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四つ目の椅子

    あらすじ

     家具修復師の佐伯槙まきは、閉鎖された児童療養施設から運び込まれた三つの椅子を預かる。台帳には「四脚一組」とあり、照明を落とすと床には四つ分の影が残った。残響を採取する音響調査員・玖島くしま律は、見えない空席から「ぼくの椅子を戻さないで」という子どもの声を聞く。やがて槙の実家でも、誰も使わない椅子、水色の器、四つに切られる桃が、家族の記憶から抜け落ちた一人の存在を示し始める。その施設には、認識から外された人や物が沈む「余白」と、空いた席を別の誰かで埋めれば、その人の存在が失われるという研究の痕跡が残されていた。取り壊し迫る四一二号室で、槙は忘れられた家族の席と、誰かを取り戻すことの意味に向き合う。

    (本文:37,373字/あらすじ除く)

    第一部 数えられないもの

    第一章 三つしかない椅子

     椅子は三つしかなかった。

     それなのに、槙まきが工房の天井照明を落とすと、床には四つ分の影が残った。

     午後九時を回った修復工房には、木屑を吸い込む集塵機の低い唸りと、雨が高窓を叩く音だけが残っていた。昼間は八人が出入りする作業場も、夜になると古い家具の匂いが前へ出る。蜜蝋。濡れた革。削ったばかりの欅。長く閉ざされていた家から運ばれた箪笥には、その家で炊かれていた味噌汁の匂いが残っていることさえあった。

     槙は入口脇の作業票を見直した。

     品名――児童食堂用椅子。
     数量――四。
     搬出元――青楓せいふうこども療養所旧館。

     実物は三つだった。

     一つ目は背板に小さな歯形があり、二つ目は座面の前縁だけが白く擦れている。三つ目は右後ろの貫ぬきが折れ、麻紐で応急処置をされていた。どれも子ども用としては少し大きく、大人用としては低い。座る人間が成長しても、同じ場所へ戻ってこられるように作られた椅子だった。

     槙は搬入時の写真を開いた。トラックの荷台に三つ。工房のシャッター前に三つ。受領印の横だけ、数量が四と記されている。

    「誰かが台帳を間違えたんでしょう」

     昼間、同僚の大庭紗季はそう言った。槙もそのつもりでいた。

     ところが三つの椅子を壁際へ移したあと、養生シートの上に四つの四角い跡が残った。埃の薄い場所が、椅子一脚分だけ余計にある。手でなぞると、その部分だけ冷たかった。

     槙は作業灯を持ち上げた。光の下では、何もない。灯りを背後へ回すと、三つの影の間に、背板の丸みまで備えた四つ目の影が立つ。

     槙は息を止めた。

     光源を動かした。影も動いた。実物の椅子が落とす影とは半拍遅れて。

     入口の電子錠が鳴った。槙は反射的に鑿のみを握った。

    「すみません。遅くなりました」

     入ってきた男は、両手を見える位置へ上げた。四十歳前後。雨に濡れた黒い髪が額へ張りつき、肩から録音機材の入った銀色のケースを下げている。紺色の作業着には、胸元に小さく《玖島くしま音響調査》と刺繍されていた。

    「誰ですか」
    「玖島律です。青楓旧館の解体記録を担当しています。搬出品に異常音があったので、施工会社からこちらを聞きました」
    「営業時間は六時までです」
    「承知しています。昼に連絡したのですが、現場が長引いて」
    「明日にしてください」

     槙が電子錠を指したとき、男は三つの椅子を見た。顔から、遅れてきた人間の申し訳なさが消えた。

    「触りましたか」
    「修復品ですから」
    「座ってはいませんね」
    「どうしてですか」

     男は答えず、銀色のケースを床へ置いた。中から掌ほどの録音機と、丸い接触マイクを取り出す。

    「やめてください。依頼主の許可なく――」
    「その空いているところへ、立たないで」

     槙は自分の足元を見た。三つの椅子のあいだ。四つ目の影が落ちていた場所に、右足が入っている。

     床板が、わずかに沈んだ。

     誰かが後ろから椅子を引いたような音がした。

     槙は一歩飛び退いた。

     玖島は接触マイクを、何もない床へ置いた。ヘッドフォンを片耳へ当て、録音レベルを上げる。

     作業場には雨音しかない。それでも男の表情は、遠くから近づく足音を聞いているように変わった。

    「何が聞こえるんですか」

     玖島は人差し指を唇へ当てた。槙は苛立ったが、黙った。十秒ほどして、彼はヘッドフォンを外した。

    「この椅子は、四つあります」
    「見れば三つでしょう」
    「数えられるのが三つというだけです」
    「音響調査の方は、家具を音で数えるんですか」
    「建物や物に残った音を採ります。床を歩いた靴、閉められた扉、繰り返し呼ばれた名前。強い音は、なくなったあとも素材の癖として残る」
    「比喩ですか」
    「仕事として説明するときは、そういうことにしています」

     玖島は録音機を槙へ差し出した。

    「聞きますか」

     断るべきだった。

     しかし槙は、古い家具を直す仕事を十二年続けていた。説明のつかない傷や、用途のわからない穴を見つけると、直す前に由来を知りたくなる。知らずに埋めた痕跡は、二度と元へ戻せない。

     ヘッドフォンを受け取った。最初は雨音だった。次に、皿と匙が触れる音。椅子の脚が床を擦る音。子どもが笑う声。

     一人。二人。三人。

     その奥に、息を潜めた小さな声があった。

    『まきちゃん』

     槙の指が止まった。

     録音の中で、誰かが椅子を引く。

    『ぼくの椅子を、戻さないで』

     ヘッドフォンを外した。

    「今のは、あなたが入れたんですか」
    「あなたの名前は?」
    「先に答えてください」
    「録音へ声を足してはいません」
    「では、どうして」

     玖島は槙の胸元に下がった名札を見た。

    《佐伯槙》

    「声は、佐伯さんを知っていた」

     槙は録音機を作業台へ置いた。

    「悪趣味です」
    「僕も、そうであってほしい」

     男は三つの椅子の前へしゃがんだ。一本ずつ、座面の裏を確認する。壊れた三つ目の椅子を裏返したとき、槙は声を上げそうになった。座枠の内側に、焼き印があった。

     丸の中に、SS。

     父の印だった。

     佐伯修司は若い頃、小さな家具工房を営んでいた。大量生産へ移る前、注文家具の見えない場所へだけ、同じ焼き印を押していた。槙が子どもの頃、父の作業場で何度も見た印だ。

    「この施設へ、父が椅子を納めた記録はありません」
    「お父さんは家具職人ですか」
    「でした。今は学校や医院の修繕を少し請ける程度です」

     槙は一つ目も、二つ目も裏返した。すべてに父の印がある。三つ目の椅子の座面裏には、焼き印の隣に鉛筆で数字が書かれていた。

     412。

     玖島が数字を見て、目を閉じた。

    「知っているんですか」
    「旧館の四階に、その番号の部屋がありました」
    「ありました?」
    「図面にはない。でも、録音すると階段が一段多い。四階の廊下を端まで歩くと、壁の向こうで椅子を四回引く音がする」

     工房の照明が一度消えた。

     暗闇で、椅子の脚が床を擦った。

     一回。

     二回。

     三回。

     少し間を置いて、四回目。

     灯りが戻った。

     三つの椅子は、先ほどと同じ場所にある。ただし、そのあいだにあった空間だけが、誰かの身体の幅に押し広げられていた。

    「佐伯さん」

     玖島は立ち上がった。

    「この修復は、始めないでください」
    「仕事です」
    「四つ目の椅子を戻せば、代わりに別の誰かの席が空きます」
    「意味がわかりません」
    「僕にも、全部はわかりません」
    「それで人の仕事を止められると思っているんですか」
    「思っていません。ただ、同じことを一度やって、三日間、誰からも名前を呼ばれなくなった人を知っています」

     玖島は銀色のケースを閉じた。

    「明日の朝、青楓旧館の搬出台帳を持ってきます。そのあとで、信じるか決めてください」
    「来なくて結構です」
    「では、台帳だけ送ります」
    「住所を知っているでしょう」
    「ここは会社です」

     槙は言葉を失った。玖島は小さく頭を下げ、工房を出ていった。電子錠が閉まり、雨音が戻った。

     槙は三つの椅子を見た。作業台の上に置いた録音機は玖島が持ち帰ったはずだった。

     しかし、そこにあった。再生ボタンが、ひとりでに点滅している。

     槙は押さなかった。

     録音機の小さなスピーカーから、子どもの声が流れた。

    『今度は、数を間違えないでね』


    第二章 誰も座らない場所

     翌朝、三つだった椅子は四つになっていた。正確には、紗季には四つに見え、槙には三つにしか見えなかった。

    「何を言ってるの」

     紗季は紙コップの珈琲を持ったまま、壁際を指した。

    「一、二、三、四。台帳どおりじゃない」

     槙が見れば、一、二、三。その隣は、養生シートが一脚分だけへこんでいる。

    「四つ目は、どんな椅子?」
    「どんなって、同じ形。座面だけ少し色が薄い」
    「触れる?」
    「朝から何なの」

     紗季は空間へ手を伸ばした。指が途中で止まる。何か硬いものへ触れたように、手首の角度が変わった。

    「あるでしょう」
    「私には見えない」

     紗季の表情から笑いが消えた。槙は昨夜のことを説明した。音響調査員。録音された子どもの声。父の焼き印。四一二という数字。紗季は黙って聞き終えると、四つ目だという椅子から離れた。

    「警察、ではないよね」
    「何を相談するの」
    「不法侵入と、録音機を使った嫌がらせ」
    「玖島さんは電子錠の臨時コードを施工会社から受けていた。録音機に声を仕込んだ証拠もない」
    「お父さんの焼き印を知ってる人?」
    「家族と、昔の取引先くらい」

     槙は三つ目の椅子を裏返した。焼き印も412も残っている。紗季は自分に見える四つ目の椅子の座面裏を覗き込んだ。

    「こっちにも印がある」
    「数字は?」
    「ない。名前が書いてある」
    「何て?」

     紗季はしばらく答えなかった。

    「佐伯湊みなと」

     槙の中で、その音だけがどこにも着地しなかった。

    「誰?」
    「こっちが聞きたい。知り合い?」
    「知らない」

     紗季がスマートフォンを向けた。画面には三つしか映らなかった。

    「私には見えてるのに」

     彼女は写真と実物を見比べた。

    「これ、目の問題じゃないよね」

     午前十時、玖島からメールが届いた。添付された搬出台帳には、《児童食堂椅子 四脚一組》の下に、四つの管理番号があった。

     SE-412-A
     SE-412-B
     SE-412-C
     SE-412-D

     Dだけ、廃棄欄に《存在確認不能》と記されている。

     備考には、手書きで短い文章があった。

    《四脚を同時に搬出しないこと。空席を代用品で埋めないこと。》

     署名は、N・S。

     母の旧姓は中原だった。

     槙は父へ電話をかけた。

    「昔、青楓こども療養所というところへ椅子を納めた?」

     父はしばらく黙った。

    『知らない名前だな』
    「焼き印がある。SSの」
    『俺と同じ印を使う職人はいるだろう』
    「丸の中に二文字。左のSだけ下が欠けている」

     父の焼きごては、槙が小学生の頃に落として欠けた。父は買い替えず、そのまま使い続けた。

    『いつの話だ』
    「二十六年くらい前」

     電話の向こうで、木が床へ落ちる音がした。

    「お父さん?」
    『今、どこにいる』
    「工房」
    『その椅子には座るな』

     声が低かった。

    「知ってるの?」
    『知らない』
    「なら、どうして」
    『椅子は人を待つ形をしている。誰のものかわからない椅子に、勝手に座るな』

     家具職人らしい迷信に聞こえた。しかし父は、その言葉を初めて口にしたのではないようだった。

    「実家に行く」
    『今日は来るな』
    「どうして」
    『お母さんの具合が悪い』
    「昨日まで元気だったでしょう」
    『今日は、四人分の朝飯を作った』

     電話が切れた。

              *

     昼休み、槙は紗季と実家へ向かった。

     工房から車で一時間ほどの、相模原の古い住宅地にある家だった。父が自分で建て増しを重ねたため、廊下の幅も天井の高さも場所によって違う。玄関には父の鉋屑かんなくずの匂いが染みついている。

     母は台所にいた。

     食卓には椅子が四つ並んでいた。槙が覚えている実家の食卓には、ずっと三つしかなかった。父、母、槙。来客用の折り畳み椅子は物置にある。四つ目は、小さかった。背板の中央に丸い穴があり、右の前脚だけ色が濃い。

