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嘘 ばかりの日常 全編


    あらすじ

    彼女は、最後まで信じようとした。
    夫は、嘘をついた。
    妻は静かに気づいていた。

    日常のすぐ隣で、静かに進む不倫の物語。
    三人の視点――「彼女」「夫」「妻」――から描かれる、一つの真実。
    全3章と、その裏側を補完する4つのエピソードで、逃げ場のないリアルを描き出します。
    第1章は彼女の章、第2章は夫の章、第3章は妻の章で構成。
    さらに、4つのエピソードで日常の細部や裏側を描き出します。
    それぞれの章で、共感できる人がいるかもしれません。
    あなたは誰の視点が一番気になりますか――?

    もう あなたの隣にいるかもしれない。

    第1章 彼女


    「お疲れ様!」

    休憩室で、聞き慣れない声に振り向いた。
    他部署の課長だった。

    カウンターで、飲み物を片手に会話を交わすうちに、
    いつの間にか世間話になり、気がつけばランチの約束を交わしていた。

    その時は、何も特別なことだとは思っていなかった。

    ━━━
    約束のランチの日。
    私は同じ部署の女の子を誘い、彼は同僚の男性を連れてきた。

    その男性は、微笑みながら軽く頭を下げた。
    思わず目を奪われた。

    白いガラスのテーブルに向かい合わせで座り、順番に自己紹介をした。
    その男性の順番になったとき、
    耳に残る心地よい低い声に、すっと顔を上げてしまった。

    彼が、水の入ったグラスを持った瞬間、"カチッ"、小さな音がした。
    そちらに視線を向けると、薬指に銀色の指輪が光っていた。

    ――既婚者……

    ゆっくり目を背けた。

    場は徐々に盛り上がり、帰り際には、次の約束を四人で確認し合っていた。

    それから四人で、時々飲みに行くようになった。

    最初に声をかけてきた課長は、私とペアになりたがる。
    いきなり、下の名前で呼んできたり、肩を組んできたり。
    顔は笑っていても、体が勝手に一歩引いてしまう。

    カラオケの帰りに、同僚の男性と二人になった。
    しばらく無言で歩いていた。

    ――話、聞いてもらおうかな

    私は足を止めた。 そして、彼の方を向いた。

    「あの……相談したいことがあって」

    彼は、少し驚いた顔をしていた。

    「彼のことでちょっと……」

    それを聞いた同僚の男性は、小さく頷いた。

    「彼は違ってた?」

    「ちょっと生理的に無理で……」

    「そっか、LINEで話す?」

    そんなやりとりをしているうちに駅に着き、それぞれの家路についた。

    帰りの電車に乗ると、すぐにスマホを開いた。
    「今日は聞いてくれてありがとう」

    すぐに彼から返事が届いた。
    「全然」「困ったら、俺に何でも言って」

    画面に並ぶ文字に、思わずスマホを両手で抱きしめた。


    それからは、「相談」という名目で食事をするようになった。
    LINEも、ほぼ毎日。

    自分で塗ったネイルが見えるように、グラスを握る。
    ベッドサイドのテーブルに飾ったお花をバックに、シャッターを切る。

    「晩酌してます」——送信。 彼はお酒が好き。

    「細くて綺麗な指だね」

    期待通りの彼の返信に、自分の指を見つめながら微笑んだ。

    「〇〇さん、かっこいいからモテますよね」

    既婚者であることを忘れて、会話を続けた。
    おしゃれに盛り付けた手料理の写真を、次々と送った。

    その度に、彼の反応を見て口元を緩ませた。

    そんなやりとりが、私を少しずつ深みに引き込んでいった。

    カラオケに行った時、手が触れるか触れないかの距離で歌う。
    触れそうになると、向かいの席に移って距離を置いた。
    触れそうで触れない、そんな関係がたまらなかった。

    だんだん彼は、距離を縮めようとしてくる。

    遊びに行った帰り、冗談っぽく、でも本気で伝えた。

    私の好きになる人の条件
    ・私を悲しませない
    ・期待を裏切らない
    ・惨めな気持ちにさせない
    「これ、守れない人は絶対アウトだよ」

    「そうきたかー」

    彼は、頭を掻きながら答えた。

    そんなやりとりが、日課になっていた。


    でも、この人は……
    心の中で、そっと踏みとどまった。
    その日、彼の誘いに乗らなかった。

    「じゃあ、明日は?」

    それも断った。

    「俺のこと、避けてる?」

    画面を確認した後、しばらく宙を見つめていた。

    「……少し、そっとしておいてほしい」

    彼を試すように、一歩引いた。

    「ごめんね。楽しくてつい」
    「そっとしておくね」

    彼の返事は、想像より穏やかだった。

    ━━━
    一週間が過ぎた。

    スマホが光る度に、反応してしまう。 休憩室で、背後まで意識してしまう。 でも、私の周りに彼の気配は感じられなかった。

    遠くに見える、彼の姿。
    私の心は、今にも走り出しそうになっていた。

    何度も彼とのLINEを見返しているうちに、我慢できなくなった。

    「今日ご飯行く?」

    すぐに既読がついた。

    "ブブッ"、スマホが震えた。

    「いいよ」

    画面を見て、ふっと一息ついた。
    ふわっと体が軽くなった。


    久しぶりに、テーブルを挟んで向かいに座る彼を見た。
    その瞬間、頬が少し熱くなった。 気づかれないように、視線を落とした。
    彼は私の顔を見るなり、仕事モードから、甘い表情に切り替わった。

    その日の帰宅後。 彼のことを思い浮かべながら、スマホを両手で持ってベッドに腰掛けた。

    「聞いてほしいことがある」と、打っては消すことを繰り返していた。
    何度か繰り返したとき、指が送信に触れた。

    心臓が跳ねた。

    慌てて取り消そうとすると、既に既読に……。

    "ピカッ"、「なに?」

    数秒で、返信が来た。 背中を押された気がした。

    「あのね……話があるの」
    「あなたが、聞きたくないことも言ってしまうかもしれない」

    そう伝えると、少し間を置いて、

    「会ったときに聞かせてほしい」

    「でも、言っていいのかな」

    「どうして?」

    「私は独身。あなたは……」

    「それが?」

    彼は、軽く受け流すように言った。

    「我慢しなくていいの?」

    そう送ると、すぐに返事がきた。

    「全部、受け止めるよ」

    その言葉を見た瞬間、私の中の何かが崩れた。


    付き合いはじめてからは、まさに夢心地だった。

    私を、一人の女性として扱ってくれる。
    連絡もまめに返してくれる。
    この前なんて、ヘアアイロンの調子が悪いと何気なく話したことを覚えていて、サプライズでプレゼントしてくれた。
    しかも、私の大好きな白だった。

    以前の職場では、全く女扱いされてこなかった。
    それだけに、こんなふうに大切に扱われることに、戸惑った。

    ーー彼を自分だけのものにしたい

    まつげエクステやカラコンで、自分を上げた。
    そして朝、彼からもらったヘアアイロンで髪を整えた。
    鏡に映る自分を見て、そっとうなずいた。

    私は、上目遣いで伝えた。

    「今まで生きてきた中で、一番の大恋愛だよ」

    彼も私の目を見ながらこう答えた。

    「愛とか恋とかより、もっと大きくて、すごく大切な気持ちなんだ」


    彼と仕事で関わることは、ほとんどなかった。

    コピーを頼まれて廊下を歩いていた。
    ふと聞き覚えのある声に足を止めた。
    会議室のガラス越しに、説明している彼の姿があった。

    ――私といる時の彼の顔を、見せてあげたくなるな


    その夜。LINEに並んだ彼からの言葉に、期待してしまう自分がいた。

    「じゃあその勢いで、私とゴールインしちゃいなよ」

    思い切って送信すると、すぐに既読がついた。
    でも、会話はそのまま別の話題へ流れていった。

    ――あれ?

