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誰も知らない、でも面白い

    (あらすじ)
    かつて「お笑いの神」と呼ばれながら、不祥事によって芸能界から完全に姿を消した芸人・秋山 巌 60歳。すべてを失ったはずの彼は、ある日、18歳の自分として再びこの世界に立っていた。

    誰も知らない新人芸人として、ズボラで図々しい相方・ジンボとお笑いコンビ「バカボンボン」を結成。60年分の人生と笑いを抱えたまま、もう一度、ゼロから舞台へ立つ。

    笑いを追い続けるほど、秋山は自分が失ったもの、この世界に戻ってきた意味、そして笑いの奥にある何かと向き合うことになる。

    これは、笑いに人生を奪われた男が、もう一度、笑うまでの物語。


    (登場人物)
    秋山 巌(アキ)
    18歳。お笑いコンビ「バカボンボン」のボケ担当。ある日、60年分の人生と笑いの記憶を抱えたまま、もう一度人生を歩み始める。誰にも知られていない新人芸人として、再び笑いの世界へ飛び込む。

    神保 蓮(ジンボ)
    18歳。お笑いコンビ「バカボンボン」のツッコミ担当。ズボラで図々しく、感覚で笑いを生み出す天才肌。明るく自由奔放な性格で、アキの良き相方となる。

    秋山 巌
    60歳。かつて「お笑いの神」と呼ばれた伝説の芸人。不祥事によって芸能界から姿を消している。

    佐伯 恒一
    芸能事務所「OFFICE BATON」の代表。秋山巌の全盛期を知る元マネージャー。バカボンボンの漫才に、かつての秋山巌の面影を感じ、その動向を静かに見守る。

    宮下 春奈
    26歳。都内の小さな広告代理店で働く会社員。ある出来事をきっかけに「バカボンボン」を知り、その存在が止まっていた時間を少しずつ動かしていく。

    高坂 悠人
    29歳。登録者約40万人の動画チャンネル「MUGEN CLIP」を運営する動画クリエイター。芸人の「面白さ」ではなく、「世の中で広がる瞬間」を見抜く鋭い分析力を持ち、バカボンボンに興味を抱く。


    プロローグ

    拝啓。

    あなたは今、
    どこで笑っていますか。

    舞台の上でしょうか。

    それとも、
    もう誰にも見えない場所でしょうか。

    お金は手に入りました。

    名前も残りました。

    世間が勝手に神と呼ぶようなものまで、
    気づけば背負わされていました。

    古い笑いを壊し、
    新しい笑いを作った。

    少なくとも、
    そう言われ続けてきました。

    今の若い芸人たちは、直接ではなくても、
    どこかでその影響を受けています。

    作ってきたものは、
    空気のように下の世代へ流れていきました。

    その結果、気づけば、世界の上から下まで、
    似た匂いが漂うようになっていました。

    本来なら、
    誇らしいことなのだと思います。

    ですが時々、
    分からなくなるのです。

    神様のように上へ置かれた笑いに、
    本当に“次”など生まれるのでしょうか。

    もし、
    まだ新しい笑いがあるのなら。

    それを見てみたいのです。

    いえ。本当は、
    まだそちら側へ行ってみたいのかもしれません。

    「誰だ、あいつ?」

    そう思われながら、
    お客さんを笑わせたい。

    何も知られていない若手が、
    突然舞台へ出てきて笑わせる。

    めちゃくちゃ面白い。

    世界が、
    少しだけ更新される。

    あの瞬間を、
    もう一度見てみたいのです。

    過去へ戻りたいわけではありません。

    栄光をやり直したいわけでもありません。

    ただ、今の時代で、
    もう一度戦ってみたいのです。

    自分が作ってしまった笑いの世界。

    そのさらに先へ進んだ、この時代と。

    若い身体で。
    若い脳で。

    まだ何者でもない顔をして。

    もう一度、
    最初の舞台へ立ってみたい。

    ……いえ。違いますね。

    本当は、
    ずっと怖かったのです。

    次の笑いが、
    自分ではなくなる時が怖いのです。

    古くなることが。
    忘れられることが。

    そして、誰にも届かなくなることが怖いのです。

    だから、
    まだ終われないのです。

    人は消えても、
    声は残るそうです。

    もし本当にそうなら、

    いつか。
    この声も、誰かの夜へ辿り着くのでしょうか。

    敬具。


    【1話】 地下に降りた神様

    テレビの画面から、彼の姿が消えた。 

    ネットニュースは連日、
    彼の過去の発言と態度を掘り返し、醜聞を暴き立てた。

    「イワちゃん」と呼ばれた男、秋山 巌(あきやま いわお)

    彼の創ったお笑いの文法そのものが、まるで存在していなかったかのように、テレビ業界から姿を消した。

    誰もが彼を忘れたがっていた。 スポンサーは番組を打ち切り、仲間たちは沈黙した。

    ただ一人、彼自身だけは、忘れられなかった。

    人が笑っている。
    いや、笑われているのか、笑い声と拍手の音が遠ざかっていった。

    それは耳鳴りのように反響し、次第に輪郭を失い、白い靄の中に溶けて消えた。僕はその中に立ち尽くしていた。

    客席のざわめきも、照明のまばゆさも、マイクの重みも、
    すべてが霞んでいく。

    最後に聞こえたのは、アナウンサーの焦った声だった。

    「秋山さん、大丈夫ですか?」

    それきり世界は音を止めた。

    ——

    目を開けた瞬間、僕は暗がりの中にいた。見慣れない天井が視界に入り、そこに滲んだ茶色いシミを見て、思わず息を飲んだ。白いクロスの天井。角にうっすら浮いたカビのような染み。カーテンは色褪せ、窓のサッシには結露の跡がまだ乾いていなかった。

    起き上がった瞬間、妙に身体が軽い。
    関節の鈍い痛みも、腰の違和感もない。
    それ以上に違和感がすべての感覚を上塗りしていった。

    ここは、どこだ?そんなはずはない。つい昨日まで、僕は都内の高層マンションに住んでいた。玄関を開ければ遠くにレインボーブリッジが見え、部屋にはトロフィーや写真立てが並んでいた。壁には防音パネルが施され、毎朝、全自動コーヒーメーカーが鳴る音で目を覚ましていた。

    だというのに、この狭い1Kの部屋は何だ?白くて薄っぺらい壁。安いフローリング。段ボールの箱がそのまま収納代わりに使われている。

    テレビもPCもない。スマートスピーカーも、空気清浄機もない。

    ただの、何もない部屋。

    床に転がっていた財布を手に取る。二つ折り、合皮の安物だ。中には、くしゃくしゃの千円札が二枚と小銭が少し。PayPayの残高は127円。クレカはおろか、キャッシュカードも入っていない。免許証を見つけて、息を呑んだ。そこにはこう書かれていた。

    秋山 巌、僕の名だ。だけど、若すぎる顔。
    生年月日は、、じゅ、18歳?

    冷蔵庫を開ける。 中には半額シールの貼られたカップ焼きそばと、業務スーパーのウインナー、飲みかけのコーラ。食材の少なさに、現実の重みが急に襲ってくる。服も少ない。靴も一足。冷暖房の効きも悪い。生活というより、なんとか生きているといった印象の空間。

    僕は、かつてすべてを持っていた。お笑い界の頂点。 年間何億も稼ぎ、毎週テレビに出て、CM、……後輩やスタッフに囲まれ、誰もが一歩引いて僕に接していた。それが今や、たった数千円の現金と、まともに炊事すらできない台所。名声も資産も人脈もすべて、ゼロに戻っていた。頭がついてこなかった。


    これは、夢だろうか?罰だろうか?それとも、、、チャンスなのか?世界はごく普通に続いていた。けれど、その中心にいる自分だけが、異質だった。

    スマホを起動すると、SNSは空っぽ。過去の人生の痕跡は、どこにもなかった。混乱はあった。疑いも、恐れもあった。なぜこんなことが起きたのか、なぜ今この肉体に戻ってきたのか。答えはどこにもなかった。

    ただ、一つだけ、確かなことがある。これからまた、すべてを手に入れなければならない。ゼロから。何も持たない、18歳のただの俺として。混乱はあった。疑いも、恐れもあった。だが、それよりも先に胸の奥を突き動かしたのは、あの頃と同じ、いや、それ以上に鮮烈な感情だった。

    もう一度、あの舞台に立ちたい。

    かつて自分が審査員を務めていたお笑い賞レース。その存在を思い出す。 

    若手芸人たちの登竜門。まだ何者でもなかった自分が命を削って目指した舞台。今度は、無名の自分として挑む番だ。

    その夜、僕は地下ライブに向かった。

    誰も知らない。でも面白い。今回そこに立つのはお笑いに魂を売った男、最も未知で、最も面白い18歳のレジェンドである。


    【2話】 無名の頃に覚えたあの興奮

    ワイドショーのスタジオは沈黙に包まれていた。誰もが、薄く笑みを貼り付けたまま言葉を選んでいた。「天才」と言われた男が、崩れた。

    世間の批判を浴びるような「不祥事」、その言葉の重みは、過去に積み上げた功績すら無力に変える。

    テレビはすべて降板、CMは消え、番組は打ち切り。かつて賞賛を送った共演者たちも、沈黙を選んだ。SNSでは「笑いの神が堕ちた」と言われた。 

    それでも、すべてが終わったとは思っていなかった。

    ——

    早速、僕はノートを開いてネタを書いた。焦りにも似た衝動だった。頭の中には、まだ誰も知らない構成、未発明の笑いがごろごろと転がっている。それらは、60歳の僕が積み上げた財産だ。だが今、それを知る者は誰もいない。

    名前も、この身体にはまだ何の重みもない。
    再び始めるなら、まずは地下からだ。

    近くの小さなライブスペースに、オープンマイクの告知が貼られていた。エントリーは当日先着順。ネタ時間は3分。

    その夜、僕は地下ライブに出た。

    ライブハウスの名は、忘れてしまいそうなほど曖昧だった。コンクリ打ちっぱなしの壁、湿った空気。ステージと客席の境界線も曖昧で、パイプ椅子が10脚だけ並んでいた。

    観客は知り合いばかり。チケットは500円。

    芸人たちはみな素人に毛が生えたような存在で、照れ隠しと内輪ネタで5分を消化していた。

    僕はピンで出た。相方はいない。
    書いたのは、短い設定コントだった。

    舞台に立つ。

    足音が響く。マイクの前に立ったとき、僕は思い出した。
    笑いが返ってくるあの瞬間の、震えるような快感を。

    「どうも、はじめまして。今日が人生初めての舞台です」

    観客がざわめくことはなく一瞬の空白の後、小さく笑いが起きた。
    その笑いは、僕にとって何よりの証拠だった。

    誰も知らない。知らないけれど、笑ってくれている。

    この感覚は、なんて懐かしく、なんて新しいんだろう。

    全身が反応していた。言葉の間、視線の配り方、声の抑揚。

    どれもが自然だった。僕の中にある“芸”が、若い体を通して甦っていく。

    思い出した。僕は、こうして始めたのだ。

    無名だったころ、自分の芸だけで、世界を笑わせたのだ。
    その夜、ライブ会場で拍手が起きた。

    小さな、小さな拍手だった。それはこのライブでは本来、起きないはずの拍手だった。

    笑いが、起きた。それも、爆笑ではない。感動とも違う。
    静かに、確かに、観客が「掴まれていく」あの音だった。
    一つ、また一つ、言葉を重ねるたびに、空気が支配されていく。

    誰も知らない。

    この青年が、あの「イワちゃん」だとは誰も思わない。
    誰も知らない、知らないけど――笑っている。
    そんな当たり前のことが、たまらなく新鮮だった。

    舞台に立つたびに、名前で笑われるようになっていた頃。芸人としての肩書きが、言葉の重みより先に届いてしまっていたあの頃。もう、純粋な面白さだけで笑いを取る機会なんて、なかったのかもしれない。

    今、ここには何もない。名前も、過去も、賞レースの肩書きもない。ただ、ネタだけがある。そして笑いが返ってくる。

    忘れていた。この手応え。この、生きているような感覚。
    ネタがウケた時の胸の奥の火花。

    まだ誰でもなかった頃に、最初に覚えたあの興奮。

    あのを感覚を思い出した瞬間、さらに興奮した。

    笑いが返ってくるたびに、心臓が速くなった。
    口角が上がるのを抑えきれなかった。体の奥から叫んでいた。

    「お前はまだ、生きてるぞ」

    秋山の身体は喜んでいた。


    【3話】 相方

    袖に戻ると、一人の男が立っていた。

    黒いTシャツにジーンズ。髪は寝ぐせのまま。 缶コーヒーを片手に、こちらをじっと見ている。 その目の奥に熱を感じた。

    「……お前、何歳?」

    唐突な問いだった。 「18」と返すと、男は一口、コーヒーを飲み、鼻で笑った。

    「おかしいな。立ち振る舞いとか目線とか、笑い取ってるのに落ち着いてんだよ。18って、あんな感じか?」

    「まあ、苦労してるからね」

    僕がそう返すと、彼はニヤリと笑った。

    「俺、ジンボ。神保 蓮(じんぼ れん)。歳は21」
    「バカでズボラで図々しいけど、やるときはやるタイプ」
    「実は、相方探しててさ。名前は?」

    「秋山 巌。アキって呼ばれてたよ」

    「アキか。いいじゃん。でさ、コンビ名は前から使いたかったのがあるんだ」

    「いきなりコンビ名?なに?」

    「バカボンボン。ちょっとバカで、ちょっと貴族っぽくてさ。ウケるだろ?」

    思わず笑った。

    ジンボの声質、言い方、言い放った時の表情、目、口の動き、そして、強引な態度にも関わらず優しさを感じる、その一連の人間性に久しぶりに、心の底から笑った。

    思い出していた。

    一緒にステージを駆け抜けたアイツのことを。誰よりも近くにいて、最後まで僕を人として見てくれた、あの男のことを。

    忘れていたわけじゃない。ただ、ずっと胸の奥にしまっていた。
    ジンボの言葉に、表情に、あの懐かしい温度を重ねていた。

    この薄暗い地下の照明の下で、僕は確かに何かを取り戻し始めていた。

    ジンボは缶コーヒーを飲み干すと、空き缶を軽く指で弾いた。

    「明日さ、時間ある?ネタ合わせしてみない?」

    と平然と言ってのける。もうコンビを組んだことになっていた。

    「明日って……早いな」
    「だって、やれるときにやらないとさ。お互い暇そうだし」

    ズボラで図々しい。けれど、やるときはやる。言葉通りの男なのだろう。僕は少しだけ考えてから、うなずいた。

    「わかった。じゃあ……どこで?」

    「うち、汚いけどいい?風呂とトイレくっついてるタイプの1Kでさ」
    「問題ないよ。俺のと大して変わらないと思う」

    ジンボはくしゃっと笑った。笑うと意外に年相応の顔になる。その無邪気さと図々しさの混ざった表情が、どこか懐かしかった。

    「じゃ、LINE交換しよ。あ、スマホ持ってる?充電、生きてる?」

    「ギリギリ。さっき電源入れたら5%だった」

    二人でスマホを取り出し、QRコードを読み合う。僕のスマホの中に、新しい名前が一つ加わった。

    ジンボ

    この新しい人生で最初のつながりだった。


    【4話】 60年分の笑い

    翌日、アキはジンボの家を訪ねた。

    アパートの外階段を上がった先にある、鉄の扉。
    ピンポンを押すと中から「開いてるよー」と声がする。
    部屋は予想通りだった。1Kのフローリング、備え付けの古いエアコン。

    床には食べかけの菓子袋とコンビニのレシート、カップ麺の容器が無造作に転がっていた。だが、どこか憎めない生活感だった。

    「そこ、適当に座って」

    「どこに座ればいい?」

    ジンボはソファ代わりのマットレスを指差した。僕はその上に座り、バッグからノートを取り出す。「その若さでノートにネタを書くんだ」と言われた。

    そうか、今はスマホのメモ、音声入力か、と内心思った。

    「ネタ、考えてきたの?」

    「いくつか、ね」

    僕がノートを開くと、ジンボは隣に腰を下ろして覗き込んだ。僕は、漫才の枠組みを口にした。ボケとツッコミの入れ替え、構造のひっくり返し、伏線と回収、リアクションの間。

    「ちょ、待って。なんでそんなに整理されてんの?」

    ジンボが目を丸くした。

    「その歳にしては、おかしくない? 分析とか、発想とか」

    僕は笑った。

    「まあ……それなりに積んできたからね」

    「何を?」

    「笑いを。60年分」

    ジンボは、ぽかんと口を開けた。

    「俺さ、本当は60歳なんだよ。信じなくてもいいけど」

    「信じないけど、まあいいや。で?」

    僕は話し続けた。テレビでは教えられないネタの温度。売れる笑いと面白い笑いの違い。観客が笑うまでの「間」の調整。自分が何を作り、どうしたいのか。

    ジンボは真剣に聞いていた。最初は驚いていたが、やがて頷き、時折「すげえな、それ」と呟いた。

    そこからネタ合わせが始まった。役割を決めていないがボケがいいのか、ツッコミがいいのか、探り合いから始めてみた。

    最初のボケをどう置くか。どこでジンボの図々しさを活かすか。

    僕は構成を練り、ジンボは感覚でボケたり、突っ込みで流れをぶった切ったり、荒いやりとりが続く。だけど、不思議とかみ合った。白熱した。

    笑いながら、口論になりながら、2時間が一瞬で過ぎた。

    ——

    水を飲みながら、ジンボがつぶやいた。

    「なあ、聞いてもいい?」

    「ん?」

    「秋山 巌ってさ、まさか、あのレジェンドの秋山 巌と同じ名前だったりする?」

    僕は動きを止めた。

    「え? 秋山 巌って、この世の中にいるの?」

    ジンボは眉をひそめた。

    「いるどころか、数ヶ月前に消えたよ。スキャンダルで全部吹っ飛んで。って、知らないの?」

    僕は目を見開き、息をのんだ。

    この世界にも、秋山 巌は存在していた。
    だけど、それは誰なんだ?


