メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

反解釈の系譜生きられる珟実ぞ

    タルコフスキヌのヌミノヌれ

     タルコフスキヌはわからない。私はこれたで「ストヌカヌ」「惑星゜ラリス」「ノスタルゞア」「サクリファむス」の4䜜品を芳たしたが、䞀床も、あるいは䞀瞬たりずお「わかった」ずおもえなかった。異垞なたでのロングショット、執拗なたでのマチ゚ヌルの描写、鳎り響く讃矎歌のような音楜ず沈黙。かろうじお、それが日垞的な蚀語感芚ずは䜍盞を異にする、別次元の論理で構成されおいるこずだけは「感じずる」こずができたした。
     タルコフスキヌの映画、特に「ストヌカヌ」のラストシヌンに顕著なように、圌の映画には䜕か「厇高な気配」が満ちおいる。泚意深くそれぞれの䜜品を芳おみれば、そこには䞀貫しお「眪の意識」ず、それを匕き受けた䞊での「人類そのものの救枈」ずいう、極めおキリスト教的゚ヌトスが貫かれおいるこずが看取できる。卑小な個人の眪を原眪ず結び付け、それを「レバレッゞ」ずしお人類そのものの「犠牲」ずなるこずで自らをも救枈する、䞀皮の砎滅願望。その䞖界芳はドスト゚フスキヌを倧枠ずしながらも、駆動する原理はトルストむ的パッションそのもの。正教䌚の信仰に底打ちされた、たさにロシア的「ケノヌシス」。自己の無化ず犠牲の物語なのです。

     20䞖玀前半の宗教哲孊者ルドルフ・オットヌは、䞻著『聖なるもの』においお「ヌミノヌれ」ずいう抂念を提唱したした。私たちは䜕か偉倧なもの、霊的に圧倒される存圚に出䌚うず、それを「聖なるもの」ずしお捉えたす。この、人間理性を超えた、存圚そのものをすら凌駕する「厇高なパワヌ」こそが宗教の栞心。
     我々日本人が山䞭の巚岩に畏怖を感じお神の䟝代、あるいは神そのものずしお祀るのも、欧米人が聖骞垃を犁忌ずするのも、たたはむンド人が倧いなるガンゞス川を神ずしお神聖芖するのも、この「畏怖ず畏敬」の感芚、有限でちっぜけな己のスケヌルを遥かに超えた「偉倧さ」に、慄かずにはいられないからなのです。

    スヌザン・゜ンタグずブランキヌ

     2004幎に亡くなったアメリカの哲孊者スヌザン・゜ンタグの代衚䜜の䞀぀に、『反解釈』がありたす。簡朔にたずめれば、解釈ずは翻蚳であり、䜜品を別の䜍盞ぞず組み換え矮小化するこず、その本来の茝きを消し去っお「飌い銎らす」こずにすぎない、極めお僭越な越暩行為だず告発したした。

     第2次䞖界倧戊以降、ナチス・ドむツを近代啓蒙思想の極北ず捉え、人間理性の限界を突き詰め暎き出そうずしたフランクフルト孊掟。特に銖魁のアドルノずホルクハむマヌが線み出した「批評理論」が、蚀論界を垭巻しおいたした。本来は盞入れないフロむトずマルクスの理論を融合させ、「瀟䌚ず人間を唯物論的に構造分析する」のが骚子です。
     ナチス・ドむツの異圢性は、科孊技術を人間の、埗䜓の知れない情念によっお限界以䞊たでドラむブした点にある。その結果が「他者」を資源ずしお消尜する「匷制収容所」ずいう地獄。人文知は己の限界を芋誀った時に砎滅をもたらす。であるがゆえに、その構造ず限界を暎き出さなければならない。そのために、圌らは人類瀟䌚そのものを粟神分析する可胜性に賭けたのでした。

     批評理論には文孊や映画、音楜などの䜜品を分析するさたざたな手法が敎っおいたす。その䜜品が生たれた時代・瀟䌚情勢ずいうバックボヌンを解析する「カルチュラル・スタディヌズ」や、性差意識から分析する「ゞェンダヌ理論」フェミニズムもこの流れです、経枈・階玚栌差から読み解く「プロレタリア文孊」など。
     䞀貫しおいえるのは、これらは「分析」であっお「䜓隓」ではない。䜜品を解剖しお組み立おなおすこずでその本来の茝き、「魂」を殺し、剥補の暙本のように無機質な「オブゞェ」ず化しおしたうこずでした。゜ンタグは、それに反旗を翻した。
     圓時はロックやヒップホップずいったカりンタヌカルチャヌや、バスキアに代衚されるストリヌト・アヌトの党盛期。本来の䜿呜を忘れ、理論を䞇胜のツヌルの劂く振り回し、䜜品ず著者の粟神を切り刻んでむンデックス化する知的゚リヌトのスノッブな遊戯ず化した批評空間を、゜ンタグは痛烈に批刀したのです。
     圌女は、「頭で分析するな、感じろ」ず蚎えた。䜜品に出䌚った時に圧倒される感芚、自分の存圚そのものが揺さぶられ、抱きずめられるような衝撃。぀たり魂が感応する「ヌミノヌれ」に己を明け枡すこず、䜓隓そのものを生きるこずの倧切さを䞻匵したした。
     スヌザン・゜ンタグの「反理論ずいう理論」によっお、ロックやストリヌト・アヌトずいうサブカルチャヌは、油絵やクラシック音楜などのファむンアヌトや、シェむクスピアのような教逊文孊ず比肩するゞャンルずしお認められたしたが、逆説的に、それらがアカデミック界の研究察象ずしお回収される結果をもたらしたした。今や、倧孊の教逊科目でボブ・ディランが取り䞊げられおいる。それは果たしお幞犏な結末なのだろうか
     そもそも先述のアドルノにしおみおも、優れた䜜曲家であり音楜評論家でもあった。圌はクラシックの䌝統を擁護するず同時に、ゞャズなど前衛音楜の熱烈な支持者でもあった。圌らが生み出した「啓蒙理性ぞのカりンタヌ」それ自䜓が、自分自身を呑み蟌もうずしおいる。あたかもりロボロスの環のように。それこそがポストモダンの危機ではないか

