
時々公務員 〜いざ鎌倉という生き方〜
今、私は道場で白帯を締めている。
五十三歳。いすみ市議会議長まで務めた人間が、空手の道場で、いちばん下の白帯を締め直している。
道場の板張りの床は、記憶の中と同じ冷たさだった。若い黒帯たちが準備運動をしている横で、白帯の私は拳の握り方を確かめている。
三十年以上前、十六歳でこの帯を黒く染めた。それが今、また白に戻っている。
なぜ今さら白帯なのか。かつて黒帯だった人間が、なぜまた一から始めるのか。
答えは簡単だ。刀が錆びたからだ。
仕事に追われ、選挙を戦い、議会に立ち、地域を駆け回っているうちに、かつて研いでいたはずの刀は、いつのまにか鞘の中で錆びついていた。
だから私は、もう一度研ぎ直すことにした。
「いざ鎌倉」という言葉がある。
鎌倉時代、御家人たちは普段それぞれの土地で暮らし、ひとたび鎌倉に事が起これば、武具を取り、我先にと馳せ参じた。
平時は日常を生きる。刀を研ぎながら、それを鞘におさめている。
そして、いざ事が起きれば、いつでも抜いて駆けつける。
私は、この「いざ鎌倉」こそが、自分の生き方の真ん中にあると思っている。
市議会議員として十三年。予備自衛官として十八年。消防団員として二十六年。
どれも、毎日続ける常勤の仕事ではない。
普段は生業に生き、いざという時に、公(おおやけ)のために立つ。
私は、こういう生き方をする人間を、「時々公務員」と呼んでいる。
私の造語だ。
その意味するところは、この文章を最後まで読んでもらえれば、きっと伝わると思う。
これは、錆びた刀をもう一度研ぎ直した、一人の「時々公務員」の記録である。
第一部 二つの夢
子どもの頃、私は強い男になりたかった。
武道家になりたい。空手こそ最強だと信じていた。
そしてもう一つ、陸上自衛隊に入ってレンジャーになりたかった。
武道家と自衛官。少年の私の中では、この二つは同じ夢だった。体を鍛え、技を磨き、いざという時に誰よりも先に立つ人間になる。それが、子どもの頃に描いた自分の姿だった。
武道として求めていたのは、突きだけ、蹴りだけの格闘技ではない。
突いて、蹴って、投げる。すべてができる武道。
今でこそ総合格闘技という言葉は当たり前になったが、当時はそういう競技はほとんど存在しなかった。それでも、雑誌で見る武道家たちの姿に、理屈抜きで心を奪われた。
小学六年で少林寺拳法を始めた。
剛法(突き・蹴り)と柔法(投げ・関節)の両方を学べるこの武道は、総合的な武道家を目指す自分にとって最初の一歩だった。
中学では体力をつけるためにバスケットボール部に入った。
バスケットそのものが好きだったわけではない。
将来の武道家を目指すための土台作り。
それが入部の本当の理由だった。
そんなころ、二つの存在を知った。
一つは、芦原会館。
「ケンカ十段」の異名を持つ芦原英幸が編み出した「サバキ」という技術。
相手の攻撃を正面から受けず、体をさばいて制する。力ではなく、技で流れを支配する。これこそ自分のやりたい空手だと思った。
もう一つは、大道塾の「格闘空手」。
突き、蹴り、投げ、寝技。あらゆる技術を統合した実戦的な武道。
その頂点に立つ大会、北斗旗選手権。いつかあの舞台に立ちたい。それが中学生の夢になった。
しかし、芦原会館も大道塾も、本拠地は遠かった。
千葉の外房に住む少年には、手の届く場所に道場がなかった。
家にビデオもなく映像も少ない時代。
月刊空手道を毎月むさぼるように読み、写真を見ながら動きを想像するしかなかった。
憧れだけが膨らんでいった。
ならば、今できることをやる。
私はバスケット部を辞め、柔道部に移った。
北斗旗の夢を叶えるためには、投げ技が必要だった。柔道はその基礎になる。
半年足らずの在籍だったが、初段を取得することが出来た。
「全日本統合徒手格闘技選手権大会オープントーナメント」という大会にも出場した。
