中卒、26歳、独身、フリーター。悩みながら生きていく。
「はい、平成11年産まれで、26歳です。
いえ、独身です。あ、いえ、中卒です。
高校には行ったのですが、1年で辞めてしまいまして。はい、そこからはずっとアルバイトをしながら ....」
初対面の人への自己紹介、はたまた面接などで
幾度と繰り返してきたそのフレーズは、どんな
場所状況、心身の調子も否応無く、驚く程に滑らかに口が動く。
2026年。私がこの世に産まれた時からは1番大きな位の値も、元号も変わり、世の中は大きな流れの中で確実に変化をしている。
日々を重ねる毎に10代を終え、気づけば20代も半ばとなった。人生100年時代と言うならば、私の現在地は1/4を越えたあたり。
当然この道のゴールなどまだ少しも見えず、かと言って振り返ってみてスタート地点が見えるかと言われても全く見えない。
人の進むべき道があるかは分からないが、道標なるものは先人達は築いてきた。
しかし、私は道すがら1/4程で既に、大分道標を無視して進んでいる。
私は幼い頃から勉強もスポーツも平均点程で、
中学校までは内申点は各科目3点が基本。
''テストの点数上位にランクイン''の様なモノには興味が無く、中学校を卒業するまでは、友達と
遊ぶ事や部活動が楽しかった。
それなりに授業を受けて、板書をノートに書き写していれば、赤点を取る事は無かった。
勉強に関してはそれ程で満足していたし、親も私に対して勉強の圧をかけるタイプでは無かったので、勉強で悩んだりした事は無かった。
スポーツは、と言えば、9歳の頃に私は地域の
野球の少年団に入った。
この野球がとにかく楽しくて、少年団の稼働は土日祝だけだったが、平日も学校が終われば走ってランドセルだけ家に置きに帰り、グローブ、
バット、ボール。それに手作りの段ボールのベース(実際の大きさをしっかり再現したもの)を持っては学校のグラウンドにとんぼ返り。
17時のチャイムも耳に届かぬ程、来る日も来る日も夢中になって白球を追いかけた。
しかし、不思議な事に、夢中になっても成果は
気の向かない勉強と同じで、大したものでは無かった。
上級生がいるうちは補欠。自分が最高学年になってようやくスタメンになれる。という程度だった。
それは中学校に上がり、部活動に変わっても同じだった。
チーム自体も良くても地区大会入賞程で、
皆真面目に野球に打ち込んでいたが、私が所属した少年団、中学校の部活動も、全国大会はおろか、県大会の土さえ私は踏む事は無かった。
そんな中、中学校を卒業して、私が進学した高校は、偏差値は50程の共学の県立高校だった。
当時家族4人でアパートに住んでいたが、それだけで、この家の経済状況は私は何となく察していた。
4つ上の姉は高校受験に落ち、すべり止めの私立の高校に進学し、大学も私立の大学に通っていたため、親は私には県立の高校に進学して欲しいという気持ちが強かった。
それに対して私も反論は無く、学力的に無理の無い範囲で選択したのがその高校だった。
家からも近く、自転車で30分程の場所だったためか、同じ中学校からの進学者が20人程いたのは
入学してから驚いた。
部活動は迷わず野球部に入部する事になる。
入学式前の春休み時点で''新1年生''は練習に参加でき、初めて触る硬式ボールや、少年団の時に他のチームだった人と、今はチームメイトとして同じグラウンドで練習する事は、この先の3年間の期待を大きく膨らませ、私は希望に満ち溢れていた。
高校入学後の野球は、それまでのものとは比較の仕様の無い程厳しいものだったが、高校球児たちは皆、甲子園という夢舞台に目掛けて毎日練習をするものだ。そうと思っていたため、特にイメージのギャップは無かった。
しかし、入学から1年程経った冬休み。
