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他所の猫を見て泣く

    わたしの最大のコンプレックスは「慈しみの心」が欠如していることだった。

    「おともだちが困っていたら助けられる人になりましょう」「世界にはたくさんごはんを食べられないおともだちもいます」

    カトリック系の幼稚園に通っていたため、クリスマス発表会では『善きサマリア人』の劇を披露したにも関わらず、「困っている人を助ける」「弱いものを守る」という至極当然のことがピンと来ない。

    紛争や飢餓で苦しんでいる世界中の人々の映像がテレビで流れても、そうか、としか思えず。いやむしろ、いや、ここで文章にはできないほど「無」であった。

    わたしは一人っ子であり、初孫である。一緒に育ったペットもいない。そのため周りは親や祖父母と大人ばかりで、遊び相手(実際は遊ばれていたのであるが)は大人だったというわけだ。

    「こんな赤ちゃんとはお話ができない」と、年長さんクラスでお弁当を食べるほど、自分のことを高く見積もっていたらしい。まだ3歳のくせに。

    両親はこんなわたしを面白がりながら「このまま優しさのかけらもない大人に育ったらどうしよう」と心配していたようである。

    実際のところこの隣人愛、慈愛の欠如は高校生あたりまで特段苦労をしたように思わない。わたしが衝撃的に己の冷たさに頭を抱えたのは大学3年生の頃、当時付き合っていた恋人が熱を出した時である。

    「発熱」に対して全国民が過敏であった時期。わたしの一人暮らしの家で発熱した彼は、実家の祖母に移すと大変だという理由で2日ほどわたしの家に滞在した。結局、ウイルス性のものではなかったため、その点においての不安は無かったのだがこの2日間がそれはもう地獄だった。

    好きな相手なのに看病ができない。
    苦しんでいてかわいそうだと思えない。
    薬やゼリーを買ってきたものの「放っておいたら死ぬかもしれないから」
    早く元気になってほしい?そんなことより早くわたしを解放してくれませんか。
    そもそもなぜうちでリンパを腫らしているのだ?定期的にそうなるのわかってるなら早くそんなもの取ってくれないかなあ!

    あるべき姿を演じることすら出来ず、自己中心的な自分にとことん嫌気がさした。皆当たり前のように看病し、早く元気になってね!と心から思っている(少なくともそうみえる)のに、わたしはなぜ?

    これが最初にして最大の、コンプレックスへの気づきであった。

    思えば、犬猫、うさぎ、人間が共に暮らし、守るべきあらゆる動物、道ですれ違う彼らに対しても、かわいい、触りたい、お世話したいと思ったことは全く無かった。

    お母さんなぜわたしをせめて動物と一緒に育ててくれなかったのですか。

    彼氏発熱事件より程なくして、4年生にあがり大学の授業も減るためわたしが再び実家に戻ろうとしたある日、うちに猫がやってきた。

    猫の名前はみーちゃん。三毛猫のメスで、うちとその横の米屋さんの間の溝でたった1匹弱り、ミーミーと鳴いていたところを父が拾ってきた。
    病院に連れて行き、あらゆる検査や注射を施した。

    タイミング悪く、わたしが戻るより先に実家にきたみーちゃん。みーちゃんの中ではわたしが「後入り」である。それまで動物を触ることもままならなかったが、日中日夜ミーミーと鳴く猫と暮らすうち、ある感情が芽生えた。

    「かわいすぎる」
    かわいすぎる。ゲージに入り、自室とは少し離れた和室で寝ているであろう猫のことを考えると眠れない、初恋でも覚えない感情だった。

    それからは家族揃ってみーちゃん中心の生活となり、みーちゃんの方も利口で、優しく、よく喋り、すぐ膝の上に乗ってくる甘えんぼの猫に育っている。帰宅するととりあえずみーちゃんを抱っこして、吸いまくりたいし、仕事の休憩中も旅先でもペットカメラを見てしまうほど、みーちゃんに夢中である。

    すっかり猫好きとなったわたしの日課は、目の前のみーちゃんを愛することに収まらず、X等SNSであらゆる他所の猫を見ることだ。

    そのなかでも、たまたまTLに流れてきてかわいい〜!と即フォローをしたのが「猫のジョージ」

    TLにひしめく猫たちは、あたかも彼らが話しているような文体の投稿が多い(気がする)が、わたしがより好むのは飼い主さんの目線で、ありのままの、その家の猫の様子をシェアしてくれているものだった。

    ジョージの姿は写真のみ、あるいは文章を少しだけ添えて投稿される。言葉にならないほどの飼い主さんの愛情がじんわりと伝わり、こちらも勝手にジョージの穏やかな生活を想像してしまう。

    そんなジョージは、病気を患っていた。
    わたしは投稿を見るたびに、
    ジョージ、がんばれ。
    ジョージ早く良くなって。
    ジョージが辛くありませんように。
    と思い、♡を押した。

    ジョージがご飯を食べると、水をたくさん飲むと、うんちをすると、こちらも嬉しかった。
    穏やかに眠っているジョージを見て、苦しんでいないのであれば、と少し安心していた。

    ジョージが虹の橋を渡ったのは、わたしの中では突然だった。
    それを知ったのはアルバイトの休憩中で、すっかり油断してTLをサラサラと眺めていたとき。

    いつものように、気高く、利口そうで、かわいらしい写真と共に、いつもより長めの文書で
    ジョージへの愛情、フォロワーへの感謝まで綴られていた。衝撃と寂しさで、午後の業務は上の空だったが、それなりに忙しかったため、寂しさに溺れることは免れ、その日のバイトを終えた。

    家に帰る車の中でも、ずっとジョージのことを考えていた。ジョージは飼い主さん2人に揃って見守られ、この世での生活を終えたようだ。それはなによりかもしれない。駐車してもう一度ジョージの投稿を見た。そろそろ降りないと、ご飯食べないと。

    帰宅してすぐ母に言わずにはいられなかった。

    「ジョージが、、」
    「ジョージって?」
    「猫」
    母にジョージを見せるとかわいい!と言った。

    わたしは声をあげて泣いてしまった。母は驚いていたが、あんたが動物で泣く日が来るなんて、と少し涙ぐみ、父はみーちゃんがきて良かったといい、みーちゃんは泣くわたしを無視し、ンーとおやつをねだっていた。

    ジョージのアカウントでは、今も彼の愛らしい姿をシェアしてくれている。どれもたまらなくかわいい。改めてジョージは素敵な日々を過ごしていたんだな、と感じる。

    猫はすごい。動物はすごい。
    動物と暮らすことは命を預かることなので、安易に他人におすすめしてはいけないと思っているが、それでも彼らと暮らしてみると人生が180度変わることもありますよ、ということだけは言わせてほしい。わたしは旅行先のエアビーでも、猫のいる家を選んでしまうほどには、もう彼らのいない人生は考えられない。

    そしてなんと、うちに2匹目の猫を迎えることになった。母が知人から譲り受けた
    まだ赤ちゃんの猫。わたしが実家を再び離れる途端にやってくるので、またしても家庭内ヒエラルキーはわたしが最下位になってしまう。妹や弟がほしいと思ったこともあったが、猫の兄弟が増えて嬉しい。

    最後に、わたしに愛を教えてくれた
    ジョージと、みーちゃんに大きな感謝を。

    追記:これは1年以上下書きに眠っていた記事です。

    2匹目の猫はマロという名前で、みーちゃんと一緒にとっても元気に暮らしています。
    ちなみに私のことが大好き。

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    マロ

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    2000年生まれ/映画や読書、旅の備忘録/日記は3日も続かない

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