    「この椅子、いつからあるの」

     母は振り返った。

    「何の話?」
    「そこ」

     槙が指すと、母は四つ目の椅子ではなく、椅子の上に置かれた新聞を見た。

    「ああ。お父さんが出しっぱなしにしたのね」
    「誰の椅子?」
    「誰のって、子どもの頃のあなたのでしょう」

     槙が使っていた椅子は、左脚に赤いクレヨンの跡があった。目の前の椅子にはない。父が作業場から入ってきた。四つ目の椅子を見た瞬間、足を止める。

    「しまったはずだ」
    「どこに?」
    「知らない」
    「知らない椅子を、どうしてしまったと思うの」

     父は答えなかった。

     母が冷蔵庫を開けた。

     中には、桃が四つ並んでいた。

    「今日、誰か来るの?」
    「あなたが来たでしょう」
    「私を入れて三人」
    「紗季さんもいるから四人」

     紗季は玄関で待っている。母は来ることを知らなかったはずだ。

    「毎年、この時期に四つ買う?」
    「桃は傷みやすいから、安いときにまとめて買うの」

     母は一つを手に取り、包丁を入れた。三つは大きなくし形に切り、最後の一つだけ細かく刻んだ。刻んだ桃を、水色の小さな器へ入れる。

     槙はその器を知っていた。

     食器棚の一番上、奥へ伏せられ、使われることのなかった器。捨てようとすると母が理由もなく怒るので、家族の誰も触らなくなった。

    「誰が食べるの」

     母の手が止まった。

    「小さい子は、大きいと喉につかえるでしょう」
    「どこの小さい子?」

     包丁の先から桃の汁が落ちた。父が、槙の肩へ手を置いた。

    「今日は帰れ」
    「青楓療養所を知っているでしょう」

     母の顔から血の気が引いた。

    「知らない」
    「お母さんの署名が残っていた」
    「人違いよ」
    「中原直子。作業療法士。二十六年前」
    「やめなさい」

     母は水色の器を抱えた。

    「その名前を、家の中で数えないで」
    「何を?」
    「四つ目を」

     言った本人が、最も驚いた顔をした。

     槙の背後で、木が軋んだ。

     小さな椅子に、誰かが座ったように座面が沈んでいる。紗季が玄関から入ってきた。

    「槙」

     声が震えていた。

    「工房から電話。私の社員証が使えないって」
    「機械の不具合じゃない?」
    「違う。総務が、私を知らないって言ってる」

     紗季のスマートフォンに、会社の連絡網が表示されていた。

     大庭紗季の名前がない。

     槙が自分の端末を開く。紗季との十二年分のメッセージ履歴は残っている。しかし連絡先の名前だけが空欄になっていた。実家の小さな椅子の背板に、白い文字が浮かんだ。

     おおば さき。

     槙は椅子から目を離せなかった。

     玖島の言葉が戻った。

     四つ目の椅子を戻せば、代わりに別の誰かの席が空く。椅子は、誰かの席を空け始めていた。


    第三章 名前を置く

     紗季は存在していた。

     触れられる。話せる。車も運転できる。ただし、彼女を知っているはずの人間から、少しずつ認識されなくなっていた。

     工房へ戻ると、警備員は紗季を不審者として止めた。十二年同じ現場で働いた職人は、顔を見ればどこかで会った気がすると言ったが、名前も仕事も思い出せなかった。紗季自身の机には別の人間の道具が置かれ、給与台帳からも記録が消えていた。

    「私がいなくなった分、あの椅子が一脚増えたの?」

     紗季は笑おうとした。

     笑いにならなかった。

    「まだ決まったわけじゃない」
    「槙には見えない四つ目の椅子に、私の名前が書かれてたんでしょう」
    「実家の椅子にも出た」
    「十分決まってるよ」

     玖島へ電話をかけた。

     彼は呼び出し音が鳴る前に出た。

    『四つ目の椅子へ誰かが触れましたか』
    「同僚には見えていた。今、その人の記録が消え始めています」
    『椅子を工房から動かさないで。本人を空席へ座らせないでください』
    「どうすれば戻せるんですか」

    『名前を置く』
    「名前?」
    『その人が現実にいると証明するものを、三つ。本人が選んだもの。誰かに与えられた肩書きではなく、その人が自分で選んだものです』
    「どうして知ってるんですか」
    『同じ方法で、三日目に戻った人がいる』
    「あなたが消しかけた人?」

     電話の向こうが静かになった。

    『そうです』

     玖島は一時間後に工房へ来た。昼間に見る彼は、昨夜より普通の人間に見えた。濡れていない髪。灰色のシャツ。銀色のケースの代わりに、旧館の平面図と数冊の記録簿を抱えている。

     紗季は彼を睨んだ。

    「私、戻れますか」
    「わかりません」
    「そこは、大丈夫ですと言うところじゃない?」
    「できない約束をすると、音に残るので」
    「面倒な人」
    「よく言われます」

     玖島は三つの椅子へ近づいた。彼にも四つ目の椅子は見えないらしい。ただ、空いている場所へ接触マイクを置くと、録音機のレベルが大きく振れた。

    「大庭さん。あなたが自分で選んだものを三つ、ここへ置いてください」

     紗季は考えた。

     最初に、腰の道具袋から小さな玄翁げんのうを出した。

    「父親に反対されて、それでもこの仕事を始めるときに自分で買った」

     二つ目は、工房の鍵だった。

    「独立しないで、ここに残ると決めた日に渡された。でも残ると決めたのは私」

     三つ目が見つからない。

     紗季は自分の鞄を探り、古い紙片を取り出した。十二年前、槙が初めて任された椅子の修復工程表だった。端に赤い字で、《削りすぎ。木は戻らない》と紗季が書いている。

    「これ、捨ててなかったの?」
    「初めてあんたに偉そうなことを言った記念」

     三つを、見えない座面へ置く。玄翁も鍵も紙も、空中で止まった。

     玖島が言った。

    「名前を」
    「大庭紗季」
    「それだけではなく」

     槙は紗季を見た。

    「十九歳で家を出た。家具修復の学校を首席ではなく、下から四番目で卒業した」
    「そこ言う?」
    「最初の工房を半年で辞めた。今の工房へ来て、十二年間、一度も遅刻していない」
    「一回した」
    「雪の日は数えない」

     紗季の輪郭が、わずかに濃くなった。

     玖島が録音機を置く。

    「続けて」

     槙は思い出せる限り話した。紗季が嫌いな木材。好きな工具。仕事で怒ると敬語になること。離婚したあと名字を戻さなかったこと。去年、保護猫を拾い、《社長》と名づけたこと。

     空中に置かれた鍵が落ちた。紗季のスマートフォンが鳴った。

     総務からだった。

    『大庭さん、どこにいるんですか。午後の打ち合わせ、忘れてませんよね』

     紗季は返事をせず、泣いた。電話を切ると、見えない椅子の座面から三つの品を回収した。

    「戻った?」

     槙が尋ねる。

    「たぶん。少なくとも、給料は出そう」

     玖島は録音波形を確認していた。午後、三人は旧館の解体事務所へ向かった。

     施工会社が借りたプレハブの一室に、青楓から回収された書類が段ボール箱のまま積まれていた。建築図面、備品台帳、財団の会議録。紙は湿気を吸い、触れると端が崩れた。

     玖島は音を採る前に、一枚ずつ写真を撮った。

    「聞けば早いんじゃないんですか」

     紗季が尋ねる。

    「聞こえたものは証拠になりません」
    「自分では信じる?」
    「信じすぎないようにしています」

     新しい書類は、古い記録とは別の机にまとめられていた。解体工事の契約書、残置物の搬出指示、音響記録の仕様書。槙は、表紙の日付を見て手を止めた。

    《旧青楓施設 解体前保存選別業務指示書》

     作成日は二か月前。発注者は《青楓記念資産管理合同会社》となっている。青楓を運営した財団は二十四年前に解散し、土地と資料だけが三つの法人を渡ったあと、この会社へ移されていた。

     家具の搬出先には、槙の勤める工房が名指しされている。

    《旧製作者・佐伯修司の技法を継承する修復師が在籍するため》

     音響記録の担当欄には、《玖島音響調査》とあった。

    「入札で取った仕事では?」

     槙が尋ねる。

    「形式上は。ただ、仕様書に僕の事業所名が最初から入っていた」
    「誰が書いたの」

     玖島が最終頁を開いた。

     技術監修――芦原あしはら宗一。

     紗季が息を吐いた。

    「偶然で、椅子と二人がそろったわけじゃないんだ」

     玖島は書類を撮影した。

    「少なくとも、椅子と僕たちは選ばれています」

     槙は備品台帳を年代順に並べた。家具の記録は、職人の癖がよく出る。椅子と机を一括して《木製備品》と書く人もいれば、木材、仕口しくち、塗料まで細かく残す人もいる。父の納品書は後者だった。

    《低座面椅子 四脚。山桜。貫は通し枘ほぞ。成長後の使用を想定し、脚部延長可能。》

     発注者欄には、青楓ではなく《東都感覚環境研究会》とある。納品先は空欄だった。

     父の字で、余白に追記があった。

    《四脚とも同寸法。ただし一脚のみ背板に丸穴。左手を入れて落ち着くとの希望。》

    「湊の椅子」

     槙が言うと、紙の上へ小さな手の跡が浮かび、すぐ消えた。別の箱から、研究会の議事録が見つかった。

    《空間配置反応は、対象児の家族関係に限定されない。対象児が席と認識した位置であれば、職員、写真内人物、記録上の名称にも影響が及ぶ。》

    《実験の再現性を高めるため、観察室は食堂と同一の家具構成とする。》

    《欠員発生時、別の児童を空席へ配置することで認識の安定を試みる。》

    《代替対象を置かず、空席を空席として保持した条件では、対応人物の呼称のみが観察記録へ再出現。身体、写真像、戸籍記録の復帰は確認されず。呼称は四十七時間後に再消失。》

     紗季が紙を置いた。

    「欠員って、人が消えたこと?」
    「この書き方では、そう読めます」

     玖島の声が低くなった。

    「別の子を座らせて、なかったことにした」
    「何も座らせなければ、名前だけ戻った」

     槙は二枚目の記録を見た。

    「でも、二日で消えた」
    「呼び続ける人がいなかったのかもしれません」

     玖島はそう言ったが、断定はしなかった。

     槙は会議録をめくった。

     途中から出席者が一人ずつ減っている。名前を線で消したのではない。最初からその欄がなかったように、文字の間隔だけが広がっている。最後の議事録には、芦原宗一と中原直子の二名しか記載がない。

     しかし署名欄の紙は、四人分の幅で折られていた。

    「母は、最後まで残った」
    「止めようとしたのか、続けたのかは、これだけではわかりません」

     玖島は慎重に言った。

     槙はその慎重さに救われた。母を悪人とも被害者とも、先に決めてほしくなかった。図面箱の底に、旧館四階の原図があった。

     正式な部屋番号は四〇八まで。けれど紙を光へ透かすと、消しゴムで削られた線の下に、廊下の先へ張り出した部屋が見えた。

     室名は《配置観察室》。

     後から赤鉛筆で、《四一二》と書き足されている。

    「四〇九から四一一は?」

     紗季が尋ねる。

     玖島は三枚の薄いトレーシングペーパーを重ねた。一枚目に四〇九。《空席保持》。椅子は四脚、人物模型は三体。欄外に《呼称のみ》。二枚目に四一〇。《物品代替》。空席へ赤い積み木が置かれ、欄外には《連鎖》。

