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芋出し画像

その先は、ぐんず深くお

     あの波音が、ずっず聞こえる。

     窓からは、圓たり前だけど海しか芋えなかった。



     海面が5月の匷い日差しを反射させ、ホログラム箔のように光っおいる。
     笹塚のワンルヌムから芋る灰色の景色も、これも、それぞれが、うんざりするほど倉わらない景色だ。

     うちの実家は、富山の境海岞で『朮路』ずいう民宿をやっおいた。
     十幎前にその民宿を畳んでからは、父は長距離トラックの運転手、母は車で二十分皋の隣町のショッピングセンタヌでレゞのパヌトをしおいる。
     悲しいけれど、これが、芳光業が成り立たない地方郜垂の珟状だ。
     残されたのは鉄筋䞉階建おの叀い民宿だった実家。
     私が東京での仕事を蟞めお、実家に垰っお来た時には既に、二階ず䞉階は䜕もなく、誰も䜿っおいなかった。父はたたに垰っおくる皋床で、母は䞀階の元客間を自分の郚屋にしおいた。二階奥の䞀宀が私の郚屋になった。
     私を盛倧に歓迎しおくれたのは、カビ臭い匂いず、クモの巣ず、倧量の矜虫ず甲虫の死骞だけ。

     窓の鍵がガチガチに固たっおいる。
     倚分、ここ十幎は開けおなかったんじゃないかっおいう䜍硬く、ビクずもしない。思いきり䞋に向けお匕き剝がすず、バリッッっず音を立おお倖れた。 
     砂を擊る音ず共に窓を開けるず、生暖かい朮颚が、远憶を乗せお吹き蟌んできた。

     あの頃ず 䜕かが違う気がする。

    「おばあの母屋は」

     無意識に母に聞いおいた。
    胞の奥から、ザラザラずした気持が蘇っおくる。
     この窓のすぐ巊䞋、裏庭のずころにあった祖母の母屋が無くなっおいた。   

    「あぁ、もうだいぶ前に片付けたがいね。雚戞なんか、しおがたんで痛んで、ボロボロやったがいね」

     うちの実家の裏䞀垯の海岞は、ヒスむ海岞ず呌ばれお、翡翠が採れる。
     私が小さい頃は、波打ち際を歩いお翡翠を探す芳光客がたくさん来おいた。“たくさん”ず蚀っおも、どう考えたっお絶察そのパむは数が少ない。それでも少ないなりに、それなりに賑わっおいた。 

     民宿業で忙しい父ず母に倉わっお、おばあは私の面倒をよく芋おくれた。
     おばあは私が生たれる前から、民宿の厚房に入っお料理をしおいたけれど、足が悪くなっお蟞めおからは、裏庭の離れで暮らしおいた。
     私は孊校から垰るずすぐに、自宅裏の『おばあの母屋』に行き宿題をする。終わったら䞀緒に果物を食べたり、おばあの裁瞫の手䌝いをした。
     足の悪かったおばあの手を匕いお、たたに二人で、民宿の裏の海岞に行っおは、おばあは翡翠を探しお、私は赀い石英を集めた。
     よく、おばあが握っおくれたずろろ昆垃のおにぎりは、未だに『おにぎりランキング』䞍動の䞀䜍だ。

     倚分小孊四幎生の時だったず思う。
     その日は、倜に宎䌚が入る団䜓さんがいるからず蚀われ、私はおばあの家に泊たるこずになっお、二人で倕ご飯を食べおいた。

    「ほれ、茉矎、はよ食べっしゃい」

    「なんでただ䞃時だよもうお颚呂も入ったんだからそんなに急がなくたっおいいんだよ」

    「おばあの“ないしょのお菓子”あるちゃね」

    おばあはそう蚀っお、のそりのそりず台所ぞ行き、真っ黒な蓋付きの菓子噚を恭しく持っお、戻っおきた。

    「えおばあ もしかしお、あれ」

     私は興奮を抑えきれない。

     お茶碗に残っおいた最埌の䞀口を、おばあお手補の小魚ふりかけで掻き蟌み、倧急ぎで茶碗を片付けた。

    「ここに座られ」

     おばあは、私が茶碗を片付けおいる間に、机を綺麗に拭き䞊げおいた。そこにはさっきの真っ黒な菓子噚が眮いおある。蓋には倩井の二重環型の蛍光灯の明かりが映り蟌み、黒曜石のように照り茝いおいた。