    【5話】もう一人の俺

    ジンボがスマホの画面で見せてきたニュース記事。スクロールしていくと、そこに写っていたのは見慣れた顔だった。深く刻まれた皺。重く垂れた目尻。何千、何万の笑いを吐き出してきた口元。

    俺だった。

    60歳のときの、自分の顔だった。

    「見たことある顔?」

    ジンボが無邪気に尋ねた。

    「いや、知らない。誰なんだろうな、これ」

    胸の奥では確かに警鐘が鳴っていた。

    「知らないことはないだろ、有名人だよ?」

    ジンボは驚いた顔でこちらを見ている。

    アキは混乱していた。
    この世界には、もう一人の秋山 巌がいる。

    どういうことだ?俺は「18歳に戻った」と思っていた。でも、もし本当に戻ったなら、60歳の俺がこの今に存在するはずがない。

    あの顔は間違いなく年老いた俺。紛れもない俺自身だ。じゃあ、これはタイムリープなんかじゃない。俺は若返って今に現れたんだ。

    この世界には、俺と同じ名前で、同じ顔を持ったもう一人がいる。つまり俺は、同じ時代に、若さを得て再び現れた存在ということになるのか。

    「てかさ、なんか似てる気がすんだよな、写真の人。お前に」

    ジンボがぽつりと呟いた。

    「親父?にしては似すぎてるよなあ。顔の彫りも、笑い方も。なんかテレビで観た記憶あるような」

    僕は思わず呼吸を止めた。
    気づかれてはいない。けれど、完全に他人だとも思われていない。

    「でもさ、今どこにいるんだろうな。スキャンダルで姿消したって言うけど、完全に消息不明らしいよ」

    ジンボが言った。

    僕は黙っていた。心の中ではまだ「あの俺は本当にいるのか?」と確信が持てていない。

    ジンボがスマホをいじりながら、さらに言葉を続けた。

    「今年の賞レースの審査員、なんか微妙なんだよな。秋山 巌がいないのが残念って声、けっこう見たよ。あの人に審査してもらいたかったって芸人もいたっぽいし」

    耳から入る情報に驚かなくなった。ただ、不思議なことが起きていることは分かる。

    この世界のどこかで姿を消した60歳の俺が存在している。俺が2人いる。そして、今の俺は「若さ」に「経験」を加えた存在ということになる。面白い展開だが、確信は持てずにいた。

    なら、探しに行くしかない。もう一人の俺に会って、この現象の意味を確かめなければならない。


    【6話】消えたレジェンド

    翌朝、目覚ましの前に目が覚めた。
    頭は重い。だけど、不思議と心は澄んでいた。

    昨日見た自分の顔、60歳の秋山 巌。
    あれは夢じゃない。現実に存在していた。

    スマホで「秋山巌 お笑い スキャンダル」で検索をかける。すぐに記事がいくつもヒットした。

    〈お笑い界の至宝、秋山巌――突然の失踪〉
    〈週刊誌報道「過去の因縁が原因か」〉
    〈最後の舞台映像がネットで話題に〉

    どの記事も核心には触れていない。

    〈突如、メディアから姿を消した〉
    〈現在も消息不明のまま〉

    としか書かれていない。

    映像リンクをクリックした。舞台袖から出てくる老いた俺。動き、視線、間の取り方、そのすべてに見覚えがあった。

    やっぱり、俺だ。

    あの俺は、まるで何かを悟ったような目をしていた。舞台の上で静かに一礼し、最後のセリフを放って、そのまま、消えた。

    「最後のライブを終えたその日を境に、彼は行方不明となった」

    ナレーションの声が、遠く聞こえた。

    ジンボの言葉を思い出す。

    「今どこにいるんだろうな。完全に消息不明らしいよ」

    いや、違う。ここにいるんだ。若返った姿で、18歳として。

    この世界では、過去の俺がいなくなった。そのとき、今の俺が、現れたんじゃないのか。その考えがしっくりくる。でも、確信は持てないまま。

    「あの人、審査員やってたら絶対観に行ってたのにな」
    「今年の賞レースのメンツ、ちょっと弱いよなあ」
    「秋山巌に審査してもらいたかった芸人、いっぱいいるだろうに」

    そんなSNSのコメントが、目に飛び込んできた。

    あの俺は、もういない。

    僕は、顔を上げた。

    ジンボとのコンビ、バカボンボン。

    待てよ。
    俺が年末の賞レースに出て、決勝まで行ったらどうなるのだろうか。

    若さに経験を加えた、いまの自分。
    知名度こそないものの、面白い存在に違いない。

    この世界に残された何かが動き出すかもしれない。

    そのとき、もう一人の俺が現れるのか?

    存在するのかも分からない消えたレジェンド。

    もし本当にどこかにいるなら、面白い奴らがいたら、必ずどこかで見ているはずだ。俺のアンテナは老いても感知は衰えていない。60だった俺がそうだったから。そう、信じたかった。

    まずは今立てる舞台の上で、あの俺と再び会うために名をあげよう。

    そう決めた瞬間、頭の中で光が走った。


    【7話】若さと経験

    部屋は静かだった。
    六畳一間のワンルーム。壁は薄く、隣の生活音が微かに響く。

    部屋を見渡して思う。ここから、またやるのか。
    胸の奥で、熱がゆっくりと広がる。焦りと共に。

    スマホが震えた。ジンボからのメッセージ。

    「今日ネタ合わせできる?例の賞レース、エントリー始まってる」

    タイミングが良すぎて、思わず笑った。

    「やる。今日から本気で作る」

    送信。すぐに既読がつく。

    「お、怖。なんかスイッチ入ってね?」

    入っている。

    昨日までの迷いが、今日には目的に変わっていた。

    僕はノートを開いた。60歳のときに積み上げた理論。失敗の数々。
    賞レースで見てきた無数の若手。

    あの頃、俺は何を見ていた?

    技術の高さ。構成の巧みさ。
    最終的に勝つのは、覚悟だった。

    何かを賭けているやつだけが、舞台を支配する。

    今の自分はどうだ。

    若さはある。
    経験もある。

    失うものは?
    今はない。

    ふと、ポストに溜まった督促状が頭をよぎる。

    家賃。税金。生活費。

    何も持っていない。
    だからこそ、賭けられる。

    「失うものがないやつは、強い」

    昔、誰かが言っていた。いや、違う。
    それは、若い頃の俺が言った言葉だった。

    ——

    ジンボの部屋。
    床に座り込み、二人でネタを回す。

    まず、観客を想像してほしい。

    「観客が一瞬、え?ってなるくらいまで」

    ジンボは眉をひそめながら、やってみる。

    部屋の空気が止まる。一瞬の沈黙。そのあと笑いがこぼれた。

    僕はうなずく。

    早い笑いは、理解の笑いだ。
    遅れて来る笑いは、裏切りの笑いだ。

    その一拍があるだけで、舞台の温度は変わる。

    ジンボは腕を組んで考え込み、もう一度同じボケを言う。
    今度は、自分で少しだけ間を伸ばした。

    また、笑いが漏れる。

    ネタ合わせを重ねるたびに、形が固まってきた。

    ジンボが壊す。
    僕が整える。

    ジンボが前に出る。
    僕が支える。

    自然と、ジンボがボケ、僕がツッコミという形になっていった。

    けれど、僕は知っている。

    本来、秋山巌はボケだった。

    しかし、若さの暴走を、今回は止めない。

    整えない。攻める。

    あの俺が審査員席にいたら、きっと言ったはずだ。
    覚悟を見せろ、と。

    だったら見せる。

    若返った俺が、どこまで行けるか。

    ——

    帰り道、ふと夜空を見上げる。

    見てるなら、見てろ。
    今度は俺が、挑戦者だ。

    賞レースは、まだ予選も始まっていない。

    それでも、どこかで、あの俺が息をしている。

    存在するのかもわからないレジェンド。
    確かに近づいている。

    舞台は、もうすぐだ。

    若さと経験。

    その融合が、本当に通用するのか。
    次に笑うのは観客か、それとも、もう一人の俺か。


    【8話】地下ライブは続く

    あの夜、会場は満員だった。

    三千席。

    立ち見まで出ている。

    袖からステージを見ると、光が熱を持って揺れていた。

    「イワちゃん!」

    誰かが叫ぶ。

    笑いが、名前だけで起きる。

    マイクの前に立つ。

    一言目を発する前から、客席は笑う準備をしている。

    楽だ。

    そう思った。

    ネタは完璧だった。

    間も、緩急も、計算済み。

    爆笑。

    どのポイントでどれだけ笑うか、わかっている。

    客は揺れ、手を叩き、涙を拭う。

    それでも。

    胸の奥は、静かだった。

    これでいいのか。

    隣に立つ相方が、少しだけこちらを見る。

    あの頃の彼は、何かを感じ取っていたのかもしれない。

    ネタが終わる。

    スタンディングオベーション。

    スポットライト。

    拍手の波。

    僕は一礼する。

    完璧だ。

    だが、どこにも“震え”がない。

    昔、十人の客の前でやったときのような、
    あの震えがない。

    舞台を降りる。

    袖の暗がりで、誰もいない壁を見つめた。

    俺は、笑っているか?

    その問いに、答えはなかった。

    ——

    ふと六畳一間の部屋にいることに気がつく。

    薄い壁。
    冷めたコーヒーを少し口に含んで考える。

    あのときの俺は、完成していた。

    完成は、終わりだ。

    今は違う。

    未完成。

    震えがある。

    怖さがある。

    地下ライブに立つ理由は、売れるためじゃない。

    震えを取り戻すためだ。

    若さは、不安定だ。

    経験は、安定だ。

    その間に、いまの俺がいる。

    ジンボがメッセージを送ってくる。

    「今日も出るぞ」

    僕はスマホを握る。

    ——

    地下ライブ三本目。

    客は、十人。

    うち四人は出演者の知り合い。二人は明らかに暇つぶし。
    残り四人は腕組みしている、いわゆる地下慣れした客だ。

    ジンボが言う。

    「少なっ」

    十人は逃げない。
    十人は誤魔化せない。

    舞台に立つ。
    マイクの高さが微妙に低い。

    ジンボが最初のボケを放つ。
    前回より、外している。

    沈黙。

    ジンボが続ける。空気が重くなる。

    五秒。
    六秒。

    長い。

    僕は一歩前に出る。

    「今、全員帰ろうとしてるぞ」

    笑いが小さく起きる。

    波にはならない。
    ジンボが汗をかいている。

    二つ目の展開。
    少しウケる。

    三つ目。
    スベる。

    完全にスベる。

    ジンボの目が泳ぐ。
    ジンボが、ひとりで踏ん張る。

    「いや違う、違う違う、今のは高度なんだって!」

    必死の言い訳。客の一人が吹き出す。
    そこから、少しずつ笑いが戻る。

    五分終了。

    拍手は、まばら。

    袖に戻る。
    ジンボが壁に頭をつける。

    「きつ……」

    「どうだった」

    「怖かった」

    正直な言葉だ。

    「逃げたくなった」

    ジンボがこちらを見る。

    「お前、今日ほとんど助けなかったな」

    「ああ」

    「なんで」

    「耐えられるか見た」

    ジンボがため息をつく。

    「ほんと試すよな」

    「違う」

    僕は首を振る。

    「信じた」

    ジンボの顔が、少し変わる。

    ——

    その夜、帰り道。

    僕は考えていた。

    60歳の頃、十人の客にここまで緊張したことはない。

    今は、心臓が速い。

    若さは、痛みが近い。
    経験は、痛みを遠ざける。
    今は、両方ある。

    今日の五分間は、意味があった。

    ——

    地下ライブは続く。

    十人の日もあれば、三十人の日もある。

    ウケる日も、完全に沈む日もある。

    若さは波だ。
    経験は地面だ。

    どちらもなければ、立てない。

    賞レースはまだ先。

    バカボンボンは、確実に変わっている。そして、俺も。


    【9話】見つかる

    今日の拍手は、ほどよく温かかった。

    爆発ではない。だが、沈黙でもない。

    ジンボが袖に戻るなり言う。

    「今日、ちょうどよかったな」
    「そうだな」

    僕も同じ感覚だった。
    少しだけ、形が見えてきた。

    楽屋は相変わらず雑然としている。

    パイプ椅子。ペットボトル。安いお菓子の袋。

    地下ライブ特有の、湿った空気。
    その入口に、一人の男が立っていた。

    スーツ姿だった。
    それだけで、この空間では異物だった。

    地下ライブに来る人間は、出演者も、客も大体ラフな服装だ。

    その男は、きっちりとしたスーツを着ていた。周りの芸人たちが、ちらりと視線を送る。誰だろう、という顔。男は、ゆっくりとこちらに歩いてくる。

    僕は、その顔を見た瞬間、息が止まりそうになった。

    佐伯(さえき)?

