この夏、幾度目かのペラペラエッセイ
この夏、私は救世主に巡り合った。その名はペラペラエッセイ。
noteという大海原で、執筆という荒波に自信という船を打ち砕かれ、私は意味も言葉もバラバラになった。
浜に打ち上げられ、文字という砂に埋もれかけていた私に、手を差し伸べてくれた存在。それはちょろすさんが提唱した「ペラペラエッセイ」だった。
ペラペラエッセイには明確な定義がないように感じられた。実際、私は今もペラペラエッセイのことを全然わかってあげられていない。…ふふっ。笑っちゃうでしょ?あんなに愛してるのに、ね。たぶん世界中のペラペラエッセイストたちも定義を掴みきれていないのではないかと思うし、それぞれの心にそれぞれのペラペラエッセイがある気がする。
ペラペラエッセイは水のようなものだという。知らんけど。知らんでも書いていい。そんな懐の深さが、ペラペラエッセイにはあると感じている。でも嘘はダメだよ?知らんことは知らん、嘘は嘘と明記するように心掛けたいと思う。これは覚えていてほしい。
とにかく、ペラペラエッセイは水のようなものだ。ありふれていて、冷たくも熱くもなり、優しく癒したり、激しく暴れたり、有るか無いかで人を生かすことも殺すこともできる。ペラペラエッセイはそんな存在だ。知らんけど。
頭の中は無重力の部屋の中みたいなもの。無重力を体験したこともないのにそう言い切るなんてペラッペラっしょ?ええねん、これで。関西人じゃないのに関西弁を使うのもペラくてええやろ?
何の話だっけ?そうそう頭の中はオイル時計のようなものだという話。フワフワと浮かんだり落ちたりする水とオイルは、まるで言葉や文字のようだ。それらを集めて並べてあげると文章やアイデアになる。だけど定期的にひっくり返されて、またグチャグチャになる。他の人はわからないけど、私の頭の中はそんな感じ。いいと思っていたアイデアはあっという間にバラバラになって断念的になる。こうなるともう組み立て直せない。パズルのように組み立ててみるけど、閃いた時のような輝きを取り戻すことはない。この文章も途中で他のことをしたせいで、最初に書きたかったことを忘れてしまった。だから下位互換のような文章でどうにか取り繕っている。あぁ〜最初に閃いた激オモネタ、みんなに読ませてあげたかったなぁ。
…と、このようにして私は、「やればできる人間」という可能性を「やらない」ことで残している。「やってない」ということは「やれたかもしれない」という可能性を孕んでいるからだ。そうやって、吹けば飛ぶようなペラペラに薄い自尊心を保っている。ペラペラ?そうか、ペラペラエッセイのペラペラに自分の自尊心を重ねているのか私は。
まとまらないままの、バラバラでフワフワした言葉や思考たち。一生懸命に形を整えようとすると、うまくいかずに「こんなもの人様に見せられるもんか!」と投げ出してしまうこともある。だけど、ペラペラエッセイという名前をつけることで「これはこれでいいじゃないか」と愛着が湧く。この作用に救われている人が私だけではないということは、「#ペラペラエッセイ 」で書いている人の多さを見ると実感できるのではないだろうか。
では、ペラペラエッセイは“逃げ”なのか? 否。少なくとも私はそうは思わない。ペラペラエッセイを書くことで、まとまらないままいつか消えていたであろう文章やアイデアを最低限の形として残せる。それだけでなく、「ペラペラでいい」という気持ちはリラックス効果を生み、スラスラと書いているうちにあれだけ取り留めなかったアイデアを形にするヒントが見えてくる瞬間もあるのだ。なお、その瞬間はまだ私には訪れていない。だが、訪れる予感はビンビンにしている。その瞬間よ、早く来てくれ。頼む。頼むから……!
普段のペラペラエッセイストとしての私なら、ここで『「早く来てくれ」でいうとネットで注文した商品。1日でも早く届いてくれたら嬉しい。待ちきれない』とペラつき始めることだろう。だけど今回は違う。ペラペラエッセイへの想い一本でペラペラしたい。ペラペラに筋を通したい。ペラペラに筋を通す…イラストにするとこんな感じだろうか。

スカイフィッシュだ…
なるほど…道理で掴めそうで掴めないわけだ。いつまで経っても定義が見えてこないのも納得できる。ペラペラエッセイはスカイフィッシュだったのだ。
この夏、幾度目かのペラペラエッセイの執筆を通じて、私はペラペラエッセイを文字通り掴んだ。それは、世界中のハンターが追いかけていた未確認生物(UMA)の正体に繋がっていた。スカイフィッシュはもはや未確認生物などではない。同時に、ペラペラエッセイもまた、未確認構文ではなくなったのだ。
『夕方の浜辺で夕陽に向かって叫びたい言葉【2025夏】』のグランプリは「ペラペラエッセイはスカイフィッシュ!」に決まった。
新時代の幕開けである。
知らんけど。
