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大卒ですけど、何か?

    【あらすじ】
    桐山達也、三十八歳。高卒、無職。ハローワークで「大卒以上」の求人票を見るたび、達也は自分の人生そのものを否定されているように感じていた。高校卒業後、働くことから逃げるように自動車整備士の専門学校へ進学。国家資格を取得するも、大手ディーラーの現場で挫折し、一年で退職する。その後は地元の工場で十数年働き続けたが、疲労感だけを重ねて辞める。学歴も職歴も、自分には何も残っていない。そう思い込む達也の前に、いとこのケンジが現れる。自由奔放なケンジに振り回されながら、凍りついていた達也の心は少しずつほどけていく。これは敗北感を抱えた男が、履歴書には載らない大切なものに気づいていく物語。


    第1章 「大卒以上」

    「大卒以上」
    画面を一ページずつ、スクロールしていく。
    ハローワークのパソコンには、似たような求人票がずらりと並んでいた。
    画面を開いて、条件欄を確認する。

    三十五歳以下。
    経験者優遇。
    要資格。
    大卒以上。

    「またかよ」

    男はため息をついた。
    男の名前は桐山達也。三十八歳。独身。無職。学歴は高卒。

    正確に言えば、高校を出たあとに自動車整備士の専門学校へ行っている。

    国家資格にも合格して、大手自動車ディーラーに就職した。

    そこだけ見れば、それなりの人生に見える。ところが、整備士として働いたのは、たった一年だった。整備士と名乗るにはあまりにも短い。

    しかし達也にとっては、その一年がとてつもなく長く、重かった。

    それなのに、履歴書に書けることは何も残っていない。

    任された仕事も、身につけた技術も、胸を張れる実績もない。専門学校を出たころの達也には、まだ自信があった。

    国家資格に合格し、ディーラーに内定していた。手に職をつけて、食いっぱぐれることもない。

    女手ひとつで育ててくれた母にも、少しは安心させてやれると思っていた。その自信は、社会に出てから、あっけなく折れた。

    達也は逃げるように整備士を辞めた。

    そしてすぐ、実家の近くにある工場で働くことになった。親友が、そこで働いているという理由だけで選んだ仕事だ。

    ついこの間まで、十数年働いていた。期間だけ見れば、整備士よりずっと長いが、何かが積み上がったわけではない。

    ベルトコンベアで流れてくる部品を、ひたすら検査する毎日だった。長い年月のうちに、やりがいも自信も消えていた。

    仕事中は、何度も時計を見つめて「早く終われ」と心の中で叫んだ。

    毎日、家と会社の往復。

    クタクタになって帰ったら、なんとなくスマホを触る。眠くなって瞼を閉じると、朝が来る。そうやって、歳だけを取った。

    (おれ、このままでも大丈夫やろうか)

    ただ、工場にいれば、「働いている人間」ではいられた。ところが、辞める数ヶ月前から、職長とはそりが合わなかった。

    クレームが起きたときだけ、現場にやってきて叱責する。達也には、職長が責任逃れしているように映った。

    長年働いてきた自分が、雑巾のように扱われている気がした。

    我慢して。
    我慢して。
    我慢して。

    ある日、限界に達した。

    気づけば、被っていた帽子を叩きつけ「辞めてやる!」と口走った。その瞬間は、自分のプライドを守ったつもりだった。

    今こうして、ハローワークの椅子に座って求人票を眺めていると、そのプライドはずいぶん安っぽいものに思える。

    (あんな会社、こっちから辞めてやった)

    そう思えたのは、辞めた直後だけだ。無職になった今では、通帳の残高を見るのが怖い。

    だからと言って、求人票が達也の事情など知るわけもない。

    三十五歳以下。
    経験者優遇。
    要資格。
    そして、大卒以上。

    専門学校に行ったこと。
    国家資格を取ったこと。
    整備士を一年で辞めたこと。

    そういうものを並べたところで、状況は何も変わらない。

    友人には、「国家資格持ってるんやから、もう一回整備士やれば?」と言われた。

    悪気がないのはわかっていた。
    励ますつもりだったのだろう。

    達也には、あの作業着に袖を通す気力が残っていなかった。

    「大卒以上」の四文字に、存在を否定されているように思えた。

    お前は最初から対象外だ。
    お前に価値なんてない。

    パソコンの画面から、そう言われている気がした。達也は椅子にもたれた。

    もし整備士を続けていたら。
    もし工場で黙々と働き続けていたら。
    もし自分に、まともな学歴や経験があったら。

    達也は画面をスクロールする。次の求人票も、その次の求人票も、希望をつなぐものはない。

    実務経験三年以上。
    資格保有者歓迎。
    若手活躍中。
    キャリア形成のため三十五歳以下。

    「若手ねぇ……」

    達也は思わず苦笑した。「まだ若い。やり直せる」と、誰かを励ますなら、達也もそう言うだろう。しかし、求人票はそう思っていない。現実を正面から突きつける。

    (どっちやねん……)

    口から出る直前で、堪えた。昼に買った缶コーヒーは、すっかりぬるくなっている。時計を見ると、もう十七時だった。

    達也はとりあえず求人票を数枚印刷した。持って帰ったところで、何かが変わるわけじゃない。ただ今日の成果が、ほしかったのだ。

    カバンの中には、書きかけた履歴書が入っている。達也はそれを取り出し、学歴欄を見た。

    「〇〇自動車整備専門学校 卒業」
    「〇〇自動車販売 入社」
    「〇〇自動車販売 退社」

    その三行はいつも、達也を同じ場所へ連れ戻す。どうして自分は整備士になろうと思ったのだろう。

    車が好きだったから。
    手に職をつけたかったから。
    将来のことを考えたから。

    それらの理由なら格好がつく。

    本当は違う。もっとくだらない理由だ。

    高校三年の夏。達也は、ただ働きたくなかった。

     

    第2章 車が好きなことにした

    達也には、姉がいる。

    姉は高校を卒業すると、母を少しでも楽させようと、迷わず就職した。

    だから達也も、なんとなく就職するものだと思っていた。もちろん、社会に出る覚悟があったわけでもない。

    高校三年生になって就職クラスに入ると、進路説明会や面接の練習が少しずつ始まった。
    廊下の壁には求人票がちらほらと貼られている。

    進路説明会では、学年主任が何度も繰り返した。

    「遅刻、早退、欠席が多いと、企業は雇ってくれませんので」

    まだまだ遠いと思っていた未来が、じわじわと近づいてきた。

    朝起きたら、準備をして会社へ行く。終業まで、会社にいなければならない。忙しいときは、残業もあるだろう。

    クタクタになって帰ったら、寝るだけ。その繰り返し。

    そう思った瞬間、達也にとって就職は、人生の終わりだった。

    大げさに考えすぎだ。
    就職なんてそんなもんだ。
    誰もが平凡な生活を送るんだ。

    でも、怖い。

    (姉ちゃんはなんで、働こうと思えたんや?)

    そんな気持ちをよそに、クラスの成績上位者から順に、希望する企業への面接日が決まっていった。

    達也の成績は、上位グループだ。担任から、就職希望の用紙を提出しろと言われるのは、時間の問題だった。

    そんなころ休み時間になると、クラスの男子たちはよく車の話をしていた。机を囲んで中古車雑誌を広げていた。

    「免許取ったら何乗る?」
    「ハチロク一択やな」
    「おれも乗りたいって!マネすんなよ」
    「やっぱ、GT-Rやろ」
    「中古でええから、スポーツカー乗りたいな」

    どの車が速いとか、どのホイールが格好いいとか、達也にはよくわからない話だった。とはいえ、話の輪から外れるのも嫌だった。

    「達也は、何の車に乗りたいん?」

    達也は考えるふりをした。

    「まァ……、スポーツカーやな」

    車には、これといったこだわりはなかった。
    それでも、車を見るのは嫌いではなかった。

    雑誌の中の車は、格好いいと思った。
    達也も、クラスメイトの輪に加わった。

    そのとき、頭に浮かんだ。

    自動車整備士。

    専門学校に行けば、まだ働かなくていい。

    手に職がつく。
    食いっぱぐれない。
    車が好き。

    そういうことにしておけば、なんとなく自分にも道があるような気がした。

    働きたくないから進学する。そう言えば、ただの逃げに聞こえる。

    (おれは、整備士になるために進学するんだ)

    達也は、そう言い聞かせると、就職希望の用紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。

    数日後、達也は母に言った。

    「専門学校に、行きたいんやけど」

    トントントントントントントントン……。

    包丁できゅうりを切っていた、母の手が止まる。

    「えっ、専門学校?何の?」
    「自動車整備士の」

    母はすぐに返事をしなかった。
    達也は、その沈黙が怖かった。

    母子家庭だった。家に余裕があるわけではない。姉は高校を出て働いている。本当は、自分もそうすべきだった。

    働きたくない。

    本当の理由を言えるはずもない。
    代わりに、用意していた言葉を並べた。

    「整備士って、手に職がつくし。おれ、車も好きやし」

    母は達也の顔をじっと見た。その目が、どこまで見抜いていたのかはわからない。

    しばらくして、母は口を開いた。

    「あんたが進学したいんやったら、それでもええよ」
    「えっ?」
    「お姉ちゃんと違って、あんたは奨学金要らんかったやろ。その分を専門学校に使えば、なんとかなると思うで」

    怒られなかった。
    反対もされなかった。
    達也はほっとした。

    それと同時に、胸の奥に重たいものが残った。
    母は「ええよ」と言ってくれた。

    だからこそ、逃げ道がなくなった気がした。
    反対してくれてもよかったのに。
    本当は、働くのが怖かっただけ。

    自動車整備士。
    手に職。
    食いっぱぐれない。

    そうやって言えば、自分の選択が正しいものに思えた。

    達也は、車が好きだったのではない。
    車が好きなことにしたのだ。

    高校卒業後、達也は滋賀から大阪の専門学校へ通うことになった。

     

    第3章 思っていたより社会は近かった

    六時二十三分。眠い目をこすりながら、達也は電車に飛び乗って大阪へ向かう。それが達也の日常になった。

    車窓の外を流れる景色を見ながら、達也は何度も、お経のように繰り返していた。

    (おれは、整備士になるんだ)

    手に職をつける。
    母を安心させたい。

    ところが教室に入ってすぐ、達也は現実を思い知らされた。周りのクラスメイトたちは、休み時間になれば車の話ばかりしていた。

    「昨日な、オルタネーターを交換しようと思ってたらさ。急にバチバチって音がなったわ」
    「マジで!?」
    「そしたら、エンジンがうんともすんとも反応せんかった」
    「お前それ、ヒューズ飛ばしてもたんちゃう?ど素人のすることやん。ははは!!」

