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ねこのみかんと、さくら色の忘れもの

    朝のキッチンには、カレーのいいにおいが、
    まだ残っていました。

    昨日の夜、みさとくんはおかわりを二回もして、
    おなかをぽんぽん叩きながら笑っていました。

    みさとくんは、小学五年生。

    少しだけぽっちゃりしていて、動きはのんびり。

    でも外に出ると、すぐに友達を見つけて、
    気づけば真ん中で笑っています。

    なぜかよく物をこわしてしまったり、
    忘れ物も多いけれど、
    だれかが困っていると、いちばん最初に気づくのも、みさとくんでした。

    学校へ行く朝も、少しだけバタバタしています。
    「いってきまーす!」
    今日も元気な声が、家の中にひびきます。
    朝の光が、出窓いっぱいに広がっていました。

    みかんは、いつものお気に入りの場所で、のんびり昼寝のしたくをしていました。

    まずは前足をぐうっとのばして、
    こんどは後ろ足も、しっぽも、
    うーんとのばします。

    あたたかいお日さまの光が、茶トラの毛の一本一本にしみこんで、
    みかんはうっとり目を細めました。

    そのときです。
    「みかん! みかん、どこー?」
    お母さんの声が、家の中にひびきました。

    「ここだよー」
    みかんが出窓から顔を出すと、
    お母さんはほっとしたように駆けよってきました。

    「よかった、いた。みかん、お願い! 
     みさとに忘れ物を届けてほしいの」

    「わすれもの?」

    「そうなの。今日は宿題の発表会があるのに、
     タブレットを玄関に置いたまま行っちゃって。
     給食袋もあるのよ」

    みかんは、ぱちぱちと目をしばたたきました。
    さっきまで、お昼寝のことしか考えていなかった
    のです。
    「ええ……」
    思わず小さな声が出ました。
    でも、
    みさとくんが困った顔をしているところを
    想像すると、胸の奥がそわそわします。

    張り切って出かけていったのに。

    宿題の発表会で、自分だけ何も出せなかったら、
    きっとかなしい。
    お母さんも、もう仕事へ行く時間です。
    お母さんは看護師さん。
    今日もたくさんの患者さんが待っています。

    みかんはぴんと背すじをのばしました。
    「ぼく、行ってくるよ。まかせて」
    「ほんとう? 助かるわ、みかん」

    お母さんはうれしそうに笑いました。

    黒いタブレットは、唐草模様の風呂敷に
    大事に包まれました。

    給食袋は、みかんの肩からななめにかけられます。

    「これで両手があくでしょう?」
    「うん。これならだいじょうぶ」

    少し重かったけれど、みかんは胸をはりました。

    「いってきまーす!」


    小学校は、家から見えるところにありました。

    みさとくんに抱っこされて、校庭の近くまで
    行ったこともあります。
    あのときは、あっという間に着いた気がしました。

    けれど、いざ自分の足で歩き出してみると、
    思ったよりずっと遠く感じます。

    「ふう……二本足って、なかなか大変だなあ」

    みかんは風呂敷の重みを感じながら、
    とことこ歩いていきました。

    道の右側には家がならび、
    左側には桜の木がつづいています。

    空はよく晴れて、やわらかな青。

    桜は、はらはら、ふわりと風にのって、
    うすい花びらを落としていました。

    「きれいだなあ……」

    みかんは立ちどまり、
    一枚の花びらをそっと拾いました。

    みさとくんのぷっくりほっぺと同じ、
    やさしいピンク色です。
    みさとくんに見せたら、どんな顔をするでしょう。そう思って、給食袋の中に大事にしまいます。

