店から出て行った。
「城崎(パク)さん」と下呂が声をかけた。
「はい」
「あなた、少し疲れているかもしれません。知り合いがやってるので、明日はここで診て貰いなさい。もう話は通してあります。なに終日休みでいいですよ。給料は一日分出すんで安心して下さい」と言うと、下呂は優しく微笑みながら、心療内科の院長の名刺を城崎(パク)に手渡した。
城崎(パク)は礼を言いたかったが、どうしても言葉が出てこなかった。
「今日も、もう帰っていいですよ。今日の給料も一日分出すので。鬼怒川、分かったな?」
「分かりました」と鬼怒川が答えた。普段なら城崎(パク)が贔屓されたと感じ、羨ましそうな表情を見せる彼も、今回は神妙な顔をしていた。二人に深く頭を下げ、城崎(パク)はいるま不動産を後にした。
北口商店街を俯き加減に歩きながら、城崎(パク)はまた幼稚園時代の母親の送迎を思い出した。別に母でなくても構わない。ただ今だけは、誰かの運転する自転車に身を委ね、深く目を閉じたまま家まで帰りたかった。
城崎(パク)が辺りを見回す。駅方面に高速で向かうピストバイクにはリアキャリアがなかった。駅の方向からゆっくりと進んで来るママチャリに、城崎(パク)は吸い寄せられるように一歩、二歩と近づいたが、怖い顔をされて避けられた。再び今来た道を見る。電動自転車に乗った若い女性がいた。城崎(パク)は懐かしい気持ちになってその自転車に近寄ろうとしたが、あっという間に彼の目の前を通りすぎた。通過する瞬間、城崎(パク)とチャイルドシートに座る女児の目が合った。二人乗りの自転車の背中を見ながら、彼は歯を見せずに笑った。そしていつもの早足で家路を歩き始めた。
ファーストハイツ小林 105号に戻った城崎(パク)は、熱いシャワーを浴びた後、直ぐに布団に潜り込んだ。夕暮れの光が部屋に差し込む中、城崎(パク)は仰向けになり、先月自分が開けた天井の穴をじっと覗き込んだ。
『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ』
手垢のついた箴言どおりの訳もなく、自らの憎悪が生み出した深淵からは、誰も、何も覗き返してはこなかった。城崎(パク)は今、205号にミウラスケトシが居るかどうかなど、もうどうでも良かった。
眠りたかった。
あらゆる夢から解放された透明な眠りの中に落ちたかった。
目が覚めた時、外は薄っすらと明るかった。
いつものカラスの無粋な鳴き声が聞こえ、城崎(パク)は朝だと分かった。
置き時計を見ると、5時32分だった。
それから心療内科に行くまでの間、城崎(パク)は長く続いた一人ぼっちの戦いを布団の中でゆっくりと反芻した。
《犯人などいなかったかもしれない。でも俺は最後に二人に全てを打ち明け、孤独から解放された》
そう総括した時だ。天井からガサガサとコードを引くような音が聞こえてきた。城崎(パク)は思わず笑った。それは刹那の笑いではなかった。その卑しさと怯懦に塗れた音が聞こえなくなるまでの15分間、ずっと天井を見ながら彼は笑っていた。
下呂幸三が紹介してくれた心療内科はS駅の南側にあった。
ファーストハイツ小林からは徒歩15分ほど。
小綺麗な三階建ての建物の二階にその医院はあった。
建物に入ろうとする城崎(パク)を見て、傍を通りかかった中年の女が手を振った。
城崎(パク)は女に気付かない。
「アルバイトさん!」と女は大きな声を出した。
城崎(パク)は振り向いて女を見たが誰だか分からない。屈託なく笑いながらいつまでも手を振ってるので、仕方なく城崎(パク)が手を振り返すと、女は踵を返し、跳ぶように走り去った。
その様子を見て、城崎(パク)は小首を傾げて微笑んだ。
そして建物の階段をゆっくりと上っていった。