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月と芽キャベツ


    「作品紹介」

    【あらすじ】

    仕事中心の生活に
    嫌気がさした小川結月は、
    停滞した状況に危機感を覚え、
    気の合う人を探そうと動き始める。
    それは、相性の良い人を探すのに最適だと言われている
    MBTIや九星気学などを複合的に反映させた高精度でマッチするアプリ。
    何人かとやり取りしたのち、
    とある男性と会うことになるのだが、
    待ち合わせ場所に彼は現れなかった…
    すると、そこには同じ目的でその彼を待つらしき女性が…
    思い切って声をかけた彼女と、
    大人になって初めての友達になる。

    彼女の提案で、山の中の古民家を題材にした映画のロケ地に泊まりに行くことになった。
    民泊を始めたばかりのオーナー、
    ユーさんの第一号のような宿泊者になった2人は、そこで過ごすうちに、忘れかけていた楽しい時間が何よりも大切であることを実感する。

    ユーさんと接するうちに彼女の順風満帆とはいかない人生観にも触れ、
    言葉にできず、もやもやとしていたものが、少しずつクリアになっていく2人。
    悩んでばかりの日々に、細やかな答えをくれるストーリー。

    【登場人物】

    小川結月 (柚)…30代半ばの会社員。転職組、勤続15年。仕事の効率が良く、誰かのフォローをさせられるポジションに甘んじている。
    一人暮らし。彼氏なし。友達も皆結婚し疎遠。
    1人は嫌いじゃないけれど、たまには気の合う人と気兼ねなく話をしたい時もあると思っている。
    しかし、仕事に追われて余裕のない日々。
    ファッションや食べ物などにこだわりがあり、
    シンプルだけど上質なものが好き。
    趣味は音楽、楽器演奏、料理、読書、植物、カフェなど多趣味。

    藍沢 甘奈 (AK)…30代前半。
    パンと洋菓子を販売するお店でバイトしている。
    実家を出て、上京。
    都内の祖母の家に老小型犬と住んでいる。
    パンやスイーツが好き。
    映画はルーチンワーク。池袋の新文芸坐に一日いたりするくらいの映画好きながら、そんなにマニアックではない感性型。普通に題名や俳優の名前を忘れがち。映像記憶は得意のようで、一場面の色合いや音楽などは鮮明に憶えているタイプ。


    Backe(バッケ)…30代半ば。多趣味で文化的なものが好き。主には本、音楽、映画、カメラ。
    某私大の文学部卒。工学部と悩んだ末、本好きが高じて文学部を選択。本来はやや理系よりらしい。
    姉がいるので、女性とのコミュニケーションが得意。

    安藤木綿子(ユーさん)…50代前半。
    山の古民家民泊(蕗の宿)を1人でやってる女性。
    焼きたてのパンや焼き菓子が評判の宿。
    元は東京のカフェで働いていた。
    古民家は実家。父が大工だったこともあり、古民家ながら適度にリノベーションされている。両親が亡くなったことを期に仕事を辞め里帰り。
    民泊は開業したばかりのため、運営は探り探り。
    離婚歴があり、子供はいない。





    …………………………………………………………………………




    月と芽キャベツ


    産休のご連絡…

    ここ1ヶ月リモートだった同僚からのメールが来ていた。
    ずっと出勤していないと思っていたけど、
    産休絡みだったのか。
    今年に入って2人目の産休。
    本当にこのまま補充もなくやっていくのか…
    考えるだけでも怖い。
    また予算の関係を盾に有耶無耶にされるのだろう。

    残業に厳しくなっているので、最大でも21時までだけれど、
    毎日毎日21時まで残業して、家に帰るのは22時はとうに過ぎるし、そこから簡単なものを作って食べて、食休みをしてから入浴ともなれば早くて0時。
    その間に何の自由時間もないのだから、社畜の定義に当てはまるのではないか…。

    モチベーションが高いタイプなのもあって、仕事を一生懸命こなしてきたが故に、人より仕事の量が多くなってしまっている。
    小川さんに任せておけば安心という体のいい言葉と、自分の責任感の強さでここまで来てしまった。
    任されたものはしっかりこなすのが当たり前だと思っているし、人に迷惑をかけてはいけないとも思っている。
    しかし、他の人があまりそう思っていないのはよく分かる。
    誰もやらなくなれば破綻するからやっているに過ぎないのに。

    ああ、今日は代休だった。
    昨日のメールの内容と業務のきつさがまだ残っていて、反芻してしまっていたようだ。

    何気なしにSNSを開くと、友達は自分の子供の写真を載せていた。
    この友達は子供が生まれてからと言うもの、自分の旦那と子供の写真しか載せなくなってしまって、正直辟易している。
    友達の趣味の投稿が好きだったのに。
    子供自慢のような投稿にどうリアクションしていいか全く分からなくなっていた。
    もはやその友達の何が良かったのかもあまり思い出せないくらいに。

    私はいいねする気になれず、長らくいいねしていないけれど、本人は気付いているだろうか。
    いや、投稿内容が全く変わらない時点で気付いていない気がする。
    ちなみに、友達は私より歳上、晩婚で高齢出産だったから、
    今の私の気持ちを通り過ぎてきたはずで、
    分かってくれるかと思ったけれど、
    結婚し、出産するとそんなことお構いなしに無意識に押し付けてくるのかもしれない。
    これって何かのハラスメントなんじゃないだろうか。
    本人にはもちろん言わないけど。

    こうやって他人の人生を否応なしに見させられていると、今の自分の境遇を考えざるを得ない。
    うちの会社は女性で出世する人は本当に一握りだし、大半が結婚、出産して部署移動したりする。
    私自身も結構良い評価を長らくもらいながらも、昇進はしなかった。
    そして、何にもなれなかった自分がいることに気付いてはいる。

    転職は何回かして、今の会社にいるので、
    転職の良し悪しも理解していて、今回はある程度長く働いてみた末の結果だった。

    一体どう言う選択をすれば上手くいくのだろう。
    選択してもしなくても、上手くいかない人生な気がしている。

    このまま同じ待遇で働き続けることに何の価値を見出せるのだろうか、
    自分自身だけのモチベーションだけでは消化しきれなくなってきている。
    ずっと同じことを繰り返しているだけで、生活していけるのだろうか。
    貯金も十分とは言えない。
    そう考えると、1人で生きていくのは厳しい。
    誰かパートナーを探した方が良いのだろうか。
    人間関係が面倒臭すぎて、パートナー探しを長らくサボっている。
    大分前に友達に勧められてアプリだけ入れたけれど、まだ何もしていない。
    気分転換にやってみてもいいかもしれない。
    世の中有象無象がそこにあるのだろうけど、
    一つの経験として体験しておくのも悪くないのかな。
    パートナーと言うよりは、気の合う友達でも見つけられれば良いんじゃないか。

    そんな感じでForageに登録してみたのだった。
    このアプリはよくある簡単に出会えるアプリというよりは、時間をかけてメッセージのやり取りをするらしく、趣味などで繋がれる傾向が強い。
    一番最初に生年月日や質問からMBTIと「エニアグラム」や「ビッグファイブ」、さらには九星気学を総合して、相性を導き出してくれ、
    さらには、自分の好き嫌い(食べ物だけでなく)や趣味なども登録して、その人の特性プロファイリングがかなりの精度でできあがる。
    バックグラウンドでは、似たような特性の人たちがグルーピングされて、コミュニティのようなものが形成されるらしい。


    初めてやりとりした人は、30代半ばの男性でトムヨークやオアシスなんかが好きだったので、
    まあまあ話が弾んだ。
    それ以上の話題がなかったので、私もすごく詳しい訳ではないし、もうちょっとお互いを色々知らないとなーって感じだった。
    メッセージのやり取りでも、
    そこらへんの音楽の話ばかりしてたけど、
    実は私は邦楽も好きだし、Jazzやクラシックも好きだったりでかなり幅広いので、もう少し幅広く話せる人のが楽しいのかもしれないと思った。

    2人目の人はカフェ巡りが好きで、私も最近はそんなにカフェを巡ってないものの、家でラテ淹れて飲むし、喫茶店なども好きなので、楽しかった。
    カフェ巡りしましょうって言われてて、
    その途中で送られて来たカフェでの写真。
    ちょっとファッションとか雰囲気が苦手だったんだよな。モード寄り過ぎてて。
    指輪とかたくさんつけてて、ナルシスト感があったのも、私とは違う感じがした。

    アプリを始めるに当たっての事前診断やメッセージのやり取りに少し手間がかかるのもあってか、今のところ変な人に当たってはいない。
    他のアプリをやってみたことがある訳ではないけれど、噂に聞くようなろくでもない輩との遭遇は明らかに低い気がする。
    ただ、こう言うアプリの特性か、もしくは私の分析結果のせいなのか、女性とは今のところ当たっていない。


    そして、2週間前からやりとりしてるのが、Backe(バッケ)さんだ。
    読書、映画、美術館に行くのが好きらしい。
    話してると、多趣味のようでグルメも好きだし、カメラもやってるそう。
    他にも色々趣味があるらしく(語りきれないとのこと。)、私も多趣味なので、話が合いそうな感じがしている。

    「好きな本と映画って何ですか?」

    「伊坂幸太郎全般ですかね。
    ほとんどの作品読んでますよ。
    映画は、最近観たのであればグリーンブックが良かったです。ストーリーやキャラクターも良かったですけど、音楽が特には良かったかな。非の打ち所がない感じでした。」

    「伊坂幸太郎私も好きなんです。
    ベタですけど、重力ピエロとか。
    意外とバイバイブラックバードなんかも。
    でもやっぱり黒澤さん出てくるのが好きかもです。
    グリーンブックも観ました!
    本当非の打ち所がないですよね!」

    「泥棒の黒澤さん。良いキャラですよね。
    バイバイブラックバードの巨漢の男か女か分からない人もあの描写だけでどんな人がすぐイメージつきますよね。確実にキャラ濃い人。しかし、バイバイブラックバード出すとかコアですね笑」

