【連載小説】残り香|第八話「知らないはずの席」
「いつも、あちらに座る方がいるんです」
店員が指さした先には、
誰も座っていない、
小さな二人掛けの席があった。
窓際の席。
先週、
僕がこの店に来たときも、
あそこに誰かが座っていたらしい。
「女性ですか?」
「はい」
店員は頷いた。
「毎週、同じ曜日の、だいたい同じ時間に来られる方です」
同じ曜日。
同じ時間。
僕と同じように――
その人も、
この場所に来ていた。
「先週も……いましたか?」
「いましたよ」
店員は迷うことなく答えた。
「いつもと同じ席に座ってました」
僕は、
空っぽの席を見つめた。
先週。
僕が初めてこのカフェに来た日。
あの香りを感じた日。
そこに、
一人の女性がいた。
「今日は……いないんですね」
「そうなんですよ」
店員も、
その席に目を向けた。
「珍しいんですか?」
「ええ。ほとんど毎週いらしていたので」
胸の奥が、
少しだけざわついた。
毎週来ていた人が、
今日は来ていない。
ただ、それだけだ。
珍しいことではない。
予定が入ったのかもしれない。
体調が悪いのかもしれない。
理由なんて、
いくらでもある。
それなのに――
僕は、
もう一つだけ聞いてみたくなった。
「先週、その人は……何時頃までいました?」
「何時頃……」
店員は少し考えた。
僕は黙って待った。
やがて、
店員が口を開いた。
「確か――」
一度、
僕の顔を見る。
「お客さまが来られたあと、しばらくして帰られたと思います」
「……僕が来たあと?」
「はい」
その瞬間、
胸の奥で、
何かが小さく動いた。
僕が来た。
そのあと、
女性は店を出た。
偶然だ。
そう思った。
僕が来たことと、
その人が帰ったことに、
何の関係もない。
そもそも、
僕はその女性を知らない。
顔も。
名前も。
声も。
何も知らない。
――知らないはずだ。
僕はもう一度、
空っぽの席を見た。
先週、
あの席にいた女性。
そして、
あの日だけ感じた、
あの香り。
花のようで、
少し甘い。
でも、
甘すぎない。
その奥に、
乾いた木のような温かさがある。
美月の言葉が、
突然、頭に浮かんだ。
『十年前も今も、その人の名前じゃなくて――』
『香りの話をしてる』
そして、
もう一つ。
『忘れなきゃいけない人なんだ、って』
忘れなきゃいけない人。
十年前。
僕は確かに、
誰かを知っていた。
その人について、
美月に話していた。
それなのに――
今の僕には、
何も残っていない。
いや。
本当に、
何も残っていないんだろうか。
あの香りを嗅いだ瞬間、
胸が苦しくなった。
理由も分からないのに、
懐かしいと思った。
そして今、
誰も座っていない席を見ているだけで、
なぜか寂しい。
僕はその人を、
知らない。
それなのに、
身体だけが、
何かを覚えている。
そんな気がした。
「ありがとうございました」
店員に頭を下げ、
僕は店を出た。
外では、
細い雨が降っていた。
傘を差す人たちが、
僕の横を通り過ぎていく。
僕は少し歩いてから、
立ち止まった。
振り返る。
雨に濡れたガラスの向こうに、
あの席が見えた。
空っぽの、
二人掛けの席。
もし。
あの女性が、
僕を知っていたとしたら。
そして――
僕だけが、
その人を忘れているのだとしたら。
その考えが浮かんだ瞬間、
なぜか、
背筋が少し冷たくなった。
十年前。
僕は、
誰を忘れた?
いや――
僕は、
何を忘れている?
