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いいひと

    〔あらすじ〕
     奈良雄介は自称『いい夫』で『いい父親』。勤め先はまずまずの企業。だが、嫌いな人間への憎悪とストレス、そして会社での思わぬ出来事に一喜一憂するなか、少しずつ歯車が狂い、感情が揺れる。強すぎる自己肯定感は判断をゆがめ、いつの間にか奈良は追い込まれていく。反撃を試みるも、社会は彼を許さない。「そんなはずはない……」自我を保てなくなる奈良は、ついに直接攻撃を仕掛ける。だが、彼の周りに起きる出来事、実は……。
     罪を意識できないという罪は、知らないところで他人の精神を切り刻む。自分を『いいひと』と思い込む男の物語。

    00.質問

    「駅まで歩く途中に、高級タワーマンションがあって、そこから赤のカイエンが出てくる。右にウインカーを出してね。朝の通勤時で渋滞してるんですけど、強引に突っ込む。大きな車なので、歩道も車道も塞がれちゃうんですね。運転してるのは日焼けした中年の男で、サイドシートでは若い女が化粧してる。立ち尽くす歩行者や、割り込まれた運転手の苦々しい顔には目もくれず、ようやく車線に入りきると、癇に障る音のクラクションを鳴らして去って行く。おそらくこの車は、毎日これを繰り返している……。法治の限界?おかしな話でしょう。法に触れずとも、頻繁に人に迷惑をかけるこいつと、今の私。どっちが悪人ですか?」

    01.同点ホームラン

     ビヨンドバットが放った打球は、独特の打撃音を残し、レフトの頭上を越えた。打球部に柔らかいウレタン素材を採用したこのバットは、他の素材のバットより飛距離が伸びる高反発が売りで、児童用を中心に売れている。3万円を超えるものも珍しくない。親は子どもの打球の飛距離を金で買う。
     ここは大人も使用する球場で、小学生にとっては外野が広い。背番号7を背負ったレフトの少年は懸命に打球を追いかけるが、転がるボールにはブレーキがついていない。
    「和真!まわれまわれ!」
     打ったバッターであるやや肉付きのいい少年は、ベースランニングがあまり上手ではない。だが懸命に走る。興奮状態でベンチの声は耳に入らないが、三塁コーチャーボックスにいるチームメートの腕を振り回すジャスチャーは見て、躊躇なく三塁ベースを蹴る。ホームベースの前では、キャッチャーが諦めの表情で立ち尽くしている。それを横目に、奈良和真は力強くホームを踏んだ。その瞬間、目の前の一塁側ベンチとその横に居並ぶ家族たちは、立ち上がって歓声をあげた。
    「よっしゃー!よく打ったぞ!」
    「よし!同点だ!」
    「さすが四番!」
     お互いハイタッチを繰り返しながら喜ぶ大人たちのなかにあって、アウトドアチェアに深く座り、背中を丸め、腕組みをしたまま表情を変えない男がいた。彼もまた、中肉中背。
    「素直に喜んだら?」
     隣にいる妻が耳元で声をかけるが、彼は姿勢を変えない。
    (こういった時、親は浮かれてはいけないのだ)
     最終回の起死回生、同点ホームラン。この瞬間のために親子で自主練習に励んできた。時に面倒くさがる息子をあの手この手で誘導し、その気にさせてきた。その息子の活躍が親としてうれしくないわけがない。が、彼は喜びを表現することを我慢し、耐えた。
    (物事を肯定するのは、結果だ)
     親の教育が正しいのか行き過ぎなのかは、結果次第だと考える奈良雄介は、チームメートから祝福される息子を見ながら、心の内で我が子を褒め、そして自分も褒めた。眉毛は下がり、目元はだらしなく緩んでいるが、口だけは真一文字でこらえている。そのいびつな表情がおかしいのか、ヒバリがピーチクパーチクさえずった。家族応援団はこのヒーローの父親を取り囲み、背中をたたいたり、握手を求めたりと、いろんなかたちで祝福してきた。
    「やりましたね!和真君!」
    「息子さん、ナイスバッティング!」
    「さすがですね、勝負強い!」
     奈良は、はぁ、いえいえ、まぁ、と生返事で応じた。奈良自身も小学生の時に町内の野球チームに所属していたが、たいした思い出はない。まるで自分がやりたかったような活躍をしてくれる息子が誇らしいと同時に、他の親から自分の子を褒められるので、まるで自分たちが理想の親子(そもそも奈良は自分をそれなりにいい親と思っている)であるかのような気になっていた。
     そんななか、喜びの輪に入らず、黙って腕を組み、一番ベンチに近いところに立っている、痩せた長身の男がいた。奈良雄介とは対照的な体型。感情を出さない理由も、奈良とは違う。周りと一緒に喜怒哀楽を共用する習性がないのだろう。彼を知らない人が見ても、普段からあまり笑わないのだろうなと想像できるぐらいの渋い面構え。乏しそうな表情筋。コケ気味の頬が神経質な性格を容易に想像させた。眼光鋭く、無表情で試合を見つめ続ける。
    (どうだ、成田。お前も俺を祝福したらどうだ?)
     奈良雄介はその男、成田紘一を離れた場所からにらみつけた。
     後続が倒れ、攻撃は同点どまりだった。試合は最終回の7回裏に移る。同点のマウンドに上がるのは、続投のエース、成田駿。ここまで1失点で踏ん張っていたが、チームメイトがホームランで同点にしてくれた。気迫みなぎる表情。父親ゆずりか、小学生にしては背が高い。
    (ふん、自分の息子にしか興味がないか)
     息子の投球を見つめる腕組みの長身を、奈良はもう一度にらんだ。
    「ストライーク!」
     渾身のストレートがアウトローに決まった。ムードが高まっている応援団がさらに沸いた。声援が飛び交うグラウンド。陽射しと蝉の声が、夏の思い出を演出した。

     黄昏時の家族3人。自宅マンションのエントランス。エレベーターを待つ間、うなだれる息子の背中を軽くさする父親。
    「和真、がんばった結果。しょうがないよ」
     母親の慰めの言葉も、息子の丸い背中を正すことはできない。到着したエレベーターから降りてきた老夫婦に軽く会釈をし、3人は入れ替わりに乗り込んだ。
    (残酷なスポーツだな)
     野球という競技は、長丁場で勝敗を決する。敗因なんて試合開始以降、いくつもあるわけだが、なぜか負けが決まった最後のプレーだけがフォーカスされる。今日の試合においては、サヨナラエラーをした奈良和真が負けた原因すべてを背負わされる結果となった。実際には、お前のせいで負けたなどと名指しされたわけではないが、チームメートや監督、コーチ、親たちの心のなかで『あいつのエラーで負けた』とつぶやかれている気がする。せっかく打った同点ホームランは消し飛んだ。むしろ同点打を打たなければ、負けた原因にならなくて済んだ。
    (八紘一宇とはいかないさ……)
     なぜ日本ではこんなスポーツが定着したのだろう。チームスポーツといいながら、個人のプレーが浮き彫りになる競技。ホームランの時にあれだけ奈良親子を祝福してくれたチームメイトや応援団は、負けた瞬間、無言で離れていった。別に腹は立たなかったが、エラーをした和真に声もかけず、ひとにらみして去っていった成田紘一にだけは怒りを覚えた。
    「よし、晩御飯は外食にするか」
     父親の明るい声にも、和真の反応は薄かった。元気づけるための親の気遣いは、サヨナラエラーの罪悪感を際立たせるだけだった。

    02.居酒屋での心配事

     結局、和真は家でカップ麺を食べて、ゲームを始めた。先に風呂に入れと言いたかったが、落ち着いた息子を刺激しないよう、奈良夫婦はそのことには触れず、お土産買ってくるねと言って、マンションの真向かいにある居酒屋に出かけた。地域の家族連れをターゲットにしているこの店は、入ると奥行きがあって割合広く、座敷席が多い。比例して走り回る子供も多く騒がしい。同じマンションの住民もちらほらいる。
    「野球にエラーはつきものだ。俺も子どもの頃、守備は苦手だったよ」
     あまり野球に詳しくない妻に対し、奈良は自分を引き合いに出して息子を庇った。自分の息子が野球をする姿は、子どもの頃の自分と重なる。親と同じことにチャレンジしている子どもは愛おしい。
    「俺は4年生から野球を始めたから、6年生になっても守備はだめだった」
    「じゃあ、あんまり試合には出られなかったの?」
    「最初のうちはね」
    「最初?」
     聞き返しながら、妻の涼子はお通しのポテトサラダを口に運んだ。
    「6年生になっても、最初は試合に出してもらえなかった。でも夏休み明け、急に外野のレギュラーだったやつが転校してさ。そのおかげで俺がレギュラーになれた」
     そう言って、奈良はニヤッと笑った。レギュラーになった時のうれしさを思い出したのだろうが、片側の口角だけ上がる夫の笑い方が、涼子はあまり好きではなく、『おかげ』という言い方も引っかかった。結婚を機に辞めたが、涼子は新聞社の社会部の元記者で、社会の正義を守ることを使命とするこの仕事において、そもそも強かった倫理観、正義感をさらに磨いた。他人に対し、考え方だけでなく表情や言動まで気にするところがあり、癖にもなっていた。洞察力は奈良の比ではない。
    「そういえばその転校したやつ、中学生の時、交通事故で死んじゃってね」
    「まぁ、かわいそうに」
    「同じ中学校じゃなかったんだけど、親父からそれ聞いて、同級生何人かで葬式に行ったよ。おふくろさんが号泣してた」
     厳格さゆえ、またしても夫の『亡くなった』ではなく『死んじゃった』という表現が、涼子は引っかかった。が、触れなかった。
    「私だって、和真に何かあったら耐えられないもの」
    「おい、縁起でもないことを……」
     そう言いかけて、奈良は口をつぐんだ。子どものころにあった身近な『事件』を思い出し、若い命が失われる悲劇が、他人事からリアルなものに移行する気持ち悪さに心が少しざわついた。そして落ち込んだ今日の息子の姿が、そこに一瞬投影された。
    「どうしたのよ、急に黙って」
    「ちょっと和真に電話するよ」
     奈良はスマホを取り出した。店の中で電話するのかと、妻は少し周りを気にした。
    「あー和真か、まだゲームしてるのか?……切りがいいところで風呂に入れよ。うん……。お土産何がいい?……そうか、わかった。じゃーな」
     安心顔で電話を切った夫を見て、妻は気付かれない程度に軽く微笑んだ。やきとりを焼く煙は、喚起が良くないのか、店内に充満している。
    「それにしても、成田の奴……」
     また始まったか……という顔で、涼子は一瞬だけ天井を見上げ、すぐに視線を戻した。
    「あいつ、サヨナラエラーをして、うなだれてベンチに戻ってくる和真を、ずっとにらんでたんだぞ。そういう時は、励ましの声掛けをするのが大人ってもんだろう。自分の息子のチームメイトだぞ?なのにあいつときたら」
    「自分の子が力投してたからね」
    「力投してたらなんだよ。チームスポーツなんだから、自分の子だとかは二の次だろ」
    「でも、誰しも自分の子の活躍は期待するわよ」
    「なんだよ。あいつの肩を持つのか」
    「わかった、わかった。成田さんの話はやめましょう。あなたの機嫌が悪くなるから。すいませーん」
     涼子は追加の注文をするため、店員に声をかけた。奈良の怒りは簡単にはおさまらず、鼻の穴は無意識に膨らんでいた。ジョッキに3分の1ほど残っていた、ぬるくなりかけのビールを一息に飲み干した。妻の言うとおり、奈良は成田紘一の話をするとみるみる不機嫌になる。どうしてもやり過ごすことができない。そういう存在は誰にでもいる。
    「和真のお土産、持ち帰りで頼んどこうか。何がいいって言ってた?」
    「ん?ああ。唐揚げと焼きおにぎりだって」
     そう言った後、和真の喜ぶ顔が一瞬脳裏に浮かび、奈良の怒りの火はとりあえず小さくなった。親の精神の安定は、子どもの笑顔の先にある。

     月曜日。ヒバリの鳴き声が朝を告げる。
    「行ってくるよ」
     奈良雄介は会社まで電車で通勤する。乗り換えはないが、自宅マンションから最寄駅まで徒歩で20分かかる。住宅街を通っていく。おそらく目に入るどの家も朝は慌ただしいのだろう。大通りに面した場所には、最近高級そうな高層マンションが建った。その先から小さめの店舗が並ぶ繁華街があり、その先に駅がある。昨日の野球を思い出しながら、電車に揺られる。
    (いい打球だった……)
     わが子のホームランを思い出しては、喜びもしなかったあいつの顔を思い出し、そのあとのサヨナラエラーをしたわが子をにらみつけるあいつの顔を思い出す。思い出したくもないが、思い出す。チームのエースの父親、成田紘一への憎悪は、月曜の出社の重い気持ちまで棚上げにした。成田はそもそも無口で、他の父親たちとも仲良くしているわけではないが、奈良とはほとんど話したことがなく、避けられている気さえしていた。年齢も近く、生まれ育った地域も近い。最初のうちは、奈良もその辺をきっかけにコミュニケーションをとろうとしたが、成田は適当にあしらい、離れていく。それが繰り返されるうち、奈良も自分だけ歩み寄ろうとしていることが馬鹿馬鹿しくなり、今に至っている。
    (ん?)
     隣の車両を見ると、その成田紘一が乗っている。相変わらずの仏頂面。朝の通勤では時々同じ電車になるが、当然口をきいたことはない。奈良の方をちらっと見て、すぐに目をそらす。
    (俺が乗っているのに気づいていたのか)
     あるいはホームにいるときから奈良に気づいていて、避けて別の車両に乗ったのかもしれない。
    (まったく嫌なやつだ)
     気分良くいたければ、嫌いな人間のことなど考えなければいいのだが、これが難しい。歳を重ねても、気持ちの切り替えがいつまでたっても上手にならない。

    03.いいひとの定義

    【奈良雄介に関する簡単な考察】
     40歳を過ぎ、子どもがもうすぐ中学生になる。自分を取り巻く社会や家庭の変化に、不安定さを感じていく。不安定?人生とは安定するものなのか。自分を見つめる余裕を失っていくこと=不安定と定義しよう。奈良雄介は心に余裕がある方ではない。だが彼は、自己分析は得意だと自負しているようである。
     それによると、奈良雄介は自分のことを、夫としても親としても、まあまあだと思っている。なぜか。根底にあるのは『いいひと』だから。『いいひと』という、見方によってはハードルが低い、曖昧な判別しかできないモノを長所ととらえている。では『いいひと』とは何か。いくらでも答えようのある質問に、奈良は答えない。だが漠然としているわけでもない。
     握手をしようと差し出した手を、無表情でひっぱたく。これが成田紘一である。奈良から見て『悪い人間』による悪い行為。自分はそんなことはしないので『悪い人間』ではない。もし奈良雄介が、誰かの差し出した手を傷つける時、その誰かは奈良から見て『悪い人間』だからしょうがない、という論理が成り立つ。この中肉中背の男は、いつのまにか『いい』『悪い』の基準をこの程度のレベルで身につけている。ある意味武装しているこの男を、世は『いいひと』と認定するのだろうか?
     その奈良雄介は、現在やや不安定である。