     三枚目に四一一。《人員代替》。四体目の人物模型だけが何度も塗り潰され、《欠員》とある。いずれも同じ部屋だった。家具の配置だけが異なる。

    「三つの条件を、別の部屋として数えた」

     槙はトレーシングペーパーを重ねた。

    「その先が、四一二?」
    「三人の子どもの力を一つにした、複合配置です」

     玖島は赤鉛筆の数字を見た。

    「部屋ではなく、手順に番号をつけたんでしょう」

     玖島は接触マイクを原図の端へ置いた。

     録音機の針が揺れる。

     彼は再生せず、ファイルへ日時と資料番号を記録した。

    「聞かないの?」

     槙が尋ねる。

    「今ここで聞けば、記録より自分の耳を信じたくなる」
    「それはいけない?」
    「誰かの人生を決めるときは」

     玖島は図面を封筒へ戻した。

    「とても危険です」

     槙は、彼が過去に何を決め、誰を危険にしたのかをまだ知らなかった。それでも、その言葉だけは覚えておこうと思った。

    「完全ではありません」
    「まだ何か?」
    「空席は、大庭さんの名前を吐き出しただけです。代わりを探しています」

     工房の壁に掛けた出勤表から、一人分の磁石が落ちた。

     槙の名前だった。

    「次は私?」
    「最初から、椅子が待っているのは佐伯さんです」

     玖島は旧館の平面図を開いた。四階には四〇八号室までしかない。しかし廊下の外側、建物の輪郭からはみ出すように、鉛筆で四角が描き足されていた。

     四一二。

     その部屋の中に、小さな食卓と四つの椅子が描かれている。一脚だけ、平面図の外へ置かれていた。

    「これは誰が描いたんですか」
    「七歳の子どもです」

     玖島は記録簿を槙へ向けた。

    《対象SM。空間配置課題において、対象外領域を自発的に作成。配置された人物模型は、観察者全員の報告から消失。》

     対象SM。

     佐伯槙。

    「私が、ここにいた?」
    「青楓に、未来を予知する子どもはいませんでした」

     玖島は言った。

    「いたのは、人や物が世界のどこに置かれているかを、普通とは違う形で感じる子どもたちです。誰かが座る場所。戻る場所。忘れられない場所。研究者はそれを、配置感覚と呼んだ」
    「あなたも?」
    「僕は音でした。場所に残った声や、まだ口にされていない呼びかけを聞いた」
    「今も聞こえるんですね」
    「弱くはなりました」
    「私からは?」

     玖島は槙を見た。

    「何も聞こえません」
    「どういう意味ですか」
    「あなたの周りだけ、部屋の音が消える。昨夜、工房へ入ったとき、集塵機も雨も聞こえなくなった。二十六年前にも、同じ静けさを知っていました」

     槙は平面図を見た。

     図面の外に置かれた一脚の椅子。

    「佐伯湊という名前を知っていますか」

     玖島の指が止まった。

    「どこで見た」
    「四つ目の椅子の裏。紗季にだけ見えた」

     玖島は目を閉じた。

     長く息を吐いた。

    「僕の中に、その名前を呼ぶ声があります」
    「誰ですか」
    「あなたの弟です」

     槙は笑わなかった。

     怒りもしなかった。

     ただ、言葉が自分へ届く前に、工房の空気が一枚ずつ剥がれていくように感じた。

    「私は一人っ子です」
    「今は、そういう配置になっている」
    「説明してください」
    「旧館へ行けば、記録が残っています」
    「行く前に説明してください」
    「僕の記憶だけで、あなたの家族を決めたくない」
    「もう決めているでしょう」

     玖島は答えなかった。

     槙は平面図を畳んだ。

    「施設はいつ解体されますか」
    「三日後」
    「明日、入れますか」
    「施工会社の許可は取れます」
    「紗季も一緒に」
    「私は行く」

     紗季が先に言った。

     玖島は反対しなかった。

    「四つの椅子は?」
    「ここへ置きます。誰も座らず、誰の名前も載せない」

     槙は自分に見えない空席へ手を伸ばした。指先に、木の背板の冷たさが触れた。初めて、四つ目の椅子の輪郭が薄く見えた。

     背板の丸い穴から、小さな目がこちらを覗いていた。


    第四章 図面の外の部屋

     青楓こども療養所旧館は、多摩丘陵の端に残っていた。

     療養所という名前から槙が想像していた白い病棟ではなく、赤茶色の煉瓦と灰色のコンクリートを継ぎ足した建物だった。正面玄関は板で塞がれ、窓には解体工事の印が黄色いスプレーで書かれている。背後の雑木林が建物へ迫り、屋上の給水塔には蔦が絡んでいた。

     玖島の白いワゴン車で、槙と紗季は敷地へ入った。

    「録音機材の車にしては、ずいぶん傷だらけですね」

     槙が言うと、玖島はハンドルを切りながら答えた。

    「取り壊し前の建物は、駐車場も取り壊し前なので」
    「昨日より話が普通」

     紗季が後部座席から言った。

    「昨日は、大庭さんが消えかけていたので」
    「その言い方だと、私が悪いみたい」
    「悪いのは空席です」

     玖島は冗談を言ったのかもしれなかった。表情からはわからない。施工会社の現場責任者に書類を見せ、三人は旧館へ入った。

     入口には解体前の残置物が積まれていた。子ども用の歩行器、金属製の食器棚、番号の消えたロッカー。床の長尺シートには、家具を運び出した四角い日焼け跡が残っている。

     一階の奥に、食堂が残っていた。長い机だけが運び出されず、窓際へ寄せられている。床には椅子を置いた跡が円を描き、そのうち一つだけ、何度磨いても消えなかったように黒い。

     槙はしゃがみ、机の裏へ手を入れた。指先に、丸の中のSSが触れた。

    「これも父が作った」

     天板の裏には、鉛筆で何度も高さが記録されている。五十二センチ、五十四センチ、五十七センチ。子どもの成長に合わせて脚を継ぎ足した跡だ。最後の数字だけ、途中で消されていた。

    《みなと 九十六》

     身長の記録だった。

    「九十六センチ」

     槙は声にした。

     机の向こうで、小さな椅子が動く音がした。

     紗季が振り返る。

    「今の、聞こえた」

     玖島は接触マイクを出さなかった。

    「ここでは、機械を使わない方がいい」
    「どうして」
    「録音すると、音が再び起きたことになる」

     食堂の壁には、子どもが描いた絵ではなく、部屋の配置図が貼られていた。窓を右に置く子。扉を二つ描く子。家族全員の椅子を壁へ向ける子。中央へ何も置かず、周囲だけを家具で囲う子。

     どの図にも、名前の代わりに記号が振られている。SMの図だけ、紙の端が大きく切り取られていた。切り口の外側へ、何かが続いていたらしい。

     槙は切られた縁へ指を当てた。紙の向こうに、もう一枚の紙があるような抵抗を感じた。

    「触らないで」

     玖島が言うより早く、白い壁に子どもの影が映った。

     二人。

     一人は背が高く、耳を塞いでいる。もう一人は小さく、その子の服を左手でつかんでいた。

     影は数秒で消えた。

    「あなたと湊?」

     槙が尋ねる。

    「たぶん」
    「覚えていないんですか」
    「記憶はある。でも、自分の記憶か、湊から預かったものか区別できない」

     玖島は、影が消えた壁を見たまま言った。

    「だから、僕の話だけで信じないでください」

     その言葉は、工房で聞いたときより重かった。彼は真実を隠しているのではなく、自分の中にあるものを真実として押しつけることを恐れていた。玖島は廊下を歩きながら、一定の間隔で手を叩いた。

     乾いた反響が返る。

     三階までは普通だった。

     四階へ上がる階段で、玖島が足を止めた。

    「ここから、数を声に出さないでください」
    「階段の?」
    「部屋の。椅子の。人の」

     槙は母の言葉を思い出した。その名前を、家の中で数えないで。四階の廊下は、図面より長かった。

     四〇一、四〇二、四〇三。扉の番号は四〇八で終わる。その先は外壁のはずなのに、廊下がさらに十二歩続いていた。終端には、白く塗り潰された壁がある。玖島が接触マイクを当てた。

     ヘッドフォンをせず、目を閉じる。

    「何が聞こえる?」

     紗季が小声で尋ねた。

    「椅子を引く音。匙を落とす音。子どもが服をつかむ音」
    「服をつかむ音なんてあるの」
    「僕にはあります」

     槙は壁へ手を当てた。

     冷たくない。

     人の体温に近い。

     指の下で、白い塗料が粉になって剥がれた。壁の奥から、金属の数字が現れる。

     412。

     紗季が息を呑んだ。

     扉の輪郭は見えない。

     玖島が古い記録簿を開いた。

    「最初の青楓は、発達に特性のある子どもの生活訓練施設でした。母体は大学病院と家具メーカーと音響機器会社が作った財団。子どもの感覚に合わせた部屋や家具を研究していた」
    「父は、その家具を作った」
    「おそらく。お母さんは作業療法士として参加した」
    「途中で何が変わったの」
    「子どもの配置課題が、現実の認識へ影響するとわかった」

     玖島は一枚の写真を見せた。卓上の模型だった。小さな部屋。机。四つの椅子。家族の人形。写真の下に、実験記録がある。

    《椅子模型一脚を対象外領域へ移動後、観察者九名中八名が対応人物の存在を報告せず。写真、名簿、口頭記憶にも同様の欠落。対象を元の位置へ戻すと、七名の記憶が回復。》

    「人間を、家具みたいに動かした?」

     紗季の声が硬くなった。

    「最初は模型だけです。そのあと、対象が人間であることを確かめた」
    「子どもにやらせて?」
    「大人は、自分が世界の中心にいると思っている。子どもは、世界がどこからどこまでかをまだ決めきっていない。研究主任の芦原宗一は、その未確定さを利用した」

     槙は写真の端を見た。

     七歳の自分が写っている。

     髪を短く切り、模型の前へ座っている。隣には三歳くらいの男の子。丸い穴のある小さな椅子に座り、左手で槙の服をつかんでいた。母の録音ではない。写真なのに、指先の重さを覚えている気がした。

    「湊?」

     名前を口にした瞬間、廊下の照明が消えた。暗闇の中で、紗季が槙の腕をつかむ。玖島だけが、壁の方を向いた。

    「来る」

     白い壁の向こうから、子どもが走る足音が近づいた。

     壁の直前で止まる。

     小さな手が、内側から一度叩いた。

    『まきちゃん』

     槙にも聞こえた。

     壁へ耳を当てる。

    『椅子を、どけて』

     視界が白くなった。

     次に見えたのは、模型の部屋だった。七歳の槙が、小さな食卓の前にいる。母がガラスの向こうで泣きながら何かを叫び、白衣の男たちが扉を押さえている。三歳の男の子は、槙の服をつかんでいた。

    「ここにいたら、先生がぼくの部屋を使う」
    「どこへ行くの」
    「誰にも見つからないところ」
    「一人になるよ」
    「あとで、まきちゃんが椅子を戻して」

     槙は模型の四つ目の椅子を持ち上げた。部屋の外、白い紙の余白へ置く。

     男の子の輪郭が薄くなる。

     最後まで残った左手が、槙の服をつかんでいた。

    「忘れないで」

     槙は椅子をさらに遠くへ押した。

     手の重さが消えた。

              *

     槙は廊下の床へ座り込んでいた。

     紗季が肩を支えている。

    「槙。聞こえる?」
    「私が、動かした」

     自分の声が、知らない人のものに聞こえた。

    「湊の椅子を、図面の外へ」

     玖島は白い壁へ手をついたまま、動かなかった。

    「あなたは覚えていたんですか」

     槙が尋ねる。

    「全部ではない」
    「何を覚えているの」
    「湊が僕の中に作った、音のない部屋を」
    「どうして弟が、あなたの中に?」
    「僕は十五歳で、ここへ連れてこられた。ほかの子どもの恐怖も、大人の期待も、四六時中聞こえていた。眠れなくなり、自分の声まで区別できなくなった」

     玖島は胸元を押さえた。

    「湊は、僕の中へ一つだけ、何も聞こえない部屋を作った。その代わり、自分の記憶の一部を置いていった。あなたが椅子を外へ出したあとも、僕だけは湊の名前を失わなかった」
    「二十六年間?」
    「ああ」
    「それで、私を探した?」
    「あなたではなく、椅子を戻せる人を探した。結果として同じ人だった」

     正直な言葉だった。

     だから余計に腹が立った。

    「私が誰かは、関係なかったんですね」
    「最初は」
    「今は違うと?」

     玖島は答える前に、廊下の奥を見た。

     杖の音がした。

     こつ。

     こつ。

     白い壁とは反対側から、一人の老人が歩いてくる。生成りの上着。銀色の髪。黒い木の杖。左手には、使い込まれた革の鞄を提げていた。口から、透明な袋に入った真新しい上履きが一足だけ覗いている。値札の数字は十五センチ。袋には、今年の日付が黒いペンで記されていた。

    「久しぶりだね、律君」

     穏やかな声だった。

    「そして、佐伯槙さん。ようやく、四つの椅子を戻せる三人がそろった」
    「芦原」

     玖島が槙の前へ立った。

     老人は笑った。

    「その言い方は寂しいな。君たちがここを出てからも、私はずっと席を空けて待っていた」
    「椅子を私の工房へ送ったのは、あなたですね」

     槙が言った。

    「そうだ。財団が解散したあと、土地と資料は名義を変えながら残した。君が佐伯君の仕事を継ぎ、律君が一人で音響調査を始めるまで待った」
    「解体記録に僕を指名したのも」
    「君は、壁の向こうで呼ばれれば聞かずにいられない。佐伯槙さんは、台帳と実物の数が違えば直さずにいられない」