    一瞬、指が止まる。
    その違和感に何も言えないまま、話題はどんどん進んでいく。

    「君が欲しい💕」

    彼が送ってきた言葉に、すぐに反応した。

    「じゃあ、戸籍ももらってよ」

    少し間が空いて、返信がきた。
    笑っているスタンプひとつ。「☺️」 そして、また別の話題へ。

    ――え??

    理解が追いつかずに、固まった。

    「戸籍はスルーされたな」
    冗談っぽく返した。

    「戸籍より、君のすべてが欲しいんだ」

    スマホの画面を見つめたまま、指がとまった。
    ……そのまま、ベッドにうずくまった。


    付き合って、三ヶ月。
    彼の口から、家庭の話は聞いたことがない。

    会社帰りは、ほとんど終電まで一緒。 休日も時々デート。 別れてからも、眠るまでLINE。

    「私の方が彼との時間は長い」
    そう思えば、朝までの時間も寂しくなかった。


    ある日。 食事中に、テーブルの上に伏せてある彼のスマホが震えた。

    「あ、仕事」

    席を立って、ガラスの扉の向こうに出て行ってしまった。

    戻ってくると、 「ごめん、今日急用ができて、これ食べたら出るね」

    「仕事?」

    「ん……会社に戻らないと」

    彼は、鼻を触りながら答えた。

    結局、駅で別れることになった。
    会社と逆方向の電車に乗っていった彼は、笑顔で手を振っていた。

    ――嘘つき……

    彼の乗った電車が、小さくなった。

    電車に揺られていると、"ブブッ"、スマホの通知がきた。
    「今日は急にごめんね。愛してるよ😘」

    電車の窓に、潤んだ目の自分が映っていた。


    会社帰り。 いつもの場所で待っていると、偶然会社の人と鉢合わせた。

    すぐにスマホを開いた。

    「〇〇さんがいたよ」

    すぐに返信が来た。

    「やばいね、場所を変えよう」

    その文字を見た瞬間、自分の頭に血が昇っていくのがわかった。

    そのまま彼と合流した。
    目が合うと思わず視線を背けた。
    しばらく黙って俯いていた。

    彼は顔を覗き込むようにして、言った。

    「どうしたの?」

    「......今日は機嫌悪いの」
    目も合わさないまま答えた。

    彼は何もわからないまま、いつもより饒舌に話題を振り続けていた。

    会話をしているうちに、少し落ち着いた。
    でも、気持ちは全く戻らなかった。

    最寄りの駅に着いて、バス停に並ぶ。

    ――……謝ろう

    「八つ当たりしてごめんね」

    返事は、「うん😊」とひと言。

    ――きっと彼は気がつかないのだろう……


    翌朝。 何事もなかったように振るまった。

    「おはよ☀️」「今日、お昼行ける?」

    少し間が空いてから返事が来た。
    「行けるよ👍 具合は大丈夫?」

    ランチのときに、彼から夜も誘ってくれた。

    ――鈍感な人でよかった。


    休日。 久しぶりに友達と美術館に行った。

    ――あっ、彼が好きそうな作品!
    彼に写真を送った。

    ━━
    三時間経った。

    「寝てるのかな……?」

    半日経っても未読。 拗ねたスタンプを送信。

    友達と別れて、ひとりになった。
    既読にならない画面をじっと見つめていた。

    ――ひとりで何をしてるんだろう。

    苛立ちが溢れて、指が勝手に動いていた。

    「別れよ」

    ━━
    朝になって返事が来た。

    「本気なの?」

    「だって、しんどいよ」

    「ごめん」

    「怒ってもないのに、謝られるの悲しい。
     何でしんどいのか、わかろうとしないんだね」

    その後、彼からの返信は途絶えた。


    翌日。 私は寝不足だった。
    連絡もせず、ただ時間が過ぎるのを待った。

    就業時間が終わり、会社を出たところで彼からの連絡がきた。

    「今どこ?」

    「……いつものところ」

    待ち合わせて、人ごみを抜けた。
    彼は何も言わず、ぎゅっと抱きしめてきた。
    私はされるがまま、抱きしめられた。

    その腕の中で、溜めていたものが一気に溢れた。

    「寂しかった」
    「私は隠れてなきゃいけない人間」
    「じゃあ、必要ないのかなって……」

    両手を背中に回して、彼の胸に顔を埋めた。

    その後、ホテルに誘われた。
    彼の温もりに包まれ、冷たかった身体に熱が戻ってくるのを感じた。
    その夜は、久しぶりにゆっくり眠れた。


    翌日から、いつもの日常に戻った。

    確かに、いつも通り。
    でもーー彼の接待や飲み会が増えて、会う頻度は少し減っていた。

    気にしないようにしていた。
    それでも、心の奥に小さな引っかかりが残った。

    LINEは、毎日送りあっていた。
    その夜も「おやすみ😘」で終わり、いつも通りの夜だった。

    翌朝、スマホを開いた。
    予想外の通知に、私は凍りついた。
    急いでLINEを開いた。 夜中二時に届いていた、一通のメッセージ。

    「おやすみ😘」の後に、
    「ごめん もう無理 終わりにしたい」

    「本気?」そう返信した。


    いつまで待っても、彼とのLINEに既読はつかなかった。


    泣き腫らしてひどい顔。 とても人前には出られない。
    しばらくリモート勤務に切り替えた。

    パソコンを打つ指にも力が入らない。
    ご飯も、喉を通らなかった。

    数日後。マスクをして出社することにした。
    遠くに、彼の姿が見えた。
    ズキッと胸が痛んだ。 一日中、彼を目で追っていた。

    休憩室へ向かう彼を見て、——今しかない
    私は席を立った。

    「少し話そう」 彼の背中を指先で触れながら、震える声で告げた。

    振り向いた彼の顔は、こわばっていた。
    ……少し沈黙が続いた後、目線を動かしながら彼は小さな声で言った。

    「いつものカフェで待ってて」

    カフェで向かい合った。 スカートを両手で強く握りながら、声を絞り出して聞いた。

    「なんで?」

    「ごめん、とにかくもう無理なんだ」

    彼はジャケットの袖のボタンを指で触りながら、繰り返した。
    視線は泳ぎ、終始窓の外を見ている。
    落ち着きなく足をカタカタとゆすり始めた。

    ――彼の目には、もう私は映っていない

    気づいたら、手を振り上げていた。

    パンッ!

