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ゴルバー旅行記

    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

     舞台は20世紀後半。世界の指導者養成機関「ムジーナの穴」に集う各国の若き政治家の卵たちが繰り広げる、抱腹絶倒のドタバタ外交コメディ。ソ連の社会主義者ゴルバー、大英帝国の闘士サッチャン、映画俳優あがりのレーゴン、エコノミック・アニマルのカザミらが、個性をぶつけながら友情と恋愛と思想の間で揺れる青春群像劇である。労組交渉、政治的陰謀、誘拐事件など次々と波乱が押し寄せる中、「ムジーナの穴」の伝説のトレーナーであるダマ師のナンセンスな教えを胸に、ゴルバーは広い世界を自らの目で見るため卒業旅行へと旅立つ。アメリカ、日本、香港を経て、世界の多様さと人と人のつながりを学び、未来の指導者としての確信を深めてゆく成長の物語。


    第一章 ムジーナの穴

    「能ある鷹は爪を切る。」

     「なんだか雰囲気は掴めるんだけど、その言わんとするところがよく分らないね。」レマン湖のほとりを歩きながら、若いロシア人が言った。

    湖面に澄み切った空とまだ雪を抱いたヒマラヤの山々が風に揺られてゆらゆら映り、蝶は舞い花は咲き乱れ、春爛漫の恋咲かんとするこの時期にそんなことしか言えないのかこの男は。そう思いながらも「雰囲気だけでも感じているならすばらしいことよゴルバー。私はまるで質の悪いジョークを聞いてるみたいだったわ。」と清楚なイギリス娘が言った。

    それから二人は、今日の講義でダマ師に教授されたありがたい教訓についてしばらくの間議論した。男はゴルバー。ソビエト近代化の若き騎士として、その指導者であるオンドレポコの命を受け、ここ「ムジーナの穴」へと送り込まれたゴリゴリの社会主義者である。

    「何時かはやがて、わかる日がくる」

    「師はそうおっしゃったけど、ホンとにその深遠なるお考えを理解できる日がくるんだろうか。」

    「そうね、今は頭のおかしなベビィフェイスが言ってるたわごとでも、何時かはひょっとしたらすごく意味のあることだと気づくのかも知れないわね。」

    「サッチャン。師に対して頭のおかしなベィビィフェイスは失礼だよ。それに彼は、僕らと同年代に見えても実は百歳を越えるとても高貴な僧という身分だと自分でおっしゃっていたじゃないか。」

    「あなたその話、まさか本気にしているんじゃあないでしょうね。彼は下界でなんだかやらかして警察だか悪者だかに追われて逃げ回ったあげく、その時掴んだ大金を叩いて世界の中立安全地帯と呼ばれるここへ逃げ込んで来たって噂よ。それにどう見ても百歳を越える高貴なおかたには見えないわ。あなたのその純真さには涙がでる程だけど....。」

     清楚な顔とは裏腹なその強い口調に、ゴルバーは眉をひそめながら「とてもいい娘なんだけどこのきつい言い方、何とかならないのかなあ....。」と心の中でつぶやいた。

     女は、サッチャン。産業革命の引潮に乗り、エリアナ二世の命を受けイギリス最後の頼みの綱として「ムジーナの穴」へと送り込まれた、ゴリゴリの保守党闘士である。世界の名勝十二選というカレンダーには必ずと言っていい程登場するこのレマン湖の美しさに、とてもにつかわしい恋人達とはおよそいえないふたりであった。

     

     「すぐサッチャンを呼び戻しなさい。」
     エリアナのヒステリックな声がバッキンガム宮殿にこだました。

    「しかし女王、ムジーナとの契約は二十一カ月と決っていてそう簡単に途中解約のできる性格のものではないことぐらい、いくらあなたでも分っているはずでしょう。」
     小太り赤ら顔、チャルズ首相が少しかったるそうに答えた。

    「チャルズ、’いくらあなたでも’とはなんですか。仮にも私は、腐っても大英帝国の君主ですよ。口をつつしみなさい、口を...。」

    「失礼。根が正直なもんで....。とにかくやってみましょう、事態が事態ですから。ムジーナも昔のように頑固ではないでしょう。」
     チャルズは、相変わらずけだるそうにそう答えて部屋を出て行った。


     マレン高原の白樺林の路を抜けて行くと、重厚な石造りの門があり、それには蔦が絡まり、門柱に刻まれた文字は読めず、開け放たれた鉄の門扉は青銅緑色に朽ち人気はなく、しかしそれがそこへの一歩を踏み入れるのをためらうに十分にヘヴィな雰囲気を醸し出していた。

     ここが世界的指導者養成組織「ムジーナの穴」。

     門を抜けるとさらに白樺林の路が続き、行っても行ってもさらに続き、もういいかげん路に迷ったのかと思えるほど行ったあたりで急に視界が開けそこには木造の古びた学校の校舎のような建物が建っている。校庭とおぼしき回りの空間は、まるでよく整備された公園のように芝生が敷き詰められ程よい木陰がありその木々からこぼれる木漏れ日が、庭内を流れる自然の小川にきらきらと反射し、美しさと突然の意外さに立ちすくみ、ここまでの道程の長さを忘れさせてしまう光景を創り出していた。

     ここに世界中から、将来の指導者となるべき選り抜きの者達が送り込まれてくる。そして彼らは寝食を共にしながら、世界最高水準と各国政府からは考えられている伝説のトレーナー達によって、指導者としての知識、教養、戦略、演説、体力などなどあらゆる教育が施される。そのおそるべき教育法は、これまで輩出した数々の指導者達誰もが一切口外しようとはせずいまだ闇のベールに包まれている。そして、そこで将来の指導者の卵達が話す一言一句が未来の世界情勢を形作って行くものだとは、そんな重大な会話がここで行なわれているとは、世界の誰もが、本人達でさえ知らなかった。

     

    「おい、カザミ。今日はいい話を持ってきてやったぜ。」

     魔女のような大きな鼻をひくつかせながらカウボーイハットを被ったいかにもアメリカ人の男が、やや若禿の小ずるそうないかにも日本人の男に話しかけた。

    「やあレーゴン、相変わらずダンディでカントリーだね。」

    「何訳の分らない世辞を言ってやがるんだ、このイエローモンキー。意味も分らず英語を並べりゃいいってもんじゃないんだぜ。とにかくこれを見な。」

     レーゴンはくすんだオレンジ色をした弁当箱のような箱を取り出した。

    「何だと思う。これが電子計算機だぜ。この世界最小のサイズ。そして最軽量たったの3ポンド。このテンキーを押すだけで、これまでおまえのおつむじゃ1日かけても解けなかった難しい問題いとも簡単に解けてしまう魔法の箱さ。」

     そう言いながらレーゴンは、“198×10+9÷9=”とキーを打った。しばらくして五桁の液晶モニターに“1981”と答えが表示された。

     「ほう、俺は天才か。計ったように今年に‘近い’数字をはじきだしたぜ。どうだい、この複雑怪奇な数式もアメリカのテクノロジーにかかればたったの5秒だぜ。カザミ、100ドルでいいぜ。」

    「やあ、これはとてもクレバーな機械だね。でも悪いけど日本じゃもっと小さい、そうだなこの10分の1ぐらいの大きさの電子計算機が、秋葉原でたったの10ドルで買えるんだ。」

    「何だと!小さいけりゃいい、安けりゃいいってもんじゃないんだぜ世の中は。だいたいそんなダンピング行為が、この文明社会、国際社会の中で許されると思ってるのか。何ならアーミー一個小隊送り込んで勝負してやってもいいんだぜ。」

     レーゴンの鼻は真っ赤になった。

    「わかったよわかった。実はぼくも電子計算機はこれくらいしっかりしてないとなんだかありがたみがないと思ってたんだ。買うよ、買わせてもらうよ。でも........98ドルにまけてくれないか。」

    「あの二人はいつもああだ。カザミにはプライドってものがないのかね。」

     やりとりを眺めていたミッシェランが言った。

     春の日の昼下がりを、芝生の上に白木の大きなテーブルとチェア。花柄のクロスをかけて、その上に薄いピンクのお皿とワイングラス。日の光は燦々と降り注ぎ、そよぐ風は生気にあふれ心躍るようなピクニック日和。ワインを抜いてグラスを満たし、鼻をくすぐる本日のメニューはといえば、サラミに生ハム、鴨のテリーヌにムール貝、赤タマネギとピーマン、ズッキーニのサラダ、ブルーチーズにウォッシュチーズ、バゲットにマフィン、ミートパイ、スコッチエッグ、ポテトフライに魚のムニエル、ザワークラフトにソーセージ盛り合わせ、タコのマリネにタンドリーチキン、ピータンにシュウマイ、ビーフン、おからに納豆に冷や奴、お新香、梅干し、焼き鯖の棒寿司。

     未来の元首たちによるランチ・サミットが、賑やかに開催されていた。

    「レーゴン、そんな奴ほっといてこっちに来いよ。アメリカじゃ食べたこともないようなランチを用意してやったぜ。」 

     身の丈2メートルはあろうかという赤ら顔の大男が、レーゴンを大声で呼び立てた。

    「ビール腹にソーセージを詰め込むしか脳のないドイツ人に、アメリカ人の繊細な舌を満足させるランチが用意できるとは思えないね、ゴール。」

     レーゴンもカザミを従えてサミットに加わった。

    「あなた達、食事の時ぐらい口を慎みなさい。」

    「おお、これはサッチャン。今日も一段ときれいだ。俺の知ってるハリウッドの女優たちも、君の前ではみんな色あせてしまうよ。」

    「ありがとうレーゴン。歯の浮くようなお世辞だけど素直に聞いておくわ。でも、あなたってそんなにハリウッドで顔ききだったかしら。」

    「なにを言ってるんだサッチャン。みんなも知っているように、俺は映画をもう20本も撮ってるんだぜ。しかもそのうち半分は主演。残りの10本も主役を食ってしまったって評判の高いものばかりだ。ハリウッドはおろか、アメリカで俺のことを知らない奴はいないぜ。」

    「私も映画が好きでよく見るけど、あなたがでてる映画って見たことなかったわ。実のところあなたが映画俳優だってこと、この間あなた本人の口から聞いて初めて知ったぐらいだもの。」

    「ああなんて可哀想なんだ。凋落の一途の大英帝国では、ほんとにおもしろい映画ってやつを、真のエンターテインメントってやつを一般大衆が楽しむことは、もうできなくなっちまったんだな。」

     レーゴンは大げさに手を広げ肩をすくめて、まるで演劇学校の新入生のような哀れみの演技を見せた。

    「ぼくは君の映画を見たことがあるよ。」

     テリーヌをワインで流し込みながらミッシェランが言った。

    「ミッシェラン、やっぱり君だよ。文化を楽しむ優雅さってやつは、ドーバーを越えなきゃかけらも存在しないって訳だ。フランス万歳!」

    「でもレーゴン、はっきり言ってあれは最低の映画だったよ。」

     レーゴンは真っ赤になり、手に持ったフォークを震わせてミッシェランを指しなにか言おうとした、その時。

    「文化は文明の末弟。いつの世ももてはやされるのはしっかり者の政治、そしてちゃっかりものの経済というものだ。」

     黒い法衣のような袈裟のようなものを纏った、年齢・人種不詳の男が、訳の分からぬことを説きながらレーゴンの背後に出現した。

    「ダマ師、いつからそこへいらしたのですか。ちっとも気がつきませんでしたよ。」

     ご機嫌ゴールが楽しそうに言った。

    「愉しそうなのはなによりだ。どんな相手と食事をしていても、それを楽しむ余裕がなければ大物にはなれない。でも君のように真から食べることだけを楽しんでいては、人の近づく気配すら感じない。そうだろゴルバー。」

    「恐れ入りましたダマ師。なぜ私だと分かったのですか。」

     ダマの背後から、ゴルバーが現れた。

    「人は皆違った”気”を持っている。それを読みとりさえすれば、新聞の尋ね人覧はいらなくなるだろう。」

    「それよりダマ師もゴルバーもお座りになって、ごいっしょにランチをいかがですか。」

    「ありがとうサッチャン。」

     ダマ師はレーゴンを押しやって、彼女の正面に腰掛けた。ゴルバーはゴールの横に座った。

    「そうだ、サッチャン。君に伝えなければならないことが....」と言いかけて、ダマはテリーヌをほうばった。そして咀嚼の間もなく、クロワッサンにバターを塗り二口で平らげた。次にフランクフルトとキューカンバンをレタスでくるんで二つに折って、裂いたマフィンに挟むやいなやケチャップとマスタードを塗りたくり、これは五口で平らげた。続いて、タンドリーチキンを骨からむしって、ちぎったナンと一緒に飲み込み、タコのマリネをほおばり、シュウマイとピータンをかじりながらコーンスープをすすり、呆気にとられる一同を後目に、カザミのトーフを奪ってソイソースとレモンをかけて、スプーンできれいさっぱり食べ終えた。

    「ダ、ダマ師。相変わらずすばらしい食べっぷりですね。」

     誰ともなく感嘆の声が流れる中

    「諸君、見ているだけではお腹は膨らまない。食べられる時に食べておかなければ、いつ第三次世界大戦が起こって食糧難に陥らないとも限らない。それに見たまえこの食卓。これはあらゆる国の食文化の地球だよ。でもここには民族紛争も、東西関係も、南北戦争も、カルチャーギャップも、もちろん食糧難もありはしない。すばらしい香りと、生きる活力。見ているだけでお腹がいっぱいになりそうじゃないかね。さあ、私に遠慮せず、諸君もこの文化を胃袋で感じてみたまえ。」

     いくつかの矛盾をすべて飲み込みながらダマが言った。

    「ダマ師、ぼくは先日の講義で未だもって咀嚼し得ないことがあるんです。」

    「ゴルバー。俺がいい胃薬をもってるから売ってやろうか。でもドルじゃなきゃダメだけどな。」

    「レーゴン。まじめな話に、その質の悪いアメリカ流ジョークはやめてくれない。ゴルバー、話して。」

     ゴルバーはサッチャンににっこり笑いかけて、ダマの方を向き、真顔で言った。

    「師に問う。」

    「来なさい。」

    「能ある鷹は爪を隠せども、切ることはできない。切るためには爪切りがいる。それを何処から手に入れ、どのように使えうるのか。その語らんとするところは如何に。」

    「なるほど、私が教えた問答の作法を、間違ってはいるが踏襲しているな。よかろう。それでは答えよう。鷹の爪とは何ぞや、まずそれを見極めるべし。次に、爪切りとは己の中にあり道具にあらず、それは己の心の向かうところなり。よって鷹は爪を切り、その態度によって自らの心根を語らん。」

    「その語らんとするところは。」

    「真理なり。」

    「真理とは何ぞや。」

    「己の心の目をもって知るべし。」

     ダマは、小山羊のチーズを摘んで口に放り込んだ。

    「相変わらずセンセの言うことは難しいぜ。ゴルバー、おまえじゃ聞くだけ無駄じゃないか。」

    「レーゴン、じゃまをしないでくれ。そういう君だって、このお言葉のその深遠なるところを、とうてい理解しているとは思えないけど。」

    「簡単さ。要するに爪切りは道具ではなく、武器さ。ふつうの鷹は武器は持てないが、能力のある鷹は、たとえば俺のような奴には武器を持つ権利があるってこと。そんでもって、それを己の心の向かうところ、つまり睨みを利かせたい奴等に向けて、下手なことができないようにしてやる。どういうことか分かるか?」

     レーゴンは得意げにみんなを見渡した。

    「さすがレーゴン。いやいや、ロジックがストレートだよ。つまり武器ってやつは、とりあえず金さえ出せば誰にでも買えるんだけど、君はそれを相手をやっつけるために使うんじゃなくて、ちらつかせるだけで睨みを利かせる。つまりつまり、武器の新しい使い方を言ってるわけだね。」

    「カザミ、少しは利口になったみたいだな。でも俺は武器を使わないとは言ってないぜ。いざとなれば徹底的に使いまくって相手を叩きのめす。その心構えがなきゃ、武器を持つ資格はないってことさ。」

     それからしばらく、その言葉の意味について、議論が続いた。

    「結局、国家同士が兵器を持ち、それを抑止力に使うということは、その力関係が拮抗していてはじめて平静が保たれる。つまり少しでもそのバランスが崩れたり、誰か暴走するものがでてきたら、いっぺんに第三次世界大戦に突入しかねないというわけだ。」

     ミッシェランがワインを自分のグラスに注ぎながら言った。

     いつの間にか鷹は国家に、爪切りは兵器へと変貌を遂げていた。

    「なんだか視点がずれてきている気がするわ。”能ある鷹は爪を切る”ってことは、そんな方向に向かうべきじゃないって言ってるんじゃないかしら。」

    「でもサッチャン、もしぼくがヒットラーのように豹変して、イギリスを襲ったらどうする。」

    「国中のミサイルをドイツにぶち込んであげるわ。でも決してそんなことは起こらない。だってゴール、あなたはいい意味でも悪い意味でも決してヒットラーにはなれないもの。」

    「ぼくもサッチャンの考え方に近いな。」

    「ゴルバー。いいこぶって、サッチャンに取り入ろうたってダメだぜ。おまえみたいなゴリゴリの赤は、太古の昔から俺たち自由の士と相いれることはないと相場が決まってるんだ。」

    「レーゴン。そんな言い方は失礼よ。第一ここでは、国家のイデオロギーも、白も黒も黄色も青も何だって関係なく、同じ志をもって勉強しているはずよ。そうですよねダマ師。もういい加減その言葉の意味を教えてくれませんか。」

     サッチャンはティーカップをスプーンでかき回しながらダマ師に言った。

     春の微風が長くカールした金髪をそよそよと揺らし、木漏れ日が午後の豪華な食卓に反射して、気丈な彼女の少し苛立った表情をほんのちょっとだけ柔らかくフィルターを通したように演出し、ゴルバーはなんだかうっとりと見とれてしまっていた。

     ダマは、ゆっくりと烏竜茶をカップに注ぎ、それを両手で柔らかく抱き抱えるように持って一口すすった。そしてなにかを考え込むように目を閉じ、カップをテーブルに置くとちょっとの間身じろぎもせず、しばらくしておもむろに一同を見渡してこう言った。

     「ぬるい。」

     息を潜めて師の言葉を待っていた弟子たちは、いったいなんて切り返していいのやら身を凍てつかせた。そんなことにはいっさいかまわずダマは続けた。

     「そういえばサッチャン。食べるのに忙しくて伝えるのを忘れていたけど、本国から君に帰国要請が来ていた。すぐに支度をして空港へ向かいなさい。君の政府がチャーターした、ヴァージン航空のジェット機が待ってるはずだ。」


    第二章 女王の切り札

     「サッチャン、よく戻ってくれた。疲れてるだろうがそれどころじゃあないんだ。とにかく大変で面倒くさい事態になっている。立ち話もなんなんでとにかく車に乗ってくれ。」

     霧にむせぶロンドン空港に、自慢のミニクーパーで乗りつけたチャルズが、気怠そうな態度とは裏腹に、せっぱ詰まった声でまくしたてた。

    「チャルズ首相。お出迎えはありがたいのですが、その紫のオースチンは私には畏れ多くて。できれば、護衛のロールスロイスに乗りたいのですが。」

    「そうか、それは残念だ。今、ロンドンのファッションシーンをリードしているカラーなんだけどな。君、この車を運転してくれたまえ。」

     チャルズは護衛の一人に声をかけ、サッチャンを促して赤いロールスロイスに乗り込んだ。

    「首相、ちょっと気になってたんですけど、なぜブリティッシュ・エアラインをチャーターなさらなかったんですか。」

     伝統を重んじるイギリス娘の問いに、チャルズは少し口ごもりながら呟いた。

     「なに、ちょっとね。マイルをね......。」

     車は、霧でほとんど視界のないロンドンの街中を猛スピードで走り抜けていた。

    「懐かしいビッグベンの通りね。」

     サッチャンは、なにかを想い描くようにそう呟いた。

    「ほう、よくこの霧の中で通りが分かるね。」

    「この街で働きながら政治学を学んだんですもの。ロンドンは、匂いで分かるんです。」

     サッチャンは、もっとなにかを思い出したようにそう答えた。

    「なるほど臭いか。建設大臣に、もっと下水整備をしっかりやらせなきゃダメだな。」

     チャルズの言葉に、サッチャンの淡い郷愁は吹き飛んだ。

    「首相、お話を聞きましょうか。」

     いつもの口調に戻っていた。

    「ああそうだったな。ええと、なにから話そうか。まず、女王陛下はかなりヒステリックになっている。いつものことだが.....。とにかくヤツらは止めるとまで言っている。ただの脅しにすぎないと思うけど。それから、日曜日にはとりあえず私は休むつもりでいる。だから、それまでに何とかこの問題には片をつけたいんだ。全くストってヤツはなにも生産性がない。無駄な時間を費やすだけだ。そういうわけで.....」

     要所を得ないチャルズの歯がゆい説明にサッチャンは、その言葉を遮って言った。

    「首相、整理された情報をください。鉄鋼労働組合がストライキを起こしているのは、機内で聞きました。女王陛下の状態も察しがついています。私が知りたいのは、組合の要求、経営者たちの対応、それに対する政府の介入状況、そしてストライキの現状、以上です。それからあなたの日曜日など私にとってはどうだっていいことです。」

    「相変わらず手厳しいな君は。まあその辺を買っての起用ではあるんだが....。じゃあ簡潔に言おう。組合は3%アップを要求してきている。それから有給休暇をフランス並の5週間。最後にこれはかなりしつこく言ってきてるんだが、工場内にあるすべての売店で使われている”フィッシュ&チップス”の揚げ油を、すぐに全入れ替えしろっていうんだ。なんでも、ヤツらの調査によるとここ数年は入れ替えてないらしくって、最近これを食べて腹をこわすヤツらが増えてきてるということだ。それから何だったかな....。」

     チャルズは、これ以上説明するのがちょっと億劫になってきていた。

    「経営者たちの対応、ストの現状、そして首相、これらに対するあなた自身のお考えと対応策をお聞かせ願いますか。」

     サッチャンがたたみかけた。

    「ああそうだったな。まず経営者たちだけど、みんな一応に無視する姿勢でいるよ。何せこの不況下、3%のベースアップは誰が考えてもあり得ない数字だと思わないかね。それから5週間の有給休暇については言語道断だね。フランス並、というのが気にくわない。人生の殆どを飲んだり食ったり、遊んで暮らすあのキリギリスどもを引き合いに出すなんて、イギリス人のウィットもウェットになったもんだ。まあ一応解決しそうなのが”フィッシュ&チップス”の揚げ油交換要求だろうな。中には、あの使い古した油で揚げるあの味こそがイギリスだという意見もあるんだが、国際的にみて、やはり油は最低でも3カ月で交換して欲しいと、私個人としても思っているんだよ。」

     これがチャルズの説明のすべてだった。

    「大変よく分かりました。それで首相、あなた個人の対応策案は現在検討中とうけとっていいですね。」

     サッチャンの鋭いつっこみに、チャルズはあわてて答えた。

    「あっ、そ、そうだよ。もちろん試行錯誤中だよ。何せ私はいつも真剣勝負だからね.....。」

     霧が少し晴れてきたようで、遠くにビッグベンの尖った影が見えるくらいに。日暮れ前の淡いオレンジ色に包まれたロンドンの街は、しっとり濡れた石畳の上をフォグランプを点けた車が行き交い、まるで幻灯会の夜のようにセンチな幻想に満ちていた。二人を乗せた車は、そろそろ点き始めた街灯に見送られながら、市街の中心にあるバッキンガム宮殿へと到着した。

     

    「サッチャン、待ってたのよ。」

     エリアナの悲鳴のような声が出迎えた。

    「女王陛下、ただいま戻りました。」

     サッチャンはおじぎしながら、お元気そうでと続けようとしたが、その言葉さえぎってエリアナはまくしたてた。

    「史上最悪のストライキよ。たかが揚げ油ごときでもう7週間よ。これ以上続くようなら、大英帝国はじまって以来の大大大ピンチよ。お願いサッチャン、あなたならできるわ。そうと見込んで呼び戻したんですもの。もうチャルズはあてにならない。何を聞いても「ただ今、いろいろと試行錯誤の最中です。」だもの。」

     ゴホン、とチャルズが咳払いをした。

    「あらチャルズ、いたの。ご苦労だったわ。これからのことはこのサッチャンにまかせて、あなたはしばらく実験室にでも戻って試行錯誤を繰り返していてちょうだい。そのうち連絡するわ。」

    「何ですと陛下、私がいなければ事態は収拾の方向へは向かいませんぞ。」

    「そうかしら、私の経験からすればそろそろあなたは休暇が必要な頃よ。働きすぎはよくないわチャルズ。そうだ、たっぷりと有給休暇を取ってバカンスへお出かけなさい。フランス人のように。」

     チャルズは最後のフレーズに一番かちんときて言い返した。

    「いいですか陛下、鉄鋼労組というのはわが国でももっとも強大な労組の一つです。それは、産業革命の時代からわが国の発展を支えてきたという長い歴史が築き上げてきた労働者の砦、そう、まさしく血と汗の砦なのであります。これは一朝一夕にしてなし得たものではなく、ローマは一日にしてならずの言葉が言うように....」

    「チャルズ、演説なら地元に帰ってからしてちょうだい。ほんとにあなたときたら、いつもは気怠そうに執務をこなしているだけなのに、わが身の危機とみるや弁舌たくましく訳の分からないことをもっともらしく、とにかく相手を納得させてしまう。まさに政治家の鏡よね。でも、私には通用しませんよ。」

    「おお、なんと嘆かわしい。私はやるときはやるんです。それが分かっていただけないとは....。いいでしょう、この小娘、おっと失礼このか弱き淑女にあの強大な砦が攻略できるかどうか、じっくり拝見させていただきましょう。」

     チャルズは開き直った。

    「首相、どうかご心配なく。私はもはや小娘でもましてやか弱き淑女でもありません。あなた達によって「ムジーナの穴」へ送り込まれ、そこで鍛えに鍛えられて帰ってきた、不条理に決して屈することのない女闘士なのです。」

     サッチャンのあまりに強い口調に、チャルズは背筋に寒いものを覚えた。エリアナは、そんなサッチャンを頼もしげに見つめながら言った。

    「さあ仕事にかかりましょうか。次期首相候補。」

     

     「という訳なのよみんな、お願いだから知恵を貸してくれる。」

     念願のブリティッシュエアラインでムジーナの穴へ舞い戻ったサッチャンの懇願に、政治家の卵たちは色めき立った。

     ムジーナの食堂は、夕食後パブに変身する。ここで彼らは自由時間のひとときをいつも、政治、経済、文化、風俗等々、好奇心にまかせて飛び出すテーマに対して国、人種、民族を越えた熱い議論を戦わせていた。