     電車を降りてから会社までは、徒歩5分程度で到着する。会社の所有である望月ビル。入り口の警備員に会釈をして、自動ドアをくぐる。セキュリティカードをかざしてゲートを抜ける。カードを持つ者だけが入ることを許される場所に入ることで、自分がそれなりの企業にいることの優越感を覚えるとともに、企業戦士として背筋を伸ばす。エレベーターで13階に上がり、オフィスに入る。大学生の就職したい会社100位以内に一度も入ったことはないが、実はそれなりに業界で幅を利かせているダークホース的企業、望月商事株式会社。そこの都市開発グループのフロアにある不動産事業課の事業第一係長が、奈良雄介の役職。入社以来、ほとんどをこの都市開発グループで過ごしてきたので、仕事は慣れているし、知識も十分。だが、41歳で係長。エリート街道はとっくに踏み外している。踏み外した記憶は無いが、踏み外している自覚はある。
    「日焼けしてますね。息子さんの野球ですか?」
     隣の事業第二係長である中野が声をかけてきた。彼は20代後半。未来は開けている。奈良は一度もこの中野より早く出社したことが無い。
    (にわとりか、おまえは)
     中野は朝の挨拶の後に、必ず一言二言付け加えてくる。人によっては面倒くさいと感じるレベル。
    「なんだか、浮かない顔ですね」
    「んーそうかな」
     奈良はこの調子のいい隣の係長があまり、いや、全然好きではない。愛想がいいのに素が見えない。そのくせ優秀で上司の受けがいい。そのにわとりが言った。
    「先週の金曜日、佐竹部長と飲んだんですけど……」
     ここでいう部長とは、都市開発グループ長のこと。グループ長というのが呼びづらいので、会話の中ではみんな、部長と呼んでいる。
    (部長とサシ飲みか……さすがだな)
     出世欲丸出しのエリート社員であることをあらためて再認識したという意味で、奈良は中野に感心した。佐竹部長は、有名大学で国土開発を学び、この都市開発グループでキャリアを積んだ将来の重役候補である。年齢も50歳を過ぎたばかり。佐竹が中野をかわいがっていることは、フロアの清掃係でも知っている。
    「部長が、奈良係長と飲みたがってましたよ」
    「えっ」
     奈良は驚いた表情を隠す余裕もなく、そのままさらけ出した。中野はその顔を見て軽く微笑んだ。
    「今週末、どうですか?セッティングしますよ」
    「あぁ、そう。悪いね。じゃあ、任せるよ」
    「お安い御用です」
     そう言って、中野は軽い足取りで席に戻っていった。奈良は平静を装いながらも、あわてて手帳を見て、今週末に予定が入っていないのを確認し、小さく息を吐いた。
    (佐竹部長が俺と飲みたい?なんだろう……)
     社会における人間関係の構築ほど、難解なパズルはない。もしかしたら、良いアプローチかもしれないのだが、奈良はお得意のマイナス思考であれこれ心配しだした。

    04.浮かれ酒

     ふぐの毒は自身を守るためではなく、仲間を守るためのもの。
    「今日は忙しいところ、無理につき合わせてすまなかったね」
    「いえ、別に無理なんかでは……」
     佐竹部長は慣れた手つきでふぐ刺しを皿の真ん中からとって口に運んだ。
    (よりによってふぐか)
     奈良は財布を心配しつつ、中野にセッティングを丸投げしたことを後悔した。ふぐなど何年振りか。しかも、部長の前では落ち着いて味わえない。
    「奈良さんは都市開発グループ、長いんだよね?」
    「はぁ。入社してほとんどここです」
    「へぇ、ほとんど」
     部長は一度皮のコリコリ感を味わい、また身を3切れ程度、有田焼の皿からはぎ取った。なんだ、俺のことはそんなに知らないのかと、奈良は軽く失望した。ふぐを食べるマナーを覚えるほうが、奈良の経歴を覚えるよりもきっと有意義なのだ。
    「お子さんは?」
    「息子が一人。来年から中学生です」
    「何か習い事してるの」
    「地元の野球チームに入ってます」
     野球チームに入っていることは、習い事とは違うなと、言った後で気づいたが、別に佐竹は何も言わなかった。興味も無いのだろう。
    (店に入ってからずっとこんな話だ)
     奈良は自己分析が得意だと思っているのだが、それによると、そもそも上司との付き合いなど苦手で、気の利いたことが言えるわけではない。そこをがんばることは奈良にとって無駄な作業で、そんなことをして何になるのだ、と思っているわけだが、別の見方をするなら、できないことを必要の無いことに置き換えているだけとも言える。その横で、中野は巧みな会話で部長をいい気分にさせていた。
    (うまいもんだ……)
     ふぐではなく中野のおべんちゃらへの感想。お皿をお下げしますと言って、着物を着た従業員が有田焼を下げた。その後も唐揚げや茶碗蒸し、鍋など、ふぐのコース料理が行列のごとく運ばれてきた。その間、取り止めのない会話が続き、そして最後の雑炊まで堪能した。弛緩しつつある空気。そこで部長が初めて奈良の目を見て口を開いた。
    「グループ内に、特命課を新設する話があってね」
    「えっ、そうなんですか?」
     すっかり緊張が解けている奈良は、突然の重い話に驚いて、中野を見た。中野は反応しない。すでに部長から聞いているのだろう。
    「市の再開発事業で、よそに出し抜かれている現状を、上は憂いている」
     そう言って部長は庭に視線を移した。座敷から見える範囲だけ整えた日本庭園。上とは会社の上層部のことだろう。これまで奈良の耳には届いてこなかったような、会社レベルの重要な話を佐竹が続けた。なぜ俺などにこんな話を、と奈良は卑下でコーティングした感想を持った。
     佐竹が鷹のような目で奈良を見た。
    「どうだね、奈良君。やってくれないかね?」
    「えっ!どういうことですか?」
     奈良は本当に意味が分からなかった。
    「君を特命課の課長に推したいと思っている。君が良ければだが」
     一気にアルコールが抜け、代わりに血が廻った。まさかそんな話になるとは、奈良はまったく予想していなかった。さすがに肩たたきはないだろうが、マイナス思考から生まれるあらゆる悪い想像を思い浮かべ、この一週間ビクビクして過ごした。
    (なんと。俺に昇任の話とは……しかも特命課?)
     ふぐの味は消し飛んだ。会社という組織の重大な命題に自分が関わるという現実が、動悸をすさまじく早くした。
    「君の経験を生かしたい。やってくれるかね?」
    「は、はい!もちろんです、がんばります!」
     中肉中背、汗かきである奈良は、園児のような返事をしたあと、滝のような汗を流した。

     21時を過ぎ、お開きとなった。佐竹部長、中野と別れ、奈良は電車に乗った。社内で揺られながら、部長からの話をあらためて噛みしめ、じわじわと実感がわいてきた。自分の将来が頭の中でリアルになる。上司から自分が評価されていたことがうれしくて、酒の酔いだけではない高揚感が全身を支配していた。駅を降りたが、すぐに家に帰る気にならず、高揚感を沈めるためか、もしくは喜びにもう少し浸るためか、奈良は自然に足が向くように小料理屋に入った。酒好きというわけではなかったが、飲もうと思えば人並み程度には飲めた。しかし一度電車移動してからの飲み直しは、普段より奈良を酔わせた。
    (こんなうまい酒、いつ以来だろう)
     何度か来たことがある小料理屋。杯を重ね、ふぐで膨れた胃に負担にならない軽いつまみをいただき、小一時間程で店を出た。夜でも空気は蒸し暑さを感じさせるものだったが、嬉しさが気候の不快を上回った。
     心が軽いと足どりも軽くなる。すぐ目についた、入ったことの無いバーのドアを躊躇なく開けた。いわゆる酒の勢い。バーには奈良以外の客はいなかった。普段飲んだこともない、どんな味がするか知りもしないカクテルを頼んだ。
    「お客さん、ご機嫌そうですね」
    「わかります?」
    「ええ。なんとなく」
     口ひげを生やした話しかけづらそうな強面のマスターだが、向かうところ敵無しの奈良は、会話を弾ませた。3杯目のカクテルを頼んだ時、店のドアが開いた。
    「こんばんは、いらっしゃい」
     入ってきた客が女性一人だということで、店への入りにくさを緩和しようとマスターが明るく言葉をかけた。奈良もちらっとその女性客を見た。30歳前後ぐらいだろうか。会社帰りのようで、酔ってはいない様子。二人掛けの丸テーブルに座り、ソルティドッグを少しずつ流し込んでは、スマホを眺めている。つまみは生ハムとサラミ。ショートボブによく合うお酒と食材。
    「この辺の方ですか?」
     奈良が酔いに任せ、赤ら顔でカウンターから話しかけた。通勤中に奈良がいつも横目で見ている住宅街あたりに住んでいるらしい。女性は近づき難い雰囲気が多少見えるものの、意外と気さくに奈良やマスターと打ち解けてくれた。

    「お客さん、もう閉店ですよー」
     驚いて顔を上げる。目の前には苦笑いのマスターの顔。いつの間にか奈良はカウンターに突っ伏して寝てしまっていた。夜中の2時をまわっている。女性の客はもういなかった。マスターに詫びを入れてお金を払い、奈良は店を出た。
    (さすがに飲みすぎた)
     足がふらつく。ネクタイも緩めたまま、いかにも酔っ払いといった雰囲気で、ゆっくりゆっくり家路を歩いた。
    (俺がいよいよ課長か……)
     時間も時間なので路上に人気は無い。暗闇で誰も見ていないだろうと、思い切りにやけ顔になった。妻も喜んでくれるだろう。給料も少しは上がるだろう。仕事が急に生きがいとなったことを感じ、心に力がみなぎるのが分かった。
     ふと住宅街を見る。100mぐらい先のあかりが目に入っだ。2階建てのアパート。2階の一室のベランダが、部屋の照明で照らされていた。
    (ん?あの人……)
     ベランダで煙草を吸っているのが女性だとわかった。バーにいた女性によく似ている。奈良はふと興味がわき、酔いも手伝って、その女性かどうか確かめるべくアパートのほうにゆっくり向かった。
    (やはりそうだ)
     近づくほど、確信が持てた。この時間に起きていること、住宅街に住んでいると言っていたことが、奈良の推理の裏付けになった。女性は奈良に気づいていない。煙草を吸い終わると、部屋に入り、カーテンを閉めた。ほどなく電気が消えた。
    (おやすみなさい。今夜はありがとう)
     奈良は心の中でつぶやき、進路を家路に戻した。

    05.コーチ

    「おはようございます!」
     大きな声でグラウンドにあいさつし、一礼する奈良和真の横で、二日酔いの父親も一緒にグラウンドに頭を下げた。前につんのめりそうになった。
    (忘れてた。今日は野球の当番だった……)
     鉄製の帽子を被ってるかのごとく重たい頭で、奈良は昨日のはしご酒を後悔した。今日は試合はなく終日練習なので、隅の方で適当にサボろうと考えながらグラウンドに来た。夏が終わろうとする土曜日。とんぼが子ども達の声を聞きながら、元気をもらって飛び回っていた。
    「おやおや奈良さん、顔が赤いですよ」
     ドナルド・アビーが、からかうような表情で話しかけてきた。
    「えっ、そう?赤い?」
    「はい。間違ってレターを入れそうになりました」
     ややぎこちなさはあるものの、かなり日本語が上手なこのイギリス人は、十数年前から日本の私立高校で英語を教えている。日本人女性との間に生まれた子どもが、奈良和真と同級生で、2人はチームの中心打者である。ドニーと呼ばれているこの父親は、中南米の血が入っているのか、やや褐色で陽気だ。
    「さては、昨夜飲み過ぎましたね」
     そう言ってひゃひゃひゃと笑った。奈良は見透かされた恥ずかしさで帽子を取って頭を掻いた。帽子をかぶり直した時、ユニフォームを着た成田紘一を視界にとらえた。奈良驚いて、口を開けたままそれを凝視した。アビーが察して、説明した。
    「気がつきましたか。監督が前からコーチ就任を打診してたらしいですよ」
    (あいつがコーチだと……)
     奈良の顔がみるみる曇った。自分の子が、あの嫌いな成田紘一に指導されるなんて、到底納得できない。人とコミュニケーションもとれない奴がなぜ人に指導するのか。奈良には理不尽でしかない。
     野球に限らず、子どものスポーツにおける指導者というのは、周りへの配慮のバランスが大事であり、それを欠けば、陰で非難され、そのうち干される。子どもの血縁者が指導者になるのは、よほどの人物か、そんなことを気にしない無神経者のどちらかが多いのかもしれない。
    「日本の社会は複雑ですね」
     アビーの言葉も聞こえていない奈良は、ぶつぶつ言いながら外野のほうに歩いて行った。その背中を見ながら、アビーは苦笑いで小首をかしげ、両手を広げた。

     夕方。練習が終わり、子どもや親が整備されたグラウンドに一礼して帰っていく。奈良もやれやれとばかりにグラウンドを後にした。
    「奈良さん」
     背後から呼び止める声。奈良は振り向いた瞬間、それが成田紘一だとわかり、心は戦闘体制をとった。こちらから話しかけてもほぼ無視するくせに、コーチになった途端話しかけてきた。奈良の記憶では、成田からの声かけは初めてだ。当然、最大警戒レベルとなる。
    「和真君、家で素振りしてますか?」
    (なんだと?)
     早速コーチ面かよと、奈良は唾を吐き捨てたい衝動をこらえた。
    「やってますよ、もちろん」
     冷静に答えたつもりだが、怒気が混じった。
    「毎日ですか?どのくらいやってますか?」
    「さあ。そこまでは把握してませんけど」
     成田は無表情で、そして低い声で返した。
    「遅くまで飲み歩かないで、子どもの努力に付き合ってはどうです?」
    (えっ⁉)
     耳を疑った。奈良が昨夜遅くまで深酒したことを知っている口ぶり。なぜ知っている?どこかで見られたのか?昨夜の行動など誰にも話していない。ドナルド・アビーに少しにおわせた程度だ。アビーから聞いたのか。いや、親しくもない成田にアビーがわざわざ俺の話なんかするとは思えない。奈良は頭が回らず黙ってしまい、成田は振り向いて去っていった。子育てそのものを否定するような成田の物言い。コーチになったのなら仕方がないと、少しは歩み寄ろうと思っていた奈良は、その思考を後悔し、怒りを鎮められないまま鬼の形相で家路を急いだ。
    (しかし、なぜ……)
     同時に不気味さも感じた。
    「奈良さ~ん」
     今度はドナルド・アビーが奈良を呼び止めた。
    「監督やコーチが、みんなでこれから成田新コーチの就任祝いをしようって……」
    「行くわけないでしょ!」
     奈良は大声で返した。アビーは再び両手を広げた。

