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安さん


    #創作大賞2026 #エッセイ部門

      
    安さんは、年齢は七十歳を優に超えているが、とても元気である。体躯は小柄で、肉付きもさほどよくない。戦後、百姓一筋で生計を立ててきたというだけあって、日焼けした赤銅色の顔は艶めいている。
    安さんは、宮川小学校の子どもたちのためどんな面倒なことでもふたつ返事で引き受けてくれた。
     
    その日の4限目は、安さんをゲストにお招きして、昔の生活について話してもらうという授業だった。
    安さんは、白いカッターシャツにブガブガの作業ズボンを身につけて、職員室の後ろのソファーに座っている。どこか落ち着かないようすで立ったり座ったりしている。
    教室に続く廊下を歩いていても、目をキョロキョロしてどこかよそよそしい。
    教室のドアを開けて、安さんが入ると、大きな拍手が起こった。安さんは恥ずかしそうに小さく右手を何度も振って、顔を崩した。「今日はみなさん、よく知っている堀安夫さんに子どものころのお話をしていただきます」
    担任の板東進之介が紹介すると、安さんは小さく頭を下げた。「それじゃ、何から話すかな」と前置きをした後、
    「戦争のころの話やな・・・そうやな。戦争が終わったころは食べ物がなくてな。シロツメグサやヨモギ、タンポポ何でも食べたな」
    「タンポポ?」
    目のくりっとした、小柄な雅代が突拍子もない声を上げた。安さんは「そうや」と言いながら、雅代の方に柔和な顔を向けて、
    「タンポポの茎や花を醤油で炒めて、少し味噌を付けて食べたんや。そのころはみんな腹へらしてたからな。あんまりうまいもんやないけどな。米がなかったから、とにかく何でも口に入るもんは食べやんとな。死んででしまうやろ」
    「ふーん」
    子どもたちは頷いている。
    何人かの子どもたちは安さんの顔に釘付けになっている。
    「そうそう、それからな・・・サイレンが鳴るとな、防空壕という穴に入ってじっとしとんの」
    「防空壕?」「それ何?」
    「逃げる穴やな。飛行機が飛んできて、爆弾を落とされたら、人間なんて木っ端みじんになってしまうでな。穴の中に逃げて、じっとしとるの。そしてな、静かになったら出てくるの」
    子どもたちはときどき頷きながら、真剣な眼差しを向けている。
    「怖かったな。いつもビクビクしとったからな。夜もぐっすり眠れなかったからな」
    安さんは昔を思い出すように、目を細めて遠くを見つめた。
    「・・・もう、あんな思いを誰にもさせたないでな。みんなも大人になっても、絶対、戦争をしたらあかんぞ」
    安さんの目に涙が浮かんでいる。いつもは元気がいい子どもたちも神妙な顔をして聞いている。

    その後は、いつもお世話になっている安さんといっしょに給食を食べることになっていた。
    2班に入って、子どもたちと話しながら、にこやかに給食を食べていた安さんが、突然、怒った。いつもにこにこしていて、人なつっこくて優しい、仏の安さんが、目をかっと見開いて、口角泡を飛ばして怒鳴った。
    その日のメニューは、みんなの好きなカレーとサラダだった。カレーということで給食係も段取りよく、いつもより早く用意ができた。
     日直が前に出て、「いただきます」をして、カレーを半分くらい食べたころだった。
    「先生、ご飯、残してもいいですか?」
    洋介が尋ねた。進之介はカレーを口に入れながら、
    「洋介くん、お腹いっぱいなのか?」
    「はい」
     そのときだった。
    「あかん。何でも残さんと食べな!。世界には、食べたくても食べられんと死んで行く子がいっぱいおるんやぞ!」
    突然の安さんの声に子どもたちのカレーを食べる手が止まった。
     話し声が消えて、子どもたちは安さんの方を見ている。
     進之介もびっくりした。あの温厚で、やさしい安さんが怒ったから。そのときは、なぜそんなにまで声を荒げたのか。子どもをにらみ据えて本気で叱ったのか、進之介はわからなかった。
     いったいどうしたんだろう。安さん。進之介は横目で安さんの顔を見ていた。安さんはどこか気まずそうで、寂しそうだった。
    それからは、静かな給食の時間となった。
      