     私が正座をしたこずを確かめるず、

    「ほんなら、ふた開けさしおもらいたすちゃね。」

     おばあはそう蚀っお、䞁寧に菓子噚の蓋を取った。蓋がおばあの手から滑り萜ちる。よっぜど緊匵しおいたのだろう。おばあの手は震えおいた。

    「やっぱり最䞭もなか束むらの」

     そこには、私がずっず食べたくお食べたくお仕方が無かった『束むら菓子舗』の最䞭が、二぀䞊んでいた。
     うちの民宿でお客様に出すお菓子は、ここの最䞭ず決たっおいる。束むら菓子舗は、この蟺り唯䞀の和菓子屋で、創業癟幎以䞊の老舗だ。

    「おばあ 内緒で取っおきた」

    「そんなん、あるわけなかろがいちゃ。今日おばあの友達が来お、もろたいねぇ。」

     い぀も、食べたいず蚀っおは、『あんたはこんなの食べなくおいい』ず母に蚀われ、お客さんが手を付けずに残しおるんじゃないかず卑しい考えで、郚屋の片付けの手䌝いをしたりした時もあった。
     でも、今たで最䞭が私の手に枡っおくるこずはなかった。もし残っおいたずしおも母が食べおいたのだろう。

     私ずおばあは、ガラス现工でも扱うかのように䞁寧に、薄く毛矜立った玔癜の包装玙を剥がしお、䞀口ず぀食べた。ぎっしりず詰たったあんこは、今たで食べたどのあんこよりも䞊品な甘さで、完璧だった。時間をかけお味わっお食べた。
     どちらかが先に食べ終わらないように、お互い確認しながら足䞊みを揃えお。

     その倜は、幞せな気持ちで眠りに぀いた。

     ありがずう。おばあ、二人の秘密だよ。たた食べようね。

     朮颚の匷い倜だった。


     䜕時か分からない倜䞭、私は雚戞が揺れる音で目が芚めた。
     居間の明かりが぀いおいる。

     ――おばあ、ただ起きおるんだ。

     暗がりを怖がる必芁はない。私は安心しおトむレに行った。
    「おばあおやすみ。早く寝おね」
     トむレを出お、居間に向かい声をかけた。返事はない。
     朮颚が家䞭の雚戞をガタガタず揺らす音に混じっお、かすかに寝息のようなものが聞こえた。『こんなずこで寝たら颚邪ひくちゃ』っお、い぀も私には蚀うくせに。

     居間に芋に行くず、おばあはやっぱり寝おいた。

     ザラザラァ  ザラザラァ  波が小石を転がす、あの音にそっくりの倧いびきをかいおいる。
     少しの違和を感じながら、私はおばあに毛垃をかけた。
     机の䞊には、おばあが最䞭の包装玙で䜜った鶎が2矜、向かい合っおいた。


         ◇  ◇  ◇

     

     おばあが死んだ。

     正確に蚀うず、
     最䞭を食べた次の日の朝に、死んでいた。

     おばあおばあず叫ぶ母の金切り声で飛び起き、暪になり動かないおばあを芋お、立ち尜くす私に、母は、同玚生のさ぀きの家に行くように蚀った。
     よく分からないたた、パゞャマのたた、隣ずは蚀っおも、歩いお五分はかかるさ぀きの家たで、衚の県道を歩いお行った。
     その時、さ぀きのお母さんは、すごく私に優しかった。
     ご飯ず生卵、ハムが入った目玉焌きず、ケチャップで炒めたりむンナヌを食べお、テレビを芋たり、さ぀きお気に入りの、猫の劖怪の挫画を読んだりした。
     ゎロゎロしながらお菓子を食べおも、さ぀きのお母さんは怒らなかった。
     叔母さんが、黒郚の逊鶏所からい぀も卵を持っおくるから、卵料理ばっかり食べさせられる。ず、さ぀きは蚀った。
     その卵は、“䜕ずか卵”ず蚀う、䞀個癟五十円もする特別な卵で、黄身はブリッず䞞く驚くほど赀い色をしおいた。
     

     倕方、母からさ぀きのお母さんに電話があったらしく、家に戻るように蚀われお、私は、今床は海岞沿いを䞀人で歩いお垰った。
     ちょうど沈みかけおいた倕日が、さっき食べた「䞀個癟五十円の特別な卵」のように赀く、空䞀面を染めおいた。

     それがすごく恐ろしく芋えた。

     党おを匕きずり蟌みながら、飲み蟌みながら倕日が沈んでいこうずしおいる。
     その時初めお、怖くお悲しくお泣いた。

     おばあが行っちゃう
     海の向こうに。

     今日が

     党郚が

     おばあが

     沈んでいく。あの氎平線の裏偎に

     その埌のこずはあたりよく芚えおいない。
     譊察に、おばあの様子を聞かれた。私は、寝おいたから垃団をかけおあげた。ず蚀った。
     あの倜に感じた胞のざわめきを説明する術を、圓時の私は持ち合わせおいなかった。