    昔、僕のマネージャーだった男。
    佐伯 恒一(さえき こういち)が地下ライブの楽屋に立っている。

    偉くなって今は、大手芸能事務所の代表取締役。

    ありえない光景だった。なぜ?
    普通なら、若い社員が視察に来る。

    代表が直接来ることは、まずない。

    佐伯は僕たちの前で止まる。そして、軽く笑った。

    「君たち、面白いね」

    ごく自然な挨拶だった。

    ジンボが少し戸惑いながら頭を下げる。

    「あ、ありがとうございます」

    僕は、言葉を探す。だが先に佐伯が続けた。

    「最近、地下で名前を聞くようになってね」

    静かな声。だが、その目は鋭い。

    舞台を見ていた目だ。
    笑っている目ではない。

    見ている目だ。
    昔と、まったく同じだった。

    ジンボが言う。

    「見てたんすか?」

    「ああ」

    佐伯はうなずく。

    「面白い構造してる」

    構造。その言葉に、胸がわずかに揺れる。

    やはり、この人だ。
    普通の客は面白いと言う。

    この人は、構造と言う。

    ジンボが笑う。

    「構造とか、俺よくわかんないですけど」

    佐伯は少しだけ目を細め、僕を見る。

    ほんの一瞬。長くは見ない。
    その一瞬で、かなりのことを見ている目だ。

    「ネタを作っているのは君か」

    僕は軽くうなずく。

    「まあ」
    「整えるのがうまい」

    その評価は、的確だった。

    整える。それが、僕の武器だった。

    佐伯はポケットから名刺を取り出す。

    そして僕に差し出す。

    「うちの事務所だ」

    名刺は重かった。紙の重さではない。

    名前の重さなのだろう。

    ジンボが横から覗く。

    「え、めちゃくちゃ有名じゃないですか」

    佐伯は肩をすくめる。

    「スカウトじゃないよ」

    そう言って笑う。

    「まだ早い」

    僕は名刺を見つめる。

    早い。その言葉は、否定ではない。
    今じゃないという意味だ。

    佐伯は続ける。

    「地下でもう少し暴れたほうがいい」

    その言い方は、昔と同じだった。

    僕がまだ何者でもなかった頃、地下ライブでネタをやったあと、この人はいつも同じことを言った。

    まだ荒いな、でも、その荒さがいい。

    ジンボが言う。

    「どれくらいですか?」

    佐伯は少し考える。

    「半年」

    そして続ける。

    「その頃、また見に来る」

    軽い言い方だった。
    だが、その言葉には確信があった。

    半年後、このコンビは変わっている。
    そう見ている目だった。

    佐伯は軽く手を振る。

    「今日はありがとう」

    そして、そのまま楽屋を出ていく。

    廊下の足音が遠ざかる。

    しばらく沈黙、ジンボが名刺を覗き込む。

    「なあ」
    「なんだ」
    「今の人、めちゃくちゃ偉い人じゃね?」
    「そうだな」

    ジンボが笑う。

    「俺ら、見つかった?」

    僕は少し考える。そして首を振る。

    「いや」
    「え?」
    「まだだ」

    本当に見つかるのは、もっとあとだ。

    しかし、佐伯に思うことは多々ある。
    因縁というか、裏切りというか、、考えすぎか。


    【10話】佐伯 恒一

    地下の階段を降りると、空気が変わる。

    湿っている。重い。
    だが、嫌いじゃない。

    むしろ、この匂いを嗅ぐと、少しだけ昔に戻る。

    まだ、何者でもなかった頃。
    佐伯 恒一は、客席の一番後ろに座った。

    場違いなのはわかっている。だが、構わない。

    視線よりも、舞台が重要だ。

    (どいつだ)

    最近、耳に入る名前。

    「バカボンボン」

    妙な名前だが、こいつらか。だが、妙な名前ほど当たることがある。

    それは経験で知っている。佐伯はスマホを一度だけ確認する。

    SNS。動画の切り抜き。コメント。

    「なんか変」
    「ハマるとヤバい」
    「再現できなさそう」

    その言葉が気になった。

    再現できない。

    それはつまり、今しかない笑いだ。

    舞台が始まる。
    何組か流して見る。

    悪くない。
    だが、知っている。

    このレベルは、いくらでもいる。量産できる。問題は、その先だ。

    「バカボンボン」

    名前が呼ばれる。二人が出てくる。

    一歩目。立ち位置。呼吸。

    それだけで、わかる。

    (なんだこいつら)

    荒い。だが、芯がある。

    言葉が少しずれている。普通なら削る。そのズレが残っている。

    (抜けてるな)

    だが、悪くない。むしろ、いい。
    そのズレが、引っかかりになる。客の脳に残る。

    ツッコミが入る。

    遅い。いや、待っているのか。お客の反応を見ているのか。

    (面白い)

    佐伯の目が細くなる。整えようと思えば整えられるが整えていない。意図的に暴れさせている。そのバランスが、妙にいい。

    三本目のやり取り。

    笑いが起きる。

    (ああ)

    一気に理解する。このコンビは崩れ方を知っている。

    (それは経験なのか?)

    (見た目は若いぞ)

    噛み合っていない。なのに、噛み合っている。

    (なんだこれは)

    心の奥が、わずかに熱くなる。

    久しぶりだ。この感覚。計算じゃない。再現性も低い。確実に何かがある。

    五分が終わる。

    拍手。

    大きくはないが、芯がある。

    佐伯は動かない。ただ、頭の中で整理する。

    ボケ。素材がいい。削れば光るが、削りすぎると死ぬ。

    ツッコミ。コントロールできる。整える力があるが、出しすぎると面白くなくなる。

    (危ういな)

    その危うさがいい。安全圏にいない。それがいい。

    佐伯は立ち上がる。

    (行くか)

    普通なら、行かない。

    若手に任せる。

    報告を待つが、今日は違う。

    足が動く。一瞬だけ止まる。

    深呼吸。

    (落ち着け)

    ただの新人芸人だ。何百人も見てきた。そう言い聞かせるが、心拍が少しだけ速い。

    雑多な匂い。視線。その中で、二人を見つける。

    近くで見る。やはり若い。

    ツッコミの目。一瞬だけ、こちらを見る。

    (……似ている)

    記憶がよぎる。すぐに切り替える。

    表情は崩さない。いつもの顔。営業用の顔。

    「君たち、面白いね」

    自然に出る。二人の反応を見る。

    ボケは素直だ。ツッコミは、一歩引く。

    (いい)

    距離感を持っている。

    話す。数分。それで十分だ。構造はもう見えた。名刺を渡す。

    冷静を装って、その場を離れる。

    廊下を歩く。足音が響く。誰もいない。

    そこで初めて、息を吐く。

    「……当たりだな」

    小さくつぶやく。

    スマホを取り出す。すぐに検索する。

    「バカボンボン」

    出てくる情報は少ない。動画も少ない。むしろ、そのほうがいい。

    (まだ多くの人は触ってない)

    その事実が、少しだけ嬉しい。スクロールを止める。

    ツッコミの名前、「秋山」

    指が一瞬止まる。

    (まさか)

    頭の中で、過去のデータを引き出す。秋山 巌。

    突然いなくなった男。一瞬だけ、思考が繋がりそうになるが、すぐに切る。

    (ありえない)

    年齢が合わない。顔も、、似てるが、違う。ただの偶然だ。そう処理する。

    画面を閉じる。歩きながら、ふと思う。ほんの一瞬。過去がよぎる。

    首を振る。考える必要はない。あれは正しかった。間違っていない。ほんのわずかに、胸の奥に、引っかかるものがある。

    (……いや)

    すぐに消す。今は違う。目の前の素材。それがすべてだ。

    地下の出口に着く。外の空気は、少し冷たい。

    夜の街。人の流れ。その中で、佐伯は小さく笑う。

    「まだいるんだな」

    誰に言ったのかは、自分でもわからない。ただ一つ、確かなことがある。

    見つけた。

    久しぶりに、売れる前の匂いがする芸人を。

    そして、それは少しだけ、懐かしい匂いだった。


    【11話】宮下 春奈

    名前は、宮下 春奈(みやした はるな)

    二十六歳。都内の小さな広告代理店で働いている。

    毎朝、同じ電車に乗る。同じ時間に出社して、同じような資料を作る。

    言われたことをやる。間違えないようにやる。怒られないようにやる。それが仕事だった。

    学生の頃は、もう少し違った。

    映画が好きで、言葉が好きで、何かを作る側に回りたいと思っていた。

    気づけば整える側にいた。誰かの企画をまとめる。誰かの言葉を修正する。
    誰かの失敗を、目立たなくする。それが、今の自分だ。

    ——

    ある日の帰り道だった。

    残業で遅くなり、駅のホームでぼんやりとスマホを見ていた。なんとなく開いた動画。おすすめに流れてきた、短い切り抜き。タイトルもよく覚えていない。ただ、妙な名前だけが引っかかった。

    「バカボンボン」

    変な名前だ。そう思って、指を止めた。

    再生。数秒。最初は、よくわからなかった。少しズレている。会話が噛み合っていない。でも。なぜか、消せなかった。

    ボケが外す。ツッコミが、少しだけ方向を変える。

    笑いが起きる。そのずれたまま成立する感じに、心のどこかが引っかかった。もう一度再生する。今度は、少しだけ笑った。

    三回目。ちゃんと笑った。

    (なんだこれ)

    気づけば、その切り抜きのアカウントを遡っていた。

    動画は少ない。再生数も多くない。でも、どれも同じ空気を持っていた。完璧じゃない。むしろ、不安定。でも、生きている。

    ——

    翌週。春奈は、地下ライブに来ていた。自分でも驚いた。知らない場所。知らない人たち。


    狭い空間。少し怖いが席に座る。

    客は二十人ほどだった。その中の一人になる。

    名前が呼ばれる。

    「バカボンボン」

    二人が出てくる。動画で見たままだ。

    いや、違う。もっと不安定で、もっと生っぽい。ボケが暴れる。ツッコミが、少しだけ止める。

    笑いが起きる。でも、毎回じゃない。

    滑るときもある。空気が止まるときもある。それでも、目が離せない。

    (ちゃんと失敗してる)

    それが、なぜか嬉しかった。自分の仕事は、失敗を消すことだ。見えないようにすることだ。でも、この人たちは違う。失敗が、そのまま舞台に残っている。それでも、次に進む。その姿が、少しだけ羨ましかった。

    ライブが終わる。周りより、少しだけ大きく拍手をした。

    帰り道。駅まで歩く。足取りが軽い。理由はわからない。少しだけ呼吸がしやすい。それからだった。春奈は、毎週のように地下ライブに通った。平日は、相変わらず同じ日々。

    朝、起きる。会社に行く。帰る。変わらない。でも、週に一度だけ違う日がある。地下ライブの日だけは、何が起きるかわからない。

    笑えるかどうかもわからない。でも、それがいい。

    ——

    ある日、バカボンボンが大きく滑った。

    客席が静まり返る。気まずい空気。誰も笑わない。

    春奈は、一瞬だけ目を伏せる。でも、次の瞬間。

    ジンボが無理やりボケる。ツッコミが、少しだけ拾う。

    小さな笑いが起きる。完全には戻らない。でも、前には進んでいる。そのとき、思った。

    (ああ、いいな)

    うまくいかなくても、進める。それだけでいいんだ、と。

    ライブが終わる。拍手をする。少しだけ、手が痛い。でも、やめない。

    この拍手は、舞台の上の二人だけじゃない。どこかで、自分にも向けている気がした。

    帰り道。スマホを開く。また動画を見る。同じネタでも、少しずつ違う。変わっている。成長しているのか、壊れているのか、わからない。でも、確実に動いている。

    春奈は思う。自分の生活は、あまり変わらない。でも、バカボンボンは変わっている。それを見ているだけで、少しだけ、救われる。

    地下ライブの客席。その一番後ろに、今日も一人、同じ女が座っている。誰にも気づかれない。でも、確かにいる。

    名前は、宮下 春奈。
    私は、バカボンボンのファンの一人になった。


    【12話】古い

    ある夜。アキの部屋は静かだった。冷めきった缶コーヒーの穴から漂う匂いと、かすかに聞こえる隣室の音だけが、空間に残っている。

    何冊目だろうか。無印良品のノートは開いたまま。ペンは、指に挟まれたまま止まっている。視線は、机の上ではなく、スマホの画面に落ちていた。

    「バカボンボン、ツッコミ古くね?」

    短い一文。そのコメントを何度も見てしまう。十分すぎる破壊力だった。

    「説明しすぎ」「いちいち止めるな」
    「テンポ悪くなる」
    「昔のテレビみたい」

    スクロールする指が、途中で止まる。

    (昔のテレビ)

    その言葉が、やけに具体的に刺さる。頭の中に映像が浮かぶ。

    スタジオ。観覧席。わかりやすいボケ。わかりやすいツッコミ。そして、それを作っていた自分。

    (ああ、そうか)

    気づいてしまう。これは否定じゃない。正確な指摘だ。

    60年分の経験。それは、積み上げてきた技術の塊だ。だが同時に時代を通過してきた証拠でもある。

    つまり、古い。

    日々の生活の中で、こんなにも笑いを見てくれる人はいる。厳しい審査をする人がいる。笑いを考察する人がいる。お笑いを見てくれる、時間を費やしてくれる。有難い話だが、こんな世の中にしたのはきっと俺のせいだ。

    育ててしまった。教育してしまった。

    (こんな時代で若手は切磋琢磨しているのか、すごいな)

    言葉にならない息が漏れる。ノートに目を落とす。

    書いてあるネタの構造。起承転結。伏線と回収。間の計算。どれも、間違っていない。むしろ、正しい。その正しさが、今の笑いから、少しだけズレている。

    (じゃあ、どうする)

    整えないのか。説明しないのか。流れを壊したままにするのか。

    頭では理解できるが、理解すると自分を否定することに近い。

    ペンを握る力が強くなる。

    (変えろ)

    もう一人の自分が言う。

    (変えないと、置いていかれる)

    別の声が重なる。

    (それをやめたら、お前は何になる)

    静寂。答えは出ない。ひとつだけわかることがある。これは、技術の問題じゃない。生き方の問題だ。

    ゆっくりと、ノートを閉じる。

    (怖いな)

    60歳のとき、怖いと思うことはほとんどなかった。

    (自信はどこにいった)

    変わることが怖い。そして、変われないことも、同じくらい怖い。経験値が自信になっていた。それが盲点だったのか。

    いつからだ?若い世代にはもうウケないのか。あの時の笑い声は合わせてくれただけなのか。積み上げたものを信用してくれてるだけだったのか。笑いとは信用だったのか、ただ安心できるものに笑うのか。違うだろ、違いますよね?新しいものを作り続けてきたが、古くなっているとは思ってなかった。思わされていただけなのか。

    「古くね?」

    この文字が、ここまでショックで怒りが込み上げてくるとは。

    俺は怒っている。頭の中が単純になっている。ずっと何かがいる。出ていけ、冷静にさせろ、出ていけ、出ていけ、出ていけ。脳がおかしい。眉間に引っ張られる感覚がずっと続く。

    僕の作った「お笑いの文法」そのものが「古くなった」のか。時間が経てば消え失せてしまう言葉だが、心中、腹が立って仕方ない。「古い」とは言わせない。押し殺した声でアキは言った。


    【13話】キャラクター

    今夜も地下ライブ。

    客席のざわめきが、以前よりも少しだけ大きい。椅子が埋まり始めている。立ち見も、数人いる。明らかに、流れが来ている。

    「バカボンボン」

    名前が呼ばれる。舞台に出る。ライトが当たる。

    一歩、前に出る。その瞬間。客席から、軽い笑いが起きた。

    「え?」

    何もしていない。まだ、何も言っていない。なのに、笑いが起きている。

    (ネタではない)

    ジンボが口を開く。

    「今日さ、駅でさ――」

    その一言で、また笑いが起きる。言葉じゃない。存在で笑われている。

    キャラクター。空気、雰囲気、慣れ、安心。ジンボという人間そのものが、すでにボケになっている。

    (早いな)

    早すぎる。本来なら、積み上げていくものだ。ネタを繰り返し、キャラクターが浸透し、ようやく成立するもの。それが、もう来ている。

    ジンボが外す。大きく外す。客が笑う。その笑いは、浅い。ネタの完成度じゃない。この人が言うから面白いという笑い。

    僕がツッコむ。笑いは起きるが、少しだけ落ちる。確実にほんの少し。

    二発目。

    三発目。

    同じ現象が続く。

    ジンボが話すと大きな笑いが起きて、俺が話すと少し落ちる。少しどころではないのかもしれない。繰り返すたびに、確信が強くなる。これはもう、ネタじゃない。キャラクターだ。