    「これは将来、我々も避けては通れない重要な問題だ。」

     ゴールが真剣な顔で頷きながら、フランクフルトをほうばった。

    「なに、サッチャン、なんてことない話さ。労組なんて所詮、烏合の衆。いざとなれば経営者どもをたきつけて解雇通告をちらつかせりゃ、ひとりふたりと現実を見るヤツが出てくるってもんだ。」

    「そんなやり方は汚いよ、レーゴン。僕たちだって皆労働者なんだ。もっと真剣に経営者と労働者が話をすべきだと思うよ。そもそも資本主義のシステム自体が間違ってるとは思うけど......。」

    「ゴルバー、おまえが資本主義に対してとやかく言うなんてちゃんちゃらおかしいぜ。破綻寸前の社会主義とやらでは、労働者諸君はろくにパンも食えないっていうじゃないか。」   

     レーゴンはウイスキーのショットグラスをテーブルに叩きつけて、ゴルバーを睨み返した。

    「なにを証拠にパンも食べれないだって。我々は日々、理想的な労働環境の中、誰もが平等に決められた労働を行い、平等に益を得ている。社会が一つの計画された共同体として動いているんだ、破綻するわけがないだろう。それにパンどころか、肉だって週に2回は食べられるよ。」

     ゴルバーは毅然として言い放った。

    「ちょっと待ってふたりとも。今はイデオロギーの話をしてるんじゃないのよ。私の国で起こっているちょっとしたトラブルに対して、なにかいいアイディアがあれば聞きたいだけ。だから、それ以外の議論は後でやってちょうだい。」

     分厚く重そうな木造のテーブルとやはり木造で重そうな椅子。背もたれに皮が張ってある。壁は白かっただろう漆喰のクリーム色。所々に世界的に有名な政治家たちの写真が飾ってある。天井は高く木組みがむき出しで、そこからチェーンでこれも木造のシャンデリアが柔らかい光を注ぎ、木枠の窓の外は月明かりに木々の影が揺れている。そしてカーテンは曼陀羅模様がくすんだような分厚い織り布で左右にごってりと束ねてあった。

     全員座っても50名ほどの椅子には殆ど空席がなく、セルフサービスのカウンターとテーブルを行き来してあしげく酒を運ぶ者、立ち上がって大げさな身ぶり手振りで持論を演説する者、あちらこちらの席を渡り歩いて議論の端々を聞きかじる者、とにかくくだを巻く者々達で、古びた教室のような食堂は10年ぶりの同窓会的様相を呈していた。

    「しかし労組がそこまでやるかな。火を落とすなんて、溶鉱炉をまるまる一つの鉄クズに変えてしまう行為だよ。イギリス的な質の悪いジョークじゃないの。」

    「ミッシェランの言うとおりだよ。脅しだよ脅し。鉄鋼産業にそんな度胸があれば、国の没落もなかったもんだ。イギリス人独特の論拠のない脅しにすぎないね。」

     ゴールがザワークラフトを飲み込みながらミッシェランに頷いて見せた。

    「やっぱりヨーロッパは一つにはなれないという証ね。あなた達にはあえて今さら失望はしないわ。でも今のご忠告、しかと頭に刻んでおくわ。ねえみんな、ほかになにか決定打はない?そうね、あったら誰も苦労はしないわよね。」

    「苦労しないといえば、うちじゃあそんなの大した問題じゃないね。ストライキなんて儀式的なもので、みんな不平不満も言わずよく働くからな。働くことが人生の楽しみ。会社のために尽くすことが労働者の義務。そんな風に再教育し直した方がいいんじゃないか。」

    「おまえの国は政治屋にとっちゃほんとにイージーな国だよな、カザミ。金で議員が買えるっていうじゃないか。おまえもどうせいずれ親父のカネでそのレプリカの本物を手に入れるつもりだろう。」

     レーゴンが、カザミの襟に燦然と輝く金色の偽バッジをつつきながらいった。

    「それは何処の国でも同じ穴のムジーナってもの。これが嫌いな御仁はおりやせんぜ、レーゴンの旦那。」

     カザミはポケットから札束を取り出し扇子のように広げ得意そうに扇いでみせた。

    「あなたはいつも最後にはお金。それじゃあんまり寂しすぎない。」

    「最後にはお金だって。とんでもない、僕らは常に最初にお金ありき、だよ。」

     ニヤリと笑いながらカザミが言った、そのあまりに歪んだ笑顔に一同は背筋にそら寒いものを感じた。

    「とにかく、この問題はサッチャン本人が組合の幹部と会わなければ解決しない問題だと思うよ。」

     ゴルバーの優等生的発言に、場が気を取り直した。

    「それじゃ、あなた私についてきてくれる。」

    「えっ。」

     ゴルバーは言葉に詰まった。

    「サッチャン。なにもこんな奴を連れてくことはないぜ。俺が一緒に行って、自慢の二丁拳銃で地獄の溶鉱炉どもから君を守ってやるさ。」

    「おおきにありがとう、レーゴン保安官。でもこれはおとぎの国の腰抜け西部劇じゃないの。現実の闘争なの。いいゴルバー、明日の朝10時にここを立つわ。準備しといてね。」  

     サッチャンは一方的にゴルバーに通達した。

    「さあみんな、どうやら私たちが最後のようよ。きょうは私のためにどうもありがとう。もうここへは戻って来られないかもしれないけれど、みんなのアドバイスは忘れない。いつかきっとおかえしするわ。それじゃおやすみなさい。」

     そう言ってサッチャンは、ひらりと食堂を後にした。

    「やっぱり国が国だから、イギリス娘はみんなあんな風に女王的態度になっちゃうのかなあ。」

     ミッシェランがしみじみ呟きながら席を立った。

     それにつられみんな三々五々、食堂を後にそれぞれのねぐらへと散って行った。出口で振り向いて、まだ唖然と座っているゴルバーに向かってレーゴンが叫んだ。

    「ゴルバー、ご指名があったからっていい気になるんじゃないぜ。もしサッチャンに手を出してみろ。またベトナムへ一個小隊ぶち込んで痛いめにあわしてやるからそう思え。」

     

     西へと向かうブリティッシュエアラインのファーストクラスのシートにゆったりと腰掛けたサッチャンの横で、なんだかもぞもぞしながらゴルバーが言った。

    「笑わないでほしいんだけど、ぼくは飛行機に乗るのが初めてなんだ。」

    「まあ、ほんと。じゃあムジーナの穴へはどうやって来たの。」

    「国境までは汽車で、そこから車さ。途中山越えではろばに乗ったよ。」

    「すてき、アラビアのロレンスみたい。」

     サッチャンはまるで違った光景を想い描きながら質問を続けた。

    「でもあんな広い国で飛行機を使わないんじゃ、不便でしょうがないでしょう。」

    「これも笑わないでほしいんだけど、今回のムジーナ行きが初めての遠出で、これまであまりモスクワを出たことがなかったんだ。でもいまから思えば、みんなと出会うまでぼくはほんとに狭い世界しか知らない人間だったんだね。」

    「すてき、ラストエンペラーみたい。」

     サッチャンは遠からずとも当たらない例えを口走りながらさらに続けた。

    「でもそんなに悲観することなんかないわよ。あなたなら、これからいくらだってチャンスがあると思うわ。それにしても将来の担い手を汽車で送り出す国も国よね。ご自慢の軍事力を使って、戦闘機ででも送らせればいいのに。」

    「これはあまり言っちゃいけないんだけれど、いま真空管の生産が落ち込んでてまともに飛べるヤツが少ないんだ。」

    「まあ面白い。」

     サッチャンは声を出して笑った。

     「最新鋭のジェット戦闘機が真空管で飛ぶなんて、あなたにしては上出来のジョークよ。」

     冗談を言ったつもりはなかったゴルバーは、ぶ然とした。

    「じゃあ君の国では真空管を使わないのかい。」

    「ごめんなさい気を悪くしないで。もちろんイギリスでだって、真空管は大モテよ。音楽をほんとにいい音で聞こうと思ったらやっぱり真空管アンプよね。またその良さが見直されて来てるみたい。ちょっと前まではトランジスタの安っぽい音がいいってみんな言ってたのにね。」

     ゴルバーは1センチぐらいの間隔を指で示しながら言った。

    「トランジスタならぼくだって知ってるよ。これくらいの円筒に足が二—三本生えてるヤツだろ。」

     サッチャンはちょっと笑いをこらえながら答えた。

    「そうね、トランジスタもいろいろよね。レーゴンが言ってたけど最近ではそれくらいの1センチ四方に、何十万個のトランジスタを乗せたのもあるみたいね。」

    「ほんとかい、それはすごい。アリのエンジニアでも雇ってるんだろうか。」

     ゴルバーがあまりに真剣にそう言うものだから、とうとうサッチャンは吹き出してしまった。お腹を押さえて声のでない、一番つらい笑い方をするイギリス娘をみながらゴルバーは「ぼくが真剣に言うことを西側のこの娘はおかしいという。この娘が変なのか、それともぼくの常識が狂っているのか。」そう思いながら、ちょっと不安になるのだった。

    「これは悪い意味じゃなくて、ほんとにあなたは面白い人。最初にあったときはとんでもない堅物だと思ってたけど、私あなたを見直したわ。」

     目尻の涙をハンケチで拭いながらサッチャンが言った。

     なにが面白いのか、その評価基準はよく分からなかったけれども、ゴルバーはまんざらでもなかった。

    「それはそうとサッチャン、さっきから聞こうと思ってたんだけど、なぜ僕についてきてほしかったんだい。」

    「今回の問題解決には、ああいう組織の内部についてよく分かってる人が必要なのよ。」

    「でも僕は労働組合なんかに参加してたことはないし、ましてやそんな組織の内部なんて知る由もないよ。」

     ゴルバーのもっともな答えに、サッチャンはしたり顔でこう言い放った。

     「何を言ってるの、あなたの国自体一つの労働組合みたいなもんでしょ。」

     

    第三章 鋼鉄の処女

     何隻もの貨物船やタンカーが停泊する工業地帯の港。埠頭には大きな倉庫が建ち並び、何台ものクレーンが沢山の工業製品を掴んでは積み上げ、掴んでは積み上げ、絶え間なくトラックが行き交い、休む暇もなく港湾労働者達がアリのように動き回り、忙しくとも活気にあふれ、世界の産業を動かしているんだという自負で、未来への希望が光輝いていただろうあの頃とはうって変わって、いまは人影もなく、時折動くクレーンも小さなコンテナを2、3個積み込む程度で、中身のほとんどは「ベイ・シティ・ローラーズ」のレコードだった。

     

     港に続く工場街には、産業革命の頃から何一つ変わらないように思われる煉瓦でできた骨董品級の建物が軒を連ね、汚れてなくても汚れて見えるズボンのポケットに両手をつっこみ背中を丸め首をすぼめて、およそ全ての不景気の原因をしょい込んだ風体の労働者達が、もう慣れっこになってしまったグレーの空を仰ぎみることもなく、息苦しい時代を足早に通り過ぎようとただただ行き交うばかりだった。

     その中のひとりの男が、小脇に油のしみ出た紙袋を抱え、回りを伺うようにしながら、一棟の工場の扉を叩いた。中から若い男の声が聞いてきた。

    「きょうはいい天気だな。」

     男は答えた

    「ああ、すてきな曇り空だ。」

     扉が開いた。

     男は薄暗い工場の中に入り、赤々と火柱をあげる幾台もの溶鉱炉の脇を走り抜け、突き当たりの「制御ルーム」と書かれた扉を開けると、5,6人の男達が待ちわびる机の上に紙袋を置いて言った。

    「やっぱり奴等は要求をのむつもりはないらしい。」

    「なるほど、ますます酸味が増している。」

     中のひとりが、紙袋から魚のフライを取り出し一口かじり、納得するように言った。

    「フレッド、どうする。」

     フレッドと呼ばれた男は、まるでプロレスラーのように大きくがっしりとした体つきで、頭はGIカット、左の二の腕に錨の入れ墨があり、迷彩色のパラシュートパンツに色のはげた編み上げのブーツを履き、汗の染みたシャツに黒いライダージャケットを羽織っていた。みんなが注目する中、紙袋のフィッシュ&ポテトを一掴み口に入れ、しばらくかみ砕きながら何かを考える仕草を見せ、そして言った。

    「俺はこれくらいの酸味が好きだな。」

     誰もそんな答えを期待してはいなかった。

    「とにかく、我々の要求がのまれない限り、脅しが脅しでないことを思い知らせてやるしかないな。」

     フレッドは椅子から立ち上がり電話に手を伸ばした。と、そのタイミングで電話が鳴った。フレッドは勢い受話器を取り上げこう言った。

    「ただ今話し中です。」

     電話の相手に何やら言われたらしく、事情を飲み込んだフレッドが相づちを打ち始めた。

    「ああ分かった。それじゃあこちらでも対策を練っておく。すぐに向かってくれ。」

     電話が終わり、その内容を知りたがっている男たちに向かってフレッドは言った。

    「こういうことって結構あるよな。かけようと思ったときにかかってきて、しばらく気づかずボタンを押してしまう。ただ今話し中って言えるのは、結構反応いい方だよ。」

     誰もそんなことは聞きたくなかった。

    「ブライアントトはこう言ってきた。”鉄の女”がそっちへ向かっている。とね。」

     フレッドの言葉に一同は色めき立った。

    「鉄の女って、ひょっとしてサッチャンのことか。」

    「ひょっともヒャッともないぜ。ヤツ、いや彼女しかいないだろう。」

    「でも彼女はいまムジーナとかメジーナとかいうところで研修中のはずだろ。」

    「エリアナのことだ、呼び戻したに決まってるだろ。」

    「どうする。」

    「どうするって、どうにもならんだろう。」

    「目には目を、鉄には鉄を。とはよく考えたものだ。」

    「なに感心してんだ、この野郎。」

     その時、ドアの外、駆けてくる男の足音がした。室内に緊張の色が走った。足音はドアの前で止まり、しばらくなにも起こらなかった。中の様子をうかがっているのか。一同は静まり返り、ドアを見つめた。静かにドアノブが軋み、カチッという音と同時に扉が勢いよく開け放たれた。一瞬後、男が室内に飛び込んできた。

    「やあみんな、ちょっとはビビった?」

     沈黙の間が続き、誰もなにも言わず、真顔のままそれぞれの席へと戻っていった。フレッドが口を開いた。

    「ブライアント、いい試みだが、いまのはイマイチだった。とにかく報告を聞こう。」

     ブライアントは肩をちょっとすぼめてみせた。そして、空いてる席に腰をかけテーブルに両手をくんで置くと話し始めた。

    「さっき広報室のエンジーに聞いたんだけど、とうとう政府が介入を始めるらしいって。その最初の最終兵器としてサッチャンをムジーナから呼び戻したって。サッチャンはなんだかすげえ助っ人を連れてるらしいって。そんでもって、書記長、あんたと話をするためここに向かってるって。」

     書記長と呼ばれたフレッドは、一瞬中を見つめる仕草を見せ、なにかを決したように言った。

     「逃げちゃおうかなあ。」

      

    「サッチャン、ほんとにここでいいのかい。これじゃあ小さな町工場みたいだけど。」

    「いいんですよゴルバーさん。イギリスでは、こう言った古式ゆかしいささやかな工場から、世界に冠たる先端工業製品を送り出しているんです。」

     サッチャンのお供につけられたメジャーが応えた。

    「ゴルバー、なりは小さくてもこの工場の奥の一室が、世界最大規模そして世界一統制がとれたと自分たちで言っている、イギリス鉄鋼労働組合の総本部なのよ。」

     サッチャンの目は険しく工場の入り口を見つめていた。メジャーがサッチャンに目配せし、扉をノックした。中から若い男の声が聞いてきた。

    「きょうはいい天気だな。」

     メジャーは答えた。

    「ああ、すてきなイギリス晴れだ。」

     扉は開かれた。

     

    「やつらは何人で来るかは知らないが、腕ずくじゃあこっちの方が上だ。かまうこたぁねえ、やっちまおうぜ。」

     制御室にいる男たちの中で、一番背丈も小さくひ弱そうで薄汚い格好のイギリス紳士が言った。

    「何を言ってる。レディに失礼のないようにお迎えするんだ。いいなみんな。」

     フレッドが全員を一瞥した。

     その時、場内をゆっくり横切る女たちの足音がした。

    「フレッド、来たようだぜ。」

    「ドアをゆっくり開けてあげるんだ、バッキンガムの自動ドアのように。」

     フレッドに促されて、ブライアントがドアに向かった。

     ドアをノックする音。ブライアントがドアをゆっくりと引いた。

    「あらすてき、自動ドアなの。大英博物館の資料室みたい。」

     サッチャンがちょっと陽気にはいってきた。

    「お嬢さんがあの有名なサッチャンかい。」

     ドスの利いた声でフレッドが聞いた。

    「たぶん人違いね。私はそんなに有名人じゃないもの。それより何よりそういうあなたが、あのフレッドさんね。お目にかかれて光栄ですわ。」

     サッチャンはちょっと気取っていた。

    「あのってのがどれだか知らないが、いかにも俺がフレッドだ。あんたこそこの業界じゃ、あの”鉄の女”あるいは”鋼鉄の処女”って有名なんだぜ、知らないのか。」

    「へえ、そうなの。でも私、そんなに堅くて冷たい女じゃないけど、誰が言ったのかしら。とにかく立ち話もなんだから、座って話しましょう。」

     サッチャンはテーブルに近づき、さっきのイギリス紳士が引いてくれた椅子に座った。メジャーとゴルバーはドア付近に突っ立ったままどうしたものかと迷っていたが、サッチャンが席に着くと、意を決したように強面の面々が集うあたり一面を見渡しながらサッチャンの両脇の椅子に座った。

    「おやおや、そっちの優男はメジャーさんじゃないかって。いままでせっかく仲良くお話し合いを続けてきたのに、もうバトンタッチかって。」

     ブライアントは皮肉たっぷりにメジャーをからかった。

    「私はあくまで情報収集役で、これからが本当の政府介入と思っていただきたい。それに、サッチャン女史がやってきたのは女王陛下のご意志でもある。」

    「メジャー、ママがついてるとずいぶん鼻息が荒いんだな。」

    フレッドはメジャーの言葉を軽くいなすと、ゴルバーを一瞥して言った。

    「何だ、そっちのフランス人は。」

    「フ、フランス人。」

     ゴルバーは言葉に詰まった。

    「眼鏡を買ったほうがいいわね、フレッド。彼は生粋のロシア人よ。つまり、あなた達と同じ思考の持ち主って訳ね。」

     サッチャンがフォローした。

    「同じ思考だと。まさか労働組合のマニアじゃないだろうな。」

    「し、失礼な。そんなマニアがいたら援助したいぐらいだ。」

     ゴルバーはいきり立った。

    「ほう、おロシアさんがご援助くださるってか。それはありがたいって。いまちょっと資金的にも苦しいんだって。」

     「ブライアント、おまえは黙ってろ。それより、そのロシア人がなんで大英帝国の女騎士さんと一緒にいるんだ。」

    「説明しましょう。」

    サッチャンが毅然とした態度で割って入った。

    「まず断っておくけど、私にはナイトの称号はありません。みなさんご存じのように、ただの政治家です。そして彼は私の友人でゴルバー。同じ政治家仲間ね。でも彼はただの政治家ではなく、たぶん将来ソ連を背負って立つ人物になる、と私は思ってるわ。」

    「それは素晴らしい。あんな重いものを背負って立つなんて見上げたものだ。労働者よ続け!あんたなら俺達の気持ちが痛いほど分かるだろう、同士よ。」

     フレッドはゴルバーに向かって大げさに両手を広げて見せた。

    「確かに。資本家というものたちは、人間の労働を安く見積もりすぎている。そもそも一部の人間が富を得、多くの人間が搾取される社会構造に問題がある。君らの言い分は分からないでもないよ。ただ、ストライキには賛成できないな。もしこの社会に対して不満があるなら、君たちもそろそろ宗旨替えしたほうがいいのかもしれない。」

    「宗旨替え?いったい何にだ、ロシア正教にってか。」

     ブライアントが皮肉たっぷりに言った。

    「宗教はナンセンスだ。信じるべきは自分であり、そしてその個々が構成する社会全体であるべきだ。だいたい君たちはいったい何のためにここで闘ってるんだね。自分自身、そして家族、突き詰めて考えれば、仲間の労働者全体のことを考えてここにいるんじゃないのかね。同士よ、もう少し計画的に物事を考えようじゃないかね。一人一人の力が集まって、資本家達に勝る力を得、そしてそれを行使するんだ。」

     ゴルバーがそろそろ温まってきたその時サッチャンが口を挟んだ。

    「そんな演説は、お国へ帰ってレーニンの亡骸の前でやってちょうだい。いまは私の時間よ、ゴルバー。」

    「ああそうだったね、つい......。」

     ゴルバーは悪戯を叱られた子供のような顔を見せた。

    「フレッド、私はだらだらくだらないことで時間をつぶしたくないの。いますぐケリをつけましょう。」

    「こいつは話が急展開だ。これまでお偉いさん方は何も打つ手なしと思っていたが、とんだ隠し玉があったもんだ。」

    「あなた方の要求のうち、フィッシュ&チップスの油に関しては衛生上の問題からも当然手を打つわ、これまで野放しだったのが不思議なくらい。それから3%の賃上げに関しては、経営者達ともよく話し合った結果、はっきり言って1.2%。これ以上はいっさいの妥協はないわ。あしからず。最後に5週間の有給休暇に関してだけど、3週間が限度ね。これは私が知ってる日本人に聞いた確かな話だけど、彼らの国の労働者達は、有給なんてつけば御の字、多くても10日前後ですって。しかも、有給休暇を取ろうとすると回りから冷たい目で見られて、忙しさも手伝って、結局1日も使えないらしいわ。いい、先進国の中でも下には下がいるってこと。」

     サッチャンは一気にまくしたてた。

    「おい、誰かメモをとっとけ。」

    フレッドはあまりの剣幕に一部聞き取れないまま応えた。

    「油は早急に対応してくれ、こればっかしは俺の個人的嗜好でとやかく言えないからな。それから3週間の有給は考えさせてもらおう。女房の都合を聞かないとな。最後に1.2%は断じて受け入れられない。3%は組合員全員でダーツをして決めた数字だ、覆すことはとうていできない。」

    「そう、1.2%という数字も女王と私がサイコロを振って決めた根拠ある数字よ、後に引くわけにはいかないわ。」

    「それなら最後の手段に訴えるしかないな。」

    「最後の手段?」

    「溶鉱炉を止めさせてもらうぜ。」

    「止めるとどうなるの。」

    「なーに大事な国の財産が一つ、役立たずの鉄の塊になるだけさ。」

    「おもしろそうね、やったら。」

    「なに?」

    「是非おやりなさいよ。」

    「簡単に言うが、やったらどんなことになるのか分かってるのか。」

    「ええ、いまあなたに聞いたわ。」

    「いいか、鉄は溶けてるうちは液体だが、火を止めると冷えて固まってカチンコチンの鉄になっちまうんだぞ。」

    「学校で習った気がするわ。」

    「これは脅しじゃなくて、俺はやるといったらほんとにやる男だぞ。」

    「すてき、いったいどうやれば止まるの。」

    「簡単だ、そこにある制御盤のその赤いボタンを押せばいいだけだ。しかし、押したら最後もう後戻りはできない、それでもいいのか。」

    「私は後悔しないたちなの。それに、それがあなた達の総意なんでしょう。」

    「そうだ、要求の一つでも通らなければ溶鉱炉を止めると全員で決めたんだ。だからほんとにやるぞ。」

    「じれったいわね、さっさとおやりなさい。」

    「何をいってるんだ、そんなことしたら、ただでさえ斜陽の国の斜陽産業の消えかかってる風前の灯火を吹き消すことになるんだぞ。」

     フレッドは立ち上がり、机に両手をたたきつけながら叫んでいた。

     その瞬間、サッチャンは椅子を蹴って立ち上がり制御盤まで歩み寄ると、全員が「あっ」という言葉を発する一瞬前に赤いボタンを押した。そして凛とした姿勢で振り返り言った。

     「あなた達の要求は聞いてあげたわ。これが私の精一杯の譲歩と思ってちょうだい。でもそのかわり、これから私の要求をしかと聞いていただくわね。」

     

    「ほんとにこれでよかったんだろうか。」

    「考えすぎないで、ゴルバー。たぶん私たちは、これからもっと沢山のそして重要な決定を下さなければいけなくなるわ。その時、決して振り返ってはダメ。ましてや後悔などしてはいけないの。自分を信じて、信念を持って正義を貫くことが大事よ。」

     ゴルバーは、サッチャンがなんだか急に大人びてきたのを感じていた。

     「カン」という音とともにエレベーターの扉が開いた。ポーターが荷物を運び込み、ふたりも乗り込んだ。扉が閉まりエレベーターが浮かび上がると、ガラス張りの箱のような室内からロンドンの夜景が眼下に広がり始めた。

    「やあ、なんて素晴らしい夜景なんだろう。」

     ゴルバーは感嘆の声を上げた。

    「えっ。」

    サッチャンは驚いたようにゴルバーを見つめた。

    「あなたラスベガスの夜景を見たことがある?」

    「いや、ないよ。」

    「じゃあ、香港は?」

    「ないよ、どうしてだい。」

    「ううん。ロンドンの夜景を素晴らしいって言った人に初めて会ったから。」

     サッチャンは戒厳令下のベルリンのように密やかな街明かりを見つめながら、感慨深げに呟いた。

    「確かに華やかさはないかもしれないけれど、しっとりとしたやすらぎを感じさせる夜景だよ。たぶんピーターパンもこんな気持ちでロンドンの夜空を飛んでたんじゃあないかな。」

     ゴルバーの口からでた似つかわしくない名前に、サッチャンはちょっと驚いたような表情を見せ、そして笑った。

    「何かおかしなことを言ったかな。」

    「ゴルバー、あなたのお国ではピーターパンもやっぱり共産主義者なの?」

     ゴルバーが何か言おうとしたとき、エレベーターが止まった。ふたりは赤い絨毯が敷き詰められた廊下を歩きながら、何も言わなかった。ポーターが部屋の中に荷物を運び込みチップを受け取って出ていくと、初めてサッチャンが口を開いた。