    このエンジンは性能がいいとか、あの車の足回りがどうだとか。
    達也は、言葉の通じない外国に来たような気がした。

    (こういうやつらが、整備士を目指すんだ……)

    達也も車が嫌いなわけではなかった。いや。クラスメイトは、車が好きか嫌いかなんてレベルではない。

    朝から晩まで、ずっと車のことを考えている連中だった。

    目の前にいる彼らの熱量は本物だった。達也は、場違いな場所に来てしまった気がした。

    人間関係も、ふり出しに戻った。小中高と共に学んできた友人は一人もいない。滋賀から通っている達也にとって、大阪の専門学校は異世界だった。

    教室では、誰と話せばいいのかわからなかった。休み時間になると、周りでは車の話から自然にグループができていった。

    達也は椅子に座ったまま、教科書を開いたり、ノートを眺めたりして時間をやり過ごした。

    (おれは、休み時間も勉強をしたいだけや)

    エンジンの構造。
    シャシの構造。
    電子制御。
    自動車法令。
    点検整備の手順。

    教科書に書かれていることを覚えるのは、達也の得意なことだった。そこには安心感があった。教科書は、達也を笑うことがなかったからだ。

    勉強した分だけ結果が出る。通学中の電車内で、教科書を広げた。わからないところは、何度も読み返した。

    達也は、実習が得意ではなかった。普段から車をいじっているクラスメイトたちと比べると、明らかに手が遅かった。

    それでも実習のときは、同じ班になったクラスメイトに、わからないところを教えてもらった。

    達也の原動力は、車への情熱ではなかった。

    (母さんに無理言って、専門学校に通わせてもらってるんや。何としてでも、食らいつかなあかん)

    そうしていると、結果が出始めた。国家試験対策の模擬テストでは、常に上位に入るようになった。

    テスト後、結果が廊下に張り出されるたびに、達也は自分の名前を探した。

    あった。上の方に、自分の名前がある。

    それを見ると、胸の奥が少しだけ熱くなった。達也の横を、通り過ぎた先生が呟いた。

    「桐山は、よう勉強してるな」

    そう言われると、達也は照れくさそうに笑った。

    生活態度もよかった。
    遅刻もしなかった。
    授業での疑問は、その場で質問した。

    働くのが怖くて、飛び込んだ場所だった。
    だからこそ、ここでは逃げてはいけない。

    姉も、励ましてくれた。

    「整備士か。ええやん。私は特にこれといって、やりたいこともなかったからね。がんばってな」

    達也は、うれしいような、後ろめたいような気持ちだった。自分だけが、進学させてもらっている。怠けている暇なんてない。

    そんな達也に、想定外の出来事が起きた。
    一年生の秋には、もう就職活動が始まるのだ。

    高校を卒業して、すぐに働きたくなくて専門学校へ進んだ。それなのに、もう就職先を決めなければいけないなんて……。

    思っていたより、社会はずっと近くにあった。

    達也は、昼休みに進路相談室をのぞき込んだ。今年も始まったと言わんばかりの、空気が漂っていた。

    壁には求人票や会社説明会の案内が貼られ、本棚には企業情報のファイルがびっしり並んでいる。

    奥の机では、進路担当の先生が学生と面談していた。

    面談を終えた先生が、達也に気づいて声をかけてきた。

    「君は、どこで就職したいの?ディーラー?」
    「あ、はい。そうだと思いますね」

    明らかに用意していた言葉ではなかった。達也は戸惑いながらも、その流れに引き込まれていた。

    「最初は練習のつもりでもいいから、どんどん面接を受けていこう」

    達也は面接の経験がなかった。高校の進路で、途中から進学に切り替えたからだ。

    高校のときに、面接を受けたクラスメイトから緊張したと感想を聞いただけで、なんとなく苦手意識があった。

    何を聞かれるのか。
    どう自分をアピールすればいいのかもわからなかった。

    (こんなはずやなかったのに……)

    達也は肩を落としたが、それでも逃げるわけにはいかなかった。

    一社目と二社目の面接は、頭の中が真っ白になってまったく覚えていなかった。いずれも、一週間ほど経ってから不採用の通知が郵送で届いた。

    三社目も決まらなかった。手応えを感じただけに、悔しい涙が出た。

    (こんなことなら、高校のときに就職しておけばよかった)

    内定が決まらないまま、学校を卒業するかもしれない。そんなことばかり考えていた。

    達也の努力の甲斐があり、四社目で内定が出た。大手自動車のディーラーだった。採用担当者から直接、達也に電話がかかってきた。

    「本当ですか!?ありがとうございます」

    達也にはまだ、働きたくないという気持ちが残っていた。それでもこのときばかりは、声をあげて喜んだ。卒業まで、まだ一年もある。

    (これで勉強に専念できる)

    母に伝えると、喜んでくれた。

    達也は思った。無理を言って専門学校へ行かせてもらったが、これで少しは、母に顔向けできると。

     

    第4章 積み上げた努力は本物だった

    達也は、学業も順調で難なく進級した。教室の中でも、何かが変わり始めた。

    「桐山って、テストでいつも上の方に名前あるよな」

    気さくなクラスメイトが、達也に声をかけてくれた。それから、達也は少しずつクラスメイトと話せるようになった。

    車いじりの話では、相変わらずついていけないことも多かった。それでもクラスの中では、「桐山は勉強できる」と見られるようになっていた。

    「勉強方法を教えてほしい」と言われることもあった。そんなふうに声をかけられるたびに、達也は教室での居心地が良くなっていった。

    話せる相手がいる。
    テストで結果も出せている。
    内定も決まっている。

    自分は、ちゃんと前に進んでいると思えた。
    卒業してすぐに国家試験を受けた。

    試験当日、達也は自分でも驚くほど緊張していなかった。二年間、積み上げてきたものがあったからだ。

    結果は合格。達也は、小さくガッツポーズをした。

    手に職をつけた瞬間だった。
    最初は逃げるように選んだ進学だった。
    それでも、専門学校で積み上げた努力は本物だった。

    (おれならやれる)

    達也は胸を張って、大手自動車ディーラーの入社式を迎えた。

    そのとき、達也はまだ知らなかった。

    学校で「できる側」だった自分が、現場では何もできない人間になることを。

     

    第5章 シートカバー事件

    四月一日。
    達也は、入社式の会場でまっすぐ前を向いて座っていた。

    入社式に合わせて新調したスーツ。
    まだ足に馴染んでいない革靴。

    周りには、緊張した顔の同期たちが並んでいる。

    (このメンバーで、これからやっていくのか)

    そう思うと、達也の胸は高鳴った。整備士としての人生が、いよいよ始まる。

    社長をはじめ、役員たちが新入社員に向けて順番に話をした。

    社会人としての心得。
    会社が創業してからの歴史。
    地域のお客様に支えられてきたこと。

    どれも大げさに聞こえたが、達也は真剣にうなずいた。入社式が終わると、実店舗へ配属されるまでの本部研修が始まった。

    挨拶。
    ビジネスマナー。
    会社の理念。
    商品知識。
    整備工場での安全確認。
    お客様対応の基本。

    覚えることは山ほどある。

    本部の一角にある会議室で、研修が始まった。学校の教室とは様子が違う。

    机も椅子も、壁に貼られた予定表も、どこか会社の匂いがした。

    会議室では、同期たちが少しずつ打ち解けていった。休憩時間になると、配属先のことや、どんな仕事がしたいかという話で盛り上がった。

    達也も、輪の中で笑っていた。

    入社式から二週間が過ぎたある日、実車を使った研修があった。

    会議室を出て、達也たちは研修用の車が置かれた現場へ向かう。

    研修担当の課長が、車の横に立っていた。

    「今日は、実車を使って、室内点検をしてもらいます」

    数人ずつに分かれて、車内を点検した。専門学校でも、実習は毎日のようにあった。

    達也たちは、「授業の一環」という感覚で車内に入っていった。誰も身構えている様子はなかった。

    一通りの点検が終わると、課長は達也たちを車の前に集めた。

    「点検そのものは、よくできていました」

    達也たちは皆、ほっと息をついた。課長は、小さくため息をついて続けた。

    「ただ、少し残念なことがありました」
    「皆さん、シートカバーをつけていませんでしたよね?」

    現場の空気が凍りついた。
    達也は、研修用の車を見た。

    たしかに、シートカバーをつけていない。
    フロアマットカバーも敷いていない。

    達也は、何が残念なことなのかわからなかった。

    (これって、研修やろ?)

    課長の顔つきが変わった。

    「お前ら、これがお客さんの車やったらどないすんねん!?」
    「実車に触るなら、お客さんの車やと思って作業しろ」

    課長は、車のシートを指さした。

    「汚れた作業着で、そのまま座ったらどうなる?工具が当たって、傷でもついたらどうするねん?フロアマットに泥が落ちたら、誰が拭き取るんや」

    達也の頭が真っ白になった。

    お客様の車。

    当たり前のことを、達也たちは見落としていた。

    すみませんでした。

    その一言すら、誰の口からも出てこなかった。

    課長はしばらく黙ったあと、少し声を落として言った。

    「私たちは、お客さんの財産を預かっています」

    その日、達也は「お客様の財産を預かる」という言葉を頭に入れた。

    しかし、深刻には捉えていなかった。次からは気をつけよう。その程度の理解だった。

     

    第6章 一番優秀な人材

    研修最終日。
    各店舗の店長たちが、本部へ新入社員を迎えに来た。

    同期たちは、自分の配属先の店長を探して、そわそわしていた。達也も落ち着かなかった。

    「おはようございます!!」

    ひときわ大きな声が響いた。
    達也は、声のした方向へ振り向いた。

    (なんやこの人。声、デカすぎやろ)

    そう思ったが、嫌な感じはしなかった。
    明るくて熱い人に見えた。

    その男は、まっすぐ達也の方へ歩いてきた。

    「君が桐山くんやな?」

    身長一八〇センチ以上ありそうな男は、達也を見つめると、にっこりと笑った。

    その瞬間、達也は気づいた。この男が、配属先の店長だった。

    「はい。桐山達也です。よろしくお願いします」

    達也は慌てて頭を下げた。

    「ほな行こか」

    店長の車に乗り、本部を出た。助手席に座った達也は、シャキッと背筋を伸ばした。

    これから、自分が働く店舗へ向かう。もう研修は終わったのだ。

    達也は膝の上で拳を握った。
    数分後、店長が口を開いた。

    「桐山くん」
    「はい」
    「挨拶っていうのはな、先制攻撃するもんや」
    「先制攻撃……ですか?」
    「ほや。人から挨拶されるのを、待っているようではあかん」
    「はい」
    「声のデカさでも負けたらあかんで」
    「はい」
    「店に来るお客さんも、社員も、最初に見るのは声や。元気があるかどうかは、声でわかる」

