
私には、忘れられない夜がある。 《わたしの見た看護の現場から》
「寂しいなぁ。寂しいよ。」
90歳を超えたその人は、酸素マスクを口に当て、肩で息をしながらまるで赤子の様に、そう繰り返し呟いた。
その言葉を絞りだす度に、酸素マスクの中が曇る。
私はただ、その陰りを見ながら大丈夫ですよ、と呟いた。
何が大丈夫なのか。
大丈夫な事があるか。
世の中は、緊急事態宣言の真っ只中。
眼に見えない、黒い混沌が世界を支配していた。
その混沌の中に、無理にでも秩序を見出さなければいけないのがこの現場だ。
これ以上、それに支配されないように。
これ以上、それに奪われないように。
時に無情と感じるまでのルールを徹底的に敷くしかなかった。
だから今、90を超えるその人の、
そばに立つのは私ひとりだ。
本来なら、色とりどりの思い出に囲まれて、温かな人々の気配を感じて、彼は自身の吐息の中で微睡んでいれたのかもしれない。
そんな環境を提供するのが、私の仕事だったはずだ。
けれど、今、
私はひとりでその人のそばに立ち、根拠のない“大丈夫ですよ”を呟くしかなかった。
しかも私は、その人のそばで寄り添い続ける事も赦されていない。
なぜなら他にも、あと16時間、護るべき人を抱えているのだ。
右側のポケットが振動する。
その振動とともに、私の足は方向を変え早足で動き出す。
“すぐ戻りますから、ちょっと待ってて”と
心の中で紡いだ言葉は、鳴り止まない喧騒の中に弱々しく消えていった。
私が戻った時、その人の酸素マスクが
もう曇る事はなかった。
諸々の事が進み、まだ温かで柔らかな頬をタオルで拭く。
目の周りの皺を丁寧になぞりながら、優しい茶色の瞳の持ち主だった事を思い出す。
けれど、きっと彼の瞳には私の顔は映っていなかっただろう。
その大半を白いマスクで覆い、
額まで深く帽子を被り、
唯一残されたその間の目元でさえ、プラスチックの覆いが被さっていたのだから。
最後の更衣を終えると、その人は専用の白い袋に包まれた。
私はただ、深々と頭を下げた。
それしか、出来なかった。
あれから何年経っただろう。
世の中は、あの深い混沌から抜け出した。
気が付いたら、変わらない日常が広がっていた。
けれどふと、叫びたくなる。
無かったことにしないで欲しい。
あの日々を、あの夜を、
無かったことにしないで欲しい。
90年を越える人生の最期に、
『寂しいよ』と呟いたその人に、
寄り添えなかった自分を、
何も出来なかった未熟さを、
無かったことにしたくない。
今日もふと、右側のポケットか震えた気がした。
私には、忘れられない夜がある。