    「今度のことでは本当にお世話になったわ。あなたがいなければどうなっていたことか。」

    「多分どうにもならなかったような、そんな些細な存在だった気がするけど。」

    「そんなことないわ、あなたの存在がどれだけ支えになったことか。」

     こんな風に女性から言われたのは初めてだった。ゴルバーは完全にいってしまった。

    「サッチャン、君が助けを求めるなら僕はいつだって。」

     彼の両腕が彼女のきゃしゃな肩に伸び、そして優しく抱き寄せた。いつかふたりの頭の中には、弦楽四重奏による愛の調べが鳴り響いていた。彼は彼女を見つめ何も言わない。彼女も彼を見つめ何も言わない。なぜか部屋の明かりが密やかに落ち、柔らかな影が寄り添ってチークを踊り始める。彼の唇が彼女の唇にそっとふれる。彼女は恥ずかしそうにちょっと身をこわばらせる。それでも彼は力強く彼女を引き寄せ、熱い口づけを交わす。ふたりは抱擁のままソファーに倒れ込み、いつ明けるともない夜を過ごす。はずだったその一瞬後、ゴルバーはソファーから2メートル離れた床に転がっていた。

    「ごめんなさい。私にはこんなことをしてる時間はないの。そう、私だって普通の女の子たちのように好きな人とずっと一緒にいられたらどんなに素敵かって考えるわ、でも、でも私にはまだやらなきゃならないことがあるの。ほんとにごめんなさい。」

     サッチャンはそう言い残すときびすを返し、部屋から走り去った。そのふくらはぎあたりを床から見つめながらゴルバーは思い出していた。

     「確かあいつらが言ってたな。”鋼鉄の処女”って。」

      

     ロンドンは相変わらず今日も霧にむせび泣いていた。大きな時計台の近くにある通称”BBパブ”は、こんな真っ昼間から生温いビールをちびりちびりやるジェントルマン達で溢れ返っていた。

     いかにも古めかしい木のテーブルと、カウンター。バーテンは馴れた手つきで客の手元へ、黒いビールジョッキを滑らせている。初老の紳士は、カウンターに寄り掛かりながらスコッチを飲っている。昼間というのに窓の外はかなり深い霧で、中の照明もすすけたランプシェードのせいかお陰か薄暗い。ランチの時間は過ぎていたが、まだ”フィッシュ&チップス”をつついている労働者風の男もいる。さすがにレディ達の姿はなく、ひとり疲れた水商売風の女が、コンパクトを片手に化粧を気にしながらタバコを吸いスコッチを舐めていた。

     入り口の扉が開き、2メートルを超す大男が現れた。筋骨隆々というよりは、単に大きく、赤ら顔で、農夫が年に一度のお祭りにめかし込んでパブにやってきた。そんな風体だった。男は2,3歩中に入ると辺りを見回し、誰かを捜しているようだった。

    「やあゴール、ここだ。」

     茸のオムレツを食べながら赤ワインを飲んでいた男が呼んだ。

    「よおミッシェラン、久しぶりだな。」

     ゴールはミッシェランのテーブルに近づくとどかりと座った。

    「まだみんな来てないようだな。」

    「ああ、まだ約束より15分前だからな。多分ゴルバーとサッチャンは時間通りに来るけど、レーゴンは遅れてくるだろう。カザミは選挙で忙しいらしい。まあ、あいつは来なくても世界は回っていくけどな。」

    「とりあえずやってようか。」

     ゴールはウエイターを呼び、ありったけの食べ物と、とりあえずのビールを注文した。しばらくして料理でテーブルがいっぱいになる頃、時間通りにゴルバーが現れ、ついでサッチャンが到着した。

    「みんな久しぶりね。ゴルバーあの時はどうもありがとう。」

     サッチャンは少しはにかむようにほほえんだ。

    「いや、ほんとにまたあえてうれしいよ。」

     ゴルバーも少し顔を赤らめながら応えた。

    「なんだいこの二人、ちょっと怪しいんじゃないの。」

    「ミッシェラン、あなたはいつもそう。目と目があったぐらいでセックスした気になるのはフランス人ぐらいよ。」

    「サッチャン、表現が大胆になったね。何かあったのかい。」

     ゴールがフランクフルトをかじりながら言った。

    「そうね、あったと言えばあったし、なかったと言えばなかったわね。」

    サッチャンは意味深に呟いた。

    「それよりみんなの話を聞かせて、私はあれからムジーナに戻らなかったから授業の半分も受けてないし、卒業式にも行けなかったから、とても残念で。」

    「そうそう、君はいきなり保守党の幹事長に就任しちゃって。昨日まで僕らと同じ学生だと思ってからみんな大騒ぎだったよ。」

     ミッシェランは大げさに手を広げて見せた。

    「でもそれ以外はそんなに変わったこともなく、相変わらずの毎日だったよ。ただ、フッセンとカラフェがレーゴン達と喧嘩して退学になったけど。」

    「えっほんとなのゴール。それじゃレーゴンも。」

     サッチャンが驚いて見せたその時、

    「そんなに心配してくれるなんて、やっぱり俺のことを思って思ってやまなかったんだな。」

     レーゴンが現れた。

    「思ってやまないんじゃなくて、思ってもみなかった人の名前が出たから驚いただけよ。」

    「照れを強がりでごまかす女は嫌いじゃないぜ。」

     レーゴンはサッチャンの横に座った。

    「それよりゴール、俺の武勇伝を話していたんじゃなかったのか。」

    「武勇伝というよりあれは茶番だな。」

    「おやおや左寄りのおフランスが何を言ってるんだ。おまえは奴等の味方か。」

    「敵も味方もあったもんじゃない。学生同士の痴話喧嘩に拳銃を抜くなんてやり過ぎだったよあれは。」

     ミッシェランはフィッシュフライを切ったナイフで銃をまねて見せた。

    「あなた、ムジーナの中で銃を撃ったの。」

     サッチャンはまた驚いた。

    「なに、やつらがちょっと俺の舎弟に手をだしやがったから例の、”能ある鷹は爪を切る”を実践してやったまでさ。お陰で俺様にはお咎めなし。壊れたガラスもカザミに弁償させてやったし、万事がうまくおさまったて訳さ。」

     レーゴンは両手で二丁拳銃をつくりミッシェランを撃つまねをした。

    「レーゴン、君はまだその深遠なる意味が分かってないんだね。」

    「じゃあゴルバー、おまえは分かってるっていうのか。もし分かってるんならここで講義してもらおうじゃないか。」

    「ちょっと待って、いくら懐かしの講義でも、ここではやめて。なんだか近くにダマ師がいそうな、そんないやな予感がするの。」

    「そういやサッチャンはダマ師が苦手だったな。でも心配ないよ、彼は我々の卒業式を前に姿を消してしまったんだ。」

     ザワークラフトを食べながらゴールが言った。

    「姿を消したって、何処に。」

    「誰も知らないんだ、サッチャン。でも師がいなくなる前の晩、師は僕の部屋にいらっしゃってこんな話をされたんだ。」

     ゴルバーはウォッカのグラスを片手に回想を語った。

     

     「風は西から吹き東へ抜け、さらに東へ向かい、東へ抜ける。そして気がつけばそれは西から現れる。それはなぜか。」

     背後から突然声をかけられたゴルバーは飛び上がった。

    「ダマ師、こんな夜更けにどうされたのです。」

     ゴルバーの部屋はムジーナの寄宿舎の2階のはずれにあり、モスクワの最高級のホテルの部屋のように質素で狭く、トルコ織りのカーペットはすり切れ、鉄パイプのベッドは錆び、木造の机は傷だらけで、壁にはラーニンの大きな写真がかけられていた。家族や恋人以外の他人の写真が飾られているのは、他にコウタクとジュンキムの部屋だけだった。ただ例外的に、フッセンとカラフェの部屋には自分の写真がかけられていた。

     各自の部屋は、代々各国の指導者候補生達によって使い継がれており、その国のその時の経済状態の応じてその内装も大きく異なっていた。しかし、ゴルバーはこの部屋を気に入っていた。

    「それはなぜか、答えなさいゴルバー。」

    「そ、それは、多分地球が丸いからじゃないでしょうか。」

     ゴルバーは自信なさげに答えた。

    「その通り。しかしなぜ自分の答えに自信を持てないのか。それはおまえが地球の丸さを本当には知らないからだ。」

    「ええ、多分地球儀でしかみたことがないですから。でも、それは宇宙飛行士にでもならなきゃ体験できないことですよ。」

    「ゴルバー、おまえはとても正直者だ。しかし、ときどき言葉の意味をその額面通り受け取ってしまうきらいがある。」

    「それではダマ師は、どうやって地球の丸さの本当をお知りになったのですか。」

    「私は風だ。風のように自由に地球を駆ける。天に舞い地を這い、時に暖かく時に冷たい。風に国境はなく、人種も民族も政治も経済も宗教も風には意味をなさない。私はあるとき大気を抜け、宇宙の目を持って地球をとらえることができた。」

    「師はそこで何を見られたのですか。」

     ゴルバーはダマの言葉に感動を憶えながらイメージを精一杯膨らませて訊ねた。

     ダマは少し目を閉じ、そして答えた。

    「やっぱり地球は、青かった。」

     どこかで聞いたせりふだと、ゴルバーが思い出そうとしているところに、ダマは追い打ちをかけた。

    「おまえはこれまでの人生の99%をソ連で過ごしてきた。残りの0.99%をここで過ごし、そしてほんのわずかな0.01%でロンドンという街の表層を体験した。而してその数字がおまえの世界観に比例するか。」

    「そう言われれば、ロンドンでの体験は非常に有意義で、ちょっぴり甘く切ないものでした。」

     ゴルバーは感傷的に応えた。

    「ゴルバー、もっと世界の広さを宇宙の目で見るがいい。」

    「それはどうすればいいのですか。」

    「私は宇宙の目を持つことによって、大地に立っているだけで足の下に地球の丸みを感じることができる。そして、その上の全ての生物を同じ目でとらえることができる。」

    「ですからそれはどうすれば持つことができるのですか。」

    「教えて教えられるものではなく、聞いて分かるものでもない。自らの行動によってそれを掴むのだ。」

     なんだか狐に摘まれたようなゴルバーを後目に、ダマは部屋を出ていった。

     

    「それはナンだな、ダマ師はそのころ不眠症に悩んでいたらしいから、暇つぶしにゴルバーをからかいに来たんだな。」

     ゴールはアクアビッツをあおりながら呟いた。

    「いや、僕にはダマ師がこう言いたかったんだと思う。『その目でもっと広く世界を見、その肌でより深く人や街や自然を感じ、考え、悩み、笑い、怒り、そうして真の指導者になるための修行を積むことによって、宇宙の目を知るのだ。』とね。」

    「おいおい、とんだお人好しのジョーダンの考えすぎる人だぜ。ヤツはとにかく誰かに追われていたって話だ。だから姿をくらませたんだ。そんなありがたい教えを持っていたら、悪い奴等も善玉に鞍替えするだろうよ。」

     レーゴンはサニーサイドアップにケチャップをたっぷり振りかけながら言い切った。

    「いやいや、追手は悪い奴等ばかりとは限らないよ。女って説もあるんだ。現に僕は何度も、何人も、女達がダマ師の部屋に出入りするのを目撃している。」

     ミッシェランの証言に男たちの話題がそれかけたその時、

    「あなた達、そんなイギリスの大衆紙みたいなげすの勘ぐりはやめなさい。きっと将来あなた達もそんなマスコミの槍玉にあがるに違いないんだから。それより何よりゴルバー、ダマ師の言った言葉の真意はともかくとして、あなたの気づいたことは素晴らしいことよ。」

     イギリスの保守系の女性を代表してサッチャンが言った。

    「ありがとうサッチャン。でも、いったいどうすればいいのかほんとのところは分からないんだ。」

    「卒業旅行はどう。」

     サッチャンの唐突な提案にレーゴンが続けた。

    「そいつはいい。俺達自由圏の人間は何時でも誰でも何処でも、気軽に旅行に出れるが、おまえの国のように鉄条網で国境を囲ってるような政府じゃあ、こんな機会でもなきゃ旅行なんて一生できないだろう。いいぜ、まずアメリカに来な。俺も暇な男じゃないがおまえと俺との仲だ、アメリカの中でもとびっきりのスポットを案内して、自由の空気ってヤツを腹一杯すわせてやるぜ。」

    「西ドイツにも来てくれ。君の知ってる東とはずいぶん違う、進んだ意識を持った工業社会をお見せするよ。」

    「もし人生を楽しみたければパリへおいで。芸術、ファッション、そしてめくりめく料理にワインの香り。何より美しい女達が君を待っている。」

    「ミッシェラン、変な誘惑はやめて。そういえば、カザミも私たちが日本に行ったら、フジヤマの見える、枯山水の庭がある赤坂の料亭で、すき焼きとてんぷらとお寿司をいやっていうほどご馳走してくれるって言ってたわ。しかも芸者付きで。」

    「そういやヤツは、今度の選挙で親父の跡を継いで議員になるらしいな。日本じゃ議員になりゃワイロはもらい放題、あらゆる特権使い放題で、毎晩赤坂とかで何千ドルも使いまくってるらしいぜ。」

     レーゴンがはき捨てるように言った。

    「ああ、それはなんだか恐ろしい世界になりそうだね。でもそれを経験するのも勉強になるかもしれないな。ほんとにみんなありがとう。帰って党幹部と相談してみるよ。幸い今度の書記長オンドレポコは僕をかってくれている。うまく説得すれば実現するかもしれない。そのときはよろしく。」

     ゴルバーは胸が熱くなるのをおぼえながらみんなの言葉を受け取った。

     そろそろ夜も宵が回りはじめ、一同はひと段落ついたお腹を抱えて二件目に繰り出すことになった。外は霧に街灯がぼんやりと光り、遠くのネオンが二重三重ににじみ、石畳の道路はしっとりと濡れて、時折通る車のライトをまぶしく反射していた。

     みんなはロンドンの密やかな夜に包まれて、案内役のサッチャンの後を何も言わず続いて歩いた。川を船が上っていく。二階建てのロンドンバスが橋を渡っていく。公園を抜けたあたりでサッチャンが二件目を見つけ、みんなを招き入れた。入り口のドアを押さえながらゴルバーが思い出したようにミッシェランに訊ねた。

    「ミッシェラン、ちょっと聞きたかったんだけど、君の目から見て僕はフランス人に見えるかい。」

     

     三軒目以降は憶えていなかった。サッチャンは近いうちにまた会いましょう。といって先に帰ってしまった。ミッシェランとゴールはいつの間にかいなくなった。ゴルバーとレーゴンは決して一致を見ることのない議論を闘わせながら朝を迎え、夜明けのロンドンをふらふらと歩きながら、いつしかはぐれてそれぞれの本能でねぐらを目指していた。

    「すいません、ラーニンホテルにはどう行けばいいのですか。」

     よれよれどろどろ目のうつろなロシア人に声をかけられたスキンヘッドの少年は、何年後かの自分の姿を見るような嫌悪の目をして走り去った。ゴルバーはため息をつくと、そばにあったベンチに腰をかけた。

    「真の政治家を目指す大志を持った青年がここにいます。げろげろに酔っぱらってます。いったい朝だというのになんでしょうか。ああ、僕はなんて男なんだ。ウォッカはあれほどダメだと、常日頃からみんなに言って聞かせていたというのに。」

     飲み明かした朝、誰もが痛感する全ての悔やみを回る頭に巡らせながら、ゴルバーは膝を抱えてうずくまっていた。そこに突然急ブレーキの音を響かせて、真っ赤な二階建てバスが現れ止まった。ゴルバーはその音にふと目を上げると、啓示のあった信者のようにふらふらとバスに乗り込んだ。バスはドアを閉めると、タイヤを泣かせて急発進した。ゴルバーは床に投げ出されると、そのまま気を失ってしまった。

     どれくらいの時間がたったのだろう。ゴルバーは気がつくと、運転席の斜め後ろ、一階の最前列の椅子に座って、頭を窓に寄り掛かけていた。目をしばたかせて起きあがると、バスはまだ早朝の人影まばらなロンドンの街角を走り続けていた。

    「早起きは三ポンドの得。早寝は四ポンドの貯金。そして深酒は十ポンドの損。さすれば深酒の朝、人はいかなる損得勘定なるか。」

     突然のどこからともない問いかけに、ゴルバーはあわててしどろもどろに答えを探した。

    「えっ、ああそれは、ええと三に四に十だから、十七か、いや違う、ええとそれはやっぱり差し引き三ポンドの損です。」

    「ブッブー。」

     問いかけ主は運転席に座りクラクションを鳴らしながら、口でも不正解音を鳴らして言った。

    「残念ながら違う。深酒の状態で早寝も早起きもあり得ない。従って深酒はやはり十ポンドの損、という訳だゴルバー。」

    「あっあなたは、ダマ師。」

     バスはタイヤを軋めかせながら街角を右折し、公園に向かって右車線を加速した。とその時、脇道からロールスロイスが左折してきた。同じ車線上を向かい合った二台の車がそれぞれに向かって進むと、結果は見えていた。ゴルバーは目を被い、しかしその瞬間ダマはハンドルを左に大きく切りテイルが滑る寸前でカウンターをあてた。バスは、急ブレーキをかけて止まったロールスロイスをひらりと避けるようにかわし、その勢いでスピンして左車線に止まった。ダマはエンジンをかけ直すと、ゆっくりとギアを入れクラッチをつないだ。

     ロンドンには珍しく、すがすがしく晴れた朝の空気が公園の木々の間をすり抜けて、赤い二階建てバスを包んでいた。窓からそよぐ風に吹かれて、ゴルバーは正気を取り戻した。

    「先週までアメリカにいた。来週フランスに渡ると、もはや交通規則など私には無用の長物だということが立証されるわけだ。」

     ダマは相変わらず訳の分からないことを呟いていた。

    「ダマ師、左側通行の国は初めてなんですか。」

     ゴルバーが体を起こしながら聞いた。

    「いや、ここにももう何度も訪れている。ただ、それはモータリゼーションなぞ存在しない時代のことだが。」

    「あっ」

     ゴルバーは何かを思い出したかのように叫んだ。

    「そういえばダマ師、あなたはなぜこんなところにいるんですか。」

    「こんなところとはイギリス国民に失礼だぞ。とにかく、何処にいようが私は私であり、ここにいまいがどこかに私は存在する。それだけのことだ。」

    「........」

     ゴルバーはその答えについてしばらく考え込んでいた。

    「ゴルバー、あの夜私が言った言葉の意味が分かったか。」

    「えっ、ああ、あのお言葉に関しては僕なりに理解したつもりです。」

    「そうか、それでいい。自分なりの理解でいいんだ。それではこれからどうするつもりかな。」

     ダマはできのいい教え子の答えに期待を持って優しく問いかけた。

    「はい、卒業旅行に出ようと思っています。」

     それきりダマは運転手と乗客という赤の他人になったかのように何も言わず正面を向いたままただひたすらロンドンバスを走らせた。

    「それは間違っているのでしょうか。」

     ゴルバーが沈黙に耐えかねて、気弱に訊ねた。

    「私はロンドンに来る度、この真っ赤な二階建てのロンドンバスを何台も横に並べて、ドミノ倒しをやったらどんなに愉しいだろうと、幼心にも思ったものだ。」

    「えっ、でも師がイギリスを訪れたのはバスなんかない時代じゃあ.......。」

     ダマはかまわず続けた。

    「しかしいかにもドミノを横に立てたようなこのバスも、ひとたび危機が訪れるや否や、例えスピンをしようが砲弾を食らおうが、惨めに倒れることはないのだよ。つまりその外観からは想像もつかない、しかもロンドンっ子でさえ知らない力を、このロンドンバスは秘めていたのだ。それを今私とおまえは、体験することによって知り得ることができた。」

    「ええ、そうでした。」

     ゴルバーは何とかその言葉の真意を聞き取ろうと必死になっていた。

    「卒業旅行もいいだろう。何でも、どんなことでもその肌で感じてみることだ。」

     二人を乗せたロンドンバスは、通勤客が待つバス停には決して止まらず、古い街並みを縫うように走り続けた。

    「ゴルバー、深酒の損は眠りによって取り返すことだ。ねぐらまで送っていこう。」

    ダマは再び、教え子をいたわるように優しく問いかけた。

    「ちなみにソ連では右か左か、どちらを走るんだったかな。」

     ゴルバーはしばらく考えて、きっぱりと答えた。

     「やはり僕は中道を行こうと思っています。」

     運転手は何も言わず、ダブルクラッチを使ってギアを落とすとアクセルを思いきり踏み込んだ。

     

    第四章 雪のモスクワ、旅立ちの時

     クレムリンの真っ赤な絨毯の上をゴルバーは走っていた。息を切らし書記長室にたどり着くと、姿勢を正し呼吸を整え、えらく重く厳めしい木造の扉を押し開けた。

    「書記長これはいったいどうしたこと.....。」と言いかけてゴルバーは「あっ」と小さく叫びをあげた。

    「やあゴルバー、この椅子に私が座っているのがそんなに驚くことかな。」ゴロネンコが狡猾な笑みを浮かべて言った。

    「副書記長、どういうことですか。」

    「君も知っての通り、オンドレポコは病気療養中だ。その間私が書記長代理を務めているという訳だ。通知は行っただろう。」

    「いえ、そんな通知はもらっていません。ただ書記長からの辞令で、しばらく黒海の別荘暮らしを命じられたのでこうして抗議にやってきたのです。」

    ゴルバーは辞令が書かれた手紙を指し示しながら言った。

    「なるほど、君のところへは書記長直々に手紙を出されたようだな。確か君は卒業旅行とやらに行きたいと申請していたはずだが、だったらちょうどいいじゃないか。」

    「とんでもない、私がお願いしていたのはアメリカやフランス、西ドイツ、日本、オーストラリアといった世界の国々を見聞して回る視察旅行のことで、黒海での軟禁ではありません。」

     「ほう、それはそれは。とても豪勢な話じゃないかね。いったい西側でパトロンでも見つけたのかね。」

     「この間帰国直後に書記長にお願いしたときは、「これからの指導者はより広い見聞を持たなければダメだ、国の特使としていけるよう私が手配するので、しばらく辞令を待っていなさい。」と仰っていたのにおかしな話じゃありませんか。書記長はいったい何処で療養されているのですか。」

     ゴルバーはゴロネンコに詰め寄った。

     「それは言えない。国の最高機密だからな。君がもしアメリカと通じていて情報を漏らしたら、空爆されかねない。」

     「私がスパイだとおっしゃるんですか。同士ゴロネンコ、いくらあなたの言葉でも聞き捨てなりません。」

     ゴルバーが怒りをあらわにしたのでゴロネンコはちょっとあわてて言い訳をした。

     「いやいや君がスパイといってるわけじゃなく、あくまで例えばの話だよ。とにかく書記長の所在については書記長自らが最高機密にするよう命じられている。いくら秘蔵っ子の君にでも教えることはできないんだよ。それに黒海の件もひょっとしたら書記長の勘違いかもしれない。サワルナゼ君からも同じような申請が出ていたので取り違えたんだろう。よしわかった。君の申請は書記長代理である私が許可しよう。そのかわり国の代表として恥ずかしくない行動をとってくれたまえ。」

     ゴルバーはゴロネンコの言葉に何か解せないものを感じながらもその場は引き下がり、正式な辞令を待つということで書記長室を後にした。

     

     モスクワはまだ遅い春を待ちわびながら冬の中にいた。人々は重いコートを引きずりながら、わずかな食料を求め国営マーケットに列をなしていた。どこか西側の放送局が取材に来て撮影をしている。回りを共産党員が囲み、質問の内容に関して盛んに横やりを入れている。

    「何を並んでいるのですか。」

     リポーターが訊ねる。

    「食料を買うのさ。」

     列の中の赤ら顔の女が答える。

    「いつもこんな風に食べ物を買うために並ぶんですか。」

     リポーターが訊ねる。

    「この雪でトラックが遅れて、まだマーケットに届いてないだけだ。」

     共産党員が横やりを入れる。

    「党の発表では、昨年の農作物の生産量は例年を上回る豊作で、こんなに食料不足のはずはないんですが、いかがですか。」

     リポーターが訊ねる。

    「じゃあ何であたしんちの食料庫にはパン一切れすらないんだい。党の発表でお腹がふくれるもんかね。」

     太った老婆が答える。

    「党の発表は正確だ。ただこの雨で山崩れが起き、幹線道路が不通で食料を積んだトラックが足止めを食っているだけだ。」

     共産党員が横やりを入れる。

    「さっき裏の倉庫から、何人かの男が袋いっぱいの食料を持って出てきたけど、あれは何だったんでしょうね。」

     リポーターが訊ねる。

    「ちぇっ、またかい。ほんとに忌々しい、店にコネを持ってる奴等だけがいつもああやって横から餌をくすねるのさ、この国じゃあな。」

     やせた初老の男が答える。

    「何を見間違えてるんだ。あれは清掃局員がごみを回収にきてただけだ。だいたい、さっきの落雷で橋が吹っ飛んだもんだから食料は川向こうだ。」

     共産党員が横やりを入れる。「じゃあいったいいつになったら食料は来るんだ。」

     リポーターと列の人々が声を合わせた。

     共産党員達は顔を合わせてしばらく押し黙っていたが、やがてひとりが口を開いて言った。

    「それは神のみぞ知る。」

     

     ゴルバーはクレムリンを出ると、急ぎ足で待ち合わせの場所へ向かった。ノメンクラツーラ(特権階級)だけが入ることを許されたパブの前には、護衛の兵士が目を光らせていて、ゴルバーが中へ入ろうとすると、ちらっと一瞥くれてまたすぐに石像のように正面を向いた。

     パブの中は暖かかった。少し落とした照明の中、大勢のノメンクラツーラ達が大いに喰らい、飲み、語り合っていた。国営マーケットの行列達は、実はこの存在を知ってはいるが、誰もその光景を想像することができないほど生活の差には悲しいものがあった。

    「ゴルバー、ここだ。」

     眼孔鋭く、鼻の高い銀髪のロシアン・ハンサムの青年が呼んだ。

    「やあサワルナゼ、遅れてすまない。」

     ゴルバーは、そのテーブルに座りウェイターに目配せした。

    「聞いたぞ、世界漫遊旅行に出かけるそうじゃないか。」

     サワルナゼがゴルバーの肩を叩きながら言った。

    「いやいやそんなんじゃないよ、ただちょっと友達を訪ねて貧乏旅行に出るだけだよ。」

     ウェイターがウォッカのボトルとグラスをテーブルにセットした。ボトルの横にはキャビアが瓶ごと置かれ、黒パンがバゲットに詰まっていた。センターにはマスタードの実がたっぷり絡んだザワークラフトが置かれ、隣の皿には数種類のチーズが盛ってあった。