    乾いた音が響いた。 彼の頬は、赤く染まっていた。

    私は感情に任せて、ひどい言葉を吐き捨て、その場を去った。
    手がジンジンと痺れて震えていた。

    ……そっと振り返った。
    窓際に座る彼は、スマホを片手に指を動かしていた。


    勝手に涙が溢れ出た。


    第2章 夫

    今回も昇給しなかった。

    同期の中でも成績は悪くない方だ。部下にも恵まれている。
    それなのに、何かが足りない。

    学費や家のローン。目減りしていく貯金。
    先行きに不安も残る。

    感謝されたいわけじゃない。
    必死で働いて金を稼いでいるのに、 家族に当たり前みたいな顔をされると、面白くない。

    家では、妻はフリーランスで生き生きと働いている。
    ――羨ましい

    気づけば、40代半ば。
    白髪も増えてきた。
    自分の姿を鏡で見て、少しがっかりする。

    家庭は安定していて、夫婦仲も悪くない。
    なのに、ポツンと取り残されたような気持ちが拭えない。 

    飲みに行くのは、仕事関係だけ。

    ――なんだか、つまらないおっさんになったな
    「このまま、終わるのか」


    朝、IDカードをタッチして社内に入った。
    喉が渇いたので、休憩室へ向かった。
    自販機で飲み物を選んでいると、背後から同僚に声をかけられた。

    「他部署の女の子とランチに行くんだけど、付き合ってくれない?」

    ――面倒だな
    そう思ったのが、正直なところだった。

    聞けば、相手は同僚が気になっている女性らしい。
    彼はバツイチで、彼女募集中。

    「頼む!」

    食い気味に言われて、少しだけ間が空く。
    ……断れなかった。


    ランチの日。テーブルに着くと、順番に自己紹介をさせられた。
    俺の順番が回ってきたとき、同僚が想いを寄せている彼女と視線が合った。 彼女は少し頬を赤らめて、すぐに視線をそらした。

    彼女は、みんなのお水やおしぼりをさっと取ってきてくれて、 タッチパネルのオーダーも自然にやってくれた。

    感じがよくて「気が利く子」という印象だった。

    そのまま四人で意気投合し、時々このメンバーで飲みに行くようになった。意外にも、若い頃のように遊ぶのが楽しかった。


    四人で行ったカラオケの帰り。 彼女と同じ方向で、二人きりになった。

    駅までの道、ネオンに照らされた繁華街を並んで歩く。
    しばらく、会話はなかった。

    沈黙を破るように、彼女が口を開いた。

    「相談したいことが……」

    少し驚いて、思わず足を止めた。
    「何かあった?」

    彼女は、同僚の距離感が近すぎて、困っていたようだった。

    ――ああ、そういうことか
    妙に、納得してしまった。

    「俺もちょっと気になってたよ、LINEで話す?」

    そう言うと、彼女はほっとした表情を見せた。


    彼女の「相談」をきっかけに、二人で飲みに行くことが増えていった。
    同僚には悪いけれど、別に悪いことをしているわけではない。

    妻は、もともと干渉しないタイプ。
    「今日は飯いらない」 そう連絡すれば、何も言われなかった。

    その後は、自然に互いを誘い合うようになり、
    LINEも、いつの間にか日課になっていた。

    ある日、彼女が俺の顔を見上げながら言った。

    「〇〇さんのこと、苦手って思う人もいると思いますけど」
    「最初に会ったとき、私は逆でした」

    「それどういう意味?」

    「秘密💕」

    ――俺に気があるのか?

    彼女が時折落とす、意味深な言葉や視線。
    その一つひとつに、少しずつ引き込まれていった。


    彼女と話していると、自分が少し若くなったような気がした。
    風呂上がりに鏡に映る自分の姿を見て、そっとうなずいた。

    彼女は、家庭的な一面を感じさせる写真を、次々と送ってきた。

    ――褒められたいんだな

    わざと大袈裟に、褒める言葉とスタンプを選んで送信した。

    「自分でネイルしたんです」

    スマホに写る彼女の指先は、驚くほど綺麗だった。

    「綺麗な手だね」

    すぐに伝えた。

    彼女は、いつ会っても仕草も身だしなみも、どこか女性らしくしていた。

    吸い込まれるようにその写真を眺めていると、
    ふと妻が視界に入った。
    ほとんど化粧もせずに、ヘアバンドで髪をまとめ、
    部屋着のまま、パソコンに向かっている。

    ーーなんか、老けたな


    彼女と過ごす時間は、自分の中の何かを麻痺させていった。

    「かわいい😍」と言っては、普段使わない、痛々しい絵文字やスタンプを抵抗なく使っていた。

    最初は謙遜していた彼女も、やり取りを重ねるうちに、
    少しずつ、距離を縮めてきたように感じられた。

    けれど、ふとしたタイミングで━━

    「私、ガード固いんですよ」

    そう言って一線を引きながら、好きになる人の条件を並べてくる。

    ――そうきたか。もうひと押しだな。
    軽くスタンプだけ返した。


    カラオケに行くと、彼女は俺の横に座る。
    動くたびに、体のどこかが触れる。
    ふいに、髪の毛のゴミを取ってくれたり。

    でも……
    LINEで好意を匂わせると、彼女はいつも、上手くかわす。
    手に入りそうで、入らない。 その距離感が、妙にじれったかった。

    あるとき。 彼女は連日でドタキャンをしてきた。
    ここ数日予定が合わないのか、それとも気まぐれなのか。
    気になって、確かめてみた。

    「もしかして俺、避けられてる?」

    返ってきたのは、少し距離のある言葉だった。

    「少し……そっとしておいてほしい」

    ――ああ、距離を詰めすぎたな
    ここからは、どっちが折れるか我慢大会だ━━


    一週間後。 ふいに、彼女から誘いがきた。

    画面を見て、思わず口元が緩んだ。

    お店で向かいに座る彼女。
    頬をほんのり赤くして、笑顔を向けてくる。

    ――この子、俺のこと好きだな。
    疑問が、確信に変わった瞬間だった。


    その夜。 彼女から、唐突にLINEが届いた。

    「ねえ、聞いてほしいことがあるの」

    ――たぶんそういう話だな。

    「なに?」

    そう返信すると、長文が送られてきた。
    内容はよく覚えていない。 ただ、次に会うときに、彼女が気持ちを伝えてくる。 それだけは、はっきりと分かっていた。

    そして、約束の日。 待ち合わせの公園で、彼女はベンチに座っていた。
    少し緊張した顔で、視線を落としている。 何も言わずに、隣に座った。

    彼女は、なかなか言葉を出せず、
    ようやく口を開くと、途切れ途切れに話し始めた。

    俺は、その話を最後まで聞かずに、ぎゅっと抱きしめた。
    彼女も少し迷った後、背中に腕を回してきた。

    ――俺たちは、こうして始まった。


    毎日が学生の頃みたいで、どこか夢みたいだった。

    彼女はよく、「仕事できる人、好きなんだよね」とさらっと言ってくる。
    それに、ときどき年上みたいに、ふいに俺の頭を撫でてくる。
    その手がやけに心地よくて、つい甘えてしまいそうになる。

