
おれんちって、そんな変かな。
正月は、いつも祖父母の家で過ごしていた。
祖父は子に厳しく、孫に優しい。祖母は子にも孫にも口煩い。そんな祖父母だった。
12月29日に、家から1時間ほどの祖父母の家へ行き仏壇に線香をあげたあと夜ご飯で回転寿司に行くことが通例であった。
回る寿司は、皿の色で値段が異なりその事実に早々気づいた幼い私は高い色を食べては
「この魚美味しい。」と云い、祖父母を笑わせた。
その寿司屋は、店内に生簀があり注文が入ると網で捕獲して捌いて提供される。今思うと、ひどく残酷なことをしているのだが、当時は逃げ場のない生簀を必死に逃げた挙句、捉えられる魚と色のついた皿の上に載っている物体が同じものであると認識はしていたがピンとこなかった。
魚の味などわからず、大量の甘口醤油をつける私に祖母は
「はしたない。お醤油はちょっとでいいのよ。」
と指摘し、祖父は
「好きにさせたらええ。」
という。
長年連れ添ってきたとは思えないほどの食い違いである。
祖父は決まって寿司の後に茶碗蒸しを食べた。茶碗蒸しは、大きな椎茸と銀杏が入っており、祖父は決まって
「裏の玄関入って左手に黄色の実がなってとるのわかるか。あれがこの銀杏や。」と茶碗蒸しに入っている翡翠色の銀杏をお匙で掬うが、それもまた寿司と同じようにピンとは来なかった。
祖父は、私が生まれた頃から脚が悪く、いつも杖をついていた。
そんな祖父を祖母はたまに
「昔は、早朝に走りに行ったり、テニスにゴルフにしていたのにね。」
と揶揄った。
この話をすると祖父は無視を決め込むのだが、その様子が少し怖かった。しかし、祖父が亡くなり私も人並みに(と云っても24歳の若者だが。)人とお付き合いを重ねてきたが祖母のこういうところが祖父は好きだったのではないかと思う。
12月31日の夕方になると、いつもきまって御節を最寄駅近くの惣菜屋へ取りに行った。それは、孫の私と祖母の役割だった。
祖父母の家から駅までは坂道が多かった。祖母は自動車も自転車も乗らずその坂をいつも歩いていた。隣が広大な駐車場であったため、2分ほど歩いて振り返っても裏口の銀杏はよく見えた。
駅前の惣菜屋で御節を受け取り帰る途中、祖母は決まって同じ話をした。
「昔はね、御節は必ず手作りしてたのよ。私のお母さんと、私とで。あなたからみるとひぃおばあちゃんだね。昔だからねぇ、それが普通だったの。段々、作れんようなってきて、いまはお惣菜屋さんがあるかららねぇ。ほんっと助かる。ここの、おせちは手作りで美味しいけんね。家帰ったらお豆さんだけ煮よかね。それだけは、自分でせんといかんね。」
「ただいまかえりましたー。」
三和土で、靴を脱ぎながら大きな声で叫ぶ。自分の家と異なり、祖父母の家は玄関からリビングまでの廊下が長い。築50年を超えている廊下は所々、床の木が凹んだりするのだが、私は一歩一歩感触が違うことがたまらなく好きだった。
古い家で過ごす日々は祖父と添い寝している感覚に似ていた。自分より年老いた家は私を心の底から安心させてくれた。
御節は次の日まで玄関の脇に置かれていた。御節は大きく冷蔵庫に入らない。暖房がついていない廊下が祖母曰く1番いいらしい。木目調の廊下と靴箱、来客用のスリッパの中でピンク色の風呂敷を被った御節は紅一点だが、寂しく見えた。
毎年、元旦という事実は起きて数分後に気がつく。この年も漏れなく同じであった。
起きて、敷布団を蛇腹に畳んでいく、その上に鏡餅の如く掛け布団、毛布、シーツ、枕と乗せていく。最後に、上から覆い被さりペチャンコにするまでがワンセットだ。廊下を渡り、引き戸を開けると台所には祖母が立っていた。
「おはよう。明けましておめでとう。」と声をかけると祖母は調理の手を止め、くるりと正面を向いては、
