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Photo bytk000121

私には、忘れられない夜がある。 《わたしの見た看護の現場から》


    「寂しいなぁ。寂しいよ。」


    90歳を超えたその人は、酸素マスクを口に当て、肩で息をしながらまるで赤子の様に、そう繰り返し呟いた。

    その言葉を絞りだす度に、酸素マスクの中が曇る。

    私はただ、その陰りを見ながら大丈夫ですよ、と呟いた。


    何が大丈夫なのか。

    大丈夫な事があるか。


    世の中は、緊急事態宣言の真っ只中。

    眼に見えない、黒い混沌が世界を支配していた。


    その混沌の中に、無理にでも秩序を見出さなければいけないのがこの現場だ。


    これ以上、それに支配されないように。

    これ以上、それに奪われないように。


    時に無情と感じるまでのルールを徹底的に敷くしかなかった。


    だから今、90を超えるその人の、

    そばに立つのは私ひとりだ。


    本来なら、色とりどりの思い出に囲まれて、温かな人々の気配を感じて、彼は自身の吐息の中で微睡んでいれたのかもしれない。

    そんな環境を提供するのが、私の仕事だったはずだ。


    けれど、今、

    私はひとりでその人のそばに立ち、根拠のない“大丈夫ですよ”を呟くしかなかった。


    しかも私は、その人のそばで寄り添い続ける事も赦されていない。

    なぜなら他にも、あと16時間、護るべき人を抱えているのだ。


    右側のポケットが振動する。

    その振動とともに、私の足は方向を変え早足で動き出す。

    “すぐ戻りますから、ちょっと待ってて”と
    心の中で紡いだ言葉は、鳴り止まない喧騒の中に弱々しく消えていった。



    私が戻った時、その人の酸素マスクが

    もう曇る事はなかった。





    諸々の事が進み、まだ温かで柔らかな頬をタオルで拭く。

    目の周りの皺を丁寧になぞりながら、優しい茶色の瞳の持ち主だった事を思い出す。


    けれど、きっと彼の瞳には私の顔は映っていなかっただろう。

    その大半を白いマスクで覆い、

    額まで深く帽子を被り、

    唯一残されたその間の目元でさえ、プラスチックの覆いが被さっていたのだから。



    最後の更衣を終えると、その人は専用の白い袋に包まれた。

    私はただ、深々と頭を下げた。


    それしか、出来なかった。





    あれから何年経っただろう。

    世の中は、あの深い混沌から抜け出した。

    気が付いたら、変わらない日常が広がっていた。


    けれどふと、叫びたくなる。


    無かったことにしないで欲しい。


    あの日々を、あの夜を、


    無かったことにしないで欲しい。


    90年を越える人生の最期に、
    『寂しいよ』と呟いたその人に、
    寄り添えなかった自分を、
    何も出来なかった未熟さを、


    無かったことにしたくない。



    今日もふと、右側のポケットか震えた気がした。



    私には、忘れられない夜がある。

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    最後の晩餐はほかほかご飯に梅干しとスイカって決めてる人生。 今日もどこかで看護師をする人。

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