     向かいのテーブルでは、軍服を着た男たちがコニャックをやりながらローストポークをつまんで、ポーカーに興じている。奥の方ではチェスの卓を囲む一団がいる。外の寒さとは別世界の暖かさの中、人々は豊かな国の豊かな生活に酔い、社会主義ってなんて素敵なんだろうと、毎日神に感謝をして過ごしていた。

    「それはそうと、きみは黒海行きの休暇申請を出したかい。」

     ゴルバーが思い出して聞いた。

    「なんだいそりゃ、今あそこへいくヤツはよっぽどの暇人か、然もなくば社会主義社会の聖人だけだよ。」

    「そうか、やっぱりゴロネンコは嘘をついていたのか。じゃあいったいオンドレポコは何処にいるんだろう。」

    「ああ、同士オンドレポコの噂か。西側に知られないため国家レベルの機密になってるが、もうダメらしいな。」

    「でもついこの間会ったときは元気そうだったのに、どうも解せないな。」

    「それは元気そうだっただけで、病気はもうどうにもならないくらい悪化してたらしいよ。まるでこの国みたいにね。」

    「もう亡くなったということか?」

    「いや、たぶん生命維持装置でかろうじて生きていると思うよ。ただ、ゴロネンコのヤツがタイミングを待ってるのさ。」

    「何のタイミングだい。」

    「ヤツの体制が整うタイミングだよ。今クレムリンじゃあ、オンドレポコの息のかかった連中は何だかんだと理由をつけられて、島流しにあっている。たぶん君の追い出しもその一環だろう。ヤツは回りを自分の側近で固め次第情報を西側に流し、その時点でオンドレポコのスイッチを切る。」

    「ああ、なんてことだ。社会主義の正義は何処に行ってしまったんだ。」

    「何を言ってるんだ。それがイデオロギーを越えた、権力者の正義というもんだ。」

    「じゃあ君はそれを許すのか。」

    「今は許さざるを得ないだろう。でもいずれは.....」

     サワルナゼがそう言いかけたとき後ろのテーブルから男がひとり立ち上がり、ゴルバー達に近づいてきた。

    「やあ、俺を憶えてるか同士よ。」

     シロクマのような体格をしたその男は、吠えるような声で二人に問いかけた。

    「君は確か、エリトンだったな。」

     サワルナゼが自信なさげに答えた。

    「そうだ。俺の記憶では、おまえたちと会うのはシベリア合宿以来だな。」

    「ああ、あの時のシロクマか。」

     ゴルバーがやっと思い出した。

    「そうそう、党の青年部が企画した合宿の打ち上げで、ええとなんて言ったかな、そう「スターリン追悼シベリア強制労働マラソン大会」で、道に迷って遭難しかけたとき君が助けてくれたんだったな。」

    「その通りだ、おまえはサワルナゼだったな。」

     エリトンはそういいながら、彼らの卓についた。

    「思い出したよ。確かあの時僕とサワルナゼは君を見て、てっきり熊が現れたと思ってとっさに死んだ振りをしたんだ。」

    「俺はおまえたちが倒れているもんだと思って、持ってたウォッカを口にねじ込んでやったっけな。」

    「ああ、熊にいきなりウォッカを飲まされるなんて思いもしなかったから、驚いて飛び上がったのを憶えてるよ。」

     ゴルバーは少しおどけた顔でそう言った。

     3人は旧知の仲のように卓を囲んで、思い出のウォッカを酌み交わした。

    「それはそうと、おまえたちはオンドレポコの話は聞いたか。」

     突然エリトンが切り出した。

    「何の話だ。」

     ゴルバーが一瞬緊張して聞いた。

    「知らないのか。どうやらオンドレポコは密殺されたらしいぜ。」

    「密殺!」

     ゴルバーとサワルナゼの声が輪唱した。

    「そうさ、ゴロネンコのヤツが病気のオンドレポコを療養と称してどこかに軟禁した上、今では家族も面会禁止って有り様だ。つまり、もうだれも彼に会うことはできないってことさ。」

     殺されたというのか。」

     サワルナゼがクールに聞いた。

    「いや、生死は定かじゃないが、結果は同じということさ。」

     彼ら3人の卓の回りの席のブルジョア達は、彼らのそんな会話に聞き耳を立てながら、聞かない振りをしていた。それがロシア人の知恵でもあった。

     バンドがジャズを演奏し始めた。浮かれた将校達がワルツを踊り始めた。4ビートを3拍子で踊る彼らには、浮き世のねじれたイデオロギーなぞどうでもよく、権力争いもまた、天の上の出来事だった。

     そんな雰囲気の中、ゴルバー達は遅くまで、政治とは、正義とは、主義とは、そして真理とは何ぞやと、終わりのない議論を闘わせ続けた。

     

     雪のモスクワ空港は、飛行機にそりをはかせたほうがいいんじゃないかと思うほど雪が積もっていた。おまけに風が強く、吹雪と呼んでもいいほどのこの天候にも関わらず、ソビエト国営航空の旅客機は命掛けの離発着を繰り返していた。もちろん他国の航空便は全て欠航となっていた。

    「旅立ちには、あいにくの天候だな。」

    「いや、この国らしい素敵な天気さ。僕の旅立ちにはふさわしいくらいだよ、サワルナゼ。」

     そして二人はしばらく窓越しに滑走路を眺め、もう一度向かい合うと、互いに手を伸ばしあい固い握手を無言でかわした。

     ゴルバーはこれから訪れる見知らぬ国々へ思いを巡らし、はやる心、わきたつ興奮を静かに感じていた。アナウンスが、彼の目的地の名を告げ、搭乗の時が来たのを知らせた。ゴルバーはゲートに向かって歩き始め、サワルナゼは右手をちょっと上げて、少しほほえんだ顔でそれを見送った。

     友人ひとりきりの見送り以外、回りにだれもいない。それはほんのささやかな、しかし歴史上大きな足跡となる旅立ちの瞬間であった、ことは全く誰も知らぬ存ぜぬことでもあった。

     ソビエト航空の最新鋭旅客機が滑走路を、本当に滑るように滑走し、無理矢理離陸した瞬間を眺めやりながらサワルナゼはふと、変化の予兆を感じた。そして、自分の思いをまさかとやり過ごすように右手を振ると、きびすを返しモスクワ空港の冷たく長いターミナルを、出口へ向かって歩き始めた。雪はコンコンと降り続き、冬の出口はまだ見えなかった。

     

    第五章 アメリカの盟友、偉大なる迷優


     ワシントン空港に立つその男は、まるで石油成金のカウボーイだった。カーキのチノパンに先の尖ったブーツを履き、フリルとバラの刺繍のついた白いシャツにグレーの燕尾のジャケットを着込み、茶色いカウボーイハットにレイバンのサングラスというその姿は、ごく普通のアメリカ人が見ても異なる光景だった。

     モスクワからの飛行機が到着し、乗客達が次々と降り立ってきた。ゲートを出る彼らの顔は、まるでハイジャックから解放された乗客達のように晴れやかで、自由のありがたみをまざまざと感じているようだった。

    「よく来たな、ゴルバー。俺の口利きでVIP待遇の税関フリーパスだ。別に礼はいらないが、ほんとによく来たな。」

     派手ななりのレーゴンが、荷物をいっぱい両手に下げたゴルバーの肩を叩きながらいった。

    「やあレーゴン、わざわざ迎えに来てくれてありがとう。これおみやげのキャビアだ。」

    「おお、どうして俺が毎晩キャビアでドンペリをやってるって知ってるんだ。もちろんドンペリもそっちの袋に入ってるんだろう。」

    「なんだい、そのドンペリって?ハンバーガーの種類かい。」

    ゴルバーが聞いた。

    「ほんとにおまえって奴等は、世界常識のかけらも知らない人類だぜ。」

     レーゴンが嘆いた。

    「でも、モスクワじゃあマクドナルドが大流行だってことは、君も知ってるだろう。」

    「そうだろう、そうだろう、おまえらにはマックシェイクもドンペリも同じありがたみって訳だよ。幸せだな。」

     レーゴンは、とりあえずゴルバーを促して、待たせてあったピンク色のキャデラックで空港を後にした。

     高速を走りながらしきりと窓の外を見ていたゴルバーが、怪訝そうに聞いた。

    「アメリカでは、アメリカ車ばかりが走ってるのかと思ったけど、そうでもないようだね。」

    「何処に目を付けてるんだ。ほら、そいつはフォード、そいつはGM、そいつはクライスラー、そしてこっちはホンダだ。」

    「ホンダは日本車だろ。」

    「よく見ろ、メイドインUSAのホンダだ。」

    「どうして分かるんだ。」

    「ハンドルが左についてるだろ。」

     レーゴンはしたり顔でそう言って、車載テレビのスイッチを入れた。

    「どうだい、ソ連じゃ、車にテレビはおろかラジオもついてないんじゃないか。」

    「失礼な。僕の公用車には、電話だってついている。冷蔵庫もあるんだ。」

    「そいつはトランクのことだろ。肉でも魚でも車のトランクにいれときゃ、5年は保つって話だぜ。安上がりな冷蔵庫だよな。」

     レーゴンの質の悪い嫌みに、ゴルバーが必死にまじめに本気で応えながら、二人のドライブは続いた。

     広い公園のような一角に、博物館や美術館、図書館、科学館、そしてTシャツ屋が軒を並べる厳かなそこは、スミソニアン・パークだった。車は緑と遺産の間を走り抜け、古くて白くて大きな建物へと続く鉄の門をくぐり抜け、ついでに正面玄関も通り抜け、脇の小さな入り口付近で止まった。

    「どうだいゴルバー、ここが世界を動かしている中心ともいえるホワイトハウスだ。本来なら観光客はおろか、VIPだって入るのは難しいんだが、今日は特別に大統領の友人として俺が中を案内してやる。」

     レーゴンはそう言って、ドアを開け、ゴルバーを招き入れた。

    「大統領にも会えるのかい。」

     ゴルバーが少し興奮して聞いた。

    「会えるとも、いつもならな、でも今日はあいにく彼は公用でアカプルコに行ってて留守だ。あくまで公用ってことらしいから、政治家ってヤツはほんとに忙しい人種さ。」

     レーゴンが肩をすくめて見せた。

     二人は、しばらくの間ハウスの中を歩き回り、もと来た入り口へ戻ってきた。

    「レーゴン、ちょっと聞いていいかい。」

     ゴルバーが、怪訝そうな顔で言った。

    「何だ、まだ見たりないのか。」

    「いやそうじゃないんだ。僕らはちょうど1時間ほどこの中をかってに歩き回っていたけど、誰ひとりとしてチェックをいれるものがいなかったよね。それどころか、殆ど人に出会わなかった。ここが世界を動かしている中心というのはあまりに閑散としすぎてはいないか。」

    「当たり前だろ。さっきも言ったように大統領はアカプルコだ。取り巻き連中も一緒に行ってしまって、ここには留守番しかいないのさ。留守番ってのは、連れてってもらえなかった奴等のことで、そんな連中がまじめに仕事をやってると思うか。今なら誰が入ってきても、誰も何も言わないのさ。それに、ホワイトハウスというのは大統領がいて初めて重要な場所になりうるわけで、主がいなきゃただの遺跡にすぎない。よく覚えときな、世界を動かしているのは「人」なんだぜ。」

     レーゴンが芝居がかった口調でまくしたてた。ゴルバーは、ただただ真剣にレーゴンを見つめていた。

    「どうしたゴルバー。俺の顔に何かついてるか。」

    「いやレーゴン。初めて君のしっかりとした考えを聞いたような気がするよ。その通りだよ、世界を動かすのは、あくまで「人」なんだよ。」

    「何を今さら言ってるんだ。」

     レーゴンは滅多に言われない賛同意見にちょっとはにかみながら車に乗り込んだ。ゴルバーも続いて横の座席に滑り込み、レーゴンの合図で車が走り出した。

    「今日はほんとにありがとう。アメリカの中枢を見せてもらって、ほんとに勉強になったよ。」

     ゴルバーがそう言うと、レーゴンがあきれた顔をして言い返した。

    「バカを言っちゃあいけないぜ。ここがアメリカの中枢な訳ないだろう。」

    「でもさっき世界を動かしている中心って言わなかったっけ。」

    「とりあえず観光客にはそう説明するんだ。つまり決まり文句ってヤツさ。真に受けちゃいけない。明日はほんとに先端技術を、世界を動かすテクノロジーを見せてやるぜ。」

     レーゴンがすごんで見せた。

    「世界を動かすテクノロジー?人工衛星か何かかい。」

     レーゴンは一瞬、腰に手をやった。しかし何かをあきらめたようにたばこを取り出し、そして火をつけた。二十世紀後半、文明社会のそこに銃はなかった。

      

    およそ友人、あるいはビジネスパートナー、ましてや兄弟になんか見えやしない二人を乗せた車は、たぶんゴールデン・ゲイト・ブリッヂを走っていた。

    「レーゴン。山火事じゃないのかい。まわりが真っ白でなにも見えないよ。さっきまで確かサンフランシスコ湾を見ながら快適なドライブだったのに、一体ここは何処なんだろう。」

    西も東もわからないロシア人観光客が聞いた。

    「これが煙に見えるか。霧だ、霧。なんといってもこうこなきゃ、シスコに来た甲斐がないってもんだぜ。」

    鷲鼻のカウボーイがかぶりを振った。

    「でも、右も左も真っ白で、よく事故にならないもんだね。」

    「当たり前だ、アメリカの車には全てアンテナが着いていて、人工衛星からの電波で、何処をどう走ってるか、前を見なくてもわかる仕組みになってるんだぜ。」

    「なんだいそれは、一体どういう仕組みになってるんだ。運転手はどう見てもフロントガラスに目を凝らしてるように見えるんだけど。」

    「細かいことを気にするんじゃない。要するに、前の車を見てりゃ、前の車はその前の車を見てて、その前の車はさらに前の車を見てて、つまりはテール・トゥー・ノーズってヤツさ。」

    面倒くさくなったレーゴンは、むちゃくちゃな理論でゴルバーを煙に巻こうとまくし立てた。

    「何だ、ジョークだったのか。驚いたよ。ソ連でも同じ様なことを考えてるんだけどまだ完成してなくて、先を越されてしまったかと思ったよ。」

    真顔でゴルバーは言った。

    「どうせおまえ達の人工衛星じゃあ、誤差が百メートルもあって使い物にならないんじゃないか。」

    「そんなことはないよ。人工衛星の歴史は、ソ連が最初なのは君も知ってるだろう。」

    「早けりゃいいってもんじゃないんだ。こういうものは、精度がものをいうのさ。第一最初の人工衛星って例の「スプートニク」とかいう、サッカーボールにアンテナを2,3本くっつけて、蹴り上げたら偶然衛星軌道に乗ったって代物だろ。それに月に行ったのは、アメリカが最初だぜ。」

    「今、早けりゃいいってもんじゃないって言ったそばから月の話かい。とにかく宇宙開拓の歴史はまだ始まったばかり。これからが勝負だね。でも「スプートニク」に関してそんな情報が伝わってるとしたら大変だ。我が国のナショナル・チームにはそんなキック力の選手はいないんだから。」

    相変わらずかみ合わない議論を続けながら、車はたぶんサンフランシスコのダウンタウンへと入っていった。

     

    「今日はごちそうしてやるぜ。」

    レーゴンは車を降り立ったばかりのゴルバーに、そう言った。

    竜が踊る、青緑色の瓦で葺かれた仰々しい門をくぐると、メインストリートが現れる。そのまわりにはオリエンタルな建物が立ち並び、漢字と英語の入り交じった標識や看板が街を彩る。ここチャイナタウンは今日も活気に満ちていた。アメリカとはいいながらも、そこで交わされる言葉は中国語。そして供されるのは中国料理。売っているのは中国土産。世界中のチャイナタウンがそうであるように、そこはやはり中国だった。

    「おいおい、おのぼりさんみたいにめずらしそうな顔してのろのろ歩くんじゃないぜ。通行人の邪魔だ。ゴルバー。」

    「いや、レーゴン。別にめずらしい訳じゃないよ。モスクワにだって中国料理の店はあるし、ましてや中国は考えを同じくする国だからね。ただ、ここにはいつか来たような気がするんだ。」

    「デジャブってヤツだな。案外おまえの先祖は中国人かもしれないな。陸続きだし。よく見れば東洋系の顔をしてるぜ。」

    「えっ、そうかい。この間はフランス人だと言われたんだけど、東洋人といわれたのは初めてだよ。自分では生粋のロシア人だと思ってるんだけどなぁ。それより、レーゴン。どこでランチを食べようか。」

    「ランチときたもんだ。いっぱしのアメリカ人気取りだな。まあいい、でもここらは観光客相手の店ばかりで俺の口には合わない。もっと奥のディープ・ゾーンへ行くぜ。さあ、しゃきしゃきと歩きな。」

     そう言ってレーゴンは大股歩きで赤信号を渡っていった。置いて行かれまいとゴルバーもあわてて後を追って走り出した。一台の車がクラクションを鳴らした。それに共鳴してまわりの車達も一斉にクラクションを鳴らしだし、近くにいた子供達は歓声をあげながら爆竹に火をつけた。けたたましく響き渡る爆発音とホーンセクション。そんなお祭り騒ぎに追い立てられて、二人はメインストリートをさらに奥へと入っていった。店の軒先に、赤いチャーシューや腸詰め、ニンニクや唐辛子、豚の足や耳や鼻、そして丸焼きにされた鳥や洗濯物がつるしてある一帯へさしかかった時、レーゴンが立ち止まった。『荒野の蜃気楼』と書かれた吊し看板が、風に揺れていた。まるで西部劇にでてくる酒場の入り口のような木のはね扉を「ぱんっ」と開けると、そこはやはりそのまんまの酒場だった。

    「ジョン、ダチを連れてきたぜ。何かうまいものを食わしてやってくれ。」

     レーゴンがカウンターの奥にいた、カウボーイ姿の中国人に声をかけると、ジョンと呼ばれたその男は、大げさに両手を広げてこういった。

    「シェーン、カムバック。」

    「おまえは俺がアラン・ラッドに見えるのか。相変わらずとぼけた野郎だ。いいから自慢の点心をどんどん持って来な。」

    「レーゴン、久しぶりにやってきてとぼけた野郎はないだろう。我々は同じ西部劇愛好家なんだからもっとジェントルな言葉を使わなきゃ。」

    「何を言ってやがるんだ。俺は西部劇愛好家じゃなくて西部劇俳優、ヒーローだ。今まで撮った映画が40本。そのうち主演が20本のハリウッドスターだぜ。」

     レーゴンはカウボーイハットのひさしを人差し指で持ち上げながらかぶりを振った。

    「あれっ、以前聞いたときはその半分くらいのはずだけど。しばらくあわないうちにそんなに仕事したのかい。」

    「ゴルバー、俺が何本映画にでようがおまえにとやかく言われる筋じゃないんだよ。とにかくここじゃ俺が法律さ。そうだなジョン。」

     振られたジョンは言葉に詰まりながら

    「あっ、そ、そうだったな。あんたが保安官で、俺達を守ってくれてるんだったな。」

     一体誰が設定したシナリオなのか、ここではそれぞれの役割が決まっていた。ジョンはなぜかカウボーイの格好をした酒場の店主で、レーゴンが保安官、客達は近くの農場主、仕立屋、銀行家、棺桶屋といった風体で、さらに100年前の南部のレディのようにフリフリのドレスを着た女達はみんな酒場のウェイトレスだった。ただ違和感があるのは、レーゴンとゴルバー以外がすべて中国人という、あり得ない光景だった。

    「レーゴン、西部劇愛好家って中国にもいるんだね。」

    「何を言ってやがる。中国どころか世界中にいるんだぜ。特に中国じゃあ俺はイーストウッドより有名なんだぜ。」

    「誰だい?そのイーストウッドって。」

    「そうかそうか、ロシアじゃ西部劇は御法度だったな。なにせ誰もが銃を持って、自分を守るためなら誰でも殺せるこのすばらしき自由世界は、おまえ達の思想にはあわないからな。イーストウッドは俺の跡を継ぐハリウッドスターさ。背は俺より高いが、人気は3番手。まあ俺とウェインに勝るヤツはいないけどな。」

    「ああ、ジョン・ウェインなら知ってるよ。とても堂々とした男の中の男って感じだったよね。でも、面白いね。人気のあるなしは演技のうまいへたじゃないんだなぁ。」

     つぶやくようにいったゴルバーの最後のフレーズにかちんときたレーゴンは、強い口調でいった。

    「ジョン、まずはカンペイだ。マオタイをこのロシアさんにしこたまついでやんな。」

     真っ昼間だというのに、ここ『荒野の蜃気楼』では明日さえしれずの饗宴が今日もまたはじまってしまった。

    棒棒鳥にエビ餃子、ショウロンポウに蟹シューマイ、揚げワンタンにニラ饅頭、青菜炒めに五目チャーハン、肉まんあんまんゴマ団子、マンゴープリンに杏仁豆腐、エビチリエビマヨエビフライ、北京ダックにツバメの巣、フカヒレ姿煮カニ玉おこげ、酢豚にちまきに冷やし中華。もはや点心の域を脱した凄まじい量と種類の食べ物が次から次へと運ばれて、たった二人が座った大きな丸テーブルはさながら朝のフリーウェイのように不自由な渋滞を巻き起こしていた。

    「さすがにアメリカの点心は量も種類も桁違いだね。」

     マオタイに少し酔いながら、北京ダックをカオヤーピンに包みつつ、口には肉まんをほおばったゴルバーがごもごもしながらそう言うと、

    「食べるか包むかしゃべるかどれかにしな。アメリカじゃあ、ランチは厳かに食うもんだ。」

     そう言って、レーゴンはショウロンポウにケチャップをかけ、五目チャーハンにケチャップをかけ、ちまきの皮をほどきながらケチャップをかけ、それぞれスプーンでこねくりながら口に運んだ。

    「保安官、中国料理はそんなに何にでもケチャップをかけないもんだよ。」

     見かねてジョンが言った。

    「おまえは何年この国で商売してるんだ。アメリカ人はたとえお誕生日会のハート型ケーキにさえも、このトマトから生まれた愛しいペーストをデコレーションするんだ。この繊細な味覚がまだ理解できてないようだな、リトルチャイニーズ。」

     ジョンは肩をすくめて首を振りながら、次の料理を取りに厨房へ引っ込んでいった。

    メキシカンなギターに、カントリーなバイオリンが絡み、時折思い立ったようにドラが鳴り響く、けれどもメロディーはマカロニウェスタンのセンチメンタルな調べをホンキートンクなピアノが奏でる不思議な空間は、中国13億人が見た西部劇の蜃気楼なのかもしれない。

     

    「腹もいっぱいになったところで、デザートのリンゴでも食べに行くか。」

     レーゴンが膨れた胃のあたりをさすりながら言った。

    「いやもう、リンゴもスモモも、キャビアの一粒だって入らないよ。でも、何でリンゴなんだい。アメリカ人は、デザートといえば極彩色のケーキかバケツ一杯のアイスクリームだとミッシェランに教わってたんだけど。」

     ゴルバーは食事中に不作法にもゆるめたベルトを、さらにゆるめながらそう応えるのが精一杯だった。

    「何でもバターで焼いて生クリームをかけて食うフランス人に、デザートを語る権利はないんだぜ。大体ソ連じゃあ、キャビアをデザートに食うのか。食文化は相容れないと言うが、理解に苦しむ国民だな。」

     レーゴンが吐き捨てるように言った。

    「じゃあ、杏仁豆腐でもどうだい、保安官。」

     ジョンが皿を下げながら声をかけた。

    「別にホントのリンゴを食いに行こうってわけじゃない。おまえ達には俺の粋なたとえってものが分からないらしいな。まあいい、どうせあとで目をむくことになるさ。とにかく一息ついたら世界の未来を見せてやるぜ。そうさアメリカは何も隠しはしない。このテクノロジーが人類の明日を変えるってことを、この真空管崇拝国のロシア人に、包み隠さず教えてやろうじゃないか。」

     レーゴンは次第に大げさな手振り身振りで、これから起こることの重大さをあたかも三文芝居の予言者のように語った。そうして2大国家の将来を担うだろう2人の男達は立ち上がり、世界の未来を見届けるため、21世紀への扉を開けて西部劇の世界を旅立っていった。

    「ジョン、勘定はいつものように付けといてくれ。」

     次代を担うにはあまりにせこい一言を残して。

      

     車は草原の真っ直ぐな一本道をひたすら走り続けていた。両脇にはただっ広い芝生とパームツリー並木とちょっとした森林が続き、時折なにやら書かれた看板が現れる。そこが入り口なのか、中への道が続きその先には学校のような病院のような低層のビル群が見て取れる。しかしそれがなんなのか、ゴルバーには皆目見当がつかなかった。

    「ここは学校か何かかい?だとしたらずいぶん広いキャンパスだね。しかも学科ごとに建物や案内板のデザインが違うなんて、迷わないように考えられてるとしたらさすがだね。」

    「おまえにはあの看板の社名が読めないのか。インテル、サン、ヒューレッド・パッカード、今をときめく先端企業が軒を並べる、こここそがシリコンバレーさ。この広大な企業のキャンパスの中で、ジーンズにポロシャツのエンジニア達が世界を変えるテクノロジーを生み出しているのさ。」

     三文芝居からぬけきらないレーゴンは、宙を見ながらそう言い放った。

     車は、ようやく目的地を見つけたのか減速し、大きな交差点を右折した。さっきの広々とした草原から風景が一変し、ちょっと高級そうな住宅街が現れた。どの家にも大きな前庭と車数台を楽に停められそうな大きなガレージがついていて、白い壁にオレンジの屋根。テラコッタの鉢に植えられたサボテンがあちらこちらに飾られ、庭には大理石を切り出した大きな噴水から水があふれ出していた。もちろんプールにフロートの寝椅子が浮かび、プールサイドにはスタンドバーとバーベキュー台が置かれ、裏庭にはナイター設備の整ったテニスコートとそこかしこにバスケットのリングが取りつけられていた。コートの脇からは裏の林をぬけて、その先にある36ホールの会員制ゴルフクラブへ行くこともできる。

     こんな家に住んでいる子供達は、生まれてすぐに泳ぎだし、3才の頃からテニスラケットを振り、5才になったらグリーンを回り、8才ぐらいからバスケットに夢中で、10才を越えるともはやスポーツには飽きて株取引に熱中するようになる。