    そのとき、前から大きな犬がやってきました。

    「おや、みかんじゃないか」

    ゴールデンレトリバーのユタくんです。

    朝のお散歩の途中らしく、ふさふさのしっぽを
    気持ちよさそうにゆらしていました。

    「ユタくん、おはよう」
    「今日はずいぶん重そうだね」
    「みさとくんに、忘れ物を届けるんだ
     タブレットと給食袋」

    ユタくんは、みかんの顔と風呂敷包みを見くらべて、目を細めました。

    「それは大仕事だ。えらいなあ」

    そう言われると、みかんは少しだけ得意な気持ちになります。
    けれど次の瞬間、肩にずしんと重みが食いこみ、
    足がよろめきました。

    ユタくんは、その様子を見て静かに言いました。
    「曲がり角まででいいなら、ぼくが持って
     あげようか」

    みかんは、思わず
    「だいじょうぶ」と言いかけました。
    ぼくひとりで届けるんだ。
    お母さんに頼まれたんだから。
    ちゃんとやりたい。

    でも、足はじんとしています。
    みかんは、耳をぴくりと動かしました。

    「……うん。そこまで、お願いしてもいい?」
    「もちろん」

    ユタくんはやさしく風呂敷をくわえました。
    まるで、こわれやすい宝物を運ぶみたいに、
    そっと。
    「ありがとう、ユタくん」

    背中が軽くなると、みかんの気持ちまでふわっと
    軽くなりました。

    「みさとくんね、五年生になったばっかりなんだ」
    「へえ」
    「宿題の発表会があるんだって」
    「それは急がなくちゃ」
    「うん。桜もね、一緒に届けるんだ」
    「うんうん」

    ユタくんは風呂敷をくわえたまま、ちゃんと聞いてくれます。
    みかんはなんだかうれしくなって、つい、あれこれ話してしまいました。

    曲がり角まで来ると、ユタくんはそっと荷物を地面におろしました。
    「ここから先は、もう学校が見えるよ」
    「ほんとだ」
    「でも、むりはしないこと。
     困ったら、助けてもらっていいんだからね」

    みかんは、その言葉を胸の中にしまいました。
    「ありがとう。いってきます!」
    「いってらっしゃい、みかん」



    ユタくんが見えなくなると、急にあたりがしんと
    したように感じました。
    さっきまで軽かった心が、また少しだけ重くなります。
    学校はすぐそこです。
    なのに、みかんは桜の木の根元に、ちょこんと座りこみました。

    「ふう……」 ひとつ、大きく息をはきます。

    そのとき、くるんと巻いたしっぽの先で、 
    何かがきらりと光りました。

    「ん?」

    石でしょうか。
    みかんは目を丸くして、地面に顔を近づけました。

    「きれい……」

    お日さまの光を受けて、ちいさな石が七色にひかっています。
    みさとくんにあげたら、きっと喜ぶ。
    そう思って、みかんは夢中で前足をのばしました。

    すると。

    「いたっ」
    しっぽの先に、ちょん、と何かが乗りました。
    ふり返ると、そこにはタンポポの綿毛みたいに
    ふわふわした、小さな小さな白黒のハチワレ猫が
    いました。

