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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第5話 本居宣長(7)

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     真淵との対面から間もない6月7日、宣長は、おそらくはすでにある程度書きあげていた本格的『源氏物語』論である『紫し文ぶん要領ようりょう』をまとめ、奥書を記した。『古事記』の本格的研究に入るに際し、『源氏物語』への関心に一区切りつけようとしたのだろう。
    またおそらくはこれと近い時期に、歌論『石上いそのかみ私淑ささめ言ごと』(未定稿、宣長没後に出版)を執筆した。
    この二冊で宣長が示そうとしたのは、文学と人間に対する自身の根本態度であり、そこでのキーワードが、「もののあはれ」、そして「もののあはれを知ること」だった。

     「もののあはれ」とは、宣長が歌を味わい、作る経験から、また『源氏物語』を読み味わう経験から見てとった、歌そして物語の本質とともに、世界像を描く心、さらには人間の本質までをも言いあてようとする概念である。『石上私淑言』の表現によれば、「見るもの聞くことなすわざにふれて情ココロに深く感ずる事」。

    宣長によれば、「もののあはれ」の概念を示した最初の文章は、紀貫之(866?-945)による『古今和歌集』仮名序(ひらがなによる序文)である。貫之はこう書いている。
    ――生きとし生けるものすべては、ものに深く感じたとき、歌をよまずにはいられない。生きものとしての人間が抱く感情の核を最もよく表現しうるのは、漢文や漢詩ではなく、ひらがなによる和歌(=やまとうた)にほかならない。

    だが貫之はその一方で、この船頭には「もののあはれ」はわかるまいということも『土左日記』に書いている。では、「もののあはれを知る」とはどういうことなのか。それは、一部の知識人や文化人にしかできないことなのか。この問いに対し、いやそんなことはない、「もののあはれ」とは、身分や性別に関わりなく、またどの土地に暮らし、どの言語を用いるかにも関わりなく、人間であれば本来は誰もが知りうるはずのものなのだ、と答えようとしたのが、紫式部の『源氏物語』だったのではないか。これが、宣長のアイディアである。

     儒教の考え方に従えば、「もののあはれを知る」などは、君子の事柄(「大」)ではなく女子・小人の事柄(「小」)と見なされ、天下を「知る」(学問)=「治る」(政治)の下位に置かれてしまう。ここには、「私」のために「公」があるのではなく、「公」のために「私」があるとする重大な転倒が潜んでいる。
    この転倒した公私観を正し、「小」から「大」を見返しうる新しい視座を得ることこそが、列島発の学問の課題なのではないか。そして、徂徠が大陸の“過去の異質な言語”に虚心に向き合うことで孔子の考えの根本をとりだしえたように、一切の先入見を排して列島の“過去の異質な言語”に向き合えば、求める視座が得られるのではないか。
    そう考えたからこそ宣長は、以後40年近くにおよぶ『古事記』研究と、その成果たるライフワーク『古事記伝』の執筆に向かったのだろう。


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    本居宣長旧宅。源氏物語などの講釈、歌会が頻繁に開かれた。通称「鈴屋(すずのや)」。
    松阪城跡の本居宣長記念館に移築保存されている。
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    本居宣長旧宅の案内板(本居宣長記念館)

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    ※ ヘッダー写真:源氏物語絵巻「竹河」(二)(徳川美術館)、作者不明、12世紀、パブリックドメイン

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    ◆参考文献

    主な使用文献と参考文献は、こちら↓

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    ◆著者プロフィール

    野口良平(のぐち・りょうへい)
    1967年生まれ。京都大学文学部卒業。立命館大学大学院文学研究科博士課程修了。京都芸術大学非常勤講師。哲学、精神史、言語表現論。

    〔著書〕
    『「大菩薩峠」の世界像』平凡社、2009年(第18回橋本峰雄賞)
    『幕末的思考』みすず書房、2017年
    『列島哲学史』みすず書房、近刊(2025年9月)
    〔訳書〕
    ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』共訳、みすず書房、2011年
    マイケル・ワート『明治維新の敗者たち 小栗上野介をめぐる記憶と歴史』  みすず書房、2019年
    〔連載〕
    「列島精神史序説」(「月刊みすず」2020年7月号~2022年9月)
    「幕末人物伝 攘夷と開国」(けいこう舎マガジン)!!!!!!

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    (編集人)

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