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不断の花を、携えて──五個の弁当と、子どもが減り続ける社会と

    私の朝は、五個の弁当を作ることから始まる。
    それから一番下の子を保育園へ送り出し、仕事へ向かう。花を愛でる暇など、どこにもないような毎日だ。けれど、そんな毎日の中でこそ、立ち止まって考えてみたい言葉がある。

    岡倉天心の『茶の本』の第六章、花について書かれた章だ。そこでは、花についてこう書かれている。

    「喜びにつけ悲しみにつけ、花はわれわれの不断の友である。」

    出典:岡倉天心「茶の本」

    人は、花とともに食べ、飲み、歌い、踊る。結婚のときは花を飾り、祝うときも、慰めるときも、癒すときも、愛でるときも。そして、死んだ者に対しては、たくさんの花を持たせてあの世へと送り出す。

    考えてみれば、私たちが人生を振り返るとき、多くの場面は花と共にある。家族の誕生日、子どもたちの入学や卒業の日、サプライズの記念日、大切な人との別れの日。大切な客人を招くときには玄関に花を飾り、自分自身のために一輪の花をリビングに生けることもある。亡くなったものには、墓前に花を手向ける。

    花は、その時々で私たちの心情をおもんぱかるように、時に言葉を補い、時に情景をより鮮やかにしてくれる。そして、私たちはそんな花の存在とともに生きている。

    さらに、昔の茶人たちは、花に対しても人のように扱った。彼らは必要以上に花を摘むことはせず、一輪、一枝を注意深く選び取り、丹精を込めて活け、日本間の上座に当たる床の間に置いた。
    その部屋に入るものは、まず花に向かって丁寧に御辞儀をし、その後で主人に挨拶をする。そして、花の色があせれば、親身になって土へと帰す。

    茶室に活けられるのは、たった一輪のこともある。数日もすれば萎れてしまう。けれど茶人は、その一輪のための一連の時間を、少しも惜しまない。むしろ、そこに時間と手をかけることの必要性や不可欠性を知っている。

    表面的な効率や損得だけで測れないことに意味を置き、時間と敬意を惜しまない態度。この姿勢は、近代化以降、特にその傾向を強めるお金や効率を優先する物差し、価値観とは、明らかに異なる。

    私たちは、もう十分と言っていいくらい便利な世の中に暮らしている。日常的に必要なものは手に入れようと思えばすぐに手に入るし、雨風が十分しのげる家に暮らせる。けれど、どこか満たされないような感覚にとらわれ、将来に対する漠然とした不安を抱えながら生きている。そして、なんだかいろんなことに疲れている。

    資本主義社会から新自由主義へ。社会は、ますます経済活動や効率を優先させようとしている。その過程で私たちは、偽物の豊かさを思いこまされていないか。一部の人々が極端に富を集約していくことで、私たちにも豊かさが訪れると履き違えていないか。私たちは、豊かさや人生の目標について「いつか、どこかで、手に入れられるもの」だと思っていないか。努力して一生懸命駆け抜けた人生の先に、辿り着くべきゴールがあって、そこに豊かさが待っていると。
    けれど、本当にそうだろうか。
    どこかに終着駅があるように、そこにたどり着けばすべてが満たされるような豊かなゴールがあるのだろうか。そうではなくて、私たちは、花のような「不断の友」というべきものを携えながらでなければ、生きていく上での本当の豊かさを手に入れることは永遠にできないのではないか。

    不断の花ともいうべき豊かさとは、人生の最終地点でようやく享受できるものではなくて、生きることと常に共にあって、その時々に、私たちを慰め、癒し、喜びを与えるものだ。
    漠然とした将来への不安を抱えながら疲れている私たちに、たどり着けるような安楽の地があるのだろうか。それとも、それは日々の傍らに在るものなのか。この問いについて、しばらく、あなたと一緒に考えてみたい。

    終わらない回転

    なぜ私たちは、こうも「遠く」ばかりを目指してしまうのだろう。
    もっと成長を、もっと効率を、もっと豊かさを。そう言い聞かせながら、私たちは休みなく走り続けている。けれど、目指した地点にたどり着こうとすると、ゴールは少し先の方へ動いていて、届いたと思えたその瞬間には、その先に新たな道が続いていることに気づかされる。まるで、目指していたものは決して掴むことができないようにできているかのように。

