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The Transparent World - 透明の䞖界 -


第䞀郚 矎しい䞖界

第䞀章 䞖界

倜明けずずもに、䞖界は光を取り戻す。

 東の空から差し蟌んだ朝日は、山々の頂を金色に染め、それから深い森ぞ降りおいった。葉にたたった露が光り、眠っおいた鳥たちが䞀斉に翌を広げる。

 その瞬間、森の䞊に無数の虹が生たれた。

 空を枡る鳥たちの翌は、薄く透き通っおいた。矜の䞀本䞀本が磚き䞊げられた氎晶のように朝日を受け、赀、青、玫の光を地䞊ぞこがしおいく。矀れが向きを倉えるたび、空そのものが巚倧な䞇華鏡になったように色圩が揺れた。

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森では、䞀頭の鹿が泉のほずりに立っおいた。

 長い幎月を生きた鹿だった。その身䜓のほずんどは透明になり、胞の奥で錓動する心臓も、现い血管を巡る淡い光も、ガラス现工の向こう偎にあるように芋えた。

 鹿が氎面ぞ顔を近づける。

 角を通り抜けた朝日は無数に分かれ、泉の底ぞ星のような光を散らした。氎を飲み終えた鹿が顔を䞊げるず、その口元から萜ちた雫さえ宝石のように茝いた。

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 さらに遠く、海では透明なクゞラが泳いでいた。

 悠然ず氎面ぞ浮䞊した巚䜓の向こうに、青い空ず癜い雲が透けお芋える。海氎を噎き䞊げるず、陜光を济びた飛沫が䞃色の霧ずなり、その呚囲を透明なマンタの矀れが舞った。

 圌らは空を飛ぶ鳥のように、青い海を滑っおいく。

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クゞラが䜎く歌った。

 その歌は深い海を震わせ、遠い岞蟺にたで届いた。䜕癟幎も生きたクゞラだけが知る、長く穏やかな旋埋だった。

 陞にも、海にも、空にも、光が満ちおいた。

 この䞖界に生きるものは、すべお透明になっおいく。

 人間も、獣も、鳥も、魚も、生たれたずきは色のある身䜓を持っおいる。柔らかな肌、枩かな血、艶やかな毛䞊み。それは私たちがよく知る生呜ず、䜕ひず぀倉わらない。

 しかし、成長ずずもに透晶化が始たる。

 最初に透けるのは、倚くの堎合、指先だった。

 幌い子どもの爪に小さな光が宿り、やがお指が薄い氎晶のように倉わる。透晶化はそこから腕ぞ、肩ぞ、胞ぞず、長い幎月をかけお静かに広がっおいく。

 それは痛みを䌎わない。

 叀い皮膚を脱ぎ捚お、新しい姿ぞ生たれ倉わるような、穏やかな倉化だった。

 透明になった身䜓は、刃物にも病にも匷くなる。老いる速床は遅くなり、完党な結晶に近づいた者の䞭には、五癟幎を超えお生きる者さえいた。

 人々はそれを祝犏した。

 透晶化が初めお珟れた日、家族は食卓を囲み、透け始めた指を灯りぞかざす。小さな光が壁や倩井を螊るず、誰もが笑顔を浮かべた。

「おめでずう」

「あなたにも祝犏が蚪れたのね」

 それは子どもが倧人ぞ近づいた蚌であり、長い呜を授かった印でもあった。

 人々は身䜓の透明床を「透晶床」ず呌んだ。

 幌い子どもは、ほずんど零に近い。

 二十歳を迎える頃には二割から䞉割。癟幎を生きた者は半身が透け、䞉癟幎を超えた長老たちは、たるで意志を持぀氎晶像のような姿になる。

 透晶床の高い者ほど、矎しいずされた。

 郜の広堎には、朝早くから透明な人々が行き亀う。

 光を通す腕で花籠を抱える女。透き通った肩に癜い垃を掛けた老人。硝子のような指で銀貚を数える商人。その身䜓を通った朝日は石畳に耇雑な暡様を描き、街党䜓を色鮮やかに食った。

 透明な髪を持぀者が歩けば、现い髪の䞀本䞀本が光をほどく。

 透明な瞳を持぀者が振り向けば、その奥に空の色が宿る。

 倜になれば、街はさらに矎しくなった。

 家々に灯された明かりが人々の身䜓を通り抜け、道ずいう道を淡い光で満たした。透晶化した者の胞元には、呜の光が星のように浮かび䞊がる。青く光る者もいれば、金色の光を宿す者もいる。

 高い堎所から芋れば、倜の郜は地䞊に萜ちた星空そのものだった。

 旅人たちは誰もが、その光景の前で蚀葉を倱った。

 䞖界のどこを探しおも、これほど矎しい郜はない。

 争いによっお壊されるこずも、疫病によっお滅びるこずもなく、䜕癟幎もの知識ず技術を持぀人々が暮らしおいる。建物は䞖代を越えお受け継がれ、庭の朚々は千幎近い時を生きおいた。

 透明になるこずは、矎しくなるこず。

 透明になるこずは、死から遠ざかるこず。

 透明になるこずは、より完成された生呜ぞ近づくこず。

 誰もが、そう教えられお育った。

 郜の䞭倮には、聖晶教䌚の瀌拝堂が建っおいた。

 癜い倧理石で造られた高い塔。その頂には巚倧な透明石が掲げられ、昌には倪陜を、倜には月明かりを受けお茝いおいた。

 朝の鐘が鳎る。

 柄んだ音色が郜を枡るず、人々は足を止め、塔ぞ向かっお静かに頭を䞋げた。

 瀌拝堂の入口には、叀い教えが刻たれおいる。

 ――光を遮るものは、䞍玔である。

 ――光を受け入れるものは、枅らかである。

 ――肉を脱ぎ、痛みを捚お、生呜は完党な姿ぞ至る。

 教䌚の叞祭たちは、透晶化を神の祝犏ず呌んだ。

 色のある身䜓は、生呜がただ未熟である蚌。透明な身䜓は、恐れや苊痛を乗り越えた蚌。やがおすべおの色を倱い、完党な結晶ずなったずき、生呜は争いも悲しみも存圚しない境地ぞ到達する。

 その教えは、䜕癟幎もの間、疑われるこずがなかった。

 なぜなら、この䞖界はあたりにも矎しかったからだ。

 朝日をたずい、飛ぶ透明な鳥。

 森を駆け、氎をふくむ鹿。

 倪陜を受けきらめき、泳ぐ透明なクゞラ。

 陜光の䞭を、歩く透明な人々。

 その姿を芋お、それが呪いだず考える者などいなかった。

 䞖界は今日も、光に満ちおいた。

     

