
小川洋子「からだの美」を読みながら、「エイト」たちの背中を想う
立川の書店での出会いから、2ヶ月。
削ぎ落とされた、抽象画とも写真とも思える表紙を見つけたとき、
中は見ないと決めた。
家で、ソファに座って、
手元のライトをつけて、開くときに初めて、
ことばたちと出会いたかった。
小川洋子の「からだの美」を、まだ読んでいる。
きっと好きになる、と確信したこの本を
一気に飲み干すのがもったいなくて、
週末の仕事が終わってから、ちびりちびりと啜っている。
「ボート選手の太もも」という章に辿り着いたとき、
こめかみがにわかに騒がしくなった。
エイト、と呼ばれるのだそうだ。
人の名前かと、思った。
最も華やかで、最速の8人乗りのボート競技。
そのカタカナで綴られた言葉を見た時、
思い出したのは、今までに出会ってきた、同じ名前の人たちのことだった。
わたしの記憶に残っている「エイト」たちは、みんな少し似ている。
自分が大切にする世界を守り、
そこに干渉的に踏み込もうとするものを、静かに遠ざけていたように思う。
その一方で、図らずも見つけてしまった新しいできごとを、
窓の隙間から覗きながら、タイミングを測るような好奇心もあった。
しっとりと、穏やかにそこにいるようで、
目尻を下げた後、真顔になる一瞬に緊張が垣間見える。
あるいは、覚えたてのことばを使おうとして、
うまくいかなかったときのような、あの気まずさと、
それでも扉を自分で開けようとした瞬間の高揚。
大人になろうとして、
むずがゆさの一歩先へ、つま先を出したときのような。
そもそもボート競技には、オールを操る、むきむきの肩と腕しか印象に残っていなかった。
選手たちが限界までシンクロしながら、滑らかに進む様子に、
氷上競技なのか、と考えてしまうほど、エフォートレスに見えていた。
実は選手たちの、いともたやすそうに見えるパフォーマンスを可能にしているのは、ボート上に角度を揃えてのぞく、強靭な下半身なのだそうだ。
見えない部分を徹底的に鍛え、足を踏み込み、涼しい顔で水上を滑る。
「エイト」たちもそうだったのかもしれない。
薄い膜を張ったような、礼儀正しい表情の下に、
何かが潜んでいる気配があった。
指先だけがわずかに動いていたり、視線の奥はここにいない。
わかって。
わたしはいつも、その見えない声に気を取られてしまっていた。
ボートは、背中からゴールする、ほとんど唯一の競技だそうだ。
そこにあるゴールを目で追えずとも、仲間の声や身体の記憶を頼りに進む。
「エイト」たちがどこへ向かっていたのか、わたしは知らない。
「エイト」という鏡を、わたしは見ていた。
ただ、
見えない場所で力を蓄えながら、
ことばにならないまま漏れてしまった声だけは、
なぜか記憶に残り続けている。
わたしの声も、
そうであったら、いい。