    以前、パンを焼きながら、こんなことを考えたことがある。
    私は、天然酵母のパンを焼く。その日は週末で、前の晩から生地を仕込み、一晩かけて発酵させ、翌日の朝、さらにベンチタイムの時間を取り、成形し、二次発酵する。これらの過程を経て、ようやくパンが焼ける。酵母の力と室内の温度のみで発酵させるため、手間と時間がかかるのだ。

    だが、焼き上がった熱々のパンを子どもたちは我先にと嬉しそうに頬張ってくれる。時間をかけて焼き上げたパンも、数分もすれば、ほとんど無くなってしまう。けれど、それで満足する。家族のために焼いたパンを家族が喜んで食べてくれることに。

    この家族のためにパンを焼くという労働には終わりがあり、食べ終わって焼いたパンが無くなれば、そこでパン作りという労働は、喜びと共に静かに完結を迎えるのだ。また食べたくなれば、その時にまた焼けばいい。

    けれど、もしこのパンを作るという労働が、売るためのものだったらどうだろう。目的が「家族に喜んで食べてもらうこと」から「売ってお金に換えること」へ変わったとたん、何かがずれ始める。

    パンを10個作って売れればそれで満足できるか。おそらくそうはならない。次は20個、20個売れれば、次は100個と、もっと売りたい、まだ足りないと、その労働は、どこまでいっても完結しないものにならないか。

    自分自身が店主で、パンを100個売ることができれば自分の生活にとって十分だと満足できるのであれば、そこで満たされて終わることはできるかもしれない。しかし、資本家ともいうべき本当のオーナーが別にいて、その労働の意思決定が自分以外の別のところでなされ、自分はそれに従うしかない労働だとしたら、100個で終わることができるだろうか。おそらく次は、500個を目指そう、1,000個を目指そうとなるだろう。
    この労働は、完結しないようにできている。

    私たちの多くは、たぶん、この「終わらない労働」の中に立っている。どれだけ働いても、終えた気がしない。満たされた気がしない。いつも、うっすらと疲れている。その疲れは、ただ単に働きすぎているからということではなく、どこまで働いても完結が来ないように仕組まれた回転の中に私たちがいることから生じているのではないだろうか。

    その回転は、巨大な歯車のようにも思える。私たちは、その歯車の内側にいて、それを回すことに必死になっている。回転の先に、いつか辿り着くゴールともいうべきものがあると信じて、あるいは信じさせられて。

    けれど、歯車は、どんなに回り続けても歯車だ。回すこと自体が目的になっている、あるいはそれだけが目的のように思いこまされている。私たちは、目的を持っているようでいて、その実、掴むことのできない何かを、追わされているだけなのかもしれない。

    風船は、めいっぱい膨らむと、遠く、希望の光を目指すように、空高く舞い上がっていく。自由に舞い上がったように見える。けれど、やがてその風船も少しずつ空気が抜けはじめ、しぼみだす。そして、最後は地上に落ちてくる。その場所は、案外、元々居たあたりかもしれない。あんなに遠くまで行ったつもりが、最後には元の場所へ戻ってきたことに気づく。自由だと思い込んでいたものは、本当はただの思い込みだったのかもしれないと気づく。遠くを目指すということ、それ自体がいつのまにか、私たちを不自由に縛っていないか。

    歯車は、花を弾き出す

    この歯車の論理を、社会のすみずみまで行き渡らせると、何が起きるか。いちばん先に弾き出されるわかりやすい例は、子どもだ。

    少子化が止まらないと言われて久しい。
    厚生労働省が発表した2025年の人口動態統計によると、1人の女性が生涯で産む子どもの数を示す合計特殊出生率は1.14で、過去最低を更新したという。低下は10年連続だ。2025年に国内で生まれた日本人の子どもは67万1236人で、1899年の統計開始以来、最も少なかった。
    日本の人口を長期的に維持するために必要な合計特殊出生率は、概ね2.07程度と言われているが、1974年にこの「2.07」を下回って以降、一度もこの数値を回復していない。1974年と言えば、今から半世紀さかのぼる52年も前のことだ。

    給付金を増やし、保育を広げ、働き方を変える。あれこれと様々な手は打たれてきた。それでも、右肩下がりの傾向はほとんど変わらない。なぜだろう、と多くの人が首をかしげる。

    けれど、問いの立て方そのものが間違っているとしたらどうだろうか。私たちは少子化を、直すべき不具合のように扱っている。どこかに故障があって、正しい対策を当てれば直るはずだ、と。でも、もしそうではないとしたら。もし少子化が、故障ではなく、この社会がきちんと作動した結果だとしたら。