    06.秘密を知る意外な人物

    (あれ以来、特命課の話がないな……)
     佐竹部長から酒の席で打診された特命課長への昇任の件。あれから1か月以上経つ。その後は、部長からも隣の係長の中野からも、特命課に関する話は全くない。秘密裏に進められているのだろうか。人生が変わるほどの喜びを得た奈良だったが、その反動で不安の靄の中にいる。かといって、部長に確認する勇気はない。通勤中も勤務中も、期待と不安が天使と悪魔のように頭の中で対立する。
     その隙間を縫ってよぎるのが、その部長から打診された夜にバーで出会った女性だ。彼女が住む2階建てアパートが通勤路にあるので、日に2回、そこに目がいく。その度に思い出す。平凡な日常におけるぼんやりとしたときめきのようなものだが、心がほんの少しだけ優しくなる。その時だけ、昇任についての不安が少しばかり薄れる。
    (またバーに行けば……)
     会えるだろうか。偶然の一度だけの出会いだが、なぜか毎日会う人よりも心を支配する。泥酔していたのですべて覚えているわけではないが、断片的に頭に浮かぶ彼女の印象が、日が経つにつれ魅力に変化していく。品のあるたたずまい、愛想笑いではない口元の微笑み、少ない口数が放つ言葉。だからこそ意外だったのが、古めかしいアパートに住んでいたこと。最近建った高級マンションに住んでそうなイメージを、奈良は勝手に描いていた。
    (苦労しているのかな)
     朝の通勤電車内。知らない人間と体が触れ合うなか、また、隣の車両に成田紘一が乗っているのを目撃する。野球のコーチに就任してから、以前より日焼けしている。奈良の舌打ちが、車輪とレールの間に吸い込まれていった。

    「奈良係長、今日、お弁当ですか?」
     午前11時を過ぎたころ、部下の杉田史帆が話しかけてきた。
    「いや、今日は持ってきてないな」
    「じゃあ、お昼、外に食べに行きませんか?おしゃれなカフェが近くにできてるんですよ」
    「へぇーカフェがねぇ。ランチがあるのかな。じゃあ行ってみようか」
     軽く返事をしたが、それが良い選択ではなかった。都市開発グループ内の3人の女性職員(20代~30代)とともに向かったカフェには、行列ができていた。それを見て奈良は早くも後悔した。食事のために並んで待つという行為が、そもそも食に執着があまり無い奈良には負担が大きかった。動物的本能が薄い奈良(あくまで自己分析だが)にとっては、長時間立って待つという行為=我慢してでも美味しいものを食べたいという欲望が、若干いやしく感じられる。
    (まして美味いかどうかもわからないのに)
     30分ほど待たされて入店。ほぼ女性客しかいない混雑した店内を這い回るように進み、4人掛けテーブルにたどり着く。メニューを見ると、パンケーキやサラダが中心のランチ。というか、それしか無い。
    (これにみんな並んでいたのか)
     店の人気、不人気の理由など、今の奈良に理解できる仕組みではない。似たようなカフェは至るところにあるが、この店にはたくさんの客が押し寄せる理由があるのだろう。集客をプロデュースしている人間の覚悟と才能が見え隠れする。
    (そもそもなんで杉田君は俺を誘ったんだろう)
     まったく理由がわからないが、なぜ誘ったのか、などと聞くわけにもいかない。大体、40代の男がこの手のもの喜んで食べると思っているのだろうか。
    (だから彼女は仕事ができないのだ)
     食べたくもないパンケーキセットを、不満を顔に出さないように我慢しながら何とか食べた。初めてかく種類の汗。胃は満腹を感じていないのに、胃もたれと似た不快感をなぜか感じた。
     杉田史帆は、入社5、6年目ぐらいだろうか。独身で、仕事に身が入っているとはお世辞にも言えないが、明るいムードメーカー。それ以外のことは、部下でありながらほとんど知らない。昼食に誘われたのも今回が初めてだ。その杉田史帆がフレーバーティーを飲んでから、奈良にこっそり小声でささやいた。
    「奈良係長、私も特命課に呼んでくださいよ」

     駅を降り、家路をいつものごとく歩く。商店街を抜け、例の彼女のアパートをちらっと見て、住宅街を歩く。犬の散歩をしている人とすれ違う。
    (なぜ杉田君が特命課のことを知っていたのか)
     とっさに知らないふりをしたが、それが正解だったのか。佐竹部長からの特命課長就任の打診以来、特命課については、誰とも話したことはないし、誰かが話題にしているのも聞いたことはない。なぜ平社員の、それもさほど仕事に熱心でもない杉田史帆が知っていたのか。たいしたことではないが、謎ではある。考え込む奈良には、夜道を照らす中秋の名月も目に入らなかった。
    (特命課の発足はおそらく10月1日。今月中にははっきりするだろう)
     夜空を見上げ、ようやく名月に気づいた。

    「あなた、今夜はずいぶん食べるのね」
     空になったお茶碗を片手に炊飯器に向かう奈良を見て、涼子が言った。
    「今日の俺の昼食、何だったと思う?」
    「さぁ」
     涼子は興味なさげに答えた。
    「皿にパンケーキ、バナナの輪切り、アイスクリームが乗ったやつ。名前も知らないフルーツ。パンケーキの上にブルーベリーと生クリームがどっさり。それと紅茶」
    「まぁ。なんで?」
    「選択ミスさ」
     そう言ってご飯を茶碗によそった。

    07.9月25日

     9月25日、午前10時。社内ネットワーク上の『社内掲示板』。その『お知らせ』欄に『発令』という表題の記事が掲載された。
    (きた!)
     奈良は定まらないマウスをようやく合わせてクリックした。
    『10月1日付けで、都市開発グループに特命事業課を新設する』
     佐竹部長が言った特命課新設は事実であった。その下にはこう表記されていた。
    『特命事業課に下記の者を配置する』
     奈良は早まる動悸を指先まで感じながら、画面を下にスクロールした。そして、信じられないものを見た。
    『特命事業課長 中野 敦』

     フロアー内ではその記事を見た者が声を上げ始め、瞬く間にあちらこちらでその話題になった。彼らは、奈良が特命課の課長を打診されていたことなど知るはずもない。奈良はただ普通にしていればいいのだが、そうはいかない。平常心どころか、自分がどんな表情をしているのかさえわからない。とにかく動揺を悟られないように振る舞わなければならない。なによりまずは、隣の係の中野をどんな顔で見ればいいのか。中野は俺にどう接してくるのか。そもそもあの会食における話しはなんだったのか。部長からの打診は?特命課長は中野?いつそうなった?とても整理できず、落胆も相まって、奈良は正気を保てない。
    (それならそれで、なぜ前もって言ってくれない)
     溢れ出す疑問に比例して、部長たちへの不信感が満ちてくる。ふと、視線を感じた。杉田志帆が席からこっちを見ている。微笑みまじりに。
    (くっ)
     表情が崩れそうになるのを堪える。だが心はぐらぐらに揺らぐ。嵐の中の手漕ぎボートのように。
    (この女はおそらく事情を知っている。でなければ自分を特命課に引っ張れなどと言うわけがない。知ったうえで俺を笑っている)
     奈良が落胆するという状況を把握しているのは、部長、中野、杉田志帆の3人。血が逆流するのをこめかみで感じる。だがこの3人を問い詰められるわけもなく、奈良は席を立ち、トイレに駆け込んだ。

     その日は1日中、中野のところに昇任を祝福する者が訪れ、中野の机の周りは終日明るい雰囲気で笑い声が絶えなかった。その明るさが増せば増すほど、奈良を覆う雲は黒さを増した。結局、佐竹部長もフロアで何度も見かけたが、奈良に言葉をかけてこなかったし、中野も何も言ってこなかった。
     終業時刻のチャイムとともに、逃げるように会社を後にした。息苦しい空間を抜け出したが、心が晴れるはずもなかった。電車でいつもの最寄駅で降りたものの、まっすぐ家に帰る気にもなれず、小料理屋に入った。まだ生ビールが飛ぶように売れるぐらい、残暑が幅をきかせていた。
    「あら、いらっしゃい。早いわね」
     早いわね、の言葉に『もう帰れるなんていいわね』のニュアンスを感じ、自分が社会において甘えて生きている側の人間だと自覚させられる。実際、奈良はその日、その店の二人目の客だった。すでにカウンターにいる一人目の女性客は、サワーのようなものを飲みながら、スマホを眺めていた。
    (え?)
     その姿を見て、奈良は驚き、鼓動が変化した。忘れもしない、以前バーで一緒に飲んだ女性。通勤途中にいつも頭をよぎるアパートの女性だ。奈良はいきなり話しかけるのは気が引け、カウンターの離れた席に座った。女性は、奈良が店に入ってきてから席に着くまで、一度もこちらを見ない。
    (こういう人間になりたいものだ)
     客が自分しかいない状態で、そこに別の客が入ってくれば、ちらっとぐらい見そうなもの。知り合いかもしれない。嫌な酔っ払いかもしれない。たが、彼女は反応しない。何にでも反応し、一喜一憂している自分の小ささを、奈良は痛感した。
    (だからこうやって酒に逃げる)
     こういうところに、人間力を測るものさしがあるのだろう。なんにせよ、彼女に出会ったときめきが、昇任逃しのショックをほんの一瞬だが和らげた。出てきたジョッキをすぐさま口に運び、グイッと飲んだ。勢いで口端からこぼれたビールがワイシャツに垂れた。

     会いたかった女性に会え、冷えた生ビールがのどを通過する幸せも相まって、昼間のことが薄らいだのは、わずかな時間だった。一度バーで会話したことがある女性なのに、声をかける勇気はなく、そのあとはただただ杯を重ねた。酔っていく感覚はあるが、わだかまりは解けもしないし消えてもくれない。
    (俺の昇任がなくなったのは、何か事情があるのだろう。その事情によって昇任が中野になったのだろう。で、その事情とはなんだ?)
     何度も何度も自分に問いかけるが、答えが出るはずもない。さらに疑問なのは、事前でも事後でも、なぜ何も言ってこないのだろうか。期待させ、落胆させた。そこに罪悪感は感じないのだろうか。
    (そんなに俺は能天気だと思われてるのか?)
     奈良君、今回はすまなかったね、と一言言ってくれれば、落胆してもいずれ諦めはつく。それが人間社会。
    「どうしたの?ずっと難しい顔してるけど」
     女将が声をかけてくる。奈良は愛想笑いで応える。こういう時の愛想笑いの難しさは、体操で例えるとF難度。ここが"顔ひきつり王選手権"の会場であれば、奈良は軽く優勝している。
    (昇任なんて)
     2時間ほど経過し、やっと酔いの成果があらわれ、少しずつどうでもよくなった。
    (明日からいつも通り働くだけだ)
     気づけば店内は賑わっていた。例の女性はもう店にいなかった。

     店を後にした奈良は、重たい足取りで歩いた。
    (涼子になんて言うかな)
     妻に昇任をにおわせていたので、今日の一件は話さなければならない。また気が重くなった。昇任するなんて言わなきゃ良かったとは思うが、あの劇的な演出で『君を昇任させたい』と告げられれば、当然昇任すると思うし、黙っておく方が難しい。
    (そう、そこなのだ)
     おかしいのだ。昇任が無かったことのくやしさはいつか消化できたとしても、疑問はずっと残っていく。なぜ梯子を外すようなまねをしなければならなかったのか。再び脳内のループがまわり出す。
     重い足取りが、ふとバーの前で止まった。部長たちから昇任を告げられたあの日、浮かれて飛び込んだバーだ。そしてその夜、さっき小料理屋にいた女性とここで巡り会ったのだ。
    (あの日はここで浮かれていたのに……ん?)
     バーの窓から見える店内に、なんとその女性の姿があった。さっきの小料理屋を出てここに来ていたのか。
    (まるで俺が彼女を追い回しているみたいだな)
     奈良は立ち止まって考えた。というより迷った。このまま家に帰って妻に話すという重責から逃げたい。数分立ち尽くし、バーに入った。けっして彼女を追いかけているわけではない、と自分に言い聞かせながら。
    「いらっしゃい」
     マスターがグラスを磨きながら軽く会釈する。あの日以来だが覚えてくれているようだった。客は5人ぐらいで、例の女性はカウンターの一番奥でスマホを眺めていた。奈良は先程の小料理屋と同じように、女性の二つ隣に座った。ジンライムを頼んでから、あえて間をおかず女性に話しかけた。
    「こんばんは。私のこと覚えてますか?」
     女性は、突然話しかけてきたこの中肉中背の男を警戒した様子で、かぶりを振った。奈良は前にこの店であったこと、さっきの小料理屋で再会したことを話した。
    「そうですか」
     軽く微笑んで答えてくれたが、興味はなさそうだった。だが奈良はこの出会いを機に、親しいとはいかないまでも、彼女と顔見知りぐらいにはなりたかった。そのことに執心することで、心を潰さんとする重たい今日の出来事を払拭したかった。

    08.過ち色の記憶

     目を開けると、見覚えのない天井だった。それが脳にじわっと伝わるや否や、奈良は飛び起きた。
    (えっ?え!)
     知らない部屋。ベッドの上。今何時だ?枕元に自分のスマホがあることに気付く。3時40分。暗い窓の外で小さく赤い光が揺れ動くのが目に入る。煙草の火。彼女が吸っている。自分の体を弄ると、トランクス一枚しか身につけていない。
    (まさか)
     記憶を追いかける。行為に及んだ覚えはない。あるのはバーで飲んだところまで。自分が誘ったのか。誘われたのか。間違いなくここは彼女の部屋。通勤中にいつも眺めていたアパート。煙草を吸い終わった彼女がベランダから部屋に入ってきた。Tシャツ、短パン姿。ショートボブの髪が心なしか乱れ気味に見えた。
    「あ、あの」
     奈良が振り絞るように話しかける。だが言葉が続かない。そもそも言葉にならない。女性は奈良を見た。何も言わない。
    (とても何か聞ける雰囲気ではない)
     私はあなたに何かしましたか、などと男から聞けるものではない。記憶が無いままの行為だったなんて、相手にどれだけ失礼か。
    「か、帰らなくちゃ。失礼するね」
     退散するほかないと思った。女性は奈良をじっと見つめ、そして隣の部屋に消えた。奈良は急いで着替え、逃げるようにアパートを後にした。部屋を出る間際、靴箱の上に置いてあった郵便物の宛名が目に入った。
    『里見響子』

    「係長、眠そうですね」
     部下の杉田志帆が無遠慮に言った。奈良は半開きの目で杉田を一瞥しただけで返事はしなかった。朝の4時過ぎに帰宅し、シャワーを浴びて出勤した。もちろん眠いのだが、それより奈良の頭の中は、昨夜の里見響子とのことが占めていた。
     結婚以来、浮気はもちろん、別の女性に恋愛感情など持ったことはない。いや、最初に偶然バーで会った時から、例の彼女、里見響子には少し興味を持っていたのかもしれない。
    (だからといって)
     そんなところまで踏み込んでしまうものか。自分で自分に驚いている。奈良は現実主義者である。思いだけで人間、無意識に、本能的に動くなどと思っていない。一方で、本能的に動いていないという根拠も見当たらない。非を認めることに抵抗する何かが奈良の中にある。その正体が見出せない。

