
異世界に行けなかった俺の半生。|#3 包丁の重さを知った朝
これは、やり直すために包丁を握った話。
何者でもなかった俺が、職人になろうとした朝の話だ。
▶ 初めての方はこちら
#1 壊れた家と、死の匂い
日本に帰国してから、母とは面と向かって話し合い、自然に会話するようになっていた。
ニュージーランドでの電話が効いたんだろうか。
母にははっきりと言った。
俺が受けていた暴力はDVだと。
そこから逃げる選択肢しかなかったのだと。
あの日、車の中で「殺される」と思った母と、いまは笑いながら会話をしている。とても不思議な気分だった。
まあ色々あったのは確かだけど、俺にも非はあった。
母にこれ以上、自分のことで余計な心配をかける必要はない。
高校は途中で辞めてしまったけど、これからいくらでもやり直せる。
若さは力だ。何だってできる。
海外に留学したことで、日本という国を外側から見られるようになった。
今後は高校に入学し直してもいいし、大検をとって大学受験したっていい。
どんな方向に進むにせよ、もう過去のような馬鹿はやるまい。
その頃の俺は、まだバイクばかりの生活だったけど、気持ちだけは少し変わっていた。少しだけ前を向けるようになっていた。
そんな折、普段は二日酔いで寝ている父親が、珍しく話しかけてきた。
「お前、職人を目指す気持ちはないか?俺の知り合いが、和食の修行先を紹介できると言ってくれている」
ちょっと前なら「うるせえ」の一言で終わっていたかもしれない。
でも、今の俺には親に反抗する気持ちはなかった。
反抗期も終わったのかもしれない。
それにしても和食の料理人か……。
「和食の料理人?それって居酒屋の店員とかじゃなく、本当の日本料理を修行できるってこと?」
「そうだ。紹介してくれる人が経営している店も、会席料理やフグを出している店だからな。ちゃんとした修行先を紹介してくれるはずだ。」
海外から見た日本っていうのはとても面白い。
文化は独特だし、内向的な面はあるけどこだわりが凄かったり。
海外留学の影響で、日本に興味を持ち始めていた俺は、和食の料理人に挑戦してみたいと思った。
「そろそろちゃんと働き始めなきゃな」って気持ちもあったんだと思う。
職人仕事はキツイということは知っていたけど、高校を中退している以上、手に職を持つってのも選択肢としては悪くない。
「わかった。じゃあ話だけ聞いてみるよ。料理の世界がどんなところなのか興味もあるし」
「職人」……うん。かっこいい響きだよね。
俺は、父親の知り合いに会うことにした。
で、板前の修行先を見つけてくれるという、父親の知り合いの店を手伝うことになった。
千葉の松戸の片隅にあるお店だが、本格的な和食店。
懐石コースやフグまで扱っていて、父親の知り合いの板前さんも只者じゃない雰囲気。
白衣に前掛け、寡黙で厳しく、酒が好き。
絵に描いたような「和食の板前」。
かっこいい。
とはいえ、俺が手伝ったのはひたすら洗い物と後片付けに掃除。
奥さんが忙しい時だけ、ホールを手伝う程度だった。
月曜休みの火曜〜日曜、週6勤務。
修行先が見つかるまでの間、8時間×2週間ほど、そのお店を手伝った。
そして驚いたのは、まさかの「無償奉仕」だったこと。
……正直、ショックだった。
おい金よこせよ、クソジジイ。
あ、そうだ。
念のため伝えておくけど、俺が和食を学んだのは、赤坂にある懐石料理とかのいわゆる板前エリート街道ではない。
「吉兆」や「なだ万」から一歩引いた、創作料理や会席料理を扱うレベルの店。
最高級の和食ではないけれど、安いわけでもない。
そんな感じの店で修行してきた。
素材の値段では負けるが、けっして調理技術が劣るわけではない。
紹介された修行先は、東京都品川区の会席料理屋さん。
プールみたいなデカい生け簀が四つもある、今思い出すと「まさにバブルの香りがする」店だった。
マダイにトラフグ、ヒラマサにヒラメ。
泳ぐ魚の顔ぶれで、その店の格が分かった。