    「あはは、ですよね。
    皆、アヒルと鴨とかゴールデンスランバーとか、オーファーザー!とか出しますよね。」

    「確かに…。しかもそこらへん全部映画にもなってますしね。映画は観ましたか?」

    「観ました、観ました!
    個人的にはオーファーザー!好きでした。
    父たちの配役が良いですよね。」

    「確かに良いですよね。ベテラン俳優に芸人さんもいて、父たちのキャラクターを上手く表現してましたよね。芸人枠は、個人的には武雅様に出て欲しかったですけどね。塚地武雅ホント好きで。
    梅切らぬバカなんて何回観たことか…。」

    「梅切らぬバカ!!!えー!あれ最高に好きです。武雅さんの演技最高ですよね。」

    「です。です。
    本当演技巧いですよね。
    自閉症の特徴を本当よく捉えてる。
    リアルすぎます。ストーリーもしんみりして良いですしね。考えさせられますよね。」

    「あー、何か久しぶりに観たくなりました。
    明日観ようかな。」

    「良いですねー。僕も観てみようかな。
    …明日お休みですか?」

    「いや、明日は普通に仕事なんですけど、帰ってから観ようかなと。明後日は休みなので。
    一般的な土日休みの仕事でして。」

    「そうですよね、普通明日お仕事ですよね。
    僕シフト制で、平日休みが多くて、ちょっと感覚ずれちゃってました。あ、明日お仕事でしょうし、今日はこれくらいにしておきませんか?
    そろそろ23:30ですし。明日早いですよね?
    」
    「お気遣いありがとうございます😭
    ではまた宜しくお願いします。おやすみなさい😴」

    「おやすみなさいです。
    ゆっくり休んでくださいね。」


    いやー、結構良い人だったー。
    久しぶりに伊坂幸太郎の話したわ。
    グリーンブックとか梅切らぬバカとかも。
    周りにこう言うの観てる人いないからなぁ。
    しかし、これだけ世の中に人間がいるのに、
    好きな音楽とか、作家とか、映画とか身近で全く被らないって言うのは何でなんだろうね。
    一体どこに生息してるんだ、私の好みと同じ感性を持つ人間はっ!

    って、今回出会った訳だけども。
    いやー、貴重だよ。
    Forageマジすごいかもしれん。
    全国民にやってほしい。
    もっと同じ感性の人と遭遇したいわ。

    あー、でもそうなると変な輩が参入してくるからダメか。

    0:15
    早くお風呂入らないと。
    しかし、こんな慌ててお風呂に入る世界線って悲しいなー。
    もっとゆっくりのんびり好きなことに時間使える生活がしたい。
    正直もう働きたくないわ。

    Backeさん平日休みがメインって言ってたけど、
    平日休みもいいかもなぁ。
    混んでないだろうし。
    休みの日どこも混んでるから、
    今や出かける気がしないんだよね。
    都内に住んでるのに、何か勿体無い気がするのは分かってるけど。
    やっぱ若くないのかも。
    そもそも疲れて寝て終わるし。

    18:00
    今日は定時で帰ってやることにした。
    仕事を押し付けられる前にいつの間にか消えている作戦。隣の机の女性に用事があるので帰りますとだけ声かけて。
    多分今頃課長はまだいると思って探してるかも知れないけど。

    意外とイケるではないか。
    これからは地味にでも自分の権利を主張していこうと思った。

    こんなに早く帰れるなんていつぶりだろうか、
    夜を長く感じる。
    休みの前の夜が一番気楽に過ごせる時間だったことを思い出した。

    最近見つけたレコードが聴けるお店に行ってみることにする。

    ニューオリンズ料理を出してる珍しいお店で、
    大量のレコードと、大容量のオーディオ、
    真空管アンプでジャズやロックが流れており、
    Jpopなんかも流してくれる気の利いた場所だ。

    ちなみに私は3回目の来店。
    入店すると、
    毎回初めてのお客さんのようなリアクションなので、おそらく顔は覚えられていないらしい。
    薄い顔なので、どこに行ってもそんな感じだ。

    職場近くのよく1人で行っていた寿司屋でも、
    毎回大将と話していたらサービスまでしてもらえるようになったのに、
    上司と一緒に行ったら完全に初見の人として扱われたくらい。

    どこかの国の諜報員とかになったら活躍できるかも知れない。
    ちなみに2年前に一度話しただけの人との会話も覚えている、ちょっとした特殊能力もあるし。笑。

    店は常連さんだらけだった。

    ガンボライスを頼む。
    飲んだ後の締めに良さそうな優しいスープとごはん。
    軽くとろみがあって、ちょっとミネストローネ風でもあるけれど、
    ブイヤベースぽくもある。

    ゆっくり食べながら、
    音楽を聴く。
    カフェラテを頼んだ。

    今日はあいにく牛乳がないらしかったので、
    いつもならもう少し長くいるのだけれど、
    早めに店を後にした。


    帰り道、
    近所のコンビニでプチシューを買った。
    シュークリームは生クリーム派だ。
    ここ数年、生クリームが好きすぎる。
    甘いものなんてあまり食べなかったのに。
    口寂しいってこう言うことか…。

    Forageを開くとあの彼からメッセージが来ていた。
    通知を切ってるから気付かなかった。

    「こんばんは!お仕事終わりましたか?
    昨日遅くまでメッセージしてしまったので、大丈夫だったでしょうか?」

    「お疲れ様です!返信遅くなりすみません。
    こちらこそです。
    今日は珍しく定時で帰ることができたので、
    レコードの聴けるお店に行ってきました!」

    「いやいや、気にしないでください。
    レコードが聴けるお店良いですねー。
    お酒飲みながらゆっくりするのに良さそうだなぁ。一度行ってみたいんですよね。」

    「私はお酒はほぼ飲まないのですが、飲めなくても大丈夫なところなのでありがたいです。ご飯食べながらゆっくりさせてもらってます。」

    「それは良いですね!
    あ、すみません。
    これからレイトショーで。
    また、話聞かせてください。
    では!」

    「あ!すみません!
    楽しんできてください!」

    レイトショーか。
    何観るんだろ。
    彼女…かな?
    あ、でもForageって友達作りでやる人もいるからな。私もそんなニュアンスだし。
    でも、敢えて異性相手に友達とかはないか。

    ふと空を見上げると大きな月が見える。
    いつもより強い光を纏ったそれは、
    きっと満月に違いない。
    特別な夜は無意識に空を見上げてしまう。

    ビニール袋を腕にかけて少し無理な体勢で写真を撮った。珍しく光の輪のようなものが写って綺麗だった。

    さっき買ったビニール袋をがさごそと探る。
    プチシューのパックを見つけ、封をあける。
    まるで小さなお月様のようだ。
    家まで待てなくなった私の口の中で、
    一個、二個とすぐ消えた。


    …月より芽キャベツ。


    カーテンの光で珍しく目を覚ました。
    スマホの時間は10時過ぎ。
    週末の午前中は、いつも皆まだ起きてないんじゃないかと言うくらい静かだ。
    上に住んでいる人が何か固いものを落とす時があって、うるさいことが時折あるけれど、
    それ以外は静かな場所。

    引っ越した先がうるさかったら嫌なので長らく引越しする気になれないでいる。

    職場も変わらないし必要に迫られている訳でもないので、何か変化がなければこのままだろう。

    起きたら取り敢えず洗口液で嗽をする。
    寝起きは口の中の菌をなくしてから食事した方が良いそうだ。
    口の中の菌が数々の病気に関連しているらしい。
    できれば歯磨きもすべきなのだけれど、
    歯の磨きすぎも歯が減るらしいし、
    歯茎にも良くないらしく、食べてから磨くことにしている。

    食べ物でも何でもそうだけれど、何かに良いからって取りすぎると逆に良くなかったりするもので、この二律背反って厄介だなと思う。
    ほどほどを保つって一番難しいっての。

    さて、何を食べるか。
    朝に弱いのであまりお腹は空いていない。
    でも何も食べないのは体内時計的に良くないらしいので、
    冷蔵庫にあるもので簡単に…。
    納豆冷製パスタなどいかがだろう?

    先日お手頃だったので買ったパスタが実はカッペリーニだったと言うのもある。
    カッペリーニだったら冷製パスタ。
    お決まりだ。
    で、納豆と梅干しか、あればキムチ。
    キムチはなかったので、納豆と梅干しと…白胡麻で。
    納豆のタレとカラシを入れて、あとは時たま買ってる牡蠣醬油と、三温糖。
    まあ、甘みならなんでも。
    オリーブオイルもたらり。

    カッペリーニは茹だるのが早い。
    実は私の特技は茹だったかを麺の色で判断できるところだ。
    しかし、言語化はできない。
    そういえば昔、音楽の先生に音程がちょっと高いか、低いかの違いを言葉で説明することはできないと言われたのを思い出した。
    まさしくそれだ。

    取り敢えず絶妙な色の変化とだけ伝えておく。

    茹だったようなので菜箸で麺を取り出し、ざるに入れる。
    個人的にシンクに熱湯を流すのが好きではない。
    シンクが傷むからだ。
    あと、麺の茹で汁を油ものを洗うときに使うと良いと母に教わってから鍋の茹で汁はそのままにしておき、食べ終わって洗うときに使う。

    突然だが、このざるについて紹介したい。
    このざるに出会ってからは普通のざるは何だったんだろうと思うくらいだ。
    柳宗理のざる。
    フラクタル構造のフラットな網の構造で、網目に詰まることは全くない。
    そして、洗うときに引っかかることもなく、穴が空いていながらまるで、金属のボウルを撫でているような感じなのだ。
    よって、洗うのが最強に楽である。
    これを知ったら昔のざるには戻れまい。

    一人通販番組終了。

    ざるに取った麺はヌメヌメがなくなるようにしっかり洗い、心の中でラーメン屋になりきりながらリズム感よく水切りをする。
    水切りは多少甘くても問題ない。
    味が薄まれば塩分で調整すればよしだ。

