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音が帰る場所

    J.S.バッハの音楽には、昔から惹かれてきた。なかでも最初に心を掴まれたのは、巨大なロマン派的編成ではなく、15〜20人前後の引き締まった編成で鳴るJ.S.バッハだった。後から思えば、その感覚は18世紀前半の演奏実践に比較的近いところから来ていたのかもしれない。独立した声部は多く重なっているのに濁らず、厚みがあるのに輪郭は崩れない。声部が増えるほど、かえって構造が明るみに出る。その不思議な強さに、私は長く魅了されてきたのだ。

    やがて歴史的演奏実践にもとづく演奏に触れたとき、その感覚が単なる気まぐれではなかったことを知った。楽器、奏法、テンポ、編成、調律を当時に近づけようとするその取り組みは、復古趣味ではなく、J.S.バッハの音楽の線と均衡をもう一度聴き直そうとする態度だったのだろう。私が小編成のJ.S.バッハに感じていた魅力も、その方向に近かった。

    自然な流れとして、一台のピアノだけでJ.S.バッハを弾く演奏にも惹かれていった。そしてその極端な形として現れたのが、グレン・グールドだった。オーケストラの厚みも色彩もない。あるのは、一台のピアノによって剥き出しにされた線と構造である。彼の演奏には、極端なテンポ、異様なほど低い椅子、唸り声、そして録音と編集への偏執など、奇矯と捉えられやすい要素がいくつもある。けれども、それらを含めて彼が目指していたのは、作品の内部にある必然を、余計な肉づけなしに表へ引きずり出すことだったのだろう。演奏慣習をいったん脇に置き、内部にある別の読み筋を極端なかたちで実現してしまう。その感じに、私は強く惹かれた。

    そのことを最も強く感じるのが、1955年盤と1981年盤の《ゴルトベルク変奏曲》である。1955年盤は、一音一音が立ちすぎるほど立ち、速く鋭く、前へ前へと押し出してくる。にもかかわらず、対位法の線は崩れない。若さや勢いでは片づけられない、構造への過剰なまでの信頼がそこにある。対して1981年盤には、時間の流れそのものを変えるような間合いがあり、音と音のあいだに、ほとんど沈黙に触れるような重みが宿る。前進ではなく、滞留や回想の時間が聴こえてくる。私はどちらも好きだ。優劣ではなく、同じ作品のなかにある別の必然を、それぞれが掴んでいるように聞こえるからである。

    グールドが長く愛したスタインウェイCD318について考えていても、そこには羽のように軽いアクションや、チェンバロを思わせる明晰さが語られる。倍音を過剰に響かせず、音の立ち上がりと切れを重視し、鍵盤の感触までも自分の感覚に近づける。そこには、豊かな残響よりも、線が濁らず見えることを優先する姿勢がある。彼が求めていたのは、豊かに鳴りすぎるピアノではなく、余計なものを削いだ先に残る、神経質なまでにくっきりとした線だったのだろう。

    ただ、J.S.バッハを聴き続けるうちに、別の違和感も生まれた。現代のモダンピアノで弾かれるJ.S.バッハは、明晰であるがゆえに、時に音が張りつめすぎて、身体が先に身構えてしまうことがあるのだ。それはピッチだけの問題ではない。楽器の構造、弦の張力、響板の性格、アクションの感触、録音、アーティキュレーション――すべてが関わっているはずだ。だが、440Hzを基準に、ときに442Hzあたりまで上がる現代の世界の張りつめ方は、私にはたしかに身体を先に固めるような緊張として届く。

    矛盾しているように聞こえるかもしれない。モダンピアノのJ.S.バッハには張りつめると感じる一方で、私は1955年のグールドの鋭さを愛している。しかし私には、この二つは同じではない。モダンピアノの明晰さは音そのものの強さとして迫ってくるのに対し、グールドの明晰さは、音を尖らせること自体が目的ではなく、J.S.バッハの構造を剥き出しにするための必然として働いている。だから同じ「はっきりした音」であっても、息苦しく感じる時もあれば、解放的に感じる時もあるのだ。

    その違和感がほどけたのは、415Hz付近で鳴るチェンバロや古楽器のJ.S.バッハを聴いたときだった。440Hzより半音ほど低いその響きは、単に低いのではなく、音の張力そのものが違って聞こえる。440Hzや442Hzが輪郭を強く押し出し、光をまっすぐ当てるなら、415Hzには影を帯びた光がある。音が立たないわけではない。立ちつつ、どこか互いに譲り合っている。声部同士がぶつかる前に自然に噛み合い、和声の移ろいには余白が生まれる。そこで聴こえるのは、緊張と緩和が誇張される前の、深い呼吸のようなものだ。