    達也は小さくうなずいた。

    「それとな」
    「はい」
    「副社長がな、桐山くんのことを一番優秀な人材って言ってたわ」
    「えっ、副社長がですか?」
    「最終面接での受け答えがよかったらしい。『あいつはええぞ』ってな」

    店長は、一瞬だけ達也の方に視線を配った。

    「期待してるからな。頑張れよ、桐山くん」

    自分を評価してくれる人がいる。それが副社長だなんて。

    達也は、自然と背筋が伸びた。

    「頑張ります」

    車は、配属先の店舗へ走っていく。

    お客様の財産を預かる仕事。

    達也は、研修中に課長から怒鳴られたことを思い出した。

    それでも、自分は副社長に認められている。
    達也の不安は薄れた。

    (おれなら大丈夫だ)

    それ以上、達也は「過去」を振り返らなかった。

     

    第7章 車は、教科書みたいに止まってくれない

    学校と現場は違う。
    頭ではわかっているつもりだった。

    配属されたら、すぐに整備をするのだと思っていたが、それは違った。新入社員の主な仕事は、年の近い先輩とペアを組んで、お客さんの車を引き取りに行くことだった。

    「桐山くん、今日はここ行ってきて」

    朝、サービスフロントから伝票を渡される。

    車種。
    住所。
    お客様メモ。
    納車時刻。

    達也はそれを見ながら、必死に道をたどった。
    個人宅もあれば、会社もある。

    ときには、トラックを引き取りに行くこともあった。

    「これ乗って戻ってきて」

    先輩にそう言われて鍵を渡されたとき、達也は固まった。専門学校の実習で、トラックを触ったことはない。ましてや運転したことすらない。

    目線がぐっと高くなる。
    車幅の感覚がまったく違う。

    (こんなこと、学校で習っていないんやけど)

    現場では、「習っていない」は通用しない。

    専門学校での実習は、いつも正解が用意されていた。部品は見やすいように配置され、手順書もあった。必要な工具と作業の流れが、最初から指定されていた。

    今、達也がいるのは学校ではなかった。

    ボンネットを開けると、エンジンルームの奥は暗くて見えない。

    狭いところに手を伸ばす。
    ボルトが固くて外れない。

    当然のことだが、お客様を待たせてはいけない。店舗の看板には、営業時間が書かれていた。

    九時から十八時。

    達也は当初、十八時になれば仕事は終わるのだと思っていた。

    その考えは甘かった。

    十八時は、店舗の入口が閉まる時間だった。ホワイトボードの作業予定表を、完了させることで一日が終わる。とにかく、時間に追われていた。

    最初の一ヶ月は、先輩たちやサービスフロントの人たちも、達也を大目に見てくれていた。

    「最初はそんなもんや」
    「新人やしな」

    達也も、その言葉に助けられていた。

    しかし、日が経つにつれて、空気が変わっていった。

    達也はミスばかりしていた。
    作業も遅かった。
    道もすぐには覚えられない。
    工具を探す時間も長い。
    報告のタイミングも遅れる。

    わからないことを、聞くタイミングすらわからない。

    周囲の目は、「また桐山か」に変わっていく。

    「桐山、遅ェよ」

    先輩は苛立ちを隠さなかった。

    「すみません」
    「謝る前に手ェ動かせ」
    「はい」

    返事だけは、一人前だった。
    だが作業は速くならない。

    オイル交換ひとつでも、達也は手間取った。その間に、先輩たちは達也の二倍も三倍も速く、同じ作業をこなしていった。

    専門学校では、達也は勉強ができる側だった。模擬テストでは、常に上位に名前があり、先生にも褒められた。

    今はそれを求められてはいない。必要なのは、目の前の作業を、決められた時間までに終わらせることだった。

    サービス部門には、毎月の目標があった。

    売上。
    利益。
    台数。

    そういう言葉は、営業に課せられたノルマだと思っていた。先輩にその話をしたら、鼻で笑われた。月末に近づくほど、作業予定表はびっしり埋まっていった。

    車検の台数が増えれば、整備工場に入ってくる車も増える。どこかで誰かが遅れれば、全員が苦しくなる。

    誰かとは、達也のことだ。

    車の下にもぐれば、周りで何が起きているかわからない。部品を探していると、次の予定が迫ってくる。

    作業に集中すると、報告を忘れる。急げば雑になる。丁寧にやれば遅くなる。ひとつのことを意識すると、別のことが抜ける。

    達也はどうすればいいのか、まったくわからなかった。先輩たちは、怒鳴る人ばかりではなかった。落ち着いて教えてくれる人もいた。

    それでも、達也には全員が怖く見えた。

    自分が遅いからだ。
    自分がミスをするからだ。
    全部自分のせいだ。

    二十二時に上がれる日は、まだ早い方だった。

    二十三時。
    零時。

    そんな時間に退社することが、当たり前になってきた。残業代がどうなっているのかも、達也にはよくわからなかった。少なくとも、働いた時間に見合った給与とは思えなかった。

    何時から何時までが残業なのか。どこまで申請していいのか。

    そもそも新人が、そんなことを聞いていいのか。わからないまま、達也は一日を終えた。

    専門学校で学んだことが、無駄だったとは思わない。しかし、勉強ができることと、仕事ができることは別物だった。

     

    第8章 冷めた夕飯

    家に帰るころには、日付が変わっていた。

    玄関のドアを開ける。家の中は静かだった。
    台所の豆電球だけが、ぼんやりとついている。

    最初の一ヶ月ほどは、母も起きて待ってくれていた。深夜残業が続くようになってからは、達也の方から「先に寝てて」と母に言った。

    待っていてもらうのも、なんだか申し訳ない。

    テーブルには、達也の分の夕飯が置いてあった。

    ラップをかけられたご飯。
    冷めた味噌汁。
    皿に残されたおかず。

    達也は作業服の上着を椅子にかけた。

    レンジの扉を開ける。
    ご飯を入れる。
    ボタンを押す。

    ブーン、という音が台所に響く。

    温まったご飯を取り出す。
    次に味噌汁を入れる。
    またボタンを押す。
    温まった味噌汁を取り出す。

    次におかずを入れる。

    ベルトコンベアの前に立っているみたいだった。家に帰ってきたはずなのに、達也は何かの作業をしている。

    レンジの音で、母が起きてきた。

    「おかえり」

    その声に、達也の肩がびくっとした。

    「いきなり声かけんなよ。びっくりするやんけ」

    口にした瞬間、自分でもひどい言い方だと思った。

    母は何も言い返すどころか、達也を驚かせてしまったと思った。

    「ごめん」
    「食器置いといて。朝に洗うから」

    そう言うと、母は布団に戻っていった。達也は、その背中を見ることができなかった。

    椅子に座る。
    箸を持つ。
    ご飯をどんどんかき込む。
    味はした。

    でも、何を食べているのかはよくわからなかった。

    今日も遅かった。
    怒られた。
    何もできなかった。

    気づけば、涙が勝手にこぼれていた。悲しいのか、悔しいのか。それすらわからない。食べ終わっても、満たされた気はしない。

    達也は、スナック菓子やチョコレートにも手を伸ばした。口を動かしている間だけは、明日のことを考えずに済んだ。

    (風呂、めんどくさいな)

    一日中動き回って、汗だくになっていた。でも、そんなことはどうでもよかった。

    服を脱ぐ。
    体を洗う。
    湯船に浸かる。
    髪を乾かす。

    一連の動作が、すべて作業だった。そのまま部屋に戻り、布団に倒れ込んだ。

    目を閉じると、現場での光景が頭に浮かんできた。

    「桐山、遅ェよ」
    「謝る前に手ェ動かせ」
    「また桐山か」

    (明日なんて来なければいい)

    どれだけそう思っても、必ず朝は来た。

     

    第9章 洗車だけしとけ

    配属されて半年が経ったある日、達也は先輩の手伝いをしていた。
    ラジエーターの冷却水の交換だ。

    その車は、助手席の下にエンジンがあるタイプだった。シートを上げて、そこから作業をする。

    作業前に、先輩から注意された。

    「シートカバーとフロアマットカバーをしとけよ」

    「はい」

    返事はしたものの、達也は作業手順を頭で追うのに精一杯だった。

    どの部品を外すのか。
    どこから冷却水を抜くのか。
    どれだけ冷却水を補充するのか。

    そのことばかりに気を取られて、達也はシートカバーもフロアマットカバーも忘れた。

    冷却水を扱っている途中、達也の手が少し滑った。

    「あっ」

    声が出たときには、もう遅かった。フロアマットが、冷却水でびっしょりになっていた。

    頭が真っ白になった。
    拭くべきなのか。
    報告するべきなのか。

    迷っているうちに、先輩が気づいた。

    「お前、何してんねん」

    先輩は車内を見て、目つきを変えた。

    「シートカバーとフロアマットカバーは?」
    「すみません、忘れました」
    「さっき、言うたよな?」

    達也は、何も言い返せなかった。
    先輩は、大きくため息をついた。

    「お前な、わからんまま作業を進めんなよ」
    「すみません」
    「すみませんちゃうねん。お客さんの車やぞ」

    その瞬間、本部研修での課長の言葉を思い出した。

    「私たちは、お客さんの財産を預かっています」

    あの日のことは覚えていた。それなのに、現場で活かせなかった。達也が担当する作業は、さらに減っていった。

    サービスフロントが、迷いなく達也に指示を出す。

    「桐山くんは、洗車で」

    それが、達也の定位置になっていた。
    とはいえ、洗車が楽なわけではない。

    月末になると、車検の目標台数を達成するために、入庫予定が一気に詰め込まれる。

    車検を終えた車。
    点検を終えた車。
    納車前の車。

    先輩たちが整備を終えた車が、次々と洗車場へ回ってくる。水をかけ、スポンジに洗剤を染み込ませて汚れを落とす。

    そこから水で洗い流し、水滴を一つも残さないように拭き上げる。

    一台終わったと思えば、また次の車が来る。
    必死に洗っているのに、終わりが見えない。
    来る日も来る日も、その繰り返しだった。

    「整備士って手に職やし」

    高校三年生のときに、母に言ったことを思い出した。あのときの自分は、何もわかっていなかった。

    今、達也が握っているのは、工具ではなく、泡だらけのスポンジだった。

    (これが、手に職がつくってことかよ)