    ここ最近は、連日のように日経平均株価が最高値を更新したとの報道が増えた。お金と効率を何より大切な物差しにするという考え方は、ますます加速しているように見える。その物差しを社会のすみずみまで行き渡らせる。そうやって最適化を突き詰めていけば、子どもを持つという選択は、どんどん「割に合わないもの」になっていく。

    時間を奪う。お金がかかる。キャリアが滞る。眠れなくなる。自由が減る。自分の人生だけを考えるとき、効率と損得だけを基準にすれば、子どもを持つという決断は、合理的な解として得難いだろう。だとすれば、人々が少しずつ子どもを持たなくなっていくのは、システムの誤作動ではない。むしろ、システムが正しく答えを出していると考えることができる。少子化は、失敗ではない。行きすぎた資本主義が、その論理に忠実に導き出した、ひとつの正解なのだ。

    そもそも子どもは、あの歯車に入る前の、まだ外側にある存在だ。効率を求めて愛するというようなことではない。本来は、無条件に愛おしいはずだ。将来への投資のためでも、労働力のためでもなく、一義的には、ただそこにいるだけで、その存在自体がかけがえがない。効率の物差しではいちばん測れないものの代表が、子どもだ。だから、その物差しを徹底すればするほど、子どもは真っ先に、はじき出されていく。

    断っておきたいが、私は資本主義社会のすべてを否定したいわけではない。この仕組みが生み出してきた豊かさは、確かにある。私たちは飢えから遠ざかり、夜は明るく、それ以前の時代において誰も持ち得なかった便利さの中に暮らしている。その恩恵を、私自身、毎日のように受けている。そのことをただただ批判したいということではない。

    けれど、それでもなお、目を逸らしてはいけない部分がある。豊かになったはずなのに、なぜか、いちばん大切なものが、静かに薄くなっていく。その最たるものが、半世紀以上続く出生率の低下に現れているとしたら、──私たちの世代から次の世代へ手渡さなければならないバトンそのものだとしたら、私たちは、いったい何のために、必死になって回り続けているのだろう。

    予定表に、居場所がない

    同じ歪みは、もっと身近な、家庭での日常の中にもある。例えば、スケジュール帳には、その日の仕事の予定が、きっちりと書き込まれている。何時に来客があり、何時に打ち合わせをし、資料の締め切りに間に合わせるための今日のToDoリストがある。ところが、「子どもを保育園に18時に迎えに行く。」あるいは、何時に家族で夕食を食べ、何時に子どもたちをお風呂に入れ、何時に子どもたちを寝かしつけるという、家事や育児の時間は、はじめから、そこに決められた居場所を持っていない。

    考えてみると、不思議なことだ。仕事は、予定として固定される。けれど、家事や育児は、なぜか固定されない。それらは「仕事の合間にやるもの」「余った時間で、誰かがやっておくもの」として、予定表の外に置かれている。誰の仕事とも決まっていないのに、誰かがやることで、日々は回り続けている。それなのに、その「誰かの仕事」は、いつまでも、予定表に席を持てないままだ。

    私自身の一日はというと、冒頭に書いたとおり、五個の弁当を作る朝から始まる。夕方、仕事から帰れば、子どもを保育園に迎えに行き、夜ご飯を作る。そして、子どもを風呂に入れて、寝かしつける。妻も同じように働き、これら以外の家のことを担っている。二人がかりで、ようやく一日が回る。

    こう話すと、驚かれることもある。そこには「父親なのに?」という感覚があるように感じるときもある。思い返せば、その反応にこそ、私はいつも小さな引っ掛かりを感じていたように思う。同じことを母親がしていても、誰も驚かないし、褒めもしない。当たり前だと思われている。父親がやると、なぜか特別なことに見えて、「手伝い」とか「イクメン」とか呼ばれる。

    手伝いという言葉は、それが本来、誰か別の人の仕事だという前提を、そっと忍ばせている。イクメンという言葉も同じだ。その響きの奥には、家事や育児は父親の仕事ではない、という暗黙の了解が、静かに横たわっている。

    ケアという労働は、長いあいだ女性のものとされてきたから、当たり前すぎて、表立ってこなかった。そして男性がやれば、今度は妙に目立ってしまうが、それも例外と見られてしまう。どちらの側であっても、それ自体が日常的に不可欠な労働として、一人前分の地位をなかなか与えてもらえない。現代社会は、この見えない労働を性別の壁の両側で、曖昧なままやり過ごし続けていないか。