    ネタ五分が終わる。拍手が響く。明らかに、今までで一番大きい。

    袖に戻るジンボが興奮した顔で言う。

    「なあ、感じた?」
    「ああ」
    「俺、なんかもう「いる」だけでウケてない?」

    冗談のようで、核心を突いている。

    「そう見えるな」

    ジンボが少し黙る。そして、ぽつりと。

    「これ、どうすんのが正解?」

    初めての問いだった。

    キャラクターで押し切るのか。ネタでコントロールするのか。どちらも正解になり得るし、どちらも失敗する可能性がある。

    僕は答えない。答えられない。ジンボも、それ以上は聞かない。賞レースを目標にする僕らはこの状態を危ないと思わなければならない。この地下のお客さん、賞レース会場のお客さん、他の場所のお客さんは違う。住む星が違うぐらい変わる時がある。勘違いしてはいけない、感覚的に危機感はある。

    ジンボは大丈夫だろうか。快感と思っては駄目だ。ジンボに向けれられた笑いが今後どうなるのか。2人の中に少しだけ距離ができた気がする。

    ほんの数センチ。だと、思いたい。不安。

    日々は続く、学びも続く。冷静に見ている。しかし、自分だけではないだろうか。二人で感じ、思い、反省し、戦いたい。二人の距離が遠く離れないことを祈るばかりだ。スポットライトが片方だけを照らし、好奇の視線が片方だけに集まる。

    笑い声の行方は分からない。コンビ間だけではなくお客さんとの距離が離れていくような気がした。まるで存在していなかったかのように。


    【14話】SNS

    部屋の明かりは消えているが、スマホの光だけが、顔を照らしている。

    元60歳のエゴサーチが止まらない。画面に言葉が並ぶ。

    #バカボンボン #ジンボ #ツッコミいらない

    嫌な予感が、現実になる。動画が上がっている。

    ジンボが喋る、動く、暴れる。客が笑う。そして、僕がツッコむ。その瞬間、画面にテロップ。

    「ここで冷める」
    「いやマジで邪魔」「なんで止めるの?」
    「自由にやらせてあげて」
    「ジンボだけでいい」

    指が止まる。言い過ぎだろ。特にコイツ、このアイコンのやつも、しつこいな。

    胸の奥が、ゆっくりゆっくりと冷えていく。

    さらにスクロール。

    「ボケ神、ツッコミ旧型」

    笑ってしまいそうになるくらい、旧型か、的確で残酷な言葉。

    いいねの数が、増え続けている。一部の意見じゃない。流れになっている。それが一番厄介だ。SNSの登場により、人の評価が分かるようになった。評価する人が増えた、というより表に見えるようになった。名もなき評価(匿名性)とマスクを付けた誹謗中傷。マスクの裏では僕の求めている笑いはないだろう。

    画面にジンボからメッセージ。

    「見た?」

    短い一文。

    「見た」

    送る。既読がつく。

    ジンボの返信は、少し遅れる。

    「なんかさ」

    次のメッセージ。

    「俺、止められてる感じすんだよな」

    画面を見つめる。

    その言葉は、責めているわけではない。正直な感想。ただの感想だが、そのほうが重い。

    電話が鳴る。ジンボだ。出る。

    「もしもし」
    「なあ」

    声が、いつもより低い。

    「どうすんの、これ」

    沈黙。答えが出ない。

    「俺さ、もっといける気がすんだよ」
    「でもさ」

    少しだけ、言葉が詰まる。

    「止まるんだよな」

    その一言で、すべてが揺れる。止めているのは、誰か。わかっている。

    「そうか」

    それしか言えなかった。

    簡単に会話を終わらせて電話を切る。静寂。スマホを置く。天井を見る。

    (成功してる)

    間違いなく、上に行っている。名前も出ている。客も増えている。笑いも大きくなっている。

    何かが、確実に壊れている。

    若さと経験。そのはずだったが今は、若さが加速し、
    経験がブレーキになって止めている。

    (このまま進めば)

    売れるかもしれない。

    (このまま進めば)

    ダメになるかもしれない。目を閉じる。

    浮かぶのは、60歳の自分。完成していた自分。何も感じていなかった自分。同じにはならない。同じままではダメなのか。同じ時代に生きていた。ただ、年齢が変わっただけなのに同じにならない。

    若い声?何者でもない存在の説得力のなさ?着ている服?履いている靴?単純に見た目?偏見?お客は何を見て感じている?見る目がないのか?見ているところが違うのか?何を求めて笑っているんだ?ネタの興味がないのか?何を目的にここに来ている?

    俺に興味がないのか?若いことがダメなのか?ボソボソと弱気に小さく、つぶやく。その声は、どこか揺れていた。

    人は何を見ているのだろうか。ジンボは何を見ているのだろうか。何をしようとしているのか。

    スマホを見る。SNSの中に答えはない。目が良くなったこともあるがスマホばかり見るとは思わなかった。見つからない答えを、答えだと思い込もうとするから苦しくなるのかもしれない。そこにあるのは答えではなく、せいぜいヒントなのだと思うしかない。弱気になる。焦る。怒りも湧く。それでも今は、自分が積み重ねてきた経験で乗り越えるしかない。経験という名の刀を、ただ抱き締めるしかない。

    たとえ、その刀をいくら研ぎ続けても、いつか誰かに「もう必要ない」と取り上げられる時代なのだとしても。


    【15話】人気

    地下ライブの空気が、少しずつ変わってきていた。客の顔ぶれが変わる。初めて見る顔が増える。その中に明らかに誰かを目当てに来ている客が混じり始めていた。

    「今日、ジンボ目当てで来ました」

    出番前、受付の近くでそんな声が聞こえる。

    「あざす!」、ジンボが笑って応じる。

    軽い。いつも通り。

    (ジンボ目当て)

    バカボンボンではなく、ジンボ。個人名。その違いは、小さいようで大きい。

    僕たちの出番。舞台に立つ。ジンボが一言目を発する前から、客席の空気が前のめりになっている。ジンボを期待している。

    「今日さ、昨日の夜な」

    笑い。

    一発目から、大きい。ネタではない。言葉でもない。この人が話していること自体が面白い。その後にツッコむ。笑いは起きるが、やはり少しだけ落ちる。ほんの一瞬、温度が下がる。

    ネタが進む。いや、進んでいない。ジンボが、流れを壊す。客は笑うが、ツッコミで笑いを増幅できていない。

    五分が終わる。

    拍手。大きいが、どこか違う。

    袖に戻る。ジンボが言う。

    「今日もいけてたな」
    「ああ」

    ジンボが水を飲みながら続ける。

    「なんかさ、最近わかってきた」
    「何が」
    「俺、あんまネタしないほうがウケる」

    その言葉に、何も返せない。ウケて笑ってくれていることが正しいからだ。

    (じゃあ俺は必要なのか。)

    答えは、まだ出ないままだ。

    ——

    数日後。別の地下ライブ。そこは少し特殊だった。

    ランキング形式。客が投票する。順位が出る。そして、その順位で次のステージに進めるかが決まる。

    ライブが始まる前から、空気が違う。

    ジンボが小さく言う。

    「これ、人気投票じゃね?」
    「そうだな」

    内心では少し違和感があった。ネタではなく票。笑いではなく人気。

    舞台に立つ。ネタをやる。ジンボが暴れる。笑いは起きる。確かに起きている。

    だが、客席の一部は違う。腕を組んでいる。笑わない。ただ、見ている。

    (なんだ?)

    終わる。拍手。悪くない。いや、むしろ良い。

    袖に戻る。他の芸人が話している。

    「あそこ、ハーフ&ハーフのファン多いからな」
    「エモ笑トーキョーも常連ついてるし」
    「結局、組織票あると強いよ」

    言葉が、すっと入ってくる。

    ハーフ&ハーフ。エモ笑トーキョー。名前は聞いたことがある。どちらも、固定客がついている人気コンビだ。

    (なるほどな)

    組織票。ファン。固定客。笑いとは別の軸だ。

    ——

    結果発表。順位が読み上げられる。

    「第3位――エモ笑トーキョー」

    客席から拍手と歓声が上がる。

    「第2位――バカボンボン」

    ジンボが小さく声を漏らす。

    「……お、入った」

    拍手。だが、どこか静かだ。

    「第1位――ハーフ&ハーフ」

    歓声。立ち上がる客。明らかに、応援していた層だ。そして、そのまま拍手が続く。結果は出た。胸の奥に、静かな違和感が広がる。

    (これが評価か)

    笑いではない。

    人気。関係性。固定客。それらが、結果を決める。

    ——

    帰り道。夜の街を歩く。

    ジンボが言う。

    「なあ」
    「なんだ」
    「俺ら、ウケてたよな?」
    「ウケてた」

    即答する。それは事実だ。

    「なのに、あの順位ってどういうこと?」

    その問いは、正しい。そして、重い。少しだけ考える。

    「笑いだけじゃないってことだ」

    ジンボが眉をひそめる。

    「じゃあ何だよ」
    「人気」

    沈黙。ジンボが小さく笑う。

    「じゃあさ」
    「ん?」
    「俺、人気者になるためにもっとキャラ出したほうがいい?」

    その言葉に呼吸と足が一瞬止まりそうになる。キャラクター。人気。票。全部が繋がる。

    (この流れはまずい)

    止める言葉が出てこない。

    「どうだろうな」

    アキは曖昧に返した。


    【16話】分岐

    ジンボの部屋。蛍光灯の白い光が、やけに冷たく見える。コンビニの袋が床に散らばっている。食べかけのカップ麺。空のペットボトル。いつもの風景だが、空気は違う。重い。

    「なあ」

    ジンボが口を開く。

    「今日の順位、どう思った?」

    僕は答えない。すぐには、答えられない。

    「ウケてたよな、俺ら」
    「ああ」
    「でも1位じゃない」

    沈黙。ジンボは天井を見ながら言う。

    「なんかさ」

    言葉を探すように、少し間が空く。

    「納得いかねえんだよな」

    その感情は、わかる。

    「わかる」
    「でも、あれがルールだ」

    ジンボが笑う。乾いた笑い。

    「ルールってさ、変えられないの?」

    その問いに、一瞬だけ言葉を失う。変えられるのか。変えられないのか。

    60歳の頃の記憶がよぎる。

    テレビ。スポンサー。数字。視聴率。ルールは、変えられない。

    「変えられるやつもいる」

    僕は言う。ジンボがこちらを見る。

    「誰だよ」
    「ルールを壊して、ルールを作るやつだ」

    ジンボは少しだけ笑う。

    「じゃあさ俺ら、ネタで壊す側いく?人気とって作る側にいく?」

    人気を取りにいくのか。笑いを取りにいくのか。両方は、取れないかもしれない。

    「どうやって壊す」

    僕は聞く。ジンボは即答する。

    「もっと自由にやる」
    「ネタ、いらなくね?」

    その一言で、空気が止まる。

    ネタを捨てる。構造を捨てる。それは、漫才の否定に近い。今の流れは、それを求めている。

    「それで勝てると思うか」
    「わかんねえ」
    「でもさ」
    「今のままだと、中途半端じゃね?」

    その言葉は、深く刺さる。中途半端。まさに今の状態だ。キャラにも振り切れていない。構造にも振り切れていない。どちらも持っている。だからこそ、どちらにもなりきれていない。

    僕は目を閉じる。浮かぶのは、60歳の自分。

    安全な構造。崩れないネタ。これらは時間をかけて行き着いた努力の結果。

    (あああ)

    ゆっくりと、目を開ける。

    「ジンボ」
    「ん?」
    「一回、全部捨てるか」
    「いいね、それ」

    その笑いは、少しだけ狂っていた。

    「じゃあさ」
    「次のライブ」
    「うん」
    「ネタなしでいく?」

    空気が震える。普通なら、ありえない。今はありえる。いや、やるべきかもしれない。怖い。同時に楽しみでもある。

    「やってみるか」

    言葉にする。その瞬間、何かが切り替わる。

    「やっとだな」
    「何が」
    「お前、ちょっと面白くなってきた」

    その一言に、思わず笑う。

    確実に何かが動き始めている。あれほど大事に抱えてきた刀を捨てるわけではない。切れ味だけは落とさぬよう、これからも研ぎ続ける。真剣勝負が時代錯誤だと笑われてもいい。刀を振らずにちょんまげ姿のままラップバトルしよう、それで笑ってもらえたら、それでいい。バカボンボンは分岐に立っている。


    【17話】ネタを捨てた日

    楽屋は、いつもより静かだった。ジンボは、いつものようにだらしなく椅子に座りながら、スマホをいじっていた。

    「なあ、アキ」

    画面を見たまま言う。

    「今日さ、どうやるんすか」
    「どうやるも何も、何もやらない」
    「いやいやいや、それがどうやるかって話でしょ」

    ジンボは笑うが、その笑いは少しだけ固い。

    「何もやらないって、何もしないわけじゃないでしょ?」
    「俺も、分からん」
    「は?分からんって、どういうことすか」
    「分からんから、やるんだろ」
    「分かってることをやってたら、ずっと古いままだ」

    アキはSNSの言葉が、頭をよぎる。
    その思考を、振り払うように立ち上がる。

    「とりあえず、出てみよう。思いついたこと喋るから」

    二人は、舞台袖へ向かう。拍手が聞こえる。前のコンビがウケている。

    バカボンボンの名前が呼ばれた。舞台に出る。ライトが当たる。舞台上で客席を見渡すだけで何も喋らない二人。

    ざわめく空気をジンボが感じ取る。いつもなら、ここでボケる。いつもなら、ここで笑いを取りにいくが、今日は違う。

    ジンボが動かないと察して、アキが先に一歩出た。

    「何が面白い?」

    ぽつり、と言った。

    客席が止まる。

    「お前ら、何が面白くて来てんだ?」

    ざわめきが、困惑に変わる。

    「ランキングか? 人気か? SNSか?」

    アキの声は、淡々としている。その奥に圧がある。

    「面白いって、なんだ?」

    客席の空気が張り詰める。これは漫才ではない。問いかけだ。挑発だ。展開を考えずアドリブで出た言葉を繋いでいるだけだ。喋りながら心臓が速い。逃げたくなる。

    「笑う準備して来てるだろ、お前ら」

    客席の数人が、思わず苦笑する。

    「笑う側に、逃げてるだけだろ」

    空気が変わる。笑いではない。完全な静寂でもない。引き込まれている空気。

    その瞬間─、ジンボが、口を開いた。

    「いや、怖ぇよ!!」

    大声だった。客席が、一気に緩む。

    「なんなんすかそれ! 急に哲学始めないでくださいよ!」

    笑いが、起きる。初めての笑い。

    「お客さん、笑いに来てんのに説教されてる気分なんすけど!」

    さらに笑いが広がる。アキが、少しだけ笑った。

    「そうか」
    「そうっすよ!」
    「面白いってなんだ?とか言われても、知らねえっすよ!」
    「じゃあ、なんで笑ってる」
    「ノリっすよ!」

    ドッと笑いが起きる。その瞬間、アキの中で、何かが繋がった。

    構造ではなく、反応。
    理屈ではなく、衝動。

    若さ。それを、初めて理解した気がした。

    客席の視線が、ジンボに集まる。その光景を見て、アキは気づいてしまう。同時に、もう一つの感情が生まれる。

    悔しさ。

    ジンボは自由に動き始めている。ネタはないが笑いはある、いやネタがないから笑いがあるのかもしれない。

    ——

    舞台は成功した。

    間違いなく、成功だった。終演後。楽屋でジンボは、興奮気味に言った。

    「アキさん!いけましたねこれ!」
    「ああ」
    「これ、もうネタいらないっすよ!」
    「そうだな」

    アキは答えた。心の中では、別の声が響いていた。

    SNSではジンボを讃えるコメントが目についた。

    「バカボンボン、覚醒」
    「ジンボ天才すぎる」
    「もう一人の人、必要?」

    そんな言葉が、また増えていた。同時に何かが、確実に壊れ始めていた。


    【18話】一人で来ませんか?

