
それでも、朝はやってくる〜閉鎖病棟から未来の娘へ〜
プロローグ
もうすぐ、夜が明ける。
きょうもまた、絶望に満ちた朝がやってくる。
「母になってしまった」自分に、絶望する朝が。
望まぬ妊娠だったわけではない。
ようやく授かった我が子。その誕生を、心から待ち侘びていた。
ーーはずだった。
無事出産を終えた今、私の脳裏にあったのは
こんな自責の念だった。
「生み出してしまったんだ、この世に。」
私は、「産後うつ」になった。
「うつ病」というワードが「自分ごと」になるなんて思ってもみなかった。
生まれて初めて、本気で、この世から消えようとした。
あれからまもなく7年。
今は、「うつである自分」を、心から愛しく思える。
うつという暗闇は、私にとって
新たな人生の夜明け前に過ぎなかったと
今、振り返って思えるからだ。
だからこそ、声を大にして伝えたい。
今、真っ暗闇の中にいる、あなたへ。
一筋の光すら見えなくても。
この日々が永遠に続くのか、と嘆く日があっても。
それでも、朝はやってくる。
「頑張り屋」が仇になる?
昭和の終わりに生まれた私。
両親、両祖父母という近しい家族が皆、教員だったこともあり
恵まれた教育環境で育ってきた。
私は、幼い頃から「学ぶこと」が好きだった。
好奇心も旺盛だったし、
努力した分結果が出ることが何よりも嬉しかった。
高校は第一志望の進学校に特待生で入学。その後、E判定からの大逆転でこれまた第一志望の東京の難関私大に合格した私は、
「私って、頑張れば何でもできるんだ」
と、20代そこそこで、さながら人生無双かのように思い込んでしまった。
そのまま就職活動に突入し、仙台という地方都市で、夢だったアナウンサーとして働き始めた私に
もはや怖いものなんてなかった。
社会人になっても、私は、頑張った。
こと、2011年、東日本大震災が起きてからは
「使命感」という名のもとに、昼夜問わず被災地を駆け回った。
ミーハーな気持ちで目指したアナウンサーという仕事だったが
実際はとても泥臭かった。
ここでも、頑張れば頑張るほど、評価も付いてきた。
私は、気づけば頑張ることを辞められなくなっていた。
2019年9月。そんな私は「母」になった。
「命」を預かる子育てで手を抜くはずがなく、
日中のお世話も、夜間の授乳も、夫のサポートを断ってまで
自分1人で娘の面倒を見続けた。
「私が」、この子の母親なんだ。
「私が」、責任を持って育てるんだ。
今思えば、フルマラソンをスタートから全力疾走したようなものだった。
娘が生まれて半月、ついにその足は止まってしまった。
声を失ったアナウンサー
授乳でほとんど眠れなかった朝5時過ぎ。
まどろみから目覚め、隣で寝ている娘の寝顔を見た瞬間、動悸が始まった。
気を紛らわそうと洗濯機を回し始めたが、心臓がバクバク止まらない。
テレビをつけても、スマホを見ても、情報が頭に入ってこない。
洗濯機が止まり、洗濯物を干そうとすると
寝室から娘の泣き声が聞こえた。
「怖い!怖い怖い怖い!」
そう叫びながら、私は膝から崩れ落ちて泣いた。
こんな感覚は人生で初めてだった。
すでに出社していた夫に連絡すると、
「ただ事ではない」と思ったのか、すぐに帰宅してくれた。
こんな時、どこに助けを求めれば良いのかーー。
途方に暮れた私は、その日に産院での産後ケアを予約していたことを思い出した。
藁にもすがる思いで電話した。
馴染みの助産師さんが電話に出た。
ところが。
私の喉元から、言葉が出ない。
愕然とした。「声」を生業としていた私が、初めて声を失ったのだ。
すぐに夫が代わり状況を伝えてくれた。すると、
「今すぐ来て下さい。」
と返事があった。
家族3人、すぐさま産院へ向かい、
そのまま娘を新生児室に預けて数日入院することに。
娘と離れ、1人で病室のベッドに横になった瞬間、ふぅ、と、声が戻ってきた。
心からほっとしたのだ。
ところが、すぐさま脳内では
「母親失格ではないか」