未経験の俺はもちろん、一番下の「追いまわし」からスタート。
勤務は9:00〜22:00。日曜定休。
残業代なしの手当は月12万円。
ボーナスも無し。休憩もなし。仕事外の雑用あり。
……まあ、ブラックなんてもんじゃない。
令和の今では絶対に通用しないし、
即、労基に駆け込まれるレベル。
これでも誰もが知る大手企業の資本が入った料理屋さんなんだよ。
安いよね。
ヤバいよね。
真っ黒だよね。
令和の諸君、これが氷河期世代の労働環境だ。
もっと貰えないのかと、ものは試しと面接時に聞いてみたら、
「料理を教えてもらって、金までもらえるんだから、ありがたい話じゃないか」
だと。
そんなわけあるか。
業務内容は主に、先輩が使った調理器具の洗浄、米研ぎ、おしんこ盛り付け、その他雑用全般。
「おい。これ洗っとけよ」
八寸場の先輩に言われた。
八寸場っていうのは、盛り付けを担当する中堅どころの持ち場だ。
「はあ」
生返事を返すと、八寸場の先輩がさらに被せる。
「お前、ただ洗ってんじゃねえよ。洗い物に出てくる調理器具に残った料理を味見して、勉強すんだよ」
返事は返さなかったが、心の中で「うるせえよ」と返した。
はっきり言って俺はこいつが嫌いだ。
何を聞いても偉そうだし、すぐに怒鳴るからだ。
それより、お前洗い物出しまくるんじゃねえよ。終わらねえんだよ。
八寸場の先輩の指示に対し、聞く耳を持たない俺。たぶん、やる気がない奴と思われている。
閉店後は「ボンスター」で鍋を磨いたり、先輩の足袋を洗濯して干したりと、翌日の準備もしなければならなかったから、帰るのはいつも終電間際。
昼も夜も休憩なんて殆どない。
洗い物や雑用ばかりで、料理なんて教えてもらう時間はないし、週一の休みは疲れ切って遊びに行く事もできない。
「やってらんねえよな。マジで」
身近な友達が、学生生活を謳歌しているのに、そんな厳しい環境に耐えられるわけがない。
わずか3か月で八寸場の先輩と喧嘩して、早々に退職した。
八寸場の先輩との喧嘩から、退職までの経緯はこうだ。
ある日の仕込み中。
二番目に偉い人である煮方の先輩が、彫刻刀でカボチャを削っていたんだよね。最初は飾り切りかと思ったんだけど、どうも様子が違う。
眺めていると、カボチャの表面に花びらが現れ始めていて、それが少しずつ菊の花になっていく。
「これ、凄いっすね……」
思わず見入ってしまった。
和食の世界って、魚を捌いたり、食材を煮たりするだけじゃない。こんなことまでやるのかと感動した。
「これ、練習すれば、俺でも出来る様になりますか?」
仕事の手を止めて聞いたら、煮方の先輩は少し笑った。
「気になるか?ちょっとやってみるか?」
「えっ!いいんですか?」
「失敗しても、まかないで使えばいい」
そんな感じで彫刻刀を貸してもらい、横で教わることになった。
今思うと、煮方が追いまわしに彫り物を教えるなんてありえない。
俺も相当嬉しそうな顔をしていたと思う。洗い物より面白いに決まってるからね。
ところが、それを面白く思わない人間がいた。
八寸場の先輩だ。
俺が煮方の先輩と一緒に菊を彫っていると、誰にも見えない位置から脛を軽く蹴ってきた。
そして煮方に聞こえない様、小声で俺に言った。
「お前、何もできないくせに、偉そうに彫り物なんか教わってんじゃねえよ」
瞬間的にキレてしまった。
「お前、いつもいつもなんなんだよ!おいっ!」
そう言って蹴り返した。しかも思いっきり。
ガシャン!
八寸場の先輩がステンレス製の棚にぶつかった。
「おい、お前ら何やってんだ!」
煮方の先輩に取り押さえられる俺。
せっかく……せっかく「初めて」料理を教わることが出来たのに、邪魔しやがって。こいつ絶対許さねえ。
厨房の人間だけじゃなく、ホールの人間まで集まってきた。
取り押さえられた犯人のようになっていると、親方が間に入った。
「なんで喧嘩になったんだ」
「料理を教わっていたら、こいつがいきなり蹴りを入れてきました」
八寸場の先輩を睨みつけながらそう言った。
結果?
