
【短編小説】隣のクラスの相澤さんが転校するらしい
「山田くんって、頭いいね」
それが相澤さんと話した最初だった。
クラス順に並んで歩くとか言う校内ハイキングで、出席番号が一組で最後の僕と、二組で最初の相澤さんが前後になったのは偶然だったのだろう。クラスに渡辺とかがいなくてよかったと、心底思う。
なんで頭がいい話になったのかは覚えていない。覚えていないけれど、相澤さんの柔軟剤みたいな香りと、飴玉みたいな瞳のことはよく覚えている。
「プールあとの女子って、プール中よりヤバい」
六限目に体育を入れた教師は誰だと、一学期の時間割を呪う。渡り廊下を進みながら、タオルで髪の毛をゴシゴシと擦った。
「なあ、聞いてる? プールのあとの女子ってさ」
神田が、バカみたいに口をひらいて、バカみたいなことを言う。宮内まで「ヤバいよな」と同意しはじめたが、健全な高校生男子なんてそんなものなのだろう。
「なんだ、その語彙力のない中二みたいな台詞」
「山田は興味ないの? 相澤とか仲良かったじゃん。あ、雨」
過去形にすんな、バカ。そう言いかけて口をつぐむ。先ほどまでの晴れ間はどこに消えたのか、グレーの空から雨粒がぽつりと落ちてきた。雨のせいか、六限目のプールのせいか、体が水分を含んで重怠い。
「告んないの?」
神田が僕を覗き込む。返事をしない僕を見て、宮内がぽんと背中を叩いた。ちょっとだけ痛い。
「転校前に、水着姿拝めてよかったな」
また神田が中二みたいなことをぼやいたけれど、否定はできないので黙っておいた。水着姿の相澤さんは、語彙力なく表すと女神みたいだった。
◇
帰りのホームルームは静かだった。隣のクラスから聞こえた拍手と声は、彼女に送られたはなむけの言葉たちだったのだろうか。
見送ることもなく、話すこともなく僕は靴を履く。雨の日にブラックのスニーカーを履いてきたことを、すこしだけ後悔した。
つま先でトントンと地面を叩いて、傘立てに突っ込んでいたビニル傘を手に取る。すこし金具が錆びてきたから、そろそろ買い直す時期かもしれない。
ふっと、体を起こして前を向く。
語彙力なく表すと、女神みたいな彼女が、雨の方を見つめていた。
「相澤さん、傘ないの?」
声をかけられないほど、絵画みたいに神秘的な光景だったはずだ。けれども僕の喉からは言葉が飛び出していて、自分の目を見開いたはずだ。
たぶん僕の瞳には彼女が映っていたし、相澤さんの瞳にも僕が映っていた。
ぽたぽたと雨が落ちる音がする。
相澤さんは飴玉みたいな目を輝かせて、僕を見た。彼女の生乾きの髪からは、塩素の匂いが漂った気がした。
「入る?」
いつもより声が低かったかもしれない。どこの少女漫画だと自分で呆れてしまう。
ありがとう、と少し高い声が届く。この声が好きだ。大好きだ。ずっと。
「相合傘だ」
予習したわけじゃないのにポンポンと出てくる言葉たちに、僕は動揺していた。姉の部屋で読んだ漫画のせいにでもしてみせようか。
学校からバス停までのたった五分間は、体感時間三十秒くらいだった。相澤さんとの思い出がたくさん浮かんできて、人が死ぬときってこんな感じなのだろうかと思った。だったら、きっと僕は死ぬときに相澤さんを思い出す。
「これ、持ってって。うち、バス降りてすぐだから」
飴玉がまた、僕を見る。雨粒みたいな涙が浮かんでみえたのは、気のせいだろうか。女神って泣くんだなんて、僕は中二みたいなことを考える。神田に謝らないといけない。
僕の好きなすこし高い声が、震える。
「傘とか、すぐどっかに忘れちゃうし。壊れたら捨てちゃうかもだし」
僕の乗るバスが近づいてくる。白地に紺色のラインをしたバスが、彼女のセーラー服と同化した。プシューと扉が開く。
「僕のことも忘れる?」
「それは無理」
「じゃあ、スマホ貸して」
バスが定刻より二分早く着いたのは、偶然だったと思う。ぴったりに着いていなくてよかったと、心底思う。
僕は本当に運が良い。
彼女のスマートフォンに、僕の連絡先が繋がれていく。
エンジン音が雨音をかき消したけど、僕の好きなすこし高い声はかき消されなかった。
「山田くんって、頭いいね」
女神が微笑むとは、こういうことなんだと僕は悟る。なんてこった。
最高の褒め言葉だ。