    テーブルに座ってテレビをつける。
    これと言って何もやっていないので、テレビを消した。
    静かな中で落ち着いて食べるのも良い気がした。

    「そう言えばpopeyeって雑誌読みますか?
    今月号映画特集でしたよ?」

    「ポパイ読みますねぇ。今月号まだ読んでないんですよー。何か面白そうな映画載ってました?」

    「ネバーアフターダークってホラーが気になりました。賀来賢人が監督の。」

    「ネバーアフターダークですか!ちょうどこの間のレイトショーで観たやつです!
    ホラー大丈夫なんですか?」

    「ホラー意外と大丈夫な方だと思います。
    そんなに観てはないですけど、観ようと思えば普通に観られますし、機会があったら観るくらいですけど。奇妙なものとかは小さい頃から好きなんで。」

    「ネバーアフターダークは良いと思いますよ。おしゃれだし、日本のホラーと海外のホラーの良いとこどりみたいな。」

    「そうなんですね。大々的に宣伝してる感じじゃなかったんでノーマークでした。」

    「確かに大々的にはやってないですね。
    SNSとかでは結構話題になってて評判良いですよ。実際良かったですし。怖さ倍増のためにもレイトショーおすすめです。僕は1人で行ったので尚更でしたが。」

    「夜1人は帰り道ちょっと怖くなりそうですけど、行けたら行ってみます。
    そう言えばpopeyeってメインはファッション雑誌ですよね?
    服とかも好きなんですか?」

    「popeyeはカルチャー誌って感じですね。
    ファッションも含めたカルチャー全般というか。服も好きですねー。popeyeのアイビー特集とか参考になります。」

    「アイビールックってやつですね。トラッド的な?」

    「そうです。トラッドですね。結構そう言う系統が好きで着てるんで。」

    「柚さんはどんなブランド着ます?」

    「そうですねぇ、マーガレットハウエルとか好きですかね。」

    「マーガレットハウエル良いですね。シンプルで上品な感じで。飾らない感じが上級者ですよね。」

    「トラッドも十分分かってる人って感じしますよー。無駄がなくて、オーセンティックですし。」

    「そうですかね。無難でどんなシチュエーションでもいけるんで、良いんですよね。」

    「分かります。マーガレットハウエルもそんな感じですもん。普通に仕事着として着たりもできるし。実は仕事着もほぼ私服です笑。」

    「ほぼ私服良いですね。週2日の休みだと服買っても着る日ないようなもんですし。
    人によってはオンオフ分けたい人もいると思いますけど、服装自由な会社とか良いですよねー。夏はリネンのシャツとかで行きたい。」

    「男性ってスーツじゃないとダメですもんね。うちも自由な訳ではないので、男性はスーツ着てますね。夏はクールビズですけど。リネンシャツ良いですよね。クールビズって何でほとんどポロシャツなのか…。」

    「リネンシャツ良いんですけど、やっぱりシワがダメなのかもですね。僕もポロあまり好きじゃなくて。」

    「私もスーツに合わせるポロ苦手なんですよね。なんかおじさんぽくて。」

    「あー、そうか。ずっと違和感あったんですけど、言語化できなくて。確かに休日のおじさん感ありますね。」

    「休日!ゴルフ行く前!」

    「確かに!間違い無いですね。」

    そんなこんなで、また話が盛り上がった昨晩。
    前回のこともあるので、ファッションについて聞けたのは良かった。
    トラッド系なら私も好きだし。
    感性が似てると本当会話が弾む。
    今までは捻り出したりとか、話を続けようとして疲れたりしてたもんなぁ。
    これだけストレスなく話ができるのっていつぶりだろう。
    忘れてた感覚だわ。

    「こんばんは。
    今日はゆっくりできましたか?
    僕は友達と気になってたカフェに行ってきました!」

    「写真、美味しそうなプリンですね。
    私固めプリンすごく好きなんですよ!本当撮るの上手いですね!趣味って言ってましたもんね!」

    「いやいや、大したことないですよ。
    カメラと加工のおかげというか…。」

    「そんな、ご謙遜を…笑」

    「いや、本当ですよ。写真は突き詰めると深いですし。ここのプリンは固め好きだったら絶対気に入ると思います。」

    「なんてお店ですか?」

    「callってお店です。青山にある。」

    「しかも、お皿もかわいいー。」

    「アパレルがやってるお店なんで、販売してるお皿を使ってるみたいなんですよね。結構女子が多くて肩身狭かったですけど。もし良かったらお休みに行きませんか?予定合わせますので。」

    「え!良いんですか?ぜひ行ってみたいです。」

    「直近だといつ空いてますか?」

    「えっと、来週の日曜か、再来週の祝日なら空いてます。」

    「分かりました。ちょっと予定調べてまた連絡しますね。」

    「了解です!お待ちしてます。」

    「では、また!おやすみなさい。」

    「おやすみなさい!」


    数日後、彼から祝日でお願いしたいと連絡があり、13:00にカフェで待ち合わせることになった。

    そのあと、彼からの連絡はなく、
    私も仕事が忙しかったり、
    会った時に話すネタがなくなっても困るので、
    こちらから連絡することもなしに、
    約束の日近くなっていた。

    「こんばんは!
    明後日の待ち合わせの件なのですが、
    分かりやすいように先に店内に入って座っていていただけますか?
    あと、本お好きでしたよね?
    待ち合わせ場所のテーブルの角に文庫本を置いて目印にするのはどうかなと。
    すぐ分かると思うので。」

    「良いですね。何か特別感あって。そしたら、『チルドレン』を持っていきます。カバーなしで。」

    「分かりました。では、明後日宜しくお願いします。」

    「はい!楽しみにしてます。」




    「着きましたー!もう着いてますか?」

    「上が白いシャツで、下は紺のチェックのプリーツスカートです。」

    「すみませーん!」

    既読つかないな…


    待ち合わせ時間と場所って合ってるよね?
    何度も確認したし、もう30分経ったけど何の連絡もないわ。

    どうしたものか…。
    取り敢えず飲み物だけ頼もう。

    店員さんに分かるように手を挙げる。
    「ご注文でよろしいですか?」
    「はい。アイスのカフェラテをお願いします。」
    「かしこまりました。失礼致します。」
    ほぼメニューを見ずに注文したような感じになった。

    「すみません。注文お願いします。」

    声の方へ視線をやると、別のテーブルの女性が店員に声をかけている。

    「ん?…」 

    彼女のテーブルも、角に文庫本が置いてあった。

    偶然?だろうか。 
    見ている訳にもいかないので、横目で時折見つつ、彼女のテーブルの方に意識を集中する。

    頼んだ飲み物が運ばれてきたので、そのタイミングでまた彼女のテーブルをちらりと見てみると、本は置かれたままで、読む素振りはなさそうだった。

    まさか…。

    いや、いや、いや。

    んー。

    気になって仕方がない。
    また気付かれないように彼女の方を一瞬見てみると、スマホをずっといじっていた。
    頼んだのは飲み物だけのようだ。

    ここのカフェって、プリン目当ての人が来るらしいのに、飲み物だけって珍し過ぎる気がする…。飲み物の写真とかも撮ってないみたいだし。
    私もだけど。

    トイレに行く感じで、彼女のテーブルの脇を通り過ぎることにした。

    その瞬間に文庫本の装丁が目に入る。

    ああっ!重力ピエロ?!
    え?待って。
    なに?
    まさかと思うけど、ダブルブッキング?
    ドタキャン?
    嘘…そんなことある?

    歩いているのに、猛ダッシュしたかのような強い鼓動を感じた。
    一先ず、トイレに逃げ込む。
    人はいなかったので、洗面所で手を洗って落ち着くことにした。

    「しかも伊坂被りとか…。
    ほぼ確と言うやつなのでは。」
    少しだけ心の声が漏れた。

    しかし、どうしよう。
     声をかけるべきか否か…。
     もし、違ったら…。
    でもここで声をかけなかったら気になって、一生の謎になりそうな気がする。
    取り敢えず、もし違っていた時に何て言うか考えないと。

    ハンカチで手を拭きながら、冷静になってきているのを感じた。

     飲み物飲んだあとの帰り際に声をかけるか、
    それとも今戻る時に声をかけるか。

    今のやや冷静な状況で、もう行ってしまった方が良さそうな気がしてきた。
    時間が経てば経つほど上手く行かなさそうな気がする。
    しかし、違った時気まずいのは今声かけるパターンなんだよな。
    いや、でも自分の勘が「ほぼ確」だと言っている。賭ける…か。

    もし、間違ってたら私も伊坂幸太郎好きなんで気になっちゃってとか言って、私の本見せれば上手く切り抜けられそうな気がする。
    よし、それで行こう。

    ここまでの流れを考えて、
    彼女のテーブルへ向かった。

    意を決して声をかける。
    「あの…突然すみません。Forageってやられてたりします?」

    「え、、、、、、、あ…はい。やってますけど…。」
    やや困惑したようなリアクションの女性。 

    「あの…Backeさんってご存知じゃないですよね?」
    私は同時にForageの画面を見せた。

    「…え……。は、はい。今その人を待ってます。」

    私は手に持っていたチルドレンを彼女に見せる。

    「えっ?!もしかして、あなたも?ですか?」

    「おそらく…。」
    頷きながら答える。

    「来ないってことですかね?これ?」
    「おそらく…。」
    呆気に取られて言葉が出なくなってる私。

    「え?騙されたんですか?私たち?」
    彼女は興奮した様子で立ち上がった。

    「お、おそらく…、多分、そうです。」
    彼女が立ち上がったことにややびっくりしながら答える私。

    「すごい良い感じの人でしたよ?対応も丁寧でしたし。こんなことする人には見えなかったのに…。」
    開いたままのメッセージをスクロールして、遡る彼女。


    「私もそう思ってました。しかし、まさか伊坂幸太郎の本とは…。私最初のやり取りで好きな本の話したんですよ。その時お互いに伊坂幸太郎が好きって話になって。
    文庫本を持ってきてと言われたのでチルドレンにしますって伝えて。」