    一瞬手が止まったが、すぐに動かした。

    昼休み、携帯電話にメールが届いた。別の店舗に配属されている同期からだった。

    「お前、タイミングベルトの交換したことあるけ?」

    (タイミングベルトか……)

    学校で習ったことはある。エンジン内部に関わる重要な部品だとも知っていた。あくまで、知識としてだった。

    あまり気が乗らなかったが、とりあえず返信した。

    「いや、ないけど」

    しばらくして、返事が来た。

    「今日やらせてもらったわ。めっちゃ大変やったぞ」

    研修中は仲良く話していたのに、「お前すごいやん」の一言が返せなかった。

    同期は、もうそんな作業をしている。きっと作業服にはオイルの汚れが勲章みたいについているのだろう。

    自分は洗車をして、作業服が濡れているだけだ。

    達也は携帯電話を閉じた。自分が作業服を着ているだけの人間に思えた。

     

    第10章 見て覚えろ

    朝、達也は出社して作業予定表を確認した。

    先輩たちの名前の横には、車検、点検、一般整備、検査といった項目が並んでいる。

    達也の名前の横には……何もない。

    (いつもなら、洗車って書いているはずなのに)

    そんなことを考えていると、現場のナンバー2に呼ばれた。

    「桐山、ちょっとええか」

    また何か怒られるのだろうか。

    「はい」

    達也は小さく返事をして、事務所の奥へ向かった。そこには、サービスマネージャーもいた。机の上には、作業予定表が置かれている。

    達也は立ったまま、二人の顔色をうかがった。ナンバー2が、先に口を開いた。

    「マネージャーとも話したんやけどな」
    「今のお前に作業を任せても、遅いうえにミスもする」

    達也は肩を落とした。心当たりなら、いくらでもあった。

    (やっぱ、クビかな……)

    「だから、しばらく作業せんでええ」
    「えっ?」

    達也は顔を上げた。作業しなくてもいい。その言葉の意味がわからなかった。

    ナンバー2は続けた。

    「その代わり、先輩たちの仕事を横から見て覚えるんや」
    「見て……ですか?」
    「そうや。見て覚えろ」

    見て覚えろ。

    ナンバー2の口調は、達也を責めるようなものではなかった。一つひとつ、言葉を選んでいるようだった。

    「あいつらがどう動いてるのか。どこで時間短縮しているか。工具を取る順番、作業を始める前に何を見てるのか。そういうのを、とにかく見ろ」

    サービスマネージャーも続けて言った。

    「今までおれたちの指導方法が、お前に合ってなかっただけかもしれん。お前には、できるようになってもらわな困るし、会社としても何とかしたいと思ってるんや」

    サービスマネージャーもナンバー2も、達也を辞めさせたいわけではなかった。何とか現場に立てるように考えてくれていた。

    「わかりました。お願いします」

    達也は、深々と頭を下げた。その日から、達也は先輩たちの作業を見ることになった。

    少し離れた場所から、様子をうかがう。

    上司が決めたことだからか、先輩たちは何も言わなかった。

    先輩の手は速かった。
    ボンネットを開ける。
    エンジンルームをライトで照らす。
    工具を取る。

    ボルトを緩める。
    部品を外す。
    新品の部品と交換する。

    一つひとつの動きに迷いがない。

    達也が考えている間に、先輩の手はもう次の場所へ移っていた。

    どこを見ればいいのか。今、何を確認したのか。じっと見ているはずなのに、わからない。

    「その位置で、見えとるんか」

    先輩に言われて、達也は慌てて近づいた。

    「はい」

    反射的に返事をしてしまった。

    先輩は、エンジンルームを指さしながら説明してくれた。

    「部品を交換して終わりやないぞ。まずは全体を見回す。例えば、どこかオイル漏れしてるかもしれん。異常が無ければ作業を進めろ」

    「はい」

    先輩は同時進行で、複数の作業をしていた。

    必死でメモを取るが、字が汚すぎて何を書いているのかわからない。今、質問していいのかもわからない。

    作業の邪魔にならないだろうか。そもそも、何がわからないのかさえ、わからない。

    考えているうちに、先輩の作業はどんどん進んでいく。先輩たちは、ただ言われた作業をこなしているわけではなかった。

    オイル交換のついでに、ワイパーゴムの切れに気づく。タイヤ溝の減り具合を見る。

    「これ、お客さんに言わなあかん。交換すすめた方がええわ」

    先輩の説明に対して、達也はうなずくだけだった。見ているだけなのに、疲れた。

    先輩の動きは、専門学校の実習とはまるで違っていた。

    教科書の手順をなぞっているわけではない。目の前の状況に合わせて、手が動いている。

    達也は、自分だけが取り残されていく気がした。


    見て覚えろ。


    これはチャンスだと思わなければいけない。
    自分のために時間を作ってもらっている。

    本来なら、いつクビになっていてもおかしくない状況だ。それでも会社は、自分を整備士として育てようとしてくれている。

    ありがたいと思うと同時に、ここで踏ん張れなければ、本当に終わる。

    一日中、先輩の横について見ていたが、達也には同じことができる気がしなかった。

    「桐山、わかったか?」
    「はい」

    先輩に聞かれて、またしても達也は反射的に返事をした。わかりませんと言えば、また迷惑をかける。

    達也は、自分が作業服に袖を通していい人間だとは思えなかった。


    見て覚えろ。


    言葉で言うより、実際は容易なことではなかった。

     

    第11章 限界

    一ヶ月後。
    再び達也が作業に戻る日が来た。

    サービスマネージャーとナンバー2の視線が、いつもより自分に向いている気がした。

    「見て覚えろ」の期間は、達也にとっての猶予だった。

    しかし、達也には何の変化も見られなかった。

    作業の手が遅い。ミスもする。工具を探して工場内をウロウロする。作業前に段取りを決めない。

    目の前の部品交換だけで、頭がいっぱいになる。先輩たちの動きから、何かを掴んだようには見えなかった。

    「桐山、なんでや……」

    二人の表情が、みるみる曇っていった。

    (おれ、もう無理や……)

    整備士は続けられない。その日、達也はうなだれながら帰宅した。

    翌朝、達也は台所で母に言った。

    「おれ、会社辞めるわ」

    母は、黙っていた。

    せっかく、専門学校まで行かせたのに。
    国家資格も取ったのに。
    大手のディーラーに入れたのに。

    そう言われても仕方ないと思っていた。

    母は、静かに言った。

    「達也がそう言うならね」

    ほっとするより先に、申し訳なさだけがあった。自分は逃げようとしている。

    出社して、サービスマネージャーに退職の意思を伝えた。

    サービスマネージャーは、終業後に休憩所へ来るよう指示した。

    終業後、達也は休憩所へ向かった。

    「まァ、座れ」

    サービスマネージャーは、達也に缶コーヒーを差し出し、自分の兄の話を始めた。

    「おれの兄貴はな、大手に就職したんや」

    達也は、黙って聞いていた。

    「本人もその会社に行きたいって言うててな。両親も喜んでたんや。ええ会社に入ったなって」

    サービスマネージャーは、缶コーヒーを飲みながら続けた。

    「でも実際に働いてみたら、思ってた仕事と違ったらしい。自分がやりたかった仕事とは違うってな」

    達也は、自分のことを言われているような気がした。

    「結局、兄貴は辞めた。両親はだいぶ残念がってたわ。せっかくええ会社に入れたのにってな」

    サービスマネージャーは、達也の目をまっすぐ見た。

    「お前、母子家庭なんやろ」
    「はい」
    「ここで辞めたら、お母ちゃん悲しむんちゃうんか?」

    そんなことは、達也にもわかっていた。でも、続けますとは言えなかった。

    翌日、店長とも話した。
    いつもの威勢はなく、黙って達也の話を聞いていた。

    達也は、うまく説明できなかった。

    自分なりに頑張ったこと。見て覚えるチャンスも、無駄にしたこと。このまま続けるのは、無理だと正直に伝えた。

    店長は最後まで聞いたあと、目を伏せた。

    「副社長が、桐山のことを一番優秀な人材って言うてたんやけどな」

    あの日、達也は認められていた。
    ここでやっていけると思った。

    店長は肩を落とした。

    「残念や」

    その瞬間、達也の目から涙がこぼれた。

    後日、本部の部長からも呼び出された。

    正直、意外だった。自分は現場で全然使えなかった。それなのに、引き止められている。必要とされているのだろうか。

    仮にそうだったとしても、達也の頭にあったのは、ただ一つ。

    (早く辞めたい……)

    部長との話し合いでも、達也の気持ちは変わらなかった。何を言われても、続けるとは言えなかった。

    部長は、達也の意志が固いことを察した。椅子にもたれ、達也から目をそらした。

    「あっそう」

    その一言で、達也の退職は決まった。

     

    第12章 脱獄

    最終日。

    今日を終えれば、もうここに来なくていい。作業予定表を見たら、達也の名前が外されていた。

    (そんでええんや……)

    達也が作業をすることはもうない。

    退社の前に、工場内の掃除をした。達也がほうきを持っていると、一人の先輩が近づいてきた。

    「桐山」
    「はい」
    「どんな形で辞めるにしても、今まで世話になった工場や」
    「掃除だけは、しっかりしようぜ」

    達也はうなずいた。

    工具を片づける。自分の持ち場だけでなく、先輩たちの場所もほうきで掃く。リフトの柱を雑巾で丁寧に拭く。

    しかし、頭にあったのは感謝ではなかった。

    (あと何時間で、この会社から出られるやろ)

    事務所の方でも掃除をしていると、サービスマネージャーに声をかけられた。

    「桐山、これだけは持って帰れ」

    サービスマネージャーが達也に渡したのは、整備士手帳だった。国家資格の手帳だったが、達也はもう手元に置いておきたくなかった。

    整備士だった証拠を、全部手放したかった。

    私服に着替えて作業服を返却したとき、手足につけていた鎖が外れたような気がした。

    会社を出る前に、達也は一人ずつ挨拶に回った。

    「お世話になりました」

    何度も同じ言葉を口にした。

    「体には気をつけろよ」
    「まァ、元気でな」
    「同じミスはするなよ」

    先輩たちは、それぞれ声をかけてくれた。達也は、そのたびに頭を下げた。

    会社を出た。駐車場まで歩く。達也はふと空を見上げた。

    (空って、こんなに広かったんや)