「こうなるくらいなら産まなきゃよかったのか」
という、“自分責め”が始まった。
私が休んでいる間、他の誰かが四六時中娘を見守ってくれることへの申し訳なさもあった。
私は人を頼ることが苦手だった。
自分の役割は自分で最後まで責任を持って成し遂げるべき。
それが私の価値観だった。
子育ても同じだと思っていたし、
「私ならできる」という根拠のない自信もあったのだと思う。
そんな自信は、初めての子育てを前に粉々に打ち砕かれたのだった。
海へ行こう。そして、消えてしまおう。
入院中、一向に調子が上向かなかった私は
産院の医師の勧めで、大学病院の精神科病棟に転院することになった。
それは、私以外の誰かに娘を養育してもらわなければならないということを意味していた。
夫は、当時は仕事柄、休みを取ることはできなかった。
私の両親はまだ働いており、夫の両親は高齢で遠方で暮らしている。
となると、乳児院に預けるしかないかーー。
と、その時、私の実家の母から連絡があった。
「仕事を辞めることにした。準備は万全だから、どうか笑って娘を預けに来て。」
私は泣いた。申し訳なさで気が狂いそうになった。
母がどれだけ教員の仕事に愛を、情熱を注いできたかを、誰よりも近くで見て見てきたからだった。
私は、そんな母から、大切な仕事を奪ってしまったーー。
その夜、ほとんど眠れずに朝を迎えた。
これまでに感じたことのないとてつもない不安と恐怖に苛まれ
呼吸が荒くなり、涙が止まらなくなった。
「消えたい。もう無理だ。」
自然と言葉にしていた。
「今日、消えてしまおう。」
そう決めた。もう限界な気がした。
怖がりな私は、どうしたら少しでも苦しまずにこの世から居なくなれるかを考えた。
思いついたのが、「海」だった。
会社員時代に何度も震災の取材で訪れた仙台市の荒浜海岸。
近くまでバスが通っていることも知っていた。
私はすぐに、海岸行きのバスの時刻を調べた。
心臓がバクバクと鳴り出し、手も震え始めた。
でも、決めたんだ。もう、行くんだ。
次に、産院に外出の許可をもらわなければならなかった。
朝食後、様子を見にきてくれた看護師さんに
「きょうは気分転換に外出したい」と伝えた。
「先生に確認してきますね」と、彼女は部屋を出ていった。
遺書を残そう。娘と、夫と、私自身の家族宛に手紙を書こう。
でも紙がないから、スマホに残すしかない。
スマホのメモ帳に、思いつくままに言葉を連ねていった。
娘の顔も見ておかなければ、と思った。
新生児室に行き、生まれたての赤ちゃんたちと並んで横になっている一回り大きな娘の姿を見た。悲しかった。申し訳なかった。
「本当にごめんね。」と心の中で伝えた。
病室に戻ると、看護師さんから「外出OKだそうです」の報告をもらった。
あぁ、ついにこの苦しみから逃れられるのだ。
少しホッとして、早速身支度を整え始めた。
すると、これがいわゆる「走馬灯のように」というものなのだろうか、
それまで三十数年のいろいろな思い出が、次々に浮かんできた。
それらと一緒に、未来の自分の姿も浮かんだ。
大きくなった娘と、肩を並べて歩く私。
まるで姉妹のように、きゃっきゃとはしゃいでいる。
一気に涙が溢れて落ちた。娘の成長を一番近くで見ていたかった。
新生児期をスパーンと通り越して、お話ができるようになれたら楽なのに。
ごめんね。こんな母親で本当にごめんね。
その時、病室のドアがノックされた。産婦人科の先生が入ってきて、こう告げられた。
「ごめんなさい、やはり今日は外出は控えてもらえますか。
どうしてもであれば、ご主人か誰かと一緒に外出してもらえませんか。
入院生活で体力がかなり落ちていると思うので、1人では心配なので。」
ーーえ?これまで外出を止められたことなんてなかったのに。
一瞬戸惑いながらも、「わかりました。」と返事をした。
すると、それまでの興奮めいた気持ちが一気に冷めていった。
ーーもしかして、気づかれた?