    そして、本の装丁を見る私。


    「私は映画の話してたところからです。
    重力ピエロが好きだって話して、映画から原作も読んだって伝えたんですよ。それで、この本を。」

    「偶然伊坂幸太郎だったのか、仕組まれてたのか分からないですけど、何か…って感じですね…。もし、完璧に演出されてたのだとしたら恐れ入りますよ。」

    「架空の映画や小説のネタ的な?ノンフィクションフィクションみたいな。自作自演映画監督ってどうですか?」


    「自作自演映画監督!名言すぎる!
    そこまで行けばもう面白いんで、怒る気にもならないですね。
    むしろ感心しかないと言うか。本当に映画でも小説でも作って欲しいですわ。」

    「本当にそうなったら面白すぎますよね。
    騙されたと思って、すごくイライラしてましたけど、見方を変えると面白いってとこに着地したんで、逆に良い時間を過ごせた気さえしてきました。しかも、同志にお会いできましたし。」


    「同志!あはは!そうですね。間違いなく同志です。同盟組みましょ。」


    「あ!あのっ!この後ってお時間空いてますか?
    実は彼と一緒に行こうと思ってナポレオンパイが美味しいお店予約してたんです。2人分取り置きしてもらってまして、食べられなくはないのですが、無理して2人分食べるのもなぁと。
    良ければ一緒にどうですか?」

    「本当ですか?私ナポレオンパイ大好物なんですよー。何という偶然。何という奇跡。最高です。」

    「あはは!そこまで言ってもらえると嬉しすぎます。あいつと行かなくて逆に良かった!私も最高です。」


    カフェに着くと、
    2階の席に案内された。
    古民家をリノベーションした木の温もりある、
    ナチュラルな店内。
    飲み物を注文してからほどなくして、ナポレオンパイが運ばれてきた。

    「このナポレオンパイ、チェリーなんですね!
    珍しいし、かわいいですね。苺のしか食べたことありませんでした。」

    「そうなんですよ、ここはアメリカンチェリーのナポレオンパイが有名で。コンポートが入ってるので、チェリーの味が凝縮されて、風味が立ってて美味しいです。」

    「確かに。クリームとパイの相性がとても良いですね。チェリーってチェリーパイでしか食べたことなかったんですけど、チェリーのナポレオンパイも良いですね!」


    私たちはこんな感じでナポレオンパイを十分に堪能した後、答え合わせをした。


    「そう言えば、思ったんですけど、手間がかかるアプリであればあるほど、高難易度のゲームを攻略したがるようなそう言う輩がいるとか言うのを前に見たような記憶がなくもなくて…
    高学歴の人に多いとか…。」

    「確かにインテリっぽかったですよね。
    サブカル系の話題とか豊富でしたし。」

    「そうなんですよー。私漫画が好きでゴールデンカムイの話とかしたんですけど、詳しくて。
    映画も観たって言ってました。」

    「あー、映画好きでしたよね。
    私も映画の話したなぁ。」

    「ちょっと調べてみても良いですか?」

    「どうぞ、どうぞ。」

    彼女は文字を打ち込み始め、その直後にこう言った。

    「やっぱり攻略タイプみたいな輩が一定層いるみたいですね。そんな多くはないようですけど。
    でも、このアプリってかなり人絞られますよね?それなのにこんな奴も紛れ込んでくるんですか?は?どんだけ?
    あー、冷静になったらまた腹立ってきた!」

    「確かに!腹立ちますねー。あはは。」

    「って笑ってるじゃないですか。あはは。」

    「馬鹿馬鹿しいけど、面白かったとも言えますから。まあ、久しぶりに話が合う人には会えたんで。
    損でもなかった気がしますね。」

    「大人ですねー。でも確かに話は弾んだなー。」

    「まあ、向こうからすればお遊びだったかもしれないですけど、話の引き出しが多いのは確かでしたし、話は上手かったなと。
    意外と素だったのかもですね。会話の内容的に。
    もし、あれも完全に作られたものだったら天才かもしれない!」

    「それは、怖いですね。策士すぎる。
    犯罪とかそう言うのじゃなかったのが幸いでしたよね。ん?犯罪まではいかないですよね?これ。」

    「そうですね。結婚詐欺やロマンス詐欺でもないし、お金を騙し取られてもいないし、
    個人情報も取られてないんで大丈夫じゃないですか?」

    「それはなかったです。単に暇を潰すための相手をさせられたって感じ…。いやー、究極の暇人!もっと別のことに労力を使っていただけたら…。あんなに出来る人なのになぁ。」

    「それは間違い無いですよね、力の使い所間違いまくってますし、コスパは全く良いとは思えない。何かバカ!笑!」

    「バカっ!」

    「あの…気になってることがあって…最後にそれだけ聞いても良いですか?
    普段着る服はトラッド系だと言ってたんですけど、なんて言ってました?
    服の話とか出ませんでしたか?」

    「確か、Fineboys系って言ってましたよ。
    Fineboysってトラッド?も少しはあるかもですけど、基本はトラッドじゃないですよね?
    ここの文です、ここ。」

    彼女がメッセージの返信文を見せてくれた。
    確かにそう書いてある。

    「んー、微妙なライン。また策士。笑」

    「またも策士ですね。」

    「取り敢えず、裏が取れたようで取れなかったようでもありますけど、そう言う奴だったってことですよね。あ、メッセージ見れなくなった。」

    「退会しましたね、奴は…。」

    「最後意外と溜めましたね、私たちが答え合わせするところまで想定内?
    エンドロールってやつとか?」

    「ルルルルルルルルルル〜♪」
    音楽を口ずさむ。

    「ニューシネマパラダイスじゃないですか?」

    「え!わかります?
    すべる覚悟で言ったんですけど。」

    「分かりますよ!名曲中の名曲じゃないですか、
    しかも、実は騙される話だし。
    あなたこそ天才だわ。
    あ、そう言えばお名前って何で言うんですか?
    聞いてなかったですよね?
    私はオガワユヅキです。Forageでは柚でやってます。ポン酢に入ってる柚子。」


    「詳しいですねー。ポン酢の柚さん笑。
    私はアイザワカンナです。ForageではAKです。
    好きなバンドのメンバーっぽくしてます。
    あ、良ければフォローして良いですか?。」

    「バンドメンバーぽくするの分かります。
    私もフォローしますね。」

    「あ、ありがとうございます。」

    「ふと思ったんですけど、見方を変えてみると、自作自演映画監督が私たちを引き合わせたとも言えますよね。Forageの中から相性良さそうな人を見定めて引き合わせてるある種の運営側の工作員みたいな。そう言う視点で見たら実はめちゃめちゃいい奴だったんじゃないか説。」


    「えー!それだったら最高ですね。で、実はそんな中身もかっこいいやつ?」

    「何か悪そうな人ではなかった気がするんですよね、私的には。」

    「柚さん人を見る目ありそうだから、当たってそうな気がします。」

    「そうですか?あくまで妄想みたいなものですけど。事実は小説より奇なりですから。」

    「さっきも私に気付いたんだからすごい洞察力だと思いましたよ。私は焦って周りを確認するどころではなかったですもん。柚さんスパイですね。」

    「スパイ?探偵とかじゃなくて笑?
    それこそ工作員じゃないですか!」

    2人で吹き出す。

    それから私たちは、Forageでちょこちょこ
    たわいない話をしたりして、時折ご飯に行ったり、
    カフェに行ったりする仲になった。

    「柚さん。有休って結構余ってます?」

    「もうバリバリ余ってる。周り私が休まないと思ってるからね。休ませずに働かせてもいい存在なのよ。」

    「それは、柚さんに頼りすぎですね。会社って真面目な人こき使いますよね。善意に甘えて。皆が困らないように気を遣ってやってるんだっての!」

    「本当そうなのよ。分かってくれて嬉しいよ〜。
    同じ会社の人に言っても他人事だし。だから、誰にも愚痴れない。と言うか、愚痴っても無意味。」

    「ご提案がありますっ!」

    「え?どうした?どうした?」

    「旅行に行きませんか?有休取って。」

    「旅行?どこに?」

    「リトルフォレストみたいな森に行きたいなーと。」

    「リトルフォレストの森?小森?え!すっごい行きたい。マイナスイオン浴びたい。夏じゃないけど。」

    「リトルフォレストみたいな森なんですけど、リトルフォレストの森でも良いですよ。泊まるところあるのかな?調べてみないと。」

    「え!いつ行く?いつ行く?」

    「私は有休は結構柔軟に取れるんで、柚さん次第じゃないですか?」

    「そうなの?じゃあ私も探り入れてみる。
    今人手不足だけど、強行できそうか。」

    「最低土日と併せてあと有休2日取れれば何とかなるんじゃないですか?」

    「そうだね。でももっとゆっくりしたい。
    ここずっとまともに有休取ってないし。交渉してみるよ!と言うか権利だし!」

    「じゃあ、ある程度目星が立ったら教えてください。それに合わせて宿泊地の空きとか見るんで。
    もしくは、どうしても泊まりたいところあれば、宿の空きに応じて休み取れると良いんですけど。」

    「あー、そうだよね。並行して宿も探し始める!
    カンナちゃんも良いとこあったら教えて!」

    「りょーかいです。じゃあ宿メインで行く場所決める感じでも良いですか?もちろん小森でもありですし。と言うか、よく考えてみたら小森って地名は実在しなかったですよね。確か岩手のどこかがロケ地だった気がします。」


    「え?実在しないの?知らなかった。あの場所小森って地名だと思ってた。だからリトルフォレストなんだと。リトルフォレストがあって小森にしたのかな。いや逆かな?どっちだろ。
    でも岩手も良いねー。岩手好きなんだー。
    冷麺とかジャージャー麺とか。お寿司も美味しいし。」

    「全部山にないやつじゃないですか笑!」

    「確かに!帰り際駅とかで食べられたらで良いよ。
    メインはマイナスイオンの森で。」

    「食べる気満々ですね。そうなると休みしっかり取らなきゃですね。」

    「頑張るよー。そう言えば思い出したんだけど、私リフレッシュ休暇5日とかあったんだよね。
    去年取れなくて繰り越したの忘れてた。
    それ使える気がする。」