     芦原は二人を順に見た。

    「招待状を出すより確実だった」
    「誰の席を空けるために、そこまでしたんですか」

     槙が尋ねる。

    「息子の」

     芦原は白い壁へ杖を当てた。

    「君の弟は、扉を閉じる力を持っている。君は、配置を変える力を持っている。律君は、向こう側の声を聞ける」

     杖の先から、壁に細い亀裂が走る。

    「三人がそろえば、余白から失われたものを戻せる」
    「代わりに、誰かが消える」
    「空席が必要なだけだ」

     芦原は、ひどく優しい口調で言った。

    「世界には、誰にも使われていない席がたくさんある」
    「人を席と呼ばないでください」

     槙が言うと、老人の笑みが消えた。壁の亀裂から、白い光が漏れた。紗季のスマートフォンが鳴る。

     画面には、発信者の名前がなかった。出ると、工房の社長の声がした。

    『佐伯さんを知らないか。今日来るはずの修復師が、連絡もなく休んでる』

     紗季が槙を見た。

     芦原は杖を引いた。

    「空席は、もう君を数え始めている」

     白い壁の向こうで、四つの椅子が同時に引かれた。

    第二部 忘れられた席

    第五章 抜かれた名前

     槙たちは、芦原に追われなかった。追う必要がないと知っている人間の立ち方だった。

    「解体は三日後です」

     白い壁を背に、老人は言った。

    「その前に四つの椅子を運びなさい。君たちが来なくても、椅子の方がここへ戻りたがる」

     槙は答えず、紗季と玖島に挟まれるように階段を下りた。旧館の外へ出ると、午後の空は明るかった。建物の中だけが長い夜だったように感じられる。ワゴン車へ乗り込み、玖島がエンジンをかけた。

    「工房へ」

     槙が言う。

    「先に病院へ行った方がいい」
    「病気ではありません」
    「自分の名前が記録から消えるのは、健康な状態とも言いにくい」
    「工房にある椅子を確認します」

     玖島はそれ以上言わなかった。助手席の槙がシートベルトを引く。金具は一度、胸元をすり抜けた。二度目で留まった。後部座席から紗季が身を乗り出した。

    「今、透けなかった?」
    「光の加減」
    「昼間の車内で、何の光が人を透かすの」

     槙は自分の手を見た。

     輪郭はある。指紋も見える。それでも、膝に置いた手の下から、作業着の布目がわずかに透けていた。

     スマートフォンを開く。

     銀行のアプリへログインできない。契約者情報がありません、と表示される。運転免許証の写真は残っているが、氏名欄だけが白い。父母との家族グループでは、槙の過去の発言がすべて《参加者不明》に変わっていた。

    「私が消えれば、湊の椅子が戻る?」

     玖島の手がハンドルの上で強くなった。

    「まだ、椅子は戻っていない」
    「戻るために、私を空けている」
    「そうとは限らない」
    「あなたは、できない約束をすると音に残るんでしょう」

     玖島は黙った。

     ワゴン車の中から、道路を走る音だけが消えた。槙の周りに、あの静けさが広がっている。

    「今、何が聞こえますか」
    「聞かない方がいい音です」
    「答えて」

    「あなたが、自分の席を湊へ渡そうとしている」
    「考えただけです」
    「ここでは、考えた配置が現実へ寄る」
    「なら、考えないようにします」
    「人は、考えないことを選ぶと、そのことだけを考える」

     紗季が前席の間から手を伸ばし、槙の肩をつかんだ。

    「勝手に譲らないで」
    「まだ何も」
    「顔に出ないから、余計に怖いの」

     槙は窓の外を見た。

     道路脇の店のガラスへ、ワゴン車が映る。運転席に玖島。後部座席に紗季。助手席には誰もいなかった。

              *

     工房では、誰も槙を止めなかった。

     社員証が反応しないため紗季が扉を開けたが、作業場にいた職人たちは槙が入っても顔を上げなかった。肩が触れれば謝る。声をかければ返事もする。しかし数歩離れると、そこに誰がいたか忘れる。

    「佐伯さんの机は?」

     紗季が若い職人へ尋ねる。

    「佐伯さん?」
    「この机を使ってる人」
    「空きですよ。ずっと」

     机の引き出しを開けると、槙の道具は残っていた。柄に名前を彫った鑿。十二年前の給与明細。修復前後の写真。写真には、直した家具だけが写り、槙の姿は消えていた。

     三つの椅子は壁際にある。

     槙には、四つ目の椅子も見えた。

     座面の色が薄く、背板の穴の縁だけが黒ずんでいる。子どもが長く指を入れていた跡だ。座枠の内側に《佐伯湊》と鉛筆で書かれていた。

    「見えるようになった」

     槙が言うと、玖島は椅子の前へしゃがんだ。

    「思い出したからです」
    「全部ではない」
    「十分に近づいた」

     四つ目の椅子の座面には、槙の社員証が置かれていた。工房へ戻るまで、胸元に下げていたはずだった。

    「取らないで」

     玖島が言う。

    「私のものです」
    「椅子が受け取ったものを力で戻すと、別の形で取り立てる」
    「では、また名前を置く?」
    「今回は、椅子が待っている本人です。三つでは足りないかもしれない」

     槙は四つ目の椅子を見た。

     湊の名前の上に、自分の名札が置かれている。二人で一脚へ座ろうとしているようだった。

    「私が自分で選んだもの」

     机の引き出しから、三つ取り出した。最初に買った、刃幅六ミリの鑿。修復学校を出た年、給料のほとんどを使った。柄は汗で黒くなっている。

     二つ目は、ひびの入った陶製の取っ手。初めて自分の判断で傷を残した仕事の部品だった。直せる傷を、依頼主と話してあえて残した。家具が生きてきた時間まで新品に戻すべきではないと決めた日だ。

     三つ目は見つからなかった。

     紗季が言った。

    「工房の鍵は?」
    「それは会社から渡された」
    「自分でここに残ったでしょう」
    「あなたと同じになる」
    「同じでもいいじゃない」

     槙は首を振った。

     同じ方法で戻れば、同じ場所へ戻れるとは限らない。玖島は、作業台の端に置かれた一枚の木片を見ていた。槙が昨日、折れた椅子の貫に合わせて削った試験片だった。寸法を何度も測り、木目がつながるように選んだもの。

    「これは?」
    「まだ使うと決めていません」
    「作ったのはあなたです」
    「依頼されたから」
    「削る向きを選んだのは」

     槙は木片を手に取った。

     自分で選んだものは、人生を変えた大きな決断でなくていい。木目のどちらを表にするか。残す傷と消す傷。今日、ここに立つこと。三つを、四つ目の椅子の座面へ置いた。名札の隣で、鑿と取っ手と木片が静止する。

    「名前を」

     玖島が言う。

    「佐伯槙」

     椅子は動かない。

     紗季が続けた。

    「家具修復師。働き始めて十二年。口数は少ないくせに、依頼主へ説明するときだけ長い」
    「余計です」
    「猫に好かれない。子どもにもそんなに好かれない。でも、壊れたものを捨てる前に、一度だけ待ってと言う」

     槙の輪郭が戻り始めた。

     玖島は何も言わない。

    「あなたも何か言ってください」

     紗季が促す。

    「僕は、佐伯さんをほとんど知らない」
    「正直すぎる」
    「知っていることを言います」

     玖島は槙を見た。

    「この人は、見えない椅子を恐がるより先に、修復記録が間違っていることを気にした。子どもの声を聞いても、すぐに信じなかった。父親の焼き印を見て初めて、自分の問題として受け取った」
    「褒めていませんね」
    「事実です」
    「それから?」
    「自分が消えかけていても、三つ目の椅子の折れた貫を直す木を選んだ」

     四つ目の椅子が軋んだ。

     座面の上から社員証が滑り落ちる。槙が拾うと、氏名欄に文字が戻った。

    《佐伯槙》

     工房の奥で、誰かが「あれ、佐伯さん、いつ来たんですか」と声を上げた。

     完全には戻っていない。

     それでも、ガラスへ映る姿はあった。

    「一時的です」

     玖島は四つ目の椅子の裏を見た。

     湊の名前が薄くなり、その上へ槙の名が重なっている。

    「二人分の名前が、一脚を取り合っている」
    「なら、湊の席を別に作る」
    「新しい椅子を作れば済む話ではありません」
    「わかっています」

     槙は四つ目の椅子の座面から道具を回収した。

    「実家へ行きます。母は何か残している」
    「どうしてそう思うの」

     紗季が尋ねる。

    「昨日、知らないはずの施設名を聞いて、知らないとは言わなかった。名前を家で数えるなと言った。忘れた人の反応ではない」
    「忘れたあとでも、自分が忘れると知っていた」

     玖島が言った。

    「記録を残した可能性があります」

     槙は四つの椅子を見回した。

    「椅子はここへ置く。今夜は全員、工房から離れて」
    「一人にするの?」
    「誰もいなければ、席を奪えない」

     玖島は首を横に振った。

    「空席は、人がいない場所ほど広がります」
    「では、どうするんですか」
    「僕が残ります」
    「あなたの名前が消えるかもしれない」
    「一度、消えかけたことがある」
    「慣れるものではないでしょう」
    「慣れてはいません」

     玖島は録音機を四つの椅子の中央へ置いた。

    「でも、音のない部屋がある。ほかの人より、少しだけ長く持つ」

     槙は反対しかけた。

     彼の声に、決定を譲る余地がないことを初めて聞いた。

    「朝までです」
    「はい」
    「何かあれば連絡してください」
    「僕の名前が消えたら、連絡先も消えます」
    「縁起でもないことを」

     紗季が言う。

    「では、これを」

     槙は試験片の木を玖島へ渡した。

    「私が削ったものです。誰のものかわからなくなったら、工房へ持ってきてください」

     玖島は木片を受け取った。

    「名前の代わりになりますか」
    「少なくとも、木目を見れば私にはわかります」

              *

     深夜、実家の物置で、槙は四本脚の小さな椅子を作業灯の下へ置いた。座板の中央に、髪の毛ほどの線が走っている。父は木の収縮による割れだと言ったが、槙は指の腹で二度なぞった。

    「割れじゃない」
    「何が違う」
    「木目が、線のところだけ半分ずれてる」

     同じ板に見せるため、薄く挽いた二枚を貼り合わせてある。しかも接着剤は新しい合成樹脂ではなく、温めれば戻せる膠にかわだった。壊さずに開けることを前提にした仕事だ。

     槙は父の工具箱から薄いへらと小さな鏝こてを選んだ。濡らした布越しに熱を当て、膠が緩むのを待つ。父が手を出しかけたが、槙は首を振った。

    「急ぐと、座板ごと割れる」

     線へへらを入れる。わずかな抵抗のあと、座板の一部が薄い蓋として持ち上がった。空洞の中に、一本のカセットテープが収められていた。磁気テープへ湿気が回らないよう、蝋引きの紙で包まれている。

     ラベルには母の字で書かれていた。

    《四人目を思い出したときに聞くこと》


    第六章 四つ目の名前

     古いラジオカセットは、一度では動かなかった。父が裏蓋を外し、伸びたベルトを輪ゴムで代用した。再生ボタンを押すと、回転音のあとに長い雑音が続いた。食卓には父と母と槙が座っている。

     四つ目の小さな椅子は、誰も座らないまま、三人のあいだに置かれていた。水色の器には、刻んだ桃が入っている。紗季は少し離れた台所の椅子に座った。玖島は工房に残っている。

     テープから、若い母の声が流れた。

    『これを聞いている私へ。たぶん、あなたは何も覚えていません。怖くなって、途中で止めたくなると思います。それでも、最初の名前までは聞いてください』

     小さく息を吸う音がした。

    『佐伯湊。七月十三日生まれ。三歳。右の耳の後ろに、米粒ほどの赤い痣があります。桃は小さく切る。眠るときは左手で誰かの服をつかむ。水色の器を使う子です』

     母が、両手で口元を覆った。

    『湊は、私と修司さんの息子です。槙の弟です。私たちは四人で暮らしていました。写真が三人でも、食卓の椅子が三つでも、先に自分の身体を疑わないでください』

     父が椅子の背へ手を置いた。指が震えている。槙は水色の器を見た。記憶は戻らない。それでも、縁の小さな欠けを、幼い誰かが匙で叩いたことだけは知っているような気がした。

