
お経と音楽
実家の先代のご住職は、お世辞にもお経が上手とは言えない人だった。祖父の通夜のお経に、家族は溜息をついた。
あまり信心深い環境で育っていない私は、法要でのお経が長くあまり上手でない場合、意味のわからなさもあり、つい上の空になってしまうことがある。そして、きっと有難いものであるのだろうお経に集中できない自分に、少し後ろめたさを感じたりする。
お経の最中にしょっちゅう姿勢を変えたり、ため息をついたりする人を見ると、どんな心持ちでお経を聞いているのか、尋ねてみたい衝動にかられる。だが、自分より信心深いだろう人に対して、その質問はあまりに不謹慎に思われる。いまだその問いは発せられないままだ。
そんな私が、夫の祖母の法要で驚愕の体験をすることになる。読経が始まると、ご住職のお経は美声と相まって朗々と響き渡り、輝かしい威厳を持って、その場を満たしたのだ。それは、お経でありながら、音楽体験でもあった。教会でグレゴリオ聖歌でも聞いているような厳かな高揚感。初めてお経を、いつまでも聞いていたいと感じた。
きっと天性の音楽的素養のある人なのだろう。お経を唱えるご本人も、気持ちがいいに相違ない。夫に話すと、「スゴイだろう。とても他所のお経は聞いてられない」、と自慢気に言う。私は次の法要を心待ちにするようになった。
ある法要では、家族数人だけでご住職を迎えた。その場は法要の形式をとりつつ、ホームコンサートの趣も呈していた。お経の意味がわからないのは相変わらずだが、ご住職が媒体になることで、お経がリアルに有り難く意義深いものに思えてくる。家族にとって法要の時間は、真に贅沢で、お布施に代えられない幸福で満ち足りたものになった。
何度か幸せなお経体験をした後、ご住職は急に他界された。私達家族は、ご住職との別れを悲しむと同時に、究極のお経を聞く機会を永遠に失ったことを悲しんだ。跡を継いだ若い息子さんのお経は、声は悪くはないのだが声量はなく、スケールダウンの感は否めなかった。
思えば、音楽を伴う宗教は多い。教会で美しい讃美歌を聞けば、信者でなくても心が震える。仏教の声明を使った法要は、視覚的にも圧倒される。檀家の人々が住職のお経に合わせて唱和する通夜では、ほのぼのと故人を偲ぶ気持ちになる。
法話で人を惹きつけることはできるが、音楽はダイレクトに人の身体に働きかけ、その場にいる人を繋ぎ、信仰心を増幅させるのだろう。上手なお経のグルーヴ感は、法話とは違う場所に届いて、人はほとんどそれに抗うことができない。
コンサートばりのお経体験をしてきたおかげか、年のせいなのか、私の耳はお経に対して少し開いてきたようだ。他所のお経もよくわからないまま、少しは聞き続けられるようになってきている。
そして最近嬉しいのは、頼りなく思えた我が家の新住職が、自分流の高速経を聞かせてくれるようになってきたことだ。お経は檀家が育てていくものでもあるのだろう。