    「そんな良いのあるなら絶対使いましょう。
    使わなかったらもったいなさすぎます。」

    「早速交渉するよ!」


    次の日出社してそうそう、上司にリフレッシュ休暇を延長してからまだ取れてないことを伝えると、それは会社的にまずいと言ったリアクションで、早く取るようにと言われた。
    早速いつ休むかを聞かれたけれど、まだ予定が分からないことを告げ、目処が立ち次第すぐ伝えると言うことで一旦話はまとまった。


    帰宅後早速カンナちゃんにメッセージをする。
    「上司に話したら、すぐ取れって。」
    「本当ですか?良かったですね!
    しかも、意外とあっさりでしたね…」

    「ホント拍子抜けした…。今まで人に迷惑かけないようにって思ってたけど、いざそのフィルター外したらあっさり。」

    「そんなもんですよね。
    私なんてお気楽バイトですけど、パートのマダムたちの旦那さんの愚痴を聞いてあげてるからか、可愛がられてますよ。笑。」

    「あー、それは可愛がられそう。でもすごいね、私ならストレス溜まりそう。」

    「あ、うちの職場にいるパートさんたちの愚痴って面白いのが多いんですよね。聞いてる分には。ポンコツ亭主の話みたいな感じで。」

    「ポンコツ亭主の話?」

    「そうです。例えば、レストラン行って2階の席だったみたいなんですけど、帰り際1階の会計のところにいたら、突然ドスン!
    みたいに背後からすごい音鳴って、振り返ったら旦那さんが階段から盛大に落ちてたとか。」

    「えーーーー!!!あはははは!
    マジで?それは人生で一度も見たことない!
    おっちょこちょいにも程があるでしょ。」


    「しかも、結婚記念日だったからめちゃくちゃ恥ずかしかったらしいですよ。苗字知られてるし、フォーマルな格好だったみたいですし。」

    「スーツで落ちるとかすごすぎるわ。
    そう言う面白ネタならいくらでも聞きたい。」

    「そうなんですよ。ホント面白ネタばかりで。
    そのマダムはしっかり者なんですよね。
    マダムに拾われてなかったら旦那さん生き延びられてないと思います。」

    「あはは!まちがいない!面白すぎ!」

    「あ、そうだ。今さっき候補の宿を見てまして、どうかなーってのがいくつかあって。柚さん良いのありましたか?」

    「一応三つほど。一つ以外は全部岩手じゃないんだけど。」

    「あ、大丈夫ですよ。
    宿重視ってパターンもありますし。
    URL送ってもらっても良いですか?」

    「オケー。あ、カンナちゃんのも教えて。」

    「🫡」

    「カンナちゃんの送ってくれた自家製パンと焼き菓子が売りの古民家良さそうだね。レビューはまだないからちょっとそこは心配だけど。しかも岩手だし。」

    「そこ良さそうですか?
    SNSあるみたいなんで見てみたら、どうやら都内の有名カフェで働いてた人みたいなんですよね。そこのお店何度か行ったことあるんですけど、美味しいんですよ。だから良さそうかなと。宿自体も雰囲気があって良さそうですし。」

    「そうなの?それは良さそう。SNSなんて調べれば出てくる?」


    「Fukinoyadoですね。蕗の宿。」

     タブレットの方で検索する結月。

    「あー出てきた。ホント雰囲気ある古民家だね。
    日本家屋って感じだけど、中は和モダンって感じでおしゃれ。
    写真も綺麗だし、書いてある文章の言葉選びが素敵だわ。」

    「本当、文才ありますよね。」


    漆黒の闇の中に浮かぶ月や夜の森の写真がいくつか載せられていて、その次の投稿には、
    こう書いてあった。

    -幾つもの夜を越えて、朝になれば-

    「すごくいい、好きな感じ。
    なんか感性が近い気がする。
    ここがいい、もうここにしよ。」

    「実は私も何か直感でここかなって思ってたんです。」

    「じゃあ決まりだ。」


    当日は新幹線と路線バス、バスの終着駅には宿のオーナーが迎えに来てくれることになっていた。

    バス停で待っていると、若草色の丸っこいワゴン車が現れた。
    開いた窓から顔を出した女性。
    黒髪のワンレンを後ろで一本の三つ編みにして、ナチュラルなリネンのシャツに白いエプロン姿。

    「お待たせしましたー!藍沢さん御一行?蕗の宿のユーです。よろしく。」

    「そうです。御一行です!はじめまして!よろしくお願いします。」

    「よろしくお願いします!」
    結月も続いて挨拶する。

    「さあ、乗って、乗って。ちよっと扉固いかも。思い切って開けてもらえば。」後部座席を指さすユーさん。

    甘奈が思っきりの力でドアをスライドすると、勢いに身体が持っていかれながらも扉が開いた。

    「柚さんどうぞ。」
    「あ、ごめんね。ありがとう。」

     結月に続いて乗り込む甘奈。
    浮遊感のある音楽のかかる車内。

    「遠かったでしょ?疲れてない?」

    「若干。電車とバスでやや寝たので。柚さん大丈夫ですか?」

    「大丈夫、大丈夫。仕事の時に比べたら、余裕余裕。」

    「それなら良かったです。昨日まで普通に仕事で今日ですもんね。」 

    「1日でも多くこの旅行に使いたかったから。それでも2日余らせられたし。」

    「そっか、公休含めて7日ですもんね。」

    「休み取るの大変なの?」とユーさん。
    「そうなんです。社畜なんで。」
    「社畜?それはきついわ。」
    「柚さんの愚痴聞いてあげてくださいよ、ユーさん。」
    「えー、悪いよ。」

    「いいよ。いいよ。いくらでも聞くよ。取り敢えず帰ったらお茶でもしようか。カヌレ焼いてあるから。」

    「カヌレ!めちゃくちゃ好きです!」
    甘奈が興奮気味に答える。
    「カンナちゃんカヌレ好きなんだ?私もなのよ。また好み同じだねー。」

    「2人仲いいんだね。友達になって長いの?」

    「いや、2ヶ月前に知り合ったばかりで。」

    「すごい長いのかと思った!2ヶ月前何で出会ったの?」

    「アプリです。」甘奈が答える。
    「アプリ?今どきだ。」とユーさん。
    「それが、かなり特殊な状況で、ね、柚さん?」
    苦笑いのような表情で、結月と顔を見合わせる甘奈。
    「ははは、そうなんですよ。ダブルブッキングされたんです。会うはずの相手に。」
    甘奈も苦笑いしながら説明する。

    「ダブルブッキング?何で?来なかったのその相手?」

    「そうなんです。来なかったんです。カフェで。文庫本をテーブルに置いておくって言う目印だったんですけど、同じようにしてる彼女に気付いて。声をかけたらそうだったんです。」

    「柚さんが声かけてくれなかったら、私ずっと待ち続けた可能性あったんで本当助かりました。ナポレオンパイも無駄にならずに済んで。」

    「ナポレオンパイいいね。確か上原あたりに可愛いお店あったよね?」 

    「ご存じですか?さすがですね、そこです。」

    「長らくその業界で働いてたからね。あそこは有名だし。いつか食べにいきたいとは思ってたけど。タイミングなかったなぁ。行きたかったー。」

    そんなことを話している間に、宿に着いた。
    荷物を降ろして、中に入る。

    SNSで見た通りの古民家。
    2階に私たちの泊まる部屋があり、ベッドが2つ並んでいる。

    私たちは部屋に荷物を運んでから、
    食堂に降りて行った。
    フローリングの洋室に、
    木を基調にした温かみのある場所だ。
    隣は畳の部屋になっていてソファーがある。

    食堂のテーブルに木の台に乗ったカヌレと、ややグレー味がった白のティーポットが用意してある。
    取り皿も同じ雰囲気でクラシカルだ。

    「食べて、食べて。」
    ユーさんに促され、席について食べ始める。

    ラム酒がしっかりきいていてもっちりとした中の生地がとても美味しかった。
    たわいない話をしながら時間が過ぎていく。

    「柚さんって、空気読めすぎる人でしょ?」

    「え?なんで分かるんですか」

    「食堂の椅子綺麗に戻してたから。」

    「みんなあんなにきっちり椅子戻さないもの。」

    「あー、昔飲食店でバイトしてた時、椅子戻すのホントめんどくさかったんで。一人一人が戻せば働く人の負担を減らせるのになって。それから、きっちり戻す派になりました。前から戻してはいたんですけど。」 

    「椅子戻すか、戻さないかで仕事できるか
    できないかを見極めてる。実は。笑。」

    「えっ!そうなんですか!」

    「まあ、ちょっとした人間観察ってだけだけどね。でも結構当たるよー。2人とも椅子戻してたから、気配りできるタイプよ。柚ちゃんはさらにね。」

    「ほら、柚さんやっぱり!洞察力すごいから!
    そして、ユーさんの洞察力もすごい!」

    「私はそれなりな歳だしね。女なら見てる人は見てると思うよ。
    やっぱり相手のことを考えられる人でありたいなと思うのよ。
    何気ないことも、当たり前に思わないことが必要な気がしてて。
    そこにあるものは、誰かのお陰で成り立ってるってことを忘れちゃいけないんだよね。気付かないって罪、罪。私とすると。」

    気付いたら涙が出ていた。

    私は自分の中にいつのまにか存在していた美学に従って生きていて、
    それは、他人に迷惑をかけないとか、人を気遣うとかそういったことが軸になっていて、
    でも、気付かれることはなくて、
    こうやって、気付いてもらえることがあるとは思っていなかったから。

    「柚さん…。」
    もらい泣きしかかってる甘奈。
    声を殺して泣く結月。

    とめどない涙を左右の手の甲で拭く。
    甘奈はタオルハンカチを無言で差し出した。

    「そうだ。紅茶でも淹れようか。コーヒーやラテも淹れられるよ?ほら、座って座って。」
    何事もないかのように、ユーさんは言った。

    柚さんに付き添い
    リビング側のソファーに座る。

    そして、ユーさんはちょっとしんみりする音楽をかけてくれた。
    聴いたことのない、レトロなピアノの曲。

    柚さんはまだ小さな嗚咽を繰り返していたけれど、それは徐々に治まっていき、
    私はユーさんの淹れた紅茶を、
    柚さんはちゃっかりカフェラテを選んで飲んだ。
    どうやら、落ち着いたらしかった。