    ――やばいな。

    そう思ったときには、もう引き返せなかった。
    気づけば、彼女のことで頭がいっぱいになっていた。

    ――誰にも邪魔されない、二人きりの世界に行きたい
    そんなことばかり、考えていた。


    付き合い始めて、一ヶ月ほど経った頃だった。

    「おかえりー」

    玄関から入ると、いつものように妻が笑いながら抱きつこうとした。
    反射的に、手で払いのけてしまった。 彼女と過ごした後だった。

    ――しまった

    とっさに不機嫌そうな顔を作る。

    「何かあった?」

    妻は少し驚いたようだったが、それでも心配そうに聞いてきた。
    俺は、無言のままスマホを片手にソファに寝転がった。


    最近帰宅すると、 それまで話していたはずの妻と子どもたちが、すっと会話を止める。

    「おかえりなさい」そう言うと、そのまま沈黙が落ちる。
    子どもたちは、それぞれの部屋へ入っていく。

    ――さっきまで、俺の悪口でも言ってたんじゃないのか?
    全てが敵に感じた。

    そんなある日。 彼女とLINEをしていると、妻が声をかけてきた。

    「今度の連休、忙しい?」

    大型連休は、いつも家族で旅行に行くのが恒例だった。
    でも、急に頭に血が上り、 ぶっきらぼうに返事した。

    「仕事が大変なのは分かるけど、そんな言い方しなくても……」

    その妻の言葉に被せるように、 「うるさい!」

    そう吐き捨てるように言って、寝室に逃げ込んだ。

    その夜、妻は荷物をまとめて家を出た。 どうやら、ビジネスホテルに泊まったらしい。 子どもたちにそう話しているのが、微かに聞こえた。

    ほっとした。
    ーーゆっくり話ができる
    そう思って、彼女に連絡した。


    次の日。 妻から、「話がしたい」と言われた。
    何も話したくなかった。 でも、そうもいかず、近所の居酒屋に入った。

    「最近、どうしたの?」

    妻はグラスを触りながら、いつもと変わらない調子で問いかけてくる。
    その言葉を聞いただけで、思考回路がショートしそうになった。

    「言ったら、終わる……」

    なぜかそんな言葉を口にしていた。

    「話してみて」

    そう妻が言って、しばらく沈黙が流れた。

    「……もしかして、好きな人でもできた?」

    そう聞かれて、なぜか勝手に涙が流れてきた。

    ――絶対言えない…

    心がパンクしそうになりながら、出たのはこんな言葉だった。

    「一人になりたい」
    「俺はずっと、家族のために頑張ってきた」
    「夜中までだって、朝までだって遊びたいんだ」

    妻は少しだけ黙ったあと、静かに言った。

    「好きにしたら?」

    ただひと言、それだけ。

    その日から俺は、自由に彼女と過ごすようになった。
    まるで、許可をもらったかのように。


    ある夜、LINEで甘い言葉を送り合っていたときに、
    彼女から思いもよらない一言が届いた。

    「その私を好きな勢いで、ゴールインしちゃいなよ」

    ――なんでそうなるんだよ
    上がっていた気持ちが一気に沈んだ。

    あえて触れずに、話を続けた。
    しばらく会話を続けていたら、
    また彼女から、「戸籍ももらって」と重ねてくる。

    またスルーしたら流石に突っ込まれて、その場しのぎにうまく誤魔化して、何とか納まった。

    ――お互い分かってるだろ、うまくやろうよ
    ふっと息を吐きながら、画面を閉じた。

    それからも、彼女とは変わらず良い関係だったが、慣れてきたからか、彼女が意味もなく不機嫌になることが増えてきた。


    ある休日。 寝室で横になっていると、妻が洗濯物をしまいに入ってきた。
    その瞬間、今まで感じたことのない張り詰めた空気を纏っているのを感じた。

    「何かあった?」思わず声をかけた。

    「ねえ、私に隠してることない?」

    反射的にスマホを伏せた。

    「ないよ。どうしたの?」

    「……あなたが女性と、〇〇駅のホテルに入るところを見た人がいるの」

    心臓が大きく跳ねた。 ――いったい、誰が?

    妻は、「正直に言って、怒らないから」と何度も繰り返した。

    俺は、「知らない」と言い張り、背を向けた。

    「じゃあ、スマホを見せて」その一言に、体が固まる。

    「うるさい!」それしか言葉が出なかった。

    ――どうして、こんなことになるんだ…

    しばらく押し問答が続いた。
    結局深夜になって、ようやく妻も諦めた。


    翌朝。 目が覚めても、頭の中はぐるぐると回っていた。

    ――彼女とのことを知っているのは……あいつか?
    ――俺の家庭を壊す気か?