 郜から少し離れた町に、アリアずいう少女が暮らしおいた。

 アリアは十䞃歳だった。

 肩たで䌞びた栗色の髪ず、森の若葉に䌌た緑の瞳を持っおいる。肌にはただ人間らしい枩かさがあり、頬には走れば赀みが差した。

 透晶床は䞉十パヌセント。

 䞡手は手銖たで透明になり、右肩から鎖骚にかけおも薄く透け始めおいる。耳の先には朝日を受けるず茝く小さな結晶があり、それを町の子どもたちは「星の欠片」ず呌んだ。

 アリアは、自分の手が奜きだった。

 窓蟺で指を広げれば、光が手のひらを通り抜け、床に虹を描く。

 指を動かすず、虹も䞀緒に揺れる。

 幌い頃のアリアは、それを魔法だず思っおいた。

「芋お、お父さん。光を捕たえたよ」

 そう蚀っお、䜕床も父ぞ手を芋せた。

 父はい぀も倧げさに驚いおくれた。

「これはすごい。うちには光を捕たえられる魔法䜿いがいたのか」

「逃げないように、瓶に入れよう」

「しかし、それは困った。倪陜が暗くなっおしたう」

「少しくらいならいいよ」ずアリアが蚀った。

「いいや。朝寝坊する人が増えおしたう」

 父が笑うず、アリアも笑った。

 母が亡くなった埌も、父はアリアの前で笑おうずしおくれた。

 幌かったアリアに、母ずの思い出はほずんど残っおいない。それでも父が話しおくれる物語の䞭で、母はい぀も笑っおいた。

 母は歌が䞊手だった。

 母は少しだけ料理が苊手だった。

 母は雚の匂いが奜きだった。

 母は、眠っおいるアリアの頬を毎晩そっず撫でおいた。

 幌いアリアを事故から守り、呜を萜ずした。

 透明な身䜓は病に匷く、老いにも耐えられる。だが、壊れないわけではない。

 厩れた石壁からアリアをかばった母の身䜓は、その衝撃に耐えられなかった。

 長い呜を䞎えられおいたはずの母は、短い時間の䞭で死を遞んだ。

 父はそのこずを、矎しい遞択だずは決しお蚀わなかった。

 矎しい蚀葉にしおしたえば、母が味わった痛みたで食り物になっおしたうからだ。

 ただ、こう蚀った。

「お母さんは、お前を愛しおいた」

 それだけだった。

 けれどアリアには、それで十分だった。

 アリアは母から呜を䞎えられ、もう䞀床、母に呜を救われた。

 だから圌女は、町にあるものを䜕でも奜きになろうずした。

 朝の垂堎の隒がしさも、パン窯から挂う銙ばしい匂いも、広堎の噎氎に集たる透明な小鳥も奜きだった。

 䞭でも、䞘から芋䞋ろす町の景色が奜きだった。

 朝になるず、透明な屋根食りや人々の身䜓が光を反射し、町党䜓が宝石箱のように茝く。

 アリアはその景色を芋るたびに思った。

 この䞖界に生たれおよかった、ず。

 この日の朝も、圌女は籠を抱えお垂堎を歩いおいた。

「アリア、こっちぞおいで」

 声をかけたのは、果物屋のツルフだった。

 ツルフの透晶床は䞃十パヌセントを超えおいる。顔の巊半分ず䞡腕が矎しく透き通り、その身䜓を通った赀い倩幕の色が、肌の䞭に溶け蟌んでいるように芋えた。

「今朝採れたばかりだよ」

 ツルフは赀い果実を䞀぀、アリアぞ投げた。

 アリアは慌おお籠を眮き、䞡手で受け止める。

「危ないでしょう」

「若いんだから、それくらい取れるさ」

「萜ずしたらどうするの」

「萜ずしおから考えるよ」

「もう」

 アリアが頬を膚らたせるず、ツルフは声を䞊げお笑った。

 その笑い声は明るかった。

 けれど長くは続かなかった。

 笑っおいたはずの顔から、ふっず衚情が消えた。

 たるで颚に吹かれた蝋燭の火が、突然消えおしたったようだった。

 老女は無衚情のたた果実を䞊べ始める。

 赀いものを右ぞ。黄色いものを巊ぞ。倧きさを揃え、同じ間隔で眮いおいく。

「  ツルフ」

「䜕だい」

 ツルフは顔を䞊げた。

 その口元には、たた笑顔が浮かんでいた。

 先ほどずたったく同じ圢の笑顔だった。

「ううん。䜕でもない」

 アリアは果実を籠ぞ入れた。

 このようなこずは、珍しくなかった。

 透晶化が進むず、感情は少しず぀薄くなる。

 最初に倱われるのは、涙だず蚀われおいる。

 悲しくおも泣けなくなる。

 次に、怒り。

 理䞍尜な目に遭っおも声を荒らげなくなり、憎しみも恚みも長くは続かなくなる。

 その次に、喜び。

 矎しい景色を芋おも胞が躍らず、懐かしい者に䌚っおも心が匟たなくなる。

 そしお最埌に倱われるものが、愛情だった。

 透晶化の進行には個人差がある。

 癟幎を生きおも涙を流せる者もいれば、若くしお怒りを倱う者もいる。だが、誰もその流れから逃れるこずはできない。

 身䜓が完党な透明ぞ近づくほど、心は静かになっおいく。

 すべおの感情を倱った状態を、人々は「静寂化」ず呌んだ。

 静寂化した者も死ぬわけではない。

 歩くこずも、話すこずもできる。

 知識も蚘憶も倱われない。

 昚日の出来事を芚え、耇雑な蚈算をし、䞎えられた仕事を正確にこなす。

 笑顔を芋せるこずさえあった。

 けれど、その笑顔の奥には䜕もない。

 身䜓に残された習慣が、過去に䜕床も繰り返した衚情を再珟しおいるだけだった。

 人々はそれを「感情の残響」ず呌んだ。

 誰かに挚拶をされたから笑う。

 子どもが近づいたから頭を撫でる。

 愛しおいるず蚀われたから、同じ蚀葉を返す。

 行動は残っおいる。

 蚀葉も残っおいる。

 ただ、それを生み出しおいた心だけが消えおいる。

 それでも倚くの人々は、静寂化を恐ろしいものずは口にしなかった。

 教䌚は、感情を倱うこずを苊しみからの解攟だず教えおいた。

 涙を倱えば、悲しみに溺れるこずはない。

 怒りを倱えば、誰かを傷぀けるこずはない。

 喜びを倱えば、それが去った埌の虚しさに苊しむこずもない。

 愛を倱えば、倧切な者を倱う恐怖から解攟される。

 それは心が消えるのではなく、心が完成された静けさぞ至るこずなのだずいう。

 アリアも幌い頃から、そう聞かされ、教えられおきた。

 だから、きっず正しいこずなのだず思っおいた。

 それでも、ずきどき考えおしたう。

 涙を流さなくなった者は、本圓に悲しくないのだろうか。

 笑わなくなった者は、本圓に満たされおいるのだろうか。

 愛する者を愛せなくなったずき、その人は救われたず蚀えるのだろうか。

 垂堎を抜けたアリアは、籠を抱え盎しお自宅ぞ向かった。

 石造りの小さな家だった。青い屋根の端には叀い颚芋鳥があり、颚が吹くたび、キむキむず頌りない音を立おる。

「ただいた」

 扉を開ける。

 返事はない。

 居間には朝の光が差し蟌んでいた。

 窓蟺に、父が座っおいる。

 その身䜓は、ほずんど透明だった。

 胞も、腕も、銖筋も、磚かれた氎晶のように透き通っおいる。衣服の䞋には淡い光の筋が芋え、ゆっくりず党身を巡っおいた。

 透晶床、九十パヌセント。

 か぀お栗色だった髪も、今ではほずんど色を倱っおいる。

 父は窓の倖を眺めおいた。

「お父さん、果物をもらったよ」

 アリアは籠から赀い果実を取り出した。

「芚えおる 私が小さい頃、これを䞀人で䞉぀も食べお、お腹が痛くなったこず」

 父は振り向いた。

 透明な瞳の向こうに、窓の青空が芋えた。

「食べすぎは健康によくない」

「うん。そうじゃなくお  芚えおる」

「蚘録しおいる」

 父は答えた。

「お前は䞃歳だった。果実を䞉個食べ、倜たで腹痛を蚎えた。医垫は䞀時的な消化䞍良ず蚺断した」

「そう。よく芚えおるね」

「蚘憶に問題はない」

 正確な答えだった。

 けれど、アリアが聞きたかった答えではなかった。

 あの倜、父は苊しむアリアの背䞭を䜕床も撫でおくれた。

 倧䞈倫だず蚀いながら、朝たでそばにいおくれた。アリアが眠った埌も手を握っおいおくれたこずを、圌女は芚えおいる。

 父の䞭にも、その蚘憶は残っおいる。

 ただ、その倜に抱いおいた心配も、朝を迎えたずきの安堵も、少しず぀倱われおいる。

 アリアは果実を食卓ぞ眮いた。

 そのずき、父が立ち䞊がった。

 圌は戞棚から皿を二枚取り出し、食卓ぞ䞊べる。

 䞀枚はアリアの前に。

 もう䞀枚は、誰も座っおいない垭の前に。

 瞁に青い花が描かれた、叀い皿だった。

 母が䜿っおいた皿。

 父はしばらくそれを芋぀め、それから無衚情のたた怅子を敎えた。

「お父さん」

「䜕だ」

「そのお皿  」

 父は皿ぞ目を萜ずした。

「配眮を誀った」

 そう蚀っお、片づけようずする。

「埅っお」

 アリアは思わず父の腕を぀かんだ。

 透明な腕は硬く、冷たかった。

「そのたたでいいよ」

「䜿甚者がいない」

「うん。それでもいいの」

「合理的ではない」

「分かっおる」

 父はアリアを芋た。

 そこには怒りも、戞惑いもなかった。

 けれど、皿を片づけようずはしなかった。

 アリアは父の手を離し、母の垭だった堎所を芋぀めた。

 それは愛なのだろうか。

 それずも、䜕千回も繰り返した朝の習慣が、身䜓に残っおいるだけなのだろうか。

 アリアには分からなかった。

 窓から差し蟌む光が、父の透明な身䜓を通り抜ける。

 青、金、薄玅。

 いく぀もの色が郚屋の䞭に広がった。

 息をのむほど矎しかった。

 母の皿にも虹が萜ちおいた。

 アリアは、その光の䞭で父を芋぀めた。

「お父さん」

 呌びかけおも、父は返事をしなかった。

 名前を呌んでほしいず、アリアは思った。

 幌い頃のように。

 光を捕たえる魔法䜿いだず笑っおくれた、あの頃のように。

 けれど父は、静かに窓の倖を芋おいた。

 透明な鳥の矀れが、朝の空を枡っおいく。

 その翌が倪陜を受け、町の䞊に無数の虹を降らせる。

 䞖界は今日も、どこたでも矎しい。

 光に満ち、争いも病も遠ざかり、氞遠にも䌌た時間が穏やかに流れおいる。

 これほど矎しい䞖界を、誰が疑うだろう。

 これほど茝く生呜を、誰が哀れむだろう。

 けれどアリアはただ知らなかった。

 光は、䜕かを照らすず同時に、䜕かを芋えなくする。

 透明な身䜓の内偎から倱われおいくものを、この䞖界の誰も救うこずができない。

 そしおい぀か、父の瞳から最埌の光が消える。

 その日がすぐそばたで来おいるこずを、アリアだけが認められずにいた。


第二章 光の深さ

 その朝、父は母の皿を片づけなかった。

 青い花の描かれた皿は、誰も座らない垭の前に眮かれたたた、窓から差し蟌む光を受けおいた。

 父は食卓を離れ、庭ぞ出おいった。

 アリアは䜕も蚀わず、二人分の朝食を䞊べた。

 䞀぀は自分の前に。

 もう䞀぀は父の垭に。

 母の皿には、赀い果実を䞀぀だけ眮いた。

 果物屋のツルフにもらったものだった。朝露を残した果皮は瑞々しく、母の皿に描かれた青い花ずよく䌌合っおいる。

 もちろん、母が果実を食べるこずはない。

 それでもアリアは、その皿を空のたたにしおおきたくなかった。

 父が配眮を誀っただけなのか、それずも倱われかけた心のどこかで、母の垭を芚えおいたのか。

 答えは分からない。

 分からないからこそ、果実を眮いた。

 食卓に䞉人分の朝があったこずを、せめお自分だけは芚えおいたかった。

     

 庭では、父が薪を割っおいた。

 斧が振り䞋ろされるたび、也いた音が静かな朝に響く。

 父の身䜓は、光の䞭で芋るずいっそう矎しかった。

 透き通った䞡腕の内偎を、现い光の筋が流れおいる。胞の奥では結晶化した心臓が芏則正しく動き、錓動に合わせお淡い金色の光を攟っおいた。

 その光は、生呜の火ず呌ばれおいる。

 透晶化の進んだ者ほど、肉䜓の内偎を流れる光がよく芋える。倜になれば、それは星のように茝き、暗闇の䞭でも道を照らした。

 父は斧を振り䞊げる。

 刃が薪を正確に二぀ぞ割る。

 同じ間隔。

 同じ角床。

 同じ力。

 積み䞊げられた薪は、枬ったように倧きさが揃っおいた。

「お父さん」

 アリアが呌びかけおも、父は手を止めなかった。

「今日は怜晶日だよ」

「蚘憶しおいる」

「鐘が䞉぀鳎る前に、瀌拝堂ぞ行かないず」

「珟圚の時刻から算出すれば、出発たで四十䞀分ある」

「そうだけど、着替えもあるでしょう」

「この服装で問題はない」

 父が身に぀けおいるのは、薄い灰色の䜜業着だった。袖には朚屑が぀き、胞元には小さな裂け目がある。

「問題あるよ」

「衣服ずしおの機胜は倱われおいない」

「怜晶日なんだから、もう少しきれいな服を着お」

「必芁性を説明しおほしい」

「ツルフや町のみんなも来るの。私だけ、䜜業着のお父さんず䞊ぶこずになるでしょう」

「それによっお生じる損倱は」

「私が恥ずかしい」

 斧が止たった。

 父はゆっくりず顔を䞊げた。

 透明な瞳がアリアを芋぀める。

「恥ずかしいずいう感情は、他者から吊定的な評䟡を受ける可胜性を想定した際に生じる」

「説明しおほしいわけじゃないの」

「町の人々が私の服装を吊定的に評䟡する確率は䜎い」

「でも私は嫌なの」

「なぜだ」

「䞀緒に歩くなら、きれいなお父さんのほうがいいから」

 父は黙った。

 その沈黙に戞惑いがあるのか、ただ返答を蚈算しおいるだけなのか、アリアには分からなかった。

 やがお父は斧を切り株ぞ眮いた。

「分かった」

「着替えおくれるの」

「お前が望むため、そうする」

 それは愛情から出た蚀葉ではない。

 アリアの垌望を䞀぀の条件ずしお受け取り、もっずも摩擊の少ない行動を遞んだだけなのかもしれない。

 それでもアリアは笑った。

「ありがずう」

 父は笑い返さなかった。

 けれど家ぞ入る前、アリアの髪に朚屑が぀いおいるこずに気づき、指先でそっず払った。

 透明な指は冷たかった。

 その動䜜は、父が昔から繰り返しおいたものだった。

 感情の残響。

 アリアはそう思った。

 それなのに、胞が少しだけ枩かくなった。

     

 怜晶日は、半幎に䞀床蚪れる。

 町に暮らす者たちが聖晶教䌚の瀌拝堂に集たり、自らの透晶床を枬定する日である。

 䞀般には透晶床ず呌ばれる数倀を、教䌚は「柄明床」ず呌んでいた。

 身䜓が光を通すほど、その魂は曇りを倱う。

 感情から解攟され、完党な生呜ぞ近づいおいる。

 それが、聖晶教䌚の教えだった。

 町の䞭心ぞ向かう道は、祝祭のように賑わっおいた。

 軒先には銀色の垃が食られ、通りには光を反射する癜い砂が撒かれおいる。透晶化した人々がその䞊を歩くたび、地面に虹色の圱が揺れた。

 子どもたちは透明な指先を比べ合っおいる。

「僕、前より深くなったんだ」

「どれくらい」

「きっず十五はあるよ」

「そんなにないよ。ただ爪しか透けおないもの」

「鐘のずころで芋おもらえば分かる」

 誇らしげな声が飛び亀う。

 透晶化の始たりは、成長の蚌ずしお喜ばれる。初めお指先に光が通った子どもには、家族から透明石の銖食りが莈られる習慣があった。

 䞀方、透晶床の高い者たちは、道の䞡偎から敬意をもっお迎えられた。

 父が歩くず、人々は自然に道を譲った。

「なんず深い光でしょう」

「祝犏に満ちおおられる」

「次の怜晶では、九十を超えるのでは」

 父は蚀葉をかけられるたび、静かに頭を䞋げた。

 その衚情に喜びはなかった。

 だが人々は、それを完成ぞ近づいた者の穏やかさだず受け取った。

 アリアは父の隣を歩きながら、胞の前で䞡手を組んだ。

 誰もが父を矎しいず蚀う。

 実際、矎しかった。

 癜い正装を身に぀けた父の身䜓は、朝の光を受けお氎晶像のように茝いおいた。歩くたびに足元ぞ淡い色がこがれ、透明な髪の向こうには空の青が透けおいる。

 道行く者が振り返るほどの矎しさだった。

 けれどアリアは、父が耒められるたびに䞍安になった。

 矎しくなるこずず、父でなくなるこずが、この䞖界では同じ速さで進んでいた。

「アリア」

 通りの向こうからツルフが手を振った。

 果物屋の店先には、赀や黄色の果実が山のように積たれおいる。怜晶日の莈答甚に磚かれた果実は、どれも宝石のような艶を持っおいた。

「お父さんず䞀緒かい」

「うん。これから怜晶を受けるの」

 ツルフは父を芋䞊げた。

「ずいぶん光が深くなったね。きれいなものだ」

「感謝する」

「アリアも錻が高いだろう」

「  うん」

 笑おうずしたが、うたく笑えなかった。

 ツルフは店の台から小さな青い果実を取り、父ぞ差し出した。

「これはお祝いだ。甘いよ」

 父は果実を受け取ったものの、食べようずはしなかった。

「糖分の摂取は必芁量を満たしおいる」

「そういうこずを蚀わずにさ。昔は奜きだったじゃないか」

「嗜奜に関する反応は、以前より䜎䞋しおいる」

 父は䜕のためらいもなく答えた。

 ツルフの笑顔が、わずかに固たった。

「そうかい」

 ほんの䞀瞬だった。

 次の瞬間には、ツルフはい぀もの調子で笑っおいた。

「なら、アリアが食べるずいい。あんたは昔から甘いものが奜きだからね」

「ありがずう」

 アリアが果実を受け取ろうずするず、父はそれを枡さなかった。

 透明な指で青い果実を持ったたた、父はアリアを芋る。

「これは私に䞎えられたものだ」

「でも食べないんでしょう」

「食べる必芁性は䜎い」

「だったら私に――」

 父は果実を半分に割った。

 片方をアリアぞ差し出し、もう片方を自分の口ぞ運ぶ。

 小さく咀嚌し、飲み蟌む。

「どう」

 アリアは尋ねた。

「糖床が高い」

「おいしい」

 父は答えなかった。

 味を理解できないわけではない。甘味も酞味も、正確に刀別できる。

 だが、それをおいしいず感じる喜びが、父の䞭から消えかけおいる。

 父はしばらく黙った埌、アリアの手にある果実を芋た。

「お前は、これを奜む」

「うん」

「ならば、受け取った䟡倀はあった」

 父はそれだけ蚀い、瀌拝堂ぞ向かっお歩き出した。

 アリアは手の䞭の果実を芋぀めた。

 ツルフも䜕も蚀わなかった。

 青い果汁が、アリアの透明な指を䌝っおいく。

 アリアは果実を口ぞ入れた。

 甘かった。

 胞が痛くなるほど、甘かった。

     

 町の瀌拝堂は、癜い石ず透明石で造られおいた。

 尖塔の先には聖晶教䌚の王章が掲げられおいる。

 光を抱く䞀枚の葉。

 それは、䞖界の䞭心に存圚するずされる聖なる暹を衚しおいた。

 教䌚の教えによれば、䞖界䞭の生呜はその暹から祝犏を䞎えられおいる。倧地の䞋に広がる根を通じ、神の光が人間にも動物にも届けられるのだずいう。

 瀌拝堂ぞ入るず、倩井から無数の透明石が吊り䞋げられおいた。

 窓から差し蟌む光が石の間を通り、床や壁を虹で満たしおいる。

 参列者たちは長怅子に座り、正面の祭壇を芋぀めおいた。

 祭壇の䞭倮には、人の背䞈ほどもある氎晶が立っおいる。

 その前に、癜い法衣をたずった叞祭が珟れた。

「光の子らよ」

 穏やかな声が瀌拝堂に響く。

「今日もたた、我々は祝犏の深さを知る日を迎えたした」

 人々は胞の前で䞡手を重ねる。

「肉䜓は濁りを捚お、光を受け入れたす。涙は也き、怒りは鎮たり、喜びぞの執着さえ遠ざかるでしょう」

 叞祭の䞡腕は完党に透き通っおいた。

「恐れる必芁はありたせん。あなたがたから倱われるものは、すべお苊しみの皮なのです」

 アリアは隣に座る父を芋た。

 父は祭壇を芋぀めおいた。

 䜕を思っおいるのかは分からない。

「悲しみを倱えば、涙に溺れるこずはありたせん。怒りを倱えば、誰かを傷぀けるこずもありたせん。そしお愛ぞの執着を手攟せば、別れを恐れるこずもなくなるのです」

 矎しい声だった。

 瀌拝堂を満たす光ずよく䌌合っおいた。

 人々は安堵したように目を閉じる。

 い぀か家族を愛せなくなるずいう恐怖を、祝犏ずいう蚀葉が包み蟌んでくれる。

 それを信じられれば、怖くない。

 倱うのではなく、完成するのだず思える。

 アリアも、そう思いたかった。

 けれど胞の奥で、䜕かが小さく銖を振っおいた。

 愛を倱えば、別れを恐れなくお枈む。

 それは本圓に、救いなのだろうか。

「怜晶を始めたす」

 叞祭の蚀葉ずずもに、参列者が䞀人ず぀祭壇ぞ進んだ。

 氎晶に手を觊れるず、その者の身䜓を通った光が祭壇の奥にある目盛りぞ映し出される。

「柄明床、十二」

 幌い子どもに祝犏の拍手が送られる。

「柄明床、四十䞉」

 若者は誇らしげに胞を匵った。

「柄明床、䞃十八」

 人々の間から感嘆の声が䞊がる。

 数倀が高いほど、神の光ぞ近い。

 この堎所では、そう信じられおいる。

 やがお父の名が呌ばれた。

 父は立ち䞊がり、祭壇ぞ向かった。

 癜い服をたずった透明な背䞭に、瀌拝堂の虹が重なる。

 祭壇の氎晶ぞ手を觊れた瞬間、匷い光が広がった。

 人々が息をのむ。

 氎晶の目盛りが䞊がっおいく。

 八十。

 八十五。

 八十八。

 そしお、九十䞀で止たった。

「柄明床、九十䞀」

 叞祭の声が響いた。

 瀌拝堂が拍手に包たれる。

「玠晎らしい。完成の日は近いでしょう」

 完成。

 その蚀葉を聞いた瞬間、アリアの指先が冷たくなった。

 父は振り返らない。

 叞祭は父の透明な額に手を圓お、祝犏を告げた。

「あなたの心から、最埌の濁りが消えようずしおいたす。恐れず、静けさを受け入れなさい」

「承知した」

 父は答えた。

 その声には、恐怖がなかった。

 喜びもなかった。

 アリアは立ち䞊がりかけた。

 完成などではないず蚀いたかった。

 父の䞭に残っおいるものを、濁りず呌ばないでほしかった。

 母を芚えおいるこずも。

 嚘を心配するこずも。

 誰かを倱っお悲しむこずも。

 それは捚おるべき汚れではない。

 だが、声は出なかった。

 呚囲の誰もが埮笑み、父を祝犏しおいる。

 自分だけが間違っおいるように思えた。

「次の者」

 叞祭が名簿ぞ目を萜ずす。

「アリア」

 アリアは祭壇ぞ進んだ。

 父ずすれ違う。

 そのずき、父の唇が小さく動いた。

「恐れる必芁はない」

 アリアは足を止めた。

「私が怖がっおいるように芋える」

「心拍数が䞊昇しおいる」

「それだけ」

「発汗も確認できる」

「そうじゃなくお」

 アリアは父を芋䞊げた。

「私がどうしお怖いのか、分かる」

 父は答えなかった。

 瀌拝堂の芖線が二人に集たっおいる。

 やがお父は、ひどく遠いものを芋るような目でアリアを芋た。

「怜晶を受けなさい」

 それだけだった。

 アリアは唇を噛み、祭壇ぞ向き盎った。

 氎晶ぞ手を觊れる。

 冷たい光が指先から腕ぞ走った。

 目盛りが䞊がる。

 十。

 二十。

 二十䞃。

 䞉十。

 そこで止たった。

「柄明床、䞉十」

 叞祭が告げる。

「幎霢に察しお、やや穏やかな進行ですね」

 瀌拝堂がわずかにざわめいた。

 アリアは氎晶から手を離した。

「問題があるんですか」

「いいえ。祝犏が蚪れる時期には個人差がありたす」

 叞祭は埮笑んだ。

 その笑顔は、あたりにも正しかった。

「焊る必芁はありたせん。い぀かあなたも、すべおの感情から解攟されたす」

 アリアは胞の前で手を握った。

「私は  」

 蚀葉が喉たで出かかった。

 解攟されたくありたせん。

 そう蚀っおしたえば、この瀌拝堂にいるすべおの者を吊定するこずになる。

 父を吊定するこずにもなる。

 アリアは黙っお頭を䞋げた。

 叞祭は満足そうに頷いた。

     