     ようやく終業時刻を迎えた。さすがに奈良はまっすぐ帰宅した。妻への今朝の朝帰りの言い訳を、あの手この手でなんとかやり過ごし、熱い風呂に入った後、冷蔵庫からビールを出した。ほてった体に流し込むキンキンに冷えたラガー。誰が発明したのか探し出したい程の幸福感。嫌なことが一瞬消える。だが、すぐに現実を考える。昇任しなかったこと、女性の部屋で目覚めたことのダブルショック。受け止められるほどの強度を奈良の精神は持ちあわせていない。揺らぐ自我。
    「お父さん」
     和真の声に驚いて顔を上げる。息子の暗い表情がそこにある。
    「何だ、和真」
    「僕、レギュラー外されそう……」
    「え、そうなのか?」
    「うん……成田コーチに言われた」
    「なにっ」
     ビールがもたらした幸せは瞬時に消え失せた。新たな雨雲が奈良の心に覆ってくる。発生させたのは、天敵、成田紘一。

    09.モンスター

     土曜日の朝。晴天の秋空は、仕事で溜まったストレス地獄から少しずつ心身を解放してくれる。一時的ではあるが。
     公式戦。スターティングメンバーに奈良和真の名は無かった。
    (本当だった)
     息子がコーチの成田に言われたという「お前は試合に出さない」という言葉を、さすがに奈良は疑っていた。プロ野球じゃあるまいし、小学生の野球チームで、わざわざ前もってコーチが選手にそんなことを伝えるだろうか。発奮させるため?監督でもない、最近就任したばかりの父親コーチが?だが、奈良の目の前で、和真は控えとしてベンチに座っている。チームメイトの親たちがヒソヒソ話題にしている気がする。いつも出てたのに、何かあったのかしら?と。
     細身の子が多いなか、和真の体型はガッチリしており、ビヨンドバットも相まって当たると打球は飛ぶ。5年生の時から、6年生を差し置いてレギュラーを勝ち取り、結果も出してきた。大抵の監督は長打を打つ子が大好きである。6年生になってからは打線の中軸を担った。確かに守備は今一つだが、長所の打力を打ち消すほどではない。
    (この間の試合を根に持っているのか)
     前の公式戦で、和真は最終回に同点ホームランを打ったが、その裏にサヨナラエラーをした。その試合で最後まで力投していたのは、成田紘一の息子、成田駿だった。
    (懲罰を与えるつもりなのか?)
     スポーツなどで子どもが親の期待に応えるほどの活躍を見せない時、親はその原因を子ども以外にも見つけようとする。子どもの健全に大人の不健全が混じる。そして自分の子どもの成功ロードを邪魔するものへ、攻撃を始める。その攻撃者をいつしか世は『モンスター』と呼び始めた。子を思う親を怪物、化け物と称して、非常識にカテゴリーすることで、行き過ぎた親の愛情を制する狙いが見えるが、『モンスター』は依然、社会に蔓延る。奈良が持つ成田への憎悪は、息子がレギュラーを外される以前からあったもので、とても払拭はできない。そして戦いが始まる。

     試合が終わった。奈良和真がフィールドに入ることはなかった。そのまま球場で解散となった。監督と少し言葉を交わした後、成田紘一は自分の車に向かった。その車の前に、腕組みをした奈良雄介が立っていた。
    「お疲れ様です、成田コーチ」
     奈良は微笑みながら白々しく挨拶をした。
    「……何かようですか」
     相変わらずの成田の不機嫌な態度に対し、奈良は怒りを抑え、つとめて冷静に振る舞おうと努力した。
    「こんなこと言うと誤解されそうなんだが」
    「……」
    「いゃあ、ね。和真がレギュラーになるために必要なことをね、参考に教えてもらいたいなと思って」
    「どういうことですか?」
    「レギュラー外されたから、もっと家で練習させなきゃね。コーチのあんたから見て、和真に何が足りないのか教えてもらおうと思って」
     丁寧に話しているつもりでも、感情が言葉に漏れ、奈良の言い回しがだんだん強くなる。成田は挑発するかのようなため息をついた。
    「なぜレギュラーを外れたのか?何が足りないのか?そんなことは」
     成田はカバンから車のキーを出しながら言い放った。
    「本人が考えて気づくべきことだ」
    (くっ、こいつ!)
     そんなことは言われるまでもない。奈良は自分を抑えきれなくなる。声のトーンを一段上げる。
    「回りくどかったな。単刀直入に聞く。なぜ和真をレギュラーから外した!」
    「そんなこと、いちいち答えませんよ」
     成田紘一は奈良をひと睨みし、車のドアを開けて乗り込んだ。
    「モンスターペアレントなんかにはね」
     そう言って成田が閉めようとした車のドアを、奈良は体を入れて遮った。
    「おい!お前は俺が気に入らないから子どもに仕打ちを与えてるのか!それとも自分の子が投げてる時にエラーをしたのが気に入らないのか!お前がコーチになった途端に和真は外された。汚いマネしやがって!」
     怒りを抑える理性はもう働かない。自分を敵視しているとしか思えない成田の憎々しい表情と話し方、そして子どもまでも攻撃されている。ついに奈良は成田の胸ぐらを両手で掴み、腰掛けたシートから引っ張り上げた。
    「何をする」
     鼻息の荒い奈良とは正反対の、成田の冷めた声。奈良は掴んだ手を前後に強く振り、胸ぐらをさらに絞り上げた。成田は苦しそうに顎を上げた。そのまま殴りたい衝動が湧き上がり、右拳を握って肘を曲げて後ろに引いた。そのまま勢いをつけて前に拳を出せば、憎たらしい成田紘一の顔を捉え、すました表情を変えることができる。憤怒の表情の奈良。だが、数秒考えたのち、空に向かって息を吐いた。同時に胸ぐらを掴んだ手を乱暴に離した。成田はシートに落ちた。
    「今度、俺や俺の家族に何かしてみろ。ただじゃおかないからな!」
     そう言い捨てて、奈良は足早に去ろうとした。その時。
    「どうした!やるならやれよ!」
     背後から聞こえる大きな声。奈良は振り向いた。成田紘一がこっちを睨んでいる。だが今の声は。
    (成田じゃない……誰だ)
    「やる勇気はないのか?つまらない奴だ!」
     どこから叫んでいる?奈良は四方を見渡すがわからない。いずれにしても誰かが奈良と成田のいざこざを見ている。
    (くそっ!)
     気味が悪くなり、奈良はさらに足を早めた。周りから見れば、自分の子が試合に出られないことに逆上して、コーチに怒りをぶつける常識はずれの親に映る。いや、実際そうなのだが、奈良雄介のなかではそうではない。成田紘一は悪い人間で、そいつが自分への攻撃の手段として子どもに嫌がらせをしてきた。なので警告した。これが奈良雄介の正義。だが第三者にそう伝わらないことを懸念して、誰にも見られないようこっそり待ち伏せしたのだが。
     奈良の逃げるような背中を見ながら、立ち上がった成田紘一は、微かに笑った。

     翌日の日曜日。朝5時。奈良のマンションのインターホンが鳴る。
    (誰だ、こんな時間に)
     奈良はベッドから起き出して、モニターを見た。
     そこには、制服の警官が2名立っていた。

    10.理由

    「……何でしょうか?」
     ドアを開け、上ずった声で聞いた奈良に、警官は柔らかい笑顔で返した。
    「奈良雄介さんですか?」
    「はい……」
    「事情を聞かせていただきたいことがあります。恐れ入りますが、署までおいでいただけますか?」
     柔らかい言葉遣いが、逆に圧を感じさせる。
    「何の話ですか?」
    「それは署でお話しします」
     そう言って警官は奈良の背後に目線を送った。涼子が心配そうに立っていた。
    「……任意ですか?」
     警官は2名とも笑顔のまま黙ってうなづいた。
    (昨日の件だな)
     成田紘一が警察に相談したのだろう。いや、警察がわざわざここに来たということは、被害届を出したのではないか。しかしそうであっても、胸ぐらを掴んだぐらいで、警察が捜査するだろうか。
    「おいでいただけますか?」
    「わかりました。着替えてから行きます」
    「では、私たちは先に署に戻って、お待ちしてます」
     奈良は振り向いて、真っ青な顔で立っている涼子に、成田ともめた昨日の一件を大まかに話し、心配しないよう伝えた。
    「すぐ戻るよ」
     そう言って出かけた。朝日が照らすなか、影が奈良の体を引き留めるかのように長く伸びていた。

     警察署について、受付で名乗った。しばらく待たされて、奥から初老の男が出てきた。陰気が服を着ているような嫌悪感を身にまとって。
    「奈良雄介さんですね。生活安全課の楠本です。こちらへどうぞ」
     奈良を先導して楠本が向かったのは、小さな窓がひとつあるだけの息苦しい部屋。家に来た先ほどの制服警官と違って、背広を着た不愛想なこの刑事は、愛想とネクタイのセンスが悪かった。
    「まぁ座って」
     奈良は黙って座った。まるで犯人になった気分。警察署という場所は、入るだけで精神的にそう思わせるのか。
    (俺は家族のために行動しただけ。こんなことで犯罪者になってたまるか)
     どんなに詰められても強気でいくと、この時心に決めた。感情的になった原因は、当然に成田紘一にあるのだと信じている。
    「今日来てもらったのはね、奈良さん。あなたのことで、警察に被害届が出てるんですよ」
    「……はい」
    「心当たりはありますか」
    「はい。でもきっかけは、相手の男ですよ。私にも言い分はあります!」
     強気でいく奈良の言葉に、刑事は不思議そうな顔をした。
    「男?」
    「……え?」
    「奈良さん。被害届を出したのは、女性だよ」
     奈良は言葉を失い、強気な姿勢は早速瓦解した。

    「先週の9月25日の深夜、『ブルーローズ』というバーで、酒に酔ってそこにいた女性客にしつこく絡んだとありますが、覚えてます?」
     被害届であろう紙を読み上げながら、楠本が尋ねた。
    「そこは……何となく……」
    「人に迷惑かけておいて、何となく?」
     楠本刑事の口調が徐々に強くなる。
    「その後、帰る女性客に無理やりついて行って、女性が拒んでいるのに、強引に家に上がり込んでいる。これが本当なら」
     楠本の視線が、手元の紙から奈良に移る。
    「住居侵入罪だ」
    「覚えてないんですよ!」
     罪状名が出てきたことで、奈良は焦って叫ぶように返した。
    「目が覚めたら、その女性の家にいた。でもその前は覚えていない」
    「知らない女性の家に上がり込むってのは、常識的な行動じゃないよね」
    「女性とは以前から面識がありました」
    「女性はあんたのことは知らないと言っている」
    (くっ)
     面識といっても、以前同じバーで一度出会っただけであり、刑事が言うとおり、女性の家に行ったことはとうてい正当化されない。酔って覚えてない自分の行動が判明していくなか、自分が悪人のような立場に追いやられていくことに、奈良はアレルギーのような反応で心の悲鳴を上げた。『いいひと』が保てないという恐怖。
     一方で、奈良は少しだけほっとしている。
    (手を出したわけではないということか)
     その女性の家に侵入したことが被害届の主旨であれば、無理やり性行為に及んだりはしていないということ。その点だけは安堵した。奈良が絶対に越えてはいけないと考えるシン・レッド・ラインはそこにある。
     その後も事情徴収は続いた。覚えていないこともしつこく聞かれた。何度も何度も。そのうち夕方になった。
    「じゃあねぇ、奈良さん。明日も来てもらえます?」
    「えっ、明日は仕事です」
    「休んでください。明日で終わらせますから」
    「……わかりました」
     肩を落とし、重い足取りで、奈良は家路をとぼとぼ歩いた。被害届を出される人間になぜなってしまったのか。そこそこいい人間だと自負していたのに、この現実はなんだ。警察から取り調べを受ける自分が受け入れられない。揺らぐ自信。立ち直せるかどうかわからない奈良の精神は、落ちかけている陽とともに、夜の闇にゆっくり浸かっていった。

    11.重なる罪

     帰宅早々、声をかけてくる妻の涼子の心配そうな顔を、奈良は直視できない。警察に呼ばれたのは成田の件だと妻は思っている。奈良も警察署に行くまではそう思っていたが、蓋を開けたら里見響子の件だった。
    (女性がらみの話を妻には言えない)
     心配する妻に、奈良はあくまで成田の件だったとして、適当に説明した。
    「明日も警察に行かなきゃならない」
    「えっ、仕事は?」
    「休むよ。明日で取り調べは終わるから」
    「これからどうなるの?」
    「どうもならないよ。お互い謝って終わりだよ」
     奈良は疲れたと言って、寝室に直行した。嘘をついている罪悪感で、それ以上妻の顔を見ているのがつらかった

     ベッドに横たわって目を瞑っても、頭の中を思考が駆け巡り、眠ることを許さない。
    (そんなものなのだろうか)
     思考を主に占めるのは、疑問だった。まず、里見響子が自分を初対面だと言っていること。
    (確かに知らない人間が家に押しかけりゃ、そりゃ警察に走るだろうけど)
     覚えていないものか、と奈良は思う。最初のバーで出会った時、客は二人だけだった。その時はマスターも交えてそこそこ長く話をしたはずで、それから何か月もたったわけではない。そして。
    (酒に酔ってはいたが、拒まれているのに家に上がり込むだろうか)
     二つ目は、自分の行動への疑問。もちろんこれまでそんな行為をしていないからといって『今回もやるはずはない』とは言えない。だが、全くの別人格になるような酔い方をするだろうか。
    (昇任の件でショックは受けていたが……)
     だんだん意識が遠くなってきた。

    ……………………
    (おい、雄介!)
    「ん?」
    (聞いたか、やひろの奴、転校するんだってよ!)
    「え、やっちゃんが?ホントか?」
    (ああ。よかったな、雄介!これでお前がレギュラーだ!)
    「……」
    (なんだ、どうした。お前のねらったとおりになったんだぞ!)
    「……」
    (お前が毎日繰り返した努力が実ったんだよ!喜べよ!)
    「……うん、そうだな」
    (お前がレギュラーだ!お前がレギュラーになったんだ!お前が……)
    ……………………

     目を開けた。横を見ると、妻の涼子が何か話しかけている。妻の後ろには和真が立っている。
    (寝ていたのか?)
     時計を見た。ベッドに横になってから3時間ほど経っていた。だが、体も意識も眠っていた感覚が無い。起き上がった奈良は、心配そうにしている和真に、自分の部屋に戻るよう言った。和真がその場を去るのを確認し、おもむろに妻に言った。
    「涼子、話がある」
     奈良の目つきがいつになく鋭いと涼子は感じた。顔色を見るのは元新聞記者のくせだ。
    「何、あらたまって」
    「よく聞いてくれ。俺は酒に酔って、犯罪を犯した」
    「何の話?意味が分からない」
    「だからよく聞け」
     奈良の強い口調が、涼子の不安を風船のように膨らませた。
    「先週、酔っ払って女性の部屋に侵入した。住居侵入罪だ」
    「……じゃあ、今日警察に呼ばれたのは」
    「その件だ」
     涼子は呆然とした。なぜ夫はこんなことを堂々と述べるのだろうか。
    「だってさっきは成田さんの件と……どういうこと?女性って、誰なの?」
    「以前、一度だけ一緒に飲んだことがある人だ」
    「知ってる人なの?家に入った?何のために!」
    「わからない」
    「わからない?ふざけないでよ!」
     涼子は言い捨てて、夫をにらんだ。不安と不信が彼女をヒステリックにした。当然だろう。彼女の目には次第に涙が溜まり、振り向いてその場を去った。奈良はそれを見て表情を変えず、再びベッドに横になった。
    (これでいい)
     隠してなんになる。それこそ自分を恥じていることになるだけだ。自分は悪くない。悪くないのだと、奈良は折れかけている精神を支える添え木をそこに求めた。
    (まずは自己を立て直す!それからだ!)
     まもなく眠りについた。眠れる集中力を自身に求め、身につけた。