    妻は、すでに起きて朝食の準備をしていた。

    「俺を見たのは誰だ?」聞いた。

    妻は答えなかった。

    朝食をとりながらスマホを開いた。
    知らない間に、もう一つ「事件」が起きていた。

    そこにあったのは、短い一文。 「別れよ」

    昨日、彼女から何通もLINEが来ていた。
    最初は他愛のない話。 それが、既読にならない苛立ちに変わり、不機嫌なスタンプの連打。 そして、最後にこの言葉。

    ――昨日は、それどころじゃなかったのに
    髪の毛をグシャグシャ掻きむしりながら、送信した。

    「本気?」

    「だって、しんどいんだもん……」

    「ごめん」とりあえず謝った。

    すると、
    「怒ってないのに悲しい」「わかろうとしない」
    などと、重たい言葉が返ってきた。

    画面を見て、肩を落としてうなだれた。

    ――時間を置くか
    返信はしなかった。


    次の朝。 会社に着くと、彼女も出社していた。
    近くを通っても目も合わない。 俺は一日中、彼女を目で追っていた。

    就業時間が終わる頃、彼女が席を立つのが見えた。
    慌てて帰り支度をして、スマホを開く。

    「今どこ?」

    既読になるまで、少し時間がかかった。

    「いつものとこ……」

    通知を見ると同時に、足早にそこへ向かった。

    待ち合わせ場所から、人通りの少ない公園まで歩き、何も言わずに彼女を抱き寄せた。 彼女は小刻みに震えていた。 涙で頬を濡らしながら、ゆっくり話し始めた。

    俺はさらに強く抱きしめ、ホテルに誘った。
    ――こういう時は、これでいい

    ホテルから出て駅で別れた後、スマホが光った。

    「今日は誘ってくれてありがとう」 「嬉しかった🥹」

    「うん☺️」

    返信した後、深いため息をついた。
    スマホを胸のポケットにしまった。
    電車の窓に映る自分を見た。

    そこには、つまらないおっさんがいた。


    「少し話がしたい」

    妻から突然言われた。
    子どもには聞かれたくなかった。散歩をしながら話すことにした。

    妻は色々話をしてきたけれど、今の俺にとっては、どうでもいい話だった。
    ただ、この一言だけが耳に残った。

    「私は、子育てが終わったら、いらなくなったんだね」

    急に居心地が悪くなった。
    来た道を引き返そうとした。すると妻が、静かに言った。

    「あなた、付き合ってる人いるよね?」

    一気に頭が真っ白になった。

    「いない」なぜか半笑いで答えてしまった。

    話の方向性を無理やり変えるように、仕事のストレスや金のことなどを一方的にぶちまけていた。 妻は、ただ黙って聞いていた。

    ふと気づく。
    彼女には、弱音さえも、格好をつけて話していた。
    妻には、本音を遠慮なくぶつけている。

    「おまえは、運命共同体だ」

    意味の分からないことまで口にしていた。

    翌朝。 妻は俺の目を見て言った。

    「私は、あなたに付き合ってる人がいると思ってるよ」

    俺は何も答えず、背を向けてソファに横になった。


    話し合いをしてからは、前よりは家に帰るようにしていた。

    そんなある夜。 リビングで夕食を食べていると、
    突然妻の目から涙が溢れ始めた。

    「……これからもこのままのつもりなの?」

    ――家に帰ってきてやってるのに!

    急に腹が立ち、酷い言葉を浴びせ続けた。

    すると妻は、ふっと表情を変えた。
    さっきまで泣いていたのが嘘のように、急に冷静になった。

    「なら、全部言うね」

    淡々と話し始めた。
    彼女の名前や住所。どんな関係なのか。 妻はすべて自分で調べていた。

    妻が、そんなことができるとは思わなかった。
    ーー完全に終わった……
    そう思った瞬間、"プツッ"と何かが切れた。
    気づくと、椅子に座ったまま、気を失うように眠っていた。


    "トントン"
    肩を叩かれて目が覚める。 妻が静かに言った。

    「……普通にしてほしい」

    最初の言葉は聞き取れなかった。 だが、チャンスをもらえたのは分かった。 その言葉で、何かに強く引き戻された気がした。

    「よし。ちゃんとしよう」

    独り言のように、口から自然に溢れた。

    妻は黙って立ち上がり、浴室へ向かった。
    俺は寝室へ行き、ベッドに横になる。
    両手を頭の下で組み、白い天井をただただ無心に見つめていた。


    ━━━
    その時。肝心なことを思い出した。

    彼女……

    深夜だったが、スマホを開く。
    しばらく、LINEのやりとりをスクロールしながら眺めていた。
    一呼吸して、自分の両頬を叩いた。

    「ごめん もう無理 終わりにしたい」

    送信を確認して、彼女とのLINEを削除しブロックした。
    しばらく、消失感が残った。
    でも、どこかで胸を撫で下ろしていた。

    しばらくして、妻が寝室に近づく気配がした。
    そっと手を伸ばし、上を向いて横になる。

    妻が部屋に入ってきて、電気を消すのが見えた。
    薬指には、まだ指輪が光っていた。

    隣に来た瞬間、衝動的に、強く抱きしめた。
    涙で喉が詰まり、声が出ない。 心の中で何度も謝った。

    腕の中で、妻も泣いていた。


    それから数日が過ぎた。 会社はしばらくリモート勤務にしていた。
    妻はテーブルで向かい合い、仕事をしている。 いつも通りの日常。

    ただ、ひとつだけ、明らかに違うことがあった。
    妻から話しかけてくることが、ほとんどなくなっていた。

    俺は、その重苦しい空気から逃れるように、話題を作り続けた。


    彼女に別れを告げてから数日後。
    どうしても出社しなければならない日があった。

    会社に着くと、彼女の後ろ姿が目に入る。
    胸が一気に重くなった。 なるべく顔が合わないように過ごした。

    夕方、休憩室で飲み物を買おうとしたとき、ふいに背中を叩かれた。
    振り向くと、彼女が立っていた。

    「……少し、話がしたい」

    ――まあ、そうだよな。

    周囲に聞かれないよう、カフェへ移動した。
    彼女は不服そうな表情を隠そうとしない。
    だが今の俺には、何も受け止める余裕がなかった。

    「どうして?」

    何度も理由を聞かれた。

    「もう無理だから」

    それしか言えなかった。

    ソファに深く身を沈めながら、繰り返される問いかけに、気のない返事を重ねていた。 彼女から視線を外し、ただ窓の外をぼんやりと見つめていた。

    パンッ!

    頬が一気に熱くなった。
    俺は頬を抑えた。そして、見開いた目を彼女に向けた。
    彼女の大きな声が頭の中で響き、風のような勢いで店を出ていった。

    全身の力が抜けた。
    ソファの背もたれに身を預け、スマホを開いた。


    頬のジンジンとした痛みが消える頃、店内に雑踏が戻ってきた。



    第3章 妻

    "ブブッ"、スマホが震えた。 スーパーのレジで精算中だった。

    「飯いらない」

    ——ちょうど材料を買ったところだったのに。

    「またか……」

    独り言がこぼれていた。

    結婚して20年。 あまり喧嘩もせずにここまでやってきた。

    最近の夫は、話しかけても気のない返事ばかり。
    難しい顔をしてスマホを眺めている。 このところ、接待や休日出勤が続いていて、帰宅してもそのままソファで寝る日が増えた。

    我が家では、休日は家族で過ごす。 それは夫が決めたルールだ。
    子どもが大きくなってからは、夫婦二人で過ごしていた。
    毎年祝ってくれていた私の誕生日も、今年はスルーされた。

    ——少し寂しいけど、仕方ないか……

    そう自分に言い聞かせた。

    ある晩、玄関から帰ってきた夫に、「おかえり」と抱きつこうとした。
    だが、夫はその手を払い除けた。

    気のせいだろうか。
    "フワッ"と、——どこか安っぽい石鹸の匂いが鼻をかすめた。
    胸の奥で、小さな不安が渦を巻く。

    そっと夫のカバンを覗いてみた。
    中には、見知らぬ女性の連絡先が書かれた紙が入っていた。

    ……少し考えてから、写真に残した。


    「お休みも忙しいの?」

    大型連休が近づいた頃、私は何気なく夫に尋ねた。

    「そこそこね!」

    夫は、目も合わさず、なぜか不機嫌な顔で答えた。

    「仕事が大変なのは分かるけど、もう少し普通に話してほしいな」

    そう私が言い終えるより前に、夫は怒鳴りながら寝室に入ってしまった。

    ——今日は一緒に居たくない。

    子どもたちに理由を話し、私はビジネスホテルに泊まることにした。


    翌日の帰宅後。 夫を、近所の居酒屋に誘った。
    飲み物がテーブルに置かれ、店員がいなくなってからゆっくり話しかけた。

    「最近……どうしたの?」

    夫は、グラスを握りしめながら口を開き始めた。
    いくら問いかけても、よくわからない答えしか返ってこなかった。
    そんなやり取りを続けるうちに、ピンときた。

