第1回:古着で歴史を纏い 物語を紡ぐ(エミネム編)
古着屋で黒いTシャツを手に取ったとき、胸の中央にプリントされた一人の人物が目に飛び込んできた。
フードを深くかぶり、片膝をつき、うつむいたまま腕を組む
──その姿には、ただのストリート感以上の「何か」を感じた。

背中には、白い大きな“E”と、
FRIDAY 11 & SATURDAY 12 JULY 2014
LONDON WEMBLEY STADIUM
の文字。

2014年7月11日 ロンドン・ウェンブリー・スタジアム
ヒップホップの歴史において、この日は特別な意味を持つ。
ラッパーとして初めてウェンブリー・スタジアムのヘッドライナーを務めた男──エミネム。
9万人の観客を前に、ヒップホップが“世界のメインステージ”に立った瞬間だった。
このTシャツは、その記念すべきライブのグッズだ。
だが、この膝をつくポーズが持つ意味は、それだけでは終わらない。
膝つき(taking a knee)パフォーマンスの起源
もともと「膝をつく(taking a knee)」という行為は、米軍や警察などで、戦死者や殉職者への哀悼の意を表す儀礼として長く行われてきました。
特にアメリカ軍では、戦場や追悼式で片膝をつく姿がしばしば見られます。
これは、立礼よりも静かで個人的な敬意を示す仕草とされてきました。

キャパニックが変えた意味
2016年夏、全米で黒人男性が警察官に射殺される事件が相次ぎました。
サンフランシスコ・49ersのクォーターバック、コリン・キャパニックは、この現実に黙ってはいられなかったのです。
8月26日のプレシーズンマッチ。
国歌斉唱の際、彼は起立せず、ベンチに座ったまま国歌をやり過ごしました。
その理由を問われ、こう答えます。
「黒人や有色人種への差別がまかり通る国に敬意は払えない。」
しかし、この「座る」という行為は、一部で強い反発を招きます。
そこで登場したのが、元グリーンベレー隊員で元NFL選手のネイト・ボイヤーでした。
ボイヤーはキャパニックにこう提案します。
「座るよりも、膝をつく方が敬意を示しつつ、抗議の意志も込められる。」
この助言を受け、キャパニックは8月28日から「膝をつく」スタイルに変更。
これが、膝つきパフォーマンスが“平和的抗議”の象徴として世界に広まった瞬間です。

賛同の輪は広がり、多くのNFL選手や他競技のアスリートも膝をつきました。
一方で、「国旗や国歌への侮辱」と非難する声も強まり、キャパニックは翌年からNFLと契約を結べず、事実上リーグを追放されます。

2022年2月13日 ロサンゼルス・SoFiスタジアム
第56回スーパーボウルのハーフタイムショー。
広大なフィールドを埋め尽くす観客、世界中のテレビの前に集まった数億人の視線が、その瞬間を待っていた。
ドクター・ドレー、スヌープ・ドッグ、ケンドリック・ラマー、メアリー・J. ブライジ──ヒップホップとR&Bの伝説が次々と登場し、スタジアムを揺らす。
そして舞台の中央に立つエミネム。白いタンクトップの上に黒のパーカー、フードを深くかぶり、力強いフロウを吐き出す。
曲の終わり、ビートが静まり、歓声が渦を巻く中、彼はゆっくりと片膝をついた。
左の拳を膝に置き、視線は下に──動かない。
それは、キャパニックがNFLから追放されても貫いた「膝つき抗議」と同じ姿勢だった。
エミネム「膝つき」でコリン・キャパニックに敬意 米スーパーボウル・ハーフタイムショー#スーパーボウル #Superbowl #NFL #エミネム https://t.co/pp8WoISZQx
— Rolling Stone Japan (@rollingstonejp) February 14, 2022
観客の一部が息を呑む。
「この舞台で、それをやるのか」──驚きと敬意が交錯する。
世界最大のスポーツイベントの真ん中で、彼は政治的メッセージを選び取った。
言葉は一切ない。
だが、その沈黙こそが雄弁だった。
それは、ヒップホップが常に持ち続けてきた「権力への抵抗」と「弱者への連帯」の精神を、たった数秒で世界に突きつける行為だった。
一枚のTシャツが証言すること
私の手元にあるこのTシャツは、2014年のロンドン・ウェンブリーでの歴史的公演を記念するものだ。
だが同時に、膝をつくという仕草が持つ二重の意味
──敬意と抗議──
を背負った象徴でもある。
古着はただのファッションではない。
それは時代を纏い、人の思いを運び、未来へ物語を手渡すメディアなのだ。
この歴史を知ったうえで「膝をつく(taking a knee)」姿を見れば、それは単なるポーズではなく、敬意と抵抗の両方を抱えた、深いメッセージであることがわかります。
その後のコリン・キャパニックとエミネム
コリン・キャパニックは、2025年現在も彼は、NFL復帰への意欲を失っていません。
毎朝3時半に起きてトレーニングを続け、2028年ロサンゼルス五輪でのフラッグフットボール出場も視野に入れています。
一方で、パートナーと共に教育・多様性啓発の非営利団体を運営し、BIPOCの子どもたちを支える活動にも力を注いでいます。
スポーツ界から遠ざかってもなお、彼は行動で信念を示し続けています。
そして、世界最大の舞台で膝をついたエミネムもまた、止まることを知りません。
最新アルバム『The Death of Slim Shady (Coup de Grâce)』は各国でチャート1位を獲得し、ドキュメンタリー『Stans』では17年以上のソーバー(禁酒・禁薬)生活と再生の物語を語りました。
そして2025年、彼は初孫を迎え、私生活にも新しい物語が始まっています。

膝をつくことから始まった二人の行動は、時を経ても消えることなく、形を変えて続いている。
その意思と物語は、一枚の古着を通して、これからも語り継がれていくのです。