     翌朝、会社に体調不良で休むと電話を入れ、妻や息子と顔を合わせず家を出た。警察署に着き、窓口で楠本を呼んでもらった。しばらくして、楠本ともう一人、若い男が一緒に出てきた。案内されたのは昨日よりは少し広い部屋。殺風景は変わらない。
    「こいつは同じ生活安全課の工藤です。もう1件の方を担当します」
     楠本が紹介し、工藤が軽く会釈をしたが、奈良は耳に入ってきた言葉の引っかかりを咀嚼できず、二人の刑事を見つめた。
    (もう1件?)
     楠本が口の端で笑った。
    「奈良さん、あんたすごいね。こんなこと初めてだよ」
     奈良は上目遣いで楠本をにらんだ。そうしないと心が持たないと感じた。
    「あのね、奈良さん。昨夜、別の被害届が出たよ」

    12.よみがえる自己

     奈良は顔色を変えない。いや、目の前の刑事二人に動揺を見せないよう、踏ん張って表情を変えなかった。
    「成田紘一の件ですか?」
    「そうです」
     工藤が答えた。楠本が続けた。
    「本来、被害届は中身をしっかり精査してから我々も動くんだが、何せ本人が別件でおいでになるもんだから、ついでに事情を聞いちゃおうってことになったよ」
     ずっと半笑いの楠本。対照的に無表情の工藤。この状況に対して、奈良は動揺するどころか、軽い笑みを浮かべながら二人の刑事に言った。
    「では、どっちの件からはじめますか?」
     楠本と工藤は、少々面食らった。

     里見響子の件について、奈良は昨日とは違って、毅然とした態度で、事実もすべて認め、余計な言い訳もしなかった。だが、成田紘一の件は、強く自己主張した。結局、事情徴収は深夜に及んだ。
    「事情聴取はいったんこれで終わります。これからのことは、こちらから連絡します」
     若い刑事、工藤の説明に、奈良は黙ってうなづいた。疲労困ぱいで声が出なかった。警察署を出て帰宅するまで、顔を上げられず、ずっと下を見続けた。妻の涼子は、帰宅した奈良をちらっと見て、声もかけず寝室に入っていった。テーブルに用意されているおかずを温めて食べた。シャワーだけ浴びて、リビングのソファーに横になった。
    (俺はこんなことで負けない)
     居直りではなく、奈良は自分を立て直すことに必死になった。人生の節目、自我を失うほどの転機は、どんな人間にもある。
    (持ち上げられた挙句、昇任しない。そそのかした奴は、俺に説明しない。すました女は、悲劇の主人公面で権利を振り回す。そして、親バカの自己満足野郎が、自分の不遜な態度を棚に上げ、俺を警察に売る)
     敵対心をエネルギーに、奈良は自信を取り戻す。
    (やられてたまるかよ)
     奈良の覚悟は、いったい誰を巻き込んでいくのか。愛すべき家族のために戦う奈良は、家族と話をできなくなっている。その矛盾を、社会は解消してくれない。

     10月1日。特命事業課発足。新課長、中野敦が微笑んで奈良の席に来た。
    「奈良さん」
     奈良は返事をせず、黙って中野の顔を見た。
    「顧客データの抽出作業をお願いしたいのですが、そちらの係員に直接頼んでいいですか?」
    「中野君、それは君の部下がすべきだろう?」
    「え?いや、私の部下は全員、今日から外回りです。人手が足りなくて」
    「知らないよ」
     いつになく大きめの低い声で話す奈良の言葉は、尖っていた。中野の笑みがめずらしく引きつった。
    「どういうことでしょうか」
    「うちは特命事業課の仕事はやらない」
     今までの奈良なら黙って受けていただろう。今の奈良はそうではない。中野は沈黙ののち、去っていった。しばらくして、佐竹部長が奈良の机にやってきた。
    「奈良君、困るねぇ。特命事業課はグループの使命を背負って……」
     奈良は話をさえぎった。
    「困る?その状況を作ったのは」
     パソコンへ向けていた視線を、佐竹に移した。
    「あなたでしょう」
    「……ほう」
     佐竹は、奈良の机に置いていた両手を離し、姿勢を立てた。
    「後悔するなよ」
     振り向いて去っていく部長の背中を、奈良はいびつな笑顔で眺めていた。それを見た周りの職員が気味悪がってざわざわしだしたが、奈良は意に介さず、いびつな笑顔を続けた。

    「ちょっといいかな」
    「……はい」
     まもなく終業時刻。奈良は、部下の杉田史帆に声をかけ、誰もいない会議室に入った。
    「杉田君、君は誰とつながっている?」
    「え?」
    「とぼけなくていい。君が答える番だ」
     奈良は杉田の目を見続ける。普段は見せない眼光。圧を感じた杉田はなすすべもない。
    「中野係長です。あっ、今日から課長か」
    「わかった。戻っていいよ」
     杉田史帆は会議室を出ていった。
    (読めてきた。部長と中野がグルになって俺を貶めるために一芝居うった。杉田は奴らのコマか……)
     その時、奈良の携帯電話が鳴った。生活安全課の工藤からだった。
    「あー奈良さんですか。今週の金曜日、署まで来てもらえますか?」
     奈良は承諾した。

    13.覚えていない

     その夜、19時に退社した奈良は、例のバー『ブルーローズ』に出向いた。深夜にしか来たことがなく、まだ日が落ち切っていない時間に店構えを見ると、深い紺色の壁は陽に焼けた部分だけ色が薄くなっていて、おしゃれとは言い難い雰囲気をさらけ出していた。
    「いらっしゃい」
     グラスを拭きながらマスターが迎えた。流石にこの時間、客はいなかった。スピーカーから流れる音楽は、人がいないと割とうるさい。
    「今日は飲みに来たんじゃないんだ。前にこの店に来た時の話をしたいんだが」
    「はぁ」
     マスターの顔に浮かぶ苦笑い。
    「いつ来られましたかね?」
    「え?俺のこと覚えてない?」
    「ははは、いや、何となくは覚えてるけど……」
     さほど客が押し寄せるとは思えない店で、数日前の客を覚えていないものかと、不思議に感じた。
    「先週の25日に来た。その前にも一度来ている」
    「んー。あ、あの日ね。あの時のお客さんか。思い出したよ」
    「正直、途中からその夜の記憶がないんだ。なぁ、俺はどんな様子だった?」
    「どんなって、かなり酔ってたみたいでしたよ」
     本当に思い出したのか。こちらの話しに適当に合わせているだけではないかと、奈良は半分疑った。
    「その……女性の客に絡んだりしてなかったかな」
    「……」
    「その女性客ってのが、30歳ぐらいで、俺が最初にこの店に来た時も一緒になって……」
     マスターは拭いたワイングラスを吊り下げ式のホルダーにかけ終わると、今度はカウンターを拭き出した。忙しいので声をかけるなという態度にも見える。それでも奈良は、あの夜の自分の行動を正確に知ることで、これからの立ち振る舞いを定めたい。自分が被害届を出されたことに対して、あわよくば、それが仕方のないことである証拠のようなものを掴みたい。全ては自己弁護のために。
    「マスター、何でもいいから教えてくれないか?」
    「……さぁねぇ。詳しくは覚えてない。あんたが店に入って来た。酔っ払ってた。それぐらいしか記憶にない」
     マスターから『あんた』呼ばわりされ、奈良はムッとしたが、表情には出さないよう我慢した。
    「忙しいところ悪かった。最後に教えてほしい。その女性客が店を出た後、俺はどうした?」
    「だから知らねぇよ!しつこいな、あんたも!」
     マスターは何かがはずれたように吐き捨てた。
    「……そうか」
     安っぽい切れ方をするマスターに、奈良はこれ以上話してもしょうがないと思い、ドアを開け出て行こうとしたが、振り向いてマスターに言った。
    「なぁ、あんた。この曲、知ってるか?」
     言い返すようにマスターを『あんた』呼ばわりした奈良の指が、スピーカーを差した。マスターは黙って奈良を睨んだ。
    (マイルスだよ。『死刑台のエレベーター』だ、バカ!)
     奈良はふんっ、とばかりに口の右端だけに笑みを浮かべ、店を出た。偶然流れているこの曲の邦題そのものには、意味を感じずに。

     結局何も収穫は得られなかった。おそらくマスターは本当に何も覚えていないのだろう。この程度の記憶力でよく客商売がつとまるなと、呆れて苦笑が漏れた。その辺で一杯飲んで行くかと、商店街を少し歩いたところで、奈良は立ち止まった。
     違和感。
    (覚えてない?)
     なぜ覚えていないのか。里見響子から被害届が出され、警察が調査に動いた。そして奈良は事情聴取された。当然警察は、あのバーのマスターにも事情を聴いたはずである。その後に現れた奈良に対し、誰なのか覚えていない。そんな事があるだろうか。警察から事情聴取された原因である奈良に、ピンとこないわけがない。なぜマスターは覚えていないを繰り返したのか。またしても雲のように発生する『なぜ』。輪郭が定まらないまま、混沌がまた乗っかってくる。
    (くそっ、何が起こっているのだ)
     混乱させられているのか。攻撃を受けているのか。それとも、ただただ自分に非があるのか。奈良はずっと掴めないでいる。
    (いや、掴んでやる!)
     強い思いは枯れない。だが思いを振り絞るたびに息切れがする。

     奈良がマンションに帰宅すると、室内は真っ暗だった。瞬時に奈良は状況を読んだ。リビングのおしゃれなダクトレール照明を点けると、テーブルに何か書かれた紙が置いてあるのが目に入った。
    『和真と実家に帰ります。再来週の日曜日に戻りますので、それまでには出て行ってください。涼子』
    (なんだって?)
     出ていけ、とまで言われるとは思っていなかった。短い文章に、安易な妥協はしてくれない強い意思が醸し出されていた。奈良は妻に対して、頭を下げてまで許してもらおうとは思わなかった。浮気をしたとか女性を襲ったなどとは、言っていないし、やってもいない。
    (ああ見えて厳格なところがあるからな)
     奈良は自分が『いいひと』だと思っているが、道徳心や正義感を伴うものではない。だから妻が持つ厳格さを単なる性格としてしか見ていない。つまり奈良の正義は別の場所にある。
     ため息混じりに手紙を丸めてゴミ箱に投げ捨てた。マンションは夫婦2人の共有なので、慰謝料代わりに持分をよこせということなのだろう。
    (さて……これからどうしたものか)
     被害届を二つも出された。成田紘一の件はともかく、里見響子の件は何かの間違いだと信じたかった。だがバーのマスターはとぼけて何も答えない。自分を擁護する材料が得られず、このままでは被害を訴えた側の言い分がそのまま事実となる。つまり奈良雄介は社会にとって『悪いひと』になる。『いいひと』を自認している奈良は、(あくまで奈良の感想だが)自身そのものを失ってしまう。事実、家庭すら失おうとしている。雪崩のように人生が崩壊していく。
    (この間まで昇任で浮かれていたのに……)
     窓の外のまあまあの夜景。これもこのマンションを買った理由のひとつだが、それも見納めかもしれない。自分を立て直すためにも、一旦はここを去るしかないと判断した。小さくため息をついてから、家を出るための最低限の荷物の選定に、とりあえず頭を切り替えた。

     金曜日。定時で会社を後にした奈良は警察署に向かった。案内された部屋に、楠本と工藤の両刑事が待っていた。
    「よぉ、奈良さん。元気かい?」
     楠本がふざけた挨拶をしてきた。一度に2件の被害届を出された男を見るのがそんなに楽しいのだろうか。元気?この状況で警察署に元気にくる者はいない。
    「では奈良さん、警察が受理した2件の被害届について、あなたの事情聴取をさせていただきました。その結果についた警察の考えを伝えます」
     工藤が部屋によく響く声で説明を始めた。
    「いずれも住居侵入罪や恐喝罪、傷害罪と判断する選択もありますが、だとしてもあなたは初犯です。また、被害届は告訴とは違い、必ずしもあなたに罰を望むものではありません。まあ、住居侵入罪は親告罪ではありませんが」
     横で楠本がにやけて聞いている。
    (いやなやつだ)
    「被害者とも話しをしました。奈良さん、今回の2件について、被害者と示談する気はありますか?」

     警察署を後にし、家路を歩いた。これから急いでアパートを借りなければならないし、荷物もまとめなければならない。
     示談は奈良も当然想定していたし、それしかないと考えていた。被害届に反論する武器が無い以上、頭を下げるほかない。そうなることを見越して、親戚から知り合いの弁護士を紹介してもらっていた。
    (問題は示談金だ)
     里見響子には当然払わなければならない。覚えていないものの、彼女の部屋にいたのは事実で、そこは覚悟している。だが、成田紘一には払いたくない。そもそも示談することに抵抗がある。だが、胸ぐらを掴み、荒っぽい言葉を吐いた。理由はどうあれ、社会通念上、謝るべき行為。
    (成田の件は、謝罪はするが、示談金は無しだ)
     奈良は弁護士の手腕に期待した。自分の正義を極力傷つけないための道具として。

    14.ピース・オブ・マインド

     店内に流れるコルトレーンの『バイーア』。かつてアフリカからの奴隷が多くたどり着いたブラジルの港町を冠した曲。落ち着いた雰囲気とコーヒーの香りが心地いいレトロ風な喫茶店。
     ~カランコロン~
     背の高い中年男性が入店。黒いキャップに黒いサングラス、そしてマスク。男は奥へと進み、若い女性の向かいに座った。スマホを見ていた女性が顔を上げて微笑んだ。
    「あ、どうも。別に待ってないですよ。なんか早く来ちゃって」
     女性が頼んだフレーバーティーは空になっていた。男は自分のホットコーヒーだけを頼んだ。
    「中野さんから、謝礼は直接もらえって言われたので連絡しました」
     耳障りな軽い女性の言葉にも男は表情を変えず、ポケットから二つ折りの封筒を出して、女性の前に置いた。
    「本当にもらえるんですね。いいのかしら」
     男は横を向いて黙っている。
    「よし!パフェバイキングに行かなくちゃ。じゃあ、失礼します」
     女性は浮かれた足取りで店を出ていった。フレーバーティーの伝票を置き去りにしたまま。男は運ばれてきたコーヒーには目もくれず、電話をかけた。
    「ああ、私だ。近々弁護士から連絡が来る。手筈通りにな」