    長いあいだ、それを単なる音色の好みだと思っていた。しかし今では、耳や身体のほうが先に、440Hzや442Hzの張りと415Hzのほどけ方を感じ取っていたのだと思う。

    私がJ.S.バッハに感じているのは、慰めよりも秩序に近い。身体がゆるむというより、内部に散らばっていたものが少しずつあるべき位置へ戻っていく感じだ。「整う」という言葉では、少しきれいすぎる。むしろ、崩れかけたものがどうにか立ち直る感覚と言った方が近い。それは単に「響きがきれい」ということではなく、もっと和声的、構造的な意味を持っている。

    私はおそらく、昔から音そのものの美しさ以上に、音がどこへ向かい、どう解決し、どこで終止するかに反応してきた。J.S.バッハを聴いていて気持ちがいいのも、旋律の美しさだけではない。どれほど複雑に線が絡み合っても、最後には必ず行くべき場所へ行く。言い換えれば、それは属和音から主和音へ解決するときの、あのもっとも基本的な感覚にも通じていたのだと思う。けれどもJ.S.バッハにおいてそれは、単なる和音の進行ではなく、独立した複数の声部がそれぞれの方向へ動き、とりわけ導音は上へ、第4音は下へ引かれながら、最後に主和音へ収まっていく対位法的な運動として立ち上がる。その緊張と緩和、着地の必然。その運動に惹かれている。

    考えてみれば、その感覚はクラシックの外でも同じだった。DJをしていた頃、複数の曲を重ねるとき、リズムだけ合っていても不十分だった。テンポが揃っていても、キーがわずかにずれるだけで全体が急に不自然になる。半音ずれれば即座に居心地が悪くなるし、全音や完全四度まで動かすなら、単に耳当たりを整える以上の筋道が必要になる。逆に、ぴたりと噛み合った瞬間、身体のどこかがすっとほどける。単に気持ちがいいという以上に、宙づりだったものが着地する感覚があった。

    SeratoのPitch ’n Timeが出たとき驚いたのは、その便利さよりも、技術が音楽の解釈にまで関わってしまうことだった。テンポとキーを切り離して扱えるということは、原曲の和声的な重心や終止感を保ったまま、別の文脈へ移すことができるということだ。半音、全音、完全四度だけ動かしたときに何が壊れ、何が残るのか。その見極めが急に現実的になった。いま振り返ると、私がグールドに惹かれていた感覚には、どこかこのときの感覚に通じるものがあった。曲そのものを書き換えるのではなく、内部に潜んでいた別の筋道を、別のかたちで露出させること。あのとき私が面白いと感じていたのは、たぶんそのことだった。

    私にとって二つの曲を重ねる作業は、面白い組み合わせを探すことではなく、どのキーなら自然に接続できるか、どこで緊張が生まれ、どこで和声が解決し、どの終止なら不自然にならないか――その流れを読むことのほうが重要だった。それを外せば、どれだけ巧妙でもどこか気持ち悪い。逆にそこさえ合えば、意外な組み合わせでも成立し、原曲の別の必然が見える瞬間すらある。私がいちばん興奮していたのは、そうした瞬間だった。

    小ぶりなオーケストラのJ.S.バッハ。
    グレン・グールドのピアノ。
    415Hz付近のチェンバロや古楽器が持つ深い呼吸。
    そしてDJブースで、キーが噛み合い、コードが行くべき場所へ収まったときの安堵。
    それらは私の中で一本につながっている。

    私はおそらく昔から、音の高さそのものより、音がどこへ向かい、どう折り合い、どう終わるかに強く反応してきたのだ。モダンピアノのJ.S.バッハに覚えた違和感も、DJの現場での快感も、根は同じだったのかもしれない。私が聴いていたのは調和そのものではなく、ずれの可能性を孕んだ世界の中で、なお音がきちんと解決し、着地し、終止へ至る瞬間だった。

    もしそうなら、私が惹かれてきたのは「きれいな音」ではなく、415Hzと440Hz台の差にまで現れてしまうような、解釈された音であり、必然を持った響きであり、そして最後にきちんと帰る場所を知っている音楽だったのだ。

     
     
    言葉や関係のなかで感じた小さな違和感を、立ち止まって書いています。日常の言い回し、他者との距離、猫との日々。大きく括ると見えなくなるものに、時間をかけて向き合いたいと思っています。 基本的にフォロバしています。

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