    昨晩のことは幻だったかのように、柚さんは元気になっていた。
    いつもは、午後まで寝ていると言う彼女が私が起きた時にはすでに起きていたからだ。
    私が寝ているので、ずっとベッドの中で本を読んでいたらしい。

    10時を過ぎていた。
    「朝食は?」
    「あ、大丈夫。ユーさんにメッセージしたら、寝かせてあげてって。ブランチでもランチでも好きな時間で良いよって言われた。」

    「ありがたやー。神ですね。柚さんも。」

    「私は単に朝すぐご飯食べられないし。ほとんど朝食べないから、全く問題ないよ。
    昨日は何か迷惑かけてしまってごめんね。」

    「大丈夫です!全然気にしないでください。
    むしろ良かったですよ。泣くって最強のデトックスですから。私は映画観て毎回泣いてますし。柚さん泣かないでしょ?あの泣き方見たら分かります。私なんてお風呂とかだと、うわーんって感じで泣きますよ。」

    「お風呂だとうわーんって泣いても大丈夫か。気が付かなかった。音楽聴いて半泣きとかはあるんだけどね。人前では絶対泣かない。と言うか泣けなくなってたいつの間にか。やっぱりそれも、迷惑かかったらって言うのがストッパーになってるんだけど。」

    「お風呂でうわーんって泣いてみてください。
    お風呂って1日の色々なものを洗い流すと思うと良いみたいですよ。そう言う時間なんだそうです。あと、映画とかアニメも良いので是非。
    もし良ければおすすめ教えます。」

    「本当?ありがとう。今入ってるサブスクで観られるやつ教えてもらえると嬉しい。」

    「じゃああとで調べておきますね。」

    「そろそろごはん行こうか?着替えてから行く?私休みの日パジャマ族ではあるから、このまま行けるけど。さっと歯磨きだけさせて貰えば。」

    「あ、行けますよ。これザ・パジャマって感じじゃないんで。」

    「私は、ザ・パジャマだけどね。」

    「柚さんのは洒落たパジャマだから大丈夫ですよ。
    ブルーのピンストライプパジャマとかシンプルだしかわいいし。有名ブランドぽいですもんね。」

    「そうかな?いちお、北欧のメーカー。」

    「柚さんぽくて良いです。じゃあ軽く歯磨いて、顔洗って、髪整えて行きますか。」

    「そうだね。行こう。」

    食堂へ降りて行くと、ユーさんが焼いたパンが並べられていた。

    「今日はベーグルだよ。味は3種類。
    プレーンとチーズと、チョコ。好きなのを好きなだけどうぞ。
    あと、目玉焼きとベーコンとソーセージ、サラダとスープ。
    おかずを入れてサンドにもできるよ?
    チョコはクリームチーズ挟むと美味しいの。」 

    白身の周りがこんがりと焼けて、オレンジ色の濃い黄身がぷっくりとしている目玉焼きと、程よくソテーされたベーコンとソーセージ、
    新鮮なレタスの上に紫玉ねぎのスライスとアボカド、くるみを砕いたものが乗っているのは、白地で縁に赤みがかったオレンジのラインが入ったプレート。

    スタッキングできるオレンジ色のマグカップに入ったスープはミキサーにかけられ乳化されており、見た目では、緑っぽいことだけしか分からなかった。
    飲んでみてのお楽しみといったところか。

    「ベーグル全部1つずつ食べてもいいですか?」
    「お、いいよ。たくさん食べて。食べ切れなければ部屋に持っていけば良いし。」

    「私も柚子さんみたいに全種食べてみたいんですけど、お腹いっぱいになりそうで。チーズとチョコにしようかと。」

    「間違いなく食べられないけど、全部食べてみたいから、あとで食べるようにもらってこうかと思ってた。笑」
    「あ、そのパターンですか?なんだそれアリだったんだー。私もそうしよう。」
    「いいよー、いくらでも持ってって。もしくは半分ずつ切ることもできるし。」
    「ハーフ良いですね。私ハーフにしてもらおうかなチーズの方。チョコベーグル好きなんで。切ってもらっていいですか?」
    「了解。残り半分はどうする?持ってく?」
    「あ、はい。お願いします。」 
    「柚ちゃんはどうする?」
    「んーと、じゃあ全部半分にしてもらって良いですか?チョコはクリームチーズを挟みたいです。」
    「ユーさん、私もクリームチーズお願いします。」
    「はいよ。じゃあテーブル座ってて。持っていくから。」
    「ありがとうございます。」微妙にシンクロする2人。
    「シンクロしたねー。」3人で微妙にシンクロ。
    3人とも爆笑。
    「ハモりすぎだね笑」とユーさん。
    ユーさんの作ったご飯はどれも完璧な朝食って感じだった。
    SNSでよくやってる文化人の伝説の朝食みたいな。
    伝説の朝食ごっこをしてみたい。
    そう言ったら2人は付き合ってくれるだろうか。
    そんなことを考えながら食べていた。
    「ユーさんのご飯完璧ですね!見た目も味も手間暇も完璧!」
    「え!そこまで行ってくれる?嬉しいわ。お店やって時とかお客さんから感想言われることってないからねー。新鮮。」
    「確かにそうですよね。実は私ユーさんの働いてたお店何回か行ったことあるんですよ。このスープの感じとかそのままで。何食べても美味しかったから。」
     「え!そうなの?じゃあ会ってたかも知れないね。まあ、厨房入ってるとお客さんと話すこと殆どないけど。」
    「そうですよね。いつも忙しそうですしお店。」  
    「そうなんだよね、今みたいのが私には合ってるかも。忙しく働くのはもう良いかなって思って。こうやって感想聞ける方がやり甲斐あるしね。」

    「実は、かんなちゃんが、そのお店に何度か行ったことがあって、美味しかったからってのが、この宿決めるきっけになったんですよ。」
    「え!そうなの?そうだったんだ。あのお店きっかけかー。働いてて良かったなぁ。」
    「私が候補で出したのを柚さんが気に入ってそこから、行ったことがあるって話したんです。SNSも見て良さそうだねってなって。」 
    「そうなんですよ、SNSの雰囲気も良かったですし、文章の言葉選びが好きで。文章ってその人の感性が出る気がするんですよね。言い回しとか、癖とか。」
    「それはまた嬉しいねぇ。そう言う細かいところに気づいてもらえるのが一番嬉しいかも。大袈裟だけど、自己肯定感爆上がりした!」
    「あはは!ユーさんが爆上がりとか言うの意外で最高!」
    「私結構普段そう言う喋り口調だよ。今はお客様の前でやや猫を…」
    「脱げてますね…」
    「脱げてるね。」
    結月と甘奈は2人顔を見合わせる。
    「被ってたのが、脱げてた…。」とユーさんが目をこするようにして笑う。

    そう言えば、スープの中に何が入っていたのか聞き忘れた。
    少しほろ苦いような、甘みがあって、少しだけ青物の匂いがした。

    次の日は、ユーさんの案内で沢の方に行ってみることにした。
    天然のクレソンや山菜などが採れるらしい。
    ご希望のマイナスイオン出まくりだよとのことだった。

    「おはようございます。」
    「おはよー、2人ともよく眠れた?寒くなかった?」
    「大丈夫でした。羽布団ちょうど良いです。」

    「それなら良かった。まだ朝晩冷えるから。」
    「静かでほんとよく眠れました。普段ちょっとした音で起きちゃうタイプなんですけど。静寂って楽園ですね。」
    「一人だと静かすぎて、闇に飲み込まれたんじゃないかって錯覚するよ。ブラックホールの中ってこんな何かなって。」
    「音も光も、闇も、全部が飲み飲まれて、自分の声さえ響かないみたいな。何にも見えない、何もないような世界ですか。」
    「そう。そんな感じ。柚ちゃんよく分かるね。」
    「昨日お風呂から出たあと、少しだけ外に出てみたんです。最初は木の隙間から月を見ていたんですけど、月が流れて見えなくなって。その時何の音もしないような錯覚に陥ったと言うか。風も止んでいて。」

    「そうそう。1人でキッチンを片付け終わった後とかに一番感じるよ。目を閉じたくなっちゃうんだけどね。だから音楽かけたり。細やかな音で。」

    「良いですね、余計な音がない世界って。」

    「毎日だとありがたみないけどね。さ、行こっか。
    2人とももう行ける?」

    「大丈夫です。」と言う甘奈。
    「はい。」と返事する結月。

    甘奈の首にはカメラがぶらさがっている。
    写真を撮る気まんまんらしい。

    宿から歩いてすぐの沢を登っていく。
    積もった枯れ葉の間からアクセントカラーのような青々とした草がたくさん生えている。
    沢は思ったより流れが早く、透明感のあった水は、勢いのあるところでは白っぽく泡立って見えた。
    景色に混ざり込むような水の流れる音と、
    水光がもたらす、時折の眩しさに、そのまま微睡みたくなるような心地よさを感じた。

    綺麗な小川が嬉しいようで、甘奈は私たちより先に進んで、写真を撮っている。

    「柚ちゃんは、普段結構忙しいの?仕事とか。」
    「そうなんですよ。有休とか滅多に取れなくて、こき使われてます。社畜です。」

    「そっか、無理はせずにね。あと、自己犠牲はほどほどに。自分の中で譲れないものがあるとは思うけど、変化がなくなった時は止め時だよ。奉仕の精神って美徳だと思うけど、世の中の人はその美徳に気づかない人が圧倒的に多いから。やった分どころか、当たり前になってることには何の感謝もなくなるものなのよ。そうなってないか、よく考えてみて。」

    「……………………。」
    ちょっと言葉が出なくなった。いつもだったらすぐに上手いことが言えるのに。
    胸元に何か熱いものが込み上げてきて苦しくなった。唾を飲み込んで、
    「はい。」とだけ答えた。声が震えそうで、これ以上何も言えなかった。
    そこから、深く深呼吸して、少し無言で歩いていると、さっきの熱いものは治っていた。
    「さっきはありがとうございました。もう少し肩の荷を下さないとなと思います。」

