
四半世紀
二十一世紀が始まって最初の夏、私はこの世に生を受けた。
当然その時の記憶はないが、母曰く初産にも関わらずびっくりするくらい安産だったらしい。
きっと、早く外の世界を知りたくて仕方がなかったのだろう。なんと私らしい。
こうして二十五歳を迎えるまであっという間だったと思う反面、これをあと三回繰り返さなければ百歳という大台に乗ることも、二十二世紀を迎えることもできないらしい。
人生百年時代といえど、あまりにも気が遠くなりそうだ。
百歳まで生きるという目標は、一旦置いておこう。
――
幼い頃から私は、早く大人になりたいと思っていた。
たまたま年上のお兄さんお姉さんと関わる機会が多かったこともあり、ちょっとした『憧れ』があったんだと思う。
自分よりも確固たる信念や考えを持っている大人。
子供には出来ないことをやってのける大人。
私も早くみんなと同じになりたいと強く願い、一時期は年齢が二十歳に満たないという状況に嫌気がさしていた。
……おっと。ここで注釈を入れると、成人年齢が引き下げられたのは私が二十一歳になる年で、当時の「大人」の基準は「二十歳になること」だった。
話が少し逸れてしまったが、そんな理由で私は二十になるまで毎年の誕生日が楽しみで仕方がなかった。
それでも、成人を迎えて二年くらい経つと、今度は「実年齢」と「精神年齢」のギャップに悩まされるようになった。
有難いことに、昔から周りからは「しっかりしている」「大人びている」と評価してもらえることが多かった。
それでも、「私」という視点から周囲の大人を見ると、どうしても自分が精神的に幼いように感じてしまっていた。
何よりも、自分が思い描いていた「大人像」に自分が当てはまっているのか、私にはわからなかった。
それを判断できるのは、きっと幼い頃の私だけだから。
だから、しばらくは誕生日を迎えることに嬉しさを覚えつつも、戸惑いもあった。このまま無為に歳だけを重ねて良いのか、と。
――
二十五歳になった今でも、「実年齢」と「精神年齢」のギャップを感じることは、ある。
こうして文章を綴っている今も、某K-POPアイドルのミームの如く「二十五歳?この私が?何故?」と自分に問いかけている。
それでも、かつてのように悩むことはなくなった。
二十二、三歳の頃、自分なんか全然大人じゃないと悩んでいた自分を振り返ると、十分青かったと感じるからだ。
当時は大学生か、あるいは大学を卒業して間もない頃だ。
そんな人間が、簡単に「大人」になれるはずがない。
巣立ちを迎えて間もないツバメが、親鳥のように易々と空を飛べないのと同じである。
ということは、きっと同じことがこの先も続いていくのだろう。
三十歳、四十歳になった私が今年を振り返った時、二十五歳になって「四半世紀を生きた」などと盛り上がっている様は十分子供っぽく、未熟に見えているに違いない。
それに、そもそも人間は「精神的に完成された大人」になることなど、一生無いのではないかと今は思う。
自分が思い描く完璧な大人に今この瞬間なってしまったら、これ以上成長することなく、ただただ衰えていくだけの生き物になってしまうだろう。
だから、仮に「精神的に完成された大人」になるタイミングがあるとしたらそれは……きっと、いつか命尽きる時だ。
そう考えたら、今現在自分が思い描く理想の大人になれていないことを嘆くのではなく、どんどんレベルアップしていく将来の自分に期待して歩き続ける方がよほど大人になれるだろうと信じるようになった。
――
節目の歳らしく、締めに今後の目標でも書いておこう。
ことばのアウトプットだけではなく、インプットをする時間を増やすこと。
長らく読書をする時間を作れていないから、本を読んだ感想をXやnoteに投稿するのもいいだろう。
英語学習を再開すること。
まずは、大学生以来受けていないTOEICの勉強でもしようかな。それと、英会話も。
最後に、たくさん旅に出ること。
母から勧められた「旅人」にはなれないかもしれないが、
見たことない世界へと積極的に足を運ぶ人にはなりたいと思う。
たとえ遠い未来で、本当に百歳を迎えた私に未熟な子供だと呆れられたとしても、そもそも二十五歳の自分がどう生きていたのか忘れ去られていたとしても。
こうした小さな積み重ねが、私を少しずつ大人にさせていくに違いない。
だからまずは、本棚の隅で出番を待っている一冊を開くことから、あるいは一つの英単語を新しく覚えるところから、始めてみよう。