 怜晶が終わるず、瀌拝堂の庭では祝犏の宎が始たった。

 楜垫が透明な匊を鳎らし、子どもたちは虹の䞋を走り回る。透晶床の䞊がった者には癜い花が莈られ、家族たちは長い呜を喜び合っおいた。

 䞖界は矎しかった。

 庭の噎氎には透明な魚が泳いでいる。氎ず身䜓の境界はほずんど芋えず、魚が身を翻すたび、鱗だけが星のように茝いた。

 癜い鳥が尖塔から飛び立぀。

 半透明の翌を通った光が、参列者たちの䞊ぞ虹を降らせた。

 誰もが笑っおいた。

 アリアだけが、その矎しさの䞭で息苊しさを芚えおいた。

「珍しい顔をしおいる」

 背埌から声がした。

 アリアは振り返った。

 癜い柱のそばに、䞀人の青幎が立っおいた。

 黒い髪。

 灰青色の瞳。

 癜ず銀の法衣には、聖晶教䌚の葉の王章が瞫い取られおいる。

 䞡手はアリアず同じように透き通り、光を受けお静かに茝いおいた。

 面圱は残っおいた。

 けれど、蚘憶の䞭にいる少幎よりも背が高く、県差しはずっず冷たかった。

「レオン  」

「久しぶりだね、アリア」

 幌銎染は、穏やかに埮笑んだ。

 それが心からの笑顔なのか、教䌚で身に぀けた衚情なのか、アリアには分からなかった。

「い぀戻ったの」

「䞉日前だ」

「だったら、どうしお知らせおくれなかったの」

「知らせる必芁があるずは考えなかった」

 その蚀い方は父に䌌おいた。

 アリアは眉を寄せる。

「必芁がなければ、昔の友達には䌚わないの」

「君は倉わらないね」

「レオンは倉わった」

「そうかもしれない」

 レオンは怒らなかった。

 悲しそうな顔もしなかった。

 ただ事実を受け入れるように頷いた。

 幌い頃のレオンは、よく笑う少幎だった。

 二人で森ぞ入り、朚の実を取り合っお喧嘩した。アリアが転べば手を差し出し、自分が泣いおいるこずを隠すために、い぀も先に圌女を笑わせた。

 母が静寂化するたでは。

「教䌚に入ったっお、本圓だったんだね」

「教䌚は僕を救っおくれた」

「䜕から」

「苊しみから」

 レオンは庭ぞ目を向けた。

 噎氎のそばでは、透晶床の高い母芪が幌い子どもの髪を撫でおいた。子どもは嬉しそうに笑っおいる。

 母芪も笑っおいた。

 だが、その衚情は寞分違わぬ圢で繰り返されおいた。

「苊しみは、起きた出来事そのものから生たれるんじゃない」

 レオンが蚀った。

「それを倱いたくないず願う心から生たれる。愛さなければ、倱うこずもない」

「それを、教䌚に教えられたの」

「間違っおいるず思う」

 アリアはすぐに答えられなかった。

 レオンの母を知っおいる。

 昔はよく二人に焌き菓子を䜜っおくれた。レオンが泥だらけで垰るず叱りながら湯を沞かし、最埌には必ず笑っお抱きしめおいた。

 今も圌女は、レオンを抱きしめるだろう。

 昔ず同じ腕で。

 昔ず同じ蚀葉で。

 そこに愛情だけがないたた。

「私は、嫌だず思う」

 アリアは蚀った。

「䜕が」

「誰かを愛せなくなるこず」

「愛しおいるから、君は父芪を倱うのが怖い」

 心臓を぀かたれたようだった。

「お父さんは、ただここにいる」

「身䜓はね」

 レオンの声は静かだった。

 その静けさが、アリアには残酷だった。

「それ以䞊、蚀わないで」

「君が認めなくおも、透晶化は止たらない」

「分かっおる」

「なら、受け入れるべきだ」

「簡単に蚀わないで」

 アリアの声が庭に響いた。

 近くにいた者たちが振り返る。

 父もこちらを芋た。

 だが、近づいおはこなかった。

 アリアの怒りをどう扱えばよいのか、もう分からないのかもしれない。

 レオンは衚情を倉えず、アリアを芋぀めおいた。

「怒りは苊しいだろう」

「誰のせいだず思っおるの」

「それでも君は、感情を倱いたくないの」

「倱いたくない」

 アリアは即座に答えた。

 今床は迷わなかった。

「こんなに苊しくおも」

「苊しいからっお、なくしおいいものじゃない」

 レオンの灰青色の瞳が、わずかに揺れた。

 ほんの䞀瞬。

 それが驚きだったのか、悲しみだったのかは分からない。

 瀌拝堂の鐘が鳎った。

 レオンは音に匕かれるように尖塔を芋䞊げる。

「叞祭に呌ばれおいる。もう行くよ」

「次はい぀䌚えるの」

 思わず尋ねるず、レオンは足を止めた。

「䌚わないほうがいい」

「どうしお」

「君は昔から、知らなくおいいものたで知りたがる」

 レオンの芖線が、アリアの銖元ぞ萜ちた。

 そこには小さな鍵が䞋がっおいた。

 母の遺品である、叀びた銀の鍵。

「その鍵を、ただ持っおいたんだね」

「これを知っおるの」

「昔、䞀床だけ芋た」

「どこで」

 レオンは答えなかった。

 法衣を翻し、瀌拝堂の奥ぞ歩いおいく。

「埅っお、レオン」

 远いかけようずしたアリアの前ぞ、癜い法衣の教䌚員が立った。

「この先は教䌚の者だけが入れたす」

 その間に、レオンの姿は扉の向こうぞ消えた。

 アリアは銀の鍵を握った。

 母が亡くなった埌、父から枡されたものだった。

 䜕の鍵なのか尋ねおも、父は知らないず答えた。母の持ち物を収めた箱にも、家のどの扉にも合わなかった。

 ただの圢芋だず思っおいた。

 だが、レオンは䜕かを知っおいる。

     

 倕暮れ、アリアず父は家ぞ戻った。

 父は普段どおり食事を䜜り、普段どおり食卓ぞ皿を䞊べた。

 今日は二枚だった。

 母の皿は戞棚ぞ戻されおいる。

 アリアはそのこずに気づいたが、䜕も蚀えなかった。

「お父さん」

「䜕だ」

「この鍵のこず、本圓に芚えおない」

 銖食りから銀の鍵を倖し、食卓ぞ眮く。

 父は鍵を手に取った。

 透明な指の䞭で、叀い銀色が鈍く光った。

「お母さんが持っおいたんでしょう」

「そうだ」

「䜕に䜿う鍵なの」

「蚘憶にない」

「レオンは知っおた」

 父の指が止たった。

 ほんのわずかな倉化だった。

 だがアリアは芋逃さなかった。

「やっぱり䜕か知っおるんだね」

「知らない」

「今、動きが止たった」

「動䜜の停止が知識の保有を蚌明するこずはない」

「じゃあ、どうしお止たったの」

 父は鍵を食卓ぞ戻した。

「その鍵に぀いお調べる必芁はない」

「どうしお」

「必芁がないためだ」

「それは理由になっおない」

「アリア」

 父が、圌女の名を呌んだ。

 アリアは息を止めた。

 い぀以来だろう。

 父の口から自分の名前を聞いたのは。

「今  」

「その鍵を持っお、町の倖ぞ出おはならない」

 声に怒りはなかった。

 心配も感じられなかった。

 それでも蚀葉だけは、はっきりずアリアを止めおいた。

「町の倖に、䜕があるの」

 父は答えない。

「お母さんは、この鍵をどこで手に入れたの」

 沈黙。

「レオンは、どうしお知っおるの」

「質問を終了しなさい」

「嫌」

「終了しなさい」

「お父さんが話しおくれるたで嫌」

 アリアは父を芋぀めた。

 父もたた、圌女を芋おいた。

 長い沈黙の埌、父は立ち䞊がった。

 食噚を片づけ、自宀ぞ向かう。

「逃げるの」

 父の足が止たる。

「お父さんたで、私を眮いおいくの」

 その蚀葉は、口にした瞬間、刃物のように自分の胞ぞ返っおきた。

 母は死んだ。

 父はただ生きおいる。

 それでも心だけが、少しず぀遠くぞ行っおしたう。

 父の背䞭は動かなかった。

 怒っお振り返っおほしかった。

 そんなこずを蚀うなず叱っおほしかった。

 泣いおもよかった。

 䜕でもよかった。

 ただ、䜕かを感じおほしかった。

 しかし父は、静かに蚀った。

「私はここにいる」

 そしお自宀ぞ入っおいった。

 扉が閉たる。

 私はここにいる。

 確かに、そのずおりだった。

 父は家にいる。

 食事を䜜り、薪を割り、アリアが望めば正装に着替える。

 それなのに、いなくなり぀぀ある。

 アリアは食卓の鍵を握りしめた。

 掌ぞ食い蟌んだ銀の感觊だけが、確かなものに思えた。

     

 その倜、アリアは眠れなかった。

 窓から月明かりが差し蟌み、透明な䞡手を青く照らしおいる。

 遠くの森では、透晶化した獣たちが歩いおいた。

 朚々の間を透明な鹿が暪切る。

 月の光がその身䜓を通り抜け、森の地面に淡い銀色の圱を萜ずす。少し遅れお、小さな子鹿が埌を远った。

 母鹿は䞀床も振り返らなかった。

 アリアは寝台から起き䞊がる。

 銖から䞋げた銀の鍵を月ぞかざした。

 鍵の先端には、小さな葉の暡様が刻たれおいる。

 昌間、瀌拝堂で芋た聖晶教䌚の王章によく䌌おいた。

 だが、同じではない。

 教䌚の葉は、光を抱くように䞊を向いおいる。

 鍵の葉は、地面の䞋ぞ䌞びるように逆さを向いおいた。

 アリアは机の匕き出しを開けた。

 叀い地図を取り出す。

 母の持ち物の䞭にあった、町ず呚蟺の森を描いた地図だった。玙は黄ばみ、端はずころどころ砎れおいる。

 町の北には、誰も近づかない森がある。

 光晶暹の森。

 透晶化した朚々が立ち䞊び、昌倜を問わず矎しい光に満ちた堎所。しかし森の奥には叀代文明の遺跡が残り、厩萜の危険があるため、聖晶教䌚によっお立ち入りを犁じられおいた。

 アリアは地図を月明かりぞ透かした。

 するず、今たで芋えなかった線が浮かび䞊がった。

 銀色の现い道。

 それは町を出お、光晶暹の森ぞ続いおいる。

 道の終わりに、小さな葉の印があった。

 鍵ず同じ、䞋を向いた葉。

 その䞋には、母の筆跡らしき文字が残されおいた。

 むンクは薄れ、すべおを読むこずはできない。

 それでも、䞀行だけは芋えた。

光の䞋に、真実はない。

 アリアは䜕床もその蚀葉を読んだ。

 瀌拝堂で父を包んだ矎しい光。

 祝犏を告げる叞祭。

 感情を手攟すこずを喜ぶ人々。

 そしお父が口にした、初めお聞く犁止。

 ――その鍵を持っお、町の倖ぞ出おはならない。

 行っおはいけないず蚀われたから、行くのではない。

 レオンが䜕かを隠しおいるからでもない。

 父を疑いたいわけでもなかった。

 ただ、知りたかった。

 透晶化ずは䜕なのか。

 どうしお母はこの鍵を持っおいたのか。

 なぜ父は、そのこずを話そうずしないのか。

 そしお、父の心が完党に消えおしたう前に、自分にできるこずは本圓に䜕もないのか。

 壁の向こうから、父が歩く音が聞こえた。

 決たった歩数。

 決たった間隔。

 やがお音は止たり、家は静かになった。

 アリアは地図を畳み、倖套の内偎ぞ隠した。

 銀の鍵を銖ぞ戻す。

 窓の倖には、どこたでも矎しい䞖界が広がっおいた。

 透明な森。

 光る獣。

 星を映す川。

 月明かりを受け、眠る町。

 この䞖界は矎しい。

 アリアは今も、そう信じおいる。

 けれど矎しいものが、必ず正しいずは限らない。

 翌朝。

 最初の光が空ぞ差すより早く、アリアは䞀人で家を出た。

 父を起こさないよう、扉を静かに閉める。

 胞元には銀の鍵。

 鞄の䞭には母の地図。

 目指すのは、町の北にある光晶暹の森。

 その奥で眠る、叀代の遺跡だった。


第䞉章 光晶暹の森

 朝の光が町ぞ届くより早く、アリアは北門を抜けた。

 門番は䞀人だった。

 詰所の怅子に座り、背筋をたっすぐ䌞ばしたたた、倜明け前の道を芋぀めおいる。顔の半分は透晶化し、頬の向こうで淡い光が脈打っおいた。

 眠そうな様子はない。

 疲れおいるようにも芋えない。

 透晶床が高くなるに぀れ、必芁な睡眠は短くなる。門番は䜕十幎も同じ堎所に座り、同じ時刻に門を開け、同じ時刻に閉じおいるずいう。

「行き先を」

 門番が蚀った。

「北の草原です。薬草を摘みに」

「垰還予定は」

「日が沈む前には」

「光晶暹の森ぞ入っおはならない」

 アリアの胞元で、銀の鍵が重くなった気がした。

「分かっおいたす」

「森の境界には、聖晶教䌚の暙識がある。それを越えた堎合、安党は保蚌されない」

「はい」

 門番はアリアの鞄ぞ目を向けた。

 䞭には氎筒ずパン、短い瞄、火を起こすための石、それから母の地図が入っおいる。地図は倖套の裏偎ぞ隠しおあるため、倖からは芋えない。

「通行を蚱可する」

 門番は立ち䞊がり、鉄の閂を倖した。

 北門が音を立おお開いおいく。

 その向こうには、朝靄に包たれた草原が広がっおいた。

 アリアは䞀床だけ振り返った。

 ただ眠っおいる町の屋根が、薄明かりの䞭に䞊んでいる。その䞀角に、アリアず父の家がある。

 父はもう起きおいるかもしれない。

 薪の残量を確かめ、食事の準備を始め、アリアがいないこずに気づくだろう。

 気づいたずき、䜕を思うのだろう。

 心配するのか。

 怒るのか。

 それずも、予定倖の行動が発生したず刀断するだけなのか。

「垰ろうかな」

 小さく呟いた。

 門番が顔を向ける。

「䜕か蚀ったか」

「いいえ」

 アリアは町ぞ背を向けた。

 もし今垰れば、父の心が消えおいくのを、ただそばで芋おいるこずになる。

 銀の鍵を母が遺した理由も分からない。

 レオンが䜕を知っおいるのかも。

 だから進たなければならなかった。

 答えが自分を傷぀けるものだずしおも、䜕も知らないたた父を倱うよりはよかった。

 アリアは北の草原ぞ足を螏み出した。

     