    バカボンボンは、その日もウケていた。いや、正確には、ジンボがウケていた。

    「ノリっすよ!」

    あの一言からだった。ネタを捨てた日以降、ジンボの制御不能さは武器になった。何を言うか分からない。どこへ転がるか分からない。客は「それ」をその時の出来事だと理解して見に来る。

    アキが知っていた構築された笑いとは違う熱量。

    もっと雑で。もっと危険で。もっと、生っぽい。

    ——

    終演後。ジンボは上機嫌だった。

    「いやー、今日マジで良かったっすね!」

    コンビニの冷えたお茶を一気飲みする。

    「最後のアキさんの間、ヤバかったっすよ。あのあと俺が何言ってもウケる空気できてた」
    「そうか」

    アキは荷物をまとめながら返す。最近、自分の言葉が短くなっていることに気づいていた。ジンボの勢いに対して、自分の言葉が古く感じる瞬間が増えた。昔は違った。間を支配していたのは自分だった。今は客が待っているのは、次にジンボが何をするかだ。

    その時だった。

    「すみません」

    楽屋の入口から声がした。二十代後半くらいの男。黒いバケットハットに、大きめのパーカー。いかにも怪しい匂いがする。

    「あ、ジンボさんいます?」
    「はい?」

    ジンボが反応する。男はニコッと笑った。

    「動画チャンネルやってる高坂っていいます。登録数40万くらいなんですけど」

    ジンボの目が、少しだけ動く。

    登録数40万。元60歳の自分でも業界にいたので凄さは分かる。地下芸人にとっては、テレビ出演より現実味のある数字だった。

    「実は、今度次来る芸人企画やるんですよ」

    高坂は続ける。

    「ジンボさん、一人で来ません?」

    ほんの一瞬だけ空気が止まった。

    「一人?」

    ジンボが聞き返す。

    「はい。ピンで」

    アキは、何も言わなかったが。心の奥で、何かがゆっくり沈んでいく音がした。金属音ではなく引きずられる音。

    高坂は悪気なく続ける。

    「いや、もちろんコンビも面白いんですけど、今ってキャラ立ちの時代なんで」

    キャラ立ち。その言葉が耳に残る。

    「ジンボさん、マジで唯一無二なんすよ。天然なのか計算なのか分かんない感じとか」
    「いや、計算してないっすよ」
    「それです、それ!」

    高坂は笑う。

    「それが強いんすよ!」

    ジンボも、つられて笑う。視線だけは一瞬アキを見る。許可を取るような視線だ。

    アキは、笑った。

    「行ってこいよ」
    「え?」
    「チャンスだろ」
    「いや、でも」
    「一人で出たくらいで、コンビ終わるわけじゃない」

    その言葉を言いながら。アキ自身が一番信じていなかった。内心穏やかではない、冷静を装う。

    高坂は満足そうにジンボの連絡先を聞いて去っていく。アキには連絡先を聞かなかった。

    楽屋に沈黙が残る。

    ジンボが、ぽつりと言う。

    「アキさん、怒ってます?」
    「怒ってない」
    「でも」

    昔から先に見つかるのは変なやつの方だ。まず異物が見つかる。構造や技術が評価されるのは、その後だ。アキは、それを知っている。知っているからこそ。苦しかった。

    ——

    その帰り道。二人は珍しく別々に帰った。ジンボは「ちょっと飲み行ってきます」と言って消えた。アキは一人、目的もなくただ道を歩いていた。

    春の終わりの風が生暖かい。アキは自販機の前で立ち止まった。缶コーヒーを買う。昔から変わらない味。この長生きしている味にはたくさんの人生が詰まっている。長く生きないと見えない景色はある。長く生きたからこそ見える景色もある。ふとため息が出た。プルタブを開ける音が大きく聞こえた。

    俺たちは、どこへ行こうとしてる?

    ネタを捨てた。構造を捨てた。その結果、ウケた。

    あれは、本当に伝わっているのか?笑いだけが切り抜かれ、リアクションだけが消費され、短い動画になって流れていく。

    その時だった。下から軽い音がした。前から歩いてすれ違った女性がスマホを落とした。咄嗟に拾おうとした時に見えた画面は、radikoだった。

    アキはスマホを拾い、女性に渡す。すみませんありがとうございます、といい、頭を下げ、足早に女性は去っていく。

    アキは足を止めて考える。radiko?ラジオ?

    昔、自分が深夜ラジオを聴いていた時代の記憶が、ぼんやり蘇る。

    『いやでもさぁ、お前あの時ほんと最低だったよな』
    『違うんだって! 聞いてくれよ!』

    姿は見えない。顔も分からないが、声だけで、間だけで、空気だけで関係性だけが伝わってくる。アキの中で、何かが引っかかった。今の時代、映像が強い。切り抜きが強い。キャラクターが強い。だからこそ逆に声だけなら、もっと深く届くんじゃないか。

    アキは、ぼんやりと思う。ジンボの声は本当は優しい。そして、ズボラで図々しくてバカのような声にもなる。その声の魅力は切り抜き動画では伝わらない、舞台でも全部は伝わらない、ラジオも全部は伝わらない。だけど、ラジオには不思議な力がある。音で人をハッキングできる。言葉だけじゃない。沈黙も、呼吸も、どうでもいい雑談も、そのまま届いてしまう。ジンボの声は、たぶん画面の中より音の中でこそ活きそうな気がした。そして、バカボンボンの魅力もその方が良い気がした。

    アキは、空を見上げる。街灯に照らされた東京の空は暗い。その奥に誰にも理解されない夜がある。そこに声だけが救ってくれた時間あったことを思い出す。

    アキは、小さく呟く。

    「ラジオか」

    その言葉は芸人・秋山巌ではなく。一人のアキとして初めて出た言葉だった。

    面白いのに伝わらない。認知の後に笑いがくるわけではない。面白いから笑うのだ。しかし、笑いを考えるだけでは駄目である。それをどうやって伝えるか。初心を忘れていた。ネタだけではダメだ。キャラだけではダメだ。もっと笑いの「伝え方」を考えるべきだった。

    アキはジンボにメッセージを送る。

    「ジンボ、ラジオはじめよう。今はポッドキャストって言うのか。ネタも大事だ。ライブも大事だ。お前が一人で出ることも絶対に無駄じゃない。今の時代、それでしか届かない笑いもある。ただ、笑いを伝える方法は、まだ他にもある気がしてる。だから一回やってみないか。声だけで」


    【19話】高坂 悠人

    高坂悠人(こうさか ゆうと)、29歳。

    最初に会った時から、アキは高坂という男が苦手だった。理由は簡単だった。笑っているのに、笑っていない。

    地下ライブ終わりの楽屋。芸人たちが汗だくで反省会をしている横で、高坂だけが別の温度で立っていた。

    疲れていない。熱くなっていない。ただ、数字を見ている人間の目だった。元々は放送作家志望。養成所にも半年だけいた。ネタも書いていたが、芸人にはならなかった。正確には、なれなかった。面白い人間ではなかった。空気は読める。分析もできる。構造も分かる。でも、自分が前に立つと笑いが起きない。致命的だった。芸人たちが泥だらけで戦っている横で、高坂だけが外側にいた。それが、ずっと悔しかった。転機は、二十四歳の時だった。芸人仲間のライブ動画を、何気なく切り抜いた。たまたま伸びた。

    五万再生。十万。百万。そこで高坂は気づく。作る側じゃなく、見つける側なら勝てる。そこからだった。地下ライブへ通い始めたのは。

    毎日。高円寺。中野。下北沢。阿佐ヶ谷。売れてない芸人たちを見続けた。だが目的は、笑うことじゃない。伸びる瞬間を探すこと。誰がバズるか。どの言葉が切り抜けるか。どの表情がサムネになるか。どこでコメント欄が荒れるか。高坂は、笑いを分析していた。いや、もっと正確に言えば拡散を分析していた。

    「今って、面白いと広がるって別なんですよ」

    高坂はよく言う。しかも、それを悪びれずに言う。

    「面白いだけじゃ埋もれるんです」

    その言葉を聞くたび、アキは少し苛立った。

    「じゃあ、お前は何を作ってるんだ」

    ある日、アキは聞いた。

    高坂は少し考え、笑う。

    「現象、ですかね」

    その答えが、アキには気持ち悪かった。

    現象。つまり中身ではない。熱狂。速度。空気。それ自体を商品にしている。

    高坂のチャンネル名は、『MUGEN CLIP』。登録者48万人。

    テレビ批評でもなく、芸人紹介でもない。まだ世間に見つかってないヤバいやつを発掘するチャンネル。その実態は少し違う。

    高坂が探しているのは、壊れそうな人間だった。危うい芸人。未完成な芸人。炎上しそうな芸人。情緒が不安定な芸人。コメント欄で賛否が割れる芸人。つまり、見たくなる人間。高坂は、それを嗅ぎ分ける才能だけは異常だった。

    「ジンボさんって、事故感あるんすよ」

    ある日、高坂は本人の前でそう言った。

    「事故感?」
    「次に何言うか分かんないじゃないですか」
    「まあ、自分でも分かってない時あります」
    「最高なんすよ、それ」
    「人って、ちゃんとしてるものより、壊れそうなもの見ちゃうんで」

    アキは、その言葉を聞いていた、そして気づく。高坂は芸人を人間として見ていない。コンテンツとして見ている。だから冷静なのだ。

    誰かが傷ついても。炎上しても。壊れても。数字が伸びれば勝ちだから。

    アキは、ある違和感も感じていた。高坂はジンボを見る時だけ少し目が違う。数字だけを見ている目ではない。もっと複雑な感情に感じた。

    ——

    深夜。撮影終わり。高坂は一人、編集室で動画を切っていた。暗い部屋。モニターだけが光っている。

    ジンボが意味不明なことを叫んでいる映像。スタッフが爆笑している。コメント欄が伸びる瞬間が、もう想像できる。

    高坂は、ふと手を止めた。

    動画の端。ほとんど映っていないアキを見る。笑っていない。ただ、ジンボを見ている。その目だけが引っかかった。

    「なんなんだよ、あの人」

    高坂は、小さく呟く。自分は伸びる人間を見抜ける。その自信があった。しかしアキだけは分からない。古い。地味。今っぽくない。なのに、なぜか、消える感じがしない。

    ジンボには羨望。嫉妬。憧れ。そして、敗北感を感じる。アキは違う。それが高坂には少し怖かった。


    【20話】声だけの場所

    ジンボの単独出演動画は、三日で100万回を超えた。

    コメント欄には、

    「天然バケモン見つけた」 
    「この人だけずっと見れる」
    「相方いるらしい」

    相方の名前すら出てこないようだ。アキは不思議と前ほど傷つかなかった。むしろ冷静だった。今の時代は、そういう速度なんだろう。

    誰か一人が切り抜かれ。 増幅され。記号になっていく。テレビのスターとも違う。もっと速く。もっと軽く。もっと残酷だ。

    ——

    ライブ後。若手芸人たちは、みんなスマホを見ていた。

    「やっぱショート強ぇな」
    「TikTok回ると一気だよな」
    「ネタよりキャラなんだよ今」

    その会話を聞きながらアキは思うキャラだけで本当に残るのか?昔も人気者はいたが、本当に長く残った芸人は「声」を持っていた。

    考え方。間。温度。人格。それが滲み出る場所がある。アキの頭の中で昨夜のラジオがまだ鳴っていた。

    「ラジオ?」

    ジンボは露骨に嫌そうな顔をした。

    深夜、二人はファミレスにいた。

    「いや、古くないすか?」
    「古いか?」
    「だって今、映像の時代っすよ?」
    「だからだ」

    アキはコーヒーを飲む。

    「映像は強い。強すぎる」
    「?」
    「人間、顔が映ると分かった気になる」

    ジンボは、ぽかんとしている。アキは続ける。

    「でも、本当は何も分かってない」

    ショート動画で切り抜かれるのは、結果だけだ。

    ツッコミ。奇声。リアクション。だが、その前後にある空気は消える。関係性も。沈黙も。失敗も。全部。

    ラジオだって、その一部分だけを切り抜かれることはある。でも、切り抜けない会話だってある。沈黙や間合い、言葉にならない空気は、切り取ろうとしても切り取れない。その相性はバカボンボンにはあると思う。

    「お前、本当は優しいだろ」
    「は?」
    「でも動画だと、ただのヤバいやつだ」
    「ヤバいやつっすよ」
    「違う」

    アキは即答する。

    「お前は、人が困ってると放っとけない」
    「お前の面白さは、暴れ方じゃない」
    「人間だ」

    ジンボは、視線を逸らした。こういう時だけ、弱い。

    「なんか恥ずいんすけど」
    「ラジオなら、それが出る」

    アキは言う。

    「声だけだから誤魔化せない」
    「でも、今さらラジオなんて誰が聞くんすか」
    「ラジオじゃない、今はポッドキャストって言うんだろ」
    「急に寄せてきたな」
    「うるさい」

    ジンボが吹き出す。久しぶりに、普通に笑った気がした。

    ——

    一週間後。二人は高円寺のコンビニ前にいた。

    深夜。道路脇の縁石。缶コーヒーと半分溶けたアイス。人通りは少ない。遠くで救急車の音だけが聞こえる。

    「で、どこで録るんすか」

    アキはポケットからスマホを取り出した。

    「ここ」
    「は?」
    「これで録る」
    「スマホ!?」
    「いやいやいや、ラジオ舐めすぎでしょ!」
    「ラジオじゃない。ポッドキャストだ」
    「急に言い直すな」

    アキは、スマホの録音アプリを開く。画面にはシンプルな赤い丸。REC。

    「機材とかいらん」
    「なんで」
    「今の俺たちに、綺麗な音はいらんだろ」

    ジンボは少し黙る。確かにそうだった。今のバカボンボンは、整っていない。売れかけ。炎上しかけ。壊れかけ。その途中にいる。だったら、雑音ごと残した方がいい気がした。

    「タイトルどうします?」
    「決まってない」

    候補だけはある。

    『バカボンボンの終電前』
    『ジンボとアキの途中』
    『まだ売れてません』

    どれもしっくりこないな。

    「まあ、とりあえず録るか」

    アキが言う。RECボタンを押す。周囲の音が、急に気になり始める。車の走行音。自転車。コンビニの自動ドア。全部、入る。

    「始めろよ」
    「いや、アキさんがやるんじゃないんすか」
    「お前だろ」
    「なんで俺!?」

    そのやり取りだけで、二人とも少し笑ってしまう。アキは、その瞬間に気づく。舞台と違う。客がいない。拍手もない。順位もない。「今ウケたか」が分からない。でも逆に、だからこそ、変に盛らなくていい。空気を作らなくていい。沈黙を埋めなくていい。

    「こんばんは」

    アキが、スマホに向かって言う。

    「バカボンボンのアキです」
    「ジンボです」
    「このラジオは」
    「だからポッドキャストな」
    「うるさい」

    ジンボが笑う。アキも少し笑う。

    スマホ一台。ただ、それだけ。

    アキの背中に妙な感覚が走る。懐かしい。テレビでもない。舞台でもない。もっと昔。売れる前。ファミレスで始発まで喋っていた頃。誰にも聞かれていないのに、笑いについて本気で話していた時代。あの頃に近い。勝ち負けじゃない。人気でもない。ただ、誰かに届くかもしれないという感覚。

    その時だった。ジンボが、急に言う。

    「でもアキさん、最近マジで怖かったっすよ」
    「何が」
    「俺だけ売れてく空気になってた時」

    アキは、黙る。沈黙。遠くでバイクの音が走る。舞台なら切る沈黙。でも今は違う。この間ごと残る。

    「絶対、嫌だったじゃないすか」

    アキは、少し考える。誤魔化そうともした。

    でも、スマホ一台の前だと、変に嘘をつく気になれなかった。

    「嫌だったよ」

    ジンボが少し驚く。

    「でも」

    アキは続ける。

    「嬉しくもあった」
    「え?」
    「お前、本当に面白いから」

    ジンボが黙る。コンビニの明かりだけが、二人を照らしている。その空気ごと。スマホが録っている。

    アキは思う、これだ。爆笑じゃない。切り抜きでもない。でも、この雑音混じりの空気は、たぶん残る。誰かの帰り道に。眠れない夜に。イヤホンの向こうで。静かに届く。そんな気がした。