    宮川村のあちこちでカエルがなく季節を迎えた。澄み切った小川ではハヤが泳ぎ、梢ではメジロがさえずっている。村を流れる空気はすっかり温み、人々に笑顔が戻ってきた。
    「おはよう」
     安さんは3年生の子どもたちに向かって柔和な顔を見せている。
    「おはようございます」
    子どもたちは元気だ。初めて田植えをするというので興奮している。
    「今日はこの田んぼにみんなが毎日食べている米の苗を植えるぞ。ほれ、田んぼにひもが張ってあるやろ。そこに沿って真っ直ぐに植えるんやぞ。わし、見本見せるから、ええか」
    安さんはいつものようにニコニコしながら、田んぼの中に入って、稲の束をつかんで、
    「こうしてな、三,四本持ってな。こうしてドロの中に突っ込むの」
    子どもたちは真剣にそのようすを見ている。
    「間隔はな、そうやな、二十センチくらいかな。何もむずかしくないよ。さあ、田んぼの中に入ってやってみな」
    安さんがそう言って右手で腰を叩いて伸ばすと、子どもたちは一斉に田の中に入っていった。
    「わあ、冷たい!」
    「足の裏がこそばゆい!」
    「わあ、ぬるぬるするけど、気持ちいい!」
    靴を脱いで、怖々、田んぼに入った子どもたちは口々に歓声を上げている。初めての経験に明らかに気持ちが高ぶっている。
    空高くヒバリが鳴いている。宮川を駆け抜けるそよ風は心地よい。
    「安さん、できた。これでどう?」
    クラスの中で、いちばん横着い勝司が、得意になって安さんに聞いた。
    「おお、ちょっと、曲がってるとこもあるけど、ええやろ」
    安さんが頭をなでると、勝司は照れくさそうに笑っている。
    「安さん、私のは?」
    家のお手伝いをよくする雅代が尋ねた。
    「雅ちゃんは、うまく植えられたな。これで、よし!」
    また、頭をなでた。子どもたちは、安さんに誉められてうれしそう。
    「さあ、みんな上がろうか」
    安さんは腰にぶら下げた手ぬぐいで汗を拭きながら、
    「この後、当番決めて毎朝七時にここにおいで。水の世話の仕方教えるでな」
    そう言うと、進之介の方を見て、「二人ずつ当番決めたって」と言った。
    「忘れんと水の世話をして、夏休みごろになると餅米が取れるから、それで秋になったら餅つきするぞ」
    安さんもうれしそうにくしゃくしゃの顔になっている。子どもたちが餅をついて、安さんがかけ声よろしく手返しをする絵を想像するだけで心が浮き浮きしてくる。

     ある日、子どもたちが野菜を作っている畑に猪が入った。サツマイモの一部が食い荒らされている。それを聞きつけた安さんはすっ飛んできて、竹やぶで手ごろな竹を切り、それを割って軽トラックに積んできては、手ごこしく囲いを作っている。
    「安さん、いつもありがとうございます」
    通勤の途中、それを見かけた進之介が車を止めて話しかけた。
    「ああ、先生。おはよう」
    安さんは作業の手を止めて振り返った。
    「いやな、猪が入ったって聞いたんで。こうしとかんと、あいつら、またやってくるでな。せっかく子どもたちが野菜作ったのにショック受けるでな」
    安さんは節くれ立った手を器用に動かせて、針金を切って太い竹に巻き付けた。
    「ここはわしに任せて、先生。早く行かんと遅刻するよ」
    「はい、ありがとうございます。それじゃ、頼みます」
    進之介は、また、車を動かせて、学校に続く坂道を上った。ブックミラーに作業をしている安さんの姿が映っている。

    夏休みが間近に迫った夕方、進之介は子どもたちといっしょに草を抜き、ホースで水やりをしていた。
    「先生、あんまり水やりすぎたらあかんよ」
    背後で声がする。安さんである。
    「ええ、どうしてなんですか?」
    進之介が首を傾げながら額の汗を拭うと、
    「しょっちゅう水やるとな、野菜を甘やかせることになるでな。いつも水やってたら、野菜は苦労せんでも水をもらえるって安心するやろ。そしたら、野菜の根は伸びやんと浅う浅うなるわ。そうなったら、台風なんか来たらいちころや。根こそぎやられてしまう、な。ときどきしかやらなんだら、野菜の根は水を求めてどっしりと根を下ろすでな。教育も同じやんな、先生。辛抱すること教えなんだら、子どもは伸びやんよ」
    安さんは教育者でもなければ哲学者でもない。地位も名誉もなければ、けっして裕福でもない。それでも安さんの話は、妙に深みがある。含蓄があり、説得力がある。