    毎日、下ばかり向いて歩いていた。空を見る余裕なんて、なかった。自由になれた気がしたが、前に進んだわけではない。

    整備士から逃げ出したのだ。高校三年生の夏から、何も変わっていなかった。

    達也にとって、退職というより脱獄に近かった。

     

    第13章 うちの工場、楽やぞ

    朝、達也が一階に降りると、母と姉はすでに仕事に行っていた。時計を見ると、十一時を過ぎていた。

    (もうすぐ昼メシやなぁ……)

    母が用意してくれた、朝ごはんと昼ごはんをまとめて食べた。

    もう会社に行かなくていい。それだけで気が楽だった。

    そう思えたのは、最初のうちだけだ。三週間もすると、ずっと家にいる自分に嫌気がさしてきた。

    会社を辞めたからといって、何かが変わったわけではない。自由になったような気がしただけで、何も解決していない。

    (次の仕事……探さなあかんな)

    これ以上、母を不安にさせたくなかった。

    そう思ったとき、中学からの親友のことを思い出した。親友は高校でも、達也と同じ就職クラスにいた。

    高校三年のとき、達也は求人票を前にして、働くことが怖くなった。

    だから、車が好きなことにして、専門学校へ進んだ。

    親友は高校卒業後、地元の工場へ就職していた。今も、そこで働いている。

    当時の達也は、親友が平凡な人生を選んだように見えた。

    (あいつの方が、よっぽど賢かったのかもしれない)

    達也は、自分の判断を悔やんだ。働きたくないなんて思わずに、淡々と就職先を決める。地元に根付いて働き続ける。

    それが、どれだけすごいことか。

    その夜、達也は親友に電話をかけた。

    「おう、達也か。久しぶりやな」

    電話の向こうの声は、昔と変わらなかった。達也は、整備士を辞めたと伝えた。

    「そうなんや。もったいないなァ」

    親友から、そう言われることはわかっていた。

    「もう無理やったわ」

    達也は、それ以上言わなかった。自分の惨めな姿を、親友にさえ晒したくなかった。

    「そっか」

    親友は、それ以上聞いてこなかった。

    沈黙の後、達也が言った。

    「おれ、仕事探さなあかん」

    すると、親友が軽く言った。

    「ほれやったら、うちの工場は楽やぞ」


    楽。


    その言葉は、達也にとって逃げ道のように聞こえた。

    親友がいる。
    地元の工場。

    整備士よりは楽かもしれない。それだけで、十分な気がした。

    「募集とか、してるん?」
    「たぶんしてると思うで。一回聞いといたろか」
    「頼むわ」

    その工場で働きたいという動機も、将来の目標もなかった。生きるために、働かなければと思った。

    親友がいる場所なら、安心できる。ただそれだけだった。

    後日、親友から募集があると聞き、達也は面接を受けた。

    念のため、志望動機や会社の情報を調べておいたが、面接では聞かれなかった。

    いつから来られるか。
    力仕事はできるか。
    残業はできるか。
    交代勤務はできるか。

    聞かれたのは、それだけだった。

    達也は、用意してきた言葉を並べた。

    「大丈夫です」
    「できます」
    「頑張ります」

    面接は、拍子抜けするほどあっさりしていた。

    翌日、採用の連絡が来た。母に仕事が決まったことを知らせると、安堵の表情を浮かべた。

    (これで無職やないぞ)

    とはいえ、胸を張れるわけではない。

    「楽やぞ」という言葉に、飛びついた。未来を選んだというより、目の前にあった逃げ道に転がり込んだだけだった。

    再出発とは呼べないほど、考えが浅かった。それでも、達也には立ち止まる余裕すらなかった。

     

    第14章 十数年働いて、何者にもならなかった

    工場では、精密部品を生産していた。達也は、検査工程に配属された。

    ベルトコンベアで流れてくる部品を手に取る。作業手順書を見ながら、決められた箇所を確認する。

    良品なら次のラインへ流す。
    不良品なら、はねる。
    その繰り返しだった。

    親友の言う通り、楽な仕事だと思った。決められた手順で、決められた作業をする。整備士と違って、自分で判断する場面が少なかった。

    考えなくても、手を動かしていれば一日が終わる。朝が来ることを、怖いと思わなくなった。最初は、それでよかった。

    一ヶ月が過ぎた。
    半年が過ぎた。
    一年が過ぎた。

    作業にも慣れてくると、一日が長く感じられた。それなのに、年月だけは勝手に過ぎていった。

    (早く終われ……)

    達也が見るのは、部品と職場の時計だけだった。

    仕事終わりに、親友を誘ってよく遊びに出かけていた。二人で銭湯に行ったり、カラオケで歌ったりした。

    仕事は退屈だったが、遊んでいるときは嫌なことも忘れられた。

    三年が過ぎた。
    五年が過ぎた。
    十年が過ぎた。

    部署異動を何回かした後に、また検査工程に戻ってきた。

    十年といえばベテランと呼べるが、達也の中で何かが積み上がった実感がなかった。一体、この仕事で、何ができるようになったのか。

    (おれ、何もない……)

    親友は三十歳手前で結婚をし、家庭を築いていた。達也が、この十数年で変わったのは、一人暮らしを始めたことだけだった。

    ある日、職長が血相を変えて現場に飛び込んできた。

    検査工程で、立て続けにクレームが発生した。後輩たちが見逃した不良品が、取引先に納品されてしまった。

    「桐山くん、これはどういうこと?ちゃんと教育してなかったんか!?」

    本来なら、新入社員の教育は職長がすべきものだった。とはいっても、職長が現場に来ることはほとんどない。

    放っておくわけにもいかず、達也が後輩を指導するようになっていた。

    「桐山くんのせいで、おれが是正処置を書いて、取引先に提出せなあかんやろ」

    似たようなことは、この数ヶ月で何度もあった。そのたびに、責任だけが達也のところに回ってきた。

    (おれは雑巾扱いかよ)

    それまで溜め込んできたものが、一気に出た。

    気づけば、帽子を床に叩きつけていた。辞めると言っていた。

    十数年働いて積み重ねてきたのは、経験ではなく疲労だけだった。

    達也は、三十八歳で無職になった。

     

    第15章 ケンジが来る

    アパートに帰るころには、辺りが薄暗くなっていた。達也はテーブルの上に求人票を放り投げ、畳に寝転がった。

    大卒以上。
    経験者優遇。
    三十五歳以下。

    自分がちっぽけな存在に思えた。

    そのとき、郵便受けに何かが入った音がした。

    達也は体を起こし、玄関まで歩いた。一通の封筒が入っていた。
    差出人の名前を見て、顔をしかめた。

    「やっぱ、ケンジか」

    ケンジは、達也の六歳年下のいとこだ。

    今どき、手紙で連絡してくる人間なんて、ケンジくらいのものだ。達也は封筒を開けた。中には、便箋が一枚だけ入っていた。

    「近々そっち行くね。ケンジ」

    字はいつも縦書きで、なぜか少し斜めに流れている。

    まっすぐ書く気があるのかないのか。読むたびに、こちらの首まで傾いてくる。

    「せめて電話にしろよ」

    達也は、ため息をついた。

    ケンジは昔から、そういうやつだった。中学を出てから、まともに定職に就いたことがない。

    コンビニ。
    居酒屋。
    引っ越し屋。
    工事現場。
    ティッシュ配り。

    ケンジの職歴は、履歴書というより寄せ書きだった。

    学歴もない。
    資格もない。
    貯金もない。

    それなのに、ケンジはなぜか生きていける。いつも誰かに気に入られ、「しょうがねェな」と言われながら、どこかでメシを食わせてもらっている。

    自然と、人の懐に入っていく。達也は、ケンジの話を聞くたびに呆れていた。

    正直なところ、腹が立つのか羨ましいのか、自分でもよくわからなかった。

    なぜ、あんなに人生適当なやつが生きていけるのか。自分は真面目に考えても、行き詰まっているというのに。

    翌日の昼過ぎ。

    玄関のドアを、ドンドンドンと叩く音がした。

    もう、ケンジしかいない。

    (マジか。近々って今日のことかよ)

    「たつ兄ぃ、いるー?」

    達也は、面倒くさそうにドアを開けた。

    「インターホンくらい鳴らせよ」
    「たつ兄、久しぶり」

    そこに立っていたケンジは、何も変わっていなかった。

    ボサボサの髪。
    にこりと笑うと、線みたいになる目。

    東京にいるはずなのに、どこか田舎の商店街みたいな空気をまとっている。

    そして、右手の小指の爪だけが少し長かった。

    「まだ伸ばしてんのか、それ」

    ケンジは自慢げに小指を見せた。

    「これ便利なんだよ。頭かゆいときにポリポリとね」
    「風呂入れよ」
    「入ってるよ。三日に一回」
    「いや、毎日入れよ」
    「毎日は、ちょっと都会的すぎるな」
    「お前、東京人やろ」

    ケンジはヘラヘラと笑った。

    部屋に上がるなり、ケンジは断りもなく冷蔵庫を開けた。

    「喉乾いた。麦茶ある?」
    「ない」
    「水は?」
    「水道水ならある」
    「琵琶湖の水、最高。東京の水は合わないんだよね」

    ケンジはコップを取り、蛇口をひねって水を注ぐと一気に飲み干す。達也はテーブルの向かいに座った。

    「で、何の用だよ?」

    ケンジはコップを置くと、真顔になった。

    「一緒に仕事しようよ」
    「はァ?」
    「だから、一緒に仕事しようって!」
    「何の仕事だよ?」

    「いろいろ」
    「いろいろって、何やねん」
    「人に会ったり、店を手伝ったり、物を運んだり、話を聞いたり、なんか面白いことしたり」
    「お前、それ仕事って言うんか」

    ケンジは、にこりと笑った。

    「稼げたら仕事なんじゃない?」

    達也は、目が線になったケンジをじっと見た。

    「たつ兄、一緒にやろうよ」

    唐突すぎる。意味もわからない。

    達也はすぐには答えられなかった。

     