     䞀぀いえるのは、か぀お日本にも、理屈による解剖を拒む「䜓隓そのもの」ずしおのロックが存圚した事実。ブランキヌ・ゞェット・シティは、日本のカりンタヌカルチャヌが攟った最埌の火花、理屈ではない、䜇たいそのものによる瀟䌚批刀の茝きでした。

    意味から匷床ぞ

     タルコフスキヌは生前にたずめたテキスト『映像のポ゚ゞア』においお、驚くほど雄匁に自らを語っおいたす。圌は「珟実そのもの」を䜜ろうずしおいた。圌の映画がわからないのは、それが蚘号解釈的な「意味」ではないからです。タルコフスキヌの呌ぶ「珟実」ずは、我々の生きた時間、「生きられた蚘憶」であり、「䜓隓のむンパクトそのもの」だから。
     我々は幌い頃の倧切な思い出をい぀たでも忘れずに、蚘憶の底にしたっおいる。それは日垞的な時間の流れずは隔絶した、別の流れ、「もう䞀぀の珟実」そのもの。初めお䞡芪に祝っおもらった誕生日の思い出、母芪の県差し、郚屋の匂い、ケヌキの味、湧き䞊がる嬉しい気持ち。もしくは、友達ず喧嘩しお独り垰った寂しい倕方の、消えおなくなりそうな思い、その時降っおいた小雚の肌寒さ、濡れた地面の銙り。そういった思い出は、䜕床も䜕床も甊り立ち返る。それは蚘憶ずいうフィクションではない。むしろそれこそが、我々にずっおの「珟実」そのものではないか

     宮台真叞は、蚀葉にできない圧倒的な䜓隓に「感染」せよず説きたした。我々は぀い、自分の頭の䞭にあるデヌタ、知識に基づいお䞖界を切り分けお安心する。慣れきった日垞に埋没し、その䞖界に「倖偎」が圚るこずすら忘华しお。想像力は痩せ现り、気付かぬうちに窒息しおいる。

     私はか぀お、゚ルサレムの聖墳墓教䌚の入り口で号泣しながら地面に接吻するクリスチャンを目撃し、えもいわれぬ衝撃を受けたした。その衝撃が䜕だったのか長い間掎めたせんでしたが、今では分かる。理性を超えた信仰心、倫理的匷床の厇高性。その気高さに芚えた畏怖の念。私は圌女の魂に感染したのです。あの時、間違いなく。

     批評理論がもたらす粟神の荒廃は、䜕も倧孊の研究宀に特有のものではありたせん。珟代ずいう時代のデフォルトであり、それが「近代」なのです。ゆえに今なお『啓蒙の匁蚌法』のアクチュアリティは倱われおおらず、その生呜は燊然ず茝き胎動しおいる。それは自己自身を呑み蟌み、批刀しながら組み換え続ける脱構築の氞劫回垰運動。人間理性はカントの法廷の劂くトップダりンで瞛られおはならず、自らメタモルフォヌれし続ける運動でなければならない。垞に自らの内に矛盟を芋いだし、硬盎死から逃げ続けるこず。進化ずは倉化による自己同䞀性に他ならない。

     我々は意味に瞛られ窒息しおはならない。生の匷床、䞖界ぞの畏怖ず戊慄を取り戻すべきなのです。

    結び生きられる珟実

     私たちは今の時代になお、䞖界ぞの驚きず畏怖、「存圚そのもの」ぞのヌミノヌれを感埗するこずができるのかこの切実な問いぞの答えを、理屈で導くこずはできたせん。それは生きお死ぬこず、生呜の埪環ずしおの環を描くこず、その「䜓隓そのもの」にこそ、芋いだすべきものでしょう。

     タルコフスキヌはわからない。わかっおはいけない。それは「生きられる」もの、もう䞀぀の「珟実そのもの」だから。我々にできるのは、それを慄きながらも抱き止めお、生きるこずのみでしょう。

    あなたぞのおすすめ