    ——もしかして
    「好きな人でもできた?」

    なぜか夫の目は、潤んでいた。

    「ちがう」
    「一人になって、自由に朝まで飲みに行ったりしたい」

    ーーえ……いくつだと思ってるの?
    私はその理由を、どうしても理解できなかった。
    しばらく沈黙が続いたあと、深いため息をつきながら言った。

    「……好きにしたら?」

    席を立ち、支払いを済ませて店を出た。
    その日以来、夫は本当に自由に過ごすようになっていった。


    夫の態度は、日を増すごとに冷たくなった。
    鏡の前で体型を気にしたり、お腹が出てから着ていなかった服を引っ張り出して、髪型を整えている姿をよく見かけた。

    とある休日。 リビングのテーブルに目を向けると、夫の財布が無造作に置いてあった。 ためらいもなく手が伸びて、中を開けてしまった。

    ……ラブホテルのレシート。

    全身の力が抜けて震えた。 すぐに動けなかった。

    しばらくして寝室に行くと、夫はスマホを眺めていた。
    私は、無言で洗濯物を畳んでいた。

    夫は、私から醸し出されるただならぬ空気を察知したようで、話しかけてきた。

    「なにかあったの?」

    しばらくの間、ショックと怒りで何の言葉も出なかったが、平静を装いながら話した。

    「……何か隠していることはない?」

    「ないよ」と半笑いで答える夫。

    少し間を置いて、私はさらに言った。

    「あなたが、女性とホテルに入るのを見かけた人がいる」
    ——嘘だった。

    夫の目は泳ぎ、全く落ち着きがなくなっていた。

    「行っていない」

    スマホを握りながら、何度も言い続けた。
    夫は途中から無反応になり、背を向けて寝てしまった。

    その夜は、何が起こったのか理解しきれず、ずっと目が冴えていた。
    気づいたら、外が明るくなってきていた。

    翌朝。 夫は起きてくるなり眉間に皺を寄せて、早口で言葉をぶつけてきた。

    「見かけたのは俺の友達か?」
    「俺の家族を壊すつもりか!」

    その声は、まるで自白そのものだった。


    それから夫は、まったく向き合ってこなくなった。

    ある日。 何気なく夫の方を見ると、スマホの暗証番号を打ち込む手元が見えてしまった。 見るべきではない。でも、無意識にその指の動きを目で追ってしまった。

    その頃の夫は、睡眠中もスマホを左手でしっかり握っていた。

    ある日、夫が寝静まった後に寝室に入ると、床にスマホが落ちていた。
    心臓の音が身体中に響いた。
    静かに近づき、そっとスマホを拾ってリビングに戻った。
    祈るような気持ちで、暗証番号を入力した。

    「開きませんように」

    だが、画面はあっさりと開いてしまった。
    そこには、ついさっきまでやり取りをしていた、彼女との生々しい会話が並んでいた。 普段は使わない、学生が送りあうような絵文字やスタンプが多用されていた。

    ——気持ち悪い。

    私は、震える手で画面を保存した。

    彼女の身元が書かれた紙。
    ホテルの領収書。
    LINEの記録。

    ——自分を守るためにも、証拠を残しておかなければ。


    翌朝。 夫は何も知らずに会社へ出かけて行った。

    私は、その日外出の仕事だったが、早めに切り上げて家に戻った。
    帰宅した私の顔色を見るなり、子どもたちが心配してくれて、家事を手伝ってくれた。 その優しさに、少し救われた気がした。

    「帰ったら、話がしたい」

    私は、夫にLINEを送った。

    夫の帰宅後、子どもたちに聞かれないように、散歩をしながら話をすることにした。 家が見えなくなるくらいの場所まで歩いた辺りで、私から口を開いた。

    「……前によく言ってたよね。家族が一番って」
    「その考えは、今も変わらない?」

    夫は立ち止まり、私を見つめながら答えた。

    「変わらないし、おまえのことを、そんなに雑に思ってはいない」

    私は、ためらいながらもさらに踏み込んだ。

    「子育てが終わったから、私がいらなくなったんじゃないの?」

    「責めるなら帰る!」

    夫はイラついたように、来た道の方へ身体を向けて歩き出した。

    「付き合ってる人、いるんでしょ?」

    引き止めるように、核心をついた。

    夫は乾いた笑いを浮かべ、「勘違いだ」と言い切った。

    その後は、最近の不満や会社の愚痴を話し始めた。
    私はその流れに合わせ、問いかけをいったん引っ込めた。

    「気がつけば40代半ばで、つまらないおっさんになってしまった」
    「俺は、おまえに甘えていたのかもしれない」

    夫は両手を力なくぶらつかせて、
    独り言を言いながら家の方向へ歩き続けた。


    数日後の夕食中。 それまで、心の奥に押し込んだ感情が急に溢れ出して、涙が止まらなくなった。

    夫と目が合った。

    「これからも、このままなの?」

    そう聞くと、夫の表情が一転し、テーブルを叩いた。

    「帰ってきてやってるのに、メソメソしてつまらない」
    「そんなならもう帰らない」
    「別に家を借りることもできる!」

    カチンときた。

    彼女の名前や連絡先。ホテルのレシート。LINEのやり取り。

    全て把握してることを伝えた。

    「おまえが悪いんだ!」

    夫は、そう怒鳴りつけると急に気が抜けた表情になり、椅子に座ったまま、気絶するように眠ってしまった。

    私もしばらく一点を見つめて、椅子にもたれかかっていた。
    部屋が静寂に包まれた。
    短い時間では、答えは出せなかった。
    でも、子供たちのことを考えると━━

    しばらくして、眠っている夫の肩をそっと叩いた。

    「……子どもたちが自立するまでは、普通にしてくれる?」

    夫は急に目を見開き、はっきりと言った。
    「よし、ちゃんとしよう!」


    その後、一人になりたくて浴室に向かった。
    湯船の縁に、力が抜け切った身体をもたれかけて、立ち昇る湯気をただ見つめていた。

    だいぶ時間が経ってから、寝室に入った。
    電気を消して、ベッドに横になろうとした瞬間、急に抱き寄せられた。
    何度も力強く、そして謝るように。 夫は肩を振るわせていた。
    私も、声を抑えきれずに泣いた。


    この日を境に、夫は「普通」になった。
    リモート勤務が増え、出社日も、まっすぐ家に帰ってくる。
    彼女とどうなったかは、知らない。
    ただ、私にとても気を遣っている様子は、伝わってきた。

    この出来事以降、私から話しかけることはなくなった。

    私は、どう進むべきか決められず、起こった出来事に頭がついていかない。

    あの瞬間よりも、今のほうが苦しい。

    無意識にスマホを開く。
    「不倫」というワードを検索してしまう。
    フラッシュバックに襲われる。

    これは一時的なものなのか。 それともずっと続くのか。

    子どもたちが自立するまで、2年半。
    見えない未来へのカウントダウンがはじまった。



    エピソード1 プレゼント

    「最近、ヘアアイロンの調子が悪いんだよね」

    何気ない会話の中で、彼女が髪の毛を触りながら話していたのを、俺は聞き逃さなかった。

    数日後。

    「これ、よかったら使って」

    「えっ?なに?開けていい?」

    「どうぞ」

    誇らしげに袋を渡す。
    袋を開けた瞬間、彼女の表情がパアッと明るくなった。
    正直、みんなに見せてやりたいくらいの満面の笑みだった。

    彼女と別れたあと、LINEが届いた。

    「毎日、鏡見ながらニヤニヤしちゃうよ💓」

    俺の選んだ、白いヘアアイロンで、毎日髪を整える彼女を想像する。

    ——これはなかなか

    つい、笑みがこぼれてしまう。


    帰宅すると。 リビングでは妻がテレビの前に座って、スマホを見ていた。
    いつも通りの見慣れた光景。

    俺はソファに腰を下ろし、酎ハイを片手に、今日の甘いやり取りを思い出しながら、口元を緩ませていた。

    そのとき、妻がスマホの画面をチラリとこちらに向けた。

    「ねえ、ヘアアイロン買い替えようと思うんだけど、これどうかな?」

    目に飛び込んできたのは、さっきプレゼントしたばかりのヘアアイロン。
    心臓が、口から飛び出るかと思った。

    ——なぜ今、そのヘアアイロン?
    ——まさか 知っていて わざと?