    この録音を具体的にどうやって人に伝えるか、届けるか。今はそんなことは何も考えていないかった。この時間が大事だからだ。


    【21話】売れる匂い

    OFFICE BATON(オフィス バトン) 代表取締役・佐伯恒一は、会議室で一人、バカボンボンの動画を見ていた

    フロアには、もう誰もいない。さっきまで若手マネージャーたちが騒いでいた会議室も静まり返っている。窓の外では、都心の高速道路だけが白く光っていた。佐伯は、椅子に深く座ったままスマホを眺める。音量は小さい。なぜなら、それで十分だからだ。もう長いこと、笑いを音で判断していない。どこで空気が変わるか。流れを見るだけで、来る芸人は分かる。少なくとも、今までは。

    画面の中で、ジンボが笑っている。急に大声を出し、意味不明なことを叫び、空気を壊す。

    コメント欄を見る。

    「ジンボやばい」
    「この人ほんと天才」
    「次に何言うか分からん」
    「空気がクセになる」

    佐伯は動画を止める。そして、画面の端を見る。そこには、相方のアキがいた。妙に引っかかった。佐伯は、小さく呟いた。

    「お前は何者だ」

    最初は、ただの若手だと思っていた。正確には、古い若手のようだ。今の時代には珍しいタイプ。少し違和感があった。ジンボが暴れるほど。アキが黙るほど。なぜかコンビの空気が強くなる。普通なら逆だ。片方が突出すると、もう片方は消える。だがアキは消えない。存在感ではない。もっと嫌なものだ。空気として残っている。それが、佐伯には気持ち悪かった。

    佐伯は、昔のことを思い出す。まだ自分が若手マネージャーだった頃。売れていない芸人たちと、狭いライブハウスを回っていた時代。

    その頃、アキに似た男がいた。楽屋では誰よりも静かだった。後輩が騒いでいても、一人だけ端でノートを書いていた。愛想もない。媚びもしない。一度舞台へ出ると、空気が変わった。ボケでもない。声量でもない。間だった。

    沈黙を怖がらない。客席が不安になるギリギリまで止まる。そして、その後に笑いを爆発させる。佐伯は、その芸を初めて見た時、少し震えた。これは売れる。そう確信した。実際、売れた。だが、その男は最後、壊れた。売れた芸人が壊れる瞬間を、佐伯は何度も見てきた。酒。女。借金。炎上。病気。色んな壊れ方がある。でも本当に怖いのは、笑いそのものに壊される人間だ。もっと面白く。もっと届かせたい。その執着だけで、自分を削り始める。

    生活。人間関係。自意識。全部を壊しながら、前へ行く。その時だった。

    「佐伯さん」

    若い社員が、会議室のドアから顔を出した。二十代前半。最近入った新人マネージャーだ。

    「まだいたんですか」
    「ああ」

    スマホに目をやる若い社員

    「バカボンボンですよね?」
    「ああ」
    「その子ら、押さえます?」
    「いや、まだだな」

    佐伯は少し笑う。

    「今契約すると、普通になる」

    新人は意味が分からない顔をした。無理もない。彼らの世代はある程度、数字が見えるものを探す。再生数。バズ。即戦力。佐伯は違った。商品になる前の熱を見てきた。整える前。言語化される前。まだ本人たちも正体を理解していない状態。そこに、一番危険な熱がある。

    佐伯は、もう一度画面を見る。ネタなし。沈黙。空気。こんなもの、普通は商品にならない。スポンサー説明も難しい。テレビも嫌がる。不安定すぎるが、商品になる前の匂いだけは、確かにあった。

    「今はまだ、野良犬のままでいい」

    佐伯はそう言った。新人は曖昧に頷き、去っていく。静かになった会議室で、佐伯は、もう一度だけ動画を再生する。ジンボが笑っている。その横でアキが、ほんの少しだけ笑う。その瞬間、佐伯の背中に寒気が走った。あまりにも懐かしい。昔、自分が見ていた「あの男」に似ている。

    同時に違う感覚。昔にはなかった危うさが今のアキにはある。まるでどこかへ辿り着こうとしている人間の目だった。佐伯は、動画の画面を止める。そして小さく呟く。

    「お前、何を見てるんだ」

    本当に売れる前の芸人は少し壊れると佐伯は知っている。あの男も少し壊れていた、最後は壊してしまった。

    佐伯は、スマホの電話帳を見る。もう何年も、かけていない番号がある。

    秋山 巌。

    業界から消えた男。今、誰も居場所を知らない男。佐伯は少しだけ迷う。そして。ゆっくり発信ボタンを押した。

    コール音。

    一回。

    二回。

    三回。

    出ない。

    やはり、と思ったその時。不意に電話が繋がった。

    佐伯は小さく息を飲む。そして静かに言った。

    「お久しぶりです」


    【22話】帰り道に聞く声

    宮下春奈は、毎週木曜の深夜を少しだけ楽しみにしている。木曜は、決まって帰りが遅くなる。広告代理店の営業フロアは、二十二時を過ぎても白かった。モニターの光。未読のチャット。鳴り続ける通知音。会議室では、誰かがまだ企画を詰めている。

    「この動画、最初の三秒弱いよね」
    「もっと“引き”欲しいです」
    「離脱率、高すぎます」

    そんな言葉が、毎日飛び交う。春奈も、それを仕事にしている。人が何を見るか。どこで止まるか。何秒なら耐えられるか。好きを分析して、数字へ変える仕事。昔は、もっと単純だった気がする。面白い広告を作りたかった。誰かの心に残るものを作りたかった。でも、いつの間にか、残るより伸びるを優先するようになっていた。気づけば自分が何を好きなのか分からなくなる日がある。その夜も終電間際だった。

    春奈は会社を出ると駅前のコンビニへ寄る。ホットのカフェラテ。少しだけ甘い。毎週、同じものを買う。改札を抜けながら、AirPodsを耳へ入れる。アプリを開く。再生履歴の一番上。

    『バカボンボンの途中 第5回』

    再生ボタンを押す。雑音が流れる。車の音。コンビニの自動ドア。遠くの笑い声。録音環境は、正直かなり悪い。たまに風の音まで入っている。

    再生数も少ない。SNSで話題になっているわけでもない。なのに不思議と毎週聞いてしまう。

    『いや、お前あの時マジで最低だったぞ』
    『違うんすよ! あれには理由あるんすよ!』
    『理由で許されるなら警察いらんだろ』
    『急に重いんだよ!』

    春奈は、ホームへ向かいながら少し笑う。映像はない。顔も見えない。不思議と2人が向き合う姿がぼんやりと見える。

    アキが少し呆れた顔をしているのも、ジンボが身振り手振りしながら喋っているのも、なんとなく分かる。最近、それが嬉しかった。

    今のSNSは、分かりやすさばかり求められる。一瞬で伝わること。切り抜けること。説明不要なこと。でもバカボンボンのポッドキャストは逆だった。

    沈黙がある。会話が脱線する。変な空気になる。たまに数秒、誰も喋らない。普通ならカットするような時間が、そのまま残っている。それが本物っぽかった。春奈は思い出す。初めて地下ライブでバカボンボンを見た日のことを。

    雑居ビル。地下へ続く狭い階段。客席は少なく椅子もバラバラ。全然売れてない芸人ばかりが出るライブだった。

    ジンボは、その頃から変だった。急に大声を出したり。話がどこへ行くか分からなかったり。でも。春奈の記憶に残っているのは、そこじゃない。ネタの途中にジンボが噛んで一瞬空気が止まった時、アキが横で少しだけ笑った。客席へ向けた笑いじゃない、相方に向けた笑い。その瞬間だけ。舞台の空気が変わったことを春奈は今でも覚えている。

    面白いというより。誰かと生きている感じ。それが好きだった。だから多分、自分はバカボンボンのネタだけを好きなわけじゃない。二人の間に流れている、説明できない空気を聞いていたいのだ。

    電車がホームへ入ってくる。人の波。疲れた顔。スマホを見る人たち。その中で春奈だけがイヤホンの向こうの雑音を聞いている。

    『売れるって、よく分かんなくなってきた』

    アキの声が聞こえる。

    少し低くて。少し疲れている。少し間が空く。その沈黙を、ジンボが笑って崩す。

    『じゃあ俺ら、今どこ向かってるんすか』

    電車のドアが開く。春奈は乗り込む。窓へ映る自分の顔が少しだけ疲れて見えた。たぶん、この二人は、いつか離れる。なんとなく分かる。今の勢いなら、ジンボはもっと大きくなる。テレビか。配信か。もっと遠い場所へ行く。アキは、そこへついていけないかもしれない。いや、ついていかない気がする。でも、だからこそ今の声を聞いていたかった。売れる前の、まだ何者でもない途中の声。

    春奈は、スマホを少しだけ握りしめる。SNSには書かない。誰にも言わない。でも。このラジオだけは、毎週ちゃんと聞こうと思った。イヤホンの向こうで、ジンボがまた笑っている。

    『じゃあ俺ら、今どこ向かってるんすか』

    それにつられて、アキも少しだけ笑う。その空気を聞きながら。春奈は小さく思った。

    (それを探してる途中なんじゃないですか。)

    気づくと私は少し笑っていた。向かいに座った女性が不思議そうにこちらを見ている。春奈は少しだけ照れくさくなって視線を逸らした。少し迷ってから指が動く。

    『最近、帰り道に聞いてます。笑えるというより、安心します。』

    ラジオネーム「木曜の帰り道」

    送信。

    春奈はスマホを閉じる。イヤホンの向こうではまだ二人の声が続いていた。

    春奈は、初めてメッセージを送った。


    【23話】声の届く速度

    その夜のライブは空気が軽かった。楽屋では誰もネタの話をしていない。みんなスマホを見ていた。

    「ジンボ、昨日また伸びてたな」
    「今あれ何万?」
    「ショートだけで120万とか?」

    芸人たちが半分冗談みたいに騒ぐ。ジンボは、「いやマジ意味わかんないっす」と笑っている。アキは少し離れた椅子に座っていた。最近、この距離が増えた。ジンボが、見つかり始めている。それが分かるからこそ、少し怖かった。その時だった。

    「アキさん」

    高坂が近づいてきた。いつもの黒いパーカー。眠そうな目。だが今日は少し興奮している。

    「昨日の切り抜き、分析出たんすけど」
    「分析?」
    「どこで人が離脱してるかとか」
    「ジンボさんが急に変なこと言う瞬間、視聴維持率めっちゃ上がるんすよ」
    「逆に、アキさんが入るとちょっと落ちます」

    高坂は、当然のように言う。悪気はない。若い頃なら怒ってぶん殴っていた。本当に高坂にとっては、それはただのデータだった。アキは、少し笑った。

    「そうか」
    「でも、アキさん必要なんすよ」

    高坂は続ける。

    「フリがあるから、ジンボさんが跳ねるんで」

    その言葉にアキは何も返さない。ツッコミは説明じゃない、構造があるから笑いになる。そう反論していたが今は違う。高坂の言っていることも、分かってしまう。今の時代の笑いは、「流れ」ではなく「瞬間」で消費される。前後はいらない。文脈もいらない。一番強い五秒だけが残る。

    ジンボが、横から割って入った。

    「でも俺、一人じゃ無理っすよ」

    高坂が振り向く。

    「え?」
    「なんか、アキさんいないと変な感じするんすよ」
    「いやでも動画的には」
    「動画じゃなくて」

    ジンボは、珍しく真顔だった。

    「なんて言えばいいんだろ」

    少し考えて。

    「アキさんいると、戻れるんすよ」

    高坂は、少し黙る。意味が分からない、という顔。でもアキだけは、その言葉の意味が分かった。ジンボは、暴走する。どこまででも行く。だからこそ戻る場所が必要なのだ。舞台上の間。沈黙。空気。全部、そのためにある。

    「でも今の時代、その空気って動画になりづらいんですよね」
    「空気は、切り抜けないんで」

    アキは、その言葉が残った。

    (空気は、切り抜けないか。)

    ——

    帰り道。ジンボは先に電車へ乗った。

    「アキさん、また連絡します!」

    ジンボは雑に手を振って消えていく。

    一人になったホームで、アキはスマホでポッドキャストの管理画面を見ていた。再生数。フォロワー数。ライブの順位よりも、ショート動画の再生数よりも、ずっと小さい。若い頃なら、喉から手が出るほど欲しかった数字。なのに今はどこか遠く感じる。向かいのホームから、笑い声が聞こえた。

    サラリーマン二人組。イヤホンを片方ずつ分けて、何かを聞きながら笑っている。動画ではない。画面も見ていない。ただ、声だけ。笑いは、もっと遅くてもいいんじゃないか。もっと、一人に残るものでもいいんじゃないか。

    高坂の言葉が、頭の中で反響する。

    「空気は、切り抜けない」

    だったら、切り抜けない場所を最初から作ればいい。アキはホームのベンチに座る。電車が来るまで少しだけ時間があった。スマホを開く。ポッドキャストの最新回。雑音だらけの録音。コンビニの自動ドア。車の音。ジンボの笑い声。そして、沈黙。全部がそのまま入っている。ひどいコンテンツだ。でも、それが今の自分たらしいとアキは初めて思った。これでいいのかもしれない。

    ——

    数日後、二人はコンビニの駐車場にいた。アキは何ポッドキャストの管理画面を開いていた。再生数は、相変わらず大したことがない。ランキングにも入っていない。そこにメールの通知が一件あった。アキは少しだけ眉を上げる。

    「なんすか?」

    横でコンビニのおにぎりを食べていたジンボが覗き込む。

    「メール来てる」
    「マジで?」

    アキは、メールを開く。

    ラジオネーム「木曜の帰り道」

    『最近、帰り道に聞いてます。笑えるというより、安心します。』

    ジンボが、少し首を傾げる。

    「安心?」

    アキは小さく笑う。遠くで車が通り過ぎる。その沈黙を埋めるように、ジンボが言う。

    「なんかラジオっぽくなってきましたね」

    画面を見つめたまま小さく呟く。

    「ちゃんと聞いてる奴、いるんだな」

    ジンボは、まだ不思議そうな顔をしている。アキの中では、何かが変わり始めていた。爆笑じゃなくてもいい。順位じゃなくてもいい。誰かの帰り道に届いた声がある事実、それだけで嬉しい。少しだけ次の場所が見えた気がした。

    (人は消えても、声は残る。)

    コンビニ店内の雑誌コーナーの前で立ち読みをしていたおじさんが週刊誌を棚へ戻す。表紙がこちらを向いた。

    『秋山 巌。年末に審査員で電撃復帰!?』

    アキとジンボは、その見出しに気づいていない。駐車場の縁石に座ったまま、ぼんやり道路を見ていた。


    【24話】電話の相手

    翌日。アキのスマホに知らない番号から電話があった。画面には登録されていない番号だけが表示されている。アキは一度無視した。数秒後に留守電通知が入る。再生する。

    『OFFICE BATONの佐伯です。少し話せますか』

    その名前を聞いた瞬間、アキの指が止まった。

    胸の奥がざわつく。懐かしい感覚だけが残った。アキはスマホを見つめる。少し考えたあと、折り返し電話をかけた。数コールで繋がる。

    『もしもし』

    低く、落ち着いた声だった。

    「アキです」

    『ああ。久しぶりだな』

    その言葉にアキは少し黙る。地下ライブで会っているが、それ以上の「久しぶり」に聞こえた。

    『今夜、少し話せるか』

    ——

    その夜。アキは、指定された喫茶店へ向かった。駅から少し離れた古い店だった。入口には「珈琲」の文字だけがある。中ではジャズが流れていた。客は少ない。カウンターに老人が一人。奥で大学生らしき男女が話している。

