
色のある夢
開けた覚えのないシャッター。
カーテン越しに日差しが降り注ぐ。
微睡みに抱きしめられながら
現実的な脳が、言う。
(彼は、もう行ってしまったのか)
暫く動けずにいた身体も
巡り続ける思考のラジオ体操に感化されざるを得なかったのか
まだ、ついていけない気だるさを背負いつつも
むくり、と上体を起こした。
手入れして寝たはずの髪
真っ直ぐに寝たはずの布団
共鳴するようにぼさぼさで、ぐちゃぐちゃだ。
我ながら
寝ていてもこんな芸術を作り上げることができるなんて
ポテンシャルというものが、自分の中で永住宣言をしているに違いない。
そんなことをツッコミ待ちで
誰からのツッコミも入らないことは解った上で
当たり前のように考えた。
一旦、芸術品を置き去りトイレへと向かう。
手洗いついでに洗顔と歯磨き。
これが、私のルーティンだ。
早起きな彼とは違い、
三大欲求とも言われる睡眠という
意識の生と死の狭間にしがみついていたい強欲な私は
そこから引き剥がそうとする
水の冷たささえも、少し痛く感じる。
今日も、彼は遅くなるのだろうか。
特に記念日でもないが
鏡越しに見つめ合う自分と
いつの間にか、毎日そんなやりとりをしてしまう。
顔を拭く前に
ぽとりと落ちた雫。
「……夢の話、したかったなぁ。」
―――
夢の中、私たちは菜の花畑に行っていた。
満開の小さな花に囲まれて
一つ一つは小さな花でも
ここまで集まった時の圧巻たるや。
写真を撮りあったり、私より背の随分と高い彼が隠れられるかと奮闘しているのもおかしくて仕方なかった。
ひとしきり騒いだ後は、
何をするでもなく隣に座って
のんびりと持ってきた珈琲を飲む。
こういう日に彼はいつも、準備してくれた珈琲を持参してくれる。
そして、お決まりの表情でお決まりのセリフを言うのだ。
―――俺が、拘っていれた珈琲は最高だろう?
本当にこの人は、なんでそんなに得意気に言えるの?なんて
可笑しくなって何度でも笑ってしまう。
確かに、
豆を選んで、準備をしているのは彼自身ではあるのは他ならない。
だが、
全自動珈琲マシーンが
ガリガリと音を立て、温めたお湯で抽出してくれる珈琲なのだ。
その横に座り。
私の支度などにまるで興味のないような素振りで
料理を見に来た子供のように
「いい匂いしてきたな。」と、ご機嫌に出来上がりを待つ。
それを、自分の手柄にして大人気なく得意気に言う。
まるで、買ってもらったゲームを友達に自慢する少年のような。
休日の朝の光景を思い浮かべ
私はその全てを胸に抱き少し笑いがちに
「最高だよ」と、返し
再び優しい黄色の海へと視線をやったのだ。
―――
珍しく今日は、私が珈琲をいれてみよう。
夢のおかげか、その気になった私は
埃を払うようにサッとマシーンを少し拭いてから、
フィルターをセットし
瓶から残り少ない豆をすくい上げ
水を用意し、ボタンを押した。
物の在処を把握していてよかった。
さっきも聞いたかのような覚えのある、
ガリガリと言う音に目を伏せる。
―――そう、この音だ。
そこで、ハッと我に返り
浸ってる暇はない、とスタート合図のピストルの音を聞いたかのように
何故か急かされるまま着替えてしまう。
私は、全自動のマシーンほど
すぐにスイッチが入る人間では無い。
彼は、あんなにもゆったりと出来上がりを見守っているというのに
その余裕が不思議でならないのだ。
―――いい匂い。
メイクをする頃には、特有のいい香りが
別の部屋まで運ばれてきていた。
ある程度のメイクとヘアセットが終わって、
本当の意味でスイッチの入る私は
誰に会うでもない
予定があるなしに関係なく
ここに来て漸く“よし!やるぞ!”と感じる。
ピーッピーッピーッ
出来上がりの合図が、耳に届く
「はいはーい」
特に必要もないのに、反射的に返事をしながら
小走りにキッチンへ戻ると
透明だった容器は、たっぷりの珈琲で満たされていた。
1人分にしては、少々多かったか。
マグカップに注いでいく。
立ち上がる湯気も、香ばしい。
喉が鳴った。
気付かぬうちに、喉が乾いていたのだろうか。
「あつっ……」
