
【短編小説│読切】九階
本作はフィクションです。登場する人物・団体・地名・施設等はすべて架空、または創作上の使用です。
スマホの時計を見ると、24:08と薄暗いホーム画面に映し出された。 またやってしまった―。
妻とのチャットに入れた20:45の「これから二次会だから遅くなる、ごめんね」には既読がついていない。 こういう時、妻は子供と一緒にもう寝ている。
ローンで買ったマンションは中古だけど割とキレイだった。 駅から歩いて15分、少し遠いけど歩けない距離じゃない。飲み会で日付が変わると決まって歩く帰り道だ。 終バスはとっくに終わり、駅のロータリーにはタクシーがチラホラ。 駅前のまだやっている飲食店やコンビニの前を過ぎると、急に暗くなる。
酔い覚ましに自販機で水を買って、歩いて帰る。 マンションは9階で、ウチは最上階の角部屋だ。 買ったときは何も考えていなかったけど、今は後悔している。 何より遠い、もっと下の階にしておけばよかった。
エントランスに人影はない、あたりまえだ、もう24:30近いから。 エレベーターのボタンを押した、ランプがチカチカ切り替わる。 扉が開いた。
エレベーターに入るときに気が付かなかったが、ボタンのところに老婆が立っていた。 身長は大きくない、僕からは後ろ姿しか見えない。
こんな時間に?と思ったけど、酔っていたし、あまり深く考えなかった。
扉が開いたまま、老婆は立ち去らない。 気になりはしたけど、ボタンは老婆がいて押せそうにないので、 とりあえず「すみません、9階をお願いします。」と伝えた。
すると、「エスカレーターはあちらです」と老婆は言った。 最初、訳が分からず、えっ?と聞き返したが、次に老婆は「年間利用ですか?」と続けた。
僕は、「いや、だから9階を―」と言いかけたとき。 老婆は「アプリコットはお好き?」と聞いてきた。
僕は、何かはっとした胸騒ぎを覚え、咄嗟にエレベーターから降りようとした。 酔っているからか、身体が重い、扉は開いたままだ。 僕が降りようとしたその瞬間、老婆はものすごい勢いで閉じるボタンを連打し始めた。
僕はやっとの思いで、エレベーターから飛び出し、床に転げた。 振り返ると、そこには老婆の姿はなく、紺色の制服を着たきれいな女性がこちらを向いて立っていた。 扉が閉まるその瞬間、女性は深くお辞儀をしていた。
扉が閉まる。
その瞬間だけ、花の香りがした。
甘いような、果物のような、知らない香りだった。
僕はあっけにとられて、気づいたらエレベーターが下りるのを見送っていた。 エレベーターが下りている? 確か、1階で僕は乗って、扉はずっと開いていたはずなのに。
周りを見渡すと、そこはマンションの9階、見覚えのある外廊下だった。 人気のない深夜の外廊下を重い脚をひきずって家の前に立つ。
鍵を開けてさっと家に入った。 真っ暗な部屋には、夏のむわっとした湿気を帯びた空気が漂っていた。
そっと寝室を覗くと妻と子供が寝ている。 クーラーで冷やされた空気が僕の頬をゆっくり撫でる。
書斎で鞄を開けた時だった。机の脇に何か落ちているのを見つけた。淡い桃色の小さな花だった。
昨晩の出来事を妻に話した。 このマンションでそんなこと聞いたことがないと言っていた。
妻に昨晩の花も見せた。
「何の花だろう」「さあ?」
妻は首を傾げた、私はスマホで調べた。
アプリコットの花だった。
しばらくして、マンションの夏祭りがあった。 長く住む居住者の老人に、その話をした。
老人はしばらく黙って、それからゆっくりと話し始めた。 昔、最上階に夫婦で住んでいた人がいた、と。 旦那さんが先に亡くなって、それからしばらくして、ベランダでアプリコットを育て始めた。 実がなったり、花をつけると、近所の人を招いてはお茶を振る舞っていたらしい。 その人も、もうずいぶん前に亡くなったが——
老人はそこで、少し遠くを見た。
「昔、駅前に大きなデパートがあってね。そこでエレベーターガールをしていたんですよ、あの人は」
僕は何も言わなかった。
ただ、今年の夏もベランダに何も植えていないことを、なぜか思い出した。
帰宅してエレベーターに乗り、九階のボタンを押す。扉が閉まる直前。ふわりと、あの香りがした気がした。
私は思わず振り返る。誰もいない。
ただ操作盤の前に、小さな花びらが一枚だけ落ちていた。
私は拾わなかった。
九階に着くまで、ずっとそのままだった。
了
本作はフィクションです。実在の地名・建造物・職種等が登場しますが、
創作上の使用であり、特定の対象を示すものではありません。
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