
花鳥風月には、まだ春が来ない♯5
第5話 長月
あらすじ
九月、風花は夏の成功を胸に、静かに深まる季節の気配を感じながら「花鳥風月」を訪れる。そこで迎えてくれたのは、控えめに咲く茶の木の花──そして偶然にも、真司と風、そして風花自身の誕生日が同じ日だという驚きの事実だった。月見団子とほうじ茶で祝う小さな合同誕生日は、風花にとって忘れられない夜となる。
後日、風花は真司への贈り物を手に再訪し、竜胆の花が迎える席で、秋の香り漂うエチオピアコーヒーとフィグのタルトを味わう。互いに誕生日プレゼントを交換し合い、真司からはカモミール香る特製リップバームが贈られる。
静かに寄り添う風と、深まる秋の気配の中で、風花は“ただの自分”を大切にしてくれる存在の温かさを深く噛みしめていた。
九月に入ると、あれだけ賑やかだったセミの声がピタリと止み、夜にはどこか寂しげな虫の音が路地裏に響くようになった。
夏の喧騒を駆け抜けた『moonchild』は、秋の特番や新ビジュアルの撮影で相変わらず大忙しだったけれど、私の心にはいつも、あの屋根の上で見た花火の光が、温かい温もりとして残り続けていた。
そんな九月のある夜。私は少しだけ大きな荷物を抱えて、『花鳥風月』の扉を押した。
カラン、と静かな鈴の音。
「いらっしゃいませ、風花さん」
カウンターの奥から、真司さんがいつものように穏やかに出迎えてくれる。
いつもの特等席に腰を下ろすと、テーブルのガラス瓶には、白くて丸い、少し控えめな花が挿されていた。中心には黄色い雄しべがぎっしりと詰まっていて、どこか素朴で愛らしい。
「……可愛い花ですね。なんだか、お茶の花に似ているような?」
「大正解です。これは『茶の木の花』なんですよ」
真司さんはお冷やのグラスを置きながら、嬉しそうに目を細めた。
「九月から十月にかけて、ひっそりと白い花を咲かせるんです。普段みなさんが飲むお茶の葉っぱの、これが本当の『花』の姿ですね」
「へえ、お茶の花ってこんなに可愛いんだ……」
まじまじと見つめていると、真司さんが「おや」と、私の足元にある大きな紙袋に目を留めた。
「今日は、何か大きなお荷物ですね」
「あ、これですか? 実は……今日、私の誕生日なんです。これは職場の人や彩乃からもらったプレゼントで」
「えっ」
いつも冷静な真司さんが、珍しく目を見開いて声を上げた。
「今日……九月〇日ですか?」
「はい、そうですけど……どうしたんですか?」
「いえ、実は……僕の誕生日も、今日なんです」
「ええっ!?」
今度は私が大声を上げる番だった。まさか、こんなに広い世界で、偶然見つけた秘密の場所のマスターと、誕生日が全く同じだなんて。
「驚くのは、まだ早いですよ」
真司さんは苦笑しながら、カウンターの上で丸くなっていた『風』を優しく抱き上げた。
「この『風』をあの河川敷で拾ったのも、数年前の、ちょうど今日の夜だったんです。だから風の誕生日も、僕が勝手に同じ日にしてしまって。……つまり、今日は僕たち3人の記念日、ということになりますね」
真司さんの腕の中で、風が「にゃあ」とタイミングよく返事をした。
偶然が3つも重なるなんて。胸の奥が、信じられないほどの幸福感でジーンと熱くなっていく。
「少し、待っていてください」
真司さんは嬉しそうにそう言うと、足早に厨房へと下がっていった。
数分後、運ばれてきたのは、お月見の季節にぴったりの、丸くて白い『月見団子』。三方に綺麗に積み上げられたお団子には、優しい甘さのみたらし餡がとろりとかかっている。
そして飲み物は、急須から注がれたばかりの、香ばしい湯気を立てる温かい『ほうじ茶』だった。
「即席ですが、3人の誕生日の小さなお祝いです」
「ありがとうございます! 嬉しい……」
まずは、温かいほうじ茶を一口。
──あぁ、落ち着く。
焙煎された茶葉の香ばしい香りが、秋の冷え込みが始まった体にじんわりと染み渡る。スタジオの冷房で冷え切っていた芯が、ゆっくりと解されていくようだ。
続いて、月見団子を一本手に取り、口に運ぶ。
もちもちとしたお団子の弾力と、甘じょっぱいみたらし餡のコク。それがほうじ茶のすっきりとした渋みと合わさって、いくらでも食べられてしまいそうなほど完璧な相性だった。
「美味しい……。今までで、一番最高の誕生日です」
「僕にとっても、今年は特別な誕生日になりました」
真司さんはカウンター越しに、ほうじ茶の湯気の向こうで、本当に優しく微笑んだ。
足元には、いつの間にか椅子から飛び降りた『風』が、私の足首にふさふさの体をぴったりと寄せて丸くなっている。
同じ日に生まれ、同じ季節を生きている。
真司さん、私、そして『風』。