    『青楓で、私たちは子どもの感覚を暮らしに役立てる研究をしていました。最初は、本当にそのためでした』

     テープの奥で、子どもが泣いた。若い母が一度、「大丈夫」と言う。長い沈黙のあと、声が戻った。

    『大丈夫ではありませんでした』
    『芦原宗一先生は、事故で亡くした息子の誠君を戻そうとしました。槙は、人や物の置かれる場所を動かせた。湊は、人の中に音の届かない部屋を作れた。律君は、認識から外されたものの声を聞けた。先生は三人を使えば、失われたものを選び直せると考えました』
    『空いた席へ別の物を置くと、別の物が消えました。人を座らせると、その人の名前が消えました。ただ、一度だけ、誰も座らせず空席のままにした実験があります。その人の名前だけが記録へ戻りました。身体も写真も戻らず、二日ほどでまた消えました。先生は失敗だと言いました』

     紙を強く握る音がした。

    『でも、呼び続ける人がいれば違ったのかもしれません。これは、確かめられていません』
    『死んだ人と、生きたまま認識の外へ押し出された人は同じではありません。誠君を戻そうとして、何が誠君の席へ座るのか、私にはわかりませんでした』
    『私たちは湊を連れて逃げようとしました。間に合いませんでした。湊は、槙に自分の椅子を図面の外へ置いてほしいと言いました。私は止めるべきでした。七歳の槙に、弟を隠す役目をさせるべきではなかった』

     若い母の呼吸が崩れた。

    『ごめんなさい』

     誰に向けた言葉なのか、テープだけではわからなかった。

    『湊は死んだのではありません。誰からも数えられない場所へ移りました。椅子を外した瞬間から、私たちは名前を失いました。それでも身体が覚えることを願って、四つ桃を買い、水色の器を捨てず、七月十三日に小さな匙を出しました』
    『律君だけは、湊の一部を覚えています。湊が律君の中へ作った静かな部屋に、自分の名前と時間を預けたからです。その記憶が残るかぎり、四一二号室は閉じきりません』

     テープがいったん止まり、再び回り始めた。

    『槙へ』

     母の声が、録音機へ近づいた。

    『迎えに行くかどうかは、あなたが決めていい。でも、罪悪感で自分の席を渡さないでください。湊を愛することと、あなたが消えることは同じではありません』

    『湊へ』

     しばらく、回転音しかなかった。

    『待たせてごめんなさい。許さなくていい。怒っていい。帰りたいなら帰りたいと言っていい。帰りたくないなら、私たちのために帰らなくていい』
    『あなたのことを、忘れたくありませんでした』

     そこで録音は終わった。

     機械の回転だけが続く。

     父が停止ボタンを押した。

     誰もすぐには話さなかった。

     母は水色の器へ触れた。

    「この器を、何度も捨てようとした」

     声が掠れていた。

    「食器棚を見るたび、何かを忘れている気がして怖かった。でも、ごみに入れると、胸が苦しくなって戻した」

     父は小さな椅子の前脚を撫でた。

    「右だけ濃いのは、湊が食事中に足で擦ったからだ」
    「思い出したの?」
    「今、知っただけかもしれない」

     父は槙を見た。

    「それでも、この木は覚えてる」

     槙は、自分の中に大きな空洞があることを初めて認めた。悲しいから空いているのではない。空いている場所そのものが、悲しみの形をしていた。

    「四一二号室へ行く」

     母が顔を上げた。

    「だめ」
    「湊に聞く」
    「戻せば、あなたか誰かが」
    「戻すと決めていない」
    「会えば、決められなくなる」
    「会わずに、誰かが代わりに決める方が嫌です」

     母は何も言えなかった。

    「お母さんは行かないで」
    「でも」
    「二十六年前と同じ場所で、もう一度、私に何かを選ばせないで」

     きつい言い方だった。

     母は傷ついた顔をした。

     槙は謝らなかった。

     ここで優しくすれば、母は同行する。母を守るためという理由で、また湊本人の声が後ろへ回る。槙は、蓋を外した座板へ戻った。

     カセットを収めた空洞は、座板の厚みに対して浅すぎる。底板を指で叩くと、木の響きが途中で返った。

    「まだ下がある」

     父が覗き込む。

     底板の四隅には、木目に紛れるほど小さな丸穴があった。槙は細い錐を二本差し、板を均等に持ち上げた。無理にこじれば痕が残る。誰かが開ける日を想定し、家具を扱う人間にしか見つけにくい構造にしてある。

     二重底の下から、古い金属の鍵が現れた。

     数字が刻まれている。

     412。

     父は長く鍵を見た。

    「この型を作ったのは俺だ」
    「覚えているの?」
    「椅子の木で原型を削った。芦原が金属へ写した。扉を開ける鍵じゃない。部屋を部屋として数えるための印だと聞いた」

     槙は鍵を手のひらへ載せた。

    「椅子を四つそろえ、これを空いた場所へ置く」

     父が言う。

    「そうすると、図面の外の部屋が中へ戻る。手順だけが残ってる。なぜ知っているのかは、今まで思い出せなかった」

     紗季の電話が鳴った。

     工房からだった。

    『玖島さんという人が倒れました』

     槙は立ち上がった。

    『意識はあります。でも、自分の名前がわからないと言っています』

              *

     工房へ戻ると、玖島は四つの椅子の中央に座り込んでいた。どの椅子にも座らず、床へ膝を抱えている。槙が渡した木片を、両手で握っていた。

    「玖島さん」

     彼は顔を上げた。

    「その名前は、僕ですか」
    「はい」
    「あなたは」

     槙は一瞬、答えられなかった。彼の中に自分の情報がないことが、予想以上に痛かった。

    「佐伯槙。これを削った人です」

     玖島は木片の木目を見た。

    「逆目さかめを避けて、右から左へ削った」
    「そうです」
    「あなたの手は、最後だけ力を抜く」
    「見ていたんですか」
    「音で」

     玖島の目に、少しずつ焦点が戻った。

    「佐伯さん」
    「はい」
    「湊が、近くにいる」

     四つ目の椅子の座面が沈んだ。

     見えない誰かが座り、玖島の肩へ手を置いたように、作業着の布がへこんだ。

    「時間がない」

     玖島は言った。

    「芦原が、扉を開き始めています」


    第七章 雨の荷室

     四つの椅子をワゴン車へ積んだ。

     一脚ずつ毛布で包み、互いに触れないよう固定する。数を声に出さず、管理番号も読まない。四つ目の椅子は槙にも見えるが、荷締めベルトを通すと途中で透明になり、もう一度別の角度から掛け直す必要があった。

     紗季は工房へ残った。

    「私も行く」と最後まで言ったが、槙は頼み込んだ。

     会社と施工会社と警察へ、何が起きたかを伝えられる人間が必要だった。三十分ごとに連絡する。夜明けまで戻らなければ旧館へ来ず、外から助けを呼ぶ。

    「助けを呼んで、何て説明するの」
    「四つの椅子を運び込んだ二人が戻らない」
    「その説明だけなら、事件には見えるね」

     紗季は槙を抱きしめた。

     十二年一緒に働いて、初めてのことだった。

    「自分の席を、勝手に譲らないで」
    「わかってる」
    「今の返事、信用できない」
    「私も」

     それでも出発した。

              *

     旧館へ向かう途中、激しい雨になった。ワイパーが追いつかず、玖島は国道沿いの閉店した家具店の駐車場へ車を入れた。建物の大きなガラス窓には、値札を外された食卓やソファが暗く並んでいる。

     二人は自動販売機で温かい茶を買い、荷室の扉を開けたまま雨脚が弱まるのを待った。四つの椅子は、毛布の中でときどき小さく軋んだ。

    「あなたが三日間、誰からも名前を呼ばれなくなった人は、誰ですか」

     槙が尋ねた。

     玖島は紙コップを両手で包んだ。

    「婚約していた人です。千尋といいました」
    「芦原の実験で?」
    「僕がやった」

     玖島は、施設を出たあと音響工学を学び、建築音響の会社へ入った。人の頭の中ではなく、測定値として音を扱えば、自分の能力と距離を取れると思った。

     千尋は同じ会社の設計士だった。玖島が普通の人間には聞こえない声を聞くことを知っても、信じるとも否定するとも言わなかった。ただ、聞こえたことを理由に相手を決めつけないで、と言った。

     千尋の妹が海で亡くなった。遺体は見つからなかった。

    「芦原の資料を持ち出し、余白へ道を作ろうとしました」
    「妹さんは、認識から外れたのではなく、亡くなった」
    「わかっていた。でも、遺体がないという一点を、自分に都合よく使った」

     部屋は途中まで開き、妹の声が聞こえた。

     その代わり、千尋が三日間、世界から外れた。玖島だけは彼女を見つけられたが、名前を口にするたび、別の記憶が一つずつ消えた。

    「何を失ったんですか」
    「母の声。父の葬式。自分が十五歳より前に住んでいた家。今も戻っていません」
    「千尋さんは?」
    「僕が部屋を閉じると戻った。そのあと、僕の前からいなくなった」
    「追わなかったんですか」
    「追う資格がないと思った」
    「資格を決めたのは、千尋さんではなくあなたですね」

     玖島は茶を飲んだ。

    「そうです」
    「逃げただけでは?」
    「それも、そうです」

     言い訳をしない人間は、話しやすいとは限らない。反論されない言葉は、そのまま自分へ返ってくる。

     槙は荷室の四つ目の椅子を見た。

    「湊の記憶を、手放したいですか」
    「返すべきだと思っています」
    「聞いたのは、したいかどうかです」

     玖島は長く黙った。

    「手放したくない」

     雨がワゴン車の屋根を叩く。

    「僕が覚えていなければ、湊は二十六年間、本当に一人だったことになる。僕の中にいるあいだだけは、完全には忘れられていなかった」
    「それは湊のためですか」
    「そう思っていました」
    「今は?」

    「自分が二十六年を無駄にしなかったと思いたいだけかもしれない」
    「所有ですね」
    「はい」

     槙は、すぐに続けられなかった。

     自分も同じだった。

     弟を戻したい。その気持ちの中に、湊のためではないものが混じっている。家族から欠けたものを埋めたい。自分が弟を外した罪を終わらせたい。何より、七歳の自分が間違っていなかったという結末がほしい。

    「私は、代わりに残ることを考えています」

     玖島は驚かなかった。

    「聞こえていましたか」
    「はい」
    「ずっと?」
    「旧館から出たあとから」

     槙の胸に怒りが上がった。

    「なら、どうして黙っていたんですか」
    「あなたが、まだ声にしていなかったから」
    「人の中は勝手に聞くのに?」
    「だから、聞かない練習をしています」
    「便利に選べるんですか」
    「完全には。聞こえた音の意味を追わないことはできる」

     玖島は耳を塞がなかった。

     ただ、槙から視線を外し、雨の向こうを見た。

    「今は、聞きません」

     槙の頭には、湊が現実へ戻り、自分が四つ目の椅子へ座る場面があった。母が湊を抱き、父が小さな椅子を直し、紗季が槙の机を別の誰かへ渡す。その像がどれほど鮮明になっても、玖島は何も言わなかった。

     沈黙は、無関心ではなかった。他人の中へ入らないために、その場へ留まり続けることだった。

    「一つ約束してください」

     槙が言った。

    「四一二号室で、私の代わりに決めないこと」
    「わかりました」
    「止めるのは構いません。でも、勝手に私や湊の席を動かさない」
    「はい」
    「湊を、あなたの記憶の中だけへ閉じ込めない」

     玖島は四つ目の椅子を見た。

    「約束します」
    「あなたからも、何かありますか」
    「僕が記憶を返したあと、何も聞こえなくなるかもしれません」
    「それが怖い?」
    「とても」
    「普通の人は、聞こえないまま暮らしています」
    「僕は、普通の人がどうやって他人を信じるのか、知りません」
    「聞けばいいんです」
    「嘘をつかれたら?」
    「嘘をつかれたことを、あとで知ればいい」

     玖島は初めて、小さく笑った。

    「ずいぶん不便ですね」
    「便利すぎるよりは」

     雨脚が弱くなった。

     玖島は荷室を閉め、運転席へ戻った。エンジンをかける前に、槙へ言った。

    「佐伯さん」
    「何ですか」
    「戻ってきたら、あなたのことをもう少し知りたい」
    「聞かずに?」
    「できれば」
    「では、戻ってから聞いてください」


    第八章 四つの椅子を置く

     旧館には、明かりがついていた。解体前の建物へ通電しているはずはない。四階の窓だけが白く光り、雨に濡れた外壁へ細い筋を落としている。玖島と槙は四つの椅子を一脚ずつ運んだ。

     階段を上がるたび、椅子の重さが変わる。軽くなったと思えば、次の踊り場では二人がかりでも持ち上がらない。四つ目の椅子を運ぶときだけ、槙の腕には子どもの体温が伝わった。