    佐伯は一番奥の席にいた。黒いコート。白髪混じりの短い髪。歳を取っているはずなのに目だけは鋭かった。

    「久しぶり、地下ライブ以来かな」

    佐伯はそう言って笑った。

    「お久しぶりです。どこで俺の番号知ったんですか?」

    アキが言う。佐伯は少しだけ黙った。

    「君の相方のジンボ君からだよ」
    「そうですか(あいつ勝手に)」

    思わず小さく漏れる。佐伯は少し笑った。

    「いい相方だな」

    その言い方が、どこか昔を知っている人間のようで、
    アキは少しだけ違和感を覚えた。

    店員が水を置く。氷の音だけが小さく鳴る。佐伯は、コーヒーに手をつけず、まるで何かを確かめるように。アキを見ていた。

    「最近、何をやってる?」
    「ライブとポッドキャストを」
    「ラジオか」
    「今はポッドキャストって言うらしいです」
    「言い方はどうでもいい」

    佐伯は低く言った。

    「バカボンボンは何を目指している?」

    アキは答えられなかった。売れたい。有名になりたい。賞レースで勝ちたい。そう言えば楽だった。最近はその言葉が軽く感じる。ライブの順位。再生数。切り抜き動画。それだけじゃない場所を目指している。

    「分かりません」

    佐伯は、少し笑った。

    「分からない奴は危ない」
    「危ない?」
    「本気でどこかへ行こうとしている奴ほど、自分がどこへ向かっているか分かっていないものだ」

    その言葉は重かった。佐伯は、ようやくコーヒーへ口をつける。

    「昔にもいたよ。そういうコンビ」

    アキは顔を上げる。

    「最初は、誰にも理解されなかった」

    佐伯は、どこか遠くを見る。

    「でも、気づいた時には時代を変えていた」
    「その人たちは?」

    佐伯は少しだけ笑った。

    「壊れてしまったかな」

    店の奥で、氷の音が鳴る。

    アキは、何も言えなかった。

    「芸人ってのはな」

    佐伯は静かに続ける。

    「笑いを掘り始めると、途中から客じゃなく自分を見始める」
    「自分ですか」
    「どこまで面白くなれるか。どこまで行けるか。何を失うか」

    佐伯は、アキを見る。

    「そこまで行く奴は少ない。でも行った奴は、大抵戻ってこない」

    アキは、その言葉に引っ掛かりを覚えた。まるで佐伯が今の自分ではなく、
    別の秋山 巌へ話している気がした。

    「佐伯さん」
    「ん?」
    「なんで連絡を?」

    佐伯は少し黙る。そして、静かに言った。

    「似てるんだよ。秋山 巌に。知ってるだろ?あの秋山だ。」

    アキは何も言えない。

    「その若さで立ち振る舞いが違う」
    「例えば手の所作。置き所が気にならない」
    「無駄な動きがないから客がネタに集中できる」
    「普通の若手は、緊張すると手が泳ぐ」

    佐伯は自分の手を軽く動かして見せる。

    「マイクを触る。服をいじる。目線が落ちる。間が怖くなる」

    店内のジャズが、静かに流れている。

    「でも、お前は違う」

    佐伯はアキを見る。アキは居心地の悪さを覚えた。

    「そんな分かるもんですか」
    「分かる」

    佐伯は即答した。

    「長く芸人見てると、喋りより先に身体を見るようになる」
    「身体?」
    「芸人ってのは、売れる前に身体が変わる」

    アキは眉をひそめる。

    「どういう意味ですか」
    「説明は難しいな」

    そして、静かに続けた。

    「笑いが染み込むんだよ」
    「立ち方。息を吸う間。視線。沈黙の置き方」

    佐伯は、昔を思い出すように言う。

    「売れる芸人は、途中から“喋る前”に分かる」

    佐伯は、また笑った。

    「お前見てると、たまに怖くなる」
    「怖い?」
    「若すぎるんだよ」

    店の外を救急車の音が通り過ぎていく。沈黙が落ちたあと、佐伯は静かに言った。

    「どうだ。うちへ来ないか」
    「事務所?、ですか」
    「別に今すぐ売り出したいわけじゃない」
    「ただ、お前らは放っておくと危ない気がする」
    「危ないって、さっきから何なんですか」
    「芸人には二種類いる。」
    「売れたい奴と、笑いに取り憑かれる奴だ。」
    「前者は途中で辞められる。」

    佐伯は、アキを見る。

    「後者は、壊れるまでやる」

    アキは息が詰まった。その言葉を知っている気がした。

    「お前は、多分そっち側だ」

    長い沈黙。佐伯は、視線を落としたまま言う。

    「だから、誰かが近くにいないと駄目なんだよ」

    佐伯は立ち上がる。

    「すぐに結論は出さなくていい」

    コートを羽織りながら、静かに続けた。

    「少し考えてくれ」

    そう言って、佐伯は先に店を出た。

    アキは店の外で立ち止まる。佐伯が自分を見ていない気がした。もっと遠くにいる誰かをアキ越しに見ている目だった。

    ミミ

    喫茶店を出た後、佐伯は先日の夜のことを思い出していた。秋山 巌へ電話した夜だ。

    スキャンダル後、姿を消した秋山 巌は鹿児島にいた。

    秋山の相方は、鹿児島出身だった。病気で早くに亡くなった。墓も故郷にある。秋山は、毎年この時期だけ鹿児島へ行く。線香をあげて、墓の前で喋るらしい。電話越しの秋山の声は静かだった。長い時間をかけて、少しずつ人間ではなくなっているような声だった。電話を切ったあと、佐伯は気持ち悪くなった。

    バカボンボンのアキの声を聞いた瞬間も同じような感覚だった。忘れかけていた秋山 巌を、思い出してしまったからだ。


    【25話】まだ名前のない亡霊

    ライブハウスの廊下で、年配の作家がアキを見て固まった。

    「君、どこかで会ったか?」
    「いえ」
    「そうか、すまない」

    それだけ言って去っていった。

    別の日。高坂が古い映像を持ってきた。

    「アキさん、これ見たことあります?」

    画面には、若い頃の秋山 巌が映っていた。キャンダル後、行方が分からなくなった芸人であり、60歳の時の自分だ。知らない記憶が胸の奥で揺れた。

    映像の中の秋山巌は、黙っていた。長く、怖いほど黙っていた。そして一言だけ言った。会場が爆発する。ジンボが横から覗き込む。

    「すげぇ、今のアキさんに似てますね」
    「似てないだろ」
    「いや、間が」

    アキは画面をぼんやり見つめていた。胸の奥がざわついている。

    若い頃の秋山 巌。画面の中の自分は痩せすぎていた。そして、鋭かった。笑っていないのに、どこか笑っているような目。客を見ているというより、もっと別の何かを見ている。あれは、面白くなろうとしている人間の顔じゃない。危ない。何かに取り憑かれている顔だった。

    長い沈黙。削り込まれた間。客席を支配する空気。普通の芸人なら、怖くて埋めてしまう。だが、昔の秋山 巌は黙っていた。笑いが起きることより、もっと別の場所へ行こうとしているように見えた。

    小さく息を吐く。知らないはずなのに分かってしまう。あの頃の自分は、笑いで何かを描こうとしていた。まだ誰も見たことのない、白紙のお笑い地図みたいな場所へ。同時にその笑いは誰かを刺しかねない危うさもあった。削りすぎた鉛筆みたいだった。

    細く。鋭く。少し力を入れれば簡単に折れる。それでも削ることをやめない。描こうとすることをやめない。描いているのか、傷つけているのか、
    もう本人にも分からなくなっていた。背中に薄く汗を感じる。怖かった。才能じゃない。あの頃の秋山巌は、気持ち悪い顔をしていた。匂いも良くない。見た目の話ではない、感じる気持ち悪さ。そして、嫌な匂いが漂っている。奥へ奥へ。誰もいない場所まで、一人で潜っていく人間の顔だった。そして、今の自分の中にも、少しだけ同じ匂いがあることに気づいてしまった。

    ジンボが、横から覗き込む。

    「でも、めちゃくちゃカッコいいっすね」

    アキは、少し間を空けてから言った。

    「カッコよくないよ」

    画面の向こうの秋山巌を見る。

    「壊れる直前だ」

    ミミ

    その夜。ポッドキャストの収録が終わったあと、
    アキは一人でメールを整理していた。

    最近、少しずつお便りが増えている。

    再生数はまだ小さいが、毎週聞いている人間が確実にいる。それが、不思議だった。ジンボは先に帰った。スマホの画面を指で流していると、一通のメールで手が止まった。

    ラジオネーム「終電前の客」

    本文は短かった。

    『鹿児島で聞いています。アキさんの声を聞いていると昔を思い出します。』

    しばらく画面を見つめていた。

    鹿児島。その文字に引っかかった。アキは、スマホをポケットへしまう。

    知らない誰かが、どこかで自分たちの声を聞いている。そのなかに、亡霊みたいなリスナーがいる。そのリスナーは笑っているのだろうか。


    【26話】無人駅

    ここは鹿児島県の中央部に位置する

    霧島市横川町。

    平成の大合併後、町の名前は残った。閉まったままの商店。人のいなくなった家。夜になると、道路から車の音まで消える。豊かな自然と、人のあたたかさが残る小さな町。時間だけが、ゆっくり流れている。鹿児島空港から車で二十分ほど。高速道路のインターも近い。

    若い人間は少しずつ町を出ていった。コンビニや物産店は残っている。大きなスーパーへ行くには隣町まで車を走らせなければならない。この町には明治三十六年に建てられた、県内最古木造駅舎の無人駅の大隅横川駅がある。

    古い柱。木の窓枠。無人の出札口。誰もいない駅なのに、人の気配だけが残っている。柱には、戦争中の機銃掃射の跡が残っていた。黒く抉れた小さな穴。時間だけが通り過ぎて、傷だけがそこへ残されたみたいだった。

    昔、相方がテレビを見ながら言っていた。

    「一度は降りてみたい、日本の美しい無人駅だってよ」
    「美しいっていうか、寂しいだけだろ」

    そう返すと、相方は笑っていた。

    秋山は駅前の古いベンチへ座っていた。足元には、自販機で買った缶コーヒー。この町に相方の眠る墓がある。相方の墓の前では、なぜか昔のことばかり思い出した。売れ始めた頃。妻と出会った日。壊れ始めた夜。そして、全部を知っていた顔。秋山は、もう怒っていなかった。裏切りは、だいたい売れた後に起きる。昔、あいつがそう言っていた。

    この町には、人の声が長く残る。人の気配も、簡単には消えない。忘れたはずの記憶まで、夜になると静かに戻ってくる。売れる前、二人で何度も来た町だった。

    秋山は、スマホを膝の上へ置く。画面には、バカボンボンのポッドキャストが流れていた。

    ジンボが笑う。アキの声が返る。雑音。コンビニの自動ドア。車の音。全部、そのまま入っている。昔、売れる前もこんな感じだった。安いアパート。ネタ終わりの深夜。相方と二人で、意味もなく朝まで喋っていた。あの頃は、まだ何者でもなかった。だから、面白かった。

    誰にも期待されていなかった。誰にも失望されていなかった。ただ、目指す笑いだけがあった。

    一両だけの列車が、ゆっくりホームへ入ってくる。ブレーキの音が、夜の駅へ長く伸びていく。ポッドキャストの中でアキが喋る。アキは昔の自分に似ていた。笑いの奥へ入り始める前の空気。客を笑わせることより、もっと別の何かを見始めた時の顔。秋山は、小さく目を閉じる。若い頃に相方によく言われた。

    「お前、たまに帰ってこなくなるよな」

    意味は、ずっと分からなかった。でも今なら、分かる気がした。笑いの奥には誰もいない場所がある。そこへ行こうとする人間は、時々戻ってこられなくなる。ポッドキャストの向こうで、ジンボが笑っている。その笑い声だけが少し救いみたいに聞こえた。

    秋山は、スマホの上で指を動かす。

    ラジオネーム「終電前の客」

    短いメールを書く。

    『いつも楽しい時間、ごちそうさまです。』

    送信。

    遠くで、踏切の音が鳴っている。夜の無人駅。古い木造駅舎。誰もいないホーム。風だけが、静かに通り過ぎていく。

    スマホの画面が、一瞬だけ光る。

    ニュースアプリ。自分の名前。もう見慣れた見出し。秋山は通知を消した。

    もう誰が嘘を作ったのかも知っている。誰が隣にいたのかも。全部知った上で、もう何も言う気が起きなかった。ここなら、ゆっくり休める。秋山は、年末までこの町へ沈むつもりだった。もう戻る場所もない。妻も。家も。テレビも。全部、遠い場所へ置いてきた。

    この町には少しだけ不思議な力がある。誰もいない、完全な無人駅。送り出す人も、迎え入れる人もいない。この場所だけ、時間が止まっているみたいだった。ただ、人だけが通り過ぎていく。列車だけは静かにやって来る。

    人が消えても。声だけは、なかなか消えない。そして時々、消えたはずの人間まで、帰ってきてしまう。


    【27話】ライブとラジオの逆転

    ライブでは、バカボンボンの順位はそれほど上がらない。一位ではない。爆発的にウケる日もあれば、普通に滑る日もある。ライブ終わりの順位表。中途半端な名前の位置。若手芸人たちは、もっと分かりやすい結果を欲しがっていた。なのにバカボンボンは、良くも悪くも順位に固執していなかった。

    アキはポッドキャストの管理画面を眺めていた。そして、不思議なことが起き始めていた。

    『毎週、風呂掃除しながら聞いてます』
    『寝る前に流してます』
    『通勤の時だけ聞いてます』
    『ジンボさんが黙った回、何回も聞きました』
    『アキさんの笑い声が好きです』

    どれも派手な感想ではなかったがメールが少しずつ増えている。ライブより、こちらの反応が多い。ジンボは、スマホを見ながら不思議そうに言った。

    「俺ら、ウケてんすかね」
    「分からん」

    アキは、缶コーヒーを開ける。

    「でもメールは来る」
    「そうなんすよね」

    二人の横を、大型トラックが通り過ぎていく。

    ライブハウスでは、若手芸人たちがざわついていた。

    「あいつら最近、客増えてないのに名前だけ広がってない?」
    「ラジオ聞いてますって言われたわ」
    「ライブ来いよって感じだけどな」

    笑いながら言っている。だが、どこか落ち着かない空気もあった。ただファンが増えている感じではない。再生数とも違う。動員とも違う。もっと見えにくい熱だった。ラジオの中に人が少しずつ住み始めている。ライブ会場の拍手の外側で、何かが育っていた。

    ライブ終わりに、一人の客がアキへ声をかけた。二十代後半くらいの女だった。

    「今日、初めてライブ見ました」
    「ありがとうございます」
    「でも、ラジオはずっと聞いてました」

    アキは、少しだけ驚いた。順番が逆だった。舞台を見て、ラジオを聞くのではない。声を聞いて、舞台へ来たのだ。女は少し笑う。

    「なんか、本当にいるんだって思いました」

    照れた顔で、それだけ言って帰っていった。

    ジンボが、その背中を見ながら言う。

    「なんか変っすね」
    「何が」
    「俺ら、見られる前に聞かれてるって」

    アキは小さく頷く。拍手の届かない場所にも、いつの間にか人がいた。この現象をまだ信じることができなかった。

    また「終電前の客」からのメールが届いた。本文は短かった。

    アキは、画面を見つめたまま動かなかった。書かれたメールの内容から目が離せなかった。そこに書かれていたのは、ライブの感想ではなかった。

    もっと昔の、秋山 巌を知っている人間の言葉だった。

    深夜のコンビニ。車の音。自動ドアの開く音。ジンボの笑い声。その全部が少し遠く聞こえた。


    【28話】もう信じていない場所へ

    賞レースのエントリー締切が近づいていた。昔のアキなら、迷わなかった。賞レースは戦場だった。勝つ場所。証明する場所。自分たちが面白いと世間へ叩きつける場所。今は少し違っていた。アキは、もう賞レースを完全には信じていなかった。