    第16章 あの焼肉の社長

    ケンジが「仕事」という言葉を、口にするようになった理由を、達也はなんとなく知っていた。手紙の中で、ケンジが少しずつ書いてきたからだ。

    「あの焼肉の社長がさ……」

    ケンジの手紙には、度々その言葉が出てきた。

    あの焼肉の社長。

    最初に読んだとき、達也は意味がわからなかった。

    社長なのか。
    焼肉屋なのか。
    はたまた、焼肉をおごってくれる社長なのか。

    ケンジの文章は、いつも説明が足りない。それでも、何通か手紙を読むうちに、達也にも少しずつわかってきた。

    きっかけは、去年のお盆のころだったらしい。東京では、三週間連続で猛暑日だったという。

    公園のベンチに、ひとりの男がもたれかかっていた。

    顔色が悪い。
    額には汗が浮いている。
    目がうつろだ。

    ジョギングの途中で、公園を通りかかったケンジは男の異変に気づいた。

    自販機まで走り、水を買う。
    男の首元に当てる。

    近くにいた人に、声をかけて救急車を呼んでもらう。

    ケンジは、考えるより先に走り回っていた。

    救急車が到着したあと、男の関係者らしき女性が駆けつけた。礼をしたいからと、ケンジは名前と住所を尋ねられた。

    後から知ったことだが、その男は、いくつもの会社を経営している実業家だった。

    数日後、ケンジのもとに一通の封書が届いた。礼を伝えたいので病院まで来てほしい、という内容だった。

    ケンジは、病院の待合ロビーで実業家と会った。実業家は、しばらくケンジの顔を見つめていた。

    「君、いい目をしているね」
    「目ェ、ですか?」
    「確かに、メガネをかけなくても遠くは見れます」

    実業家は微笑んだ。

    「履歴書はいくらでも飾れる。資格も、職歴も、言い方ひとつで立派に見せられる。でもね、人の目だけは嘘をつかない」

    「はァ…」

    「私には、わかるんだよ」
    「なんか、ありがとうございます」

    ケンジは、おそらく半分も理解していない。褒められていることだけはわかったらしく、ヘラヘラと笑った。

    その笑顔を見て、実業家はさらに楽しそうに言った。

    「どうだ。今度、一緒に食事でも」

    ケンジは、少し考えてから言った。

    「メシって、焼肉ですか?」

    実業家は、きょとんとした。

    「君は、遠慮というものを知らないのか?」
    「遠慮は知ってます。でも、どうせなら焼肉が食べたいんで」

    「はっはっは!いいよ。焼肉にしよう」

    数日後。ケンジは、焼肉屋に連れていってもらった。

    高そうな店だった。店員が、肉の部位を丁寧に説明してくれている。ケンジはメニューを開き、遠慮なく指を差した。

    「これと、これと、あとこれ。ご飯は大盛りで」
    「初めての店なのに、ずいぶん迷いがないね」
    「肉は早いもの勝ちですから」
    「まだ焼いてもいないよ」

    実業家は、にこりと笑った。

    ケンジは、肉が焼けるのをじっと見ていた。

    トングを持つ実業家の手元。
    店員が皿を置くタイミング。
    隣の席の客が、何を注文しているか。
    空いたグラス。

    「社長さん、水なくなってますよ」
    「おや、本当だ」

    「店員さん、あっち行ったばっかなんで、次こっち来たら声かけます」
    「よく見ているね」

    「腹減ってると、いろいろ見えるんです」

    ケンジはそう言って、焼けた肉を遠慮なく口に入れた。

    「うまっ」
    「いい食べっぷりだ」

    ケンジの顔を見て、実業家は満足そうにうなずいた。しばらく肉に舌鼓を打ってから、箸を置いた。

    「普通の人間は、自分がどう見られるかばかり気にしている」

    ケンジは肉を噛みながら顔を上げた。

    「見られる?」
    「そう。どうすれば自分が評価されるか。自分にとって損か得かなんてことをね。」

    「はァ…」
    「でも、君は違う」

    ケンジも箸を置いた。

    「君は、自分がどう見られるかより、相手が何を欲しがっているかを見ている」

    「ボクが、ですか?」
    「そうだよ」
    「何も考えてないですよ」
    「考えずにできるなら、それは才能だ」

    ケンジは、首をかしげた。
    実業家は、ケンジの方にやや姿勢を傾けた。

    「仕事というのはね、肩書きや資格だけでするものじゃない」

    ケンジは、トングを使って実業家の分の肉を焼いていた。

    「人が困っていることを見つける。それをどうすれば解決できるか考える。そこに人が集まり、お金が動く」

    「困っていることを、見つける」

    ケンジは、実業家の言葉を繰り返した。

    「そう。仕事は、そこから始まるんだよ」

    ケンジは全部を理解したわけではなかった。

    肩書き。
    資格。
    仕事。
    お金の流れ。

    小難しい話になると、ケンジはだんだん眠たくなってくる。それでも、ひとつだけ残った言葉があった。


    困りごとを見つける。


    焼肉のあと、ケンジは実業家から声をかけられるようになった。

    荷物運び。
    イベントの手伝い。
    人手が足りない現場への助っ人。
    実業家の知り合いから、困りごとを聞いて回ること。

    どれも、履歴書に書けるかどうかわからない仕事だった。それでも、ケンジは行く先々で気に入られた。

    相手が何を欲しがっているのか。
    どこで困っているのか。

    ケンジは、そういうものを、理屈ではなく体で覚えていた。

    一体、ケンジは何を始めようとしているのか。ケンジのやっていることが、仕事と呼べるのか。

    ひとつだけ確かなことがある。

    ケンジは、履歴書に書けない力で、人の懐に入っていく男だった。

     

    第17章 今夜、大学へ行こう

    達也は横になった。

    「おれ、今そんな気分じゃねェんだよ」

    ケンジは、コップを両手で持ったまま、けろっとした顔で言った。

    「知ってるよ」
    「何を?」
    「たつ兄、最近うまくいってないんでしょ?」

    達也は起き上がった。

    「誰から聞いた?」
    「手紙だよ」
    「手紙?」

    「ボクが送った手紙さ、いつも返事くれるじゃん。めんどくさいとか言いながら」

    ケンジは、コップに付いた水滴を眺めていた。

    「でも、こないだの返事、字に元気がなかったんだよねェ」

    ケンジはいつも、変なところだけは勘が鋭い。

    「それだけで来たのか?」
    「十分な理由じゃん」

    ケンジは、テーブルの求人票に目を向けた。そこには、「大卒以上」の文字があった。

    「おれには無理だよ」
    「何が?」
    「新しい仕事とか。お前と違って、おれには何もない」

    「ボクも何もないよ」
    「お前はあるだろ。人に可愛がられるとか、そういうの」
    「そう言われると、そうかなぁ」

    ケンジはヘラヘラと笑った。

    「特技、人に可愛がられること。趣味、焼肉をおごってもらうこと。って、履歴書に書こうかな」

    「ふざけんなよ!おれは、マジで悩んでるんやぞ。大卒じゃねェし」

    ケンジは、きょとんとした。

    「ボクは中卒だよ」
    「だからお前は、ええんやって。そういうふうに生きてきたんやで」

    言い出すと、止まらなかった。

    「おれはな、まっすぐに生きてきたつもりなんだよ。専門学校にも行って、就職もした。工場でもずっと働いた」

    ケンジは黙って聞いていた。

    「その結果がこれだ。三十八歳で無職。求人票を見ても、大卒以上、経験者、三十五歳以下。おれに何ができるっていうんだよ」

    達也は、求人票を見た。紙切れ一枚に、自分の人生が弾かれているような気がした。

    「今さら、大学なんて行けるわけねェ。金も時間もねェ。仮に行ったとして、そのあとどうする。何もかも、もう無理なんだよ」

    ケンジはもう一度、蛇口をひねった。コップに水を注ぎ、一気に飲み干すと、達也の方に振り向いた。

    「じゃあ、今夜行こうよ」
    「どこに?」
    「大学」
    「……はァ?」
    「行こうよ」
    「お前、おれの話聞いてたか?」

    「聞いてたよ。大学に行きたいんでしょ?」
    「誰も行きたいとは言ってねェよ。お前、意味わかってんのか?」
    「わかってるよ。行けるよ。大学に」
    「だから、そんなノリで行く場所じゃねェだろ」

    「ボクが初めて大学行ったの、滋賀だし」
    「なんで、お前が大学に行ったことあるんだよ?ますます意味わかんねェよ」
    「あとでわかるよ」

    ケンジはニコッと笑った。

    「その笑顔が怖いんだよ」

    ケンジは立ち上がった。

    「夜、迎えに来るから。お腹空かせといてね」
    「なんで大学行くのに、腹空かせる必要があるんだよ?」
    「ある。大事」

    そう言って、ケンジは帰っていった。達也はしばらく、玄関のドアを見つめていた。

    (あいつ、何を言うてるんや)

    今夜、大学へ行く。
    腹を空かせておけ。
    初めて大学に行ったのは滋賀。

    意味がわからない。

    (でも、理屈ばかり並べてきた結果が、今のおれなのかもしれない)

    大卒じゃないから無理。
    三十五歳を過ぎているから無理。
    経験がないから無理。

    そうやって、できない理由ばかりを並べていた。だったら、ケンジの誘いに、一度くらい乗ってみてもいいのかもしれない。

    夜八時。
    ケンジは、またしてもインターホンを鳴らさずに、玄関のドアを叩いた。

    「たつ兄ぃ、行くよー」

    達也はドアを開けた。

    「ほんまに行くんか?」
    「大学は待ってくれないから。車出してね」
    「おれが運転するんかい」
    「ボク、免許持ってないし」

    「はいはい。こんな時間に大学なんて開いてるか?」
    「夜間部だから」
    「ここら辺に、夜間大学なんてねェぞ?」
    「あるよ。名門が」
    「お前の口から、『名門』って言葉が出るのかよ」

    ケンジは、ヘラヘラと笑った。二人は、達也の軽自動車に乗り込んだ。

    車は国道を走った。交差点の手前で、赤信号に捕まった。

    ふと見ると、コンビニの前で制服姿の高校生たちが笑っていた。部活帰りだろうか。肩にカバンをかけ、缶ジュースを片手に話し込んでいる。

    達也は、当時の自分と重ねた。

    「整備士って、手に職がつくし。おれ、車も好きやし」


    あのころは、深く考えなくても生きていけた。

    整備士になれば、ちゃんとした人生が始まる。資格を取れば、一生食いっぱぐれない。

    何者かになれると思っていた自分は、結局何者にもなっていなかった。

    「ケンジ」

    助手席のケンジが、達也の方を見た。

    「おれ、大学に行っとけば違ったのかな?」

    ケンジは、小指の爪で頭をポリポリと掻いた。

    「違ったんじゃないの?」
    「いや、軽いな」
    「だって、わかんないもん」
    「そこは励ますところやろ」

    「大学行ったら行ったで、別の悩みがあったかもね」
    「どんな悩みだよ」
    「コンパでモテないとか」
    「そうかもな。って、なんでやねん」
    「真面目に話して損したわ」