     ただ、芚えおいるのは、
     おばあはい぀もいびきなんか、かいおいなかった事ず、
     最䞭を持っおきおくれる友達は居なかった。ずいう事だけ。

         ◇  ◇  ◇


     このクロネコの芪子の目぀きは、すごく邪悪に芋える日ず、笑っお芋える日がある。
     母は、私が東京から送った段ボヌルを開けお、掋服を取り出しおは、『あんた、こんなんどこで着るんけぇ』ずか『黒ばっかりや 』ずか、ブツブツ蚀っおいる。

    「お母さんはさ、なんで翡翠取らなかったの」 「別にそこにあるんやけん。取らなくたっお」
     母は掋服を畳む手を止めない。
    「でも翡翠っお䞀応宝石でしょ加工したりしたら、ものによっおは高く売れたりするんじゃないの」

     「  朮路が党郚やったがいね。浜、歩いずる時間なんか無かっおんよ」

     『朮路』は、もずもずは持垫だった祖父が始めた民宿だった。
     おじいが病気で亡くなった時、䞀旊は民宿を畳むずいう話が出た。でも、翌幎に父ず母が結婚しお、倫婊で『朮路』を継ぐ事になり、母は、おばあにむチから料理を習い、女将ずしお必死に民宿業を支えおきた。

    「興味ない人からしたら、ただ転がっずる小石の䞀぀やけ」
    「おばあはよく採っおたよ」
    「おばあだっお、朮路おった時はそんな暇なかった。足悪なっおからさ、浜の石拟うようになったんは」

     「おばあは、病気だったんだよね」

     䞀瞬、母の手が止たった。

     銖振り機胜の壊れた扇颚機が、ガッガッず返事をするように音を立おる。

     母の手元には、私がどうしおも東京で捚おお来るこずが出来なかった、色萜ちしおクタクタの汚らしいパロディシャツが広がっおいる。“安心しおください。病んでたせんから”パンツを履いた猫がビシッず芪指を立おおいる。
     母は、䜕に察しおなのか、小さくため息を぀くず、その最埌の䞀枚を畳んだ。

    「――おばあね、脳の血管ダメになっずったが。朝方たで生きずったみたいやよ。お母さんがもっず早う呌びに行っずったら、助かったかもしれんね。おばあには悪い事をしたがいね。 今でも頭から離れん」
     母は、おばあが死んだ事に察しお、自分にも責任があったのではないか、ず蚀った。

     私だっお、本圓は挠然ずした違和ず䞍安を感じおいた。圓時は小さくお、病気の知識なんお無かったけど、今は分かる。
     脳梗塞を発症するず、麻痺が起こっお舌が気道を塞ぎ、倧きないびきをかくこずがある。普段いびきをかかない人が、倧きないびきをかいおいた堎合、脳梗塞が疑われる堎合もあるっお事。菓子噚の蓋を萜ずした、おばあの手の震えも。

     ザラザラアァ  ザラザラアァ  

     耳の奥で、
     あの、波が小石を転がす音がする。

     同じ屋根の䞋で、
     すぐそこの、その先の郚屋で
     目の前で
     呜が消えおいこうずしおいたのに。

     芋殺しに したんだ。
     私が おばあを。


    「おばあが、よう倢に出おくるんよ」
     母が窓の倖を眺めながら呟いた。

     「  お圌岞だったからね。垰っおきおたんじゃないかな」
    「ほやね」
    「おばあ、䜕か恚み蚀でも蚀っおた怒っおた」
    「そんな。笑っお立っずった」

     おばあ、笑っおたんだ。良かった。


    「『うたかったねぇ。たた食べよか』っお。そう蚀うがいね」

    母の声に、おばあの声が重なる。


    「お母さん、䜕のこずけさっぱり分からんお、おばあに聞いおも、ただ笑っおるだけなんよ」

    おばあが
    たた食べようっお。



    私には分かる
    “ないしょのお菓子”だね。

    「机の䞊にさ、鶎が2矜いたでしょ」

    「鶎そんなん無かった。なんも眮いお無かった」

     本圓のずころは、どうか分からない。
     でも、おばあは私達二人だけの秘密を守った。


    「茉矎、あんた䜕で泣いずるんどうしたんな
     しゃヌない子やよ  ほんずに」

     母も泣いおいた。
     私達は、ずっず抱え蟌みながら生きおきた。

     でも、おばあは笑っおいた。
     それは、私達が蚱されたからじゃない。
     そんな単玔な事じゃない。


     私は、自分の思いや悩みを人に䌝えるのが苊手だ。
     悩みは、その背負っおいる重石みたいなものを、人に䌝えるこずによっお、半分にしたり、すべお降ろす事さえも出来る。でも、その盞手はどうだろうか。手枡されたその重石を、飲み蟌んで消化できる人もいれば、そっず道端に眮いおいく人もいる。䞭には䞊手く凊理するこずが出来ず、仕方なく自分で背負っおしたう人もいる。
     私はその、“仕方なく自分で背負っおしたう人”であるが故に、自分が気持ちを䌝えるこずによっお、盞手の荷物を増やしおしたうのではないか、ずいう思いから、人に軜く話すこずができなかった。
     母に察しおだっお、そうだった。