    お腹が真っ白で、僕にそっくりだ。
    みかんのしっぽを、おもちゃみたいに両手でつかんでいます。  

    「きみ、どこから来たの?」

    子猫は小さな耳をペタンと伏せて、きょとんとみかんを見あげました。

    今日の青空と同じ青い目に、
    鼻先はさっき拾った花びらと同じ、
    優しいさくら色だとみかんは思いました。  

    そのとき、
    みかんがさっき見つけた「ひかりの石」が、子猫の青い瞳に反射して、チカッとまたたきました。

    まるで、
    石が「ここだよ」と子猫を呼んだみたいに。  

    子猫は、みかんの給食袋の中からこぼれ出る、
    七色の光に、吸い寄せられるように一歩踏み出しました。

    「……きれーい」

    小さな前足が、光をつかもうとして空を切ります。  

    「これ、みさとくんに届けるんだ。
     きみも、この光が好きなの?」

    みかんが聞くと、子猫は光を見つめたまま、コクンとうなずきました。

    「おうちの人は?」

    「わかんない。さっきまで、抱っこされてたの」

    子猫の声はとても小さくて、風に消えそうでした。みかんの胸が、きゅっとしました。

    自分も、ひとりぼっちだった日のことを、ほんの少しだけ思い出したのです。

    「だいじょうぶ。きっと……」

    そう言いかけたとき、さっきの光る石がまた目に入りました。

    みかんはそっと肉球に乗せ、給食袋の中にしまいました。

    そして子猫のほうを向きなおります。

    「よし。みさとくんに届けものをしたら、
    帰りにいっしょにおうちを探そう」

    子猫にそう言ったのですが、返事がありません。

    「あれ?」

    どこへ行ったのでしょう。

    みかんがきょろきょろ見まわしているあいだに、
    子猫は風呂敷の結び目のすきまから、よいしょ、
    よいしょと中にもぐりこんでいたのでした。

    そのとき、肩にかけた風呂敷が、ほんの少しだけ
    重くなったような気がしました。
    でもみかんは気づきませんでした。

    「遠くへ行っていないといいな……」

    そうつぶやいて、
    みかんは風呂敷を背負いなおしました。

    「まずは、届けもの。うん、先にそれだ」

    自分に言い聞かせるように言って、また歩き出しました。


    小学校の玄関に着くと、みかんは思わず立ち止まりました。

    「広いなあ……」

    大きな下駄箱。
    ぴかぴかの床。
    行き来する人の足音。
    家から見えていた学校とは、ぜんぜんちがう場所
    みたいです。

    ぬれた靴とたくさんの子供たちが通ったあとの、
    あたたかいにおいがしています。

    家とはちがう賑やかな空気に、みかんはそっと鼻をひくひくさせました。

    「みさとくんの教室、どこだろう」
    見上げても、廊下は長く、階段もあります。

    心細くなったそのとき、頭の上からちゅん、と声がしました。
    「みかん!」
    「すずめさん!」

    一羽のすずめが、みかんの頭の上にちょこんと
    とまりました。
    「今朝、おうちにいなかったから、どうしたのかと思ったよ」

    「みさとくんに忘れ物を届けに来たんだ」
    「それなら、五年一組だね。
     二階のいちばんはしっこだよ」

    「二階……」
    階段の下で、みかんは立ちすくみました。

    一段、一段が、まるで切り立った崖のようにそびえ立っています。
    背中の風呂敷は、さっきよりもずっと重くなっていました。

    中には、みさとくんの未来(タブレット)と、実は小さな命(子猫)が入っているのです。

    すずめは首をかしげました。
    「どうしたの?」

    「……上れるかな」
    そう言ったとたん、みかんは自分の声が少し震えているのに気づきました。

    ここまで来たのに。
    あと少しなのに。

    足はじんじんするし、胸はどきどきするし、しっぽまで下がってきます。

    「おやおや。こんなところに猫のお客さんとは、めずらしいね」

    やさしい声の主は、校長先生でした。

    みかんは夢中で、これまでのことを話しました。
    みさとくんの忘れ物のこと、発表会のこと、ユタくんに助けてもらったこと。

    校長先生は、最後まで黙って聞いていました。

    「そうか」

    それだけ言って、みかんをひょいと抱き上げました。
    「では、急ごう」

    みかんは、びっくりして目をまるくしました。
    何も言われなかった。
    怒られなかった。ただ、持ち上げてもらった。

    それだけなのに、冷たくなっていた肉球に、じわりと熱が灯りました。

    校長先生は、みかんを優しく抱きかかえると、
    温かな手のひらでその背中を包み込みました。

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    みかんを抱いたまま二階へ上がり、五年一組の教室の前まで連れてきてくれました。