    するとケンジは、ぼそっと言った。

    「でもさ、今がつまんないなら、ウジウジしたってしょうがないじゃん」

    達也はムッとしたが、言い返せなかった。

    しばらく走ると、ケンジが前の方を指差した。

    「あっ!そこそこ。左」
    「ここを左?」
    「うん。もうすぐ見える」
    「はァ?どこにも大学なんてねェぞ」

    車が止まったのは、駅前の小さなラーメン屋だった。

    黄色い看板。
    赤い文字。

    そこには、はっきりと書かれている。


    『ラーメン大学』


    画像



    達也は、しばらく看板を見上げた。
    隣に立つケンジを睨みつける。

    「ケンジ……お前」
    「着いたよ」

    ケンジは、名門校の正門にでも立っているような顔をしていた。

    「大学は大学でも、ラーメン大学やんけ!!」
    「そうだよ。夜間部」
    「カッコよくまとめてるんじゃねェよ!!」

     

    第18章 ラーメン大学、入学

    「お腹空いてる?」
    「あァ。お前に言われた通り、空かせてやったよ!」

    「じゃあ、入学資格あり」
    「やった。ありがとうございます〜。って、違うやろ!」

    ケンジはヘラヘラと笑って、のれんをくぐった。達也は、しばらく店の前で立ち尽くしていた。

    ばかばかしい。
    本当にばかばかしい。

    大学に行こうと言われて、連れてこられた場所がラーメン大学。

    三十八歳にもなって、何をしているのだろう。

    怒りがこみ上げてくるかと思ったが、腹が減りすぎて、怒る気にもなれなかった。こうなったら、腹いっぱい食べてやる。

    達也は大きく息を吸い込み、ケンジの後に続いた。

    店内は、思っていたよりも混んでいた。
    カウンターには作業着姿の男たち。
    奥のテーブル席には家族連れ。

    厨房からは湯気が立ち上り、醤油とにんにくの匂いが漂っていた。

    「いらっしゃいませェェェ!」

    黒いタオルを頭に巻いた店員が、威勢よく声を張った。二人はテーブル席に通された。

    ケンジは席に着くなり、メニューも開かずに注文した。

    「ラーメンのレギュラーセットと餃子。ネギ抜きの細麺で。それから唐揚げ単品もお願いします」
    「早いな」

    「大学では迷わないことが大事」
    「ここ大学じゃねェし」
    「まだ言ってるよ」
    「こっちのセリフや」

    店員が注文を繰り返し、厨房へ戻っていった。
    ケンジは水を飲んだ。

    達也は壁に貼られたメニューを眺めた。

    醤油ラーメン。
    味噌ラーメン。
    チャーハンセット。
    学生セット。

    学生セットの文字を見て、達也は苦笑いをした。

    「学生セットって、誰が頼むんだよ」
    「学生でしょ」

    「学生より、作業着のおっさんの方が多いぞ」
    「心が学生なら誰でもいいんじゃない?」
    「適当すぎるわ」

    そう言いながらも、達也はメニューをじっと眺めていた。腹が減っているのに、なかなか決められない。

    しばらくすると、先にケンジのラーメンが運ばれてきた。

    「お待たせしましたァァァ!」

    器から立ち上がる湯気が、照明の下で白くほどけていた。テーブルに置かれた瞬間、にんにくと醤油の匂いが広がった。熱々のスープの下から、細麺が顔をのぞかせていた。

    ケンジは割り箸を割ると、手を合わせた。

    「いただきます!」

    ケンジは、食べるときだけは必ず背筋を伸ばす。箸ですくい上げた麺を、じっと見つめた。

    「ラーメン大学、特別講義!」

    達也は飲みかけていた水を、吹き出しそうになった。

    「何を学ぶんだよ」
    「腹のくくり方」
    「本気か?」
    「うん。ラーメンは待ってくれないから」

    ケンジは麺をすすり始めた。

    「モタモタしてたら伸びちゃう。熱いうちに食べなきゃ。人生は短いからね」
    「名言ぽく言うな」

    ケンジは答えず、麺をすすった。

    「うまっ!特別講義終了」
    「終わるの早っ!!」
    「実技だからね」

    「ただ食ってるだけやろ」
    「たつ兄も早く注文しなよ」

    達也は、店員を呼んだ。

    「すみません。鶏塩ラーメンのレギュラーセット。ネギ多めの麺固めで」

    「かしこまりましたァァァ!」

    店員が達也の注文を唱和すると、厨房からも威勢の良い返事が聞こえた。

    ケンジは餃子にタレをつけ、ご機嫌に食べている。

    まったく何を考えているかわからない。ただ、食べっぷりだけは優等生だとわかる。

    わざわざ東京から滋賀まで来た。字に元気がないという理由だけで、達也のもとにやってきた。

    そして今、ラーメン大学に連れてこられた。ケンジなりに、何か考えがあるのだろうか。

    「ケンジ」
    「ん?」

    ケンジは餃子を口に入れたまま顔を上げた。

    「お前、本当は何しに来た?」
    「一緒に仕事しようって言いに来た」
    「それは聞いた」
    「あと、たつ兄の字に元気がなかったから」
    「それも聞いた」

    ケンジは、餃子を水で流し込んだ。
    コップを置くと、遠くを見つめた。

    「たつ兄さ……」
    「ん?」
    「おばあちゃんちの庭に、松の木あったの覚えてる?」

    「ああ。お前が松の木事件を起こした翌年に、切り倒されたけどな。それがどうした?」
    「あれは人生で一番痛かったよ」

    ケンジは笑いながら、怪我をした頭の部分を手で触った。

    「笑いごとじゃねェよ。忘れたくても、忘れらんねェよ」

    そう言ったものの、達也が覚えていたのは、ケンジが脚立から落ちた瞬間くらいだった。

    「ボクさ、あのときのたつ兄の姿、ちゃんと覚えてるよ」

    ラーメンの湯気の向こうに、あの松の木が見えた。

     

    第19章 松の木事件

    二十四年前。

    夏休みになると、伯母は毎年、ケンジを連れて達也の実家へ帰省してきた。

    庭には、背の高い松の木があった。幹は太く、枝は横に大きく広がっていた。

    子どものころの達也には、庭の真ん中にそびえ立つ松の木が、家の主みたいに見えていた。

    「また毛虫や。ほんまかなんわ」

    祖母が、庭先で顔をしかめていた。枝のあちこちに、黒っぽい毛虫がうごめいていた。

    風が吹くたびに、葉が揺れ、毛虫まで一緒に動いているように見えた。

    「見てるだけで、かゆなるわ」

    達也の母の由美子も、腕をさすりながら言った。その横には、伯母がいた。

    「ほんと、嫌よね」

    伯母は、達也の父の姉だった。若くして上京し、すっかり東京弁が染み付いていた。

    祖母がぶつぶつ言い続けていると、達也が脚立を持ってきた。

    「おばあちゃん、おれがケムシ取るわ」
    「たっちゃん、大丈夫?」
    「任せとき」
    「達也、ふざけるんとちゃうで」

    母が釘を刺した。

    「わかってるって」

    達也は中学二年生で、ケンジは小学二年生だった。ケンジから見れば、達也は何でもできるお兄ちゃんだった。

    ケンジがクリアできないゲームも、達也は横からコントローラーを取って、あっさりクリアした。

    足も速かった。運動会では、いつもリレーのアンカーを任された。バトンを受け取り、前の走者を追い抜くと、周りの大人たちが歓声を上げた。

    勉強もできた。ケンジの夏休みの宿題も手伝った。木登りも得意だから、脚立に登っても平気な顔をしていた。

    幼いケンジにとって、達也はヒーローそのものだった。とはいえ、達也自身にその自覚はなかった。

    達也は、脚立を松の木の下に立てた。

    「気ィつけや」

    母が言った。

    「はいはい」
    「たっちゃん、さすが中学二年生だね」

    伯母も感心した。

    達也は脚立に足をかけた。

    一段。
    二段。
    三段。

    上に登ると、庭の景色が少し変わった。下では、祖母と母と伯母、そして姉の翔子が、こちらを見上げていた。その少し後ろで、ケンジが目を輝かせていた。

    「たつ兄、すごい」

    ケンジは呟いた。

    「どこがやねん」

    そう言いながら、達也は枝についた毛虫を火ばさみでつまみ、下に置いたバケツへ落としていく。

    毛虫を摘む感触が気持ち悪い。できればやりたくない。下から見上げるケンジには、そんなことはわからない。

    高いところにいる達也。
    大人たちに頼られている達也。
    平気な顔で毛虫を取っている達也。

    その姿が、かっこよかった。

    (ボクも、たつ兄みたいに登りたい!!)

    幼いケンジには、脚立の危うさなどわからなかった。

    達也が、枝に火ばさみを伸ばしたときだった。
    ぐらりと、脚立が揺れた。

    「え?」

    達也は下を見た。ケンジが、いつの間にか脚立に足をかけていた。

    「ケンジ!アホ!!」

    達也が叫んだ。ケンジはびくっとした。
    その動きで、脚立がさらに揺れた。

    上にいた達也の体が大きく傾く。

    (やべェ!!)