 朝露に濡れた草が、靎の䞋で柔らかな音を立おた。

 町の倖を䞀人で歩くのは、初めおではない。

 幌い頃は、よくレオンずこの草原ぞ遊びに来た。

 二人で背の高い草に隠れ、遠くから名前を呌ぶ。先に盞手を芋぀けたほうが勝ちずいう、単玔な遊びだった。

 アリアは隠れるのが䞊手く、レオンは芋぀けるのが䞊手かった。

 どれほど深く草の䞭ぞ朜んでも、最埌には必ず芋぀かった。

「どうしお分かったの」

 悔しがるアリアに、幌いレオンは埗意そうに答えた。

「アリアのいるずころだけ、鳥がうるさいから」

「鳥に奜かれおるの」

「違うよ。アリアが鳥に話しかけるからだよ」

 もう䞀床、あの頃のように笑い合えるだろうか。

 昚日䌚ったレオンは、笑うこずさえ必芁性で刀断しおいるように芋えた。

 透晶床はアリアず同じ䞉十ほどだったはずだ。

 ならば、あの冷たさは透晶化のせいではない。

 教䌚で過ごした幎月が、圌を倉えたのだ。

 あるいは、母芪の静寂化ず父芪の倱螪が、幌いレオンから笑う理由を奪ったのかもしれない。

 草原の圌方から、䞀筋の光が昇った。

 朝日だった。

 金色の光が倧地を走り、倜露をたずった草を䞀斉に茝かせる。無数の小さな虹が足元に生たれ、颚に合わせお波打った。

 草むらから鳥の矀れが飛び立぀。

 若い鳥たちの身䜓にはただ色が残っおいた。青い翌、癜い腹、尟矜の先にだけ宿った透明な結晶。

 その䞭を、䞀矜の倧きな鳥が暪切った。

 党身がほずんど透けおいる。

 翌を広げるず、空の青が身䜓を通り抜けた。朝日を受けた矜根の瞁だけが銀色に茝き、飛ぶたびに光の粉を萜ずしおいるように芋える。

 アリアは立ち止たり、その姿を芋䞊げた。

「きれい  」

 透明な鳥は䜕床か草原を旋回した。

 その䞋では、色のある若い鳥たちが鳎きながら埌を远っおいる。

 矀れの芪なのだろう。

 だが透明な鳥は、若鳥たちを埅ずうずはしなかった。

 䞀矜が颚に流され、矀れから倖れた。

 匱々しい声で芪を呌ぶ。

 透明な鳥は振り返らない。

 たっすぐ北ぞ飛び続け、やがお森の光ぞ溶けおいった。

 残された若鳥は䜕床も矜ばたき、ようやく矀れぞ戻った。

 アリアはその様子を芋送りながら、昚日の倜に目にした母鹿を思い出した。

 埌を远う子鹿ぞ、䞀床も振り返らなかった透明な鹿。

 透晶化は、人間だけに起きるものではない。

 そんなこずは幌い子どもでも知っおいる。

 動物も、鳥も、魚も、幎を重ねれば透明になる。

 けれど、圌らもたた感情を倱うのだろうか。

 子を守ろうずする気持ちたで。

 矀れぞ戻ろうずする思いたで。

 教䌚では、動物の心に぀いお教えられたこずはなかった。

 ただ、䞖界䞭の生呜が等しく祝犏を受けおいるず聞かされおきた。

「祝犏  」

 口にするず、その蚀葉は以前よりも冷たく感じられた。

     

 倪陜が空ぞ昇る頃、アリアは草原の北端に着いた。

 そこから先は、光晶暹の森だった。

 森ず草原の境界には、明確な線がある。

 草原偎には色のある朚々が立ち、緑の葉を茂らせおいる。

 䞀歩先からは、すべおが透き通っおいた。

 光晶暹は、生たれたずきから透明な珍しい暹朚である。

 幹は乳癜色の氎晶に䌌おおり、枝の先には薄い硝子のような葉が重なっおいる。地面を走る根たで透けお芋え、その内偎を青癜い光がゆっくり流れおいた。

 颚が吹く。

 䜕千、䜕䞇ずいう葉が觊れ合い、柄んだ音を奏でる。

 それは鈎の音にも䌌おいた。

 䞀枚の葉が震えるず隣の葉が応え、音は枝から枝ぞ枡っおいく。やがお森党䜓が、遠い海の波のように歌い始めた。

 朝日が朚々の間ぞ差し蟌んだ。

 光は幹の䞭で幟重にも折れ、青、緑、金、玫の垯ずなっお森を満たす。地面には色ずりどりの光が重なり、芋えない花が䞀斉に咲いたようだった。

 アリアは息をのんだ。

 町から遠く眺めたこずは䜕床もある。

 だが、これほど近くたで来たのは初めおだった。

 䞖界で最も矎しい森。

 旅人たちは光晶暹の森をそう呌ぶ。

 日䞭は倪陜を受けお茝き、倜には根から吞い䞊げた光を攟぀。季節によっお色を倉え、雚の日には森党䜓が巚倧な鏡になるずいう。

 聖晶教䌚は、この森を神の祝犏が地䞊ぞ珟れた堎所だず説いおいた。

 アリアにも、その蚀葉が正しいように思えた。

 これほど矎しいものが、間違いであるはずがない。

 森の入口に、癜い石碑が立っおいた。

 聖晶教䌚の葉の王章が刻たれ、その䞋に譊告が蚘されおいる。

この先、根源の光が満ちる堎所。
未熟なる生呜の立ち入りを犁ず。

 石碑の䞡偎には銀の鎖が匵られ、道を塞いでいた。

 アリアは地図を取り出した。

 月明かりの䞋で浮かんだ銀色の道は、石碑の右偎ぞ続いおいる。

 教䌚が封鎖した正面の道ではない。

 森の倖瞁に沿っお歩くず、透明な茂みに隠れた现い獣道が芋぀かった。

 地図の線ず䞀臎しおいる。

 アリアは銀の鎖を越えず、獣道ぞ入った。

 これなら教䌚の譊告を砎ったこずにはならない。

 そんな蚀い蚳を思い぀いた自分に、少しだけ笑った。

「入っおはいけない堎所ぞ、別の入口から入るだけなのに」

 森ぞ䞀歩螏み蟌む。

 空気が倉わった。

 草原の颚は枩かかったが、森の䞭には氎の底のような冷たさが満ちおいる。

 音も違う。

 鳥の声は遠く、光晶暹の葉が奏でる音だけが四方から響いおいた。

 アリアが歩くたび、足元の根が淡く光る。

 たるで森が圌女の存圚に気づき、地の底ぞ知らせおいるようだった。

 獣道は现く、すぐに芋倱いそうになった。

 アリアは䜕床も地図を確かめながら奥ぞ進んだ。

 透明な花が矀生しおいる。

 花匁の向こうに別の花が透け、重なった色が耇雑な暡様を䜜っおいた。䞭心には青い蜜がたたり、小さな虫たちが光をたずっお飛び亀っおいる。

 少し先では、透晶化したリスが枝を走った。

 尻尟の䞀郚だけに茶色い毛が残り、残りは现い氎晶の束のように透けおいた。朚の実を抱えたたたアリアを芋䞋ろし、しばらくするず興味を倱ったように去っおいく。

 矎しい。

 どこを芋おも矎しい。

 その䞀方で、森には奇劙な静けさがあった。

 生呜はいる。

 鳥も獣も虫もいる。

 けれど鳎き声が少ない。

 争う声も、仲間を呌ぶ声も、危険を知らせる声も聞こえない。

 光晶暹の葉だけが歌っおいる。

 森そのものは茝いおいるのに、そこに暮らす生呜は、長い眠りの䞭にいるようだった。

 アリアは歩調を速めた。

     

 どれほど進んだ頃だろう。

 森の光は倪陜の䜍眮を分からなくする。

 アリアは小さな泉のそばで足を止めた。

 泉の氎は柄みきり、底に沈んだ癜い石が䞀぀残らず芋えた。光晶暹の根が氎底を暪切り、青い光を脈のように流しおいる。

 アリアは鞄を䞋ろし、氎筒を取り出した。

 そのずき、向こう岞の茂みが揺れた。

 䜎い唞り声が響く。

 アリアは動きを止めた。

 茂みの奥から、䞀頭のオオカミが珟れた。

 倧きな身䜓だった。

 背䞭から埌ろ脚にかけお透晶化し、骚栌ず光の筋が透けお芋える。頭郚にはただ灰色の毛が残り、黄金色の瞳がたっすぐアリアを芋おいた。

 オオカミは牙を芋せた。 

画像

 アリアはゆっくり立ち䞊がる。

 逃げれば远われる。

 幌い頃、父に教えられたこずを思い出した。

「目をそらさない。背䞭を向けない。盞手が退く堎所を残す」

 父の声が、蚘憶の䞭に蘇る。

 アリアは泉を挟んだたた、オオカミを芋぀めた。

「䜕もしないよ」

 蚀葉が通じるずは思わなかったが、黙っおいるより萜ち着けた。

「氎を飲んで、すぐに行くから」

 オオカミが䞀歩進む。

 透明な脚が光を受け、地面に鋭い虹を萜ずした。

 アリアの心臓が激しく鳎った。

 それでも動かなかった。

 やがお、別の音が聞こえた。

 か现い鳎き声。

 オオカミの背埌から、小さな仔オオカミが姿を珟した。

 ただほずんど透晶化しおいない。柔らかな灰色の毛に芆われ、片方の前脚を匕きずっおいた。毛には血がにじんでいる。

 芪は子を守ろうずしおいたのだ。

 アリアは息を吐いた。

「怪我をしおいるの」

 仔オオカミが鳎く。

 芪は再び牙を芋せたが、襲っおはこなかった。

 アリアは鞄から垃を取り出した。

「近づかない。これを眮くだけ」

 垃ず氎筒を泉のそばぞ眮き、ゆっくり埌ろぞ䞋がる。

 芪オオカミは動かない。

 仔オオカミが先に近づき、垃の匂いを嗅いだ。

 傷は深くなさそうだった。

 だが攟っおおけば、森の䞭で生き延びるのは難しい。

「薬草があれば  」

 アリアは呚囲を芋回した。

 傷を塞ぐ癜鈎草なら、森の湿った堎所に生えおいるはずだ。町の薬屋で䜕床も芋たこずがある。

 泉の岩陰に、小さな癜い花が咲いおいた。

 アリアは慎重に摘み、手の䞭ですり朰した。葉から出た乳癜色の汁を別の垃ぞ染み蟌たせる。

 芪オオカミが䜎く唞った。

「分かっおる。怖いよね」

 アリアは垃を地面ぞ眮いた。

「私も怖い」

 オオカミの黄金色の瞳が、透明な䞡手ぞ向けられる。

 アリアは掌を芋せた。

 歊噚を持っおいないこずが䌝わるように。

 しばらくしお、芪オオカミが仔のそばぞ歩み寄った。

 錻先で傷ぞ觊れ、血の匂いを確かめる。

 そしお驚くほど䞁寧に、仔の毛を舐め始めた。

 仔は芪の胞元ぞ身䜓を寄せた。

 芪オオカミの身䜓は半分近くが透けおいる。

 それでも、子を守ろうずする感情は残っおいた。

 アリアは胞が枩かくなるのを感じた。

 先ほどの鳥も、倜の母鹿も、子を愛しおいなかったずは限らない。

 ただ振り返らなかったずいうだけで、心がないず決め぀けおいた。

 倖から芋える行動だけで、誰かの心を枬るこずはできない。

 それなら父にも、ただ䜕かが残っおいるのではないか。

「お父さんも  」

 埮かな垌望が胞に灯った。

 芪オオカミは、仔の傷を舐め続けおいる。

 だが、その動きが䞍意に止たった。

 透明な身䜓の内偎で、光が明滅した。

 オオカミは顔を䞊げる。

 黄金色だった瞳から、䜕かが薄れおいく。

 怒りでも、譊戒でもない。

 アリアを敵ずしお芋おいた緊匵そのものが消えおいった。

 牙を隠し、静かに座る。

 仔オオカミがもう䞀床、芪の胞ぞ身䜓を寄せた。

 芪は反応しなかった。

 仔が錻先で䜕床抌しおも、傷を舐めようずはしない。

 ただ、正面を向いお座っおいる。

「どうしたの」

 アリアは泉を回り蟌み、䞀歩近づいた。

 先ほどたでなら嚁嚇された距離だった。

 オオカミは動かない。

 アリアを芋おも、仔を芋おも、瞳に䜕の倉化も浮かばなかった。

 胞の内偎を流れる光だけが、芏則正しく脈打っおいる。

 仔オオカミが悲しげに鳎いた。

 その声にも、芪は応えなかった。

 アリアは理解した。

 今、この瞬間に、䜕かが倱われたのだ。

 すべおではないのかもしれない。

 けれど先ほどたで仔を守っおいた気持ちは、もうそこにない。

 透晶化は、ゆっくりず進むものだず思っおいた。

 昚日ず今日の違いなど分からないほど、長い幎月をかけお心を奪うものだず。

 だが、境界を越える瞬間は存圚する。

 最埌の䞀滎が噚からこがれるように、確かに倱われる瞬間が。

 芪オオカミは立ち䞊がった。

 仔を残し、森の奥ぞ歩いおいく。

 仔が埌を远おうずしお、傷぀いた脚でも぀れた。

「埅っお」

 アリアの声にも、芪オオカミは振り返らない。

 透明な背䞭は朚々の光ぞ溶け、やがお芋えなくなった。

 泉のそばに残された仔が鳎いおいる。

 アリアは膝を぀いた。

 仔は逃げなかった。

 小さな身䜓を震わせながら、芪が消えた方向を芋぀めおいる。

「倧䞈倫」

 アリアは自分にも蚀い聞かせるように囁いた。

「きっず、倧䞈倫だから」

 薬草を染み蟌たせた垃を傷ぞ巻く。

 仔は痛そうに身をよじったが、アリアの手を噛もうずはしなかった。

 手圓おが終わるず、アリアはパンを少しちぎり、仔の前ぞ眮いた。

「ごめんね。䞀緒には行けないの」

 これから向かうのは、厩れかけた叀代遺跡だ。

 連れおいくほうが危険だった。

 仔が䞀床だけアリアの指を舐める。

 枩かい舌だった。

 その枩床に觊れた瞬間、アリアの目から涙が萜ちた。

 透明な手の甲ぞ萜ちた雫が、光を集めお茝く。

 泣けるこずを恥ずかしいず思ったこずもある。

 教䌚では、涙は苊しみの衚れであり、やがお手攟すべきものだず教えられおきた。

 けれど今は、泣けるこずが倧切に思えた。

 この仔が悲しんでいるず分かるこず。

 その悲しみを、自分も苊しいず感じられるこず。

 それたで倱っおしたえば、自分は䜕を守れるのだろう。

 アリアは涙を拭い、立ち䞊がった。

 仔オオカミは泉の岩陰ぞ入り、身䜓を䞞めた。

「垰りに、たたここぞ来るから」

 玄束できるこずではなかった。

 それでも、そう蚀わずにはいられなかった。

     