    結局のところ、私たちは、生産性があるもの、お金で測れるものだけを「価値」と呼び、そうでないものを、価値の外側へ、静かに置いてきてしまった、あるいは追いやってきた。その延長に、介護、保育、医療、清掃といった、一日でも止まれば誰もが困る仕事ほど、なぜか給与が低いという現実がある。不可欠なのに、安い。そして、家で人を育てることが軽視される。お金を生み出す創造は輝かしいものとして前に出て、お金は生まないが日々を回すために欠かせない維持は、見えないところへ沈んでいく。
    無駄とされているものは、本当に、無駄なのだろうか。

    必然の中の、美しさ

    ここで、ひとりの芸術家のことを話したい。
    今から半世紀ほど前、ある女性芸術家が、維持する労働にも、創造と対等の席を与えよと訴える運動を起こした。ミエレル・レーダーマン・ユケレスによるメンテナンス・アート宣言だ。掃除も、世話も、家事も、育児も、世界を成り立たせている立派な営みなのだと。展示室で新しい作品を生み出す行為が「創造」と讃えられるなら、その同じ展示室を毎朝掃除し、拭き上げる行為も、等しく価値ある営みではないかと。

    生きるために、どうしても避けられない、繰り返す必然の営みがある。食事を準備すること、食べること、掃除すること、誰かの世話をすること。私たちはそれを、しばしば「不自由」だと感じる。自由な時間を奪う、本当にやりたいこととは違う営みだと。けれど彼女は、その必然性の中にこそ、真に人間的な美しさと、自由が宿るのだと言った。

    その言葉を聞いて、私は山間の集落にある古い神々の宿る神社を訪れた時の感覚を思い出す。
    古くからある神社の鳥居をくぐった瞬間、凛として張り詰めた空気に感動するような美しさを覚える瞬間のこと。石造りの苔むす階段や参道、天高く伸びる木々の間から差し込む光に、自然の美しさと神の存在を感じる時。これは、単にその古い御社を取り囲む悠久の自然だけで成立し得る美しさではない。建物や参道の石段など、その御社を代々世話してきた人々が長年に渡り自然の中に手を入れ、大切に維持してきた営みそのものと自然が一体に融合した美しさだ。

    この維持を大切に扱う考え方は、天心の花と、深いところで響き合っている。効率の外にあるもの。役に立たないとされるもの。避けられない必然の中にあるもの。東洋の茶人が花に見たものと、西洋の芸術家が維持に見たものは、同じ一点を指している。私たちが「無駄」や「不自由」として脇へ置いてきたものの中にこそ、豊かさがあるのではないか、という一点を。

    その豊かさを、私は、日々の暮らしの中で、確かに知っている。例えば、パンだ。売るためではなく、家族と食べるために焼くパン。焼きたてを囲み、食べることを目的にする。あの終わらない労働とは正反対の、静かに満ちて完結する営み。

    あるいは、子どもの寝かしつけもそうだ。子どもを寝かしつけているうちに、子どもより先に、自分が眠ってしまう夜がある。その夜、私は何ひとつ生産していないかもしれない。何も生産しない夜は、効率の物差しの上には、1ミリも現れない時間だろう。けれど、人生の終わりに思い出すのは、たぶん、そういう夜のほうなのだ。

    私は少し前に、急に心臓の手術をすることになって、リアルな自分の死というものを本気で考えたことがある。最悪の場合、入院したままもうこの家に帰ってくることはできないのではないか。そう考えた瞬間、最も色鮮やかに私の目に映ったものは、何気ない日常の中にある、目の前の子どもたちの表情だった。それ以外のものがすべて背景になるくらい、はっきりと分かった。私はそのことを身をもって知ることができた。

    効率の物差しの「外側」にも、確かに何かが在る。そして、表には出てこない社会の裏の部分に存在するようなそういった日常的な営みの中にこそ、私たちが追い求めている本当の豊かさを手に入れるヒントがあるように思えるのだ。物差しの上に並べようとするから削ぎ落とされるもの。物差しを使おうとする限り、気づくことすらできないもの。私たちが合理的だと考える判断のもとに手放してしまったものや立ち止まることもせずに通り過ぎてきた場所。そこに時間をかけて向き合ってみるのはどうだろうか。