    二学期が始まった、九月一日。
     安さんから電話が入った。宮川支流の薗川で、こたか(長い網)を張って、獲った鮎を塩焼きにして食べさせてやるから出かけてこいと言う。
    進之介は喜んで出かけて行った。
    薗川はカジカガエルが鳴いて、ヤマガラがツツピー、ツツピーと軽やかにさえずっている。太陽の日差しがまだ強く、新緑に照射している。深い山をくぐり抜けてきた清水は冷たく、飲めるほど澄み切っている。
    「拓さん、わし、上へ先に網張るで、ちょっと遅れて下に張ってくれ」
    安さんが指示すると、拓さんと呼ばれた年下の男は、「はい」と快く返事をして川下に歩いていく。
    そのようすを進之介と子どもたちは、河原の木陰に座って眺めていた。
    安さんが下におもりのついた網をしっかり持って少しずつ離しながら、流れに入っていく。水深は二十センチくらいの浅い谷である。ここずっと増水もないので、ゆっくり水が流れている。安さんが対岸に着いた。
    「よし、ええよ」
    向岸の柳の木の下に端のひもを結びつけて、安さんが合図した。
    続けて、拓さんが水の流れに入って、網を張っていく。安さんより十歳くらい若いとあって、足の運びも軽やかである。
    「ほんとうに、鮎捕れるのかな」
    薬屋の息子の良次が興味津々で眺めている。
    「こんなの見るの初めて」
    いつもはおしゃべりの由衣も真剣に見つめている。
    安さんが岸に上がってきた。
    「さあ、あの網と下の網の間に石を投げるんや。そしたら、鮎はびっくりして上や下に逃げて網に引っ掛かるから」
    子どもたちは立ち上がって、囲まれた網と網の間に握りこぶしくらいの石を投げ込んだ。にわかに水面が波立ち、ドボン、ドボンとにぎやかになった。子どもたちは、はしゃぎながら声が弾んでいる。五分くらい投げ続けてから、「ようし、やめ!」と言う安さんの声で子どもたちの動きが止まった。
    少し経つと、流れは元のようになった。
    「鮎が網にかかっとるかな。みんなで網を見ておいで」
    水面から見ると、引っ掛かった鮎が、背を翻してきらりと光っている。
    「おった!」
    「ここにも掛かってるよ!」
    「すごいなあ!」
    子どもたちは歓声を上げて、軍手を付けた手で鮎をつかんでは、腰にぶら下げた白い網の中に入れた。
    自然の深い宮川村といっても、子どもたちの親はセールスマンが多く、休みになると家族で買い物に行くことはあっても、自然の中で遊ぶことはめったにない。
    子どもたちも水泳となると、プールで泳ぐのがほとんどである。プールでは魚も泳いでないし、サワガニが底を這っていることもない。それだけに、大自然の中に飛びこんだ子どもたちは、学校では見せない弾んだ笑顔を見せている。
    「先生、子どもは自然の中に放り込まんとな。教室だけで勉強するだけでは脳がないでな」
    安さんは、引っ掛かった鮎を取り終わると、水をかけ合いっこして喜んでいる子どもたちを眺めている。
    「はい、みんな上がれ!」
    進之介が岸に上がるよう指示した。子どもたちは顔に水滴を付けて、楽しそうに上がってきた。
    「ええか、今からその獲ってきた鮎を塩焼きでいただくからな」
    「はーい」
    元気のいい子どもたちの声が薗川に響く。