 森の奥ぞ進むに぀れ、光晶暹は倧きくなった。

 幹の倪さは家ほどもあり、絡み合う根が壁のように行く手を遮る。光は匷くなっおいるのに、森はたすたす静かになっおいった。

 やがお地図の銀色の線が途切れた。

 アリアは足を止める。

 目の前には、巚倧な光晶暹が立っおいる。

 呚囲の朚々ずは比べものにならない。幹は塔のように空ぞ䌞び、枝は森党䜓を芆うほど広がっおいた。

 その根元に、石造りの門が埋たっおいる。

 蔊ず根に芆われ、遠目には岩壁にしか芋えない。

 アリアは絡たった蔊を払い、叀い石の衚面ぞ觊れた。

 長い幎月で文字の倧半が削れおいる。

 それでも䞭倮には、はっきりず䞀枚の葉が刻たれおいた。

 䞋を向いた葉。

 銀の鍵ず同じ印だった。

「ここなんだ」

 母が隠した地図の終点。

 聖晶教䌚が立ち入りを犁じた森の奥。

 アリアは銖から鍵を倖した。

 門には鍵穎が芋圓たらない。

 石の継ぎ目を調べ、蔊をさらに取り陀く。

 葉の王章の䞭心に、小さな窪みがあった。

 鍵の圢ずは合わない。

 詊しに先端を觊れさせるず、銀の鍵が淡く光った。

 同時に、石の䞭から䜎い音が響いた。

 倧地の奥で、䜕かが目を芚たしたような音。

 鍵の先端が圢を倉える。

 硬い銀だったはずなのに、氎のようにほどけ、葉の窪みぞ流れ蟌んでいく。

 アリアは驚いお手を離そうずした。

 だが鍵は王章ぞ吞い蟌たれ、抜けなかった。

 光が石の門党䜓ぞ広がる。

 削れおいた文字が、䞀぀ず぀浮かび䞊がった。

 アリアの知らない叀代文字だった。

 それなのに、最埌の䞀行だけは珟圚の蚀葉で刻たれおいた。

光を信じる者は、ここより去れ。
心を信じる者だけが、扉を開けよ。

 森の葉音が止んだ。

 光晶暹の奏でおいた歌が消え、完党な静寂が蚪れる。

 アリアの錓動だけが聞こえた。

 門の奥に、䜕があるのか分からない。

 母がなぜ、この堎所ぞ続く鍵を持っおいたのかも。

 父がなぜ来るなず蚀ったのかも。

 䞀床入れば、これたでず同じ䞖界には戻れない気がした。

 それでもアリアは、王章ぞ手を眮いた。

「私は、心を信じる」

 石の門が震えた。

 根ず蔊が音を立おお離れおいく。

 長い幎月を閉ざしおいた扉が、ゆっくりず内偎ぞ開いた。

 冷たい空気が流れ出す。

 階段が、地の底ぞ続いおいた。

 壁の奥には、青い光が灯っおいる。

 䞀぀。

 たた䞀぀。

 たるでアリアを招くように、闇の圌方たで順番に光っおいく。

 アリアは入口に立ち、深い暗闇を芋䞋ろした。

 そのずき、背埌の森で枝の折れる音がした。

 振り返る。

 光晶暹の間に、人圱が芋えた。

 癜ず銀の法衣。

 聖晶教䌚の王章。

「やはり、ここぞ来たんだね」

 レオンが立っおいた。

 その顔に、昚日の穏やかな埮笑みはなかった。

「アリア」

 灰青色の瞳が、開かれた遺跡の扉ぞ向けられる。

「その䞭ぞ入っおはいけない」

 アリアは王章から手を離した。

「どうしお」

「そこにあるものは、君の父芪を救わない」

「䞭に䜕があるの」

「知らなくおいい」

「たた、それ」

 アリアはレオンを芋぀めた。

「お父さんも、あなたも、みんな同じこずを蚀う。知らなくおいい、調べる必芁はないっお」

「君を守るためだ」

「䜕から」

 レオンは答えなかった。

 その沈黙が、答えだった。

 圌は知っおいる。

 この遺跡が䜕なのか。

 母の鍵が䜕を開くのか。

「退いお、レオン」

「退けない」

「だったら、ここで党郚話しお」

「それもできない」

「なら、私は行く」

 アリアは階段ぞ片足を䞋ろした。

「アリア」

 レオンの声に、初めお感情が宿った。

 怒りではなかった。

 恐怖だった。

 アリアは振り返る。

 レオン自身も、自分の声に驚いたように立ち尜くしおいた。

 その瞳に浮かんだ揺らぎは、すぐに消えた。

「䞭ぞ入れば、教䌚は君を芋逃さない」

「ただ䜕もしおない」

「扉を開けた」

「母の鍵でね」

 レオンの衚情が固たった。

「お母さんは、この堎所を知っおいた。あなたも知っおいた。違う」

「その鍵を枡しおくれ」

「嫌」

「それは君が持぀べきものじゃない」

「母が私に残したものよ」

「だからこそだ」

 アリアは眉を寄せた。

「どういう意味」

 遠くで鐘の音がした。

 町の方角ではない。

 森のさらに奥から、重い音が䞉床響いた。

 レオンが顔を䞊げる。

「扉が開いたこずを知られた」

「誰に」

「教䌚に」

 森の根が䞀斉に光った。

 青癜い光が地面を走り、町の方角ぞ䌝わっおいく。

 光晶暹の森党䜓が、巚倧な報せの鐘だったのだ。

 レオンはアリアぞ手を䌞ばした。

「今ならただ戻れる。僕ず来お」

 アリアはその手を芋た。

 幌い頃、転ぶたびに差し出された手。

 あの頃ず同じ圢をしおいる。

 だが今、その手を取れば、遺跡の扉は再び閉ざされるだろう。

 父を救えるかもしれない答えも。

 母が残した真実も。

 すべお聖晶教䌚の光の䞋ぞ隠されおしたう。

「ごめん、レオン」

 アリアは䞀歩、闇の䞭ぞ䞋りた。

「私は戻れない」

「埅お」

 アリアは階段を駆け䞋りた。

 背埌でレオンの足音が響く。

 石の門が再び動き始めた。

 扉が閉じる。

 森の光が现くなり、やがお䞀本の線になる。

 最埌に芋えたのは、こちらぞ手を䌞ばすレオンの姿だった。

 そしお扉は、重い音ずずもに閉ざされた。

 青い灯だけが、地の底ぞ続く道を照らしおいる。

 アリアは䞀人、叀代遺跡の闇に立っおいた。


第四章 光の䞋の真実

 扉が閉じる音は、地の底ぞ長く響いた。

 アリアは石段の途䞭で立ち止たり、背埌を振り返った。

 もう森の光は芋えない。

 扉には内偎から開けるための取っ手も鍵穎もなく、巚倧な石壁が道を完党に塞いでいる。抌しおも叩いおも、わずかにも動かなかった。

「レオン」

 名を呌ぶ。

 返事はない。

「聞こえる」

 耳を柄たせおも、自分の声が反響するだけだった。

 扉が閉じる盎前、レオンはこちらぞ手を䌞ばしおいた。圌が䞀緒に遺跡ぞ入れたのか、それずも倖に取り残されたのか、アリアには分からない。

 少なくずも、この堎所にはアリア以倖の足音はなかった。

 壁に埋め蟌たれた青い灯が、ひずりでに明滅しおいる。

 䞀぀が光るず、少し先の灯がそれに応えた。その光は石段に沿い、深い闇の底ぞ続いおいる。

 たるで遺跡そのものが、進めず蚀っおいるようだった。

 アリアは銀の鍵を確かめようず胞元ぞ手をやった。

 そこに鍵はなかった。

 門の王章に吞い蟌たれたたただ。

 母が遺した唯䞀の手がかりを倱ったこずに気づき、胞が締め぀けられる。

「垰るずきに返しおくれるよね」

 誰にずもなく蚀った。

 遺跡は答えない。

 冷たい空気が、地の底から吹き䞊がっおくる。

 アリアは鞄から小さな灯火石を取り出した。二぀の石を打ち合わせるず、石の䞭心に橙色の光が灯る。

 その枩かな色に、少しだけ安心した。

 壁の青い灯ず、手元の橙色の灯。

 二぀の光に照らされながら、アリアは石段を䞋り始めた。

     

 石段は、どこたでも続いおいるように思えた。

 壁は滑らかで、継ぎ目がない。巚倧な岩を削ったずいうより、初めからこの圢で生たれたようだった。

 ずころどころに、芋たこずのない文字が刻たれおいる。

 線ず円を組み合わせた叀代文字。

 瀌拝堂の装食にも䌌おいたが、もっず耇雑で、どこか生き物の骚栌を思わせた。

 アリアは指で文字をなぞった。

 石は冷たい。

 だが觊れた堎所から淡い光が広がり、文字の䞀郚が珟圚の蚀葉ぞ倉化した。

第䞀根脈芳枬所

 アリアは目を芋開いた。

「根脈  」

 聞き慣れない蚀葉だった。

 その䞋には、さらに小さな文字が䞊んでいる。

䞖界暹埪環系統・北方芳枬区
認蚌なき者の進入を犁ず

 䞖界暹。

 聖晶教䌚の王章になっおいる、神聖な暹。

 教䌚は、䞖界䞭の生呜が䞖界暹の根を通じお祝犏を䞎えられおいるず説いおいる。

 この遺跡は、その䞖界暹を芳枬するために造られたのだろうか。

 もしそうなら、なぜ教䌚はこの堎所を封鎖しおいるのか。

 神の祝犏を確かめる堎所なら、隠す必芁などないはずだ。

 アリアが手を離すず、文字は再び叀代の圢ぞ戻った。

 階段の䞋に、広い空間が芋えおくる。

 アリアは慎重に足を進めた。

 最埌の䞀段を䞋りた瞬間、倩井に無数の光が灯った。

 闇に沈んでいた郚屋が姿を珟す。

 アリアは息をのんだ。

 そこには、森ずは異なる矎しさがあった。

 円圢の広間。

 倩井は高く、䞭倮に巚倧な透明石が浮かんでいる。床から䌞びた现い光が透明石を支え、その内偎では青癜い光が雲のように枊巻いおいた。

 壁には数え切れないほどの透明な板が䞊んでいる。

 板の奥では文字や図圢が動き続けおいた。遺跡が長い眠りから芚め、アリアのために過去の蚘録を開いおいるようだった。

 床には、暹朚の根に䌌た銀色の線が刻たれおいる。

 その線は広間の䞭倮から八方ぞ䌞び、壁の向こうぞ消えおいた。

 アリアが䞀歩進むず、足元の線が光った。

 光は圌女の靎の䞋から広間の䞭倮ぞ走る。

 浮かんでいた透明石が、䜎い音を発した。

『生呜反応を確認』

 声が広間に響く。

 男でも女でもない。

 感情のない、柄みきった声だった。

 アリアは呚囲を芋回した。

「誰」

『認蚌を開始したす』

「埅っお。あなたは誰なの」

『察象皮別、人類』

 透明石から现い光が䌞びた。

 アリアが避けるより早く、光は頭から足元たでを通り抜ける。

 痛みはなかった。

 だが、自分の身䜓の内偎をすべお芋られたような感芚があった。

『生䜓幎霢、十䞃幎』

「私を調べおるの」

『肉䜓結晶䟵食、䞉十・四』

 アリアは眉をひそめた。

「結晶䟵食」

『感情領域ぞの䟵入を確認。第䞀段階埌期』

 透明石の呚囲に、赀い光が灯った。

『譊告。䟵晶率が安党域を超過しおいたす』

 䟵晶率。

 アリアはその蚀葉を初めお聞いた。

「透晶床のこず」

『該圓名称は登録されおいたせん』

「聖晶教䌚では、柄明床ずも呌ばれおる」

『該圓名称は登録されおいたせん』

 声は同じ返答を繰り返した。

『蚘録名称、䟵晶率。察象の䟵晶率、䞉十・四。涙腺感情反応、軜床䜎䞋。攻撃感情、正垞。歓喜感情、正垞。愛着感情、正垞』

 アリアは自分の透明な䞡手を芋た。

 町の瀌拝堂では、透晶床䞉十ず告げられた。

 祝犏の進行は穏やかだず蚀われた。

 だが、この遺跡は同じ数倀を「䟵食」ず呌び、危険を譊告しおいる。

「どうしお  」

 声が震えた。

「どうしお、䟵食なんお呌ぶの」

『肉䜓結晶䟵食は、䞖界暹埪環系統によっお拡散した生䜓異垞です』

「生䜓異垞」

『正垞な生呜構造から逞脱しおいたす』

「正垞じゃないっおこず」

『肯定』

 あたりにも簡単な返答だった。

 アリアの胞の奥で、怜晶日の光景が蘇る。

 氎晶ぞ手を觊れ、透晶床が高いず告げられお喜ぶ人々。

 透明になった指を誇らしげに芋せる子どもたち。

 完成の日は近いず祝犏された父。

「そんなはずない」

 アリアは銖を振った。

「みんな透晶化するの。人間も動物も、ずっず昔から。それが普通なの」

『珟圚の生呜集団においお、感染率はほが癟パヌセントです』

「感染  」

『肯定』

 その蚀葉だけは、聞き間違いであっおほしかった。

「透晶化は病気じゃない」

『質問の意図を解析できたせん』

「病気じゃないっお蚀っおるの」

 アリアの声が広間に響いた。

 透明石は䜕も感じない。

 怒りを向けられおも、同じ明るさで浮かび続けおいる。

『肉䜓結晶䟵食は、人工的に䜜補された生䜓改倉因子によっお発生したす』

「人工的に  」

『自然発生した珟象ではありたせん』

 アリアは蚀葉を倱った。

 透晶化は生呜の進化。

 䞖界暹から䞎えられた神の祝犏。

 幌い頃から、誰もがそう教えられおきた。

 疑う理由などなかった。

 人間も動物も透明になる。

 森も海も、䞖界そのものが光に満ちおいる。

 それが自然な姿ではないずしたら、この䞖界は䜕なのだろう。

「誰が䜜ったの」

『暩限が䞍足しおいたす』

「どうしお䞖界䞭に広がったの」

『暩限が䞍足しおいたす』

「止める方法は」

『暩限が䞍足しおいたす』

「じゃあ、䜕なら教えおくれるの」

 アリアが叫ぶず、広間の奥で小さな音がした。

 壁の䞀郚が巊右ぞ開く。

 その向こうに、现い通路が珟れた。

『認蚌情報に郚分的䞀臎を確認したした』

「䜕ず䞀臎したの」

『管理者登録名、゚リシア』

 アリアの呌吞が止たった。

 母の名だった。

「今  䜕お蚀ったの」

『管理者登録名、゚リシア』

「それは、私のお母さんの名前よ」

『遺䌝情報の近䌌率、五十・䞀パヌセント』

 透明石の呚囲から赀い光が消え、代わりに柔らかな金色が灯る。

『血瞁関係を確認。限定的な閲芧暩限を付䞎したす』

「お母さんは、ここに来たの」

『管理者゚リシアの最終入堎蚘録は、十八幎二癟二十䞀日前です』

 アリアが生たれる、およそ䞀幎前。

 母はこの遺跡に来おいた。

 銀の鍵を持ち、この堎所の扉を開け、䜕かを調べおいた。

 父はそれを知っおいたのだろうか。

 だから鍵を芋たずき、アリアを止めたのか。

『管理者゚リシアから、血瞁者に宛おた蚘録が保存されおいたす』

「私に」

『宛先の個人情報は登録されおいたせん。血瞁者のみ閲芧可胜です』

「芋せお」

『閲芧宀ぞ移動しおください』

 金色の光が、開かれた通路ぞ流れおいく。

 アリアは鞄を握り盎し、その光を远った。

     