出来たての珈琲は、味を越えて先に痛みを連れてきた。
念入りに息をふきかけ、恐る恐ると口元を近づければ、すんなりと口いっぱいにあの味が帰ってくる。
―――私が入れても、最高じゃん。
くすっと、笑いが漏れ
少し火傷してヒリヒリとする唇に
なんだか、私は焦りすぎなのかもしれないな。と
気づく。
珈琲マシーンの隣で、
出来上がるまで見守る彼に
「それなら、自分で豆を挽いて、ドリップとかしてみたらいいんじゃないの?」
と、聞いたことがある。
「それは、違うんだよなぁ〜。隣でなにもせずに見てるってのが、いいんだよ。」
同じように、同じことをしているはずなのに
私はその余白が足りていないのだ。
言っていた意味が、ゆっくりと喉の奥から下る珈琲と一緒に染みていった。
―――
マグカップを片手に、
自身の仕事部屋へと移動する。
彼はいつも、電車に揺られ会社へいく。
私はいつも、自室にあるパソコンの元に行く。
どちらにも、善し悪しがあれど
朝に弱い私にとっては、この仕事環境が最適解だと思ってやってきている。
だが、考えてみると、
さっき同じような……
《彼にあって、私にないもの》
それが浮き彫りになっていくような、変な感覚に襲われた。
振り払う様に、パソコンを立ち上げ
自身の“一方的な”世界へ意識を向ける。
メールのチェックからはじめ、進捗を確認し
必要ならば、リモートで会社へと繋がる。
話しかけても、反応はない
アナログやデジタル達の
文字の羅列と共に仕事を進めていくのだ。
―――カタカタ
と、小気味よくキーボードが音を奏でる。
ゆったりと流れて居る時間のように見えて
実の所
何か焦燥感のようなものを感じる。
さっきの、豆を挽き始めた機械がまるで
自身はやるべきことを、やりはじめた。
ガリガリ、と音を立てて
―――お前はどうだ。
と、言わんばかりに。
見せつけられている様な……そんな。
苛立ちや、自慢の類。敵意。
手が止まる。
やることを終えたからじゃない。
やる気が一気に削がれてしまったのだ。
かわりに、変な思考が張り付いて離れようとしない。
凝り固まった体と思考を誤魔化すように
んーーっ、と伸びをし視線を落とす。
連れてきたマグカップと目が合った。
お揃いは得意じゃないからと
なんでもない日に出かけた先で
別々に選びあって
互いにプレゼントしたマグカップだ。
私らしい、というより
彼っぽい、マグカップ。
そっと持ち上げて、口に運ぶと
先程までは火傷するくらいだったそれは
冷めきっている訳でもなく
中途半端にぬるくなっていた。
残りを一気に飲み干してから、潤う喉とは対照的に
物足りていないことに気づく
「何も食べてないや。」
ぽつりと、落ちた言葉は
特段誰かに拾われることもない。
立ち上がり、再びキッチンへと向かうと
か細い音を立てている珈琲マシーンは
残った珈琲をあの時のまま
いや、少し煮詰まったか。
ただ熱く保っているのに変わりはなかった。
静かに電源を落とし、
冷蔵庫にある、遠慮のかたまりの様な食材達を
全て取り出す。
空っぽだ。
せっかく、身支度はしている。
後で買い物にでも出かけよう。
とは言え
気分転換に、外食しよう。なんて
微塵も思わなかった。
今は、あるもので満足したかったのだ。
少しのお肉と
沢山の種類の野菜。
トマトが沢山あった。
スープは、ミネストローネにした。
沢山の緑に囲まれて、申し訳程度のお肉が肩身の狭そうな野菜炒めもできた。
我ながら、
《野菜炒め》と《ミネストローネ》
なんだか、変な組み合わせだ。
誰が食べる訳でもない、自分のためだ。
綺麗に盛り付けるとかではなく
朝の髪型のように
そのままの布団のように
その癖、ミネストローネにはパセリをふりかけ
誰に会うでもない
予定がある訳でもない私のメイクのように
そうしてまた、ぽつりと落とす
―――いただきます。
自然光に照らされた色とりどりの食事に
不釣り合いな程、静かな部屋。
1人になるといつもそうだ。
彼との食事は、楽しいのだ。
なんでもない1つの何かが、何度でも笑顔にさせてくれる時間になる。
決して一人の時間が嫌いな訳では無い。