「おはようございます。明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。」と他人行儀な言葉に加えて、綺麗なお辞儀をする。
慌てて、「今年もよろしくお願いします。」
と私も頭を下げる。
その後、祖父、母と挨拶に回り最後には仏壇にも年越しの挨拶をする。ざっと、五柱程の位牌が並んでいるのだが私は誰1人として知らない。祖父母の手前、マッチで蝋燭に火をつけお鈴を鳴らし、数珠を手にかけ目を瞑る。早すぎるといけない気がして、いつもゆっくり10まで数える。
朝食の前にはお屠蘇を頂く。
祖父がお銚子を手にして、一人ずつ盃に入れては飲む。年々大きくなる盃に嫌な気を起こしていたが年始早々そのような顔をすることは許され難い雰囲気であるために我慢をしては平静を装い一気に流し込んでいた。が、毎年変わらずひどく不味い。年に1度とは思えない程に強烈な印象を与えてくる。飲んだ後にべーっと舌を出したくなる。無論、できない。そんな中、祖父は1番大きな盃を持ち、毎年私がお銚子を手にして、これでもか、とギリギリまで入れるのだが態度も肝臓も図太い祖父である。それを満足そうに飲んでは「うむ。上手い。お代わり。」と云い、私を混乱させた。
(後に分かる事だが、私は九州男児にあるまじき下戸だった。)
御節料理は好きではなかった。全体的に酸っぱく、味気ない。机上の食べ物でランクづけするならばお雑煮以外、全て同率最下位だ。年に一度なので、文句を言わず食べるが季節の変わり目に食べていたとは考えられない。
祖母と料理を食べる際は自然と背筋が伸びる。食事のマナーは全て祖母から教わった。
ご飯は左、お吸い物は右。お箸は、右手で取って左手を箸の腹に、右手を沿わせるように定位置に、「いち、に、さん。」とリズム良く。お箸の先5センチしか汚してはいけない。食事の際に漬物に1番には手を出さない。
そんなの、なんでもいいじゃないか。と云われるかもしれない。けど、続けていたら分かる。なんでもよくないのだ。玄関で靴を脱ぐように、これが食べ物を頂くルールである。お陰で今でも箸を持つ時には心の中でリズムを取るし、定食が出てきたら先ず定位置に移動させる。食事のマナーで恥ずかしい思いをしたことも迷ったこともただの一度もない。
しかし、困ったことはある。
小学校の給食の時なんて、最悪だった。机をくっつけて班にして食べるのだが、クラスメイトの皿の位置が違うことにムズムズが止まらなかった。クラス全員の給食を定位置に動かしたい衝動といつも戦っていたが故、どんな味だったかなど全く覚えていない。
給食当番の週はできるだけ、定位置に置こうと積極的に配膳係に回ったほどである。
そんなこんなして、御節を頂き、お年玉を貰い、ショッピングセンターに福袋を買いに行く。
これが、我が家の正月ルーティンなのである。
1月6日はいつも、変な気分であった。
担任は年度が変わって意識新たに、なんて云う。今年は、10歳で2分の1成人式がありますなど語るが、クラスメイトも担任も変わらず新たなことなど何もない。興味があるのは専ら、自分のお年玉が他人より多いか少ないか、だけだ。
クラスメイトのY君が私の席に駆け寄り言った。
「正月、どこ行った?」
私は答えた。
「お母さんとおばあちゃんち。」
Y君はさらに聞いてきた。
「お父さんは?」
私は答えた。
「お父さん?うち、お父さんいないよ。」
Y君は言った。
「そうなん。きみの家、変だね。」
私は心の中で
『君のグーのような鉛筆の持ち方と、クリームパンのような箸の持ち方のほうが変なんじゃないかな。』と答えた後にこう言った。
「おれんちって、そんな変かな。」