    「ほら、ここだよ」

    そして、みかんが入りやすいように、教室の戸をそっと開けてくれました。
    「ありがとうございます」

    みかんは小さな声で言いました。
    けれど、
    その中には、ありがとうがいっぱい詰まっていました。



    教室の中は、しんとしていました。
    みんな前を向いていて、
    それぞれの机の上にはタブレットが置いてあります。
    でも、みさとくんの机の上だけ、何もありません。

    みかんは、できるだけそっと歩いていきました。
    みさとくんの席まで行くと、ズボンのすそをちょいちょいと引っぱりました。

    「あれ……みかん?」

    みさとくんがふり向いて、目をまんまるにしました。
    みかんは、くるりと後ろを向いて、背中の風呂敷を見せます。

    「どうした、みさと」
    先生が席のそばまで来ました。

    みさとくんは風呂敷をほどきました。

    「タブレットだ……!」
    朝から固くなっていた表情が、ぱっとほどけます。

    「持ってきてくれたの?」
    みかんは、しっぽを小さく揺らしました。

    そのとき。
    「あれ?」
    タブレットの上で、小さく丸くなって眠る子猫が
    いました。

    教室に静かな笑いが広がります。
    「かわいい……」
    「ねこだ」
    先生まで笑いました。
    「これは、特別な発表会になりそうだな。」

    教室はいっぺんに柔らかな空気に包まれました。

    みさとくんは子猫を起こさないよう、そっとタブレットを机の上に置きました。

    「さあ!始めようか。」

    みさとくんはうなずいて、タブレットを開こうとしました。

    でも、その上には子猫。
    「……開けないな」
    教室に、また笑いがこぼれました。

    そして、いつのまにかみかんまで、みさとくんの膝の上でうとうと。
    みさとくんは、みかんの頭をそっとなでます。

    その手は、お日さまの匂いと、朝食のカレーの匂いがしました。

    みかんは目を細めます。
    ちゃんと届けられた。
    ユタくん。
    すずめさん。
    校長先生。
    みんなのおかげです。

    春の光が教室いっぱいに差し込み、桜の花びらが
    窓の外をゆっくり流れていきました。

    今日は、とくべつないい日です。


    エピローグ

    その日の夕方。

    「ただいまー!」
    みさとくんの声が、
    いつもより少し弾んでいました。

    「お母さん、見て!」
    みさとくんは両手をそっと持ち上げました。
    あの子猫です。

    「まあ……」
    お母さんは少し驚いた顔をして、みさとの手の中を覗き込みました。

    「この子、どうしたの?」
    「学校に来てたんだ。みかんが忘れ物届けてくれて、それで‥」

    みさとくんは、うまく説明できないまま、子猫を見つめました。
    子猫は、みさとの手の中で安心したように、ふにゃっと目を細めています。
    みかんはそっと、みさとの足元に体をすりよせました。

    「……ねえ、お母さん」

    「この子、まだおうちがないみたいなんだ」

    お母さんは、みかんを見て、みさとくんを見て、
    ふっと笑いました。

    「名前、もう決めたの?」
    「さくらだよ‼︎」
    そのとき、子猫が「にゃん」とひと声鳴きました。

    「さくら、か。いい名前ね」
    「あ、そうだ。お母さんこれも。」

    みさとくんはポケットから、少ししおれた桜の花びらと、七色に光る石を取り出しました。

    お母さんは、それをそっと受け取ります。

    夕陽を浴びた花びらは、やさしい桃色に光っていました。

    「……みかん、ありがとね」
    お母さんはみかんの頭をやさしくなでました。
    みかんは、うれしそうに喉を鳴らします。

    あの日、家に帰ってきたのは、忘れ物ではありませんでした。
    新しい家族と、小さな春でした。

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    看護師36年、保護猫と暮らす。看護、介護、 日常、猫——人の営みを見つめています。 まだ名前のない景色に、言葉で光をあてる。 読み終えたとき、世界が昨日と少し違って見えます。 https://www.threads.com/@toru.tukisiro

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