続いて、看護師長がやって来た。
彼女の顔を見た瞬間、ふっ、と心が緩んだ私は
昨日の母のやりとりと、罪悪感で押しつぶされそうな心を涙ながらに一気に吐き出した。
すると、彼女は静かにこう言った。
「必ず恩返しできる時が来る。そして、いつかあなたの娘ちゃんが助けを求めてきたとき、今度は助けてあげて。そうやってまわっていくんです。それが家族ですから。
人生全ての経験に意味があるんです。無駄なことなんてない。今、この経験も。娘ちゃんのおかげで、あなたの人生が広がっているんです。」
絶望で満ちていた心の中に、うっすらと、明かりが灯った気がした。
それまで流していたのとは別の、温かい涙がぼろぼろを頬を伝った。
ーーこの言葉は、きっと本当になる。
それを未来で確かめるために、私は生きるんだ。ーー
転院の日。私は薬で母乳を止めた。その瞬間、覚悟が決まった。
母を、家族を、周りを頼って生きる覚悟だった。
笑顔で娘を母に預け、産院の皆さんに心からの感謝を伝えて
私は大学病院へと向かったのだった。
閉鎖された場所で、広がりはじめた世界
閉鎖病棟に着くと、初めに持ち物をチェックされた。
少しでも「自害の危険があるもの」は、全てナースステーションでの管理とするためだ。
私の持ち物からは、爪切りが“没収”(←多分この場合意味は違うが、この言葉が一番しっくりきた)された。とんでもないところに来た気がした。
早速(?)、よくわからない叫び声が聞こえた。
それとは別に、誰かが何かを数えている声もする。とんでもないところに「来た気がした」のではなく、「来た」のだと悟った。
入院初日の夜。21時に消灯すると、真っ暗になったフロアがしん、と静まり返った。
身体に、硬いベッドの感覚だけが染み渡る。
眠れなくて、イヤホンで音楽を聴いた。
Superflyの「フレア」。この1曲だけを、リピート再生した。
歌詞を自分に言い聞かせるように。
“孤独の雨に負けるもんか 今日の日も 涙に負けるもんか”
しばらくすると、窓付きのドアの向こうから懐中電灯の光が近づいてきた。看護師さんの巡回だった。
眠れないことが悪いことではないと分かっていても、反射的に目を閉じ、寝ているふりをした。
「助けて!死んじゃう!」若い女性の声が響き渡った。
ところが不思議と、私にとってそれは「恐怖」ではなかった。
「仲間が、苦しんでいる」という感覚だった。
同じ閉ざされた空間にいる「仲間」がーー。
病室の暗闇は、今、人生で置かれている状況そのもののような気がした。
朝が来るのが、待ち遠しかった。
翌日。病棟を歩いていると、入院患者さんたちの多くが、すれ違う際に軽く会釈も挨拶もしてくれた。私は少し驚いた。
この日、初めて病棟で入浴をした。
入浴、といってもシャワーのみで、希望する時間に30分交代で入ることができるシステムだった。
ドライヤーの使い方に手間取っていた私を見て、たまたま近くにいた入院患者の女性が丁寧に教えてくれた。シャワー室の使い方だけでなく、閉鎖病棟での過ごし方、曜日によってこんなことがあったりするよ、など、いろいろなことを話してくれた。私が「新参者」だと気づいてくれたのだ。
とても嬉しかった。
と、同時に、語弊があるかもしれないが、こうも思った。
「この方、すごく『普通』なのに、どうしてここにいるんだろう。」
それくらい、閉鎖病棟で関わる人々は、皆、普段は穏やかだった。
その現実に、「普通」とは何かを、否が応でも考えさせられた。
入院中は、定期的に病室で主治医との面談があった。
私の主治医はおそらく私よりも数歳上の、女性の先生だった。
入院後初めての面談で、まず言われたのはこんな言葉だった。
「ここ(病棟)では、「休むこと」を努力して下さい。
「休むこと」とは、「考えるのをやめること」。
『快』なことだけをする。『〜しなきゃ』『〜しないと不安』なことはしないこと」。
私は、出産後からほとんど休めていない。だから、休息が必要。
とにかく自分が快適だと思うことだけをして過ごすことだ、と。
これまでの私の生き方では、頑張ることが必要だった。大切なことだった。
けれど、これからは「頑張らない」も取り入れた生活にシフトしていく。
出産というのは、そうして生き方を変えるほどの大きな出来事なのだ、とも先生は言った。
また、別の日には、
「先取り不安」はしないこと。
まだ起きていないこと、起きるか分からないことを心配しても仕方がない。
と教わった。
私は、常に「最悪」を想定して備えておきたいタイプだったのだが、
その想定が、かえって自分を苦しめていたのだと気づいた。
苦しむくらいなら考えない方が良い、と割り切ることが大切だ、と。