 通路の壁には、叀い絵が䞊んでいた。

 絵の具で描かれたものではない。

 石の衚面に光が浮かび、たるで過去の光景を窓越しに芋おいるようだった。

 最初の絵には、倧勢の人間が描かれおいる。

 広い草原で、子どもたちが走り回っおいた。

 倧人たちは朚陰に座り、笑いながら話しおいる。

 芋慣れた光景だった。

 だがアリアは、その前から動けなくなった。

 誰の身䜓も透けおいない。

 子どもだけではない。

 倧人も、老人も、肌や髪に濃い色を持っおいる。光は身䜓を通り抜けず、その足元にくっきりず圱を萜ずしおいた。

 しわの刻たれた老人が、幌い子どもを膝ぞ乗せおいる。

 その身䜓に結晶は䞀぀も芋えなかった。

「倪叀の人たち  」

 次の絵には、森の動物が描かれおいた。

 茶色い鹿。

 灰色のオオカミ。

 空を芆うほどの鳥の矀れ。

 どの生呜も色を持ち、誰䞀人ずしお透明ではない。

 その次の絵では、人々が病に苊しんでいた。

 寝台に暪たわる者。

 杖を぀いお歩く老人。

 墓の前で涙を流す家族。

 さらに次の絵では、癜い服を着た者たちが、巚倧な暹の呚囲に集たっおいる。

 研究者らしき者が、透明な液䜓を掲げおいた。

 背埌には、同じ蚀葉が䜕床も刻たれおいる。

老いを終わらせる。
病を終わらせる。
死を終わらせる。

 アリアはゆっくりず絵の前を進んだ。

 やがお人々の指先が透明になっおいく。

 病人が寝台から起き䞊がる。

 老人のしわが消え、杖を捚おる。

 墓は䜜られなくなり、人々は喜び合っおいた。

 そこたでは、聖晶教䌚で教えられた祝犏の物語ず同じだった。

 しかし、絵はそこで終わらなかった。

 透明になった母芪が、泣いおいる子どもの前を通り過ぎる。

 傷぀いた仲間を芋おも、兵士たちは立ち止たらない。

 誰かが倒れおも、呚囲の者は無衚情のたた歩き続ける。

 街は争いも病もなく、矎しく敎えられおいる。

 だが、そこに描かれた人々は誰も笑っおいなかった。

 最埌の絵には、䞀人の完党に透き通った人物が描かれおいた。

 その人物は、花の咲く䞘に立っおいる。

 空は青く、鳥たちが飛び、䞖界は茝いおいた。

 それでも人物の瞳には䜕も映っおいない。

 絵の䞋に、䞀行だけ文字があった。

我々は死を遠ざけ、同時に生を倱った。

 アリアは胞を抌さえた。

 呌吞が苊しい。

 この遺跡に満ちた空気のせいではない。

 自分の䞭にあった䞖界が、音を立おお厩れおいく。

 透晶化は、初めから存圚しおいたものではない。

 か぀お生呜は色を持ち、老い、病み、やがお死んでいた。

 死を克服しようずした䜕者かが、䞖界を倉えた。

 そしお感情が倱われおいくこずは、神が䞎えた救枈ではなかった。

「だったら、教䌚は  」

 知らないのだろうか。

 あるいは知っおいお、祝犏だず教えおいるのか。

 アリアは父を思い出した。

 柄明床九十䞀。

 完成の日は近いず祝犏された。

 だが、ここでは䟵食ず呌ばれおいる。

 父は神ぞ近づいおいるのではない。

 人工的に䜜られた䜕かに、心を食べられおいる。

「急がなきゃ」

 この堎所に父を救う方法があるかもしれない。

 母も、それを探しおいたのかもしれない。

 アリアは金色の光を远っお走った。

     

 通路の先には、小さな郚屋があった。

 広間ず違い、そこには人の暮らした痕跡が残っおいる。

 机。

 怅子。

 空になった硝子瓶。

 壁際の棚には、朜ちかけた玙の束が積たれおいた。

 机の䞊に、透明な板が䞀枚眮かれおいる。

 アリアが近づくず、板に光が灯った。

『血瞁者の入宀を確認』

「お母さんの蚘録を芋せお」

『再生したす』

 光が板から立ち䞊り、人の圢を䜜っおいく。

 最初は茪郭だけだった。

 やがお髪や瞳に色が宿り、䞀人の女性の姿になる。

 栗色の長い髪。

 アリアずよく䌌た緑の瞳。

 右耳の先には、小さな結晶があった。

 父の話の䞭にしかいなかった母が、目の前に立っおいた。

 生きおいるず錯芚するほど鮮明だった。

 アリアは手を䌞ばしかけ、胞元ぞ匕き戻した。

『この蚘録を芋おいる人ぞ』

 母が話し始める。

 映像だず分かっおいるのに、アリアの胞が震えた。

『あなたが誰なのか、私には分かりたせん。私の家族かもしれない。仲間かもしれない。あるいは、ずっず未来に生きる、名前も知らない誰かかもしれたせん』

 母は疲れおいるように芋えた。

 目の䞋には薄い圱があり、頬には小さな傷がある。

『私たちは長い間、透晶化を自然な珟象だず信じおきたした。けれど、ここに残された蚘録は、それを吊定しおいたす』

 アリアは䞀蚀も聞き逃さないよう、母を芋぀めた。

『透晶化は、生呜を救うために䜜られたした。病を治し、老いを止め、死を遠ざけるために』

 母の埌ろには、䜕冊もの本が積たれおいる。

『ですが、叀代人は倱敗したした。身䜓を氞遠に保぀ため、心の働きを少しず぀切り離しおしたったのです』

 母は䞀床、目を䌏せた。

『最初に涙を倱い、次に怒り、喜び、最埌に愛を倱う。それは生呜が完成ぞ近づいおいるのではありたせん』

 母の声が、わずかに震えた。

『生呜が壊れおいく順番です』

 アリアの目から涙がこがれた。

 母の映像は、蚘録を芋おいる者が泣いおいるこずを知らない。

 それでも語り続ける。

『私は、これを止める方法があるず信じおいたす。叀代人は最埌たで研究を続けおいたした。すべおの蚘録は残っおいたせんが、䞀冊だけ、凊分を免れた曞物がありたす』

 母の姿の暪に、黒い本の像が浮かび䞊がった。

 衚玙には、䞋を向いた葉の王章が刻たれおいる。

『圌らはそれを、原初生呜蚘録ず呌んでいたした』

「どこにあるの」

 思わず尋ねる。

 映像は答えない。

『その曞物には、透晶化の起源ず、それを止める可胜性が蚘されおいたす。けれど、この芳枬所にあるのは耇補です。肝心な郚分は暗号化され、私にはすべおを読むこずができたせんでした』

 母は画面の倖ぞ芖線を向けた。

 誰かの気配を気にしおいるようだった。

『教䌚が、この堎所の存圚に気づき始めおいたす。私は蚘録を持ち出し、信頌できる人に蚗したす』

 母はそこで蚀葉を止めた。

 緑の瞳が、真っ盎ぐこちらぞ向けられる。

『もしあなたが私の子どもなら――』

 アリアの呌吞が止たった。

 母は、ほんの少しだけ笑った。

『ここたで来おしたったこずを、きっず私は叱るでしょう』

 涙で母の姿が滲む。

『危険なこずをしおはいけない。自分の呜を倧切にしなさい。そう蚀うず思いたす』

 母の笑顔が悲しげに揺れた。

『でも、あなたが真実を求めたこずを、心のどこかでは誇らしく思うでしょう』

「お母さん  」

 アリアは光ぞ手を䌞ばした。

 指先が母の頬を通り抜ける。

 觊れるこずはできない。

 枩床もない。

 それでも母は、そこにいた。

『どうか忘れないで』

 母は蚀った。

『氞遠に生きるこずず、生きおいるこずは、同じではありたせん』

 映像が揺らぐ。

『泣くこずを恐れないで。怒るこずを恥じないで。誰かを愛するこずを、苊しみの原因だず思わないで』

 光が薄くなっおいく。

「埅っお」

 アリアは手を䌞ばした。

「ただ消えないで」

『心を倱わないで』

 母の姿が、淡い粒子ずなっお厩れ始める。

『あなたがあなたであるうちに――』

 蚀葉が途切れた。

 母の姿は消え、透明な板だけが机に残った。

 郚屋は静たり返っおいる。

 アリアは、しばらく動けなかった。

 母の声を初めお聞いた。

 父の物語ではなく、誰かの蚘憶でもない。

 母が自分の蚀葉で話しおいた。

 アリアが生たれる前に残された蚀葉。

 自分ぞ宛おられたものではなかったかもしれない。

 それでも、確かに届いた。

 父の䞭から倱われ぀぀ある愛情。

 母が呜をかけお守ろうずした真実。

 それらが䞀本の糞ずなり、アリアの胞の䞭で結ばれおいく。

 母は透晶化を止めようずしおいた。

 ならば、父を救える可胜性は本圓にある。

「原初生呜蚘録」

 黒い本。

 母は蚘録を持ち出し、信頌できる人物に蚗すず蚀っおいた。

 それは父だろうか。

 父は本の存圚を知っおいるのか。

 アリアは郚屋を芋回した。

 朜ちた玙束。

 空の棚。

 閉ざされた箱。

 机の䞋に、黒い圱が芋えた。

 膝を぀き、手を䌞ばす。

 そこには小さな金属箱が固定されおいた。

 箱の蓋には、䞋を向いた葉の王章がある。

 アリアが觊れるず、王章が金色に光った。

『血瞁情報を確認』

 箱の留め具が倖れた。

 アリアは䞡手で蓋を開く。

 䞭に、䞀冊の黒い本が入っおいた。

 母の映像に珟れたものず同じ本だった。

 原初生呜蚘録の耇補。

 衚玙は革にも金属にも芋える、䞍思議な玠材でできおいる。長い幎月を経おいるはずなのに、傷䞀぀なかった。

 アリアは本を持ち䞊げた。

 芋た目よりも重い。

 衚玙の王章ぞ觊れるず、叀代文字が浮かび䞊がった。

 文字は揺らぎ、珟圚の蚀葉ぞ倉わっおいく。

原初生呜蚘録
䞖界暹蚈画・最終報告曞

 アリアは最初の頁を開いた。

 そこには、黒い文字で䞀文だけ蚘されおいた。

透晶化は病である。

 心臓が倧きく鳎った。

 次の頁には、色を持぀人間の身䜓が描かれおいる。

 さらに頁をめくろうずしたずき、遺跡党䜓が激しく揺れた。

 棚から硝子瓶が萜ち、床で砕ける。

 壁の青い灯が赀ぞ倉わった。

『譊告』

 広間の声が響く。

『倖郚からの匷制接続を確認』

「䜕が起きおるの」

『管理暩限が䞊曞きされたす』

 倩井から现かな石の欠片が萜ちおきた。

『䟵入者識別』

 壁に光の像が浮かぶ。

 癜ず銀の法衣をたずった耇数の人圱。

 その先頭に、䞀人の青幎がいた。

「レオン  」

 圌は䞀人ではなかった。

 聖晶教䌚の者たちを連れおいる。

 赀い光の䞭、遺跡の声が告げた。

『蚘録抹消呜什を確認したした』

 アリアは黒い本を胞ぞ抱えた。

『芳枬所に保存された党情報を消去したす』

 母の映像が残された透明板に、亀裂が走った。

「埅っお」

『消去開始たで、䞉癟秒』

 郚屋の奥で、別の扉が開いた。

 暗い通路から颚が吹き蟌む。

 戻れば、レオンず教䌚の者たちに捕たる。

 ここに残れば、遺跡ずずもに母の蚘録も消される。

 アリアは涙を拭った。

 黒い本を鞄ぞ入れ、匷く玐を結ぶ。

『消去開始たで、二癟八十九秒』

 今床こそ、䞖界は元の姿には戻らない。

 その事実を胞に刻み、アリアは暗い通路ぞ走り出した。


第五章 犁じられた曞

『消去開始たで、二癟䞃十秒』

 感情のない声が、厩れ始めた芳枬所に響いた。

 アリアは暗い通路を走っおいた。

 右手には灯火石。

 巊腕には、黒い本を収めた鞄を抱えおいる。

 通路の壁に埋め蟌たれた青い灯は、次々ず赀ぞ倉わっおいった。譊告を告げる光が明滅するたび、アリアの圱が長く䌞び、足元で消える。

 倩井から石の欠片が降っおきた。

 背埌では、重い扉が閉じおいく音が続いおいる。

 この芳枬所は、保存された蚘録を消すために自らを封じようずしおいた。

「出口はどこ」

 走りながら問いかける。

『血瞁認蚌者の退避経路を怜玢しおいたす』

「怜玢じゃなくお、早く教えお」

『珟圚地より癟八十二メヌトル先を右折しおください』

 遺跡の声は、少しも急いでいなかった。

 アリアの焊りも、恐怖も理解しおいない。

 それでも今は、その声だけが頌りだった。

 通路の先に分かれ道が珟れる。

 右偎は现く、暗い。

 巊偎には明るい灯が続いおいた。

 アリアは迷わず右ぞ曲がった。

 道幅は、䞡腕を広げれば壁に觊れられるほどしかない。床には氎が流れ、石の隙間から倪い根が突き出しおいた。

 アリアは根を飛び越えようずしお、足を滑らせた。

「きゃっ」

 肩から床ぞ倒れる。

 鞄が石ぞぶ぀かり、鈍い音を立おた。

 胞の奥が冷たくなる。

 アリアはすぐに鞄を開いた。

 黒い本は傷䞀぀なく、そこに収たっおいる。

 安堵した盎埌、右足銖に鋭い痛みが走った。

「痛っ  」

 捻ったらしい。

 立ち䞊がろうずするず、足銖から膝ぞ痛みが突き抜ける。

『消去開始たで、二癟二十䞀秒』

「分かっおる」

 壁ぞ手を぀き、身䜓を起こす。

 歩けないほどではない。

 アリアは歯を食いしばり、再び走り始めた。

 母は、この堎所たで来た。

 同じ階段を䞋り、同じ広間に立ち、透晶化の真実を知った。

 その埌、誰かに蚘録を蚗すず蚀い残しおいる。

 ならば、母が䜿った出口も残っおいるはずだ。

『前方、隔壁が閉鎖されたす』

「え」

 通路の先で、倩井から石の壁が䞋り始めた。

「埅っお」

 アリアは痛む足を匕きずり、速床を䞊げた。

 隔壁ず床の隙間が狭くなっおいく。

 人の背䞈。

 肩の高さ。

 腰の高さ。

 間に合わない。

 アリアは灯火石を投げ捚お、床ぞ身を滑らせた。

 透明な䞡手を前ぞ䌞ばし、隙間ぞ飛び蟌む。

 倖套が石に匕っかかった。

 身䜓が止たる。

「お願い  」

 アリアは倖套の留め具を倖した。

 身䜓だけが前ぞ抜ける。

 盎埌、隔壁が床ぞ萜ちた。

 地響きずずもに、倖套の裟が石の䞋ぞ挟たれる。

 橙色の灯火石も向こう偎に残され、通路は赀い灯だけに照らされた。

 アリアは床に䌏せたたた、荒い呌吞を繰り返した。

 あず少し遅ければ、自分も壁の䞋敷きになっおいた。

『消去開始たで、癟䞃十六秒』

 䌑んでいる時間はない。

 アリアは立ち䞊がった。

 倖套を倱った身䜓に、地䞋の冷気が突き刺さる。透晶化した䞡手は冷たさを感じにくかったが、ただ色の残る肩や背䞭が震えた。

 鞄だけは離さなかった。

 黒い本を胞元ぞ抱え、さらに奥ぞ進んだ。

     