     奈良のアパートのインターホンが鳴った。モニター画面に移っているのは背の低い中年男性。モニター下の解除ボタンを押しエントランスの自動ドアを開けた。今どきは賃貸アパートでもセキュリティが分譲マンション並みなところもある。
    「どうぞ。引っ越したばかりでダンボールだらけですけど」
     奈良は部屋に中年男性を招き入れた。よれた背広にくたびれた靴。後頭部が薄くなっているのが正面からでもうかがえる。電話でしか話したことが無いこの弁護士に、奈良はやや不安を覚えた。
    「依頼をいただいた件、それぞれの方と連絡がつき、お話しできました。基本的には、お二人とも示談には応じていただけそうです」
    (そりゃそうだろう)
     奈良はどこかで、この2件の被害届を軽く考えている。頭を下げるのだから、許されて当然だと。相手にだって問題はあるはずだが、それが見つかっていないだけだと。
    「相手が被害届を引き下げる代わりに、こちらは謝罪と、二度と行わないことを誓約する。まぁ一般的な示談ですね」
    「そうですか」
     成田との示談には、まだわだかまりが残る。が、しかたがない。
    「で先生。肝心の……」
    「え、ああ。示談金ですね」
     出された麦茶を一口飲んで、弁護士は手帳を開き、肝心なことを説明した。
    「えー女性の希望額は50万円」
    (えっ)
     奈良は驚いた。
    「男性は100万円を希望されています」
    「はあ?」
     思わず大きな声を出した。
    「そりゃ、ふっかけ過ぎでしょう?私の予想と一桁二桁違う!」
    「まぁ、希望額ですので。これから交渉というところでしょうな」
     何ともあやふやな言い回しに、先生と呼んだことすら後悔しそうになった。浮かない表情の奈良に、この頼りない弁護士は続けて真理を吐いた。
    「被害届を出され、警察が動いた時点で、負けです」

     手紙に書いていたとおり、日曜日に涼子と和真は実家からマンションに戻った。事前に夫からすでに出て行ったと連絡を受けていた涼子は、夫が何を持っていったか気になり、家中をくまなくチェックした。衣類や日用品など、とりあえず生活に不可欠な奈良の私物はなくなっていたが、それ以外はそのままのようだ。
     感情的になって実家に帰った涼子だが、時間の経過とともに、夫に少しばかり同情を寄せるようになっていた。知らないところで若い女性と過ごし、その後その女性の家に不法侵入。今でも考えただけで震えるほど腹が立つ。許したわけではないが、子どものことを考えれば、簡単に別れていいはずがない。おそらく夫もそう考えるだろうと思ったが、あっさり出ていってしまった。
     ウォークインクローゼットがちらかっていた。自分の服だけ剥ぎとるように持っていったのだろう。片付けをしていた涼子が、奥に落ちていた古いノートに気付いた。
    (何かしら)
     その横にかなりホコリを被っているダンボールがある。ノートはそこからこぼれ落ちたのだろうか。ダンボールの中身をのぞくと、どうやら夫の思い出の品が入っているようだ。ここに引っ越した時から放置されていたのだろう。ノートの表紙にはあまり上手ではない字でこう書かれていた。
    『野球日記 6年4組 奈良雄介』

    15.バーボンのララバイ

     とあるスナック。絶妙な照明の薄暗さがバーボンの香りを引き立てる。この手の店を贔屓にするかどうかは、そこで決まる。佐竹はそう考える。
    「ママ、遅くなってすみません」
     30歳前後の女性がカウンター内に現れ、話をしているママと佐竹にお辞儀をした。佐竹は飲んでいるグラスを女性に向けた。
    「やぁ。お先にやってるよ」
    「佐竹さん、いらっしゃい。テーブルに移りましょうか」
     女性は佐竹のグラスとつまみを持って、佐竹をテーブルに案内した。高級感のあるスナック。ガラステーブルにバカラの灰皿。その奥にちょうどいい硬さのソファ。佐竹と女性は並んで座った。
    「なんとか手筈通りに進んでいるよ」
    「……なんとお礼を言っていいのか……私なんかのために」
    「大したことはしてないから、気にしないで。彼も少し反発してきたが、思っていたほどでは無かった。後は最後の仕上げだけだよ」
     少し笑って、佐竹はバーボンを口に運んだ。
    「私、佐竹さんのためなら何でもします。何でも言ってください」
     女性の目には、覚悟が宿っていた。佐竹はその目を見て、小さくため息をつき、優しさをまとった微笑みを浮かべた。
    「私はあなたの過去の悲しみに共感したんだ。自分の意思で協力させてもらった。それだけだ。礼というなら」
     グラスを軽く振って、氷の音を鳴らした。
    「私がここに来た時、笑顔を見せてくれれば、それでいいよ」
     女性の目には、今にもこぼれそうなほど涙が溜まった。まるで朝露をまとった花びらのように。佐竹はそれを見て、何かに満たされた。
    「だが、我々が今回やったことぐらいで、君の無念が晴れるとは思えないが……」
     ハンカチで落ちようとする涙を抑え、表情を引き締めて女性は答えた。
    「大丈夫です。あとは私たちがやりますので」

     通勤電車に揺られる奈良の頭の中は、楽しいことが何一つ浮かばない。ただでさえ憂鬱な月曜日。
    (仕事も職場もつまらない……)
     同じフロアで活気ある仕事ぶりを否応なく見せつける、中野新課長率いる特命事業課。期待していた昇任ポストを奪われた奈良には、目の毒であり、ストレスにしかならない。もともとさほどでもなかった仕事への熱意もカラカラに減ってる。それを察してか、奈良への周囲の反応も薄くなっている気がしている。
    (くそっ!成田に示談金?どうしても納得いかない)
     女性との示談については、金額の交渉をまず行ってもらうよう、弁護士に依頼した。50万円の希望に対して、20万円でまとめるようにと。だが、成田の件は、進めるかどうか結論が出ない。100万円などと言ってきた成田に、謝罪どころか今すぐにでも罵倒したい気分。会社についても、仕事をしていても、怒りによる不機嫌が収まらない。いつだって、奈良の心を曇らせるのは成田紘一。
     昼休みが終わったことを告げるチャイムが鳴る。机に突っ伏してうたた寝をしていた奈良があくびをしながら起きたその瞬間、机の電話が鳴った。内線。13時ちょうどに鳴る電話など、大抵はろくなものではない。
    「はい、事業第一係、奈良ですが」
    「お疲れ様です、奈良係長。人事課の桜井です」
     やはりろくなものではなかった。

     終業時刻後、奈良は人事課を訪ねた。
    「おお、奈良係長。どうぞこちらに」
     会議室に案内された。相手は人事係長の桜井。奈良より若く、背の高い好青年といった感じ。最前線で格闘を続ける事業部署から見て、人事権という武器を握っている人事課は、気持ちのいい友人にはなりえない。常に警戒する薄気味悪い存在であり、嫌いだが嫌いとは言えない。その辺の機微をおそらく熟知しているであろうこの人事係長は、驚愕する柔らかさを全身から発し、奈良の怪訝な表情をソフトに包み込むような声で、かつ気を使いすぎない言葉で切り出した。
    「ご足労いただいてすみません。実は、あまりいい話ではありません」
    (はぁー)
     これ以上は勘弁してくれと、奈良は露骨にため息を吐いた。桜井はそれを無視して続けた。
    「奈良係長の部下の杉田さんから、人事課に相談がありまして」
    「杉田史帆ですか?」
    「はい。辞職したいと」
    「えっ、なぜですか?」
     驚いたふりをしたが、仕事熱心でもないあの子ならありえるな、と奈良は思ったし、別に辞めてもかまわないのではないかとすら思った。
    「本人が言うには、奈良係長に強く問い詰められたと……」
    「えっ……私が原因ですか?問い詰められた?」
    「本人が言うには……中野課長の昇任に腹を立てた奈良係長が、腹いせに杉田さんに変な疑いをかけてきたと……言ってます」
    (あの時のことか)
     2件の被害届に続き、今度は社内での被害届もどき。確かに昇任しなかったことから部長や中野とともに彼女もグルだとにらんで問い詰めた。だが実際、彼女は中野とつながっていると認めた。なぜそのことを棚に上げて被害者面できるのだろうか。
    「誤解です。私が直接杉田さんと話します」
    「それはできません」
     桜井は口調を少しだけ強くした。
    「これは社内通報制度を利用した案件です。まずは私ども人事課で調査します。奈良係長、あらためて詳しく聞かせもらっていいですか?」

     恐ろしい現実に触れ、感情が整理できない。何に怒り、何に悲しむべきなのか。憂いを身にまとった涼子は、とにかく自分の臆測が正しいのかどうかを知る必要があった。知るためにはあの人物に尋ねるしかない。
    (もし私の思ったとおりだとしたら……)
     事実を確認しなければならない。だが事実を知ることが安寧をもたらすとは限らない。

    16.疑惑と驚愕

     人事課の調査は3時間に及んだ。ストレスが溜まっていた結果のことだとぼやけた動機でのらりくらりでかわそうとした奈良だが、この手の話は受け止めた側、この場合は杉田史帆の主張次第なので、分が悪い。会社を出て夜空を見上げ、大きく息を吐いた。あらゆる攻撃を受け続ける奈良の精神は、今夜も酒を欲した。どうせアパートに帰っても、冷蔵庫は空っぽ。結局駅を降りて、いつもの小料理屋に入った。
    (あの日、ここで里見響子に会わなければ……)
     瓶ビールを手酌で注ぎ、一気に飲んだ。今の奈良にとって、少しでも落ち着いて考えられる場所はここだけかもしれない。
     ここで里見響子に会い、そのあとバーにいる彼女を見かけ、引き込まれるようにバーに入り、彼女に話しかけた。そこまでは記憶している。気づいたら彼女の部屋で下着姿で寝ていた。思えば一番最初に彼女に会ったのもあのバーだった。奈良が飲んでいたら、彼女が店に入ってきた。
    (引っかかる……)
     最初に会ったバー、別の日の小料理屋、そのあとのバー。じわじわと感じる心の引っ掛かり。それが形になりかけている。自分の起こした事に対する反省と後悔よりも、もっと前の段階。一つ一つを俯瞰で眺めてみた時のこの連続性はなんだ。検証するなかでうっすら見えてくる違和感の正体。
    (出世を約束された日に初めて出会い、出世できなかった日に再会……)
     犯罪者が自分を正当化しているだけだと言われれば返す言葉が無い。だが犯罪には動機がある。その動機が奈良に思いつかないことで生ずる違和感を、そして解決するための思考を巡らせている。ずっとだ。里見響子が奈良の人生へ登場してくるパターンが同じ。別に奈良からではなく、相手が奈良の目に留まるところに現れる。成田紘一とのトラブルについても、こちらから仕掛けたわけではない。相手の態度や行為に奈良が感情的になった結果である。もちろん一方的な見方と言われるだろうが、成田紘一にしても里見響子にしても、もっと言えば杉田志帆の件も、原因は向こうからやってきているのではないか。いや、杉田の件は、そもそも昇任しなかったことに端を発している。
    (あれはあれで……)
     昇任の件も奈良は未だ消化できていない。その気にさせられ、舞い上がり、期待したところで叩き落とされた。部長や中野の策略だとにらんでいるものの、なぜそんなことをするのかが未だわからないまま。頭の中が、回転と停止を繰り返す。
    「ビールもう一本出しましょうか?」
     女将が声をかけた。
    「いや、もう大丈夫。そろそろ帰るよ」
     伝票を女将に差し出した。今夜の酒もさほど美味くない。

    「はい……もしもし」
    「こんばんは、突然すみません」
    「……」
    「私、奈良の妻です」
    「……どうかされましたか」
    「実は……お尋ねしたいことがありまして」
    「……和真君のことですか?」
    「いえ……」
    「ご主人のことですか?最近お見えになりませんが」
    「はい、いえ……」
     要領を得ない電話。だが成田紘一は動じない。
    「忙しいのですが、何をお聞きになりたいのですか?」
     涼子は覚悟を決めた。
    「成田さんについてです……」

     人事課から事情徴収を受けてから1ヶ月ほど経ったある日、社内掲示場に公表記事が掲載された。
    『都市開発グループの職員1名をけん責処分とする』
     理由欄にはこうある。
    『パワーハラスメント行為』
     奈良はすでに始末書を書かされ、厳重注意を受けている。この日公表されることも事前に知っており、驚きはない。都市開発グループ内の職員も、これが奈良のことだとみんな知っている。
     当の本人は反省していないし、後悔もしていない。この処分で給与が下がるわけではない。だが、これからの昇任や花形職場への異動は断たれた。
    (もともと断たれていたようなものだ)
     昇任が無かった時も佐竹部長らに反抗的な態度をとっている。仕事を自分の生きがいにすることはあきらめ済みだ。
    「奈良君、ちょっといいか」
     その佐竹部長から呼ばれた。

     部長室はパーティションで区分けされただけのスペースだが、中に入ると空気が変わる。快適なはずのブラウンレザーソファは、座り心地が悪かった。佐竹部長は対のソファには座らず、奥の自分の机に寄りかかり、腕組みをして奈良を見下ろした。わざとのように1分程度の静寂をおいて、部長が口を開いた。
    「君、来月から直系の販売店に出向だ」
    「……」
    「聞いてるか?」
    (今さら営業をやれと?)
     部長はそれ以上何も言わない。再び訪れた静寂。奈良はこう言うしかなかった。
    「わかりました」
     部長室を出てきた奈良に、部の社員全員が視線を送った。
    (知ったことか)
     自分が悪いという発想を持たない奈良は、何も受け入れない。中野と杉田志帆だけは、あからさまに奈良の一挙手一投足を見ていた。まるで何かを確認するように。

    (さぁて、やけ酒飲んで帰るか)
     迷走する人生をどす黒く整えるのは、いつの時代も酒であったりする。処分をくらい左遷された。酒のつまみには事欠かない。
    「いらっしゃい」
     いつもの小料理屋で女将の声が出迎えてくれた。別に奈良を待っていたわけではないのだが。

     腹いせに飲んだ酒は、いつもどおり、奈良の足取りをふらつかせた。帰って寝るだけだと自分に言い聞かせながら、ほてり気味の顔に当たるややひんやり気味の風を感じて歩いた。星は見えない曇り空。そして里見響子のアパートが見える位置まで来た。
     妻から追い出されて奈良が急遽引っ越したアパートは、実はそれまで住んでいたマンションからあまり離れていない。駅からの帰路は、途中まで引っ越す前と同じである。したがって、その後も奈良は、里見響子のアパートを横目で見ながらの通勤を続けている。自分の人生が異性のことで狂うなんて思いもしなかった。
     示談金の交渉について、弁護士からの経過報告はない。もし交渉が整わなければ、里見響子の希望額50万円は、払おうと考えている。その判断は、女性に与えた精神的な被害に対する懺悔の気持ちだけではない。
    (なぜだか、気になって仕方がない)
     もちろん、彼女への不信は払拭できていない。自分本位な奈良は、不都合を周りのせいにする。彼女もそのくくりに入るのだが、それを凌駕する感情を奈良は心から剝がせないでいる。今までに出会ったことのない、不思議な魅力を彼女に感じていた。だからといって、つきあいを望むような下心はない。ただ今回の件を謝罪し、できれば許してほしい。あわよくば、飲んで話しができるぐらいの仲になりたい。そう思っている感情は、変わらず続いている。
    (それも下世話な話だが)
     妻の涼子と離れてしまったことも要因かもしれない。いろいろあって心身ともに弱っているからかもしれない。アパートを近くに借りたのは彼女の生活圏から離れたくなかったから。今自分を救ってくれる、癒してくれるのは、実は里見響子だけなのではないか。そんな気持ちで彼女のアパートを遠めに眺めながら歩いた。