    「うん。自分のペースでね。」

    「はい。」

    甘奈が立ち止まってこちらを気にして、私たちを待っているのが見えたので、2人とも話すのをやめて急いだ。

    「ごめんごめん。話してたら遅れちゃった。」  
     「いや、全然大丈夫ですよ。このまま川なりに真っすぐなんですよね?ユーさん?私写真撮るので多分自由に動き回ると思いますけど、良いですか?」
    「良いよ。良いよ。」
    「ありがとうございます。では!」
    と言いながら甘奈は写真をせっせと撮っていた。私もそんな甘奈をこっそり動画に撮ったりして。

    少ししてからユーさんが言った。
    「もし何か心配なこととかあったらいつでも言って。私も同じように悩んできたし、乗り越えたりした部分もあるけど、そうじゃない部分もまだたくさん持ってるから。何も変わらないよ。年取っても。」

    「ありがとうございます。」

    そこからは黙々と歩いて、いつの間にか甘奈に追いついていた。

    「よっ!合流ー!」
    足元の何かをじっと見ていた、
    甘奈の背中を軽く叩く。

    「お、早かったですね!」

    「カンナちゃんが撮ってる間に距離詰めた。何見てるの?」

    「これですよ、これ」
    そこには完全にまんまるの蕗のとうがあった。

    「あ、蕗のとうだ!しかもめっちゃまんまる!」
    しゃがんでまじまじと見る。

    「そうなんですよ、こんなまんまるの初めて見たなって。」

    「あ、ここ、ここら辺ね。足元蕗のとうだらけでしょ。花が咲いてないまんまるのが取り時だよ。
    で、川っぺりにまとまってる葉っぱがクレソン。こっちの木はタラ。タラの芽のタラね。」

    「ユーさんこれどうですか?」
    さっきの蕗のとうを指差す。

    「理想的。そう言うやつ見つけたら収穫して。」

    「了解でーす。」
    2人でハモる。

    「なんかさこないだ帰り道満月だったんだけど、
    その時、コンビニで買ったプチシュー我慢できなくて食べちゃったのね、蕗のとう見たら満月とプチシュー思い出した。」
    結月が思い出しながら言う。

    「確かにプチシューぽくもありますね。おいしそ。」と甘奈が頷く。

    「芽キャベツにも似てない?そう言えば今日のスープ気付いた?芽キャベツと蕗のとうのスープだったの?」

    「ちょっとほろ苦かったのは蕗のとうだったんですね。何かなーって思ってました。」

    「そうなの。そうそう、シューってキャベツって意味だよ。そうなると芽キャベツってある意味プチシューじゃない?」
    嬉しそうに言うユーさん。

    「言われてみれば!全く気付いてませんでした!」

    「じゃあ今朝のスープは月のスープかな?
    芽キャベツと蕗のとうは月ってことで。」

    「若草色の月ですね。」と結月。

    「今調べたら緑色の月って本当にあるらしいですよ。大気のチリとかで人間には緑っぽく見えるみたいで。」スマホの画面を見ながら甘奈がそう言った。

    「えー!すごい。月のスープって名前完璧だ。ユーさんセンスの塊。」

    「柚ちゃんがつけたようなもんだよ。」

    「え、そうですか?」

    「柚ちゃんのエピソードなかったら思いつかなかったし。」

    「それは、嬉しいなぁ。」

    「そうだ、月のスープを春のスペシャリテにするのはどうですか?」甘奈が閃いたように言う。

    「確かに良いかもしれないね。季節ごとのスープを焼きたてのパンと一緒に。」

    「それ最高!絶対人気出そう。女子がみんな好きなやつ!」

    「写真映えもしそうですしね。そうだ、今朝のスープも撮りましたよ。」と甘奈がカメラをこっちに向けた。

    「いいね、いいね。SNSに使わせてもらおうかな。」

    「え?良いんですか?」

    「もちろんだよ、むしろありがたいよ。他にも載せられそうなのあったらお願いしたいな。」

    「めっちゃありますんで、どんどん使ってください。」

    「ありがと。あとで送ってもらおうかな。」

    「じゃあ宿のアドレスあてに後ほど送ります。」

    宿に戻るとユーさんは収穫したものを処理し始めた。今日の夕飯になるものもあるのだろうか。

    私たちは夕食までそれぞれ好きなことをすることにした。

    窓側に設置されたデスクで、早速撮った写真を確認してスマホに転送する甘奈。

    ちょっと疲れたのかベットに寝転がりながら本を読む結月。

    気付けば夕食の時間になっていたので、食堂へ向かう。
    メインはもうすぐ焼けるよ。
    先に前菜とサラダ食べていて。
    メインにはご飯かパンかキッシュか。
    どれにする?
    ちなみに、メインは豚肉のロースト、バルサミコソースね。

    「私はご飯で。」と甘奈
    「キッシュお願いします。」と結月。

    「りょうかーい。」

    さっき沢で取ったクレソンがサラダになっていた。真ん中に温泉卵が乗っていて、上に削ったチーズ。粗挽きの黒胡椒とアンチョビがアクセント。

    タラの芽はフリットで。
    天ぷらしか食べたことがなかったので初めてだ。
    粒マスタードとマヨネーズが添えられている。

    メインの豚肉は厚切りで適度な脂身がある。
    バルサミコソースが甘酸っぱくて美味しい。

    キッシュの中身はほうれん草とベーコンだった。
    誰もが好きな定番の味だ。

    食べ終わると、ユーさんがデザートに苺を出してくれた。

    最初紅茶を飲もうとしていたけど、スパークリングワインがあると言うので、プリティーウーマンごっこをすることになった。
    シャンパン代わりに。
    私はお酒の味が苦手なのでジンジャエールで。

    飲み物の中に苺を一粒落とし入れたグラスを片手に、ユーさんを交えて会話が弾む。

    「ユーさんって何をきっかけにこの宿を始めたんですか?」

    「えっとね、母親が亡くなったんだよね。父親は前に亡くなってるんだけど。母親は90近かったからね。こっちに戻ってこようとは思ってたんだけど、仕事もあったし、離婚したりもして、タイミングを逃してたら、死んじゃった。肺炎だったみたい。こんな山奥だから帰るのもなかなか大変で、ここ10年くらいほとんど会えてなかった。電話はしてたんだけどね。元気だから大丈夫だっていつも言ってたなぁ。」

    「そうだったんですね。仕事だけでなく家庭のことまであったら、余裕がないですよね。」

    「あの時はそうだったと思う。旦那とケンカばかりしてる頃だったから。気付けば全く話が噛み合わない相手になってて、顔見るだけでイライラして。」

    「話が噛み合わなくなったのって、それまでユーさんが合わせていたから?」

    「そうだったのかもしれない。今思えば相手のレベルとか相手の好む話題に合わせて話していた気がする。」

    「無意識に居心地のいい環境を作ろうとしてしまうのかもですね。
    相手が自分に合わせてくれなければ、自分が相手に合わせて、相手にとって居心地のよい存在にいつの間にかなっていて。私も今そんな感じかもしれません。」

    「仕事?大変そうだものね。やっぱり仕事を円滑に回すためには気付ける人って必ず犠牲になるし。」

    「そうなんです。電車で妊婦さんがいても気付かない人と同じなんです。気付く人は、気付いてしまうから譲る。気付かない人は自分の都合の良いようにしか世界を見れていないと思うんです。それさえにも気付いていない。誰かがやってくれているから世界が回ってる。その視点がないと人と上手くやっていくって無理だと思うんですよね。」

    「本当にそう思う。他者視点ってやつだよね。自分の言動によって他者がどう感じ、どう影響を受けるか。もちろん完璧に知ることは出来ないけど、想像することはできる。」

    「そう思います。あと、その想像の範囲ですよね。勝手な思い込みが視野を狭めて大多数の意見に当てはめて考えてしまったり。絶対こう思うってのは当てはまらないなって。こちらが深く考えてやったことを、相手が上部だけでしか見てない場合、否定されることも少なくないですし。」

    「確かにね、そこまで想像できる人はほとんどいないよね。だから会話しないとならないのに。
    私も会話が足りなかったし、お互い決めつけていたのかもしれない。」

    「正解は分からないですよね。会話しても上手くいかない場合もありますし。
    フラットに考えようとする思考がなければ、会話しても難しいと思うんですよ。」

    「それもそうだね。その状況だと言葉もねじ曲げられてしまうし。」

    「ユーさんはこうやってちゃんと話を聞いてくれてるじゃないですか、だから会話できる人だし、相手が逃げてたんじゃないかと思いますけどね。目の前のことから。」

    「そうなのかな。逃げてたのかな。そうだね、そう言う人だった気がする。
    私がそれを見ないようにしてたかもしれない。」


    「人間の脳は馬鹿だから、好きになって3〜4年はまともな判断ができないらしいです。
    結構な人がその間に結婚しちゃうから、あとは運みたいなものですよね。」

    「ホント、好きだからって幸せになれる気がしない相手と結婚しちゃうなんてね。
    本当は自分に合う人がどこかにいるだろうと、頭の片隅で思ってたのに。
    でも、自分の人生の中の登場人物って自ずと決まっている気がするんだよね。
    私の人生のその期間は彼しか巡り会わなかったから。そう言う運命だったんだと思う。」

    「なんか、今回の出会いもそんな気がします。
    アプリであの男性と関わらなかったら、カンナちゃんにもユーさんにも出会えなかったと思うので。いや、間違いなく出会うことはなかった人たちで。自分の好きなこととか、自然な気持ちとか理解してくれて、気負わず話せるってもうずっとなかったので。」

    「私も柚さんに出会ったのは大きかった。
    やっぱり趣味の話なんかは、興味ない人には話せないし、興味あっても知ってる知識が違ったりするとまた難しいし。自然体で何も考えずに話せるって貴重だなぁと。」
    お酒に弱いのか静かになっていた甘奈が、頬杖をつきながら顔を赤らめてとろんとした顔で話す。