むしろ、結構楽しんでしまえる方だ。
なのに、無いと解るとどうだ。
掛け直してくれる布団も、入れてくれる珈琲も
ボサボサな髪を撫でてくれる手も……
ふと、カーテンから漏れる光を辿り
屈託なく笑う彼の写真に目が止まる。
―――
あぁ、そうだ。
彼は、いってしまったのだった。
夢に見た、菜の花畑は
どこか、まどろみの中で出会った朝の光を思い出させた。
昨夜、私が閉め忘れたシャッターが
彼を連れてきてくれたのだ。
あるはずだったものが
まるで、冷蔵庫から取り出した我が手かのように
何かがさらって空っぽにしてしまったのだ。
―――どうやら、塩を入れすぎた。
あとで、残った珈琲にたっぷりの甘味をいれよう。
涙がこぼれる前に
塩の味が濃いことに、脳が追いつく前に
また急かされていることなどには気づかず
カチャカチャと残りの野菜炒めを口いっぱいに詰め込んだ。
―――
時間がゆっくりと流れる。
流しに置いた食器は、まだ時を止めたまま。
買い出しは後回しにした。
それよりも、仕事に集中したくなったのだ。
そこからの時間は、あっという間で
一段落して
背もたれに一気に体を預け深く息をつく頃には
視界の片隅の光は茜色に染まっていた。
ふと、思い出すのは
流しの食器などではなく
置き去りの珈琲。
預けた体重が自分に返って来た反動か
ふらりと立ち上がり
もう、部屋に運ばれる香りなどないはずなのに
引き寄せられるように足を運んだ。
無情な程静かな機械へと、手を伸ばす。
触れてみれば、やはり冷めきっていた。
……なら、いっその事カフェオレにしてしまおう。
牛乳、ガムシロップを沢山いれて
幸い、私が水を足したお陰で
冷蔵庫が氷を沢山作ってくれていた。
カラカラになって
朝の余韻を漂わせたままのマグカップに
添えてあるスコップも見えない私は
手づかみで氷を注いでいく。
あれだけ、顔を洗う水に痛いとすら感じ
出来たての珈琲に唇をヒリヒリとさせていたのに
冷たいとわかっていれば
どうという訳でもない。
そこに、少し濃くなっている珈琲を注ぐ。
遠慮のかたまりだった牛乳もそそぎ入れる。
あとはガムシロップ。
再び冷蔵庫の隅に追いやられた
テイクアウト付属の余り物たちの箱へ手を伸ばす
魚の形をした容器に入った醤油。
なにかに着いてたスパイス。
お弁当のソース。
隠れるように見つけたガムシロップは、
一つだけだった。
それでもいいか、と手に取り
結露したマグカップ目掛けて注ぎ込む。
冷えて粘度の増したガムシロップは、中々落ちてはくれない。
それでも、私はゆっくりとそれを眺めて
余すことなく注ぎ切った。
さっき料理に使った菜箸の持ち手で
しっかりとかき混ぜ
立ったまま、ごくりと喉を鳴らした。
「苦い。」
思ったほどの甘さは無かった。
最後まで余すことなく、じっくりと待ったガムシロップは
遠くの方で手を振っていた。
それでも、美味しかった。
じんわりと、色の変わる部屋。
飲み干してしまう前に、と
カーテンをあけ、そのまま窓も開け広げる。
春の風が、ふわりと部屋へと招かれる。
明日は雨だろうか。
ほんの少し湿っぽい匂いがする。
それなら、買い出しに出かけていればよかったかもしれない。なんて言う思考も回る。
―――彼ならきっと
「まーた、洗い物置きっぱにして」
と、鬼の首を取ったかのように
親に告げ口している少年のように言うだろう。
そんな風に言うのに、
それすら楽しそうに食器を洗い出すのだ。
そうだね。
春に混ざった雨の予感を、そっと閉じ
そっと彼の笑顔を一瞥する。
《私にとっての、余白はあなただったんだ》
―――
あれから、私は変わることが出来たのだろうか。
余白を慈しむ彼と
余白に追われる私。
同じことをしても、同じようにはいかなくて
あの、珈琲豆は
あと何回分残っていたのだろうか……。
全自動と謳っていた機械は
とても複雑な洗い物を要求してきた。
それは、やっぱり私にとっては手に負えず
また埃を被っている。
ただ、
ふと思い出したくなる時が来て
あの豆の瓶を空ける。
その未完成な匂いが、落ち着かせてくれた。
どうか、忘れてしまわないように必死だったのかもしれない。