(第5話前編 了)
3人の合同誕生日という、奇跡みたいな夜から一週間。
私の頭の中は、次の新曲のことに加えて、「あること」でずっといっぱいだった。
あの日、あまりの驚きと嬉しさで、ちゃんとした誕生日プレゼントを真司さんに渡せなかった。真司さんだって、急なことで何も用意していなかったはずだ。
だから私は、この一週間、仕事の合間を縫って彼に似合いそうなものを必死に探した。そして今日、小さな包みをバッグに忍ばせて、いつもの細い路地へと向かっていた。
カラン、と静かな鈴の音が響く。
「いらっしゃいませ、風花さん」
いつもの穏やかな低音の声。
案内された特等席のテーブル中央には、秋の訪れを告げる、深い青紫色の花が挿されていた。釣鐘のような形をした花が、すっと上を向いていくつも咲いている。
「……綺麗な青。少し大人っぽくて、知的な花ですね」
「竜胆(りんどう)です」
お冷やを持ってきた真司さんが、その花弁を愛おしそうに見つめた。
「秋の晴天に向かって、まっすぐに咲く花です。群れて咲くのではなく、それぞれが自立して美しく咲く。どこか、自分の足でしっかりと立ち始めた、今の風花さんのようですね」
「真司さんは、いつも私を買い被りすぎです」
少し照れくさくて、私は苦笑交じりに言った。けれど、そうやって私の内面をずっと見ていてくれることが、やっぱりたまらなく嬉しかった。
真司さんはまた静かに微笑むと、厨房へと下がっていった。
数分後、目の前に運ばれてきたのは、これまでこの店で見たどのメニューよりも、秋の深まりを感じさせる組み合わせだった。
琥珀色に透き通った、丁寧にハンドドリップされた『エチオピアコーヒー』。
そしてお皿の上には、完熟したイチジクが贅沢に敷き詰められ、シナモンの香りがふわりと漂う『フィグ(イチジク)のタルト』が乗っていた。
「本日は、浅煎りのエチオピアコーヒーと、フィグのタルトです。エチオピアの持つベリーのような華やかな酸味が、イチジクの優しい甘みを引き立ててくれます」
「いただきます」
まずは、コーヒーを一口。
──これが、コーヒー?
苦味はほとんどなく、まるで淹れたてのフルーツティーを飲んでいるかのような、爽やかで華やかな香りと酸味が口いっぱいに広がった。
続いて、フィグのタルトをフォークで切り、口に運ぶ。
プチプチとしたイチジクの独特な食感と、濃厚な果汁の甘み。タルト生地の香ばしさと、ほんのり効いたシナモンのスパイスが、エチオピアコーヒーの華やかな酸味と完璧に調和して、口の中でとろけていく。
「美味しい……。秋って、こんなに美味しい季節だったんですね」
「そう言っていただけると、作った甲斐があります」
真司さんがカウンターの奥で嬉しそうに目を細めた。
今だ、と思った。私はバッグから、丁寧にラッピングされた小さな四角い包みを取り出し、カウンター越しに真司さんへと差し出した。
「これ……遅くなっちゃったけど、先週の、お誕生日のプレゼントです。いつも美味しいお茶を淹れてくれる真司さんに、使ってほしくて」
中身は、リネンのシンプルなコースターと、真司さんの手の大きさに合わせた上質なキッチンクロスだ。
真司さんは一瞬、驚いたように目を見張ったけれど、本当に嬉しそうに両手でそれを受け取ってくれた。
「ありがとうございます、風花さん。……大切に、毎日使わせていただきますね」
その言葉にホッとしたのも束の間、真司さんは「実は、僕からも……」と言って、カウンターの下から小さな白い箱を取り出した。
「えっ……?」
「僕も、先週は何もお渡しできなかったので。風花さんの喉や、お体が少しでも休まるように、ハーブをブレンドして作った『特製のリップバーム』です。ハチミツと、カモミールの香りを少しだけ混ぜてあります」
箱を開けると、小さなガラスの容器が入っていた。蓋を開けると、あの初めてこの店に来た日に嗅いだ、リンゴのような優しいカモミールの香りがふわりと広がった。
「真司さん……。ありがとうございます。毎日、お守り代わりに使いますね」
お互いのプレゼントを手に、私たちはどちらからともなくクスッと笑い合った。
足元では、『風』が、私の足首に大きな体をぴったりと寄せて、ゴロゴロと幸せそうに喉を鳴らしている。
テーブルの上の竜胆は、静かに、けれど力強く咲いている。
ステージの上の私でも、数字の中の私でもない。ただの私を祝って、私の体を労わってくれる人がいる。
貰ったリップバームをそっとポケットにしまいながら、私はエチオピアコーヒーの温かさを、両手で包み込んでいた。
(第5話後編 了)
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