そんな日々の中で、私には、これまでの人生になかった「視点」がどんどん追加されていった。それはまるで、視界が開けていくようだった。閉鎖された病棟の中で、世界が広がっていく。一見矛盾するような、不思議な感覚だった。
入院から1か月が経った頃。精神科の病棟で、カラオケ大会があった。
そんなレクリエーションもあるのか!と、私はここでも驚いた。
思い切って参加し、十八番である岡本真夜さんの「Tomorrow」を熱唱した。これまで幾度となく聞き、歌ってきたが、
“涙の数だけ強くなれるよ”
の歌詞が骨の髄まで沁みたのは初めてだった。
「上手〜!」と拍手喝采を受け、久しぶりに有頂天になった。
さて、今度は他の人の歌を聞く番。無意識に「盛り上げなきゃ」の気持ちが働いた。ところが周りを見渡してみると、他の人と話をする人、誰かの熱唱中に席を立つ人、目を瞑って寝ている?人。いい意味で、自分のペースを崩さない(ように見える)人がほとんどだった。
そうだ、私は「無理をしない」ためにここに居るんだった。はっとさせられた。私はいつもそう。周りの空気を自分なりに読み切って、「皆が心地よくなるための」行動をする。気づけば自分は後回し。本当はもっと、自分を、自分のペースを、大事にしても良いのかもしれない・・・。他の患者さんの決して上手とは言えない(←失礼)歌声をBGMにそんなことを考えた。
と同時に、この閉鎖病棟にいる「自分に正直な人たち」が、ありのままで報われる社会になってほしいとも思った。「自分に正直」ということと「自分勝手」はもちろん違う。でも、無理して合わせるくらいなら自分を貫いていい、そう思えるような社会。
閉ざされた「こちら側」にいる私たちが、「普通」でいられるようにーー。
「私が」寛解させるんだ
閉鎖病棟に来てから1か月半が過ぎようとしていた。
入院したての頃、病院の中庭に漂っていた金木犀の香りがすっかり消え去り
木々も一通り葉を散らし終えた、11月半ばだった。
「どうして娘をこの世に生み出してしまったんだろう」
そんな思いに苦しんだ夜もあれば、
外泊で久しぶりに会った娘を
「なんて愛おしいんだろう」
と、心から慈しむ日もあった。
日々、感情の波があった。それでも、確実に気持ちが上向いてきていることを実感することもできていた、そんなある日のこと。
この病院の精神科の「トップ」である診療科長が、ふいに病室にやってきた。
私の入院の日々を労ってくれたあと、診療科長の先生は言った。
「ところで、辛くなったのはどんな瞬間ですか?思い出せますか?」
ーー思いつく限り、私は答えた。すると、
「そういう瞬間を思い返して、客観的に整理していくのも回復手段の1つなんです」と教えてくれた。
また、苦しくなる瞬間は、無意識に辛かった出来事なりを思い出している時で、そんな時は、呼吸を深くして「今」に集中していくと心かが整えられていく、と。
その話を聞くうちに、気づいたことがあった。
「この産後うつは、“私自身が”治す(寛解させる)ものなんだ。」
それまでどこか、先生頼みだったり、薬頼みだったり。もちろんそれは間違いではないけれど、一番大事なのは
「私自身の体を休め、ものの見方、捉え方を少しずつ変えていくこと」
なのではないか、と。
そんな「気づき」があった日の夕方、なぜか涙が溢れた。
私は、心の中で自分自身に声をかけてみた。
小さい頃から、頑張ってきたね。
親に心配をかけたくなかったね。
期待に応えたかったね。
頑張れば必ず、結果もでたもんね。
大切なもののために、頑張る。
大切な人に苦しい思いをさせたくない。
それなら自分が犠牲になりたい。
ーーそれらも大切かもしれない。けれど、まずは「私自身」。
語弊を恐れずに言えば、「私の人生は、私本位で良いのだ」と、この日、私は自然と腑に落ちたのだった。
母になって、初めて子どもになれた
暖房なしでは過ごせなくなった病室。入院からまもなく2か月、師走に入った頃だった。
私は、実家へ帰省した4日間の外泊から病棟へと戻ってきた。
この日、主治医から初めて退院の予定日を具体的に示され、私はそれまでの療養生活を少しずつ振り返り始めた。
はじめに頭に浮かんだのは、実家で偶然目にしたテレビで聞いた、作家の川上未映子さんの言葉だった。
「母になって、初めて子どもになれた。」
私もまさに、そうだったのかもしれない。
先にも書いたが、両親は教員で共働きで、幼い頃、私は主に母方の祖父母に面倒を見てもらっていた。
その祖父母を早くに亡くし、その後父は何度も単身赴任になり
3人きょうだいの長女だった私は積極的に家の仕事を手伝った。
末っ子が風邪をひいた時には、母の代わりに学校を休んで看病したこともある。
家族のために働く母を支えようと、幼いながらも「私がしっかりしなきゃ」と思っていたはずだった。
