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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第5話 本居宣長(10)(最終章)

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    10


     賀茂真淵との一夜の会見から36年後を経た寛政10年(1798)6月13日、宣長は『古事記伝』全44巻を書き終えた。このとき宣長69歳。その3年後の享和元年(1801)9月29日、宣長は72歳の生涯を閉じた。

     宣長は、自分の死後に行うべきことすべてをじつに事細かに指示する「遺言書」を、死の一年前にしたためていた。
    葬儀の日時やプロセス、死体の処置。棺は夜中秘かに松坂南郊の山室山やまむろやま妙楽寺に運ぶべきこと。葬送の式は市中の樹敬寺じゅきょうじでとり行うべきこと。戒名。公的な、俗人としての墓は樹敬寺に、戒名を刻んで。
    私的な、不俗の人としての墓(奥墓)は山室山に、墓には戒名を示さずに「本居宣長之奥おく墓つき」(自筆)とのみ刻んで。奥墓の背後には、宣長が歌のように恋人のように愛し、一体化したいとさえ願った、桜を植えるように指示した。
    公私二つの墓の存在は、宣長が生涯ひそかに抱え続けた亀裂と孤独とを物語っているように感じられる。

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    樹敬寺(松阪市新町)
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    本居宣長と妻かつの戒名が並ぶ墓(樹敬寺)
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    山室山の奥墓へ。松阪駅から7キロほど。*
    途中までバスがありますが4~5キロは歩かなければなりません。
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    山室山の登り口へ*
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    山室山の登山道*
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    山室山、山中の解説看板


     今山室山を訪れると、奥墓の傍らには二人の人物の歌碑が見つかる。一人は、名古屋の門人植松うえまつ有信ありのぶ(1759-1813)。尾張藩士の子に生まれたが、父の失禄をうけ、一家の生活を支えるために版木師となった。
    宣長に入門し、その後期の著作の多くの版下を作成。宣長の著作への理解が深まらなかったわけがない。宣長危篤の知らせを聞き松坂に急いだが、すでに遅く、山室山で一週間死を悼んだという。

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    山室山の本居宣長墓

     もう一人は、夢の中で宣長に入門を許可されたと語り、宣長の死の四年後に長男春庭(1763-1828)に入門した、秋田生まれの「没後の門人」平田ひらた篤胤あつたね(1776-1843)。
    宣長は、人は死ねばその霊は汚れた他界=「黄泉の国」に赴くことになるとして、死を悲しむべきこととしてとらえた。だが篤胤は、人は死後大国主おおくにぬし命みことが主宰する幽冥界の住人となり、生者の住む顕界の近くにとどまり、生者を見守り続けると考えた。
    篤胤の関心は、今を生きる人間が抱える切実な問いに答えうるフィクションの体系を築き上げることであり、先入見を取り去ることを念じて過去に赴く宣長の文献研究とは、趣が異なっていた。
    それゆえに篤胤の学風(「平田国学」)は、幕末になると宣長の思惑を超えて、政治参加への希求を抱えた有志者たちに訴える力をもつことにもなる。

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    山室山、本居宣長奥墓の側にある平田篤胤の歌碑*
    「那伎迦良ハ何處能土爾成里努斗毛魂波翁乃母登爾往可那牟」
    (なきがらはいづくの土になりぬとも魂は翁のもとにゆかなむ)


     宣長の学問を献身的に支えていた春庭は、30歳前後で失明し、本居家の家督は養子の大平おおひら(1756-1833)が継いだ。大平は紀州徳川家に仕官して、移住先の和歌山で一派をなす。

    松坂に残った春庭は、文法学者としての父の側面(助詞の研究や係り結びの法則の発見)を発展させる仕事にとりくんだ。動詞の活用の研究(『詞八衢ことばのやちまた』1806)、動詞の用法の研究(『詞ことばの通路かよいじ』1828)が特に知られる。
    名詞よりも動詞のはたらきを重視することは、漢意を離れる方法として実用的だ。この方法はのちに、柳田國男(1875-1962)に重んじられることになる。春庭の優れた評伝文学として、足立巻一『やちまた』(1974刊行)がある。

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    足立巻一『やちまた』(下巻)中公文庫版
    (表紙の人物は本居春庭〔本居宣長記念館蔵〕)
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    春庭と妻壱岐の墓(樹敬寺)


     1942(昭和17)年、日本文学報国会が「愛国百人一首」を編纂し、宣長の歌「しき嶋のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花」を採録した。これは、61歳のときに自画像に添えた賛だったが、皇国主義イデオロギーに基づく戦時期の国威発揚に利用されたのである。

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    「本居宣長六十一歳自画自賛像」 寛政2年(1790年)8月
    (本居宣長記念館蔵)掲載許可申請中
    左側の賛文に「しき嶋のやまとこころをひととはは朝日ににほふ山さくら花」とある


    だが宣長からすれば、皇国主義もまた、一つの漢意にほかならないものだっただろう。宣長は『紫文要領』にこう書いていたのだった。

     ――もののふの戦場にをきていさぎよく討死にしたる事を物にかくとき、其そのしわざをかきてはいかにも勇者と聞えていみじかるべし、其時のまことの心のうちをつくろわず有のままにかくときは、ふる里の父母もこひしかるべし、妻子も今一たび見まほしく思ふべし、命もすこしはおしかるべし、是みな人情の必まぬかれぬ所なれば、たれとてもその情はおこるべし〔武士の戦死は勇ましく描かれるが、それは人情の自然を表してはいない〕。
                                         (了)

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    「鈴屋大人偶講学旧地」(京都市下京区四条烏丸)*
    本居宣長が最晩年(享和元年(1801))最後の上洛をした際の寓居跡(講義もしたようです)
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    樹敬寺(松阪市)本居宣長夫妻の墓*
    (左側、五輪塔の隣り)


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    ◆参考文献

    主な使用文献と参考文献は、こちら↓

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    ◆著者プロフィール

    野口良平(のぐち・りょうへい)
    1967年生まれ。京都大学文学部卒業。立命館大学大学院文学研究科博士課程修了。京都芸術大学非常勤講師。哲学、精神史、言語表現論。

    〔著書〕
    『「大菩薩峠」の世界像』平凡社、2009年(第18回橋本峰雄賞)
    『幕末的思考』みすず書房、2017年
    『列島哲学史』みすず書房、近刊(2025年9月)
    〔訳書〕
    ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』共訳、みすず書房、2011年
    マイケル・ワート『明治維新の敗者たち 小栗上野介をめぐる記憶と歴史』  みすず書房、2019年
    〔連載〕
    「列島精神史序説」(「月刊みすず」2020年7月号~2022年9月)
    「幕末人物伝 攘夷と開国」(けいこう舎マガジン)!!!!!!

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    ◆著作権等について


    ・全文章の著作権は、著者(野口良平先生)に(版権は、編集工房けいこう舎に)帰属します。
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    (編集人)


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