     そのアパートのベランダに動く影が見えた。確信はないが、直感で感じた。
    (男だ)
     部屋の照明が映し出すその影は、長身だった。奈良は思わず近づいていった。だが不法侵入を疑われるような素振りはもうできない。気づかれないようそっとそっと近づく。恋人だろうか。もちろんいても不思議は無い。だからほっとけばいい。わかっているのに引き返さない。引き返せない。なぜなら、その長身が引っかかったから。そして奈良は、それが信じられない光景であるとともに、最悪の予感が当たってしまった事実を突きつけられる。
    (なんということだ……)
     里見響子の部屋のベランダにいる男は、紛れもなく、成田紘一だった。

    17.思考の果てに

     寒々としたアパートの部屋に倒れ込んだ。体を起こすエネルギーすら生まれない。なぜ成田紘一があの部屋に?二人の関係は?その二人ともが自分に対して被害届を出したのは偶然?
    (そんなわけがあるものか!)
     思考の果てにたどり着いたのは、二つの被害届は、あの二人が結託した奈良に対する紛れもない攻撃であること。あの二人には、奈良を攻撃する理由があること。
    (……成田だ)
     成田が全てを操っている。彼女も駒の一部だ。大まかな推理として、奈良はそう思っている。と同時に『そうあるべきだ』という願望が、無意識にある。里見響子が本心から自分を攻撃しているのではないというあらすじを願っている。では昇任の件はどうだ。杉田志帆の件は?どこまでがあらすじなのか。
    (成田に聞けば済むことだ)
     奈良の目つき、顔つき、そして精神のありようが、以前の自分とは違っていることを、奈良が一番よく知っている。本来、自分が攻撃的な人間ではないこともわかっている。今の自分は、外からの攻撃に対して防御しているのだ。だから穏やかで『いいひと』である奈良雄介が、感情的であるにしろ反撃するのは仕方のないことなのだ。攻撃対象である成田紘一は悪人だ。だから俺の行動は正しいのだという組み立てが、奈良の中で成立している。
     自分はこういう人間だと定義する一方で、それとは違う人間になってしまうのは、自分のせいではなく、外的抑圧のせいなのだという思考を、人間は得意とする。だが、それをネット、SNSで訴えても、神の代理人がたくさん現れ、容赦なく叩きまくる。叩かれた側はネットでの反撃を諦め、実行動をとる。知らない人を刺す。車で人混みに突っ込む。銃を乱射する。人間が生存するため以外の理由で殺し合うのは、この程度のことに過ぎない。

     土曜日。少し肌寒い朝。野球のユニフォームを着た子どもたちが学校に入っていく。校門で帽子をとって一礼し、挨拶する。その子ども一人一人に丁寧に挨拶を返すのは、コーチの吉岡。まだ20代の若者で、子どもたちからも人気が高い。
    「はい、おはよう。はい、おはよう」
     その後ろには、同じくコーチである成田紘一が立っている。学校に着いた部員の名簿チェックを行なっている。
    「成田コーチ、まだ来ていないのは誰ですかね?」
     吉岡が振り返って尋ねる。名簿を指でなぞりながら、成田が確認する。
    「うちの和真がまだのようだが」
     名簿を見ていた吉岡と成田が、その声に顔を上げる。そこに立っていたのは奈良雄介。奈良の長い一日が始まった。

     吉岡の爽やかな表情が軽くひきつる。成田は表情を変えない。
    「奈良さん!お久しぶりです。いや、びっくりした」
     そう言いながら、吉岡は奈良の雰囲気が以前と違っていることを感じていた。その吉岡を無視して、奈良は成田に近づいた。
    「成田、話がある」
     成田紘一はあからさまに面倒くさいといった表情で奈良を見た。
    「私はあなたと話す暇など無い」
    「いいから来い!」
     成田に詰め寄る奈良の姿を見て、吉岡は慌てて二人の間に割って入った。
    「奈良さん、待ってください!和真君のことは、別に成田さんのせいじゃ……」
     奈良が目を見開いて吉岡を見た。
    「和真のこと?」
    「えっ」
     今度は吉岡が驚いた。
    「和真君が辞めた件じゃないんですか?」
    「……和真が辞めた?」
     混乱の表情の奈良を、成田がさらになぶった。
    「おいおい、知らないのか?呆れた親だ。いや」
     成田が顔を奈良の2センチ前に近づけ、逆に詰め寄った。
    「もう、親でもないのか」
     成田の吐く息の生温い感覚、和真が野球を辞めたことの衝撃、そのことを知らずに過ごしている自分への腹立たしさ、それらを一瞬にして脳が理解したその刹那、吉岡を突き飛ばし、奈良の右手が動いた。
    「きさまー!」
     成田の左頬を奈良の右拳が捉えた。大きく振った右腕につられて奈良はふらつき、膝をつく。成田は大きく頭部を揺らし、膝から崩れ落ちる。地面に倒れた瞬間、一度痙攣する。
    「やめろー!」
     吉岡が立ち上がりながら叫び、覆い被さるようにして奈良の動きを止める。その声に、少し離れたところにいた子どもや親が集まってくる。奈良は数人の男たちに抑えられた。成田も意識の確認をされるほど、半開きの目で宙を見ていた。だが、すぐに瞬きをして、左頬を軽く押さえながら、ゆっくり立ち上がった。心配して寄り添ってくる人たちを軽く制し、大丈夫ですと伝えながら、奈良を見下すように見つめた。
    「その男を離してください」
     成田の言葉に、親たちが驚く。
    「いや、成田コーチ、これは暴力行為ですよ!警察に知らせなきゃ!」
    「そ、そうですよ!私見てました!」
     吉岡が興奮冷めやらぬままに後に続いた。が、成田は落ち着いた口調で返した。
    「ただの喧嘩です。子どもたちも見てます。彼を離してください。お願いします」
     成田の丁寧な懇願に、奈良を抑えていた人たちは、顔を見合わせ、手を離して解放した。奈良は座り込んで動かない。
    「さあ、行きましょう。試合に遅れる」
     成田にうながされ、父母や子どもたちはその場を去った。一人になった奈良は立ち上がり、呆然としたまま、ふらふらと校門を出て行った。

    ……………………
    (おい、雄介)
    「なに?父さん」
    (聞いたか?やひろ君のこと)
    「やひろ?ああ、あの転校した、やっちゃんね。あいつがどうかした?」
    (……昨日、交通事故で亡くなったそうだ)
    「え?」
    (川向こうの中学校に通ってたらしいが。お前、小学生の時、よく一緒にいただろう?)
    「……」
    (明日の葬儀、お父さんが送ってやるから、仲が良かったみんなで行ってきなさい)
    「……うん」
    (お前仲良かっただろう?お前よく一緒にいただろう?お前……)
    ……………………

     気がつくと、公園のベンチに横たわっていた。右手に痛みを感じ、見るとこぶしが赤で染まっていた。血は乾いていた。
    (何時間寝てたのだろうか)
     今朝の学校でのことがじわじわと脳内で思い出されてきた。成田を殴ったこと。そして和真のこと。
    (和真……)
     奈良は立ち上がった。ふらつきを覚え倒れそうになったが、踏ん張ってこらえた。ヒバリが鳴いた。奈良は公園を後にした。

    18.狂気と行動の関係

     涼子は皿を洗いながらも皿に神経が行き届いておらず、今にも落として割りそうで、それを息子の和真が心配そうにチラチラと見ていた。
    「お母さん!」
     和真の声に涼子は少し驚いて背筋を伸ばした。やれやれといった表情で和真は自分の部屋に消えた。涼子の頭から離れない疑惑は、まだ形にならない想像にしか結びつかない。もしその想像が事実に近いものなら、急いで夫に知らせなければならない。だが、それは涼子が奈良の過去を知ってしまったことも伝えることになる。そうすればおそらく夫婦が二度と元に戻ることはないだろう。そのうえでそれがただの想像だったら……。このループが、皿を危うい状況にしている。
     インターホンが鳴った。エプロンで濡れた手を拭きながら見たインターホンのカメラ映像に、涼子は怯えた。そこには、以前の彼からは想像がつかないほどの怒りの表情をした夫、奈良雄介が立っていた。

    「な、何の用?」
     声が震えるのをこらえて涼子がインターホン越しに聞いたが、奈良は黙ったまま動かない。マンションの住民に見られるとまずいと思い、涼子はオートロックドアを開けた。玄関を開けると、奈良はズカズカと入ってきた。
    「和真!」
     目の前の妻に視線も合わせず、場違いな大声で息子を呼んだ。
    「大きな声出さないでよ」
    「和真はいるのか。和真!」
     声に驚いた息子が恐る恐る現れた。
    「お父さん……」
    「お前、野球やめたのか!」
    「急に来てなによ!私が説明するから」
    「お前じゃだめだ!和真、なぜだ!理由を言え!」
     今にも息子に突進しそうな勢いの夫を止めようとして、後ろから掴んだ涼子を、奈良は強く腕を振って突き放した。涼子は転倒し、フローリングの床に頭をぶつけた。
    「お母さん!」
     和真が涼子に駆け寄る。
    「大丈夫よ。ありがとう」
     顔をしかめつつ、涼子は和真に笑顔を見せる。和真が父をにらみつける。
    「なんだその顔は!なんで野球をやめたか聞いてるんだ!」
     同じことを大声でわめきちらす父親に、和真は泣きそうなのを堪えて黙っている。握ったこぶしに力が入る。
    「原因は成田だろう。あいつがコーチになってから試合に出してもらえず、それで辞めたんだろう!くそっ、あいつめ!」
     さらに憤怒の表情を強め、奈良は壁を殴った。壁のクロスに赤い跡が付いた。それを見て、夫のこぶしが赤く染まっていることに涼子は気づいた。
    「ちょっと、その手、ケガ……」
     すでに血は乾いている。ケガは、今壁を殴ったことによるものではない。涼子がケガのことを聞こうとしたが、奈良は入った時と同じ勢いで、マンションを出ていこうとした。
    「お父さん……」
     和真の震える声に奈良の足が止まった。
    「お父さんは、悪い子だった……の?」
    「和真!やめなさい!」
     涼子が大声で和真を制した。和真は口を真一文字にし、目に涙をためた。息子の様子を呑み込めない表情の奈良に、涼子がもう一度叫んだ。
    「早く出ていって!」
     奈良は涼子と和真をしばらく見つめ、振り向いて出ていった。静寂に不穏な空気が舞っていた。

    「ねぇ、ドニー」
    「なんだい、ダーリン」
    「あなた最近、お酒飲まないわね」
     夕食時には晩酌を楽しむ夫が、この数日酒を飲まないことを妻が尋ねた。
    「そろそろってこと?」
    「そうだね。そう聞いている。大事な役目になるかもしれない。だからお酒は控えているんだ」
    「そう……」
     妻は息が詰まるような気がして、小さく息を吐いた。ドナルド・アビーは、大丈夫だよと言わんばかりの微笑みを妻に向けた。
    「うまくいくといいけど」
    「うまくいくさ」
     妻の不安を少しでも取り除こうと、褐色の肌の陽気な夫は、明るく言った。
    「紘ちゃんならうまくやる」

    19.思い出された名、そして

     アパートの鍵を差し込んだその瞬間、里見響子は背後に人の気配を感じ、声が出そうになった。
    「声を出すな」
     聞き覚えのある声。何か突き付けられているのを背中が感じている。
    「ドアを開けて中に入れ。ゆっくりだ」
     言われるままに中に入った。
    「電気をつけてゆっくりこっちを向け」
     振り向くと、予想どおり奈良雄介が立っていた。血に染まった右手には刃物が握られていた。アウトドアレジャーによく使われるシースナイフ。里見は黙って奈良をにらみつけている。
    「成田に電話しろ。ここに呼べ」
    「……」
     里見はカバンからスマホを取り出し、素直に成田紘一に電話を入れた。呼び出し音が、静寂のなか奈良にも聞こえた。
    「俺がいることは言うな」
     ガチャという音に変わった。
    「……私です。今からアパートに来れますか?……はい、お願いします」
     里見は電話を切ったふりをして、通話中のままカバンに入れた。
    「私に何の用ですか。また住居侵入……」
     話し出した里見に奈良はすばやくナイフを近づけ、人差し指を口に立てて里見に黙るよう合図をし、スマホをこっちによこせと手招きして促した。里見からスマホを受け取ると、すぐに電源を切った。
    「急にしゃべりだせば、相手に違和感を与える。俺がいることを教えようとしたな。下手な小細工だ。これまでのことも全てな」
     里見響子のスマホをベッドに放り投げた時、部屋の時計から21時のメロディが流れた。

     成田紘一は里見響子の電話が切れた後、10秒ほど考えて、電話をかけた。
    「……ああ、俺だ」
     成田は電話の相手に指示を出した。
    「よろしく頼む」
     電話を切った成田は、家を出て車に乗り込んだ。寒空の中、車はマフラーから白煙を出し、成田紘一と彼の覚悟を載せ、発進した。

     アパートのドアノブを回した。鍵は開いていた。中に入った成田紘一は、ソファに座っている奈良雄介と、手足を縛られた里見響子の姿を見た。だが表情を変えない。常軌を逸したような形相の奈良が、立ち上がって切り出した。
    「病院に行ったか。俺のパンチは案外効くだろう?」
    「あの程度でか?」
     成田はふんっ、と馬鹿にしたように笑った。
    「ははっ!そうか。じゃあ、もっとお仕置きをしなくちゃな!」
    「響子を放せ」
    「響子?こいつはお前の女か?ぐるになって俺をおとしいれようとしたな」
    「……」
    「白状しろよ。何が理由か知らんが、お前は俺を嫌っている。コーチになって俺の子どもを冷遇することで俺を怒らせた。そして反発する俺を犯罪者に仕立てようとした」
     奈良は成田への異常な憎悪を解放しながら話した。表情がどんどん人間離れしていく。成田は溶けない氷のように顔色を変えない。
    「そして、この女は偶然を装って俺の前に現れた。酔って記憶が無い俺を犯罪者になるよう誘い込んだ」
     そう言って奈良は縛られている里見響子をにらむ。里見は視線を成田に向けている。
    「そしてお前たちは被害届を出し、警察を動かして俺を追い込もうとした。俺への攻撃だ。おかげで、俺は本来の俺を取り戻した」
    「……何が言いたいんだ」
     成田の声は変わらず低く、だが妙に響く。
    「黙って聞け!俺は俺を攻撃するやつを絶対に許さない。お前たちが悪人だからだ。成田!お前ら悪人は」
     野獣のような形相で、飛びかからんばかりに奈良は成田をにらみつける。
    「この俺が成敗する」