    達也は、とっさに脚立から飛び降りた。地面に足がついた。同時に、背後で大きな音がした。

    ガシャン。

    脚立が倒れた。

    ゴン。

    ケンジの頭が、コンクリートの床にぶつかった音だった。

    一瞬、誰も動かなかった。

    そのあと、ケンジが火を吹くように泣き出した。

    「うわぁぁぁぁ」

    額のあたりから血が流れていた。赤い血が、汗と涙に混じって、ケンジの顔を伝っていく。

    「あああ。ケンちゃん、ケンちゃん」

    祖母はその場にへたり込んだ。

    「ケンちゃん!」

    母の顔が青ざめた。

    「タオル持ってきて!止血しなきゃ」

    伯母の声だけが、庭の中でまっすぐ響いた。達也は、血を流すケンジを、ぼうっと見ていた。

    事態が深刻なのは、わかっていた。でも、何をすればいいのかわからなかった。

    脚立が倒れた。
    ケンジが落ちた。
    血が出ている。

    ケンジは泣きながら叫んだ。

    「痛いよぉ! ボク死んじゃうよぉ!」

    伯母がケンジの頭にタオルを当てる。

    「ケンちゃん大丈夫だからね」

    伯母の声は、落ち着いていた。

    「今すぐ病院に行きましょう」

    ケンジは泣き止まなかった。

    「まだ夏休みの宿題終わってないのに!」

    ケンジのズレた発言に、姉が口元を押さえた。姉は、必死に笑いをこらえていた。

    ケンジは血を流している。
    祖母は腰を抜かしている。
    母はパニックになっている。
    伯母は必死に傷口を押さえている。

    達也はただ、立ち尽くしていた。

    とっさに、母は達也の頬に平手打ちをした。

    パシッ。

    「あんた、お父さんが生きてたら、ゲンコツだけでは済まされへんで!!」

    達也は何も言えなかった。
    母の目には、怒りがあった。
    それ以上に恐怖があった。

    母は伯母の方を向くと、何度も頭を下げた。

    「お姉さん、ごめんなさい。達也が……ほんまに、ほんまに」

    伯母はケンジの頭を押さえたまま、首を横に振った。

    「由美子さん、そんなことよりも車の運転お願いね」
    「はい……」
    「大丈夫。意識はある。すぐ行こう」

    看護師だった伯母は、落ち着いていた。少なくとも、そう見えた。

    自分の子どもが血を流しているのに、泣き崩れることも叫ぶこともしなかった。今やるべきことだけを見ていた。

    母はもう一度、伯母に頭を下げた。

    「お姉さん、ほんまにすみません」

    ケンジが落ちた場所に、血だまりができていた。

    「ケンちゃん、ケンちゃん」

    祖母は、腰を抜かして身動きが取れなかった。

    「翔子は、おばあちゃん見といて!」

    姉は、母に言われて祖母に付き添った。
    母はエンジンをかけた。

    病院へ向かう車の中で、達也は助手席に座っていた。

    運転席には母。後部座席には、ケンジと伯母が乗っていた。

    伯母は、ケンジの頭にタオルを当てたまま、体を支えていた。ケンジは泣き疲れたのか、時々しゃくり上げていた。

    達也は、前だけを見ていた。

    倒れた脚立。
    コンクリートの床にぶつかった音。
    血を流すケンジ。
    母の平手打ち。

    事故の瞬間が、頭から離れなかった。

    病院で、ケンジは頭の傷を縫った。
    達也は待合室の椅子に座っていた。

    母は何度も伯母に謝った。そのたびに伯母は「大丈夫」となだめた。

    伯母だって、心配していたはず。それでも、気丈に振る舞った。

    夜になって、ようやく家に戻った。ケンジは頭に網のような包帯をかぶっていた。

    それを見た達也は、冗談ぽく言った。

    「なんだよそれ。お中元のりんごかよ?」

    パシッ。

    母に、今度は頭を叩かれた。

    「あんたのせいやろ」
    「……なんで、おれのせいなんだよ」

    その夜。ケンジは、いつものように達也の部屋で寝た。

    さすがに今日は、伯母のそばで寝るのかと思ったが、ケンジは何ごともなかったように達也の部屋に来た。

    部屋の電気を消すと、扇風機の回る音だけが聞こえていた。しばらくして、隣の布団から小さな声がした。

    「たつ兄」
    「どうした?眠れんのか?」
    「ううん」
    「今日のたつ兄、かっこよかった」

    達也は不機嫌になった。

    「どこがやねん。お前のせいで、おれは怒られたんやぞ」
    「ちがうよ」

    ケンジは布団の中で、少しだけ体を動かした。

    「たつ兄が脚立に登って、毛虫を取ってるところ」
    「はァ? 意味わかんねェよ。さっさと寝ろ。自由研究、手伝ってやんねェぞ」

    ケンジは黙った。

    脚立に登っていた達也。
    大人たちに頼られていた達也。

    それが、ケンジの中に残っていた。

    達也が覚えていたのは、ケンジが頭をぶつけた鈍い音と、母の平手打ちだけだった……。

    ラーメンの湯気の向こうに見えたのは、ケンジだった。

    「ボクの憧れのたつ兄を、勝手に捨てんなよ!」

    ケンジの声に、達也は驚いた。

    目の前のケンジは、もう小学二年生ではない。それでも、笑うと目が線になるところだけは、あのころと変わっていなかった。

    「お待たせしましたァァァ!」

    店員の声が響いた。

    達也のラーメンが、テーブルに置かれた。器から立ち上がる湯気が、二人の間に広がった。

     

    第20章 卒業証書

    達也は、ラーメンを眺めていた。食べなければ伸びる。達也は麺を持ち上げ、一気にすすった。

    熱い。でも、うまい。
    喉の奥を、麺が通り抜けていく。
    腹の中にスッと落ちていった。

    達也は、何も言わずに麺をすすった。

    久しぶりだった。

    何かを食べて、こんなにも美味しいと思えたのは。

    それだけのことが、ありがたかった。

    ケンジが、餃子にタレをたっぷりつけながら言った。

    「ボクを助けてくれた社長がさ、前に言ってたんだよ」

    達也は麺をすすりながら、顔を上げた。

    「お前が助けたんやろ」
    「そうとも言う。でも、焼肉ごちそうしてくれたからね」

    「やっぱ、それかよ」
    「社長、いいこと言ってたよ」

    ケンジは餃子を一口食べた。

    「仕事って、困ってる人のところに入るんだって」

    達也は箸を止めた。

    「困ってる人のところに入る?」
    「うん」

    ケンジは餃子をもう一口食べた。

    「人の話を聞けってことかな」
    「話を聞く?」

    「たぶん」
    「たぶんかよ」
    「だって、社長の話って眠くなるんだよ」

    ケンジは悪びれもせずに言った。

    「あとさ、履歴書はきれいに書けても、人の目はごまかせないとか」
    「目ェ?」
    「うん。言葉とか、態度とか、そんなの」

    履歴書だけで、人生が決まるわけではないということか。

    達也は、器の中のスープを眺めた。

    大卒じゃないこと。
    整備士を辞めたこと。
    工場でも何者にもなれなかったこと。
    三十八歳で無職になったこと。

    達也はずっと、足りないものばかりを数えていた。

    でも、違ったのかもしれない。

    履歴書に書けないものまで、ないことにしていたのは自分だった。

    足が速かった。
    勉強もできた。
    毛虫取りで、大人たちに頼られていた。

    ケンジにとっては、全部がかっこよかった。

    達也は、ラーメンをすすった。少し伸びてしまったが、美味しかった。

    ケンジは、唐揚げをひとつ達也の皿に乗せた。

    「はい、卒業テストだよ」
    「なんで唐揚げがテストなんだよ」

    「熱いうちに食べる。それがこの大学のルールだからね」
    「めちゃくちゃやな」
    「大学は厳しいんだよ」
    「ラーメン大学やけどな」

    達也は唐揚げを口に入れた。

    「熱っ」
    「たつ兄、合格!!」
    「いや、合格早すぎやろ」
    「ちゃんと熱いうちに食べれたから」
    「おれで遊ぶな」

    ケンジは、にこりと笑った。

    達也は、残りのスープにチャーハンを突っ込んでみた。

    「おっ?たつ兄、変わったことするね」

    達也がニヤリとした。味変のチャーハンが、思いのほかうまかったらしい。

    ケンジは、餃子も唐揚げもきれいに平らげた。

    達也の腹は、苦しいくらいに膨れていた。でも、悪い気はしなかった。美味しいものを食べた。それだけで十分だった。

    「たつ兄に車出してもらったから、ラーメンはボクにおごらせてよ」
    「そんなん、気ィ遣わんでもえェぞ?」
    「いいから、いいから」
    「そうか。サンキューな」

    会計を済ませると、ケンジはレシートを受け取り、ポケットへしまった。

    達也は先に店を出た。夜風がひんやりした。駅前の通りには、まだ何台か車が通っている。

    ラーメン大学の看板は、ぼんやりと黄色い光を放っていた。

    ケンジも店から出てきた。ポケットからレシートを取り出して、達也に渡した。

    「何だよ、これ」

    ケンジが、真顔で言った。

    「卒業証書」
    「いや、これどう見てもレシートやろ」

    達也はレシートを見た。

    ラーメン。
    鶏塩ラーメン。
    唐揚げ単品。
    レギュラーセット 二つ。

    一番上には、店名があった。

    ラーメン大学。

    「こんな紙切れが、卒業証書なわけないやろ」
    「でも、捨てないでしょ?」

    いつものレシートなら、財布の中でくしゃくしゃになって、そのうち捨てていた。

    このレシートは違う。

    今日、「大学」に来た記録が残っている。

    ラーメン大学。
    ケンジは空を見上げた。

    「たつ兄は今日、卒業したんだよ」
    「何を?」
    「大卒じゃない自分を責めること」

    大卒でない事実に変わりはない。履歴書が、急に立派になるわけでもない。

    整備士を辞めたことも。
    工場を辞めたことも。
    三十八歳で無職になった現実も変わらない。

    それでも、自分を責め続けることから、降りてもいいのかもしれない。

    達也はレシートを折りたたんで、そっと財布の中にしまった。

    「なァ、ケンジ」
    「ん?」
    「仕事の話、詳しく聞かせろよ」

    ケンジは手を叩いて、達也に指を差した。

    「お、さっそく就活じゃん!」
    「言い出しっぺはお前やろ」

    「たつ兄は、当社の選考条件である大卒をクリアしてまーす」
    「偉そうに言うな」

    ケンジはにこりと笑うと、目が線みたいになった。達也も目を合わせて笑った。

    二人は、車に向かって歩き出した。車に乗り込む前に、達也は振り返った。

    黄色い看板。
    赤い文字。
    ラーメン大学。

    大学に行けなかった人生。ずっと、そう思っていた。

    求人票の「大卒以上」という四文字に、自分の人生を否定されてきた気がしていた。

    でも今日、達也は大学に行った。

    駅前のラーメン大学。
    夜間部。
    専攻は、腹のくくり方。

    今日、達也は大学を卒業した。

    明日からは、少しだけ胸を張って言ってやろうと思った。


    大卒ですけど、何か?


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    滋賀在住|取材ライター|校正・校閲|企画立案からアポ取り執筆まで可能|5連続でアポ取り失敗するも6度目の正直で成功|座右の銘:ラピュタは滅びぬ。何度でも蘇るさ|お仕事のご依頼はnoteまたはX(旧Twitter)のDMまで

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