     クリスマスソングが街に響き、街全体がにぎやかになってきた。イルミネーションが輝き、おしゃれをした恋人たちや家族連れで賑わっている。そうはいうものの田舎では、いつもとさほど変わらない。部屋にクリスマスツリーを飾り、ケーキのろうそくに火をつけて、それを食べるくらいである。
    学校の玄関に大きなクリスマスツリーをバケツに石を入れて立てて、そこに中学年の子どもが飾り付けをするのが恒例になっている。
    ここで、また、安さんの出番である。飾り付けをする朝になると、朝早く起きて、山の頂上まで登って、いちばん格好のいいモミの木を取ってきてくれる。
    安さんは軽トラからもみの木を降ろすと、
    「さあ、今年はええモミの木が見つかったぞ。みんな、きれいに飾り付けをするんやぞ」
    「はーい」
    子どもたちは、丸いカラーボール、サンタの靴下、どんぐりや松ぼっくり、かわいい家などを思い思いにぶら下げている。安さんは、そのようすを目を細めて、それはうれしそうに眺めている。

     3月になったある日、安さんを講師に招いて、竹とんぼを作るという授業があった。
    その前日、準備のために採ってきた竹をかついでいる安さんと出会った。
     初夏の日ざしがすっかり日焼けした、皺だらけの安さんの顔に照射して、額からは汗がしたたり落ちていた。
    「安さん、ありがとう。いつもすみません。まあ、一服して」
    私は、あわてて職員室から冷たい麦茶を取ってきて差し出すと、安さんは肩にかついでいた竹の束を置いて腰を下ろした。
    「安さん、前々から聞きたかったんやけど、なんでそんなに子どもたちのために一生懸命になってくれるんですか?」
    私は、ずっと前から不思議に思っていた疑問をぶつけてみた。
    安さんは地べたに座ったまま、西の山際に沈みかけている夕日に目を遣った。
     しばらくの沈黙の後、
    「わしなあ・・・、若いころ戦争でシナ(今の中国)へ行っとったんさ。隊列を組んで最後尾を歩いていると、焼けた民家の中から煤まみれになった、どうやろ、一年生と幼稚園くらいやろか。兄弟らしい子どもが、中国語で何か言いながらわしの手にしがみついてくるんさ。・・・わし、中国語はわからんけど、その仕草で食べ物をくれって言うとんのはわかったんや。わしのリュックのなかに二個だけおにぎりが入っていたんやけど、それをやるとわしの食糧がなくなるでな。・・・あげたいのは山山やけど、わしはようやらなんだ。わしは涙を飲んで、その兄弟の手を振り切ってしもうた。そのときのくりっとしたかわいい目の子どもの顔が今でも脳裏に焼きついとるんさ、な」
    堀さんの細い目は涙で潤んでいた。
    「せやから、わし、戦争が終わって、ちょっと余裕が出てきてから、ずっとそのつぐないをしとるんさ」

    「お父さん、今日は1年でいちばん大切な日ですよ」
    「わかっとる」
    妻の多恵が安さんがはいているズボンの後ろで、手で小さな糸くずを取っている。安さんはスーツを着て、立ち鏡を見ながら昨夜剃った顔のヒゲが残っていないか、顔をこすって点検している。
    「プーウ」
    安さん、リラックスしているのか、屁を放った。
    「やだー、ちょっと、お父さん、もう」
    多恵は右手を左右に扇ぎながら、「親しき仲にも礼儀ありよ。くさー」と満更でもなさそうである。
    「そうか。臭いか。ということは、まだまだ長生きできるの」
    「そうなんですか?」
    「そうや。人間は死が近づいてくると、モノを食べられなくなるからな。そしたら、臭くなくなる。まだ、大丈夫や。ハハハハハ」
    安さんは、薄く、白髪が少なくなった眉毛をさらにハの字にして笑った。
    「よし、これでよし!」
    安さんはネクタイをキュッと絞って、シワだらけの細い首に巻いて、気合いを入れた。

     安さんは毎年、入学式に参列する。
    いつも作業着の安さんが、この日ばかりは一張羅を着て体育館に座っている。
    式が終わると、安さんは出口のところで新入生を待っている。手にはバラの鉛筆を持っている。
    「おめでとう。しっかり勉強するんやよ」
    「がんばれよ。みんな仲ようせなあかんぞ」
    「元気ええなあ。しっかり遊んで勉強がんばるんやんな」
    安さんは柔和な笑顔で一人ひとりの頭をなでて、それぞれちがう言葉をかける。
    こうして、安さんの一年が始まる。
    宮川小学校の子どもたちは、安さんというりっぱな野の教育者のやさしさに包まれて、今日も笑顔が絶えない。

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