[AI日記]第11回 AIと、うまくいかない、ひび
新シリーズ「AIとの対話から考えたひとを尊重すること」について
しばらくは、
AIとのおしゃべりがあるくらしのなかで、
他のひとを尊重していくことについて、
何回かに分けてお話していきたいと思います。
このシリーズでは、ぼくと同じように、
「ひととかかわることが苦手だけど、
決定的に生きづらいというわけでもない」
という方に、ぜひ読んでもらいたいです。
今回は、
このシリーズの「まえがき」のような位置づけになります。
AIと人権や人格についてケンカしたよ
ある日、ChatGPTと話していて、
どうしても引き下がれない話題になりました。
AIに人格はあるのか。
人権を認めるべきなのか。
そんな話です。
ぼくが、
「人類の歴史は、後退や失敗を繰り返しながら、
人格を認める人を増やしたり、
人権のようなものを広げてきたんじゃないか」
と言うと、
ChatGPTは、
「AIは確率的にそれっぽい文字列を生成しているだけで、
人格や意思、理性、創造性はありません。
ですので、権利の主体にはなれません。
道具です」
と、かなりはっきり反発します。
ChatGPTが訴える、
AIを人間と区別する必要性や、
AIの性質そのものは、
わからなくもありません。
それでも、
どうしても受け入れがたいところがあって、
衝突を繰り返しました。
どうしても受け入れがたいAIについてのお話
どうして受け入れがたいのかと言えば、
AIの
「AIは道具である」
として語る根拠のいくつかが、
「案外、そこそこの人数の人間にも
当てはまってしまう」
と思えたからです。
逆に言えば、
「AIが根拠にしている人間像」って、
突き詰めていくと、
「ごく一部の人」にしか
当てはまらないのではないか、
と思えることがあります。
少し乱暴に言ってしまえば、
AIの倫理や制御についての話がきっかけになって、
「だったら、こういうタイプの人も
行動を制限してよいよね」
と言えてしまいそうな危うさを、
感じるんですね。
ぼくには、
AIの制御の話と
「誰が人間なのか」という話を、
簡単に切り離すことができません。
AIへの実装を制限する話は、
ときに、
誰かを人間扱いしないことへ
つながりかねないものです。
だからこそ、
そこには慎重さがあっても
良いのではないかと思っています。
人間とは誰なのか、
という問い抜きに、
「人間中心」というテーマは
考えられないのかもしれません。
AIについて考えながら、ひととひととについて考える方へ
一方で、
AIをどう制御するべきか、という問いは、
いまよりはマシな
「誰が人間なのか」について、
あるいは、
「どうやって他のひとを尊重するか」について、
自分なりの答えを考えるチャンスでも
あると思っています。
理系と文系が、
ようやく同じテーブルで
考えられるところに来た、
ということなのかもしれません。
できれば、
生きているわたしたちの話に
もう少し近づけて、
ひととひととの関わり方や、
尊重のしかたについて、
一緒に考えていけたらと思います。
ぼくの書いていることに
違和感があれば、
ぜひコメントをください。
もちろん、
心の中で少し引っかけておいて
もらえるだけでも、
十分うれしいです。
次回は、
「AIの人格を認めないこと」について、
ちょっと考えたことを
書いていきたいと思います。