     四階の廊下に、芦原が待っていた。

     白い壁はなくなっている。

     代わりに、扉があった。

     金属のプレートに、412と刻まれている。

    「よく来た」

     芦原は三人分の作業を終えた主人のように言った。廊下の床には、子どもの食卓が置かれている。父が作ったものと同じ丸い天板。周囲には、椅子を置く四つの印が白い線で描かれていた。

    「椅子は置きません」

     槙が言う。

    「ここまで運んで?」
    「湊に会うために使う。あなたの息子を戻すためではありません」
    「目的は違っても、扉は同じだ」

     芦原は杖を床へ突いた。

     四一二号室の中から、子どもの声がした。

    『お父さん』

     老人の顔が崩れた。

    「誠」

     玖島が芦原の腕をつかむ。

    「違う」
    「君には聞こえるだろう」
    「あなたが二十六年、聞きたかった声です」
    「それが誠だ」
    「誠さんの声ではない。あなたの記憶が、扉の中で反響している」

     芦原は杖を振り、玖島の手を払った。

    「十五歳の子どもが、父親の声を聞き分けられなかったくせに」

     玖島の顔が強張った。

     槙は四つ目の椅子へ手を置いた。

    「椅子を置きます」
    「佐伯さん」
    「湊へ道を開くためです」

     一つ目の椅子を、食卓の北側へ置く。

     父の椅子。

     二つ目の椅子を東側へ。

     母の椅子。

     三つ目の椅子を西側へ。

     槙の椅子。

     四つ目の椅子だけを、白い線の外へ置いた。

     二十六年前と同じ配置。

     扉の向こうで、何かが泣いた。槙は父から預かった鍵を、空いた南側の印へ置いた。水色の器を食卓の中央へ置き、刻んだ桃を一切れ入れる。香りが、冷たい廊下へ広がった。

    「湊」

     名前を呼ぶ。

     四つ目の椅子の背板の穴へ、内側から小さな指がかかった。

    「迎えに来たのではありません」と槙は言った。「あなたがどうしたいか、聞きに来ました」

     椅子が一人で動いた。白い線の外から、空いていた南側へ。

     四つの椅子が食卓を囲む。

     金属の鍵が熱を持ち、扉の取っ手へ同じ形の窪みが現れた。槙が鍵を差し込む。

     回す前に、玖島が手を重ねた。

    「入れば、戻れる保証はありません」
    「わかっています」
    「芦原も入る」
    「止められますか」
    「力ずくなら」
    「あなたの約束は?」

     玖島は手を離した。

    「止めるのは構わないと言われました」
    「私を。芦原を殴っていいとは言っていません」

     その場に似合わない言葉だった。

     玖島は息を吐いた。

    「戻ったら、約束の範囲を詳しく決めましょう」

     槙は鍵を回した。

     扉が内側へ開く。

     部屋はなかった。

     白い紙のような光が、床も天井も奥行きも消している。遠くに、何脚もの椅子が浮かんでいた。片方だけの靴。宛名のない手紙。誰にも弾かれなくなったピアノの鍵盤。名前を失った写真。

     忘れられたものが、置かれる場所を持たないまま漂っている。

     槙が一歩入る。

     足元に床が生まれた。

     玖島も続いた。

    「待ちなさい」

     芦原が杖を突き、扉へ近づく。

     玖島が進路を塞いだ。

    「あなたが会いたいのは、五歳のまま自分を愛している息子です」
    「どきなさい」
    「二十六年分、知らない人になった誠さんを受け入れられますか」
    「死者は歳を取らない」
    「なら、あなたが戻そうとしているのは息子ではなく、記憶です」

     芦原の杖が玖島の肩を打った。乾いた音が廊下へ響く。

     槙が戻ろうとすると、玖島は首を横に振った。

    「行って」
    「一緒に」

     玖島は芦原の腕を押さえたまま、扉の中へ足を踏み入れた。芦原も二人へ引かれるように境界を越える。三人が入った瞬間、扉が閉じ始めた。

     三十分ごとの連絡時刻は、すでに四十分を過ぎていた。二人の端末は、旧館へ入ってから圏外になっている。来るなという約束を破るには、それで十分だったのだろう。

     外から紗季の声がした。

    「槙!」

     廊下の向こうから走ってくる。

    「入らないで!」

     槙が叫ぶ。

     紗季は食卓へ手をつき、閉じる扉の隙間へ何かを投げた。

     槙が削った試験片だった。

    「帰る場所、忘れないで!」

     扉が閉じた。白い光が消える。

     槙の前には、青い空と、紙の葉をつけた森が広がっていた。四つの椅子が、一本の道を作るように並んでいる。最も遠い椅子に、一人の男が座っていた。

     大人の身体に、小さすぎる水色の器を両手で持っている。右の耳の後ろに、赤い痣があった。

    「遅かったね」

     男は言った。

    「まきちゃん」

    第三部 空いている場所

    第九章 遅かったね

    「遅かったね」

     男はもう一度言った。

     笑っていた。

     けれど、その目には笑っていない二十六年が残っていた。

     槙は動けなかった。

     記憶の中の湊は、丸い穴のある椅子に座り、左手で槙の服をつかむ三歳の子どもだった。目の前の男は槙より少し背が高く、頬には薄い髭の跡がある。水色の器を持つ指は長く、爪の形だけが父に似ていた。

    「湊?」
    「ほかの名前で呼ばれたことはないから、たぶん」
    「たぶんって」
    「自分が誰かを確かめる相手が、ずっといなかった」
    「どうして、大人になっているの」

     槙は尋ねた。

     湊は自分の腕を見た。

    「ここでは、覚えている人が考えた分だけ形が変わる」

     袖をまくると、腕に細い線が何本もあった。傷ではない。身長を測る柱の印のように、年ごとの境目が刻まれている。

    「お母さんが、もし生きていたら小学生だと思った年に、ここでも少し背が伸びた。お父さんが、廊下を走る足音を聞いた年にも。律が、ぼくの声を子どもの声ではなく大人の声で聞いた年は、一度に何年分も大きくなった」
    「痛かった?」
    「身体は痛くない。でも、自分の知らない年齢へ起きたまま移るのは変な感じだった」

     湊は顎へ手を当てた。

    「髭が生えたとき、最初は汚れだと思って何度も洗った」

     槙は笑いかけ、笑えなかった。弟が初めて髭を剃る年も、声変わりする年も、家族の誰も隣にいなかった。

    「服は?」
    「忘れられた服を借りた。子どもが着る前に小さくなったシャツ。持ち主が亡くなって、誰も形を思い出せなくなった上着。ここでは、誰のものでもなくなったものがたくさんある」
    「一人だったの」
    「人はいなかった」

     湊は紙の森を見た。

    「でも、何もなかったわけじゃない。宛名を書かれなかった手紙を読んだ。最後まで編まれなかった手袋の片方を探した。誰にも選ばれなかった犬の名前を、声に出して呼んだ」
    「返事は?」
    「ない。でも、呼ばないよりはよかった」

     槙の知らない二十六年が、目の前の男の中にあった。湊は器を隣の椅子へ置いた。

     四つの椅子は森の中を一列に並び、来た道を示している。最も遠い一脚だけ、背板の穴へ黄色い布が結ばれていた。槙が子どもの頃に着ていたスカートの切れ端だった。

     槙は一歩近づいた。

     湊が一歩下がった。小さな動きだった。それでも、拒まれたことははっきりわかった。

    「ごめん」

     ほかの言葉が見つからなかった。

     湊は眉を寄せた。

    「最初にそれを言うと思ってた」
    「何を言えばいいのかわからない」
    「ぼくもわからない」

     紙の葉が、風もないのに鳴った。玖島は槙の少し後ろに立っている。肩を押さえ、芦原の杖で打たれた場所を庇っていた。

     湊が彼を見た。

    「律」

     玖島の喉が動いた。

    「覚えているのか」
    「君の中から、ずっと外を見てた」
    「音のない部屋から?」
    「うん」
    「なぜ、もっとはっきり呼ばなかった」
    「呼んだよ」

     湊は椅子の背を撫でた。

    「古い建物で、誰もいないのに子どもの足音がしたでしょう。録音に、四回目の椅子の音を入れた。君が握っていた木片から、槙の削る音を何度も返した」
    「それは君が?」
    「ここには、新しいものがない。誰かが忘れたもの、使わなかったもの、言わなかった言葉を借りるしかない。君が聞き落とした音をつないで、少しずつ外へ出した」

     湊は槙へ目を戻した。

    「まきちゃんには、ずっと届かなかったけど」

     責める調子ではなかった。

     責められるより痛かった。

    「忘れたくて忘れたわけじゃない」
    「知ってる」
    「お母さんに頼まれて、あなたの椅子を動かした」
    「知ってる」
    「なら」

    「知ってることと、寂しくなかったことは別だよ」

     紙の葉が一斉に裏返った。

     白かった裏側に、細い線で日付が書かれている。

     一日目。

     二日目。

     三日目。

     途中から数字ではなく、正の字になり、やがて紙いっぱいの黒い線へ変わる。

    「最初は、すぐ椅子を戻しに来ると思ってた」

     湊は言った。

    「ここには夜がない。お腹も空かない。眠らなくても死なない。でも、待つ時間がないわけじゃない」

     槙は、三歳の子どもが青い空の下で一人、椅子の背板へ印をつける姿を想像した。

    「ごめん」
    「だから、それを最初に言うと思ってた」

     湊の声が少し硬くなった。

    「ぼくは、まきちゃんを嫌いになったことがある」

     槙は彼を見た。

    「お母さんも、お父さんも嫌いだった。律も嫌いだった」
    「僕も?」
    「君だけは覚えてたのに、助けに来なかったから」
    「何度も開けようとした」
    「知ってる」

     湊が声を荒らげた。

     森の椅子がすべて床を擦り、大きな音を立てた。

    「失敗したことも、怖くなったことも、千尋を消しかけたことも見てた。事情を知っていれば、怒ってはいけないの?」

     玖島は答えなかった。

    「まきちゃんが七歳だったことも知ってる。お母さんが追いつめられてたことも知ってる。お父さんが何もわからないまま椅子を作ったことも」

     湊の目に涙が溜まった。

    「事情があったら、待った時間はなくなる?」
    「ならない」

     槙は言った。

    「ぼくは、ずっと良い子じゃなかった」

     青い空の一部が黒くなった。紙の森の奥で、家具の影が動く。脚の折れた椅子。扉のない箪笥。誰かの名前を削り取った机。

    「まきちゃんが転べばいいと思った。お母さんが一生、胸が苦しいままでいればいいと思った。お父さんの作る椅子が全部壊れればいいと思った」

     湊の頬を涙が伝った。

    「律が一人になったとき、少し嬉しかった」

     玖島が目を伏せた。

    「それでも、誰もこっちへ来なかった」

     槙は一歩近づいた。

     湊は今度は下がらなかった。

    「怒っていい」

     槙は言った。

    「許さなくていい」
    「許さないまま、どうすればいいの」
    「わからない」
    「迎えに来たんじゃないの」

    「会いに来た」
    「帰すためじゃなく?」
    「帰りたいかどうかを、あなたに聞くため」

     湊は笑った。

     今度は、疲れた大人の笑いだった。

    「帰りたいよ」

     槙の胸が縮んだ。

    「一度でいいから、水色の器で桃を食べたい。お父さんが右の脚を直した椅子へ座りたい。お母さんに、ぼくの名前を一回で呼んでほしい」
    「なら、帰ろう」

    「誰の席を使って?」

     槙は答えなかった。

     湊が彼女の足元を見た。

     白い地面に、四つの椅子が現れている。三つの椅子には父、母、湊が座る。

     四つ目の椅子は空いている。

     槙がそこへ向かって歩き、座ると、椅子ごと地面の下へ沈んでいく。

    「ここでは、考えた配置が見える」

     湊は言った。

    「自分が代わりになればいいと思ってる」
    「まだ決めていない」
    「まきちゃんは昔から、決める前に椅子を動かす」
    「あなたを置いて帰れない」
    「ぼくのため?」

     湊はまっすぐ槙を見た。

    「それとも、今度こそ正しいことをした自分になりたいから?」

     槙は何も言えなかった。

    「ぼくは、まきちゃんの人生を食べてまで帰りたくない」
    「でも、このままここにいろと言うの?」
    「それも嫌だ」
    「では、どうするの」
    「わからない」

     湊は涙を拭った。

    「ぼくも、全部わかって待ってたわけじゃない」

     その言い方が、初めて弟らしく聞こえた。

    「二十六年、ここで何をしていたの」

     槙が尋ねると、湊は森の奥へ歩き始めた。二人がついていくと、木々の間に小さな広場があった。

     地面には、忘れられた物が整然と並べられている。取っ手のない鞄。片側だけのイヤリング。表紙から題名が消えた日記。子どもの字で《おばあちゃんへ》とだけ書かれ、渡されなかった手紙。