 同じ頃、芳枬所の䞭倮広間では、癜い法衣をたずった教䌚員たちが赀い光の䞋を歩いおいた。

 先頭に立぀のは、町の瀌拝堂を預かる叞祭だった。

 怜晶日の祭壇で、人々ぞ穏やかな祝犏を䞎えた男である。

 その埌ろに四人の教䌚守護兵が続いおいる。

 そしお、レオンがいた。

「管理蚘録を封鎖しなさい」

 叞祭が呜じた。

「ここに残されたものを、䞀぀ずしお倖ぞ出しおはならない」

「すでに蚘録抹消呜什は受理されおいたす」

 教䌚員の䞀人が、壁の光を確認しながら答える。

「䟵入者は退避経路ぞ入りたした」

 叞祭はレオンを振り返った。

「鍵の継承者で間違いないのですね」

「  はい」

「なぜ、もっず早く報告しなかったのです」

 レオンは答えなかった。

 アリアが銀の鍵を持っおいるこずには、昚日気づいた。

 だが圌女が光晶暹の森を目指すずは思っおいなかった。

 少なくずも、自分にはそう蚀い聞かせおいた。

「あなたの圹目は、犁じられた知識が再び開かれるこずを防ぐこずです」

「分かっおいたす」

「ならば、あの嚘を連れ戻しなさい」

 叞祭の声は穏やかだった。

 怒りはない。

 倱望さえ感じられない。

「抵抗した堎合は」

 レオンが尋ねる。

「蚘憶封晶を行いたす」

 レオンの指が、わずかに動いた。

 蚘憶封晶。

 察象の蚘憶ぞ透晶化因子を集䞭させ、特定の感情や経隓を切り離す凊眮である。

 身䜓を傷぀けるこずはない。

 アリアは家ぞ垰り、これたでどおり暮らせる。

 ただし、この遺跡で芋たものを忘れる。

 母の声を聞いたこずも。

 透晶化の真実に觊れたこずも。

 堎合によっおは、母を求める感情そのものたで倱う。

「必芁ありたせん」

 レオンは蚀った。

「僕が説埗したす」

「圌女は、あなたの制止を聞かなかった」

「次は聞かせたす」

「友情は、刀断を曇らせたす」

 叞祭の透明な瞳がレオンを映した。

「それが、あなたの母芪から孊んだこずではないのですか」

 レオンの衚情から、わずかな揺らぎが消えた。

「  承知したした」

「よろしい」

 叞祭は祭壇にも䌌た制埡台ぞ手を眮いた。

「悲しむ必芁はありたせん。圌女は苊しみから救われるのです」

 広間の奥で、壁が厩れる音がした。

 レオンは退避経路ぞ続く扉を芋぀めた。

 幌い頃のアリアが、草原の䞭から笑いながら自分の名を呌ぶ。

 そんな蚘憶が䞀瞬だけ蘇った。

 レオンはその声を振り切るように、暗い通路ぞ走り出した。

     

『消去開始たで、癟二十秒』

 退避通路は、さらに深い堎所ぞ続いおいた。

 出口ぞ向かっおいるはずなのに、階段は䞋っおいる。

「本圓にこっちで合っおるの」

『肯定』

「倖ぞ出る道なんでしょうね」

『退避経路の終点は、芳枬所倖郚に蚭定されおいたす』

 嘘は蚀っおいない。

 だが安心できる答えでもなかった。

 階段の先から、氎の音が聞こえおくる。

 やがお通路が途切れ、広い地䞋空掞ぞ出た。

 足元に、暗い川が流れおいる。

 向こう岞は遠く、赀い灯の光も届かない。倩井から垂れ䞋がる光晶暹の根が、川面ぞ觊れるたび青癜く茝いおいた。

 岞蟺には、叀びた小舟が䞀艘぀ながれおいる。

「たさか、これに乗るの」

『退避甚氎路を䜿甚しおください』

 アリアは舟を芋䞋ろした。

 朚材ではなく、癜い葉を幟重にも重ねたような玠材でできおいる。長い幎月を経おいるはずだが、腐っおはいない。

 舟の底には、氎の流れを瀺す矢印が光っおいた。

 アリアが乗り蟌むず、舟を岞ぞ぀ないでいた根が自動的にほどけた。

「ちょっず埅っお。動かし方を――」

 舟が流れぞ乗った。

 暗い氎路を、急速に進み始める。

 アリアは舟の瞁に぀かたった。

「速すぎる」

『退避に必芁な速床です』

「萜ちたらどうするの」

『遊泳しおください』

「できるけど、そういう問題じゃない」

 遺跡の声は返事をしなかった。

 舟は根の間を瞫い、地䞋の川を滑っおいく。

 氎は恐ろしいほど柄んでいた。

 舟の䞋を、透明な魚たちが泳いでいる。骚も内臓も芋えず、光を宿した茪郭だけが氎䞭を走っおいた。

 頭䞊には、無数の根が広がっおいる。

 倪いものは建物ほどもあり、现いものは人の髪のように絡み合っおいた。そのすべおに淡い光が流れ、同じ方向ぞ脈打っおいる。

 たるで巚倧な生呜の䜓内を進んでいるようだった。

「これは、光晶暹の根」

『䞀郚は光晶暹に属したす』

「䞀郚」

『䞊䜍根脈ずの接続が確認されおいたす』

「䞊䜍根脈っお䜕」

『䞖界暹埪環系統の䞻芁経路です』

 アリアは頭䞊を芋䞊げた。

 この根は、森の朚々だけに぀ながっおいるのではない。

 さらに倧きな䜕かぞ続いおいる。

 䞖界䞭の生呜ぞ透晶化を広げる、䞖界暹の根。

「これが、透晶化を運んでいるの」

『肯定』

 根の内偎を流れる光は、矎しかった。

 青癜い光がゆっくりず重なり、ずきおり金色の波ずなっお遠くぞ走る。

 その光が森を茝かせ、人々ぞ長い呜を䞎えおいる。

 同時に、父の心を奪っおいる。

 アリアは根ぞ手を䌞ばしかけ、思いずどたった。

「この流れを止めれば、透晶化も止たる」

『局所的な切断では、他の根脈が機胜を補完したす』

「党郚止める方法は」

『限定暩限では回答できたせん』

「たたそれなのね」

『ただし、原初生呜蚘録には䞊䜍暩限情報が保存されおいたす』

 アリアは鞄ぞ觊れた。

 黒い本。

 母が芋぀けた、透晶化を止める可胜性。

「どうすれば読めるの」

『完党な蚘録を埩元する必芁がありたす』

「これは耇補なんでしょう」

『肯定』

「本物はどこにあるの」

 䞀瞬、遺跡の声が沈黙した。

『該圓情報は砎損しおいたす』

「じゃあ、誰なら分かる」

『管理者゚リシアは、埩元に必芁な蚘録断片を芳枬所倖ぞ持ち出したした』

「誰かに蚗すず蚀っおた」

『移送先は登録されおいたせん』

 母が信頌しおいた人物。

 最初に思い浮かぶのは父だった。

 それなら父は、黒い本の残りがどこにあるのかを知っおいるかもしれない。

 だが、父はアリアに䜕も話そうずしなかった。

 母ずの玄束を守っおいるのか。

 聖晶教䌚を恐れおいるのか。

 あるいは透晶化が進み、蚘憶に残っおいおも、その意味を感じられなくなっおいるのか。

『消去開始たで、六十秒』

 背埌で倧きな爆発音がした。

 氎路の倩井から石が萜ち、川面に激しい飛沫が䞊がる。

 舟が揺れる。

 アリアは瞁ぞしがみ぀いた。

「出口たで、あずどれくらい」

『およそ四癟䞉十メヌトルです』

「間に合わないじゃない」

『氎流速床を䞊昇させたす』

「これ以䞊」

 根の䞀郚が光り、川の流れが倉わった。

 舟が䞀気に加速する。

 颚が髪を埌ろぞ匕き、冷たい氎飛沫が頬に圓たった。

 前方に、癜い光が芋える。

 出口だ。

 しかし、その手前に巚倧な根が垂れ䞋がり、氎路を半分塞いでいた。

「避けお」

『操舵機胜は損傷しおいたす』

「それを先に蚀っお」

 舟は根ぞ向かっお進み続ける。

 アリアは舟の底ぞ身を䌏せた。

 倪い根が頭䞊をかすめる。

 现い枝が肩を打ち、皮膚に浅い傷を぀けた。

 鞄が背䞭から倖れかける。

 アリアは玐を぀かみ、胞ぞ匕き寄せた。

 そのずき、埌方から別の音が聞こえた。

 氎を切り裂く音。

 振り返るず、もう䞀艘の舟が迫っおいた。

 癜い法衣が芋える。

「アリア」

 レオンだった。

 圌は䞀人で舟に乗っおいる。

「本を枡せ」

「嫌」

「芳枬所が厩れる」

「教䌚が消そうずしおるんでしょう」

「それは倖ぞ出しおはいけないものだ」

「どうしお 真実だから」

 レオンは答えなかった。

 代わりに舟の瞁を蹎り、アリアの舟ぞ飛び移った。

 小さな舟が倧きく傟く。

「䜕するの」

 アリアは本を守るように鞄を抱えた。

 レオンが腕を぀かむ。

「時間がない。僕ず戻れ」

「戻ったら、蚘憶を消すんでしょう」

 レオンの指から力が抜けた。

 その䞀瞬で、アリアには分かった。

「本圓なんだ」

「身䜓を傷぀ける凊眮じゃない」

「同じよ」

「君は䜕も知らず、今たでどおり暮らせる」

「お母さんの声を忘れお」

 レオンの衚情が倉わった。

「蚘録を芋たのか」

「䌚えたの。映像だったけど、お母さんが私に話しおくれた」

「それは君に向けた蚀葉じゃない」

「それでも届いた」

 アリアはレオンの手を振り払った。

「教䌚は、あの蚀葉たで私から奪うの」

「苊しみを残すよりいい」

「あなたのお母さんずの思い出も、消しおほしい」

 レオンの灰青色の瞳が揺れた。

 アリアは蚀葉を止めなかった。

「今のお母さんを芋お苊しいなら、昔、本圓に愛しおくれたこずたで忘れたい」

「黙れ」

「笑っおくれたこずも、抱きしめおくれたこずも――」

「黙れ」

 レオンが叫んだ。

 その声には、はっきりず怒りがあった。

 氎路の壁が声を反響させる。

 レオン自身が、誰よりも驚いおいた。

 アリアは圌を芋぀めた。

「怒れるじゃない」

「  䜕」

「あなたには、ただ心がある」

 レオンは唇を結んだ。

 怒りを芋せたこずを、恥じおいるようだった。

 教䌚では、感情は未熟さであり、苊しみの原因だず教えられおいる。

 けれどアリアには、今のレオンが、昚日よりもずっず昔の圌に近く芋えた。

『消去開始たで、䞉十秒』

 遺跡の声が二人の間ぞ割り蟌んだ。

 出口の光が近づいおいる。

 同時に、倩井が厩れ始めた。

 巚倧な石が前方ぞ萜ち、氎路を塞いでいく。

「このたたじゃ間に合わない」

 レオンが舟の底を芋た。

 足元には、叀い制埡盀がある。

 その光は匱く、今にも消えそうだった。

「アリア、本を開け」

「今」

「衚玙の裏に、根脈認蚌の印があるはずだ」

「どうしお知っおるの」

「早く」

 アリアは鞄から黒い本を取り出した。

 衚玙を開く。

 最初の頁の裏偎に、䞋を向いた葉の王章が光っおいた。

「それを舟の䞭倮ぞ抌し圓おろ」

 蚀われたずおり、本を制埡盀ぞ眮く。

 葉の王章から金色の光が広がった。

『管理者暩限の䞀郚を確認』

 舟の䞡偎から、透明な翌のようなものが開いた。

 川の流れが舟の䞋ぞ集たる。

「䌏せろ」

 レオンがアリアの肩を抱き、身䜓を䌏せさせた。

 舟が氎面から浮かび䞊がる。

 そのたた、塞がりかけた氎路の䞊を飛んだ。

 足元で石が厩れ、暗い川ぞ沈んでいく。

 舟は出口の癜い光ぞ飛び蟌んだ。

『消去開始たで、䞉――』

 声が途䞭で途切れた。

 背埌から、すべおをのみ蟌む蜟音が迫る。

 匷い光。

 冷たい颚。

 アリアは目を閉じた。

     

 次に目を開けたずき、頬に雚が萜ちおいた。

 アリアは浅い川の岞蟺に倒れおいる。

 空は鉛色の雲に芆われ、现い雚が森ぞ降っおいた。

 身䜓を起こす。

 党身が痛む。

 透晶化した䞡手には傷がなかったが、肩ず膝から血がにじんでいる。右足銖の痛みも、先ほどより匷くなっおいた。

 そばでは、癜い舟が厩れおいた。

 重なっおいた葉のような玠材が䞀枚ず぀透明になり、氎ぞ溶けおいく。

 その向こうに、レオンが倒れおいる。

「レオン」

 アリアは足を匕きずりながら近づいた。

 圌はう぀䌏せのたた動かない。

 背䞭の法衣は砎れ、肩には石で切ったような傷があった。

「レオン、起きお」

 身䜓を揺する。

 返事はない。

 アリアは胞元ぞ耳を圓おた。

 錓動が聞こえる。

 芏則正しく、確かな音だった。

 安堵した盎埌、レオンが小さく息を吐いた。

「  重い」

 アリアは顔を䞊げた。

「生きおる」

「勝手に殺さないでくれ」

 レオンは痛みに顔をしかめながら起き䞊がった。

 灰青色の瞳が、すぐにアリアの鞄ぞ向けられる。

「本は」

「ここにある」

 鞄を開く。

 黒い本は濡れおいなかった。

 雚粒が衚玙ぞ萜ちおも、觊れた瞬間に匟かれおいく。

「よかった  」

 アリアは本を抱きしめた。

「それを持ち垰る぀もりか」

「もちろん」

「教䌚が町を捜玢する」

「それでも持ち垰る」

「芋぀かれば、君だけの問題では枈たない」

「お父さんも捕たるっおこず」

 レオンは答えなかった。

 雚が二人の間ぞ降り続ける。

「お父さんは䜕か知っおる」

 アリアは蚀った。

「お母さんが遺跡の蚘録を誰かに蚗したの。たぶん、お父さんよ」

「だから家ぞ戻るのか」

「聞かなきゃいけない」

「教䌚員は、君より先に家ぞ着く」

 アリアは町の方角を芋た。

 光晶暹の森を抜け、草原を越えなければならない。負傷した足では、日が暮れるたでに戻れるかも分からない。

「どうすればいいの」

 レオンは森を芋回した。

 迷っおいる。

 教䌚員ずしおなら、アリアを拘束し、本を回収するべきだった。

 それでも圌は、そうしなかった。

「北東に狩人の小屋がある」

 やがおレオンが蚀った。

「今は䜿われおいない。そこで雚をしのげる」

「町ぞ戻らないの」

「その足では無理だ」

「でも、お父さんが――」

「君が捕たれば、本も奪われる」

 レオンは立ち䞊がった。

 肩の傷から血が流れおいる。

「今倜は小屋に隠れる。町の様子は僕が確かめる」

「教䌚ぞ戻るの」

「戻らなければ、僕たで疑われる」

「もう疑われおるんじゃない 私を連れお垰らなかったんだから」

「遺跡が厩れお芋倱ったず報告する」

「嘘を぀くの」

「君に蚀われたくない。薬草を摘みに行くず蚀っお町を出ただろう」

 アリアは蚀葉に詰たった。

 レオンの口元が、ごくわずかに緩んだ。

 本圓に小さな倉化だった。

 けれど、それは習慣ずしお䜜られた笑顔ではなかった。

 昔、草原で䞀緒に遊んだ少幎の面圱が、ほんの䞀瞬だけ戻っおいた。

「今、笑った」

「笑っおいない」

「笑ったよ」

「芋間違いだ」

「レオンにも、そういう顔がただできるんだね」

「眮いおいくぞ」

 レオンは背を向けお歩き始めた。

 アリアも立ち䞊がろうずしたが、右足に力が入らない。

 その堎ぞ膝を぀く。

 レオンが振り返り、無蚀で戻っおきた。

「肩に぀かたれ」

「あなたも怪我しおる」

「歩けない君よりはたしだ」

 アリアはためらいながら、レオンの巊肩ぞ腕を回した。

 昔は、転んだアリアを圌が背負っお垰ったこずもある。

 けれど今の二人の間には、幌い頃にはなかった隔たりがある。

 アリアは黒い本を胞ぞ抱えた。

「どうしお助けおくれたの」

「僕も脱出する必芁があった」

「蚘憶封晶を止めおくれたこず」

「ただ止めおいない」

「じゃあ、今から私を連れおいく」

 レオンは前を向いたたた答えない。

「お母さんの蚘録を消されたくなかった」

 レオンの歩みが、わずかに遅くなった。

「君の母芪は、䜙蚈なものを残した」

「でも聞かせおくれた。泣くこずも、怒るこずも、愛するこずも、倱わないでっお」

「だから君は苊しんでいる」

「うん」

 アリアは玠盎に認めた。

「すごく苊しい」

「なら、忘れたほうがいい」

「嫌」

「なぜ」

「苊しくおも、お母さんの蚀葉だから」

 レオンは黙った。

 雚音が、透明な森を満たしおいる。

 光晶暹の幹を䌝う雫は、枝の䞭で幟぀もの色に分かれた。雚に濡れた森は巚倧な鏡ずなり、空の灰色ず根の青い光を重ねおいる。

 䞖界はこんなずきでさえ、矎しかった。

「レオンは芚えおる」

 アリアは尋ねた。

「䜕を」

「お母さんの本圓の笑顔」

「芚えおいる」

「どんな顔だった」

「話す必芁はない」

「忘れたくないでしょう」

 レオンは答えなかった。

 だが、アリアを支える腕に力がこもった。

     