    「……ふーん」

    なんとか興味のないふりをした。

    「白とピンク、どっちがいいと思う?」

    追い打ちをかけるように、妻はもう一度、画面をこちらに向けてきた。

    ——バレているのかもしれない

    「白かな?」

    思考が止まる。 喉はカラカラに乾き、声がうまく出ない。

    酎ハイを、グビッと一気に喉に流し込んだ。

    妻の顔をチラッと見る。
    試しているのか? ただの相談なのか?

    「どーしよっかな。ピンクの方が可愛いかな?」

    額に汗が滲んできた。
    ——もう、わかったからやめろ

    恐怖に耐えきれなくなった。

    「俺が買うからっ!」

    声が裏返り、大きな声が出てしまった。

    「ピンクでいいのね⁉︎」

    "ポチッ"

    「買ったよ!」

    ……

    妻は一瞬きょとんとしてから、少し間を置いて言った。

    「え、いいの?ありがとう」

    ——今のは何だったんだ⁉︎

    しばらく動けなかった。


    ━━
    "ピカッ"、スマホが光った。
    「ご注文ありがとうございます」



    エピソード2 彼女の過去

    あれから1年。 やっと「一人の日常」に慣れてきた。

    1年前まで、3年間同棲していた彼がいた。

    彼とは、アパレル会社で出会った。 お互い磁石のように惹かれ合い、
    その勢いで彼が部屋を借りてくれて、結婚を前提に同棲生活がはじまった。

    ご飯と洗濯は私の担当。
    私は毎日、彼のためにお弁当を作り、ご飯も栄養を考えて作った。
    ——ご飯は私がやってあげないとね

    お風呂とトイレ掃除は、彼が担当。

    彼は、「たまには外食しようよ」なんて言うけれど、
    結婚するんだから、節約しないと。

    私が留守の時でも食べられるように、おかずは小分けして冷凍。
    翌日着ていく彼の服も、ハンガーにかけて準備をしていた。

    ーーいつ結婚しても大丈夫 
    そう思っていた。
    気がつけば3年近く経ち、私はもうすぐ30歳を迎えようとしていた。


    そんなある日。
    彼が緊張した顔で、近づいてきた。

    「話があるんだけど……」

    ——結婚かも?
    待ちに待った瞬間に胸が踊った。
    チラッと左手の薬指に視線を移した。

    「なに?」

    ちょっと照れたように笑いながら、気づかないふりをした。

    でも、彼のテンションは違っていた。

    「……別れてほしいんだよね」

    一瞬言葉を失った。
    聞き間違いかと思った。

    もう一度、彼は言った。

    「別れてほしい」

    「どうして?結婚するって約束したよね⁉︎」

    「あのさ……ずっと我慢してたんだ。 一緒にいると、なんか母親といるみたいなんだよ。 便座の上げ下げまで口を出されるし……」

    彼の決心は固かった。

    ——私が悪いの?

    彼の家を出てから、心にぽっかり穴が空いたように、何もできなかった。


    数か月後。 彼と共通の友人から聞いた。
    私と別れてすぐに結婚したらしい。 しかもバツイチの年上の女性と。

    ——私の3年は、何だったのだろう…

    こうして、私の20代が終わった。


    あの後、彼と同じ会社にいるのが辛くなり、退職して実家に戻った。
    しばらく働く気にもなれず、数年間、前に進めないまま過ごしていた。

    もちろん恋愛からは、自然に遠のいていた。

    ふと、鏡に映る自分の姿を見た。
    ーーこのままではだめだ
    美容院に行き、爪の手入れをして身なりを整え、34歳で派遣会社に登録した。 そして、大手企業の事務補佐として働き出した。

    仕事に慣れてきたある日のこと。 休憩室で、同じ派遣会社の子とお茶を飲んでいると、他部署の課長に声をかけられた。

    思いのほか話がはずみ、いつの間にか、お互いの同僚を誘って、「ランチに行こう」という流れになった。


    久しぶりに女性として扱われて、心がはずんだ。



    エピソード3 妻の3年

    子どもたちが独立するまで、あと2年半。
    その先をどうするのか━━
    想像はできなかった。

    「時間が解決する」
    その言葉は、あながち間違いではなかった。

    1年半を過ぎた頃、あの日々のフラッシュバックは少しずつ遠のき、
    夫と「普通に」接する時間が増えていた。
    何も変わらないように過ごす子どもたちの姿にも、救われていたのかもしれない。

    夫から、はっきりとした謝罪はない。
    これからどうするつもりなのかも、わからない。

    彼女のもとへ戻るのか。
    このまま家族を続けるのか。

    本心は、見えないままだった。

    あれから夫は、勉強を始めて資格を取り、転職した。
    年収も上がり、余裕ができたように見えた。

    お詫びのつもりなのか、
    誕生日や記念日には、高価なプレゼントをしてくれるようになった。
    連休があると、旅行にも連れて行ってくれた。

    かつて、ゴミ出しを頼んだだけで不機嫌になっていた人が、
    今は何も言わずに、自らゴミ袋を手に家を出ていく。

    「元に戻った」というよりも、「変わった」のだと思う。

    私はというと、あんなことがあっても、靴磨きやアイロン掛けなど、
    生活のルーティンを変わらずこなしていた。

    家族としての信頼は戻ってきた。
    それでも、心の底では、信用しきれなかった。

    気づけば、夫の行動を探る癖がついていた。

    スマホの画面が見えるとつい覗いてしまったり、レシートが置いてあると、何人分かまで確認してしまう。

    ーーどうせ、また何かやる

    そんな割り切れない気持ちを抱えたまま、
    約束の2年半は、いつの間にか過ぎていた。
    夫からは、何の言葉もない。

    彼女の影はもう感じない。
    それでも、何があっても揺らがないように、
    心の準備だけはしていた。

    ━━━
    ある日、道端で共通の友人に会った。
    しばらく談笑した後、

    「この前さ、旦那さんが言ってたよ。
    “最近、妻が可愛いんだよ。本人には絶対言わないけど”って」

    そう言って、軽く肘でつつかれた。
    私は、少し顔を歪めて笑った。

    意外だった。
    あの出来事以来、夫からそんな言葉を聞いたことはなかった。

    そういえば━━
    以前、旅先のホテルのフロントで、「お祝いですか?」と聞かれたとき、
    夫はこう答えていた。

    「われわれ、再出発なんですよ」

    そのときは、独りよがりで、ひどく軽い言葉に聞こえた。
    でも……

    彼はあの時から、再構築をしていた?
    身構えていたのは、私だけ?