    「最初は、何でも椅子の近くへ集めた」

     湊は言った。

    「誰かの物があれば、一人じゃないと思えたから。でも、持ち主が思い出すと急に消える。昨日まであったものが、何の前触れもなくなくなる」
    「悲しかった?」
    「最初は。あとから、帰れたんだと思うことにした」

     広場の端には、小さな札が立っていた。

    《赤い手袋 たぶん女の子》

    《鍵 海の近くの家》

    《名前のない歌 冬》

     湊が自分で書いた記録だった。

    「忘れられたものに、勝手に名前をつけたの?」
    「仮の名前。持ち主が戻るまで、呼べるように」
    「それで、待てた?」
    「待つ以外のこともしていたと思えるようになった」

     湊は、表紙のない日記を拾った。

    「ぼくをかわいそうな子どもだけにしないで」

     槙はうなずいた。

    「しない」
    「たぶん、するよ。お母さんもお父さんも」
    「したら、止める」
    「ぼくがいないのに?」
    「ノートに書いておく」

     湊は笑った。

    「まきちゃんは、何でも記録にするね」
    「仕事だから」
    「それなら、ぼくが怒ったことも書いて」
    「書く」
    「みんなを嫌いだったことも」
    「書く」
    「桃が思ったより酸っぱかったら、それも」
    「まだ食べてないでしょう」
    「予想」

     湊の笑い方に、三歳の面影が一瞬だけ戻った。

              *

     芦原は森を見回していた。

     槙たちの会話には加わらず、紙の葉へ書かれた名前を一枚ずつ確かめている。

    「誠」

     老人が呼んだ。

     森の奥から、子どもの笑い声が返る。

    「いるんだろう」
    「いません」

     湊が言った。

     芦原が振り返る。

    「君に何がわかる」
    「二十六年、ここにいたからわかる。誠はここへ来ていない」
    「声がする」
    「あなたが持ち込んだ声だよ」

     芦原は杖で地面を打った。

     紙の木々のあいだから、五歳くらいの男の子が現れた。白いシャツ。短い髪。右手に赤い風船を持っている。

    「お父さん」

     老人の口が開いた。

    「誠」

     男の子は笑っている。

     笑顔の形が、同じ間隔で繰り返された。風船の紐も、一定の長さから動かない。

     玖島が耳を澄ませた。

    「声が、あなたの記憶の中と同じ場所で息を継いでいる」
    「黙れ」
    「新しい言葉を話していません。あなたが覚えている誠さんの声を、余白が並べ直しているだけです」
    「お父さん」

     男の子がもう一度言う。

     全く同じ抑揚だった。

     芦原は歩み寄り、膝をついた。

    「帰ろう」
    「お父さん」
    「もう待たせない」
    「お父さん」
    「何かほかに言いなさい」

     男の子は笑った。

    「お父さん」

     芦原の手が、子どもの肩をすり抜けた。白いシャツが紙片へ崩れる。紙の一枚一枚に、同じ文章が書かれていた。

    《誠は父親を慕っていた》

     老人は紙をかき集めた。

    「違う」

     声が震えている。

    「誠は、もっと話した。風船を欲しがった。病院が嫌いで、犬を飼いたがった」
    「それも覚えていることです」

     湊は静かに言った。

    「知らない誠を、ここでは作れない」
    「死んだあとも、息子は息子だ」
    「生きていたら、あなたの知らない人になっていた」

     芦原は湊を睨んだ。

    「三歳で消えた君に、大人になった子どもの何がわかる」
    「ぼくは、覚えられた分だけ大きくなった」

     湊は小さくなった黄色い布を示した。

    「お母さんが、今なら何歳だろうと思った年は背が伸びた。お父さんが廊下に足音を聞いた年も。律がぼくの名前を思い出した年も」
    「借り物の成長だ」
    「そうだよ」

     湊は認めた。

    「だから、ぼくは帰りたい。でも、帰ったぼくが本当に二十九歳なのか、三歳なのか、自分でもわからない」

     芦原の表情が、わずかに変わった。

    「誠を戻せば、同じだ」
    「違う。ぼくは生きたまま外された。誠は死んだ。あなたが戻そうとしているのは、誠がいた席へ座らせる別のものだ」

     森の奥で、巨大な椅子が軋んだ。背板に無数の名前が刻まれている。芦原が実験で余白へ押し出した記録。消えた写真。忘れられた職員。代わりに戻された物。

     老人はそれを見なかった。

    「四つの椅子をそろえれば戻せる」

     杖を掲げる。

     槙たちが通ってきた道の椅子が、一斉に芦原の方へ向いた。

    「一席なら、私が渡す」
    「あなたが余白へ残っても、誠は来ません」

     玖島が言う。

    「なら、私が誠になる」
    「それは、息子を戻すことではない」
    「黙れ!」

     芦原が杖を地面へ突き立てた。

     青い空に亀裂が走った。

     紙の森の向こうから、黒い水が流れ込んでくる。水には、誰にも選ばれなかった部屋が浮かんでいた。完成しなかった家。使われなかった病室。名前をつけられなかった子どもの服。

     湊の顔色が変わる。

    「深い余白を開いた」
    「閉じられる?」

     槙が尋ねる。

    「律の中にある記憶を、ぼくへ戻せば」

     玖島が湊を見る。

    「戻すと、どうなる」
    「現実とここをつないでいた蝶番が外れる。扉は閉じる」
    「君は?」
    「わからない」
    「消えるのか」
    「全部の記憶がぼくへ戻れば、少なくとも、誰かの中に預けられたままではなくなる」

     黒い水が椅子の脚へ届いた。触れた木が、名前のない紙へ変わっていく。

     玖島は動かなかった。

    「手放したくない?」

     湊が尋ねた。

    「そうだ」
    「正直だね」
    「君を守ってきたと思っていた」
    「少しは守ってくれた」
    「少し?」
    「少し」

     湊は笑った。

    「でも、ぼくは君の中の静かな部屋じゃない」

     玖島は目を閉じた。

     胸元へ手を当てる。

    「どうすれば返せる」
    「名前を呼んで。君が覚えているぼくを、最初から話して」

     玖島は呼吸を整えた。

    「佐伯湊」

     声が、森の空気へ沈んだ。

    「七月十三日生まれ。右の耳の後ろに赤い痣がある。桃を大きく切ると飲み込めない。眠るときは左手で、誰かの服をつかむ」

     水色の器が光った。

    「三歳のとき、僕の頭の中へ音のない部屋を作った。僕が眠れるように。代わりに、自分の名前と、姉を待つ時間を置いていった」

     玖島の声から、二つの響きが聞こえ始めた。

     大人の声と、子どもの声。

    「椅子の背板の穴へ指を入れる癖があった。怖いと笑った。槙が怒られると、自分も泣いた。芦原の白衣を見ると、僕の後ろへ隠れた」

     湊の身体に、幼い影が重なる。大人の手の中へ、三歳の小さな手が戻る。

    「僕は、君がいるから自分が空っぽではないと思えた」

     玖島の声が掠れた。

    「それを、君のためだと言い換えていた」

     湊はうなずいた。

    「返す」

     玖島は言った。

    「君の時間を、君へ返す」

     音のない衝撃が森を通った。槙の耳から、すべての音が消えた。湊の身体へ、無数の小さな光が流れ込む。父が出した余分な椅子。母が刻んだ桃。槙が忘れたまま見た夢。玖島が聞き続けた名前。

     湊は両腕で自分を抱えた。泣いているのか、笑っているのかわからなかった。

     玖島が膝をついた。

    「何も聞こえない」

     唇だけが動いた。声は戻っていた。ただ、彼には聞こえていないらしい。

     黒い水の流れが止まり、青い空の亀裂が閉じ始めた。

     芦原は紙片を抱えたまま立っていた。

    「誠」

     もう、返事はない。

     老人の前に、一脚の子ども椅子が現れた。座面には赤い風船の絵がある。芦原は長いあいだ、それを見ていた。

    「ここへ座れば、あの子のところへ行けるのか」

     湊が答えた。

    「わからない。でも、誠には会えないと思う」
    「なぜ」
    「あなたが座ったら、その椅子はあなたの席になるから」

     芦原は杖を落とした。子ども椅子へ手を伸ばし、触れずに止める。

    「誠は、風船が嫌いだった」

     赤い絵を見たまま言った。

    「割れる前から耳を塞いで、机の下へ入った。五歳なのに、泣いていないと言い張った」

     指先が、座面の手前で震えた。

    「それなのに私は、これを誠の椅子だと思った」

     黒い水の中から、無数の声が上がっていた。芦原が余白へ押し出した人々の、呼ばれなかった名前だった。

     老人は耳を塞がなかった。

     声が途切れるまで、そこに立っていた。


    第十章 四十七時間

     扉が閉じ始めていた。

     森の道を作っていた椅子が、一脚ずつ白い紙へ戻る。最も遠い場所から、現実の光が細く差し込んでいる。

    「帰ろう」

     槙は湊へ手を伸ばした。

     湊はその手を見た。

    「まきちゃん」
    「何」
    「ぼくが現実へ戻れば、誰かの席が必要になる」
    「私の席は渡さない」

     言葉にして初めて、自分で信じられた。

    「律の席も、紗季の席も、お父さんとお母さんの席も使わない」
    「じゃあ、ぼくは帰れない」
    「別の方法を探す」
    「二十六年、みんな探した」
    「これからも」

    「ぼくは、また待つの?」

     槙は言葉を失った。

    「わからないものを、希望という名前で置いていかないで」
    「では、どうしたい?」

     湊は森を見た。

     紙の葉に書かれた日々。椅子へ刻んだ印。借り物の身体で過ごした二十六年。

    「名前を戻したい」
    「身体ではなく?」
    「身体も戻りたい。でも、誰かを消してまでじゃない」
    「名前だけで、足りるの」
    「足りないよ」

     湊は笑った。

    「足りないけど、誰かの全部を取るよりいい」

    「四〇九では、名前だけが四十七時間残った」
    「芦原は失敗と書いた」

    「でも、名前は戻った」

     四つ目の椅子が、二人の間に現れた。座面には、湊の名と槙の名が重なっている。

    「この椅子を、現実へ戻して」
    「誰も座らなければ、空席のままです」
    「それでいい」
    「四十七時間で消えるかもしれない」
    「その先は、誰も確かめていない」

     湊は背板へ手を置いた。

    「身体は?」
    「ここに残るか、椅子へ戻るか、消えるか。わからない」
    「そんなの、選べない」
    「ぼくの選択だよ」

     二十六年前、最後に湊の椅子を動かしたのは槙だった。

     今度は、湊が背板を握るのを待った。

    「怖くない?」
    「怖い」
    「怒っている?」
    「怒ってる」
    「私を許せる?」

     湊はしばらく考えた。

    「全部は無理」
    「うん」
    「でも、会いに来たことは、少しは許した」

     槙は泣いた。

     声を出さないつもりだったが、子どものような息が漏れた。湊が初めて、自分から近づいた。大人の腕で槙を抱きしめる。

     左手が、彼女の服の裾をつかんだ。

    「お姉ちゃん」

     二十六年ぶりに呼ばれた言葉だった。槙は弟の背中へ腕を回した。

     身体は温かい。

     確かにそこにいる。

    「桃、持ってきた」
    「知ってる」

     槙は水色の器から一切れ取り、湊の口へ運んだ。大きく切りすぎていないか確かめる。湊は食べ、ゆっくり飲み込んだ。

    「甘い?」
    「思ってたより酸っぱい」
    「時期が早かったから」
    「でも、おいしい」

     もう一切れ食べた。

     器の底に、桃の汁が残る。

     湊はそれを四つ目の椅子の座面へ置いた。

    「持って帰って」
    「お母さんへ?」
    「みんなへ」

     玖島が立ち上がった。

     まだ耳が聞こえないらしく、槙たちの口元を見ている。槙は彼の手を取り、湊の手へ重ねた。

     玖島は驚いた顔をした。

     湊が口を大きく動かす。

    「ありがとう」

     玖島は読み取った。

    「僕の方こそ」

     自分の声が聞こえないため、必要以上に大きな声になった。

     湊が笑う。

    「うるさい」

     玖島も笑った。

              *

     芦原は、子ども椅子の前に立ち尽くしていた。

     槙が近づく。

    「帰ります」
    「私は」
    「あなたも」
    「外へ戻って、何をする」
    「知りません」

     槙は老人が落とした杖を拾った。

    「少なくとも、ここに残ることを罰にしないでください。あなたが罰を受けた気になるだけで、消えた人は戻らない」
    「私に生きろと?」
    「説明してください。何をしたか。誰の名前を消したか。残っている記録を全部出してください」