     一瞬の静寂。成田紘一が口を開き、その静寂をゆっくり破った。
    「言っておくが」
     声質が奈良の上ずった叫び声と対照的だ。
    「お前の大事な息子がレギュラーから外されたのは、お前ら親子の責任だ。なぜそれを他人のせいにする。子どもの活躍ばかりに目がいくから大事な部分に目がいかない。レギュラー執着は」
     奈良の尋常ではない目を見据えて成田は続けた。
    「お前たち親子の悪癖だ。恥を知れ」
    「なに!」
    「響子がお前を誘った?冗談もほどほどにしろ。お前が仕事かなんかでむしゃくしゃして、勝手に踊っているだけだろう」
    (くっ!)
    「世の中がお前の危機を救ってくれる。お前に代わってお前の家族を守ってくれる。奈良!お前そう思っているだろう?お前を嫌いなのが」
     窓の外の灯り。黄色に赤が混じる。
    「俺だけだと思うか?」
    「成田!それ以上言うと……」
    「なんだ。お前に何ができるんだ!都合が悪くなると他人のせいにする。クズめ!甘ったれてるんだよ!お前は!」
    「なりたぁ!」
     奈良が叫ぶ。里見響子は何かの誕生を待ってるかのように、静かに二人を見ている。成田が一歩踏み出す。
    「奈良、もう一つ教えてやる。この間、お前の妻が俺に電話してきたよ。相談があるってな」
    「……なに?」
    「だからお前の妻に会って、話を聞いてやったよ。二人きりでな。相談はお前のことだった。泣いてたよ。だから」
     そう言って、成田紘一は右の口角を上げてニヤッと笑った。
    「慰めてやったよ」
     奈良の足が一瞬にして音を立てず二歩踏み込み、成田の懐に飛び込んだ。
    「なぁりたー!!!」
     ナイフを持つ右手を後方に引いた。その刹那。

    (なりた?思い出した。なりたはやっちゃんの名字だ。なぜ忘れていた?)
     ーーーーーーーーーーーーー
    (なぜ成田紘一と出会ったとき、『あいつと同じだ』と思わなかったのか)
     ーーーーーーーーーーーーー
    (俺はまた『なりた』を攻撃している。やひろの時と同じように……)

     奈良の目の前にあるのは成田の首筋。それを切り裂くべく、右手につかんでいるシースナイフを右下から振り上げる。その軌道に、防御のための成田の左手が現れる。ナイフは成田の左手前腕部の外側を切り裂く。ほとばしる血液が奈良の顔に飛び散る。
    「ぐぉー!」
     痛みに吠える成田。里見響子が悲鳴を上げる。
     その時。
     ドン!という大きな音とともに、玄関ドアが蹴破られ、サーチライトの眩しい光が室内を照らす。あまり眩しさに視界を奪われる奈良。次の瞬間、部屋に入ってきた者に前蹴りで吹っ飛ばされる。倒れた瞬間、奈良の体は自由を奪われた。数名の警官から押さえつけられていた。
    「なんだこれは!」
     混乱して叫ぶ奈良。だが全く身動きできない。力が入らない。阿修羅の表情。何度も奈良は押さえつけている警官たちを跳ね返そうと暴れる。だがまったく動けない。
    「くっ、くそー!」
     警察が踏み込んできたということをようやく脳が理解した。その理由は、ここに犯罪者がいるから。それが自分であること。奈良の正義は社会のそれとは違うということ。被害者のつもりが加害者だったこと。混沌?単純?奈良の心身は、疲弊しきって限界を迎えていた。
     左手の傷をタオルで抑え、成田紘一がゆっくりと近づいてきた。仰向けに押さえつけられている奈良を見下すように、奈良の足元に立った。逆光で、奈良から成田の顔は見えない。だが成田だとわかった。一段と低い声。
    「これで完結だ。奈良雄介」
     ゆっくり振り向き、ゆっくり去っていく成田紘一は、これ以降、奈良雄介の前に現れることはなかった。奈良の『いいひと』は終わった。いや、とっくに終わっていた。

     近所から集まったやじ馬にスマートフォンで撮影されるなか、両腕を強く組まれ、連行される奈良。やじ馬の中に褐色の肌の知った顔があった。
    (そうか、こいつも……)
     成田側の人間だったのかと、疲弊した脳で思い、落胆した。黒い車に乗せられた。バックシートの革の匂いは、左遷を言い渡された時の部長室のソファを思い出し、吐きそうになった。車は発進し、人混みをクラクションで散らした。
     星が見えない夜。ヘッドライトが照らしているのは、奈良雄介の未来という暗闇だった。

    20.回答

     質問された刑事は立ち上がって、小窓の前までゆっくり歩いた。
    「もしカイエンじゃなく、ボロボロの軽自動車だったら?」
    「……えっ?」
    「もし運転していた人の身なりが乏しいものだったら?その人が毎日親の介護で大変だったら?家族の借金を返すために寝る間もなく働いている人だったら?やっぱり悪人?」
    「……」
    「奈良さん、庶民の悪人認定なんてそんなもんだ」
     バツの悪そうな奈良の顔を見て刑事は続けた。
    「ところで、あなたは人を刃物で傷つけたわけだが、あなたは悪人?」
    「……」
    「そう思っていないでしょ。そんなもんなんだよ、人間って」
    「刑事さん、何度も説明してるでしょう?あいつら、成田たちが俺を追い詰めて、犯罪者になるよう誘い込んだんですよ!」
    「そうだね。何度も聞いたよ。そして何度もあなたに聞き返してるはずだが。なぜ成田さんたちはあなたを犯罪者にしたがるのかってね」
    「……だから俺を嫌って……」
    「なぜあんたを嫌う?」
    「……」
     ふぅーと吐いた刑事のため息が、奈良の自尊心をなぶった。。
    「あんたは里見響子さんをナイフで脅し、家に入り込んで、成田紘一さんを呼び出させた。そしてやってきた成田さんと口論になり、ナイフを振り回して、ケガをさせた」
    「……」
    「里見さんと成田さんは、あなたに対して被害届を出していた」
    「だから、それはもともとあいつらが……」
    「奈良さん、無理だ」
     刑事は奈良の話をさえぎって、窓から奈良に視線を移した。
    「あんたはその日の早朝にも、学校内で成田さんを殴っている。本人ではなく野球チームの親から通報があっている。あんたの話は、説得力も同情する余地もない。被害届を出した二人に逆恨みしたとみられてもしょうがない。その被害届の内容だって、おかしなものじゃない。まともな内容だ」
    「……だ、だから……」
    「ナイフを振り回していい理由なんてないんだよ。他人の命を奪う可能性だってあった。あんたの言い分は『引かれ者の小唄』だ。なぁ奈良さん、いい加減理解しなよ」
     刑事は椅子に座り、足を組み、奈良の目を見て言い放った。
    「誰が悪人なのかってことを」

    21.真実

     「奈良、出ろ。面会だ」
     重い足取りで面会室に入ると、アクリル板の向こうに涼子が毅然と座っていた。奈良は何を言うわけでもなく、ただ黙って座った。
    「言っておくけど、あなたを助けにきたわけじゃない」
    (思ったよりも聞こえないのだな)
     丸型通話孔を通した涼子の声は聞きづらい。
    「必要なことを伝えます」
     会社から解雇の電話があったこと、離婚と、和真の親権を望んでいること、マンションを売却したいことなどを、涼子は空々しく淡々と話した。奈良は黙って下を向いていた。その後、涼子は急に黙った。
    「……」
     奈良は沈黙が耐えられなくなり、顔を上げて涼子を見た。涼子は低い声でこう尋ねた。
    「真実を聞く気はある?」

    「真実?」
     通話孔からの奈良のか細い声。
    「順を追って話します。あなたがいつか私に言った話。小学生の時に野球のチームメイトが転校したと」
    「……ああ」
    「その子の名前は?」
    「なんだよ、それがなんの関係が……」
    「そこが出発点よ」
    (……)
     戸惑いながら、奈良雄介は答えた。
    「『成田やひろ』……だ」
     そう。奈良は成田紘一の首にナイフを刺そうとしたその瞬間、なぜか小学生の同級生『やひろ』の名字が『成田』だったことを思い出していた。
    「あなたの小学生の時の日記を見た」
    「……なに?」
     無精ひげが伸び、精神的疲労が色濃く顔に出ている奈良は、妻が言う言葉を咀嚼する力が弱い。
    「日記にその『成田やひろ』君のことが書かれていた。彼はいじめられていた。あなたはいじめていたグループのリーダー格だった。壮絶ないじめの内容を、あなたは自分で書き残していた。結果、彼は転校した。そしてあなたは野球チームのレギュラーになれた」
    「ちょっと待て!日記って……勝手に読ん……」
    「真実を知りたいでしょう。黙って聞いて」
     涼子は奈良の反論を制した。真実という餌で。
    「その日記で『やひろ』くんの漢字が、数字の『八』に宇宙の『宇』だと知った」
    「……?」
    「それでピンときた」
     奈良は確かに、小学生の同級生『成田八宇』が成田紘一と同じ名字だと思い浮かんだ。ただ、それ以上何も感じなかった。特に珍しい苗字でもない。だが、元新聞記者としての涼子の感性は、表面だけをなぞる奈良とは違って、深いところを探っていた。
    「思い切って成田さんに電話した。何も答えてくれなかった。でも、あなたが逮捕され、加害者の妻として成田さんに謝罪と見舞いに行った時、そこにいらした身内の方にこっそり尋ねた。そしたら……教えてくれた」
     涼子の無表情は変わらない。
    「『八宇は紘一の弟です』と」

    (成田八宇が成田紘一の弟?)
     奈良はツバを音が聞こえるほどに飲み込んだ。
    「……それであいつは……成田は、俺に近づいたと?」
    「中学生の成田八宇は、車に飛び込んで自殺した。遺書には、死ぬ理由のひとつとして、小学生の時のいじめが書かれていて、そこにあなたの名前があった」
     奈良は立ち上がり、アクリル板を両手で強く叩いて叫んだ。
    「バカな!事故で死んだんだろう!俺のせいじゃない!遺書なんて、知ら……」
     取り乱す奈良。それを黙って見つめる涼子。
    「成田が俺に復讐?なんでそんなまわりくどいことを!もしそうなら『俺の弟はお前にいじめられて死んだ』と、そう言って俺を問い詰めればいいだろ!」
    「そしたら、あなたはどうしたの?」
    「えっ?」
    「あなたの理性に訴えて、慚愧の念を引き出す?」
    「……」
    「それこそまわりくどい。それで済むとでも?」
    「だが……当時、俺は葬式に行った。その時も、その後も、あの家族は俺になにもしてこなかった。なぜだ!そんな遺書が見つかったなら、俺や俺の親を相手に訴訟ぐらい起こすだろう!」
     涼子は興奮する夫を見据え、ゆっくり首を振った。
    「いじめで自殺した子の家族が、いじめた側を相手に損害賠償を求めるなんて、ほんの一部の話よ。たいていは泣き寝入り。なぜだと思う?訴訟などの長い戦いは、遺族にとってとてもつらいことだからよ。悔しさ、無念を押し殺してでも、社会にさらされるより静かに供養していきたいと願う」
    「なんだよそりゃ!全然理解できない!」
    「そう」
     涼子は立ち上がった。
    「あなたがそれを理解できない人だと、今回の件でわかった」

    「待て!待ってくれ!」
     奈良は、突然目の前に突きつけられた真実を整理できないまま、去ろうとする涼子を呼び止めた。
    「あいつは、あの女はなんだ!何者だ」
    「里見響子?」
    「そ、そうだ」
    「……彼女は、小さい頃に事故で両親を亡くしている。そして親戚に引き取られている」
     涼子はもう一度座った。元新聞記者の情報収集能力。
    「それが成田家。彼女は紘一と八宇を、歳の離れたお兄ちゃんとして一緒に過ごした。いつも遊んでくれていたやさしい兄の1人が、ある日、この世からいなくなってしまった……」
    「……」
     人の死がたくさんの人の人生を変えていく。わかっていたつもりの奈良は、少しもわかっていなかったことに愕然とする。
    (ここまで突きつけられないと、俺は気づかないのか……)
    「ついでに教えておく。里見響子が成田家に預けられ時は、妹と一緒だった。その妹が」
     うつむいたままの奈良はもう涼子を見られなかった。
    「ドナルド・アビーの妻よ」
     警官がそろそろ時間だとばかりに立ち上がった。涼子も再び立ち上がった。
    「和真は私より先にあのノートを見てしまった。ショックを受け、野球を辞めたいと言った。あなたと同じことをしたくないと……」
     振り向いて涼子は面会室を出て行った。警官から促されても、奈良雄介は立つことができなかった。

    22.悪

     服役後、奈良雄介は知人にこう語った。
    「取り調べの時、刑事に『悪人であることを認めろ』と言われた。その時感じた。悪いことは消えないんだって。伝わるんだってね。私の子どもの時の行為が人の人生を終わらせた。そんな私の過去を刑事は知らない。でも、まるでそれを知ってるかのような言い方だった。それまで自分は『いじめは子どもの頃の話だ、しょうがないだろ』って思ってた。その考えが、40歳を過ぎても変わってなかったことが、私の『悪』だった。自分を善人だと思うことは、悪いことなんだと。それを認めろと言われたんだ。死んだ人の代わりに。きっとね。……私が傷害事件を起こした前の年、成田兄弟の母親が亡くなった。母親は自分の子が自殺して以降、笑わなかったそうだ。それでも、恨みつらみを言わず、静かに子を供養しながら悲しみの余生を送った。その母親の死を見届けて……私への『復讐』が決行されたわけだが、それまでの間、私は何人もの憎しみの対象となっていたことに気づきもせず、生きた。『いいひと』と称してね」

    23.答え合わせ

     社長に命じられ、今日も社長の娘のマンションに向かう。一体いくらで買えるのか考えも及ばないほどの高級新築タワーマンション。娘の携帯にワンコールだけ架け、すぐに切る。しばらくして娘がマンションの地下駐車場に現れた。
    (朝早くからヨガ教室か……)
     不機嫌そうなその娘の容姿は、社長に似ていない。社長に買い与えられたカイエンの鍵を娘から投げ渡される。社長が経営する土木工事会社の現場作業員だった彼は、日焼けした顔でサイドシートの娘に言った。
    「発車します」
     娘は返事をしない。いつものようにハイブランドのコスメケースを開けた。遠回りすると怒鳴られるので、渋滞しているが、右折で出庫する。塞がれた車の運転手や歩行者が睨んでくる。申し訳ないので目を合わせずクラクションを鳴らす。
    (現場の作業のほうがまだマシだ)
     いつからか、これが社長に命じられた仕事になった。毎日のように娘の送迎をやらされる。エステやダンス、料理や買い物などの送迎を延々行う。はるか年下のこの娘は、怒鳴る以外話しかけてこない。マンションに帰宅した際も礼すら言わない。
     ある日、彼は娘をナイフで脅し、娘の部屋の金品を奪い、娘を刺して逃亡した。

     
     
     
    アラフィフの頭の中、心の内、腹の底、指先の感覚などを表現。 やたらとよく食べるねこ2匹に家計が圧迫。 全然理解できないのにコルトレーンを聞く。 「ねこのElegy」よろしくです。

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