     親たちは近所にあるハイテク企業に勤めていて年俸は10万ドルを軽く超え、仕事の内容は、ちっちゃなシリコンをシャーレに乗せて顕微鏡を覗きながらさらにちっちゃなピンセットとはんだごてを使って、いかに多くのトランジスタを詰め込むことができるか、簡単に言うとそんなことをやっていた。

     どこの家でも休日には友人達を呼びバーベキューパーティが開かれ、ビーフステーキが焼かれ、太くて長いソーセージが焼かれ、チキンが焼かれ、時折マシュマロが焼かれ、ハンバーグが焼かれ、動物性タンパク質と脂肪と少しばかり砂糖の焼ける煙が立ち上る中、ビールとワインとミネラルウォーターとダイエットペプシが次々と空き、子供達はオレンジジュースとワインとフルーツのたっぷり入ったパンチを親の目を盗みながら飲んでいた。


    「ずいぶん高級そうな住宅街だね。ここがあの「ビバリーヒルズ」なのかい?」

    「何かのテレビドラマを見間違えたようだな、ゴルバー。まあ、おまえには「ビバリー」も「チバリー」も区別はつかないだろうがな。」

    「なんだい「チバリー」って?」

    「カザミに聞いたんだが、東京の隣に千葉カウンティとかいう田舎があって、そこにビバリーヒルズをまねた高級住宅街を造ったらしい。日本人はなんでもアメリカのマネをしやがるが、しかし「チバリーヒルズ」とは呆れるぜ。なにせ一軒が300㎡もない上に、3ベッドルームだとさ。おまけに一部屋の広さがうさぎ小屋レベルで、庭も箱庭。それが100万ドルだって言うから驚くぜ。休むことすら惜しんで働くだけ働いて、やっとためた金で箱庭を買うんだぜ。もしアメリカが戦争に負けてたら、俺達もそんな生活を強要されてたいかと思うとぞっとする。」

     レーゴンは首を振りながら、本当に忌々しそうにそう言った。

    「確かに日本は変わった国かもしれないけど、あの焼け野原から今日の繁栄まではい上がってきたっていうのはホントにすごいことだと思うよ。しかもまだ衰えを知らないようだから、いずれ彼らもこんな最高級な家に住むようになるんじゃないかな。」

    「何をいってるんだ。日本人にそんな生活が似合うと思うか。大体この住宅街がアメリカのトップレベルだと思ったら大間違いだぜ。そうだなせいぜい中の上ってところかな。」

     レーゴンは、周りを見渡しながらかぶりを振った。

    「だとしたら、アメリカの富裕層っていうのはとてつもない生活をしてるってことかい。」ゴルバーが聞いた。

    「そうさ、ほんとのブルジョアというのはな、門から家が見えないほど広大な土地に、家はまるで宮殿のよう。庭は西洋庭園と枯山水。プールとテニスコートは当たり前。野球場とちょっとしたフットボールスタジアムが付いていて、車は何十台、しかも全てにお抱え運転手付き。ベッドルームは数知れず。しかも全てにお抱えメイド付き。」

    「えっ、何でメイドがベッドルームに付いてるんだい。」

     そのフレーズに驚いたゴルバーが口を挟んだ。

    「おまえはほんとにジョークの分からないヤツだな。そんなアラブの富豪もいたって話さ。」

     めんどくさくなったレーゴンは、そう言って話を切り上げ、運転手に次のブロックで止まるように指示した。

     

     車が止まり、レーゴンとゴルバーは一軒の家の前に降り立った。

    「ここが人類の未来を変える、そのテクノロジーとやらがある場所かい。」

     あまりにフツーの家に面食らいながらゴルバーが聞いた。

    「そうあせるな。まずはこのガレージを見せたかっただけさ。」

     レーゴンは家の横にあるこれもフツーの白いガレージを指さした。

    「いいガレージだね。でも、特に変わった感じはしなけど。」

    「当たり前だ。今は、一般ピープルの家のガレージにすぎないからな。しかしだ、今をさかのぼること数年前、このガレージから世界に名だたるコンピュータメーカーが生まれたのさ。ストーブとストーブの成功物語ってヤツさ。」

    「なんだか心温まるような物語みたいだね。」

    「ストーブってのは名前だ。おロシアさんのように薪をがんがんぶち込む鉄のかたまりなんかじゃないんだぜ。ちょうどこのくらいのちっちゃな箱にトランジスタをぎゅうぎゅう詰め込んで、世界ではじめてのパーソナルコンピュータってヤツが、そう、ここで創り出されたのさ。」

    「知ってるよ、パソコンのことだよね。」

    「なんてこった、おまえの口からパソコンなんて今時の単語を聴くなんて時代も変わったもんだ。」

    「レーゴン、ソ連の科学力をバカにしないでくれ。さっきも言ったけど世界ではじめての人工衛星は我が国が打ち上げたんだよ。それに必要な計算は全てコンピュータではじき出したんだ。子供だった僕たちはその風景を見学させてもらったからよく知ってるよ。その時はちょっとしたホール一杯に冷蔵庫のようなコンピュータが並んで一斉にうなりを上げてたのをおぼえている。それは壮観だったよ。でもいずれそれが小部屋程度に収まるようになり、それからタンスくらいになって、最後にはトランクにはいるほど小さくなると、科学者連中が言っていたんだ。パソコンはすでに何十年も前に予測されてた未来というわけだよ。」

     ゴルバーが少し懐かしそうにそんな話をする傍からレーゴンが横やりを入れた。

    「昔話はもっと年をとってからやりな。大体おまえの言うトランクってのは世界一周旅行にでも行けるほどのでかいヤツだろ。パソコンってのはほんとに小さな、そうだなこの郵便受けくらいの大きさを言うんだぜ。レベルが違う、レベルが。」

    「なるほど郵便受けか。将来は手紙もパソコンでやりとりするようになるってことかい。」ゴルバーが変に感心して言った。

    「バカを言うな。パソコンが夜中に手紙を運んで来るっていうのか。それで朝起きたらこう言うんだろ「お手紙届いてますよ」って。そんなことになったら世界中の郵便配達は失業して、郵便ポストもごみ箱扱いだ。大体そうなったら切手蒐集家どもは何を集めればいいっていうんだ。全く科学的根拠のないことを言うヤツだ。」

    「いや君が郵便受けって言うから、なんとなくそんな気がしただけだよ。でもそのストーブ達なら、ほんとにどうなっていくのか教えてくれるかもしれないね。」

     ようやく本題に戻った二人は、ガレージ端会議を打ち上げて車に乗り込み、住宅街を走り抜けて再び広々とした草原を走り、かじり取られたリンゴのマークの看板があるキャンパスへと入っていった。しかしそこは大学ではなく、シリコンバレーでも破竹の勢いで成長を続けるコンピュータ企業「アプル」の本社だった。

    「Apleって書いてあるけど、「p」が足りないんじゃないのかい。」

    「ほう、英語をよくご存じで。でも観察力が足りないな。よく見てみな、あの看板を」

     ゴルバーはレーゴンが指さす方を見やった。

    「リンゴのマークだね。だからAppleじゃないのかい。」

    「もっとよく見ろ、かじられてるだろ。そこがまさに「p」だったって訳さ。」

    「そうか。でも一体誰がかじったんだろう。」

    「イヴだ。」

    「誰だい、イヴって。」

    「アダムとイヴの「イヴ」だ!知らないのか。」

     冗談を真に受け、それでも素朴に応えるゴルバーにレーゴンはもはや何も言う気力が失せたかのように無言で、つかつかと一番大きなビルのエントランスへと入っていった。

     

    「やあレーゴン、よく来たね。」

     長髪にひげ面、ジーンズにポロシャツというラフな出で立ちの青年が出迎えに現れた。

    「ようストーブJ、久しぶりだな。今日は敵国の大使を連れてきてやったぜ。こいつにコンピュータの先端テクノロジーってヤツを見せてやってくれ。なにせ、真空管が科学を支えてるような国だ、見てもわかんないと思うがな。」

    「やあ、初めましてストーブ。ソ連共産党のゴルバーです。」

     ゴルバーはやや緊張気味にストーブJと握手を交わした。

    「やあゴルバー、ストーブJと呼んでくれ。もう一人ストーブWというのいるんで、区別するためなんだけどね。でも共産党というのはクールだね。」

    「えっ、クールって?確かに冬は寒いけど、共産党本部はいつも暖房が効きすぎで暑いくらいだよ。」

    「ヒュー、いかしたジョークだ。レーゴン、君の友達はなかなかユーモアがあるね。ソ連の連中がみんなこんな風だと、我々もうまくやってけるのにな。」

     ストーブJは、大げさにゴルバーの肩をたたきながら彼らを大きな部屋へと招き入れた。

     部屋の中にはもう一つガラス張りの部屋があり、太いテープをぐるぐる巻きにした円盤がサングラスのようにくっついている大きなロッカーサイズの機械が、壁いっぱいに並べられていた。中央には大きめの勉強机何台かがスクール形式で置かれていて、その上にはテレビとタイプライターらしきものが数台あって、髭に長髪、ジーンズにポロシャツの青年達がなにやら独り言をつぶやきながらタイプを叩いていた。

    「レーゴン、今日は面白いものを見せてあげるよ。最新式のパーソナルコンピュータだ。」

     ストーブJはそういうと、きょろきょろとあたりを見渡すばかりの二人を促して、部屋の隅にあるちっちゃな机へ座った。机の上にはタイプライターの紙を差す部分にテレビのモニターがくっついたような機械が置いてあった。ストーブJは、その機械の横に手を伸ばしスイッチらしきものを入れた。ボーン、と音がしてモニターが光り始めた。

    「おおっ、音がしたぞ。」レーゴンが驚いてそういうと、

    「なにもそんなに驚かなくても。レーゴン、君もすぐに使うようになるよ。こんなパソコンをね。」

    「ああ、そんなことぐらい分かってる。俺も大統領を目指す男だ。パソコンの一つや二つ朝飯前だぜ。」

     どう使うようになるのか想像さえつかないレーゴンは、そう応えるしかなかった。

    「なんだか絵がでてきたけど、一体これはなんだい。」

    「ゴルバー、これはアイコンというもので、これでファイルやアプリケーションをあらわしているんだ。例えばこの書類を読みたければ、こうやって….」

     ストーブJはそういいながら、機械の横にあった四角いケースのようなものを動かした。

    「そうそう、これがマウスといってこのパソコンはこれで操作するのさ。ほらマウスを動かすと、画面の上の矢印が同じように動くだろ。」

     ストーブJは、そのマウスを動かしながら画面上のアイコンと呼ばれる絵の上に矢印を移動し、そしてマウスに付いたボタンのようなところをかちかちと指で叩いた。

    「これがダブルクリックで、このボタンを二回叩いてやるとこの書類が開くんだ。」

    「ああっ、広がった。」

     呆気にとられるゴルバーを後目に、レーゴンがかぶりを振った。

    「どうだゴルバー、これが最新のパソコンってヤツさ。ちょっと前なら難しい操作も、今じゃこのマウスでなんだってできるんだぜ。」

    「その通り、パーソナルコンピュータっていうくらいだから、誰でも、そう子供でも使えなきゃ意味ないだろ。だから僕たちは、こうやって分かりやすいOSと入力デバイスをつくったんだ。」

    「オーイエス?よく分からないけどなんだか簡単でも、すごいことなんだよね。」

    「そう、簡単そうに見えるけど、裏じゃ結構色々大変なことをやってるんだよ。」

     それを聞いたゴルバーは、少し身を乗り出し機械の裏側を覗いてみたが、誰かが大変そうに動いている気配は全くなかった。

    「ほうら広がった書類がまるでタイプライターに挟んだ紙みたいに見えるだろ。これがワードプロセッサー、略してワープロといって文章を作るソフトさ。ほらここにこのキーボードで文字を入力してやると….」

     ストーブJはキーボードをかちかちと叩き出し、画面にはアルファベットの文字が次々と並びはじめた。ゴルバーもそしてレーゴンも、ただ真剣に見入るばかりだった。

    「ゴルバー、君は文章を作るときどうやってる?」

     ストーブJが聞いた。

    「えっ?ああ、僕は党にはいるとき記念にもらった万年筆を使ってるよ。便箋はソ連の国旗が透かしで入っていて、党員じゃなきゃ使えないんだ。しかも配給制だから無駄遣いは厳禁。」

     ゴルバーがばかまじめに応えると、

    「でももし文章が気に入らなきゃ捨てて書き直すよね。」

    「いや書き損じしないようにいつも文章を頭で考えてから、言葉に出してみて、それから書き始めるようにしてるよ。」

    「でももし書き損じたらどうする?」

    「その場合は仕方ない。半分に切って、裏をメモ帳に使ってるよ。」

     思った答えが引き出せないストーブJは少しいらつきながら、

    「そのメモ帳も書き込んで、用がなくなったらどうだい?ゴミ箱に捨てないか?」

    「そうだね。最後はゴミ箱に捨てるよ。」

     ゴルバーは少し怪訝そうにそう応えた。

    「そう、いらなくなった書類はゴミ箱行きさ。」

     ストーブJはそういうと、さっき打ってたワープロの書類のアイコンをつかんで、いやマウスのボタンを押しながらそれを動かして、右隅にあるゴミ箱のようなアイコンに重ねた。

    「あっ、ゴミ箱がふくらんだ。」ゴルバーが驚いて言うと、

    「ゴミはゴミ箱に捨てなきゃね。それでたまったらこうして、ゴミ箱を空にしてやると….」

    「あっ、ゴミ箱がへこんだ。」

     ゴルバーとレーゴンが同時に声を上げた。

     ストーブJは二人を見やりながら、どうだいって顔をして手を広げた。

    「どうなってるんだいこれは。」

     ゴルバーはそういいながら、もう一度機械の裏側を覗いてみたが、当然そこには紙屑ひとつ落ちてはいなかった。

     

     それからしばらくストーブJによる、パソコン講義が続いた。

    「それじゃ君は、こんなパソコンが将来一家に一台はあるようになるって言うのかい?」

     ゴルバーはストーブJの講義に、あまりのギャップを感じながらそう聞いた。

    「一家に一台どころか、一人一台、いや何台も持つようになるよ。そうしてそれらが全て無線のネットワークでつながって、情報のやりとりができるようになる。音楽だってそのネットワークからダウンロードしてきてちっちゃなプレーヤーで聞くようになる。電話やテレビだってそうさ。色んな垣根が取っ払われて、世の中は全然違ったものになっていく。コンピュータはその牽引車になるんだ。たぶんそのころには国の垣根も取っ払われて、国境なんて意味をなさなくなってるんじゃないかな。」

     ゴルバーはにわか信じ難いといった表情でレーゴンを見やった。

    「何だ、ゴルバー。俺はストーブJのいう通りになると思うぜ。少なくともアメリカはな。」

    「いや、テクノロジーの変遷は予想より早いのかもしれないけど、国境はどうだろう。ベルリンの壁がそんな簡単になくなるとは思えないけど。」

    「そうだな、ドイツもゴールみたいな脳天気な大食漢が首相を目指してるようじゃ、何にも変わらないかもしれないな。でもおまえのように固い頭で、テクノロジーも理解できないヤツがトップ目指すっていうのも、その国には未来がないかもな。」

    「何を言ってるんだ。僕が理解できないことでも、国の科学者達は優秀で、もうすでに21世紀のことを考えているはずだよ。」

    「21世紀には共産主義が崩壊して、ベルリンの壁もなくなってるってか。」

     話がイデオロギーを帯びてきたので、慌ててストーブJが割って入った。

    「まあ今は理解できないことでも、そんなに未来のことじゃないよ。君らも生きているうちの僕が言ったことを目撃することになるさ。どうだい、今ちょっとそれを体験してみるかい。」

     そういってストーブJがパソコンの席を譲ろうとすると、レーゴンは慌てて大役を後任に譲った。

    「いやいや俺はいい、いつでも使えるからな。ゴルバー、せっかくだから触ってみなよ。」

     レーゴンに促されてゴルバーはこわごわ椅子に座って、マウスに右手を置いた。いつの間にか机の周りには同じ部屋にいたアプル社の社員達が集まっていて、この共産主義者が何をしだすのか、みんな興味深げに見つめていた。ゴルバーはストーブJが開いてくれたワープロの白い紙の上に矢印を移動すると、おもむろにマウスのボタンをかちかちと押しはじめた。しかし、そこにはなにも起こらなかった。一体何をしてるんだろう、みながそう思ったとき、ゴルバーが不満そうに言った。

    「おかしいな。トントントン、ツーツーツー、トントントンだったよね、SOSって。」

     誰もがそれを聞いて答えに詰まった。アプル社のコンピュータは、モールス信号にはもちろん対応していなかった。

     

     上空を何基もの飛行機が旋回している音が聞こえる。今日もサンフランシスコ空港は霧のため、いつもの交通渋滞を引き起こしていた。

    「レーゴン、ほんとに勉強になる旅だったよ。ありがとう。」

    「たった2,3日いたぐらいでアメリカを分かった気になるなよ。まだまだ面白いネタがそこら彼処にあるのをおぼえておけ。いつかおまえが亡命してくるときのためにな。」

     レーゴンはぶっきらぼうにそういうと、発着の掲示板を見上げた。一番上に「tokyo」とある。

    「よりによってカザミの誘いに乗るなんて、おまえもカネに目がくらんだか。」

    「まさか。カザミが呼んでくれたのは、日本の政治を勉強しに来ないかってことなんだ。何でも日本ほど社会主義がうまくいっている国はないっていうんだ。」

    「なに言ってやがるんだヤツは。アメリカが徹底的に「自由」って価値観を教えてやったっていうのに。しかも間違いなくヤツらはゴリゴリの資本主義者だ。なにせ「エコノミック・アニマル」ってくらいだからな。」

    「でもそこまで貪欲になれるのは、きっと何か秘めてるものがあるんだよ、日本人には。今回日本に行くのは初めてだけど、彼らが持っている何かを知ることができればいいと思っているんだ。」

     ゴルバーはそういいながら握手をしようと手を差し出した。

    「ガンマンってやつは、利き手じゃ握手しないんだがな。」

     少し照れながらそういって、レーゴンはゴルバーの手を握った。

     霧が空港全体を覆って視界は数十メートルあるかないかだろう。そんな様子を小さな窓から眺めながら、旅立ちはいつも荒天へと飛び立つ宿命なのかとゴルバーは少し不安になった。しかし霧や雲を抜けた上空には、宇宙へと続く青い空間が広がっていることを望みに、シートベルトの金具をロックした。

      

    第六章 黄金の国、エコノミック・ジャパン


    「まさか未来の書記長が観光客に混じってやってくるとは思わなかったよ。てっきりチャーター機で来るもんだと、パトカー白バイ引き連れて滑走路まで入り込んで、赤絨毯広げて待ってたっていうのに。」

     そういってカザミは少し引きつった笑いを見せた。

    「確かに国費で旅行させてもらってるけど、立場的には一党員の視察にすぎないんだ。エコノミーでも乗せてもらえるだけありがたいことだよ。それにしても大げさな一団だね。迎えにきてくれたのは嬉しいんだけど…..。」

    「なに、ソ連の要人が来ると外務省経由で用意させた警護だよ。特に大げさでもなく、少ないと怒ってやったくらいだ。」

     ゴルバーとカザミを乗せた黒塗りのセンチュリーの前後は、SPを乗せたプレジデントが固め、さらに先頭を白バイ隊が先導し、なぜか列の一番最後を誰が乗っているかもわからないデボネアが遅れそうになりながら追走していた。

    「長旅で疲れたろうからゆっくり温泉でも、と言いたいとこなんだけど、ちょうど今、晴海のコンベンションセンターで「ハイテク・ショー」をやってるんだ。今や世界の最先端を行く日本の技術が一堂に会している。いいチャンスだから見せてあげるよ。」

     カザミの言葉にゴルバーはサンフランシスコでの経験を思い出しながら言った。

    「日本に来る前にちょうどレーゴンに案内してもらって、そんな最先端技術を見せてもらったところだよ。アプルという会社で、こんなにちっちゃなコンピューターを実際に触らせてもらってね。」

    「ああ、確かにコンピュータはアメリカが一番進んでるかもしれないな。でもアプルというのは聞いたことないね。ゲーム機じゃないのか。今日見せてあげるのは、ばりばりビジネスに使うコンピューターで、そりゃあもうびっくりの機能満載マシンさ。ちなみに“ハイテク”っていうのは“ハイ・テクノロジー”の略だからそこんとこよろしく。」

     何がよろしくなのかわからないが、カザミがムジーナの頃よりずいぶん自信ありげに見えることに少し戸惑いながら、ゴルバーは窓の外に見えてきた大都会の風景を見つめていた。

     

     晴海のコンベンションセンターは、中央に大きな道路のようなコンクリートの通路がありその左右に展示館が建ち並ぶ倉庫街のような殺風景な場所だった。そこには暗い色のスーツを着た男たちがひしめき合い、同じような紙袋にぎっしりと紙くずのようなものをつめて持ち歩きながら、首にぶら下げたカメラでバシバシ写真を撮りまくり、展示会場を出たり入ったり、まるで蟻の巣の様相を呈していた。

     通路に張られたテントのレストランでは、うどんにそばにラーメン、餃子、フライドポテト、ハンバーガーにホットドック、カレーライスにクレープ、シシカバブ、クロワッサンと世界中から来るビジネスピープルに対応したメニューが取り揃えられていた。しかしそこには黒い頭をした蟻の集団だけが行列を作り、食料を受け取ると椅子に座って黙々とそれを食べ、終わるとそそくさと立ち上がり、また展示館巡りへと戻っていくのだった。

    「どうだいこの活気。日本が世界に誇る最先端技術ハイテクノロジーのすべてがここにある。世界がここに注目してるのを感じないか。」

     表現がだんだん大げさになっていることが耳につきながらも、ゴルバーは言った。

    「中国では人民服だけど、日本ではグレーか紺のスーツが制服なんだね。」

    「何を言ってる。あれは制服なんかじゃない。彼らが一生懸命働き稼いだ金で、自由に選んで買った“吊し”と呼ばれる最先端のビジネススーツだ。」

    「そうか、日本は単一民族国家だから自ずと嗜好にてくるのかな。でも“吊し”ってなんだい?それが最先端技術に関係してるのかい?」

    「まあしけた話はこれくらいにして、まずはこのコンピュータ館からみてみないか。」

     話がややこしくなりかけたのを嫌い、カザミはそそくさとゴルバーを先導して会場へと入っていった。

     

    「ああカザミ先生、よくいらっしゃいました。」

     黒縁眼鏡をかけ、髪を七三に分けたまじめそうな青年が声をかけてきた。

    「やあ椎野君、久しぶりだね。景気はどうだい。「ボチボチでんな」なんて、関西商人みたいなことは言わないでくれよ。」

     カザミは親しそうにその椎野と呼ばれる青年と握手を交わした。

    「私は岐阜の出身ですから「ボチボチ」なんてことは言いませんよ。はっきり言って儲かってますし。」

    「さすが若社長。今度また党のパーティがあるんだ。百人ばかり送り込んでくれないか。」

    「またその話ですか。私は政治には肩入れもしなければ、お金も出しませんよ。でも先生は外資の私たちにも理解を示していただけるので、個人的には親しくさせていただいていますけどね。」

    「相変わらずはっきり言うね。なりは日本人でもハートはアメリカ人ってことかな。まあレーゴンの手前、外資にはいろいろと便宜を図ってるんだけどね。」

     そういってカザミはにやりと笑った。そして思い出したように、

    「そうそう、こちらはソ連から視察に来ているゴルバーさんだ。ゴルバー、こちらは日本IBMの若き社長、椎野君だ。」

    「初めましてゴルバーさん。日本へようこそ。」

     そういって椎野は手を差し出した。

    「あっ、IBMの社長さんですか。初めまして椎野さん。」

     そのてきぱきした言動に少し気後れしながらゴルバーは握手を交わした。

    「何をどぎまぎしてるんだ。IBMといっても日本IBMの社長だ。まだまだ小さな日本法人なんだから、そうびびらなくても。」

    「いや僕だってIBMは知ってるよ。コンピューターの世界的企業じゃないか。それをこんな若さで背負っているんだからすごいことだよ。」

    「いえいえ、そんな大きなものを背負ってる訳じゃないんですよ。カザミさんがおっしゃるようにこの国ではまだまだ小さな会社ですから。それにそんなに若くもないんですよ、私は。」

    「まあ日本人は若く見えるからな。たぶん我々とそんなに違わないはずだよな、椎野君。」

    「ええそうですね。でもIBMでは年齢ではなく、実力主義を取っていますから、そう珍しいことではないんですよ。皆さんこそその若さで次代のリーダー候補ですから、驚きです。私のイメージでは、政治家はどうしてもおじいちゃんという固定概念がありますからね。」

    「おじいちゃんはないだろ。ゴルバーはちょっと老けて見えるが、私はまだまだビンビンだからな。」

     そういってカザミはゴルバーの肩をたたいた。

     何が「ビンビン」なのかよくわからないまま、一行は椎野に促され日本IBMのブースの中へと入っていった。

     

    「ゴルバーさん、これが今我々が一押しのビジネス・パーソナル・コンピュータ“マッハ5550”です。これまで冷蔵庫ほどの大きさだったコンピュータが、どうです、机の上にちゃんと収まってるでしょ。」

     確かに机の上に収まってはいたが、本体は7泊8日の旅行にちょうどいいくらいのスーツケース大のサイズで、モニターは人の顔くらいながらブラウン管のせいで、青森の親戚から毎年送られてくるリンゴ箱程度の大きさがあった。椎野は説明を続けた。

    「このPCは、あっPCっていうのはパーソナル・コンピュータの略なんですけど、今までオフィスで行われていた計算や文書作成といった業務をこれ一台でやってのけることが出来るんです。それだけじゃなくて、これは個人でも買えるくらいの金額で、実際に若いビジネスマンの中には車よりPCを買って、家でもばりばり仕事をこなすという強者もいるくらいです。」

    「家でも仕事をするんですか。日本人は働き者と聞いていたけど、それじゃあ心身を休めるときがないですね。」

    「日本人のビジネスマンって、仕事以外にやることないですから。」

     椎野はそういって笑いながら“マッハ5550”の前に座った。

    「これがマウスといって、画面上のこのポインタを動かしいろんな操作をするのに使います。」

    「マウスは知ってます。この間アプル社のストーブさんという方にパソコンを見せてもらって、実際にマウスをさわらせてもらいましたよ。でも画面はちょっと違いますね。アイコンと呼ばれるちっちゃな絵があって、ゴミ箱なんかもあったんですけど。」