     芦原は槙を見た。

    「それで償えると思うか」
    「思いません」
    「では」
    「償えないことと、何もしなくていいことは同じではありません」

     老人は長く目を閉じた。赤い風船の椅子が、紙片へ崩れ始める。

     芦原は一枚だけ拾った。そこには、子どもの字で書かれていた。

    《おとうさんは、ぼくがいなくてもごはんをたべて》

    「これは誠の言葉か」

     玖島は首を横に振り、自分の耳を指した。

     湊が答えた。

    「わからない。あなたが、誠に言ってほしかった言葉かもしれない」

     芦原は紙を折り畳んだ。

    「それでも、持っていていいか」
    「誠の遺言にしないなら」

     老人はうなずいた。

     三人は現実へ続く道へ向かった。槙が四つ目の椅子を引き、湊が反対側から押した。

     扉の光が近づくほど、湊の身体は薄くなっていった。

    「一緒に来られないの?」
    「椅子までは」
    「そこから先は?」
    「名前の行くところへ」

    「また会える?」
    「わからないものを、希望という名前で置いていかないでって言ったでしょう」
    「言った」

     湊は少し考えた。

    「夢で会うかもしれない。椅子が軋むかもしれない。桃が一つ多く切られるかもしれない。でも、それがぼくだと決めつけないで」
    「どうして」
    「何でもぼくにすると、世界が狭くなる」

     扉の前で、湊は手を離した。四つ目の椅子だけが現実側へ滑っていく。

    「まきちゃん」
    「何」
    「今度は、数を間違えないで」

     槙はうなずいた。

    「一、二、三、四」

     初めて、声に出して数えた。四つ目の椅子の背板から、重なっていた槙の名前が消える。

    《佐伯湊》だけが残った。

     扉が閉じる。

     最後に見えたのは、三歳の弟ではなく、二十九歳の男の顔だった。

     泣きながら、笑っていた。

              *

     槙は四一二号室の床へ倒れ込んだ。紗季が駆け寄る。

    「槙!」
    「いる」
    「何が?」
    「私。ここにいる」

     紗季は怒った顔で泣いた。

    「当たり前でしょう」

     玖島は耳を押さえていた。

    「聞こえますか」

     槙は口を大きく動かした。玖島は首を横に振った。

     紗季がスマートフォンに文字を打ち、画面を見せた。

    《救急車を呼ぶ。反対しても呼ぶ。》

     玖島はうなずいた。

     芦原は扉の前へ座り込んでいた。白い壁が戻り、数字の412が薄く消えていく。廊下の食卓には、四つの椅子があった。

     四つ目の椅子の座面に、水色の器が置かれていた。

     桃はなくなっていた。


    第十一章 水色の器

     青楓旧館の解体は延期された。

     芦原は自ら警察へ出頭し、財団の研究資料と名義会社の記録を提出した。古い事件であり、記録の欠落も多く、何が刑事責任として問われるかはすぐには決まらなかった。

     それでも、施設へ入所していた子どもの家族が次々と名乗り出た。入院していたはずの期間だけ、家族の記憶が不自然に薄い。写真から一人だけ消えている。毎年、理由もなく同じ日に花を買う。誰も使わない寝具を捨てられない。

     芦原の記録には、余白へ押し出された可能性のある名前が二十三人分あった。全員が戻ったわけではない。

     名前だけ見つかった人。家族の夢に出てきた人。戸籍には残っているのに、誰も顔を思い出せない人。記録と記憶が一致しないままの人。

     テレビや新聞は、違法な児童研究と記録改竄の事件として報じた。余白については、証言者の集団的な記憶障害、実験による心理的影響という言葉に置き換えられた。それでよかったのかもしれない。

     誰もが同じ説明を信じる必要はない。調査委員会の聞き取りで、槙は高瀬という女性に会った。

     六十代半ば。青楓へ入所した妹がいたはずだと話した。家族写真には姉である高瀬一人しか写っていない。戸籍にも妹はいない。それでも母親は亡くなるまで、二人分の髪飾りを買い続けたという。

    「椅子があれば、妹は戻るんでしょうか」

     高瀬は、槙が修復した四つの椅子の写真を両手で持っていた。

     期待に応えたいと思った。

     湊のように余白で待っているかもしれない。名前を呼び、席を空ければ、何かが戻るかもしれない。けれど、期待だけで人を扉へ近づけることが、芦原のしたこととどれほど違うのか、槙にはわからなかった。

    「椅子があることと、戻れることは同じではありません」

     高瀬の顔が曇った。

    「では、妹はいなかったのかもしれない?」
    「それも、私には言えません」
    「何も言えないんですね」
    「はい」

     槙は逃げずに答えた。

    「ただ、お母さまが髪飾りを二つ買っていたことは、なかったことにしなくていいと思います」

     高瀬は写真を見た。

    「妹の名前は、真由だった気がするんです」
    「気がする、でも書いていいと思います」
    「間違っていたら?」
    「間違っていたと、あとで書き足せます」

     高瀬は長いあいだ黙り、委員会から渡された用紙へ書いた。

    《高瀬真由。いたかもしれない妹。母は髪飾りを二つ買った。》

     確定した事実ではない。

     だからといって、捨てるべき記憶でもない。余白を閉じたあとも、世界には答えの出ない空席が残った。

              *

     玖島の聴力は、一週間で戻った。ただし、普通の音だけだった。病室で最初に聞こえたのは、点滴の落ちる音と、廊下で看護師が台車を押す音だった。

    「何か残っていますか」

     槙が尋ねる。

    「何がですか」
    「壁の向こうの声。物に残った音」

     玖島は窓際の椅子へ触れた。

    「誰かが座っていた形はわかる。でも、音はしません」
    「寂しい?」
    「静かです」
    「静かな場所がほしかったんでしょう」
    「欲しいと思っていた静けさと、与えられた静けさは違いました」

     玖島は病室の外を見た。

    「今は、自分で誰かに尋ねないと何もわからない」
    「普通はそうです」
    「不便ですね」
    「前にも言いました」
    「聞こえなかったかもしれない」

     槙は少し笑った。

     彼がその表情を見ていることに、あとから気づいた。

    「今、何を考えているか聞いてもいいですか」
    「嫌です」
    「そう言われることも含めて、尋ねるんですね」
    「そうです」

     玖島はしばらく黙った。

    「では、また別の日に聞きます」

              *

     父と母の記憶は、戻りきらなかった。父は湊の椅子を作ったときの木取きどりを思い出したが、完成した椅子へ湊を座らせた日のことは思い出せない。母は息子の寝息を覚えていると言った翌日には、声の高ささえわからなくなった。

     二人は、思い出したことを一冊のノートに書くことにした。

    《湊は桃を小さく切る》
    《左手で服をつかむ》
    《七月十三日》
    《右の耳の後ろに赤い痣》

     事実だけではない。

    《私は湊を守るつもりで、選択を奪った》
    《忘れたことを理由に、悲しくなかったことにしない》
    《槙へ、湊の代わりをさせない》

     母は書きながら何度も泣いた。父は、四つ目の小さな椅子を修理した。右の前脚の擦れは削らず、緩んだ接合だけを締め直した。背板の穴の内側に残る指の汚れも、そのままにした。

    「直さないの?」

     槙が尋ねると、父は言った。

    「壊れてないところまで、新しくする必要はない」

     それは、槙が仕事で何度も口にしてきた言葉だった。父から受け継いだのかもしれない。あるいは、二人が別々に同じところへたどり着いただけかもしれない。

     食卓には、四つの椅子が並んだ。湊の椅子には、誰も座らない。荷物も置かない。来客があって椅子が足りなくなっても、物置から別の椅子を出した。

     母は桃を四つ買った。三つをガラスの器へ入れ、四つ目を細かく切って水色の器へ盛る。

    「食べないの?」と父が尋ねる。

    「最後に、みんなで少しずつ」

     母は三枚の小皿へ分けた。槙は水色の器を持ち上げる。底に、桃の汁が光っている。

    「酸っぱい」と父が言う。

    「時期が早かったから」と槙は答えた。

     どこかで、椅子が小さく軋んだ。三人とも音のした方を見た。

     父が、残った桃をもう一切れ取った。

              *

     工房へ戻った槙は、青楓から搬出された四つの椅子の修復を再開した。依頼主は、資料を保全するため設立された調査委員会へ変わった。

     三つ目の椅子の折れた貫には、あの日削った試験片を使った。芦原の杖で傷ついた四つ目の椅子の背板は、傷を埋めず、割れが進まないよう裏から薄い木を当てた。座枠の内側にある名前も消さなかった。

    《佐伯湊》

     四つの椅子は展示ケースへ入れられる予定だった。槙は一つだけ条件を出した。四つ目の椅子へ座れないよう囲うのではなく、四つすべてを同じ高さで展示すること。

     説明文には、こう書いた。

    《この一脚は、欠けた椅子ではありません。ここに座っていた人が、数えられなくなったため、空いていた椅子です。》

     紗季は文章を読み、首を傾げた。

    「少し硬い」
    「調査資料だから」
    「槙の文章、家具より融通が利かないね」
    「直す?」
    「今日はいい。明日、もう一回読む」

     紗季は説明文を机へ戻した。

    「今直すと、たぶん余計に硬くなる」
    「否定できない」

     二人は笑った。


    終章 椅子を直す

     冬の終わり、玖島が工房へ椅子を一脚持ってきた。古い食堂椅子だった。背板に花の透かし彫りがあり、左前脚がわずかに短い。座るたびに身体が揺れ、長く使うと腰を痛めそうだった。

    「どこで見つけたんですか」
    「千尋の家です」

     槙は手を止めた。

    「会った?」
    「はい」
    「どうでした」
    「最初に、なぜ今さら来たのかと言われました」
    「当然ですね」
    「次に、勝手に自分を許さないで、と」
    「それも当然です」

    「それから、この椅子を直してほしいと頼まれました」

     千尋は結婚し、子どもが一人いた。椅子は子どもが宿題をするときに使っているが、脚が揺れる。玖島が家具修復師を知っていると言うと、持っていくよう渡された。

    「関係を戻したわけではありません」
    「聞いていません」
    「説明しないと、何を考えているかわからないので」
    「少しは慣れましたか」
    「聞くことには。答えが来ないことには、まだ」

     槙は椅子を作業台へ載せた。左前脚が短いのではなく、右後ろの接合が緩み、対角線へ歪んでいる。脚を足せば一時的には水平になるが、歪みは残る。

    「分解して組み直します。二週間くらい」
    「新しい椅子を買った方が安い?」
    「値段だけなら」
    「直してください」
    「持ち主に確認しなくていいんですか」
    「確認しました」
    「成長していますね」

     玖島は、工房の壁際を見た。青楓の四つの椅子はすでに調査委員会へ引き渡されている。そこには代わりに、修復待ちの椅子が三つ並んでいた。少し離れた場所に、もう一脚ある。

     父が作った湊の椅子だった。展示の準備が終わるまで、槙が工房で預かっている。

    「座ってもいいですか」

     玖島が尋ねた。

    「どれに」
    「あれ以外なら」

     湊の椅子を指した。

    「聞かなくても、わかるんですね」
    「説明文を読みました」

     槙は作業机の椅子を一脚出した。

     自分は丸椅子へ座る。

     電気ケトルで湯を沸かし、二人分の茶を淹れた。玖島は湯気へ一度顔を寄せ、冷める前に口をつけた。

    「音響調査の仕事は?」
    「続けています。普通の機械で、普通の音を測っています」
    「つまらない?」
    「以前は、建物が聞かせるものばかり聞いていました。今は、何を残したいかを人に尋ねるようになりました」
    「答えてくれますか」
    「人によります」
    「不便ですね」
    「はい」

     玖島は窓の外を見た。

     細かな雨が降り始めていた。

    「でも、聞こえないものがある方が、世界は広い」

     槙は返事をしなかった。

     作業台の椅子を裏返し、緩んだ接合を確かめる。

     玖島が尋ねた。

    「今、何を考えていますか」
    「この椅子を、どこまで分解するか」
    「それだけ?」
    「それ以上は、まだ言いません」
    「では、待ちます」

     工房には、三つの修復待ちの椅子と、誰も座らない小さな椅子と、二人が座っている椅子があった。

     数えれば、いくつになるのか。

     槙は数えなかった。

     壁際の小さな椅子の背板に、冬の光が細く残っていた。


    (了)


     
     
    スピ。信じてなかった。説明できないことが起きはじめた。気づいたら宇宙側にいた。その記録。

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