当然ながら暴力沙汰なので大問題だ。
しばらく厨房の空気が凍っていた。
「悪かったな」
先に手を出した八寸場の先輩は、すぐに謝ってきた。
しかし、それは形式だけの謝罪。
やり返した俺も親方に反省を促されたが、仕事はキツイし、すでにやる気も無くなり始めていた。
「俺は料理を覚えたいだけで、下っ端だけど、奴隷じゃないです。こんな店は今日で辞めます」
そう言って、そのまま逃げるように退職した。
我ながら忍耐力のないガキだと思う。
勝手に退職して少し経った頃、父親の知り合いの板前さんから、別の料理屋を紹介すると連絡があった。
修行先を紹介してもらった立場で、あんな義理を欠いた酷い辞め方をしたのに。
「板前はキツイし、料理なんて教えてもくれないしもう嫌です」
そう言ったが、
「良いお店だから挨拶だけでも行ってこい」と辞退させてくれなかった。
仕方ないから挨拶に行ったよ。
もちろん断るつもりでさ。
挨拶に行ったお店は、千代田区の神田駅前にあった。
そのお店の板前は、親方と煮方の二人だけ。
40席程度の小規模な佇まい。
バブリー全開だった辞めた店とは違い、
北海道の「にしん蔵」をイメージした内装で、なんだか雰囲気があるお店だった。
もう一人若い人がいたみたいだけど、辞めたらしい。
理由は知らない。
先輩を蹴ったのかな?
挨拶だけで終わるつもりが、
親方と面接で話しているうちに、辞めた店との違いを感じ始めた。
「お前、料理作るのは好きか?」
「はい。簡単なものですが、たまに作ることはあります」
質問にそう答えると、親方はにこりと笑った。
「和食を最初に覚えるとな、洋食でも中華でも作れるようになるぞ。
それと、ウチは人が少ないからな、未経験だからって料理をやらせないってことはない。一緒に作るか?」
この人、俺に料理を教えてくれようとしている。
親方の言葉で、体の中心に、じんわりと熱が灯った。
「和食……覚えたいなら来い。」
その一言で十分だった。
この人の元でなら、続けられるんじゃないか。
そう思った。
「はい。宜しくお願いします!」
というわけで、口説かれて調子を良くした俺は、改めて板前修行することに決めた。
流されやすいと思うよ。実際。
新たな下っ端板前の待遇は、勤務時間10:00~22:00、残業手当なしで給与は22万円/月、ボーナスなし。
先輩の足袋を洗う必要はないし、ちゃんと休憩も取れる。
月給10万アップの大出世。
業務内容は主に揚げ場と焼き場、親方のアシスタント。
店長も仲居さんもパートさんも、みんないい人ばかりで、
お店の従業員みんなが家族みたいだった。
洗い場のパートさんを「母ちゃん」と呼んでいた。
今度は続いた。
この環境で続かなかったら、板前に限らず、どこに行っても働くことはできなかっただろう。
修行を続けて数年、ついに揚げ物のコツを掴み始めた。
揚げ場は、「鋳物ガスコンロ」と「銅鍋」で揚げる本格派。
フライヤーなんていう便利調理器具はない。
腕を上げたくて、休みの日に有名店を食べ歩いて研究した。
可愛い仲居さんを誘って。
まあ、下心がゼロだったとは言わないけど。
そのうち、俺が揚げた天ぷらを、たくさんのお客さんが美味しいと褒めてくれるようになり、注文が増え始めた。
たらの芽、ふきのとう、菜の花。
春野菜の時期は、腕の見せ所だ。
天ぷらを美味しく揚げるコツは火力の調整と、水の温度と小麦粉の合わせ方のみ。シンプルイズベスト。
目で油の温度を把握し、食材を入れた瞬間に下がる油の温度を予測して火力を上げる。
とにかく、衣と具材が口の中で一緒に溶けるように考えながら揚げる。
衣が口に残ったり、「生」を怖がって火を入れすぎ、具材が固くなるようじゃ半人前だ。
「まあまあ食べられる天ぷらになってきたか?」
にやりと笑うと、親方が筆で「季節の天婦羅盛り合わせ」とおすすめに書き始めた。
「会席料理屋のおすすめ」として、俺の天婦羅が評価された。
嬉しかった。
やっと一人の板前として認めてもらえた気がした。
揚げ物ばかりじゃなく、焼き物の修行も頑張った。
お客さんに出す側「魚の表」に下処理の包丁跡が残らないように捌くようにした。
「踊り串」や「登り串」が得意になり、バランの切り方を研究して、綺麗に装飾できるようになった。
それぞれの魚が持つ脂の強弱を考えて、振る塩の量を調整したり、魚が柔らかく食べられる火加減を考えた。
焼き物は強火の遠火が基本。
揚げ物も焼き物も、一番おいしいタイミングで火を入れることができるようになったんだ。
なんだか、やっと職人の話っぽくなってきたね。
順調な板前生活。目指すのは「自分の店」。