     ゴルバーは“マッハ5550”の画面をのぞき込みながらそういった。

    「ストーブはよく知ってますよ。Jの方ですよね。とても優秀な人物で、彼らのパソコンも将来はおもしろいことになるかもしれませんね。でも、それはまだまだビジネスでは使えない代物なんですよ。この“マッハ5550”は、仕事で使うために開発したマシンで、いってみれば自転車とダンプカーくらいの違いがあって、出来ることの速さも量も全く違うものなんですよ。」

     そういって椎野は操作を続けた。

    「これが表計算ソフトです。このセルの中に数字を入れて計算式を設定してやると、ほら、自動的にいろんな計算をして数字をはじき出してくれるでしょ。それをこうして、グラフにしてやることも出来るんです。」

     グレーのモニターに黄色い枠線が格子状に並び、そこにやはり黄色い数字が映し出され、椎野の操作でそれがよく見かける帯状のグラフに変化した。

    「どうだいゴルバー、そのストーブとやらのパソコンじゃこうはいかないだろう。ビジネスは数字、そしてお金。それをちゃんと表やグラフにして説明しなきゃ、通る予算も通らないし、国民も納得がいかないってことだよ。」

     カザミがわかったようなわかってないような解説を入れた。

    「実はコンピューターの仕組みは、IBMもアプルもそう違いはないんです。でもそれを何の目的で、誰がどう使うかによって、機能やデザイン、大きさや値段が変わってくる。つまり同じ技術でも、創る人によっていろんなものに変化するということですね。これからコンピューターは様々なものに形を変え生活の中に入っていくんだと思います。でも根本的なものは一緒で、それは人々の生活を便利で豊かにするための道具だということを忘れてしまってはだめですね。」

     椎野の言葉に何かを思い出したようにゴルバーは言った。

    「そうか“能ある鷹は爪を切る”って、そういうことか。」

    「正確には“能ある鷹は爪を隠す”ですよ。ゴルバーさん。」

    「あっいや、これは我々の師から教わった謎かけのようなもので、今の椎野さんの話の中になんだかそれを説くヒントがあったような気がしたんです。おもしろいですね。どんなに進んだ技術も突き詰めていけば、僕らの生活を豊かにするための道具だということ。いわれてみれば当たり前のことなのに、技術を追求するが故に見失ってしまうものもあるということですか。」

    「いえ、そこまで深く考えて言った訳じゃないんです。技術も使い方次第ということでしょうか。」

     ゴルバーたちの会話が確信に近づこうとしたそのとき、

    「そういえば椎野君、この“マッハ5550”はいくらするんだったかな。」

    カザミが話の腰を折った。

    「えっ、値段ですか。そうですね。基本的な構成でたぶん国産車1台分くらいですよ。」

    「そうか、それじゃあゴルバーの手みやげに1台買っていこうか。」

    「とんでもない。そんな高価なものはもらえないよ。第一使い方もわからないし。持って歩くことも出来ないし。」

     ゴルバーは驚いてそう言った。

    「それは残念。それじゃあとりあえずゴルバーへの手みやげという名目にしておいて、私の事務所で使うことにしよう。椎野君あとでうちに1台届けておいてくれないか。支払いは党の購買部に回しといてくれ。」

    「カザミ先生、本当にお使いになるんですか。飾りで置いておくだけなら、こんな無駄なものは買わない方がいいですよ。」

    「自分とこの製品を無駄なものって言っちゃだめだろう。それに、うちでは新しいものはまず一番に手に入れて試してみるという家風があるんだ。」

     家風で買うにはあまりにも無意味で高い買い物だと思いながら、自分が持って帰ることにならなくてよかったとゴルバーは胸をなで下ろした。

    「じゃあゴルバー、そろそろ次へ行こうか。日本の最先端技術のさわりだけでもわかってもらえたかな。」

    「そうだね、この分野の技術革新はすごいものがあるね。ちょっと先の未来を見せてもらった気がするよ。でも、IBMってアメリカの会社だよね。」

    「何を言ってるんだ、日本IBMは外資とはいえまさに日本の会社だ。この“マッハ5550”だってれっきとしたメイドインジャパンのコンピューターだよ。それが証拠に、ほらみてみろ、文字は全て日本語だろ。」

     なんだか同じような詭弁をアメリカでも聞いたような気がしながら、ゴルバーはカザミに促されて会場の出口へと向かった。

     

    「さあ、じゃあ次は赤坂で日本文化の視察と行くか。ちょっと待っててくれ、飛行機を呼ぶから。」

    「えっ、飛行機で行くのかい。呼ぶって、どこに降りてくるんだ。」

     コンベンションセンターの大きな通路にたったカザミは、ちょっと昔を思い出すような口調で言った。

    「ここは昔、滑走路だったんだ。だからこんなにだだっ広いだろ。戦時中には私もここから大空へと飛び立っていったものだ。」

    「戦時中って、第二次世界大戦かい。それじゃいったい君はいくつなんだ。」

    「冗談だよ。そんなに本気に受け取るなよ。でも滑走路だったてのはホントで、飛行機じゃなく、迎えの車がもうすぐここまで入ってくるから。」

     カザミも冗談を言うのか。ちょっとしたショックを受けながら立ちすくむゴルバーの前にその一団は現れた。

     ダークスーツの波間が船に切られる波紋のようによけていく中、パトカー10台に先導されたセンチュリーが4台、プレジデントが2台、その後ろにさらにパトカーが10台、そして最後尾にやはりデボネアが1台という、来たときよりもさらに所帯が増えた護衛団が二人の目前に止まった。

    「ちょっとやり過ぎじゃないないのか。僕はこんなにしてもらわなくても、1台で十分なんだけど。」

    「何を言ってる。こういうときは、誰が偉い人なのかということを民衆に思い知らせておかなきゃいけないんだ。中途半端なインパクトじゃ、逆に何様のつもりだの税金の無駄遣いだのがたがた言うやつが出てくる。やるときは大げさなくらいやってやると、小市民たちは何も言わなくなる。今の政治家は威厳がなくなってきているから、私がもう一度それを取り戻そうとがんばっているって訳だよ。」

     大物政治家然としたカザミと海外からの要人と化したゴルバーの二人が車に乗り込むと、その一団はテントや椅子や机を蹴散らしながらUターンし、けたたましいサイレンを鳴らしながら走り去っていった。後に残されたのは、どんぶりを片手に唖然とした表情でそれを見送る小市民たちだった。

     

     

     チントンシャントン、粋なしゃみの旋律に、艶のある小唄が聞こえてくる。路地にはしっとり水がまかれ、板塀をたどっていくと格子戸にのれんが掛かった入り口。脇の2カ所に塩が盛られ、格子越しに玄関へと通じる石畳が見える。そんな昔ながらの料亭が軒を連ねるここは赤坂。夕暮れ時は黒塗りの大型車がひっきりなしに行き交い、政治家たちを降ろしては走り去る。料亭の一室では夜な夜な会合が行われ、この国の重要な施策に関わる密約の99%はここで交わされていると言っても過言ではない。

    「まあこちら、ソ連からいらっしゃったの。どおりで色白でハンサムさん。」

     日本髪を結い友禅の艶やかな着物をまとった芸者がお酌をしながら言った。

    「小梅、このゴルバーさんは単なるソ連からの客人じゃないぞ。将来の書記長候補の一人だ。せいぜい今のうちに顔を売っておくことだ。」

    「まあすごい。文章書くのが早いのね。私も学校ではいつも書記役だったけど、みんなの話しについて行けなくて、いつも怒られてたわ。」

    「いや、そういう役割じゃなくて…。」

     ゴルバーはこのあまりに浮世離れした雰囲気と、ピント外れの会話にとまどっていた。畳の上に座るのも、芸者に会うのもお酌をされるのも、箸を使って生の魚を食べるのも初めてのことだった。

    「ゴルバー、そう堅くなるな。まあ足を崩して、今日は無礼講だ。さあどんどんお酒を持ってこい。」

     カザミの勢いはさらに増していた。次々と料理が運ばれ、ビールに日本酒、焼酎のボトルにウィスキーと、いったい何を食べればいいのか、何を飲めばいいのか、ゴルバーはただいわれるがままに食べ、いわれるがままに飲むしかなかった。

    「カザミ、君はいつもレーゴンと一緒だったからホントに仲がいいんだと思ってたんだけど、実際はどうなんだい。」

    酔った勢いでゴルバーが核心に触れる質問をした。

    「レーゴンなんて、屁でもない。何かといえばあれを買えこれを買えと、質の悪いもんばっかりを売りつけてくる。じゃあ日本のものを買うかってーっとどうだい『おまえんとこの車は安くておまけに壊れないときてる、そんなもん売られたんじゃこちとら商売あがったりでぃ。さっさと撤退するかさもなきゃ関税倍にしてやるぜ。』ときたもんだ。一度くらい戦争で勝ったからっていったいいつまで上から目線ですかって。今におぼえてやがれ。この経済戦争で打ち勝って、いつかアメリカを植民地化してやるぜ。」

     さらに酔った勢いでカザミが過激な発言をすると、「まあまあ今日はそんなこと忘れて楽しくやりましょうよ。」と芸者たちが酒をつぐ。注がれたカザミはさらに語気を強めてゴルバーに言った。

    「ゴルバー、いっそのこと日本を社会主義国家にして、ソ連と中国と3国同盟を組んで世界を支配しないか。自由主義国家なんて全滅させてやろうぜ。」

    「なんてこと言うんだ。そりゃ同士が増えるのは嬉しいけど、誰かが誰かを支配するっていうのは正しくないよ。」

    「おまえはいつもそういう建前ばかり言う。だからいまいち出世街道に乗りきれずに重要なポストからも遠ざかり、下手すりゃ一生冷飯食らいの一党員で終わるんだぞ。大体ソ連の政治家というのは支配者階級だろ、支配者というのは文字通り国民を支配するんだ。だれかがだれかを支配しなきゃ、支配される側は何やっていいかわからないだろ。そういう奴らがほとんどだってことだ。」

    「何を言う。ソ連の政治家は支配者なんかじゃないぞ。国民も政治家も共産党員も農夫も皆同じ同士なんだ。確かに今のソ連は理想とする社会主義国家じゃないかもしれないけど、いつかは僕の手で変えてみせる。」

     酔うと誰もがそうなるように、この二人の政治家もお互いの本性をむき出しでかみ合うことのない議論を続けるのだった。そばにいる芸者たちは『まあまあ、まあまあ』と言いながらタイミングよくお酌をし、時には料理を箸でつまんで熱くなりすぎた方の口に入れてやり、額の汗を手ぬぐいでそっと拭いてやるのだった。こんなシチュエーションには慣れっこで、明日になればみんな忘れていることを彼女たちは知っていた。

     

    「先生、ヤメルダさんがいらっしゃいました。」

     という声とともにふすまがすっと開かれ、きらびやかなピンクのドレスを身にまとい、まばゆいばかりの宝石で着飾ったモデルのような女が部屋に入ってきた。

    「やあ、ヤメルダ。よくきたね、まあここへ座って一杯どうだい。」

     カザミがヤメルダと呼ばれる女の手を取って自分の横に座らせた。

    「ゴルバー、こちらフィリピンのヤメルダ女王。ヤメルダ、こちらはさむーい国からきたさむーいことしか言わないゴルバーだ。」

    「何を言ってるんだ。寒い国なのは確かだけど、僕はいつも熱い心を持って話をしているつもりだ。あっ、ヤメルダさん。初めまして、ゴルバーです。」

    「初めまして。もうずいぶんできあがってるんですね。私も一杯頂こうかしら。」

     そういってヤメルダはグラスを持ち上げゴルバーにウインクした。

     そんなシチュエーションには慣れていないゴルバーは、いったいどうしていいやらわからずヤメルダを見つめるだけだった。

    「何をしている、ビールだビール。ソ連じゃ女性に飲み物も注いでやらないのか。」

     そういわれてはっとしたゴルバーはビールを手に取り勢いよくヤメルダのグラスへ注いだ。もちろん泡があふれグラスからこぼれ落ちた。

    「なんだい、ビールのつぎ方も知らないのか。それじゃどんな女も口説けないぞ。」

    「いや、こういうことって慣れてないから。」

     赤くなりながら言い訳する青年に、獲物を見つけた悪女のような視線を送りながら優しい聖母のような口調でヤメルダが言った。

    「うぶな方なのね。今時珍しいわ。全然気になさらないで。それより私にもお酌させてね。ビール、それともウォッカの方がいいのかしら。」

     ヤメルダは南国の女性特有の派手な顔立ちで、ぴっちりとしたドレスがそのふくよかな体をいっそう官能的に見せていた。聞けば女優だったというその前職中に今のマルコメ大統領に見初められ若くして美貌あふれるファーストレディとなったのだという。

    「だから別に女王じゃないの。カザミーが勝手に言ってるだけ。意外と質素な生活を送ってるから、女王と言うよりシンデレラのような感じね。」

     10カラットはあろうかというダイヤの指輪。エメラルドやルビーがちりばめられたネックレス。たとえ王子と結ばれた後のシンデレラであってもそんな“質素”な格好は決してしなかっただろう。

     それよりカザミーと呼ばれたカザミは急に甘い口調になり、

    「ヤメルダ、今日は用があるって言うからあまり人目につかないここにきてもらったんだけど、なんだい。用って。」

    「そうそう、一つお願いがあるの。先日実家の大農場が台風の被害にあって、家やら果樹園やらみんな壊されちゃったの。それでねパパが私になんとかしてくれって言うの。ちょっと規模が大きいから国家予算でやってもらおうとマルコメに頼んだんだけど、国民の目があるから出来ないって。意外とケチなのよ。ねえ、何とかカザミーのツテでゼネコン動かしてくれないかしら。ね、お願い。」

    「またかい。このあいだ橋を架けてあげたばかりじゃないか。それに農場じゃあゼネコンの出番はないだろ。」

    「そうじゃないの。もう農場は大変だから、やめてリゾートホテルにしようかと思ってるの。フィリピンにとって観光は貴重な収入源でしょ。だから国家プロジェクトでもいいと思ったんだけど単独じゃやりづらいから、日本との共同事業ということにしてやっちゃいたいの。私の靴置きも狭くなったことだし。」

    「なんだい靴置きって。いつもそういう余計なのがくっついてるからやりづらいんだよね。このあいだの橋の時もついでに乗馬コースを造らされたってゼネコンのやつがぼやいてたよ。」

     二人の会話に全く入り込むことが出来ないでいたゴルバーがようやく口を開いた。

    「ヤメルダさんはそんなに靴を持ってるんですか。」

    「そうでもないわ。この部屋一杯分くらいかしら。」

    「ええっー、そんなにあるんですか。」

    「そうね、それくらいかしら、一ヶ月で新調するのは。」

     ゴルバーはあきれてそれ以上の会話の糸口を見つけることが出来なかった。

    「仕方ないな、ヤメルダの頼みだから。当分はこれっきりだよ。」

    そういってカザミは手をぽんぽんとたたいて人を呼んだ。

    「小田君、いるか。」

    「はっ」という声が聞こえ、ふすまの向こうから銀縁眼鏡をかけたいかにも官僚といった風体の青年が現れた。

    「先生お呼びでしょうか。」

    「うん、小田君。ヤメルダは知ってるよね。このあいだフィリピンへの開発協力で橋を造ったけど、その先にあるヤメルダの実家を国の観光事業へ提供するらしいんだ。これは流れ的にももう一度日本から何とかしなきゃいけないと考えている。早速手配してくれたまえ。」

    「わかりました。それではヤメルダさん、先生の事務所で詳しい状況をお聞かせください。」

     小田は何の疑念も挟むことなく事務口調で言った。

    「わかったわ、じゃあカザミーありがとう。この埋め合わせはまたフィリピンでね。ゴルバーさんもよかったらぜひマニラにいらしてね。楽しい思い出をつくってあげるわ。」

     意味深な笑みを振りまきながらヤメルダは小田と一緒に部屋を出て行った。

     

    「そんなに簡単にOKしていいのかい。どう考えても私的流用と取られかねねないぞ。」

     ゴルバーはまじめな顔をしてカザミに言った。

    「勘違いするなよ。私がヤメルダに入れ込んで公金をつぎ込んでるって。これは一つの政治手法として覚えておくといい。開発協力といって発展途上国に金を出す。しかしその工事自体は日本の企業が受注するよう制約をつける。そうするとどうだ、日本から出て行った金がまた日本に戻ってくる。そしてその国には恩が売れる。」

    「でも特定の企業の利益となるだけじゃないか。」

    「いいか、企業に入った金はその社員やその下請けを通して最終的には労働者へと流れていく。そうしてまた税金となり、消費となり、経済は回るというわけだ。」

     カザミは経済学の教授のようにもっともらしいことをいいながら、最後のこう付け加えた。

    「金は天下の回りものだ。政治家はいかに大きな金を回してサイクルをつくり、その中でいかに他国へ恩を売るか、企業へ恩を売るか、有権者へ恩を売るか、自分がどれだけ抜くか、それがなにより重要なことだ。金がなければ政治はできんのだ。」

     鹿威しが“コン”と音を立てた。それきり二人の会話はとぎれてしまった。

     

     護衛団での見送りを断り、SPをつけるというのも断り、ゴルバーはふらふらと東京の街を彷徨っていた。経済発展著しいこの国の首都は、深夜でも明かりが煌々と灯り大勢の人また人でにぎわっていた。昼間の晴海とはうって変わり、ダークスーツの男たちでさえ一様に陽気で人生を楽しんでいるように見えた。晴海ではあまり見かけなかった女性たちも、ファッショナブルないでたちで街に花を添えていた。こんな時間に彼女たちは大丈夫なんだろうかと、余計な心配をしながらゴルバーはふとサッチャンのことを思い出していた。

    「確かにこの風景に比べるとロンドンの夜景って寂しく感じるかもしれない。モスクワに比べて女性たちのいでたちもずっと華やかだし、僕の基準が狭い世界観の中でしか培われていないということか。確かにヤメルダの艶やかさに比べるとサッチャンは地味かもしれない。もっといろんな女性に出会い世界を広げろということなのか。いや違う。これだけは、これだけは自分の思いを信じるべきだ。いったい何に惑わされているんだ。」

     夜の繁華街のせいなのか、欲望渦巻くこの場所で、ゴルバーの思いはあらぬ妄想と自戒の念でぐちゃぐちゃになり、アルコールでふやけた脳は今にもはじけんばかりに熱くなっていた。頭を冷やさなければ。ゴルバーはそう思いながら、ふと気がつくとネオン街からはずれた人気のない公園のそばに立っていた。

     ささやかな樹木が残るその向こうに仄かな灯りが見える。そこにヨーロッパの市場でよく見かける屋根のついたワゴンのようなものがあり、人の気配を感じる。ゴルバーは光に吸い寄せられる昆虫のようによろよろとそちらへ歩いていった。近づくとそれは何かのお店のようだ。ワゴンの周りには椅子がある。なにやら湯気が立っている。食べ物を売っているのか。湯気の向こうには人がいて、たぶんこの小さなレストランの店主だろう。ゴルバーは意を決して椅子に腰掛けた。

    「すいません、ここは..」

     と言いかけて、驚いた声を上げた。

    「ダマ師じゃないですか!いったいこんなところで何をしてるんですか。」

    「へいらっしゃい。ここは屋台という移動式のレストランだ、ゴルバー。それからこんなところとは、日本の国民に失礼じゃないか。ロンドンでも言ったような気がするが。」

     ダマはそういいながら小さな皿をゴルバーの前に置くと、なにやら黄色のディップのようなものをスプーンですくって皿に盛った。ワゴンの上には料理を煮込む長方形の銅鍋が据え付けてあり、ステンレスの間仕切りでマトリクス状にいくつものスペースがつくられ、それぞれに違う具材が入り、ひたひたのスープでほどよく煮込まれていた。ダマはその中からいくつかの具材を取り出し皿にのせた。

    「さあ食べるがいい。これがもっとも日本的な料理の一つ“おでん”だ。」

    「 “おでん”ですか。」

     ゴルバーはおそるおそるその一つを箸で取り口に入れた。

    「ああ、なんだかほっとする味ですね。」

    「何だ、日本のおやじのようなことを言うな。それは蕪だ。ソ連で言うところのボルシチのビーツようなものか。ソウルフードの感覚とやらは世界共通のようだな。その黄色のディップは芥子といって日本の香辛料だ。たっぷりつけて食べてみなさい。」

     ゴルバーは言われるがままに芥子をたっぷり蕪につけ口に入れた。

    「ああっ」

     何ともいえない悲鳴を上げてゴルバーは目頭を押さえた。

    「なるほど芥子に対する感覚も世界共通のようだな。」

    「それを確かめるために、たっぷりつけろと言われたのですか。ダマ師。」

     ゴルバーは涙を手でぬぐいながらそういった。

    「人は悲しくて涙し、嬉しくて涙する。そして何でもないときにも、そんなささやかな刺激に涙する。きっと涙で洗い流せる何かがあるということだ。」

     もっともらしいダマの言葉に、今はその真意すらくみ取る余裕のないゴルバーは言った。

    「水を、水をいただけませんか。」

     ダマは何も言わず安っぽいガラスのコップをゴルバーの前に置くと、なにやら大きな瓶から透明の液体を注いだ。ゴルバーは急いでそれを口に運んだ。

    「ああっ」

     何ともいえない悲鳴を上げてゴルバーは胸元を押さえた。

    「これはお酒ですね。しかもさっき飲んでたのよりもこたえます。」

    「さっき何を飲んでたかは知らないが、それは焼酎だ。なに、ウォッカよりは軽い酒だ。」

     ゴルバーは苦しそうにしばらく屋台のテーブルに顔を伏せて身動きしなかった。やがてそのままの体制で、声を絞り出すように話し始めた。

    「さっきまでカザミと日本のレストランで食事をしていたんです。いつものように酔っぱらってムジーナの時のように議論を交わした。そこまではよかった。そこに突然ヤメルダというフィリピンのファーストレディが現れて、カザミに開発協力を装った資金援助を依頼してきたんです。カザミはまるで子供にねだられた父親のようにデレデレとそれをOKしてしまいました。それは明らかに公金横領です。でもカザミはそれも政治手法の一つだと言ってはばからない。僕らの政治に対する考え方が全く違うんです。」

    「さっきまでそこに日本のサラリーマンたちが座って、同じように同僚と意見が合わないとか、上司が横暴だとか、クライアントが馬鹿だとか、さんざん愚痴をこぼしていた。多かれ少なかれ誰にでもそういった人間関係の悩みはあるものだ。彼らはそうやって酒を飲みぼやくことでその精神的ストレスをいくばくかでも解消し帰って行く。可愛いものだ。

     しかしお前たちはそれではいけない。ムジーナでの体験は何だったのか思い出すがいい。文化も民族も思考も宗教も違うもの同士で議論を交わし、意見の違いにお互いを罵倒し、そしてそれに悩み、しかし決して暴力に頼ることなくそれぞれの妥協点を見つけてきた。若いうちから同じ釜の飯を食い、そういった経験を共有してきたことで、お前たちは政治家としての資質を磨いてきたはずだ。ただ愚痴るだけならサラリーマンでもできること。カザミの考え方も政治家としては当たり前のことと受け止め、ではその上でお前はどうするかという次の一手を打てなければ、一生冷や飯ぐらいの一党員で終わってしまうぞ。」

     最後のフレーズはさっきも聞いたような気がして、さらに考え込んでしまったゴルバーに向かい、ダマ師の説法は続いた。

    「この鍋を見ろ、ゴルバー。しきりでそれぞれの具材が分けられているが、しかし全体は一つの世界だ。しきりという国境で分けられているが、スープという海であり空気である羊水でつながった一つの地球と言っても過言ではない。ここにある具材は様々だ。それぞれは全く違った素材からできている。海のもの、山のもの、川のもの、空のもの、魚介や獣肉や野菜やがんもどき、白滝、こんにゃく、黒はんぺん。おでんはそのいろいろな具が一体となってこの味を出している。誰が強く主張するでもなく、一つの味を作り出しているのだ。地球もまたしかり。」

     ゴルバーはその言葉を聞きながらゆっくりと顔を上げると目の前の鍋を見渡し、何となく納得した表情で言った。

    「そうか、これにチーズを入れてもキャビアを入れても、一つの味になるんですね。」

     ダマ師はその味を想像したのか、げんなりした表情でこう言った。

    「お前たちの味覚なら、きっとうまいに違いない。」

     

     東京というメガロポリスの夜をヘリコプターで飛んでいると、まるで暗室の中、宝石箱をライトテーブルにひっくり返してしまったかのようにそこだけがこうこうと明るく、そしてきらきらと輝いて見える。赤、青、オレンジ、黄色、緑と、様々な光が交錯し、家庭の団欒、繁華街の享楽を楽しくすてきに演出しながら、それらは日夜CO2を吐き出し続けている。

     そのとても小さな光の一つ、おでんの屋台から漏れる裸電球の灯りの下、若き政治家の卵とその師である得体の知れぬ男の会話は、夜が更けるのを忘れとりとめもなく続いて行くのだった。

     

    「以前お前は、中道を行くと言ったがそれは簡単ではない、忍耐力と自制心、はっきりとしたビジョンがなければ、すぐに右左へと振られてしまう。人というのは孤独に弱く、仲間を求めて群れたがるものだ。しかし憶えておくがいい。指導者というのは常に孤独を道連れに旅する修行僧と同じ。おのれの信念のみが羅針盤であり生き行く源となりうるのだ。」

    「師のおっしゃるように、そこまで強くなれるかどうか自信がありません。でも、ムジーナの仲間たちがそれぞれの国の指導者となったとき、僕らは“孤独な修行僧”ではなくなるような気がします。もちろん各国の政治のトップという立場では孤独なのかもしれませんが、お互いが手をつなぐことで支えとなり、助け合うことで力となる。そんな世界がやってくる、いや創って行けると、ようやく確信が持てるようになってきたんです。」

     ゴルバーの皿に、大根とこんにゃく、すじ肉と白滝を入れてやり、芥子をタッブリとふちに盛り、空いたグラスに(焼酎はきついというので)日本酒を注ぎ足してやり、何かうなずくような仕草を見せたダマ師は、静かにそして諭すように言った。

    「いつの世紀にも言われてきたことだが、決して失ってはならないもの。それが“希望”の二文字だ。」

    「えっ二文字ですか。」

     ゴルバーが言葉の揚げ足を取ると、ダマ師は少し語気を強めながら続けた。

    「そう、漢字では二文字だ。英語では四文字。ドイツ語は八文字、フランス語は六文字、スペイン語は九文字、イタリア語は八文字、ロシア語は七文字、そしてラテン語では四文字だ。」