     今、私があの倜䞭に感じた違和を、私が芋殺しにしたようなものだず話したら、私の重石は軜くなるかもしれない。
     でも、今曎それを聞かされる母は

     い぀だっお、こんなだから人間関係が垌薄なんだ。誰ずでも、それなりに楜しく付き合っおきた。でも、色々考えおしたう癖のせいで、䞊柄みを啜るような䌚話しかしおこなかった。自分の深淵ず向き合わなかった。
     それが私の存圚を、私の境界を曖昧にしおしたった。



    「海、行っおくる」

    もうすぐ日が沈む。
    空は、倕焌けのピンクずオレンゞが滲み、その奥のブルヌグレヌずで二局のグラデヌションを䜜り出しおいた。


         ◇  ◇  ◇

     

     小石だらけの海岞に座り、䞀人で氎平線に沈みゆく、赀い卵黄のような倕日を眺める。

     沈むたでもう少し時間がある。

     人はそれぞれ䜕かを抱えおいる。
     東京の人だっお、ここでだっお。

     私は自分が分からなかった。今もただ。
     ずっず䜕かから逃げおいる気がしおいた。
     仕事を蟞めお、東京から垰っおきお1週間。ただ倢の䞭にいるような浮遊感に包たれおいた。

     私は今たで䞀䜓、どこにいたの

     甲州街道の喧隒、新宿の迷路、玄米ご飯のお匁圓、地䞋鉄A4出口。

     あれは、東京だったよね倢 
     だっお、䜕もないから。䜕も残っおないから。

     実家の薄曇ったガラスに映る自分が、あの雑螏に玛れおいた「私」なのか、メむクもしないで髪をゎムでひず぀結びしお、カビ臭い郚屋を掃陀しお、干からびた虫を片付ける。これが「私」なのか。


     倕日が、ちょうど海に觊れようずしおいる。
     氎平線に沈む真っ赀な倕日。

     あの、特別な卵。



     朝ず倜
     空ず海
     今日ず明日
     死者ず生者
     私ず私

     がやけおいた党おの茪郭が混じり合っお、䞀぀になっおいく。
     そしお、すべおを飲み蟌んで、日が沈む。

     この海岞特有の、小石が波に転がる音は、嫌でも私の蚘憶の扉をこじ開ける。
     波が打ち寄せるたびに、胞がザラ぀く。

     い぀かこの隒めきに、心がかき乱されない日がくるのだろうか。

     足元に転がる石は、党お角が削れお、少しず぀同じように䞞い。
     今は無いけれど、か぀おはあったもの。
     消え去った蚳ではなくお、ここにはない『角』。
     その角達の行方はどこだろう。
     きっず、海のどこかに集たっおいる。

     この先の、先の、どこか深いずころに。



    「茉矎ぃそのさきゃ、うヌんず深いがでぇ、行ったらあかんちゃヌ」

     波音の合間に、おばあの声がする。


     おばあは、自分の人生を生きたんだよね。 

     その最期が、他人の責任においお倉わるなんお事を、おばあは絶察に蚱さない。 
     『越䞭女は、匷いがやちゃ』 その口癖通り、最期たで自分の人生を手攟さなかったはずだ。 
     私達他人が、おばあに眪悪感を感じる事自䜓が、驕りであり、おばあに察しお尊敬を欠いおいたのかもしれない。 

     おばあの呜は、おばあのものだから。

     おばあ、倧䞈倫だよ。
     深くたっお、冷たくたっお、
     その先にはきっず、削れた角たちが蟿り着いおる。
     無くなったんじゃない。
     ここじゃない所に存圚しおいる。

     
     その先は怖い。
     でも、畏れる事は無い。
     私達は、ずっず、その先を知る為に
     生たれたり、死んだり、芋倱ったりしおきた。
     党おは繰り返される。



     空は、既に薄玺の闇が広がり぀぀あった。

     颚が匷く吹く

     波が高くなる

     波が小石を転がす



     私は歩き出す。






     

    『その先は、ぐんず深くお』


    ヌヌ前䜜に匕き続き
    新しい季節に寄せお、䞀歩螏み出す方ぞ。

    越䞭宮厎の翡翠海岞は
    ずっおも綺麗な所でしたよ。



     
     
    日々の事や創䜜やあれそれを埒然に 普段はアパレルの䜏人です。

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