    「気の合う友達に出逢うだけでもドラマみたいなストーリーが必要なのに、恋愛なんてもっとハードル高くなっちゃってて。
    そんなことばかり考えて、常に何か足りてないような、満たされないような感じがあるのはなんなんでしょうね?この言語化できない気持ちをそろそろ咀嚼しないとなって。」

    「多分、人生で手に入れるものの基準があたかも決まっているような世界だからなんじゃないかな?
    例えば、社会への貢献、十分な収入、趣味、気の合う友達や恋人がいるか、
    周りの人が皆健康で順風満帆か。
    結婚して出産して、幸せな家庭を築けるか。
    これ全部を手に入れられなければ、完全に満たされることはないんだと思うよ。
    いつの間にか創り上げられた幸せの基準値なんだよ。全て手に入れるってそうそうできることじゃないのに。全部十分に持ってないと満たされない。そして、不安になる。」

     「幸せの基準値…」

    「そう。勝手に作られた、ね。何が幸せかなんて分からないよ。仕事が好きでキャリアを優先したい人からしたら、子供を産んで育てる間に置いてかれちゃう。結婚したって上手くいかない人もいる。私みたいにね。」

    「幸せって何なんでしょうか。」

    「今この瞬間に嬉しいとか楽しいとか思う気持ちじゃない?」

    「もっと継続的なものをイメージしてました。
    意外にも刹那的なんですね。」

    「積み重ねだからね。全てが楽しいとか嬉しいことって言うのはないもの。でも幸せな時が少しでもあれば、確実に不幸ではないよ。皆ないものにフォーカスするから、悲しくなるの。改めて考えてみると、持ってるものは結構多いもの。」

    「持ってるもの…。
    考えたことなかったです。」

    「例えば、子育てしてる人がこうやって気軽に旅行することは難しいじゃない?」

    「確かに…。好きなことをやれる環境にはあると思います。」

    「私も離婚して独り身だけど、これからこの宿をやれるだけ続けて、2人みたいなお客さんとたくさん関わってみたいのよ。本来一生関わることなかった人と出逢えるかもしれない、似た価値観を持った人が居ることを知れるだけでも嬉しいし。」

    「私たちもこの宿の世界観と、ユーさんの文章のセンスにすごく惹かれるものを感じて、ここに来たんです。感性が似てるって直感で思って。」

    「良かったよ。それが伝わって。こうやって逢えて。」

    「私もです。ユーさんみたいに本質を理解してくれる人なんて誰も周りにいなかったので。
    正しく見てくれる人って本当に希少です。
    そして、本当にありがたいです。」

    「大したことは何もできてないよ。
    相談に乗るとか大口叩いたのに、私も相談に乗ってもらっちゃったし笑。こちらこそありがとうね。」

    「お互い様です。」

    気付くと甘奈は寝ていたので、軽く起こして部屋に連れて行った。
    気付けば夜も更けていた。

    私はその夜、目が冴えしまって、ユーさんと話したことを反芻していた。
    色々とすぐには解決しないことを悩んでいたような気がする。
    ただ、自分が行動したことがひとつのきっかけになって、気の合う人や居心地の良い場所に出逢えたことは、今持っているものなんだと思う。
    何も持っていないと思っていたけれど、着実に増えていたのだ。

    私の頭はまだ少し、ないものねだりをしてしまう。
    この気持ちを積み重ねていけたら、現状と上手く折り合いをつけられるようになるだろうか。
    そんなことをぼんやりと思っていたら、深い眠りについていた。

    朝、ふっと目が覚める。
    目覚ましをかけなくてもすっきりと起きられるようになってきた。

    甘奈は枕から頭が殆ど落ちて、斜めになって寝ていた。
    昨日のお酒のせいだろうか。

    パンの焼ける匂いがしたので、
    物音を立てないよう、こっそり食堂へ降りる。

    ユーさんがせっせと作業していた。


    「おはようございます。」

    「あ!柚ちゃんおはよう。早いね。まだ6時だよ。」

    「なんかすっきり目が覚めて。目覚ましかけないでこんな早く起きられたの生まれて初めてかも知れません。」

    「それは良かった。生まれて初めてって言うのちょっと面白かったけど。」

    「え、そうですか?本当です。自分が知る限り。ここだと1日が長く感じるんですよね。
    22時に寝るとかいつぶりかって感じで、
    でもそれまでに時間のゆとりがすごいあるなって。普段の生活と時の流れ全く違うので驚いてます。昨日とかまだこんな時間だって思いましたし。」

    「そっか、そうかもね。
    私もこっちに戻ってきて1ヶ月くらいはそんな感じあったかも。今は慣れちゃったけどね。」


    「精神衛生上良いですよね。やっぱり心にゆとりがあるから体感時間も長くなるんでしょうし。普段の生活ってせせこましいなと思ってしまいました。」

    「それに慣れちゃうとね、当たり前になるよね。」

    「こうやって違う時間を感じないと忘れてしまってますよね。怖いなー。良くないですね、悪い方への慣れって。」

    「どうなんだろうね、刺激が欲しいって思う人からすると、ここはつまらないかも知れないよ。毎日ずっとここにいたら飽きるかも知れない。
    私を含めここから出ていった人も多いし。」

    「やっぱりないものねだり、なんですね。」

    「そうなんだよね、当たり前に近くにあるものには気付けなくなっちゃうんだよ。なくなったり、離れたりしないと良さに気付けない。」

    「不思議ですよね。視点が合わなくなるの。」

    「人間ってバカだよね。こんなのの繰り返しなんだもの。どうして忘れちゃうんだろね。
    あ、今日2人の予定は?」

    「特にはなくて、森で散歩でもしようかと。」

    「そしたら、湖行ってみる?気持ち良いよ?」

    「あ、確か車で行く距離に、湖ありましたよね?行ってみたいです。おそらくカンナも乗り気になると思います。」

    「了解!じゃあ朝ごはん食べたら行こうか。
    今日はクロワッサンだよ。
    結構手間なんだけど、私が食べたくなっちゃって。あと、フランス旅行に行った友達が買ってきてくれたのよ。」

    「朝食と言えばのクロワッサンですよね!しかもユーさんの焼きたてクロワッサン。絶対美味しいに決まってる。」

    「楽しみにしてて。」

    「やった。じゃあ甘奈の様子見てきます。」2階へ向かおうとする結月。

    「無理に起こさなくて良いからね。と、結月の背中に向かって言うユーさん。

    「了解でーす。」と軽く手を挙げながら一瞬振り向く結月。

    2階に上がると、ちょうど甘奈か起きたところだった。

    「あ、起こしちゃった?ゴメン!」

    「いや、ちょっと前からバターのいい匂いで半分寝ぼけながら起きてました。」

    「あははは!嗅覚ってすごいわ!」

    「これは、クロワッサンぽいですね。」

    「カンナすごっ!臭気判定士じゃん!」

    「臭気ってクサイ臭いじゃなかったでしたっけ?」甘奈は笑いながら言う。

    「じゃあ、におい研究員」

    「柚さん、それも汗のやつ!」

    2人して笑いすぎて呼吸困難みたいになる。
    こんなに笑ったのはいつぶりか。

    「くだらねー。」結月が敢えてぶっきらぼうに言う。

    甘奈はそんなキャラ変したみたいな結月が更におかしくて笑う。

    ユーさんの美味しいクロワッサンの朝食を食べてから出発した。
    車のオーディオからは、爽やかな音楽が流れている。
    開けた窓から風が入って気持ちがいい。
    その風と音楽が一体になったような気がした。

    20分くらいすると湖に繋がる一本道が見えた。
    「もう少しで着くよ。」

    車を停めて湖まで歩く。

    「うわー、綺麗。」と甘奈が両手を広げて湖に近付いて行く。

    「初めて見た。こんなに広いんだ。」と湖を見渡しながら結月が言う。

    「知り合いにボート頼んどいたから、2人で乗ってくると良いよ。
    今日は天気も良くて波もないし。」とユーさん。

    「ボートですか!?すごい!楽しそう。」
    甘奈が嬉しそうに言う。

    「最高すぎるね」
    結月もすごく良い顔をしていた。

    「このボートね。乗り方わかる?」

    「公園とかにあるボートと同じですか?それなら乗ったことあります。」と結月。

    「じゃあ大丈夫だと思うよ。くれぐれも気を付けて。」

    お互いなんとなくな感じで漕いでいく。
    息があったかのように上手くボートが進んだ。
    2人ともあまり遠くへは行きたくなかったので
    程よいところでボートを漕ぐのをやめる。
    岸辺に青いボーダーを着たユーさんが見えた。

    「ユーさん海兵みたい。」
    と、甘奈が言った。

    「ぽい、ぽい。」

    ユーさんがこちらに手を振っていた。
    私たちも軽く手を振り返す。
    大きく手を振るのは揺れそうでちょっと怖かったから。

    落ち着いて周りを見渡す。
    すごく静かだ。
    私と甘奈しかいない。

    湖面に映る深い森の色。
    深い群青に混じり込む。
    煌めく水鏡。
    幻想の中に迷い込んだような。

    目を閉じる。
    少しだけ水の音がする。
    春の空気、
    そんな匂いがした。

    シャッター音が聞こえて目を開ける。
    甘奈が写真を撮ったようだった。
    一枚だけ。

    今の気分を噛み締め、
    私たちはしばらく、
    何も言わずその場に佇んでいた。

    「戻りますか?」私もそろそろと思っていたところに、甘奈が言った。

    「戻ろう。」

    ボートを漕いでいる間に、今まで悩んでいたことがどうでもよくなって、これまでにないくらい頭がすっきりしていることに気付く。
    そして、これからは無理のないように生きようとも思った。

    岸へ戻るとユーさんが赤いチェックのレジャーシートを敷いて、
    クロワッサンのサンドイッチを用意していた。
    サンドイッチの中身はフルーツと生クリームだ。
    ユーさんの淹れたレモンティーによく合う。

    私たちは湖を眺めながら、それをほうばる。
    満たされて行くのを感じた。























































































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