まだ空手にたどり着いていない中、ルールもよくわからずとにかく挑戦した。
中学生には、はっきりとした未来が見えずにいた。
ところが、その年の秋、地元の岬町に芦原会館の支部道場ができた。
憧れていた空手が、突然手の届くところにやってきたのだ。
私は吸い込まれるように、その道場の扉を叩いた。
一九八七年十月二日。この日が、私の新たな人生のスタートであり、そしてまた運命の出会いの日でもあった。
道場に通い詰めた。学校が終われば、自転車で二十キロの道のりを通った。
空手の昇級・昇段審査は、三月、六月、十月の最終日曜日だった。
年三回、電車に揺られ、当時新宿にあった東京本部に向かう。
そこでは、鋭い眼光をはなつ館長に見られ、審査される。
雑誌や漫画の中でしか見たことがない伝説の空手家。「喧嘩十段 芦原英幸」本人である。
白帯から黄色帯、緑帯、茶帯と登っていくのは幸せだった。
しかし、それよりも嬉しかったのは、審査後に「夷隅の君、いい動きしてるな!」と言われた時だった。
そして、もう一つ。
審査後にみんなで集まり、芦原英幸館長の話を聞くのがお決まりで、伝説と最新情報交えた楽しい話を聞けるのは、門下生にとって至福の時間だった。
一番前に座り、効くローキックの話を聞いていると、
「ちょっとお前、サンドバック蹴ってみろ!」
「押忍!」
返事はすべて「押忍」である。
左右のローキックを十本ずつ、ヘビーサンドバックにぶち込む。
「うん、左がいいな。」
嬉しくてニヤニヤした。
「こうすりゃ、もっと効くんや!」
その瞬間、伝説の空手家、芦原英幸のローキックが左大腿部にめり込んだ。
効きすぎてニヤニヤが止まらなかった。
しばらく「館長にローキックを蹴られて笑っていた男」と呼ばれた。
ある意味、至福の時だった。
そして十六歳、高校二年の十月。入門からちょうど二年で、芦原会館初段の黒帯を締めた。
念願の黒帯だった。空手家として大成したい。いつか北斗旗の頂点に立ちたい。夢は際限なく膨らんでいた。
もう一つの夢、自衛官への道も、現実味を帯びていた。
私は工業高校を選んだ。自衛隊で活かせる技術を身につけるためだ。射撃部にも入った。自衛官に射撃は不可欠だと考えたからだ。高校を出たら自衛隊に入り、レンジャーを目指す。その先に北斗旗がある。中学高校を通じて、私は本気でそう描いていた。
高校三年の秋、自衛隊の募集担当が運転するOD色のジープに揺られ、習志野駐屯地を見学した。陸上自衛隊最強と言われた習志野空挺団。憧れの場所だった。
しかし、その日、私の中に違和感が芽生えた。
自宅を離れ、自衛官として暮らせば、芦原空手ができなくなる。
二十歳までに二段を取るという目標が、遠ざかる。
武道家としての夢と、自衛官としての夢。同じ一つの夢だと思っていた二つが、初めて引き裂かれた。
悩んだ。
決め手になったのは、ある人の一言だった。
当時、私が片思いをしていた女性がいた。実は彼女は、あの一九八七年十月二日、同じ日に同じ道場へ入門し出会った人物であった。
「離れたくないな」
その一言で、レンジャーの夢は静かに遠ざかった。
格好悪い理由だと思う。国防への大義よりも、目の前の一人の人を選んだのだから。
私は、自衛隊に行かなかった。
高校を卒業し、建築製図を学び、千葉市の建築系企業に就職した。
社会人になり、日々は忙しさに飲まれていった。連日の残業。気づけば、道場から足が遠のいていた。
あれほど夢中になった道着を、たたんでしまい込んだ。
十六歳で手にした黒帯は、箪笥の奥で静かに眠った。
研いでいたはずの刀が、鞘の中で錆びていく。
そのことに気づいていながら、忙しさを言い訳にして、目を背けていた。
二十歳までに二段を取る。そう決めていた目標は、いつの間にか消えていた。
自衛官の夢も、空手の夢も、二つとも、遠い過去になっていた。
第二部 夢の奪還