    夫の不器用な態度は━━
    言葉では、軽く受け止められてしまうと、悟ったのかもしれない。
    だから、モノやお金でしか、示せなかったのだろうか。

    夫の言葉を、いつも裏返して受け取っていた。
    そのたびに少しだけ傷ついて、あれこれ検索して悩んでいた。
    ーー3年間もこんなことに時間を使っていたのか……

    私は、自分で自分の首を絞めていたのかもしれない。

    最近、ふいに抱きしめられることがある。
    あれも、言葉の代わりなのだろう。

    ーー今の夫なら……

    そう思いながら、静かに息を吐いた。

    少しの間、パソコンの画面を見つめていた。

    ——もう、探らなくてもいいかな

    保存していた“あの頃”のフォルダを開いた。
    あの時、直視できなかったLINEのやりとりを、
    今は冷静に読むことができた。

    その内容は、驚くほど薄っぺらいものだった。

    簡単な言葉でつながり、
    簡単に崩れていった関係。

    ——彼女は、何を求めていたのだろう。

    読み進めるうちに、
    空回りしていく気配だけが残っていた。

    彼女のことが、少しだけ気の毒に思えた。
    今の私には、その全てが他人事のように映った。

    "カチッ"

    画面を閉じた。
    カーソルを動かす。
    フォルダを、ゴミ箱に入れた。


    エピソード4 夫の言い訳

    どうしてああなってしまったのか。
    今でも、うまく説明はできない。

    毎年、妻の誕生日や記念日には、必ずサプライズをしていた。
    あれこれ調べて想像しながら準備をする、そんな時間が楽しかった。
    休日は、当たり前のように家族で出かけた。
    こうして過ごす幸せな日常に、満たされていたはずだった。

    我が家は、ローンや学費など大きな金は俺が持ち、
    日々の生活費は、妻が回していた。
    それでうまく回っている。
    そう疑いもしなかった。

    子どもたちが大学生になった頃から、
    家計の余裕も、家の空気も少しずつ変わっていった。

    半年ごとに届く学費の通知。
    家や車のローン。
    目減りしていく貯金。
    ーーなんで俺ばっかり

    仕事でも、思うように評価されなかった。

    家に帰ると、夜遅くまで生き生きと働く妻の姿があった。
    「忙しい」と言われるたびに、感謝されていない気がした。


    ある朝。
    「ごめん、今日余裕がないから、出かけるときにゴミお願いね」
    そう言って、妻は玄関に大きなゴミ袋を置いた。

    「なんで俺が」
    思わず、喉から出かかった言葉を飲み込んだ。

    ーー好きなことで稼げていいよな

    無言でゴミ袋を持ち上げ、外に出る。
    そのまま、ドアを勢いよく閉めた。

    こんな些細なことがきっかけで、
    妻の言葉が、少しずつ癇に障るようになってきた。
    もしかしたら━━
    嫉妬していたのかもしれない。


    そんな折に、彼女と出会った。

    彼女は、俺を必要としてくれた。
    一緒に過ごしていると、スッと気持ちが軽くなった。
    彼女といるほうが現実で、家族がいる生活のほうが遠く感じることさえあった。

    現実から、少しずつ離れていった。
    それが間違いだとわかっていても、大したことじゃないと思っていた。

    妻が違和感を持ちはじめてからも、
    むしろ、妻のほうがおかしいとすら思っていた。
    問い詰められる前から、こちらが不機嫌になることで押し返していた。

    家庭での居心地を自分で悪くしておきながら、
    それを理由に、彼女という「逃げ場」にのめり込んだ。
    「俺を否定しない彼女」
    「彼女を否定しない俺」
    お互いにとって、最高に居心地のいい居場所だった。

    二人の関係に慣れた頃。
    徐々に、彼女の感情に振り回されることが増えてきた。
    楽しかった日常が、つまらない時間に変わっていった。

    気づけば、彼女に気ばかり遣うようになっていた。
    嫌われないように。
    機嫌を損ねないように。

    そのたびに、小さな嘘が積み重なっていった。


    ある朝。
    玄関で靴に足を入れたとき、革靴が妙にきれいなことに気づいた。

    ――最近、まともに言葉も交わしていないのに

    「サラリーマンは足元を見られるから」
    そう言って笑いながら靴を磨いていた妻を、ふと思い出した。

    胸の奥が、わずかに痛んだ。

    それでも、
    ーー少しくらい、いいだろう
    そう思って、彼女と会うことをやめなかった。


    やがて、終わりはあっけなく来た。

    すべて、妻に知られていた。
    その瞬間、すべてを失ったと思った。
    家族を壊すつもりはなかったのに……。

    けれど━━
    妻は、終わらせることを選ばなかった。
    俺にはもう、彼女を選ぶほどの覚悟はなかった。

    それからは、
    信用を取り戻すために、できることは何でもしようと思った。
    言葉では、もう信じてもらえないだろう。
    行動で示すしかなかった。

    まずは資格を取り、転職し、収入を上げた。
    記念日には、大げさなプレゼントを用意し、
    休日は、できるだけ一緒に過ごした。
    連休には、旅行にも連れて行った。

    それでも妻は、ときどき涙を流した。
    それが嬉しさなのか、苦しさなのか、俺にはわからなかった。

    あのとき以来、必要最低限の言葉しか交わさなくなった妻も、
    時間が経つとともに、少しずつ他愛のない話に応じてくれるようになった。


    ある日、リビングを横切ろうとした時、
    ふと、机の上のパソコンの画面が視界に入ってきた。

    「不倫 フラッシュバック」

    検索欄に残っていた、ひとつの言葉。

    ……しばらく、動けなかった。

    もう、埋め合わせはしたつもりでいた。
    まだ終わっていなかったのか……

    妻が「普通」に振る舞い続けることの重さに、そのとき初めて気づいた。

    戻ってきた妻を抱きしめたいと思ったが、できなかった。
    言葉にしようとした。でも、それもやめた。
    何を言っても、自分を楽にするための言い訳にしかならない気がした。

    結局、自分は見て見ぬ振りしかできなかった。


    ━━━
    あれから3年が過ぎた。

    相変わらず、プレゼントや旅行は続けている。

    最近、妻のことを抱きしめてしまうときがある。
    それに対して、軽く背中をたたいて返してくれる。
    妻との関係は、昔より悪くない
    ━━そんな気がする。

    今日も、ピカピカに磨きあげられた靴を履いて、ゴミ袋を手に家を出た。

     
     
    はじめまして、Chicです。 短編ちょこちょこ、長編ときどき。 新作短編「上京物語」公開中

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