あの日の翌日
案の定な雨の中、傘という大きな荷物と一緒に
私は買い出しへと出かけた。
その時、ただの気まぐれに目に付いた花の種を買って、それに必要なものを意気込んで全部揃えた。
周りからみたら
こんな雨の日に、そんなに買わなくても。
なんて事を言われそうな程、冷蔵庫のための食材と私の気まぐれを共に大荷物で家に帰った。
秋頃に漸く重い腰をあげ
プランターで、育てたこともない植物のお世話をはじめた。
芽が出たと思えば水をあげすぎ枯れて
慎重になればなるほど、思うように行かず
何度も一喜一憂し
1年やっても
咲いてくれることはなかった
性にあわない!と、投げ出そうとも考えた。
2年、3年目位からだろうか
コツというのか、掴めてきた。
その次の春、初めて花を咲かせることができた。
朝起きて
寝ぼけた視界に入った黄色の花は
色褪せることのない彼の笑顔のように
私の心を一気に明るくさせた。
そんな日を振り返ると、
もうどのくらいの時が経ったのか
何度目の春なのか
そんなことも数えて居られなくなった。
そんな頃、
―――妹に、子供が生まれたと聞いた。
4000gを超えるビッグベイビーだ。
女の子だったらしい。
(私も、おばちゃんか。)
そう思った。
自覚していないわけではないが
妙に突き刺さったのだ。
だから、名前で呼ばせる!と、
まだ何も話さない姪っ子に向かって
必死に自分の愛称を繰り返す私に
「もー、お姉ちゃんってば、まだ、早すぎるって」
と、本当に面白そうに笑う妹。
うん。そうなの。
せっかちで、
珈琲が出来上がるまでも待てなくて
なのにメイクはちゃんとして
食器は置きっぱなしなのに
小袋の調味料はストックする
それが、私だ。
だけれど、
ガムシロップを待ってみたり
ベッドメイキングをしてみたり
食器は水につけて
調味料の賞味期限を気にするようになった
育てた種も、小さな黄色い花を沢山咲かせた。
嬉しくて、愛おしくて
毎日隣に座って、目に見えた変化なんてなかった。
気づいたら少しずつ、少しずつ
育ってくれていた。
大切に。毎年変わることなく育てた。
記憶の奥で、彼が言う。
『隣でなにもせずに見てるってのが、いいんだよ』
私の中に、ちゃんと彼がいる。
私がずっと1人なのを気にしてか
妹は姪っ子を連れて、よく遊びにきてくれた。
人が来るというのは
掃除や片付け、何か出せるものを
なんて、自分事だけではなく、捗るものだと知った。
早い早いと言われていたが、
姪っ子は私のことを愛称で呼んでくれるようになった。
一緒に色んな景色を見に行って
出かけることも増え、前より一人の時間の大切さも感じるようになっていった。
大きくなる事に、回数は減っていったものの
時間の使い方が器用になったように思う。
……それすら、懐かしい。
―――ピンポーン
「はいはーい」
ふと、鳴ったインターホン。に
意識がじんわりと戻される。
小走りではない、ゆっくりとした落ち着いた足音だ。
部屋中にはすでに
嗅ぎなれたはずの珈琲とは
少し違う香ばしい香りが鼻をくすぐる。
いくつかの足音
遠くで、はしゃぐ子供の声。
何故だか、時間の感覚がない。
重たいまぶたの先
仄暗さを感じる視界で、
朝なのか、昼なのか。
はたまた、夜なのか。
シャッターは閉まっているようだ。
お花は、枯れてないだろうか。
無邪気な声をかけられた気がした。
姪っ子かな。
ありったけの思考を巡らせるが
認識できないでいることなど、もう
どうでもよかった。
夢のような生と死の狭間にしがみつく私は
再び、目を閉じる。
―――
菜の花畑の真ん中
あの時と変わることのない彼が、
あの時と変われない私に
大きく腕を振っている。
なんだか、とても身体が軽い。
嬉しい気持ちいっぱいに
自分でも驚くほど自然に駆け出していた。
そのまま、彼へと飛び込んだ。
「おっ」と、声を漏らし
私を受け止める彼の匂いを思いっ切り吸い込み
焦らすようにゆっくりとゆっくりと吐き出しながら
ずっと、伝えたかった言葉を
そっと、渡す。
「会いたかったぁ。」
―――あぁ、菜の花の匂いがする。