二十四歳のある日、どうしても抑えられない思いが湧き上がってきた。
ただ生活のために働く日々に、もう耐えられなかった。
社会の役に立つ確かな技術を身につけたい。専門の井戸を掘りたい。その先に、いつか地域のために働きたいという、おぼろげな思いもあった。
そしてもう一つ——もう一度、空手をやりたい。
五年勤めた会社を辞め、測量の専門学校に入った。空手にも復帰した。
錆びかけた刀を、一度引っ張り出したのだ。
復帰してすぐ、一年以内に試合に出ると決めた。
稽古は厳しかった。ブランクのある体に、フルコンタクト空手の衝撃は容赦なかった。
ある夜、寝返りが打てないほど胸が痛んだ。肋骨が三本折れていた。
数か月後、骨が繋がるのを待って練習に復帰し、そのわずか数日後にフルコンタクトルールの試合に出場した。
一回戦は得意の左ハイキックで勝利。しかし練習不足でスタミナが続かない。二回戦で敗退した。
悔しかった。だが、それ以上に嬉しかった。空手に復帰できたことが、何よりも嬉しかった。
勝ち負けではない。錆びた刀を引き抜いて、もう一度振ったのだ。その手応えが、確かにあった。
そして、測量士補の資格を取り、宅地建物取引主任者試験に合格した。
これが、私にとって最初の「夢の奪還」だった。
三十四歳のとき、もう一つの夢に手を伸ばした。
あの日、断念した自衛隊。その思いは、三十代になっても消えていなかった。
自衛官にはなれなかった。けれど、調べるうちに「予備自衛官補」という制度を知った。
普段は民間人として働き、訓練を受け、いざという時に自衛官として招集される。
年齢的に通常の入隊は不可能だったが、この制度なら、私でも挑戦できる。
測量士と二級建築士の資格があったから、建設技能の枠で応募できた。災害のとき、建設の技術を持つ自衛官なら、より役に立てるはずだ。
やってみるか。
申し込んだ。試験に合格し、訓練を経て、三十五歳で予備自衛官に任官した。
任官のとき、私は宣誓書を読み上げた。その一節を、今でも覚えている。
「常に徳操を養い、心身を鍛え——」
心身を鍛える。それは、刀を研ぎ続けるという誓いだった。
十六歳で断念した自衛官への道を、私は形を変えて、十九年越しに取り戻したのだ。
その後の人生も、止まらなかった。
測量会社で働き、二級建築士を取り、結婚し、子どもが生まれた。消防団に入り、市議会議員になった。
充実していた。地域のために立っている実感があった。
けれど、ふと気づくと、また稽古から遠ざかっていた。空手の道着は再びたたまれ、押し入れの奥にしまわれていた。
二度目の錆びだった。
二〇二〇年。世界が新型コロナウイルスに覆われた。
家で過ごす時間が増え、私は古い持ち物を片づけていた。
その中から、一本のカセットテープが出てきた。
小学生の頃、亡くなった祖母の声を録音した記憶があった。あのテープかもしれない。そう思い、わざわざカセットデッキを買った。
届いたデッキにテープをセットし、再生ボタンに指をかけた。
少しためらった。祖母の声が聞こえてきたら、泣いてしまうかもしれない。
しかし、聞こえてきたのは、祖母の声ではなかった。
声変わりもしていない、少年の声だった。
「自己実現の瞑想を始めます——」
自分の声だった。中学一年の頃、自分で録音したものだ。その存在すら忘れていた。
恥ずかしさをこらえて聞き続けると、テープの中の十二歳の私が、はっきりとこう宣言していた。
「フルコンタクト空手二段。少林寺拳法二段。柔道初段。」
四十九歳の私は、そのどれも達成できていなかった。
空手は初段で止まっている。少林寺拳法は三級で途切れたまま。
柔道の初段だけは取ったが、残りの二つは、あの頃の自分が描いた場所に、まるで届いていない。
テープを聞き終えた後、しばらく動けなかった。
三十六年前の少年が、まっすぐにこちらを見つめている気がした。
「お前、まだやれるだろう。」
私は、動き出した。