私は練習の辛さから仮病で1日練習を休んだ。
指の骨を折っても申告せずに、ボールを捕る度に激痛が走る中で、普段通り練習をした時もあった。
その時に比べたら身体は何処も痛くない。
ただ、
''今日は休みたい''
「1日だけで良い。明日からはまた普段通り練習に行こう。」
そう思っていた。
しかし直ぐに、今までに感じた事の無い激痛が自分の中を巡った。
「私はとんでもない事をしてしまったのでは無いか。」
「仮病で練習を1日休むなんて、人生の中で1度でもあっただろうか。辛いのは自分だけでは無いのに、チームメイトは必死に練習している。
仮病で練習を休むなんて、自分は最低な人間だ。」
「もう、グラウンドには戻れない。」
金縛りの様に私は身体が動かなくなり、目の前にあるもの全てが私を非難する様に思えた。
「たった1日」それはとてつもない勘違いで、
私自身を保てなくなる程に深く心を抉る大きな刃となった。
結局次の日も、その次の日も、その日からずっと私は家の中から出られなくなってしまった。
休むと連絡を入れたのも最初の日だけで、それ以降は連絡さえしていなかった。
チームメイトや監督に迷惑をかけている自覚が無かった訳では無い。
ただ、そう思えば思う程、体は何も動かなかった。
新学年に上がるタイミングで私は高校を辞めた。しかし、その旨を自分で伝える事は出来なかった。
退学書なるものに名前だけ記し、それは親づてに学校へ提出された。
私は結局、その1日の練習をサボってから一度もグラウンドにも学校にも行けなかった。
家の中に引き篭もり、太陽の昇り沈む様を見続け、空の色が落ちる頃、無数の星達が煌めきを極める頃に、睡魔がやってくる事を安心する日々が徒に過ぎていった。
母親は通信制の高校への編入や、高卒認定試験など、あらゆる新たな道を私に提案してくれていが、私はこの先の未来を考える事が嫌で、全てを
拒んでいた。
引き篭って半年程が過ぎたある日、母親が仕事で居ない昼間、いつも通り1人で家に居た時、インターホンが鳴った。
退学するまでの期間は何度も学校の先生、同級生、野球部のチームメイト、先輩、監督が様子を心配して尋ねて来てくれていたのだが、一切私は拒んでいた。
そして、退学届が提出されてからは、一度も誰も私を尋ねて来た事は無かった。
何度もインターホンが押される度に、私の中に響くその音は大きくなっていった。
導かれる様に玄関まで向かい、恐る恐るドアスコープを覗くと、小学校からの幼なじみのTくんがそこに居た。
「何を言われるんだろうか。」という恐怖と、
「話したい。」という葛藤が凄いスピードで駆け巡る。
その刹那、ドアが開いた。
時間の概念を疑う程に、時が止まった様に感じる。
今何秒経ったのか皆目検討もつかない。
私は何も言えぬまま立ち尽くしていると、
「生きてて良かった....!」
Tくんは私にそう言った。
その言葉は耳よりも早く心臓に届いた。
頭からつま先まで一気に血が巡る。
私は何も言葉は発せず、ただ、ひたすらに両の目
から雫を落とした。
「学校はいいからさ、遊ぼうよ。」
続けて発したTくんの言葉に私は依然涙が止まらなかったが、掠れた声で「ありがとう」と、
私は返事をした。
それから暫くして、担任の先生、クラスメイト、野球部のチームメイト、先輩、監督。
全ての人に直接会に向かい、謝り、訳を話をした。
誰と話をしても、私を非難する人は1人も居なかった。
私は高校を中退した。
言ったらそれは自業自得で、自分の弱さが招いた事は事実だ。
ただ、学歴という事実以上に、私の人生にとって大きな意味を持っている。
私はどこに向かっていくのだろう。どうしたら良いのだろう。そんな事を悩みながら生きて行こう。
10代の一大事を今一度思い起こして、
26歳の私は、私を書き記して行こうと決めた。