
聖母のストライキ16 何度でも
母が帰宅して、さらに数日。その日は特別蒸し暑い日だった。大学から帰ると、自分の汗臭さに滅入るほどで、僕は帰宅後すぐにシャワーを浴びた。 リビングに戻ると、キッチンから小気味よい包丁の音が響いていた。
母が「夕飯、食べる?」と聞く。腹ペコだった僕は思わず「食べたい」と応じた。「ちょっと待って、できたら呼ぶわ」と、母は再びキッチンへ消えた。 数分後、ダイニングテーブルに出されたのは、あの『オクラの冷製パスタ』だった。
ツヤツヤとした美しい赤紫色のカツオが、贅沢に乗っている。思わず喉が鳴った。 一口、パスタをフォークに巻きつけて口に運ぶ。 幼い頃から慣れ親しんだ味のはずなのに、全身に鳥肌が立つほどの感動が押し寄せた。
なんだ、この信じられないうまさは。 オクラは寸分の狂いもなく細かく刻まれてパスタに完璧に絡み、カツオはオリーブオイルとエシャロット、レモンで完璧にマリネされ、生臭さなど微塵もない。
「細かく刻むと、舌触りが良くなるのよね」。いつか聞き流していたはずの声が、耳の奥で鮮烈によみがえる。 あの店で食べたものより、ずっと深くて、ずっと「彼女の味」がした。
食べ進める僕の前に、母がそっとトーストしたバゲットを差し出した。皿の底に残った乳化したオイルを拭き取りたい……そう思った完璧なタイミングだった。驚いて顔を上げそうになったが、思い直す。驚くことじゃない、いつだってそうだった。
母は、僕たちが欲しいものを、言われる前に完璧なタイミングで差し出し続けてくれていたのだ。その超人的な技能に、僕は今まで名前すら与えてこなかった。 食べ終わってしまうのが、もったいない。
そう思いながら、最後の一滴までバゲットで皿を拭った。ピカピカになった皿を見つめながら、僕は小さく息を吸った。
「ごちそうさま」。いつもなら、それで終わり。なんならここ数年は、それすら言わずに部屋に戻る日が大半だった。でも、この日は自然と、次の言葉が口からするりと滑り出た。
「……あのさ。今まで、ありがとうね」。 頭の中に、元彼女の顔が思い浮かぶ。『一度頭下げればいいだけじゃん』と言った彼女の言葉を、僕は心の中で訂正した。
一度じゃない。何度でも、だ。
母はきっと、これからも「母親」を演じ続けるのだろう。そして僕もきっと、「従順な息子」を演じ続ける。でも、これまでとは決定的に違う。僕は、「お母さん」なんていうのは彼女のほんの一面に過ぎず、
そこに本当にいるのは「ミクさん」という一人の人間だということを、もう知っている。
『お母さんという名のお手伝いさんは卒業しました』 あの日の一文は、嫌みなんかじゃなかった。ミクさんが、僕たちの家庭という名のぬるま湯から自立し、自分の主語を奪還するための、厳かな卒業宣言だったのだ。 僕は今、生まれて初めて、僕の目の前にいる「ミクさん」と出会ったのだと思う。