もちろん、親に甘えたことも沢山あるし、反抗期に酷い態度を取り続けたこともある。それでもどんな時も、家族は私にとっての安全基地でいてくれた。
そんな家族に恩返しをしたい、もう迷惑はかけたくない・・・そうした気持ちも、子育てを1人で抱え込もうとしてしまった裏にはあったのだと思う。
そういえばーーこの入院の間に、母が言ってくれたっけ。
「子はずっと、子なのよ。」
私は、33歳になって、母親になって初めて、子どもになれた。
産後うつの経験が、そうさせてくれたのだ。
うつと共に生きる
閉鎖病棟で過ごし始めて57日。
ついに、退院の日がやってきた。
改めて、主治医と確認し合った。
退院しても、周りに完璧を求めすぎず、相手のできない部分、悪い部分も「まぁいっか」として良い部分を見つけ、自分も褒めてあげること。
何でも自分でやってしまわないで、相手にお願いして自分の時間をもつこと。家族に気を遣ってしまう場合は、第三者の手を借りること。
場面に応じて、流されてみること。
肩の力を抜いて、自分本位になって、ゆったりと。
そして、心配な気持ちや完璧にやりたい気持ちが「ゼロ」にならなくても良い、ということも。
そこを目指すとかえって頑張ってしまい、無理をすることになる。
とにかく、“快”の心を大事にしようと私は決めた。
主治医は最後にこう言ってくれた。
「よく精神科を受診し、入院することを決めてくれましたね。閉鎖病棟というものに抵抗があって、辛くても頼って来られない人もいますから。
子育てをお母さん(私の母)や家族に委ねることができ、結果、家族も娘さんとのかけがえのない時間を過ごすことができたと思います。入院の決断は素晴らしかったです。」
涙が出た。
声を失ったあの日、出産した産院にSOSを出せたこと。
海に向かおうとして、結果、それができなかったこと。
閉鎖病棟に転院を決めたこと。
「自分自身が寛解させるんだ」と腹を括れたことーー。
ここまで下した1つ1つの決断に、私は救われた。
すべて、正しかったのだ。
これからはもっと自分の気持ちを出そう。その気持ちに従おう。
はじめは難しくても、ゆっくり、ゆっくり。
そして今後、「不安になる自分」を怖がらないこと。うつでもそうじゃなくても、必ずそういうことはある。だから一喜一憂しない。そのときの自分の心の体調を、淡々と感じていけばいい。
娘との生活を、楽しもう。
やっと、成長を近くで見続けられる。
改めて、
最初に私のSOSを受け取ってくれて、自分も辛いはずなのに、いつも前向きに支えてくれた夫、
大切な仕事を手放して助けてくれた母、その生活を共に支えてくれた父に
心からの感謝が溢れた。
そして、娘にーー。
この時やっと、心から言えた。
生まれてきてくれてありがとう。
エピローグ〜再び、光の射す方へ〜
そんな日々から、まもなく7年。
この春、娘は小学1年生になった。
順調に思えた小学校生活。
が、GWを過ぎた頃から、娘は教室に入れなくなった。
娘に発達障がいの診断が付いたのは、今から1年ほど前。
自閉スペクトラム症(ASD)だった。
新しい環境、周囲との関わりを特に苦手とする娘は、
入学後1か月もの間、必死に耐えて頑張っていたのだろう。
体と心が壊れる前に、よくぞ「無理だ」とSOSを出してくれたと思う。
現在は、別室で、日中ほとんど私が付き添っての登校が続いている。
私は不思議と、この日々が嫌ではない。
むしろ、楽しめてすらいる。
それはなぜか。
これまで綴ってきた産後うつの経験を振り返り、こう確信しているからだ。
「今、私は、あの時母から受けた恩を娘に返している。
そして、この経験にもきっと、意味がある。」
人生で唯一、この世界から消えてしまおうと行動を起こそうとしたあの日、
娘を出産した産院の看護師長に言われた言葉だ。
産後うつになっていなければ、今をこんなふうに捉えることはできなかっただろう。
「うつの自分」だからこそ。私は今、そんな自分が大好きだ。
そして、あの時の私と一緒で、
娘にも、今は立ち止まる時間が必要なのだ。
私や、信頼できる学校の先生たちに囲まれた安全基地という名の場所で。
何より、あの日海を目指そうとした私が思い描いた未来ーー娘と肩を並べて歩き、まるで姉妹のように、きゃっきゃとはしゃいでいる未来ーーが現実となった今、私には心から信じられていることがある。
それは、あの閉鎖病棟の日々から今を生きる娘へ贈りたいメッセージでもある。
周りの人たちを、信じて、時に委ねて、感謝の心を忘れずに過ごすこと。
自分自身の力を信じること。
そうすれば、
たとえ今は一筋の光すら見えなくても、
この暗闇が永遠に続くのか、と嘆く日があっても、
それでも、朝はやってくる。