押し入れから少林寺拳法三級の合格証書を見つけ出し、総本山に問い合わせた。
三十六年前の記録は、まだ残っていた。茂原の道院を訪ね、その場で体験入門をした。
三十六年のブランク。体は別物になっていた。それでも拳を握った瞬間、何かが蘇った。
即、再入門を決めた。
不思議なことが起きた。
後から聞いた話だが、道院長は私が電話をかける少し前に、偶然ネットで私のことを見ていたという。
一歩を踏み出そうとするとき、道のほうもこちらに近づいてくる。
一九八七年、地元に芦原会館の支部ができたあの日と、同じだった。
三級からやり直し、二〇二三年八月、少林寺拳法初段に合格した。
中学三年で途切れた道が、三十四年の時を経て、ようやく繋がった。
そして、少林寺の初段に続いて、私は芦原会館にも再入会した。
道場で、私は白帯を締めた。かつて黒帯を締めていた人間が、真っ白な帯を腰に巻く。
複雑な気持ちがなかったと言えば嘘になる。
だが、それでいい。錆びついた刀を研ぎ直すには、刃を一度まっさらにするしかない。
五十三歳。私はもう一度、白帯から始めた。
十三歳の自分がテープに刻んだ夢を、今、叶えに行く。
夢は、何歳からでも取り戻せる。錆びた刀は、何度でも研ぎ直せる。
第三部 いざ鎌倉の最前線
予備自衛官に任官して、最初の訓練が行われた場所。それは、習志野駐屯地だった。
五日間の訓練招集。金曜日の朝、カーキ色のザックを肩にかけ、駐屯地に向かった。
受付で予備自衛官手帳と訓練召集命令書を提示し、OD色の戦闘服を受領する。
袖を通した瞬間、身も心も引き締まった。昨日まで測量の現場にいた人間が、今日は自衛官だ。
高校三年のあの秋、OD色のジープに揺られて見学した場所。
あの日は募集担当に連れられた少年だった。今は、自分の意志でここに立っている。
訓練中に行われた体力検定で、私は一位の成績を取った。
その時の賞状は一生の宝物となった。
二〇一一年三月十一日。
あの日、私は消防団の部長だった。
激しい揺れのあと、私は急いで帰宅し、消防団の活動服に着替えた。
小学校へ子どもを迎えに行き、そのまま消防詰所へ駆けつけた。
平日の日中。団員はなかなか集まらない。それぞれが、自分や家族の被災に向き合っていた。
私は自ら消防車を運転し、後輩団員と二人で警戒に出た。
海が見える太東海岸の高台に消防車を停め、海を見張った。逃げ遅れた人はいないか。海に取り残された人はいないか。
ラジオが大津波警報を告げていた。千葉県沿岸への津波到達時刻が、刻一刻と近づく。
海が、おかしかった。
音が消えていた。波の音も、風の音も。
静寂の中で、堤防の底が見えていた。普段は背丈よりも深いはずの場所が、干上がっている。
——来た。
沖から、白い一本の波が押し寄せてきた。
安全だと思って高台に集まっていた人々が、一斉に散った。さらに高い場所を求めて。
太東海水浴場の駐車場が、見る間に波に沈んでいく。見たこともない光景だった。
幸い、波が住宅街にまで達することはなかった。それでも私は、夜まで警戒を続けた。詰所に戻ると、職場から帰ってきた団員たちが集まり始めていた。消防車で見回りを続けながら、テレビを見つめた。
深夜、自宅に帰った。普段から備えていた水と食料を、もう一度点検した。なんとか大丈夫そうだ。
しかし、翌朝テレビをつけると、被害は予想をはるかに超えていた。東北で、信じられないことが起きていた。
その数日後、携帯電話が鳴った。
自衛隊千葉地方協力本部からだった。
予備自衛官として、招集が可能か——という確認だった。
予備自衛官の制度ができて以来、訓練以外で招集の可能性が現実になったのは、このときが初めてだった。
不思議と、恐怖はなかった。東北で苦しんでいる人を助けたい。その思いだけがあった。
「可能です」
私は即答し、自宅で待機した。いつでも出られる準備をして。