    点数。審査。順位。それらが、笑いの全てではないことを知り始めてしまった。

    ライブで一位を取った夜より。ラジオに届いた短いメールの方が、
    ずっと残る日がある。それを、知ってしまった。それでも、エントリー画面を前にすると、胸の奥が少しざわつく。ジンボが、横から画面を覗き込む。

    「出るんすか?」
    「どう思う」
    「俺は出たいっす」
    「勝ちたいから?」

    ジンボは、少しだけ考えた。深夜、コンビニの駐車場で冷たい缶コーヒーを指で回しながら、ぽつりと言う。

    「いや、なんか」

    夜空を見る。

    「今の俺らが、どこまで行けるか見たいっす」

    アキはその言葉を聞いて少し笑った。同じだった。勝つためだけではない。今、自分たちが作り始めているものが、どこまで届くのか。それを確かめたかった。アキは、スマホの入力欄を見つめる。

    コンビ名「バカボンボン」

    エントリーメンバー
    「秋山 巌」
    「神保 蓮」

    入力しながら、不思議と指が震えた。もう信じていない場所へ戻る。逃げるためではない。確かめるためだ。本当に今の笑いが届くのか。それとも昔の秋山 巌みたいに、またどこかへ消えていくのか。

    受付完了の画面が表示される。

    ジンボが、少し笑った。

    「なんか始まりますね」

    アキは、スマホの画面を見つめたまま言う。

    「もう始まってる」

    そう言って、アキはポッドキャストの通知一覧を開く。

    ラジオネーム「終電前の客」の前に届いたメール。

    本文は短かった。

    『年末、待ってます。私はそこにいます。』

    背中に薄く汗が滲む。隣で、ジンボが呑気に笑っている。

    「またその人っすか?」

    アキは、すぐに画面を閉じた。

    「ただのリスナーだよ」

    そう言いながら。アキは、自分の指先を見ていた。少しだけ震えている。自分でも、その言葉を信じていなかった。

    ミミ

    その夜。

    OFFICE BATONでは、佐伯が賞レースの審査員候補リストを見ていた。何枚も並ぶ資料。スポンサー。演出案。若手芸人のプロフィール。その中で一つの名前だけが重かった。

    「秋山 巌」

    佐伯の指が止まる。静かな事務所。窓の外では、雨が降り始めていた。佐伯は、長く息を吐く。

    「あんた、本当に戻ってくるのか」

    誰もいない部屋で、その声だけが静かに沈んでいった。


    【29話】見えてしまうもの

    賞レースのエントリーを終えてからも、バカボンボンの日常は変わらなかった。ライブ。ネタ合わせ。深夜のコンビニ。ポッドキャスト。ただ、ジンボは、最近アキを見る時間が増えていた。本人は気付いていない。どこか変だった。ライブ終わりに若手芸人たちが結果表の前に集まっている。

    「今日、あそこミスったな」
    「オチ、弱かったわ」
    「もっとテンポ上げれば良かった」

    いつもの反省会。順位。ウケ量。再生数。みんな、数字の話をしている。その中でアキだけが違う場所を見ていた。順位表ではない。客席だった。

    「どうしたんすか」

    ジンボが聞く。アキは、客席後方を指差した。

    「あそこ」
    「え?」
    「三列目の端」

    ジンボは振り返る。もちろん、もう誰もいない。

    「夫婦で来てたろ」
    「いましたっけ?」
    「途中から喧嘩してた」
    「見てねぇっすよ」
    「見ろよ」

    アキは当たり前みたいに言う。

    「旦那は最初から帰りたかったんだよ」
    「分かるんすか?」
    「分かる」
    「なんで」
    「顔」

    ジンボは笑った。アキは笑っていなかった。本気で言っている。ジンボは少しだけ寒気がした。

    ミミ

    別の日。ネタ見せ。芸人たちが、オチや展開について議論している。

    「最後、もっと大きいボケが欲しい」
    「説明、削ろう」
    「ツッコミ、増やそう」

    そんな話ばかりだった。

    「このネタだけど、」

    アキが入る。全員が見る。

    「最初の二十秒で嫌われる」
    「客が置いていかれる」
    「この設定、お前らは知ってる。でも、客は知らないだろ」

    誰も何も言えない。オチの話ではない。もっと手前の話だった。結局、その部分を直したネタは、その週一番ウケた。

    ライブ帰り。コンビニ前。ジンボは缶コーヒーを飲みながら言った。

    「アキさん」
    「ん?」
    「なんで分かるんすか」
    「何が」
    「客のこと」

    アキは少し考えた。答えが出てこない。なぜ分かるのか。考えたことがなかった。

    「なんとなく」

    そう言った。本当は違った。何百本ものネタ。何万人もの客。笑わなかった客。途中で帰った客。嫌われたネタ。伝わらなかった言葉。

    60年分の失敗は、簡単には消えない。若い身体になっても、それだけは残っていた。

    ミミ

    同じ夜、OFFICE BATONの佐伯は、ライブ映像を見ていた。

    バカボンボン。再生。停止。再生。停止。

    見ているのはネタではない。舞台袖へ戻る場面だった。若手芸人たちが、
    順位の話をしている。その横でアキだけが客席を見ている。まるで結果ではなく、人を見ている。佐伯は椅子にもたれた。秋山 巌も同じだった。順位より先に客を見ていた。笑いより先に人を見ていた。だから怖かった。佐伯は小さく呟く。

    「似すぎてる」

    静かな事務所。窓の外では、雨が降っていた。

    ミミ

    その頃、夜道を秋山 巌は一人で歩いていた。イヤホンからは、バカボンボンのポッドキャストが流れている。ジンボの笑い声。アキの声。二人のやり取りを聞きながら、秋山は少し笑った。面白いな。素直にそう思った。どこか不器用で、どこか古臭い。流行りを追いかけているようで、実はあまり追いかけていない。

    遠くで踏切の音が鳴る。彼らは賞レースへ出るらしい。それも、娘から聞いた。

    「最近よく聞いている芸人がいる。」

    そう言われて、何となく聞き始めたラジオだった。最初は、それだけだった。どこまで行くのか。少し興味があった。

    若い頃、自分も同じ場所を走った。勝った。負けた。消えた。

    もう終わった話だ。

    秋山は空を見上げる。イヤホンの向こうで、ジンボが笑っている。アキも笑っている。夜風が吹く。秋山は少しだけ笑った。

    「頑張れよ」

    誰に向けた言葉でもなく、小さく呟いた。


    【30話】冬が近づく

    賞レースは、思ったよりあっさり進んでいった。

    一回戦。

    二回戦。

    三回戦。

    バカボンボンは勝ち上がった。圧倒的ではない。会場を支配するような勝ち方でもない。なぜか落ちなかった。不思議なほど安定していた。

    若手芸人たちが結果表の前に集まる。歓声。ため息。沈黙。毎年繰り返される風景だった。ジンボは結果を見るなり叫んだ。

    「よっしゃ!」

    そのままアキへ飛びつく。アキは苦笑しながら受け止めた。

    「まだ、三回戦だろ」
    「でも勝ったじゃないですか」
    「そうだな」

    そう言いながらも。嬉しかった。

    昔は通過は当たり前、見ていたのは順位だけだった。一位か、それ以外か。今は違う。落ちなかったことが嬉しい。ジンボと、もう少し長く漫才ができることが嬉しかった。そんな自分に少し驚いた。

    楽屋へ戻ると若手芸人たちが騒いでいる。話題は賞レースではなかった。

    一人がスマホを掲げる。

    「これ知ってます?」

    動画だった。古い映像。画質も荒い。

    タイトルには『秋山巌 伝説の漫才』と書かれていた。

    「あー、この人」
    「俺見たことある」
    「親父が好きだった」
    「今いたら無双してそう」

    好き勝手な声が飛ぶ。誰も本人を知らない。みんな伝説として語っている。アキは黙って映像を見ていた。若い頃の秋山 巌。今の自分より上だろうか。と疑問が湧く。積み上がっていく経験の勢いか、積み上がった先の経験の違いがあるのかを見てしまう。鋭い目。細い身体。どこか危うい空気。まるで知らない人間だった。それを見て、ジンボが言う。

    「どう思う?」

    アキは少し考えた。

    「面白いな」

    昔ならもっと違う感想を持った気がする。今はただ面白かった。

    ミミ

    準決勝の日。会場の空気は変わっていた。

    ここまで来ると、みんな本気になる。笑顔が減る。冗談も減る。落ちれば終わりだからだ。

    結果発表。名前が呼ばれる。一組。また一組。そして、「バカボンボン」が呼ばれた。ジンボが息を吐く。アキは小さく目を閉じた。決勝進出。結成まもないコンビとして快挙だった。内心当たり前と思っていた自分もいたのでホッとした。

    会場のあちこちで歓声が上がる。抱き合う芸人。泣き出す芸人。崩れ落ちる芸人。静かに荷物をまとめる芸人もいる。アキはその全員を見ていた。昔も見た景色だった。勝つ人間。負ける人間。残る人間。消える人間。何も変わらない。昔より少しだけ優しく見えた。

    ミミ

    帰り道。ジンボはずっと興奮していた。

    「決勝っすよ」
    「そうだな」
    「テレビ出るんすよ」
    「そうだな」
    「なんでそんな冷静なんすか」

    アキは笑った。本当は冷静ではなかった。胸の奥が少しだけ騒がしかった。

    スマホを開く。メール一覧から探すラジオネーム。

    『終電前の客』

    前に届いたメールを開く。

    『年末、待ってます。』

    その下に一文に思考が巡る。

    『私はそこにいます。』

    アキの指が止まる。誰なんだ。どこにいる。何を知っている。何も分からないが、年末が近づいていることだけは分かった。

    ミミ

    その頃、秋山巌は鹿児島の宿の小さな部屋で新幹線の予約画面を見ていた。

    東京。十二月。予約確認。指が止まる。

    窓の外は静かだった。もう戻らないと思っていた。テレビも。賞レースも。東京も。全部終わった話だと思っていた。秋山は画面を閉じる。少しだけ笑った。

    「年末か」

    誰に言うでもなく呟く。遠くで列車の音が聞こえた。冬が近づいていた。


    【31話】どうもー、バカボンボンです

    年末だった。会場の外には長い列ができていた。

    観客。テレビ局のスタッフ。スポンサー。関係者。芸人。みんな少しだけ浮き足立っている。年に一度の祭りだった。楽屋では若手芸人たちが騒いでいる。緊張をごまかすように笑う者。ネタを確認する者。一人で黙る者。ジンボは落ち着かなかった。何度も立ち上がり。何度も座った。

    「やばいっす」
    「何が」
    「全部っす」

    アキは少し笑った。

    「今さらだろ」
    「今さらなんすよ」

    ジンボは頭を抱える。その姿が少し面白かった。アキは不思議なくらい落ち着いていた。緊張はあるが、昔ほどではない。勝つことが全てだった頃とは違う。ここへ来るまでの時間の方が大切だった。

    ジンボとのネタ合わせ。深夜のコンビニ。ポッドキャスト。ライブ。

    全部。失いたくないと思った。

    ミミ

    その頃、東京へ向かう新幹線の中で、秋山 巌はスマホを見ていた。メッセージが届いている。春奈だった。

    『今日だね』

    秋山は少し笑う。指を動かす。

    『お前が教えてくれたラジオだぞ』

    しばらくして返信が来る。

    『知ってる』

    秋山は続ける。

    『まだ聞いてるのか』

    すぐに既読が付く。

    『毎週』

    短い返事だった。十分だった。

    窓の外を景色が流れていく。最初は娘が面白いと言っていた若手芸人だった。それだけだった。

    会場へ着く。通路を歩く。そこに元妻と佐原の姿が見えた。一瞬だけ目が合う。あの頃の自分だったら、怒っただろう。問い詰めただろう。恨んだだろう。今は違う。時間が流れすぎていた。

    秋山は小さく会釈する。元妻も頭を下げる。佐原は何も言わなかった。

    それで十分だった。誰が正しかったのかは、もうどうでもよかった。二人が幸せなら、それでよかった。

    ミミ

    会場アナウンスが流れる。

    審査員紹介。客席が拍手に包まれる。一人、また一人。審査員たちの名前が呼ばれていく。そして、最後の名前だった。

    「秋山 巌さんです」

    会場がどよめく。

    歓声。拍手。ざわめき。消えたはずの芸人。突然の復帰。アキは審査員席を見る。確かに秋山 巌はそこにいた。60歳の秋山巌。二人の目がほんの一瞬合ったような気がした。全部が一本の線で繋がったような。秋山は少しだけ笑っていた。

    舞台袖。ジンボが呼吸を整えている。

    「アキさん」
    「ん?」
    「勝ちたいっす」
    「俺もだよ」

    それは本音だった。

    スタッフが呼ぶ。出番だった。二人は立ち上がる。舞台へ向かう。

    かけ上がった先には眩しい照明。大きな拍手。観客。客席。審査員。そして、秋山巌。アキはマイクの前に立つ。ジンボも隣に立つ。客席を見ると、一番後ろまでは見えない。まるでパチンコ店のようなキラキラした派手さだ。確変中なのだろうか、とアキは思う。笑う人。笑わない人。腕を組む人。うつむく人。全部ひっくるめて、客だった。

    アキは息を吸う。隣ではジンボが緊張している。お互いの顔を見て、少しだけ笑った。そして、マイクを握る。

    「どうもー。バカボンボンです」

    客席の奥、審査員席に座っていた秋山巌が笑っていた。昔の自分より、ずっと楽しそうに。アキも笑った。会場が揺れた。

    終


    エピローグ

    年が明けていた。春奈は、いつものようにポッドキャストを流していた。特に理由はない。いつの間にか習慣になっていた。イヤホンの向こうでは、バカボンボンが喋っている。ジンボが笑う。アキが呆れる。

    いつも通りだった。賞レースの話はほとんどしない。結果より先に、次のライブの話をしている。それが少し可笑しかった。リビングからテレビの音が聞こえる。母が見ていたのは賞レースの決勝の録画だった。珍しい。

    春奈は冷蔵庫を開けながらイヤホンを耳から外し何気なく画面の方を見る。

    バカボンボン。

    ステージの上で二人が笑っている。

    母は何も言わない。春奈も聞かない。昔のことも。父のことも。誰も話さない。しばらくして、テレビの中でジンボが何かを言った。少し遅れてアキが返す。母が小さく笑った。春奈は、その横顔を見る。何も言わなかった。それでよかった。

    スマホが震える。父からだった。写真が一枚送られてくる。

    古い木造駅舎。文章はない。

    数分後。もう一通届く。

    『そろそろ帰る』

    春奈は少しだけ笑った。短すぎる。昔からそうだった。言葉が足りない。

    ふと、もう一枚写真が送られてくる。賞レースの集合写真だった。

    芸人たち。審査員たち。スタッフたち。

    賑やかな一枚。春奈は何となく拡大する。

    アキがいる。少し離れた場所には父もいる。春奈は写真を見つめた。不思議だった。似ている。親子という意味ではない。もっと別の何かだ。立ち姿。笑い方。目の奥の光。説明できない。春奈は少し首を傾げる。そのまま写真を閉じた。

    窓の外では冬の風が吹いている。イヤホンの向こうでは、ジンボが笑う。遅れてアキも笑う。春奈も笑った。

    人は消える。会えなくなる。遠くへ行く。それでも声だけは残る。だから時々、思いもしない場所から帰ってくる。

    父も。笑いも。人生も続いていく。それで十分だった。


    #創作大賞2026


     
     
    かごしまさん / フリーランス7年目 / 日が暮れたらのんびりして、もう仕事しないで読書したり、映画見たり、猫撫でたり、深呼吸をしたり、ゆっくりとまわりを見わたしたり、進んできた道を振り返ったり、次に進むべき道について考えてたり、破産したり、散歩したり、BOOKOFFに行ったり

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