    花を、制度に活けられるか

    こうした「測れない豊かさ」を、社会の仕組みの中に、活けることはできるのだろうか。
    私は、建築に関わる仕事をしている。そして近年、土地の気候や風土に寄り添った住まいのことを考え続けてきた。夏には大きな窓から風を取り込み、冬にはその窓から温かい日差しを室内に取り入れる。その土地で採れる材料を使い、いつか解体するときにも、できるだけゴミを残さない。そういう住まいだ。

    そこには、指標や数値には表しにくいけれど、多少の不便さと共に宿る豊かさと、住むという営みの静かな手ごたえがある。不便さを便利に変えるのではなく、そんなものだと受け入れて、うまく付き合っていこうという住まい方だ。

    こうした、一見すると効率や画一化とは逆を向いた住まいのあり方が、近年、制度の中に位置づけられた。カーボンニュートラルという旗印のもと、計算できる基準の中で省エネ性能を高めようとする建築物省エネ法の大きな流れの中で、その土地土地の風土に根ざした家造りを認める、小さな窓が開いたのだ。これは、ある意味で画期的なことだと思う。一見すると効率化、高性能化とは逆を向いたベクトル。一律に定義できないもの、計算で測れないものに、社会がその価値を認めた瞬間だった。

    けれど、一方で少し気がかりなことにも気づく。制度に位置づけられるということは、測れなかったものに、番号や基準を与えて、測れるものにするということでもある。それは、あの回転する歯車の中へ、花を取り込むことにもなりかねないのだ。認められた瞬間に、花が「制度の部品」に変わり、かえって本質を失ってしまう危うさをはらんでいるようにも思えるのだ。

    茶人は、花を摘み、活け、そして土に返した。制度化とは、ときに花を摘み、標本にして、棚に並べてしまうような行為かもしれない。測れないものを大切にするために、測れるようにする。この矛盾を、どう引き受ければよいのか。制度はまだ始まったばかりだ。社会が向かう流れにあらがう逆向きのベクトルとして、ありのままの存在として生存し得るのか。制度の中に小さな居場所を得られたことを喜びながら、その花の行く末を内側から見ていたいと思う。

    不断の花を、携えて

    では、私たちは、どこへ向かえばいいのだろう。
    おそらく、社会に根付いた歯車を止めれば豊かなものが得られるなどという単純な話ではない。資本主義社会以前にさかのぼり、ユートピア的な社会を目指し直せばよいということとも少し違う。世界は複雑に回り続けていて、それを巨大な力で回し続けている根本的な要因は、もっともっとと成長や成功を求め続けてしまい、欲望をコントロールできない私たち自身の中にもあるかもしれないからだ。

    けれど、仮に欲望をコントロールできないのだとしても、その先に私たちが掴むことのできるゴールや到達地点が本当にあるのかという疑問は、放棄せずに考え続けなければならない。考えることをやめ、回転にただ身をゆだねてしまったら、最後にはすり減ってしまうだけの、ただの歯車になってしまう。

    では、どこを目指せばいいのか。
    私は、遠くを見ながらも、改めて、手の届く身近なところに目を向けたいと思う。手帳に書き込まれなかった日常の中に。仕事の合間の、余った時間へと追いやられてきたものの中に。不自由だと思って向き合うことを避けてきた、維持や、誰かをケアするという営みの中に。人生の背景のように、ずっと共にあったものの中に。

    そこにはすでに、不断の花と呼ぶべきものが、在るのではないだろうか。
    そういうものにこそ、本当に大切な人のためにこそ、時間と、手間と、愛情をかけてみる。

    答えは一つではないし、一つに絞る必要もない。今まで目指してきたことを、やめる必要も、あきらめる必要もない。
    ただ、不断の花を携えながら、その道を歩き続けることは、きっとできる。

    今夜も私は、子どもを寝かしつけながら、たぶん先に眠ってしまうだろう。
    何も生産しない、物差しの上には1ミリも現れない夜。けれど、人生の終わりに思い出すであろう今、この瞬間にしかない夜。
    喜びにつけ悲しみにつけ、花はわれわれの不断の友である。
    そして明日もまた、私の一日は、五個の弁当を作ることから始まる。

     
     
    5人の子どもを育てる一級建築士。専門は建築法規。 パンを焼き、投資を考え、子どもと縁側で過ごす。 日常の中に問いを見つけて、ここに書き留めています。 建築|子育て|投資|天然酵母パン|アート

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