——まさに「いざ鎌倉」の心境だった。
結果として、私への招集はかからなかった。だが、じっとしてはいられなかった。私は仙台の親戚に食料と水を届け、その足で、石巻市のボランティアに参加した。
ボランティアセンターで登録し、バスで被災地へ向かった。集められたのは、一般のボランティアたちだった。整列も、人員確認も、どこか手間取り、混乱していた。
その近くに、整列する陸上自衛隊の部隊があった。
息をのんだ。
統制された隊員たちが、きびきびと動く。物資を積んだトラックや、水を積んだトレーラーが、淀みなく定位置に移動していく。同じ被災地に立っているのに、そこだけが別の世界のようだった。
私はボランティアのグループに加わり、スコップで、建物に流れ込んだ泥をかき出した。
作業を終えて集合場所に戻ると、迷彩服の自衛官が、トレーラーの蛇口から水を注ぎ、コップをボランティアたちに手渡していた。
その笑顔が、厳しくも、優しかった。
予備自衛官補の訓練で同室だった医師がいた。大学教授だったその人は、予備自衛官任官後、常備隊員として陸上自衛隊に入隊していた。彼から、被災地に派遣される際、遺書を書いていったと聞いた。国民を衛る自衛官の覚悟に、心を打たれた。
日本国民にとって、自衛隊がどれほど頼りになる存在か。そして、自分もまた、その組織の末席に連なる一人なのだ。誇りが、胸を満たした。
国民と自衛隊の架け橋になりたい。そう、強く思った。
そして、その思いを、言葉だけで終わらせなかった。
「隊友会」という組織がある。自衛隊OBや予備自衛官で組織する、まさに国民と自衛隊の架け橋となることを使命とする団体だ。当時、私の地元、いすみ市を含む夷隅郡市には、その支部がなかった。
無いなら、作ればいい。
翌二〇一二年、私は隊友会夷隅支部を設立し、副支部長として活動を始めた。そして二〇二六年、支部長となった。国民と自衛隊の架け橋となるために。
予備自衛官の日々は、地味で、地道だ。
訓練は年に五日。その中で行う射撃検定は、二百メートル先の的を狙う。満点は五十点だ。年に一度、わずか十発の検定射撃のために、一年を過ごす。
一年目は三十四点だった。目標の四十五点には、何年経ってもあと一歩のところで届かなかった。
それでも研ぎ続けた。そして十六年目、令和六年九月二十九日。的がよく見える。体力も充実している。あの習志野駐屯地の射撃場で、四十六点を出した。
高校三年の秋、OD色のジープに揺られて見学した、あの場所。憧れて、そして一度は諦めた、あの場所。私は今、自分の意志でそこに立ち、的を撃ち抜いている。
レンジャーにはなれなかった。
けれどこの体は、ずっと刀を研ぎ続けていた。
結び 時々公務員という生き方
私の話を、聞いてもらった。
空手の夢。自衛官の夢。
一度は錆びさせ、何度も研ぎ直してきた刀。
消防団として見た津波。予備自衛官として待った招集。
ここで、最初の問いに戻りたい。
「時々公務員」とは何か。
私は市議会議員として十三年、地域に立ってきた。
予備自衛官として十八年、訓練を続けてきた。
消防団員として二十六年、現場を走ってきた。
どれも、毎日続ける常勤の仕事ではない。
普段は生業に生き、いざという時に、公のために立つ。
私は、こういう生き方をする人間を、「時々公務員」と呼んでいる。
日本中に、こういう人たちがいる。
平時は生業に生き、いざという時に立ち上がる人たち。
百万人を超える、名もなき現代の郷士たちだ。
「そこに自分が立たなければ、誰が立つのか」
その一念で、刀を研ぎ、鞘におさめ、日常を生きている。
道場の板張りの床は、今日も冷たい。
若い黒帯たちの横で、私は白帯を締める。
五十三歳。また一から始める。
刀は、まだ研げる。
あなたは、刀を研いでいますか。
(了)
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