     そこまでムキにならなくてもいいのにと思いながらゴルバーは、ロシア語のスペルを思い浮かべていた。

    「いいか、どんな言語であろうとも、今お前の中にある“希望”を忘れてはいけない。私も教え子であるお前たちの創りだす未来にもう一度“希望”を持ってみることにしよう。この言葉を憶えておくがいい。“希望なき人生に伴侶なし”。」

     いつものようにその意味を咀嚼できないままゴルバーは、それでもなんだか深そうなその言葉を繰り返した。

    「 “希望なき人生に伴侶なし”ですか。」

     裸電球が「ジージー」と音をたてながら点滅した。公園を抜けてくる夜気が少し冷たくなり、寒暖計が今日の最低気温を表示する頃、二人の会話も尽きようとしていた。

     

    「もうそろそろ帰って休むがいい。今日はどこへ泊まるつもりだ。」

    ダマ師が優しくゴルバーに聞いた。

    「カザミが帝国ホテルを取ってくれたんです。そんな高級なところでなくてもよかったんですが、「政治家たるもの最高級を知らずして国政は預かれない」とかなんとか言って、予約だけはしてくれました。でも、払いはソ連大使館に回るそうです。あとで上層部から何か言われないかちょっと不安なんですけど。」

    「そうそう上層部と言えば、私の情報筋から「ゴロネンコがお前を狙っている」という情報が入った。日本は安全な国だが、気をつけるに越したことはない。今日はタクシーでまっすぐ帰ることだ。」

    「えっ、ゴロネンコ副書記長が僕を狙っている、ってまさか暗殺されるってことですか?確かに煙たがっているとは思いますが、僕はそんな危険な存在じゃないし、今回も外遊をOKしてくれたのは彼ですよ。」

    「オンドレポコがどうなったかは知ってるだろう。暗殺以外にもやり方はいろいろある。今やつは書記長に就く時期を狙っている。そうなるとお前の存在がやつにとってどう映ると思う?目の上のたんこぶは、危険ではないが、どうしようもなく邪魔なものだ。いいか、簡単に人を信用してはいけない。そして、無防備な自分をさらけ出してもいけない。ましてや見知らぬ土地ではなおさらのこと。お前の卒業旅行とやらも、決して安全なものではないということを肝に銘じておくんだな。とにかくタクシーでホテルへ戻るがいい。」

     ゴルバーは周囲を見渡して、少し不安になり聞いた。

    「タクシーって乗ったことがないんですが、どこでどうすればいいんですか?」

     ダマ師は少しあきれ顔で、幼い子供に諭すように言った。

    「東京では、どこでも道ばたで手を挙げさえすればすぐにタクシーが止まる。そのまま立っていれば後部のドアが自動的に開く。あとは座席に乗り込んで行き先を告げるだけ。その道をまっすぐ行けば大きな通りに出る。そこで手を挙げて立っていればいい。そこまではそこのもの影で待機しているSP達が守ってくれるだろう。」

    「えっ、SPですか?カザミには断ったんですけど。」

    「何かあっては自分の威信に傷がつくからだろう。しかしこの慎重さは、カザミが政治家としての自覚をしっかりと持ち始めたという証拠だろう。」

    「そうですね。なんだかムジーナの頃とは比べ物にならないくらい自信を持っていました。でも持つべきものは友ですね。SP達にも悪いので、もう帰ります。ダマ師とお話しできて何か吹っ切れたような気がします。ありがとうございました。いずれまたどこかでお会いできるのでしょう。お元気で。」

     そういって立ち上がり歩き出そうとしたゴルバーに、ダマ師が声をかけた。

    「お代は3,860円になります。」 

     SP達の存在を背中に感じながらゴルバーは、車の流れが多い大通りでダマ師に言われた通り手を挙げた。一台の大きな黒塗りの車が近づいてきてゴルバーの目の前に止まった。そして言われた通りそのまま立っていると、後部のドアどころか前のドアも自動で開いたかと思うとそこから黒っぽい服に身を包んだ男達が飛び出してきて、いきなりゴルバーの口にハンカチを押し当てた。何か言おうとしたゴルバーの声は音になることはなく、急に膝の後ろを蹴られたかのようにがっくりと力が抜けた体は、男達に抱えられるように座席へと押し込まれた。そしてドアが閉まると車はけたたましいタイヤのスリップ音を残してものすごいスピードで走り去って行った。

      

    第七章 露西亜要人誘拐事件

     皇居のお堀からほど近い小高い丘の上、日本の政治を司る歴史的建造物が建っている。中央にピラミッド型の帽子をかぶったロケットのような塔がそびえ、左右に三階建ての重厚なビルヂングが連なり、外壁は三種類の花崗岩でできていた。

     その、議員が昼寝をするために建てられた「国会議事堂」から、本会議を行うための赤坂の「料亭」に向かう道の中程に、瀟洒なそれでいて伝統の重みと近代建築のライトさを感じさせる建物「首相官邸」がある。石造りの厳つい門柱の間を抜け中に入ると、前庭には中央に立派な松が鎮座する楕円の植え込みがありその周りが正面玄関への車寄せになっている。そこに一台のセンチュリーが白バイ4台に護衛されながら走り込んできた。そして官邸正面入り口ではなく、横に建てられた別館の前で止まった。

     

    「いったいどうなってるんだ。」

     車から降りるやいなやカザミは、入り口で待ち構えていた秘書に向かい怒鳴るようにまくしたてた。

    「SPを付けろと言ったはずだ。奴らは何をしてたんだ。いったいどこのどいつが、この治安国家日本で誘拐なんてしでかすんだ。しかも相手はロシア人だぞ。そんなことはヨーロッパかアメリカでやってくれ。よりによって私と会ったその日だなんて、面目丸つぶれだ。まさかマスコミには漏れてないだろうな。」

     秘書はそれに答えるでもなく、入り口のドアを開けた。カザミはつかつかと別館の中に入ると、少し周りを見渡し“喫茶ジュネーブ”という看板がある食堂へと向かった。看板の横には紙が貼られ、そこには『露西亜要人誘拐事件対策本部』と筆文字で書かれていた。

    「カザミ先生、ご苦労様です。外務省から来ました佐藤です。この両名は田中に三木。今回の事件は先生を対策本部長に、我々3名が解決にあたらせて頂きます。」

    「たった3名とは頼もしいものだ。いったい、外務省は私をなめてるのか。」

     カザミは恫喝するように言った。

    「とんでもありません。ここにいるのは3名でも、今日本中で何十人という職員と何百人という警察官が必死で捜査にあたっています。我々は先生の元で任務にあたることができ光栄に思います。」

     佐藤が直立不動で答えると、最後の言葉に気を良くしたのかカザミの口調は少し柔らかくなった。

    「佐藤に田中に三木か。まあ有りがちな名前だが、君らが私の指揮下に入るというのはまんざらでもない。とにかく状況を説明してくれ。」

     

     喫茶ジュネーブは別館の1階奥にあり、普段は官邸につめている記者達の憩いの場となっていた。しかし今はほとんどの机といすが隅に積み上げられ、一方の壁際には世界中の情報を受け取ることができる最新の通信機器とカラーで映像をやり取りできるテレビモニターが山と積まれ、情報を記録・分析するためのコンピューター“IBMマッハ5550”が五台も設置されていた。しかしメインで使われていたのは、最新鋭機材の前に置かれたダイヤル式の黒電話数台と横の壁に取り付けられた大きな黒板だった。

     田中が、電話機の置かれた大きなテーブルに東京の地図を広げ、説明を始めた。

    「昨夜未明、被害者はこの辺りで黒いプレジデントと見られる車に乗った一団に拉致され連れ去られました。後ろに付いていたSPが追いかけたのですが、車はこちら方面へ猛スピードで走り去り、見失ってしまいました。すぐに周辺へ網を張ったのですが、車はその後この駐車場で乗り捨てられているのが見つかり、そこからの消息は未だつかめていません。SPによると犯人達は睡眠薬をかがせたようで、被害者は意識がない状態ですから、それを抱えて徒歩で移動したとは考えにくい状況です。しかしこの付近には地下鉄の駅も船で移動するための河川もなく、車を乗り換えたと見るのが妥当でしょう。そうすると、最初の車とは全く違った印象のもの、例えば屋根にキャリアを付けてその上にサーフボードをボルト付けした赤いファミリアとか、八の字シャコタンにしてフルカウルにしたシルバーの箱スカとか、場合によっては電飾でフルデコレーションしたブンちゃん仕様の4トントラックということも考えられます。」

     真面目な顔をして説明する田中に向かってカザミは皮肉まじりに聞いた。

    「田中、君はまさかその考えを警察に伝えたんじゃないだろうな。」

    「もちろん伝えました。」

     カザミはしばらく黙ってテーブルの周りをぐるぐると回っていたが、ふと黒板に目をやると「はあっ」と深いため息をついた。

     黒板には、「被害者=ロシア人男性(要人)、犯人=4〜5名(黒っぽい服装、日本人?)、逃走経路=道路○、水路×、電車×、空路△、逃走車=赤いファミリア、銀の箱スカ、場合によっては“トラック野郎”、と書かれ、それぞれの車種の下には下手なイラストが付いていた。 

     カザミは意を決したように電話の受話器を取ると、ダイヤルをまわした。

    「小田君、すぐに来てくれ。場所は官邸別館のジュネーブだ。」

     

     30分もたたないうちに小田は現れた。

    「状況を説明しよう。」

     といって話し出そうとしたカザミを遮って小田は言った。

    「先生、もう既に情報は得ています。ここへ来る前に、いくつかの対策も講じてきました。あとはしばらくお時間をいただければ、何らかの進展があるかと思います。」

     冷静で淡々としたそのしゃべり口に、いつもながらの頼もしさを感じながらカザミは言った。

    「さすが小田君。手が早いしそつがない。どこやらのおとぼけ官僚とはできが違う。」

     ぼけてはいないと思っている3人のうち、三木がぼそっとつぶやいた。

    「小田さんは特命職員で、使える金が違う…。」

     そんな言葉を聞き流し、小田は東京の地図の上に日本地図を広げた。

    「事件発生から6時間が経過しています。もし車で移動しているのなら、多分高速は使わないでしょうから、行って大阪、新潟、仙台でしょう。」

     そういいながら小田は東京を中心に半円を書き込んだ。

    「やっぱり車ですよね。」

     田中が意を得たりと口を挟む。

    「いや、今回の事件は日本人の仕業ではない。そうすると土地勘がない上に、長距離の移動で人目につくのはさけたいはず。」

    「どうして日本人ではないと言い切れるんだ。」

    「これはまだ未確認なので、あくまでも先生と私の私的な会話としてお聞きください。この事件の首謀者はクレムリンだという情報が、ある信頼できる筋から手に入りました。ただ、日本という治安のいいと言われる国で、国際問題にもなりかねないこんなことをなぜクレムリンがやる必要があるのか。しかも今はまだ一党員にすぎないゴルバーさんを狙ってというのは、あまりにも動機が弱い気がします。」

    「ゴロネンコだ。」

    「先生がおっしゃるように、まず疑われるのはゴロネンコです。では、それがわかっているなら、なぜ、何の目的があってこんなリスクを冒すというのです。」

    「小田君、これは政治家でなければわからないだろうが、取引としてはちょうどいい玉だったということだ、ゴルバーは。」

    「取引ですか。何か要求があったということですか。」

    「いや向うからはないだろう。それが誘拐犯とは違う。そういえば、以前にもこんなことがあったな、あの時は売れ残りのキムチを大量に買い取ることで決着した。親父がいきなりキムチを大量に持って帰ってきて、それがかなり酸っぱかったのをおぼえている。」

    「あの事件は憶えています。私たちにもキムチが配られてきました。三ヶ月ほどいろんな料理法で食べましたけど、私は古くなって酸味がきつい方が好きですね。」

    「ほう小田君、君もたまには人間くさいことを言うんだな。」

    「これはあくまで私的会話の範疇です。私は業務には個人的感情は挟まないようにしていますから。」

    「相変わらず堅物だな。まあ、今回は食べ物というわけにはいかないだろう。ただでさえ食糧難の国だからな。とにかく、まずは下手に出て連絡を取ってみてくれ。」

     

     小田は通信機器の接続を何やらいじくり回し、マッハ5550の前に座るとおもむろにキーボードを叩き始めた。

    「それで通信ができるのか?」

    「ええ、パソコンで文字を打ちそれを電気信号に変換します。そしてテレックス回線を使ってクレムリンに送信します。もちろん直接的な表現は避けていますが、先生がおっしゃるように相手が予測ずくならすぐに理解するでしょう。」

     ほどなく、壁一杯の機器の隅っこにある小さなラジオのような機械から何やら信号音のようなものが返ってきた。

    「なんてことだ、今時モールス信号で返事をしてきたぞ。」

    小田はあわてて機械に駆け寄ると、そばにあったヘッドフォンを耳に当て聞こえてくる音を書きとめ始めた。

     

    「なんて言ってるんだ。」

    「お待ち下さい。暗号がかかってるようです。」

     小田が何やら辞書のようなものを取り出し、書き取ったメモに赤鉛筆で印を付け始めた。

    「読みます。『商品(キャビア)は、特別輸出品に指定された。当方で検品のため一時預かる。そちらの晩餐会で供される予定なら、早めに検品処理してもかまわない。ただ人件費がかかる為、その費用は支払ってもらうことになる。』と言ってきてます。」

    「なんだまた食べ物か、今度はキャビアときたもんだ。こちらの晩餐会だと。寿司にキャビアなんぞ使う訳がない。ふざけた言い回しだ。」

     カザミは少しいらついた表情で、薄くなった頭をかきながら何事かを考えていた。

    「先生、続けて要求がきました。読みます。『商品の代金と、検品を急ぐエキストラチャージで50万ドルになる。指定する銀行口座へ3日以内に振り込めば、商品も腐る事なく、豪華な晩餐会を開けるだろう。』指定口座は後から送ってくる、とあります。」

    「50万ドルだとっ、しかもドルかよ!いったいキャビア何年分だ。エキストラチャージだと、ますますふざけた奴らだ。」

    「先生、ここは冷静にお考え下さい。人の命がかかっています。」

    「お前に言われなくとも分かってる。しかし要求をそのままのんではこの国を背負って立つ政治家とは言えん。」

     その毅然とした態度に、少し頼もしさを感じながら小田が聞いた。

    「それでは突っぱねましょうか?」

     カザミは腕を組み、5550のモニターを見つめながらきっぱりと言った。

    「少し値切れ。」

     小田は再び椅子に座り直し、少し間を置くと、黙ってキーボードを叩き始めた。

     

     喫茶ジュネーブには張りつめた空気が漂っていた。

     3人の官僚達はどうすればいいのか分からず、使えもしないパソコンの前に座り、マウスとキーボードに手をやりながら小田のモニターを注視していた。

     誰も言葉を発しない緊張感の中、小田が打つキーボードの音とスピーカーから流れてくるモールス信号の音だけが、そこで何かが行われている事を教えてくれた。

     

    「そのまま読みます。『チョウザメ乱獲によりキャビアは高騰している。20では到底商売にならず。30なら組合も折れるだろう。』ここらが妥協点ですか。」

    「何が組合だ。軍隊もった組合がどこにある。まあいい、30で手を打て。」

     カザミが苦々しく言うと、小田はキーボードを打ちながらつぶやいた。

    「どうやら振り込み口座はスイス系ですね。ソ連でも裏金はアルプスの根雪になるという訳ですか。通信相手は名乗ってませんが、この回線は書記長室ダイレクトですからこんな回りくどい言い方をしなくてもいいのに。」

    「いや、政治は化かしあいだ。こんな茶番をさも大事のように芝居を打ってくる。しかもそれが回りくどいように見えて、実は官邸ダイレクトという表玄関から爆弾を投げ込んでくる。怯んだら負ける。奴らの芝居に乗ったと見せて、こちらの頃合いでおりるのが妙というものだ。」

     小田はその名言を聞き流しながらメモを取り終えると、カザミにそれを見せながら何やら小声で相談をはじめた。

     事態が収束へと向かい始め、喫茶ジュネーブの緊張も和らぐと、

    やり取りを傍観していた田中がぼそっとつぶやいた。

    「我々にもキャビアは回ってくるのかな...」

     

     官邸別館を出たセンチュリーにカザミと小田がいた。

    「先生、今回の首謀はゴロネンコでしたが、実行犯はロシア人ではないですね。」

    「ほう、どうして分かる。」

    「SPから上がってきた報告では、ゴルバーさんを連れ去ったのはアジア人だったという事です。確かにロシア人が大勢で動いていては目立ちますから。」

    「そうか。まあ、中国辺りのマフィアでも使ったんだろう。仮に失敗しても中国のせいにできる。奴らの考えそうな事だ。」

    「そうですね。でも失敗して表沙汰になっていたらもっと大変なことになっていたかもしれません。マスコミにも知られず、これで済んだのはよかったのかもしれません。」

    「いや、まだ終わってないぞ。ゴルバーが解放されてその無事を見届ける義務がある。それは小田君、君に任せたぞ。」

    「分かりました。奴らは解放場所を後で指定してくると言ってました。先生の推理が正しければ、多分中国のどこかでしょう。すぐに準備に入ります。それにしても今回の事で、ムジーナの絆というのは強いという事を思い知りましたよ。」

    「まあ同じ釜の飯を食ったというのもあるが、私の予想では、ゴルバーは将来ソ連をしょって立つ人物になる。今のうちに貸しを作っておけば、お互いが元首となった時に役に立つ。仕込みは早いうちからやっておくものだ。」

     カザミの言葉に軽い畏敬の念を憶えつつ、小田が聞いた。

    「多分、当面はゴロネンコの時代になるでしょうが、やつの政治手腕と人脈はそれほどでもないと外務省からの報告で分かっています。そうであればなおさら強引に取り巻きの入れ替えをやるでしょう。今回の裏金はその時使う資金の一部に違いありません。ただ、その舵取りを失敗するとすぐに足下をすくわれ、失脚の可能性は大きいと分析しています。」

    「そうすればゴルバーが担ぎだされる、という流れか。ムジーナ卒業の肩書きは強いからな。取りあえず小田君、ゴルバーには今回は騒動を解決する為にかかった費用は全て私のポケットマネーで出したと言っといてくれ。まあ、いずれ何倍にもして帰してもらうつもりだがね。」

     そう言ってにやっと歪んだ笑みを見せたカザミに、少しでも尊敬の念を抱きかけた小田は、自分の愚かさを恥じた。

     

    第八章 九龍の迷い人、友人たちの救いの手

     意識が少しずつはっきりしてくると、ゴーッという何やら大きな機械音が聞こえてくる。目を開けると汚い狭い部屋の中、シミだらけの壁になぜだか丸い窓。体がやけに揺れる。ここはどこだ。

     ゴルバーは身を起こして、横たわっていたベッドから立ち上がろうとした。

    「あ痛っ!」

     2段ベッドの上階に思いっきり頭をぶつけたゴルバーはその場にうずくまった。ベッドの縁に腰をかけ、頭を抱えていると何かが窓を叩く音が聞こえる。頭をさすりながら丸窓のところへいくと、白い水しぶきが窓を叩いては洗い流して行く。それにあわせて足下も揺れている。これは、まさか海?だとすれば船の中か?

     これまで水上の乗り物と言えば、手漕ぎのボートしか乗った事のないゴルバーは、そのつたない知識でなんとか状況を見極めようとしていた。そこにドアが開き、大柄な男が二人部屋へ入ってきた。

    「どうやら目が覚めたようだな。」

    「酒のせいか、睡眠薬のせいか、こんな状況なのに大いびきをかいて寝てたぜ。あんた大物だ。」

     そう言って大男達は手を叩きながらガハハと豪快に笑った。

    「いったい君たちは何者だ。僕をどうするつもりだ。」

    「ひやーっ、出たーっ、誘拐にお決まりの台詞。」

     そう言って、またしても大男達はハイタッチしながら大声で笑った。

    「何なんだ。君たちは、僕を誘拐したというか。」

    「あれっ、気づいてなかったのか。お前は俺たちに誘拐されたんだ。そしてここはもう公海の上を航海中。」

    「なんだそりゃー、下手なシャレー。」

     そう言って、足をバタバタさせながら抱き合った大男達は三たび笑った。

    「いい加減にしないか。僕はソ連の共産党員でゴルバーというものだ。君らに誘拐されるいわれはない。はずだ..。」

    「そうかい、ソ連のゴルバーさん、耳の穴かっぽじってよ〜く聞くんだぜ。俺たちはそんな事はあんたを誘拐する前から、知ってたぜ。」

     そう言って四たび笑おうとする二人を制して、ゴルバーは言った。

    「これは大きな国際問題だ!」

     せっかく楽しもうとしていた大男達は、やれやれという表情になり、一人がこういった。

    「俺たちは盗賊だ。その中でもアラビア海からオホーツク海までを担当する海上組、つまり海賊ってこと。ソ連とどこかの国が問題起こそうと何にも関係ない。」

    「そうさ、公海上を走ってる分にはどこの国にも属さない。しかもどこかの港に入る時にゃあれっきとしたシンガポールの貨物船さ。船籍はリベリアだけどな。よくある話だろ。」

     今度は、二人は目を合わせてにやっと笑った。

    「その海賊が何の為に僕を誘拐するんだ。」

    「何を子供みたいな事言ってんの。海賊の目的はたったひとつ。『お金』に決まってるだろ。」

    「うちはモスクワでも平均的な家庭で、貯蓄はそんなにない。」

     真顔で答えるゴルバーに、大男は言った。

    「誰がお前の家族に金を出せと言った。さっきまでお前がいたろくでもない国の、ろくでもない奴らが、公にはできない金を持ってて、その使い道のひとつを教えてやったって事さ。」

    「日本人が僕の為にお金を出すはずがない。ソ連の共産党なら分からないけど。」

    「おやおや、同士が助けてくれるってよ。」

    「能天気な共産党員だ。ホントに出世頭なのかぁ?」

    「どういう意味だ?我が党が何か絡んでるのか?」

    「まあ、知らぬが仏というからな。もうすぐ陸につく。お前は何も見なかった、何も聞かなかった。それでいいな。そうしないと、ホントに仏様になっちまうぜ。」

    「うまいこと言うぜ、兄弟。」

     二人がまた笑い出そうとするので、今度は大声でゴルバーが言った。

    「今すぐに僕を解放しないと、ホントに後悔することになるぞ!」

    「驚いたぜ、こいつシャレを言いやがった。しかも下手な。」

    「公海上を航海中に、俺たち後悔するのか〜。」

     今度は間髪入れず、二人は小躍りしながら思う存分大笑いした。その時、ゴルバーは一人のすねを蹴り上げて、すかさずドアの外へ飛び出した。

    「痛てーっ、なにしやがるぅ。」

     その声を背に、ゴルバーは狭い廊下を走った。

     突き当たると廊下は右に折れ、また突き当たると今度は左。そしてその先に上階へと続く階段があり、ゴルバーはそれを一気に駆け上がった。上の階に着くとまた長い廊下が続き、まるで方向も分からないままに走り続け、気がつくと廊下は行き止まり。小さな鉄の扉が目にとまった。ゴルバーはやり方も分からずそこにあるレバーを押し上げ、扉を押した。まぶしい光に目が眩む。暑い空気が体を包み一気に汗が吹き出る。太陽が照りつけるそこは、船の甲板だった。

    「昔レニングラードに遠足で行って、はじめて海の‘にほい’を嗅いだっけ。ここはそれよりもっと濃い‘にほい’がする。だけど、これも海なんだ。」

     ゴルバーの脳裏には一瞬、幼い頃の淡い思い出が蘇り、お昼時に広げたピクニックバスケットの中から黒パンを取ろうと手を伸ばした。その手が何かをつかみ、まぶしさになれた目が真下に広がる青黒い海を認識した時、ゴルバーは自分の置かれた状況を把握した。

     回りを見渡すと人の気配はない。ゴルバーは船縁の手すりをもちながら船の進行方向、船首へと歩き出した。揺れるデッキに足を取られながら、何度も転びながらようやく先端部へたどり着き、手すりをもって海に目をやったゴルバーは「ああっ」と唸った。

     視界の220度全面に海が広がり、その向こうにはいくつもの入り組んだ入り江のある半島が間近に迫っていた。そしてその風景は、どこの国かは分からないけど今まで行った事のない異国の情景だった。

     もちろん、海側から陸を見るのはこれがはじめてだった。

    「海の上で逃げられると思ったのか。」

     その声にゴルバーが振り向くと、大男達がニヤニヤ笑いながらたっていた。

    「何なら今すぐ解放してやってもいいんだけど、お前泳げんの?陸が近いと言ってもまだ数キロはあるぜ。」

     その言葉にゴルバーは我にかえった。

     モスクワ大学時代、いつも水泳は赤点だった。とにかくプールが苦手だった。端的に言うと、ほとんどカナヅチだった。

    「待ってくれ。正直に言うと泳げないんだ。できたら小さな手漕ぎの船でもかしてくれないか。」

    「手漕ぎって、避難用ののボートか?」

    「ありゃ16人用だ、一人じゃ漕げない。何なら手伝ってやろうか。」

     二人がデッキにあるボートを指差しながらそう言った。

     少し冷静さを取り戻してきたゴルバーは毅然とした態度で二人に聞いた。

    「君たちの名前は?」

     いきなりそんな事を聞かれると思ってなかった大男達は少し面食らった様子で顔を見合わせると、一人が言った。

    「名前ってか。まあいい、冥土の土産に聞かせてやろう。俺はリュウ、こいつはコウ。二人あわせて竜虎並び立つという訳さ。」

     何の訳なのか、なぜコウが虎になるのか分からなかったが、どうやら観念しなければならないとゴルバーは悟った。

    「やっぱり殺るつもりか。君たちは中国人だろう。なぜ同胞の士を殺す。同じ共産主義国だというのに。」

    「確かに俺たちは中国人だが、言ったろ、もはや国籍は関係ない。それに「殺す」とは人聞きの悪い。いつ殺るって言った。」

    「今、冥土に土産にと言っただろ。」

    「なーんだ、ありゃあいつもの決まり文句で、大体こういう場面では言うことになってるんだ。知らないのか?」

    「まあいいさ、どうやらお前には免罪符がおりたようだ。とにかくもう一度おとなしくしてもらうぜ。これから港に入るんでね。」

     そう言ってにじり寄ろうとする男達に、ゴルバーは精一杯の抵抗を見せ、さらに毅然とした態度で聞いた。

    「ひとつ教えてくれ。こんな文明社会に、もうすぐ新しい世紀が来るという現代に、なぜ君たちのような盗賊が生き残こっているんだ。中国はあんなに強力な軍隊をもちながら、なぜ君らをのさばらせておくんだ。」