ある日を境に親方のことを「オヤッサン」と呼ぶようになった。
この人から本気で料理を教わろうと思ったんだ。
本当は「親父」と呼ぶんだけど、俺はまだガキだったから「親父さん⇨オヤッサン」。
修行から3年が経過した頃、余ったブリのアラで賄いを作った。
ブリ大根。
「これ、お前が炊いたのか?」
オヤッサンに聞かれたので答えた。
「煮方の先輩に教わりながら作ってみました。ちょっと甘かったですか?次は砂糖を控えてみます」
少し間をおいてオヤッサンが口を開く。
「味は素人だな。お前、煮物やってみるか?」
この日を機に、オヤッサンから煮物を教わり始めた。
最初は割合で作るものから、徐々に食材と調味料の合わせ方まで。
ついには店の出汁を引かせてもらえるようになった。
クレードルに出汁を入れた小皿を乗せ、オヤッサンに「あたりお願いします」と言って味を見てもらう。
これがまた怖い。
思い出しただけで今でも緊張する。
「鰹の風味が勝ってる。これじゃだめだ。ちゃんと鰹節を口に入れて味を見たか?ウチでは削ったものを使っているが、本来は削り方ひとつで味が変わってくるんだぞ。分量だけじゃなく味で調整できるようになれ。」
初めのうちは「鰹が強い、昆布が勝っている」と毎回注意されていた。
出汁を引くのはマジで難しい。
店の味だから、絶対に妥協してもらえない。
ちょっとのミスで、全てイチからやり直し。
「なんだ、もう諦めるか?揚げ物専門の板前じゃ、天ぷら屋でしか働けないぞ」
オヤッサンからの厳しい叱咤激励。
「オヤッサンが言う通り、分量だけで考えるな。その時の素材の状態、気温、水温、お前の体調でも味は変わる」
煮方の先輩の協力を得ながら、この難問に挑戦し続けた。
オヤッサンも凄い料理人なんだけど、この煮方の先輩も凄い人だった。
何が凄いって、味が決まるんだ。
俺みたいな下手くそは「味がぼやける」ことが多いんだけど、この人たちはバシッと味を決める。
味が決まるっていうのは、調味料と食材が綺麗に合っているってことだ。
調味料を計量することもなく、季節やその日の気温で味を微調整し「口当たり」だけで味を決めていく。
俺は「季節の炊き合わせ」などの煮物にも挑戦し続けた。
オヤッサンや煮方の先輩に厳しい指導を受けながら。
ある日、「料理四季報」という料理専門誌の取材がきた。
頑張る新人料理人!とかそんな感じの記事だったように思う。
ガッツポーズで写真を撮り、今修行していること、得意なこと、今後何をやりたいのか、そんなことを聞かれて、それが雑誌に載った。
ちょっとうれしかった。
そんな感じで修行を続けていると、オヤッサンや煮方の先輩から注意されることも少なくなり、だんだん調味料の使い方が上手くなってきた。
とは言っても、オヤッサン達に比べたらまだまだなんだけどね。
この頃は、カレーやハンバーガーなんかの「味が強いもの」を食べさせてもらえなかった。舌がボケるからと。
いや、見つからないように食べてたけどね。
5年ほど店で修行を続けていると、俺の中では葛藤が生まれてきた。
オヤッサンや煮方の先輩のおかげで、なんとか板前っぽくなってきたものの、魚をほとんど触っていなかったんだ。
つまり、魚を捌くのが得意じゃなかった。
刺身なんてほとんど引いたことが無い。魚は板前の「花」なのに。
店の規模的に魚の入荷数が少なかったので、圧倒的に捌く量も、捌く種類も足りない。
魚をメインに修行するためには、「自分の家」みたいに居心地のいいこの店を出て、修行に出なくちゃいけない。
相当悩んだ。
結果、俺は「外」に修行に出ることを決意した。
とにかく「料理が上手くなりたかった」。本物の料理人になりたかった。
暖簾を片付けながら、オヤッサンに相談してみた。
「オヤッサン、魚をちゃんと扱えるようになりたいので、外に勉強に出たいです」
柳葉包丁を研いでいたオヤッサンが一瞬動きを止めた。
「そういう時期か。
まだまだお前に教えなくちゃいけない事は沢山ある。
……が、外の水を飲むのもいい経験かもしれないな」
そう言って、オヤッサンと煮方の先輩は、力強く俺の背中を押してくれた。
「簡単に泣きを入れて帰ってくるなよ」
笑いながら言うオヤッサンは、少し悲しそうだった。
実の息子のように、俺をかわいがってくれていたから。
「しっかり修行して、帰ってきます。その時は……オヤッサンの後を継げるようになりますから。待っててください。」
そう言い残し、俺は店を出た。
夜風に揺れる暖簾の向こうで、オヤッサンと煮方の先輩が小さく手を振っていた。
オヤッサンの姿が、いつもより少し小さく見えた。
◀ 前の話
#2 海の向こうで、見た自分