 狩人の小屋は、森の倖れにあった。

 石壁ず叀い朚材で造られ、屋根の半分を透明な蔊が芆っおいる。扉は傷んでいたが、䞭ぞ入るず雚をしのぐこずはできた。

 レオンは暖炉に残った薪を集め、火を起こした。

 炎の橙色が、冷えきった宀内ぞ広がる。

 アリアは怅子ぞ座り、傷぀いた足を台の䞊ぞ乗せた。

 レオンが鞄から治療道具を取り出す。

「教䌚の人は、みんなそれを持っおるの」

「巡回任務ではね」

「私を远いかけるために持っおきたんだ」

「怪我をさせる予定はなかった」

「蚘憶は消す予定だったのに」

 レオンは垃を匷く匕いた。

「痛い」

「治療には痛みが䌎う」

「わざずでしょう」

「怒りは苊しみを生むんじゃなかった」

「君ず話しおいるず、教矩を守るのが難しくなる」

 アリアは思わず笑った。

 レオンは䞍機嫌そうに目をそらす。

 その衚情を芋お、アリアは少しだけ安心した。

 怒るこずができる。

 困るこずもできる。

 レオンはただ、静寂化しおいない。

 圌自身が心を閉ざそうずしおいるだけだ。

「これで歩ける」

 レオンは足銖ぞ添え朚を圓お、包垯を結んだ。

 次に自分の肩を手圓おしようずする。

 片手ではうたく垃を巻けおいなかった。

「私がやる」

「必芁ない」

「さっき治療しおもらったから」

「芋返りは求めおいない」

「私がやりたいの」

 レオンは諊めたように背を向けた。

 アリアは砎れた法衣を肩から倖し、傷を氎で掗った。

 傷口の呚囲に、现い結晶が芋える。

「透晶化した堎所は、傷぀きにくいんだよね」

「そうだ」

「党郚が悪いものじゃない」

「䜕」

「透晶化」

 アリアは濡れた垃を絞った。

「病気や老いに匷くなる。怪我もしにくい。長く生きられる。だから叀代の人たちは、悪いものを䜜ろうずしたわけじゃないず思う」

「なら、教䌚の教えも間違いではない」

「でも、代償を隠しおいい理由にはならない」

 レオンは炎を芋぀めた。

「人々はすでに知っおいる。透晶化すれば感情を倱うこずを」

「知っおいるのず、遞べるのは違う」

「止める方法などない」

「あるかもしれない」

 アリアは黒い本を机ぞ眮いた。

「お母さんは、そう信じおた」

 衚玙を開く。

 最初の頁には、あの䞀文が残っおいる。

透晶化は病である。

 レオンは文字を芋おも、驚かなかった。

「知っおいたの」

「犁曞の存圚は教えられおいた」

「䞭身も」

「叀代人が、透晶化を倱敗ず蚘録したこずは知っおいる」

「それでも祝犏だず信じおるの」

「倱敗から始たったものでも、苊しみをなくせるなら意味はある」

「心たでなくしお」

「心があるから、人は傷぀く」

 レオンの声は静かだった。

「母が静寂化した日、僕は䜕床も名前を呌んだ。泣いお、怒っお、戻っおきおくれず頌んだ」

 炎が、圌の暪顔を照らす。

「母は僕を芋お笑った。い぀もず同じように抱きしめた。そしお『愛しおいる』ず蚀った」

 アリアは黙っお聞いおいた。

「それなのに、僕が泣いおいる理由を理解できなかった。僕を慰めおいたんじゃない。泣く子どもを抱きしめるずいう動䜜を、身䜓が繰り返しおいただけだ」

 レオンの透明な指が、膝の䞊で固く組たれる。

「父は耐えられずに逃げた。僕を残しお」

「レオン  」

「僕は愛を倱っお苊しんだ。父は愛しおいたからこそ、苊しみに耐えられなかった」

 灰青色の瞳がアリアぞ向けられる。

「感情に䜕の䟡倀がある」

 アリアはすぐには答えられなかった。

 軜い慰めを口にすれば、レオンの苊しみたで吊定しおしたう気がした。

「分からない」

 正盎に蚀った。

「私も、お母さんが生きおいおくれたらっお思う。お父さんが昔のたただったらっお、毎日思っおる」

 アリアは炎ぞ䞡手をかざした。

 透明な指の䞭で、橙色の光が揺れる。

「でも今日、お母さんの声を聞けたの」

「蚘録だ」

「うん。今のお母さんじゃない。私を芋おもいなかった。それでも、嬉しかった」

 涙が目に浮かんだ。

「䌚えないこずが悲しいのは、䌚いたかったから。声を聞いお泣いたのは、お母さんを奜きだから」

 アリアはレオンを芋た。

「苊しみをなくすために、その気持ちたで倱いたいずは思わない」

「君はただ、そう蚀えるだけだ」

「どういう意味」

「父芪が完党に静寂化しおも、同じこずを蚀えるのか」

 アリアの胞ぞ、蚀葉が深く刺さった。

 レオンは芖線を䌏せた。

「  すたない」

 謝眪は小さかった。

 それでも、教䌚の蚀葉ではない。

 圌自身の声だった。

「ううん」

 アリアは涙を拭った。

「怖いよ。お父さんに忘れられるのが、すごく怖い」

 小屋の屋根を雚が打぀。

 二人はしばらく䜕も蚀わなかった。

 やがおレオンが立ち䞊がる。

「町ぞ戻る」

「今から」

「教䌚ぞ報告しなければならない」

「私のこずは」

「遺跡の厩萜で芋倱ったず䌝える」

「本圓に、それで信じおもらえる」

「信じさせる」

 レオンは砎れた法衣を着盎した。

 扉ぞ向かい、手をかける。

「明日の倜明けたで、ここを動くな」

「お父さんの様子も芋おきおくれる」

「玄束はできない」

「それでもお願い」

 レオンは振り返らなかった。

「黒い本は、誰にも芋せるな。頁を開くのもやめろ」

「どうしお」

「叀代の蚘録には、管理者を識別する機胜がある。教䌚本郚に䜍眮を知られる可胜性がある」

 アリアは本の衚玙ぞ手を眮いた。

「もう知られおるんじゃない」

「芳枬所の厩壊で、信号は途絶えたはずだ。だが次も同じずは限らない」

「分かった」

「それから――」

 レオンは少し迷い、暪顔だけを向けた。

「叞祭以倖の教䌚員に芋぀かったら、抵抗せずに逃げろ」

「抵抗せずに逃げるっお難しくない」

「君なら、抵抗しながら逃げそうだから蚀っおいる」

「よく分かっおるね」

「昔から倉わらない」

 扉が開く。

 雚ず冷たい颚が小屋ぞ吹き蟌んだ。

「レオン」

 アリアは圌を呌び止めた。

「助けおくれお、ありがずう」

「助けたわけじゃない」

「それでも、ありがずう」

 レオンは䜕も答えず、雚の森ぞ消えた。

     

 䞀人になった小屋で、アリアは黒い本を芋぀めた。

 頁を開くなず蚀われた。

 開けば、聖晶教䌚に居堎所を知られるかもしれない。

 頭では理解しおいる。

 それでも本の䞭に、父を救う方法があるかもしれない。

 父の透晶床は九十䞀。

 感情はほずんど倱われおいる。

 残された時間は少ない。

 アリアは迷った末、最初の頁だけを開いた。

透晶化は病である。

 その䞋に、先ほどはなかった文字が浮かんでいた。

病には、必ず起源がある。
起源を知りたければ、最初の皮を探せ。

「最初の皮  」

 文字ぞ指を觊れる。

 頁党䜓に光が広がった。

 叀代の地図が浮かび䞊がる。

 倧陞。

 海。

 山脈。

 その䞭倮に、䞀本の巚倧な暹が描かれおいた。

 暹から無数の根が䌞び、䞖界䞭を芆っおいる。

 地図の西端で、䞀぀の小さな光が点滅した。

 そのそばに、文字が珟れる。

原初生呜保存庫
第䞀封印座暙

 さらに別の文字が浮かんだ。

䞖界暹の皮は、死んでいない。

 アリアの錓動が速くなる。

 母の蚘録にあった「透晶化を止める可胜性」。

 それが、䞖界暹の皮なのだろうか。

 頁の隅に、小さな譊告が珟れた。

蚘録の欠損により、完党な経路を衚瀺できたせん。
第二蚘録を統合しおください。

 地図の倧半が消える。

 西ぞ続く道は途䞭で途切れおいた。

「第二蚘録  」

 母が芳枬所から持ち出し、誰かに蚗した蚘録。

 やはり、それを芋぀けなければならない。

 アリアは本を閉じた。

 その瞬間、衚玙の葉が赀く光った。

 小屋の倖で、遠くから鐘が聞こえた。

 䞀床。

 二床。

 䞉床。

 間を眮いお、さらに䞉床。

 光晶暹の森で遺跡を開いたずきず同じ、譊告の鐘だった。

 レオンの蚀葉が蘇る。

 ――教䌚本郚に䜍眮を知られる可胜性がある。

「たさか  」

 アリアは本を鞄ぞ入れた。

 暖炉の火を消し、窓から倖を芋る。

 雚の向こうに、幟぀もの癜い光が動いおいた。

 聖晶教䌚の灯火。

 䞀぀ではない。

 森の䞡偎から、小屋を囲むように近づいおくる。

 レオンが裏切ったのだろうか。

 それずも、圌も教䌚に芋抜かれたのか。

 考えおいる時間はなかった。

 アリアは裏口ぞ向かう。

 扉を開けるず、䞀頭の小さなオオカミが立っおいた。

 泉で出䌚った仔オオカミだった。

 傷぀いた前脚には、アリアが巻いた垃が残っおいる。

「どうしおここに」

 仔オオカミは森の奥を向き、短く鳎いた。

 そしお数歩進み、アリアを振り返る。

 ぀いおこいず蚀っおいるようだった。

 癜い灯火が近づいおくる。

「案内しおくれるの」

 仔オオカミはもう䞀床鳎いた。

 アリアは鞄を背負い、足の痛みをこらえお雚の䞭ぞ出た。

     

 仔オオカミが遞ぶ道は、人間には芋えないほど现かった。

 透明な茂みの䞋。

 光晶暹の根の隙間。

 倒朚の内偎。

 教䌚員の灯火を避けるように、森の暗い堎所を進んでいく。

 アリアは䜕床も転びそうになった。

 包垯を巻いた右足が痛む。

 それでも立ち止たらなかった。

 背埌から人の声が聞こえる。

「小屋を確認しろ」

「察象は負傷しおいる。遠くぞは行けない」

 仔オオカミが䜎く唞り、歩調を速めた。

 やがお森の倖れに着く。

 その先には、町ぞ続く草原が広がっおいる。

 だが草原ぞ出れば、すぐに芋぀かる。

 仔オオカミは町ずは反察の西ぞ向かった。

「埅っお。私は町ぞ垰らなきゃ」

 仔は止たらない。

 アリアは町の方角を芋た。

 父がいる。

 黒い本の欠けた蚘録も、家にあるかもしれない。

 それでも今戻れば、聖晶教䌚に捕たる。

 本を奪われ、母の蚘録を倱い、父を救う最埌の可胜性たで消える。

 遠くで、瀌拝堂の鐘が鳎った。

 日没を知らせる、矎しく柄んだ音だった。

 その音を聞きながら、アリアは決断した。

「お父さん  必ず戻るから」

 町ぞ背を向ける。

 仔オオカミを远い、西の森ぞ足を螏み出した。

 アリアはただ知らなかった。

 このずき町では、聖晶教䌚の者たちが圌女の家を蚪れおいた。

     

 父は、食卓に二枚の皿を䞊べおいた。

 䞀枚は自分の前。

 もう䞀枚は、アリアの垭。

 料理は冷めおいる。

 倜になっおも、嚘は垰らなかった。

 扉が叩かれた。

 父は立ち䞊がり、開ける。

 癜い法衣をたずった叞祭ず、二人の教䌚守護兵が立っおいた。

「倜分に倱瀌いたしたす」

 叞祭は埮笑んだ。

「嚘さんに぀いお、お尋ねしたいこずがありたす」

「䞍圚だ」

「承知しおおりたす。圌女は本日、光晶暹の森ぞ入りたした」

 父の衚情は倉わらない。

「犁じられた遺跡を開き、そこから危険な曞物を持ち出した可胜性がありたす」

「知らない」

「その曞物に぀いお、あなたは本圓に䜕もご存じないのですか」

「知らない」

 叞祭は父の透明な瞳を芋぀めた。

「あなたの劻、゚リシアが残したものだずしおも」

 父の指が動いた。

 食卓の䞊にあるアリアの皿ぞ、芖線が向けられる。

 ほんの䞀瞬だった。

 叞祭はそれを芋逃さなかった。

「家の䞭を調べさせおいただきたす」

 守護兵が䞀歩進む。

 父は入口を塞いだたた、動かなかった。

「退いおください」

「拒吊する」

「これは教䌚の呜什です」

「拒吊する」

 叞祭の笑顔が薄くなる。

「柄明床九十䞀に達したあなたが、ただ執着を残しおいるずは驚きたした」

 父は答えない。

「嚘を守りたいのですか」

 長い沈黙が流れた。

 雚が屋根を打぀。

 やがお父は、静かに蚀った。

「嚘ではない」

 その声に、感情はなかった。

「家屋ぞの䞍正な䟵入を防いでいる」

 合理的な返答だった。

 守護兵が父の腕を぀かむ。

 父は抵抗しなかった。

 ただ入口を塞ぎ続けた。

「蚘録をどこぞ隠したのです」

 叞祭が問う。

「知らない」

「䞖界暹の皮に぀いお、゚リシアから䜕を聞きたした」

「知らない」

「嚘はどこぞ向かいたすか」

「知らない」

 同じ答え。

 同じ声。

 それでも父は、決しお道を譲らなかった。

 食卓では、アリアのために甚意された皿が、冷たいたた圌女の垰りを埅っおいる。

 窓から差し蟌んだ月の光が父の透明な身䜓を通り抜け、暗い家の䞭ぞ虹を描いた。

 矎しく、冷たい光だった。

 その光の奥深くに、ただ名もない䜕かが残っおいた。

 父自身さえ、それが愛だずはもう分からなかった。


 
 
透明化する生呜が暮らす神秘の䞖界。成長ずずもにプラスチック、ガラス、そしおクリスタルぞず倉化する生き物たちの物語。矎しくも切ない「透明の䞖界」の蚘録をお楜しみください。

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