    「だから俺たちは中国とは何も関係ないと言っただろ。それに今の中国を作ったのは、歴史上でもまれに見る大盗賊なんだぜ。それも知らなかったのか?」

    「いったい誰の事だ?」

     やれやれという顔をしながらも、素早く二人はゴルバーを両脇から掴み一人がハンカチを口に当てた。薄れ行く意識の中で、リュウがしたり顔で答える声が聞こえた。

    「教えてやろう。それは『毛・沢・東』だ。」

      

     なんだか夢を見ていたようだ。そう夢の中でつぶやきながら、ふと自分が船の中にいる事を思い出し起き上がろうとした。一瞬手で頭を守る姿勢になり、そこに何もないことに気がつくと、ゴルバーはベッドの上で頭に手を乗せたまま座っていた。

     目だけをぎょろりと左右上下に動かし辺りをうかがうと、そこは薄暗い部屋の中、でも窓は四角い。すぐに隣のビルの壁が見えている。どうやら海の上ではなさそうだ。何か物音が聞こえる。街の音だ。

     ゴルバーはベッドから立ち上がると外に続くと思われるドアの取っ手を回した。少し開けて片目で覗いてみる。誰もいない。そおーっとドアを開け、顔を出し左右を確かめる。どうやら薄暗い長い廊下の左右に同じようなドアがある。ホテルのようだ。

     ゴルバーは意を決して廊下に出ると、靴音を立てないように灯りのあるほうへと歩き始めた。少し広くなったそこには階段があり、下を覗き込みながら一歩ずつ降りて行く。誰に出会う事もなく、ロビーらしきところに降り立つ。

     回りを見渡すと少しヨーロッパ調の内装は薄汚れ、所々はげ落ちている。小さな木のカウンターがあるフロントらしきところには誰もいない。古びた木製のソファーが置かれたロビーにも人影はない。目をやると年代物の木枠に磨りガラスの嵌ったドアがある。どうやら出口のようだ。ゴルバーはもう一度辺りをうかがうと人気のないのを確認して、一気にロビーを横切りそのドアを押した。

    「これはっ」

     ゴルバーの目に飛び込んできたのは、極彩色に彩られた看板が空から降ってくる風景。道には車や人が溢れ、怒号とクラクションと爆竹の音が飛び交い、肉の焼ける匂いと野菜を蒸す匂い、そして下水の匂いが入り交じり、ここには一度来たことがある。そんなデジャブを呼び起こした。

    「サンフランシスコのチャイナタウンだ。」

     ゴルバーは一瞬、あの『荒野の蜃気楼』での光景を思い出した。

    「いや違う。規模が違う。世界全体が大きなチャイナタウンのようだ。」

     あまりの喧噪に、未だ状況が飲み込めないでいるゴルバーの前を、天空の看板すれすれに2階建てバスが走り抜けて行った。

    「えっ、ロンドン?ここはロンドンのチャイナタウンなのか?」

     ありったけの経験と知識を動員して、ゴルバーはこの状況を把握しようと必死だった。そして、回りを見渡しながら看板が英語と漢字で書かれている事に気づいた。

    「やっぱりロンドンか。それならサッチャンが助けてくれるはずだ。」   

     こんな時、人はやっぱり一番甘い夢を見るのだろうか。ゴルバーはふらふらと道路に沿って歩き始めた。しかし、すれ違う人は皆黄色人種ばかり。いくらチャイナタウンでも少しはイギリス人がいても良さそうなのに、とゴルバーが思った時、

    「サッチャン大勝利!」と叫ぶ声が聞こえてきた。

     えっと、その声のほうを見やると、点心のオープンカフェに置かれたテレビの中で、興奮したイギリス人キャスターが大声で叫んでいた。

    「この度の選挙において保守党を大勝利に導き、自らも大英帝国初の女性首相となったサッチャンは今、高らかにイギリス経済の復活を宣言しました。これは新しい時代の幕開けに違いありません!」

     ゴルバーはテレビの近くに駆け寄ると、その放送を食い入るように見つめた。そこに腰までスリットの入ったチャイナドレスを着た美女が近づいてきて言った。

    「ご注文は?」

    「えっ?」

    「ですからご注文は何でしょう?」

    「いや、君もこれを見ただろ?サッチャンが、あのサッチャンが首相になったって。」

    「知ってます。それで、ご注文は?」

    「ええっ、今決まったんじゃないのかい?」

    「もう先週から何度も同じ放送ばかりで、私はブルースの映画が見たいですけどね。で、ご注文は?」

     チャイナドレスの美女は、ちょっとイライラした口調で言った。

    「君もロンドンに住んでるんだったら、もっと関心を持ったらどうなんだい。」

     ゴルバーも少し強い口調で切り返した。

    「ロンドン?あなたテレビの中からでも出てきたの?ここは香港よ!で注文は!」

    「香港、って中国の香港?」

     ゴルバーはあっけにとられて、間の抜けた声を上げた。

    「中国だけどイギリス、イギリスだけど中国。体は取られても、魂はここにある。そう言えばアメリカ人のあなたにも分かるかしら。取りあえずショウロンポーとビールとケチャップをお持ちします。アメリカ人は皆そうなの。」

     そう言って美女はきびすを返し、奥の厨房へ注文を伝えに行った。

    「香港だって。エーっ、アメリカ人?」

     思いもしなかった地名と、言われた事のない国名にゴルバーは唖然とし、ただ口を開けてテレビを見返すしかなかった。

     

     確かにテレビでは同じニュースを何度も繰り返し流していた。

     少し冷静さを取り戻したゴルバーは、出されたビールを少し飲み、ショウロンポーをケチャップではなくテーブルにあった黒酢につけて食べていた。回りを見渡すと、鳥かごを持った老人達が小さな蒸篭に入った点心をつまみに、小さな陶器のコップでウーロン茶を飲みながら、四方山話に花を咲かせていた。時折、腰までスリットの入った美女達が磁器のポットでお茶を注ぎ足し、追加の注文を聞いて回っていた。

     イギリス統治下とはいえ、遥か彼方のロンドンの出来事なぞ、箸でつまんで口に運ぶつまみ程度のものなのだろう。時代がどんなに動こうとも我が道を行く中国人達の、それが強さなのかもしれない。

     ゴルバーはふと、お金を持ってない事に気がついた。あわててポケットを探ると何やら紙片が。取り出すと、それは香港ドルだった。リュウだかコウだかが入れたのだろう。奴らはいったい誰に頼まれて、あんな事をしたんだろう。ゴルバーは机に置いた紙幣をじっと見ながら考えていた。するとさっきとは違う、腰までスリットの入ったチャイナドレスを着た美女が近づいてきて、陶器のコップを置くとジャスミン茶をなみなみと注いでくれた。

    「ああ、ありがとう。」

     ゴルバーは笑顔でそう言うと、暖かいジャスミンの香りのするお茶を少し口に含んだ。なんだかロンドンであのとき、ほんの少し触れたあのブロンド、あのドレス、あの笑顔、そうサッチャンの‘にほい’のようだ。ちょっとセンチな気分で杯を置くと、美女が言った。

    「何かご注文は?」

     

     今にも崩れそうなビルのそのまた上にビルを継ぎ足し、まるで誰も次の一本には触りたくもないジェンガのような建物が両脇に続き、道を挟んでそのビルとビルのあいだにはギラギラに彩色された広告と洗っているのに薄汚れている洗濯物がはためく香港の通りを、あのロンドンバスで走りながらゴルバーはダマ師の事を思い出していた。

    「師は身を以て体験せよとおっしゃった。この数日の事は確かにすごい体験だ。でもこれから何が分かるというのか。何を学べというのか。こうしているうちにサッチャンはイギリスの首相になり、やがてレーゴンやカザミやゴールでさえ...。」

     ゴルバーはさっきのカフェで聞いたソビエト領事館の住所を書き留めた紙を見つめた。

    「今は一度帰って事の真相を突き止めるべきなんじゃないだろうか。それともこのまま旅を続けるべきなんだろうか。」

     ハムレットも感じただろう同じ葛藤を胸に、ゴルバーは領事館近くのバス停へと降り立った。

     石造りのゴテゴテとした装飾がいかめしいその門構えはいかにもロシア人という風体の看守が2名立って、行き交う人々を睨みつけていた。通りを挟んでその様子をうかがいながら、行くべきか行かぬべきかまだ迷っていたゴルバーが意を決して道を渡ろうと一歩踏み出したその時、突然目の前に黒塗りのロールスロイスが急停車した。ゴルバーは一瞬身構えた。後部座席のドアが開き、中から聞いた事のある声が聞こえてきた。

    「ゴルバーさん、乗ってください。」

     小田だった。

    「あっ、小田さん。どうしてここに。」

    「説明は後です。とにかく車に乗ってください。ここは危険です。」

    その様子に気づいた領事館の看守達が車を睨んでいる。ゴルバーは急いで小田の横に乗り込んだ。車は静かに走り出した。

     

    「どうしてここへ?」

     ゴルバーが同じ質問を投げかけた。

    「我々は、東京であなたが消えてからずっと後を追っていました。最初は見失ってしまったんですが、途中からは大体の居所を掴んでいたんです。誰が首謀者かも含めてね。」

    「えっ、いったい誰がこんな事を!」

    「信じられないでしょうが、いや、聞けば納得するんだと思いますが、ゴロネンコです。」

     小田の答えに、力を抜いてシートに深く身を沈めたゴルバーは、大きく「はあーっ」とため息をついた。そして独り言のように言った。

    「僕を殺したところでどうなる事でもないのに。」

     そんな表情を全く意に介さず小田は続けた。

    「これはカザミ先生の勘が当たっていたんですが、ゴルバーさんは取引の道具に使われたんです。ゴロネンコの目的はあなたの命ではなく『お金』。政治基盤を固める為にはお金は不可欠ですから。なり振りかまわず危険な事をしてきたという訳です。」

    「それで日本は僕の為にお金を払ってくれたという事ですか?」

    「正確に言うと、日本政府はおろかマスコミもこの事は知りません。今回の‘キャビア’の代金は、全て先生のポケットマネーから出されたものなんです。」

    「キャビア?僕はキャビアなんですか?ゴロネンコも訳の分からない事をするもんだ。乱獲が問題になっているというのに。」

     やや的外れな感想を指摘する事なく小田は続けた。

    「とにかく、今回の件は一応のかたを付けてあります。ただあなたが今、ソ連に帰るのは大変危険だということで、ご友人の一人からある提案がカザミ先生のもとに届いたんです。これからそのご友人の元へあなたをお連れします。その先のことはその方からお話があるはずです。いずれにしてもしばらくは身を潜めているのが安全なのは間違いありません。それからここに幾らかのお金をご用意しました。これもカザミ先生のポケットマネーからですが「政治家としての最低限の威厳を保つように」という伝言付きです。」

    そう言って小田は分厚い封筒を手渡した。

    「そうか、ゴロネンコのやつは執念深いから確かにしばらくは身を潜めていたほうが安全かもしれない。それにしても今回の事ではカザミに迷惑をかけてしまった。彼も基盤固めにお金がいるだろうに、ポケットマネーで僕を助けてくれるなんて、やはり持つべきものは友達だ。」

     ゴルバーは少し目を潤ませながらそう言ってハンカチを探した。

     真新しい白いハンカチをすっと差し出しながら小田は続けた。

    「ゴルバーさん、ここからは私との私的な会話として聞いてください。そして忘れてください。」

     小田の突然の提案にゴルバーは目を拭いながら言った。

    「聞いて忘れるなんて難しい話だけど、いったいなんですか?」

    「今回の件は確かに先生の機転で解決をみました。ただポケットマネーというのはちょっと違って、本当は『政府開発援助(の裏金)』から出したんです。先生の指示でどうにでも動かせるお金なんでポケットマネーと言えなくもないんですが、その実は税金なんです。」

    「そうなのか。日本の皆さんの税金で僕は助かったのか。いつか恩返しをしなきゃいけないな。でもそれを使ってでも僕を救ってくれたカザミには、やっぱり感謝しなきゃいけないですね。彼にもいつか必ず恩返しをすると、そう伝えてください。」

     なんて純粋なのか、はたまたとんでもないバカなのか。小田はゴルバーのその言葉に自分とは違う器を感じて、わずかに人間性を見せ始めた。

    「ゴルバーさん、あなたから見ると我々官僚は何でも上の言うことを聞くロボットのように見えるかもしれません。日本人って多かれ少なかれ皆そうなんです。上司には従うのが当然。個人では思ってる事でも口に出しちゃいけない。でも口に出さないだけでちゃんと考えてはいるんです。我々官僚なら国民の事、そして家族の事、そして世界の事。でもね、やっぱり大臣が変わる度に右向け左向けって、それに従わざるを得ない。ただ怖いのは、みんながいやいやそうしてるかっていうとそうでもなくて、ちゃっかり政治家をコントロールして自分の意見を通したり、果ては天下り先という引退後のポストまで自分たちで作ってのうのうと税金を食い物にする。分かっているけどどうすることもできない。自虐的なことを言うようですが、一部が腐っているならやりようがあるんですが、全てが腐ってしまうとそれが当たり前になって誰もが見て見ぬふりをするようになるんです。」

     小田の意外な懺悔をしみじみ聞きながらゴルバーは諭すように言った。

    「無理をすることは無いんですよ小田さん。あなたはあなたの役割を果たせばそれでいい。自分の仕事のこと、そして家族の事をちゃんと考えていればいい。国の仕組みや他国との関わり、世界の事はやっぱり我々政治を志すもの達がしっかりと考えていかなきゃいけないと思うんです。まだまだ力は足りないかもしれないけど、いずれ『宇宙の目』を持って地球を眺め、真理を持って世界を幸福にする。僕らはそのための使徒なのかもしれません。」

     おやっ、どこかで聞いた事のある台詞を言ってしまったと思いながらゴルバーは演説を終えた。

    「宇宙の目ですか。なんだか政治家というより宗教がかった感じがしないでもないですが、社会主義者のあなたがおっしゃるとちょっと違ったニュアンスなんでしょうね。肝に銘じておきます。」

    「いや、ちょっとムジーナの師の言葉を引用してしまいました。」

     ゴルバーは恥ずかしそうにそう答えた。

     

     二人を乗せた車は香港のダウンタウンを走っていた。

    「ゴルバーさん、このあたりは雑然とはしていますが比較的治安もよく、外国人も多く住んでる場所です。ちょっと場違いな雑居ビルの前にお止めしますが、ゆっくりとした足取りでビルに入りここに書かれてあるお部屋へと向かってください。」

     小田はそう言ってメモをゴルバーに渡した。

    「何から何まで、本当にありがとう。いつか必ずお返しをします。」

    「いえ、それは全く考えないでください。私に取っては仕事ですから。それより最後にひとつ、ちょっと耳の痛い事かもしれませんが言わせてください。」

     かしこまった小田の言葉に、ゴルバーはちょっと身構えながら言った。

    「ええいいですよ、なんでしょう。」

    「あなたの卒業旅行はとてもいい事だと思っています。でもあなたのお友達だけを訪ね歩くのは、今の政治家達がやっている視察旅行と大してかわりがありません。皆さんはいわば上層階の方々ばかりで、案内してくれるのは表層の部分にすぎません。本当の民意や、社会の状況を見るにはもっと庶民の中に入っていかなければダメだと思うんです。私も、いつもカザミ先生をはじめ多くの政治、経済のトップの方々と仕事をしていると、自分がまるで国を動かしている錯覚に陥ってしまうことがあります。10億、20億というカネをまるでお昼の弁当を買うかのように簡単にあつかってしまう。だから、これは自戒の念も込めて言わせて頂きます。」

     小田はしっかりとゴルバーの目をみて、そう言った。

    「ありがとう。小田さんの言わんとする事は僕も肝に銘じておきます。政治家って以外と苦労してきた人が多いんですよ。でも一度権力を手にすると人が変わってしまう政治家が多いのも確かです。僕は今の気持ちを忘れる事なく、ちゃんと世界を見てきますよ。また必ずいつかどこかで会いましょう。」

     そう言って二人は力強く握手を交わした。

     

     しばらく車の走り去った方向を見やりながら、ゴルバーはゆっくりとビルのエントランスへと歩き始めた。ただ、その足取りは心なしか重かった。ビルに入るとメモを見た。「5Fユニバーサル貿易」とある。エレベーターを探し5階へと上がる。少しくすんだ壁が古さを感じさせる廊下を歩き「ユニバーサル貿易」と書かれたドアの前に来た。ちょっと躊躇った末に意を決してノックする。

    「どうぞお入りください。」

     穏やかな男性の声が聞こえ、ドアが開いた。ゴルバーが中に入ると、ブリティッシュ・トラディショナルに身を包んだ初老の男性が軽く会釈した。

    「お待ちしてました、ゴルバーさん。どうぞ奥へお入りください。」

     廊下を進むと少し広めの明るいリビングルームが現れ、ソファーに一人の女性が座っていた。

    「サッチャン!」ゴルバーはそう言って絶句した。

    「久しぶりね、ゴルバー。ほんと久しぶりなのに名前を呼んだだけで絶句だなんて、つくづく無粋な人ね。」

    サッチャンは少しイタズラっぽく微笑みながら立ち上がった。

    「まさか本当に君がいるとは思わなかったから、びっくりして何を言っていいのかわからなくて。」

     たどたどしく言葉を並べるゴルバーを尻目に、サッチャンはテーブルのカップに紅茶を注ぎ、話し始めた。

    「まあ少し落ち着いて紅茶でも飲んで。ことの経緯はカザミから聞いたわ。大変な経験をしたわね。でも命があっただけでも儲け物よ。物語の脇役だったら今頃はあの世でウォッカを呷ることになってたわね。」

    「えっ、これって誰かの筋書きなのかい?」

    「たとえ話よ。相変わらず額面通りにとっちゃうのね。でも誰かが書いた物語だとしてもあなた、ひょっとしたら主人公なのかも。だってあんな目にあっても生きてここにいるんだから。もっともレーゴンだって映画の主人公になれるんだから特別ってわけでもないのかもしれなけど。そうそうそのレーゴンからも伝言が来てたわ。「なんなら一個師団でも送り込もうか。まあ無事ならそれでいいんだけど。」だって。彼なりの照れ隠しってことかな。」

    「そうか、レーゴンまで心配してくれてたんだ。今回はカザミに助けられられたけど、持つべきものは友だね。サッチャンもわざわざ僕のためにここまで来てくれたんだから。」

    「そうね、あなたのためというのもあるし、私も立場上領地を視察して回らなきゃならない務めというのもあってね。」

    「あっ、そうだった。君はイギリスの首相なんだ。さっきニュースで見たけど、大変な時期にこんなとこにいていいのかい?」

    「こんなとこって、香港はイギリスの大事な領土よ。それに私はこれまでの腰の重い首相たちとは違って、自由に思うがままに世界を飛び回るつもりよ。もっとも今回はすぐにとんぼ返りなんだけど。」

     そう言ってサッチャンは少し不満げな表情で紅茶を啜った。

    「そんな忙しい時に本当にありがとう。僕はもう大丈夫だから安心して。」

    「そうでもないのよ。私が掴んだ情報では今回のことが表沙汰にならないようクレムリンが目を光らせてるらしいの。今あなたが目立った動きをすると何が起こるかわからないわよ。だからしばらくは私が、そう大英帝国があなたを匿ってあげるわ。」

    「ええっ、匿うって、そんなことして大丈夫なのかい?」

    「だから表向きには誰にもわからないようにするの。いい、しばらくはこれから私が書いた筋書き通りに行動するのよ。

     サッチャンはイタズラな生徒を諭すように言葉をつづけた。

    「まずあなたのポジションはここ「ユニバーサル貿易」の極東担当社員。本社はロンドンだから香港駐在ってことね。名前は「アルフレッド」。イギリス人よ。でもホワイトホール的には対社会主義国家対策コンサルタント。そう国家のアドバイザーという立場ね。いずれにしてもそういう建て付けで国家予算を使うから間違っても素性を見破られないようにしてよ。もちろん対ソ連ということではなんらかのアドバイスはお願いするつもり。あくまであなたの話せる範囲で構わないけど、建前論はよしてね。詳しいことはこのファイルに書かれてるのでよく読んで、憶えたら全部燃やしてちょうだい。」

     そう言ってサッチャンは一冊の分厚いファイルをゴルバーに渡した。

     「今度はイギリス人って、自分のルーツを見失いそうだよ。それにしても貿易会社の社員なんて僕に務まるんだろうか。ずっと党で働いてきたから民間の会社が何をしてるのかよく知らないんだ。それに国家のアドバイザーなんて、あまり党を裏切るようなことはできないし。」

     ゴルバーはパラパラとファイルをめくりながら怪訝そうに呟いた。

    「何を言ってるの。官僚も民間もやってることは同じよ。毎日書類を見て、気が向いたらサインして次に送る。難しいことなんて何もないわ。国家アドバイザーも同じよ。あなたの考え方を言ってくれればよくて、機密を聞き出そうとか誰かさんのスキャンダルを教えてなんてゴシップ紙みたいなことはしないんだから、もちろん裏切りにもならないし。とにかく今は自分の安全を第一に考えてほしいの。」

    「そうか、サインと自分の考えを話すだけでいいんならできそうだけど、ちなみに「アルフレッド」ってどういうスペルだっけ。」

    「そのファイルをよく見てね。サインなんてグニャグニャってそれらしく書けばいいのよ。それよりその格好はいただけないわね。スーツは何着かブリティッシュ・トラディショナルを用意してあるからそれを着てね。それから外では眼鏡をかけるようにして。変装というわけではないけど印象を変えた方がいいので、それもいくつか用意してあるから。一応車も用意してあるんだけど、あなたって免許は持ってるの?」

    「もちろん免許は持ってるよ。ヴォルガという国産車に乗ってたんだけど、85馬力もあって3段変速のセダンで、100キロ近くは出たんだ。デザインもモダンクラシックでヨーロッパにもずいぶん輸出してたはずだよ。君がドライブに行きたくなったらいつでも運転するよ。」

    ゴルバーは意気揚々と答えた。

    「まあ、ソ連でも女の子を乗せてドライブしてたの?それにしても85馬力って、トラクターか何かかしら。まあいいわ、運転できるなら外出はなるべく車でしてね。ビルの1階の裏手にガレージがあってそこに前の諜報員が置いて行った英国製の素敵な車があるからそれを使って。注意事項として色々とスイッチがついてるけど、基本的なもの以外は触らないでね。大変なことになるから。」

    「大丈夫だよ、ハンドルとアクセル、ブレーキ、クラッチ、そしてウインカー。それくらいしか使ったことがないから。」

     ちょっと時代がずれた感は否めないが、二人は少し楽しそうな表情で会話を交わしていた。そこにさっきの初老の男性が割って入った。

    「首相、そろそろお時間です。」

    「あらもうこんな時間。ゴルバー、ちょっとの間だったけど楽しかったわ。私は次の視察先に向かわなくちゃならないからそろそろ行くわね。今後連絡を取りたい時はそこにある電話を使うわ。ワン切りするからディスプレイに残った番号にコールバックしてね。」

    「ワン切りってなんだい?」

    「それもファイルを読んでね。しばらくは会えないけど、少しここで暮らして西側の文化にも馴染んでね。それから車の運転にはほんとに気をつけてよ。あなたが思ってるよりもずっとスピードが出る車だから。英国製の割には安全性は担保してないのよ。それじゃあまたね。」

     サッチャンはそう言い残すと、お付きの男性と急ぎ足で部屋を出ていった。ポツンと一人取り残されたゴルバーはボソッと「ありがとう」と言うのがやっとだった。

     

     貿易会社のオフィスだと思っていたが、入り口の横に会議室のような場所があるだけであとは普通のアパートのようだった。リビングの横に寝室があり、クローゼットには用意したと言っていたスーツやメガネや靴など一式が揃えられていた。リビングの反対側にはダイニングがあり、小さなキッチンもついていた。

     ゴルバーは部屋の中をひと鳥見て回ると、意を決したかのようにスーツへと手を伸ばした。しばらくして部屋を出るゴルバーのいでたちは、ブリティッシュスーツに着られていると言ってもいい風体で、ちょっと厚めの黒フレームサングラスはまるで3流スパイ映画に出てくる007もどきのように怪しかった。

     1階の裏手にあるガレージのドアを開けて車を見たゴルバーは一瞬たじろいだ。

     「なんだこの車は。ヴォルガとは比べ物にならないスポーティ感、そして未来感。前の諜報部員はこんな目立つ車に乗ってたのか。一体どうやって運転すればいいんだ。そうか、基本操作は一緒のはずだからゆっくり走ればいいんだ。」

     そう自分に言い聞かせてゴルバーは恐る恐る運転席に乗り込んだ。そしてキーを差し込みエンジンをかけると、ガレージの扉が自動で開き始めた。

     「なんだ?エンジン音に反応したのか、それとも誰か見てたのか?」

     少し周りを見渡して誰もいないことを確認したゴルバーは、これも諜報機関ではあたりまえの装置なんだと自分に言い聞かせアクセルを踏み込んだ。ゴォーという音と共にタイヤが空回りし、前に進まない。なんだこれは。焦ったゴルバーはアクセルを踏んだり戻したりしながら周りの機器を見渡した。そうか、サイドブレーキか。そう気付きレバーを外したその時、アクセルを目一杯踏んでいた車はけたたましいタイヤ音を上げてすごいスピードで飛び出した。目の前の道路を横切って正面のビルにぶつかりそうになるその瞬間、ゴルバーはハンドルを右に切り、テールが流れるの抑えるようにさらにハンドルを反対に切り返した。見事なカウンターを当てて車は大通りへと飛び出して行った。爆音を上げながら疾走する車の中で必死にハンドルを握りしめていたゴルバーはふと我に帰ってアクセルを緩め、少しブレーキを踏みながらスピードを安全速度まで落として行った。

     「そうか、車ってこんなに進んでるんだ。そういうことだったのか。」

     何かに目を覚まされたかのように呟いたゴルバーはさっきの急発進が嘘だったかのように落ち着いた表情を見せていた。体験したことのないスーパーカーでドライブしながら気づいたことはなんだったのか。これから始まる西側での生活に希望を見出したのか、それとももっと先の未来にすべきことを見つけたのか。何れにしてもゴルバーの目はイキイキと輝きを増し、口元には自然と笑みが溢れていた。やがてゴルバーは、香港の街並みを抜けて新世界へ続く道へとアストンマーチンのアクセルを踏み込んでいった。

    〈了〉

     

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