
スーパー・スキャンダル
スーパー・スキャンダル あらすじ
沼田亜紀子(65歳)が総理大臣の近未来。
些細な筈の行為から大手新聞社を辞める羽目になった写真記者の貝塚志郎(45歳)。
夫と世界的ピアニストの吉川葉月(43歳)との仲を疑い家出した貝塚菜摘(40歳)。
不倫相手の沼田賢治(55歳)との間に空也(そらや)を産み、すぐ養子に出したものの、最近息子を取り戻したくなった吉川葉月。
天の道教の導きで10歳年上の亜紀子と結婚し、彼女に頭が上がらない代議士・沼田賢治。
亜紀子を操り日本改変を画策する、天の道教教祖のユージン・カラス(74歳)。
そして、肝臓癌と診断され、生みの母に会うために養子先を出奔したソラこと空也(16歳)。
この7人が織りなすシューマン・ドラマ。
本文↓
{1}与党本部―衆議院議員選挙開票日
沼田亜紀子総理と夫の沼田賢治代議士が満面に笑みを浮かべて肩を寄せ合っている。
バックには、軒並み赤いバラがついた議員立候補者の氏名が並んでいる。
眩しいほどフラッシュが焚かれている。
カメラを構えている中には、貝塚志郎がいる。
亜紀子と賢治の大写しの写真。
その写真に重なって、サブリミナル映像のように、教導師姿のユージン・カラスが富士山に似た山のブロンズ像にむかってワインの入ったグラスを揺らしているのが重なる。
{2}国会議事堂前―夕方
数百人がプラカードやペンライトを持ってスタンディングしている。
プラカードには「戸主制度復活反対」「家父長制に戻すな」「女性の権利を守れ」などという文字が書かれている。
その中に貝塚と妻の菜摘がいる。
{3}日報新聞社の副社長室―午前
貝塚が副社長の大森重人と、大森のデスクをはさんで対峙している。
貝塚 「なぜ僕が、社史編纂室なんかに。」
大森 「身に覚えはないの。」
貝塚 「なにも。」
大森 「ゆうべ。」
貝塚 「ゆうべ?」
大森 「行っただろ、国会前。」
貝塚 「あ。」
大森 「うちの記者が国の政策に反対するデモに参加しちゃ、まずいだろ。」
貝塚 「僕の顔なんか誰が知って。」
大森 「知っていないわけがないだろ、写真記者として長年国会にも出入りして……」
と言いかけ、デスクに身を乗り出す。
大森 「はっきり言って、官邸から見たという連絡が来ている。」
貝塚、一瞬の沈黙ののち、
貝塚 「個人の自由でしょう、プライベートでなにをしようと。」
大森 「なあ、まだ分からないの。記者が自由をふりかざせる時代はとっくに終わっているんだ。社史編纂室だって、重要な仕事だろう。」
貝塚 「妻に、あなたの姪に誘われて行ったんですよ。隣に並んでいたでしょう。」
大森 「(ふっと笑って)それでなきゃ、社史編纂室にもきみの席はなかったよ。」
大森、話は終わったとばかりに眼鏡をかけ、デスクの書類に目を通す。
大森 「今日はやたらと決算書類が多いな。」
貝塚、しばらく大森を眺めていたが、部屋を出ていく。
{4}貝塚家―夕方
都心に建つ古くも新しくもない15階建てマンション。
貝塚、室内に入ってくる。
貝塚 「ただいま。」
キャリーバッグを転がし、大きなバッグを抱えた菜摘と出会う。
貝塚 「どこへ行くの、そんな大荷物を持って。」
菜摘 「実家に帰るの。」
貝塚 「実家に? どうして。」
菜摘 「自分の胸に聞いてよ。」
貝塚 「あ、俺が失業したから……」
菜摘 「失業? ああ、辞職願いを出したんですってね。叔父さんから電話が来ていた。ついでに、男の足を引っ張るなって、お説教も。あの昭和親父。でも、なんで辞職願いなんか出したの。」
貝塚 「この俺を移動させるって言うんだよ。社史編纂室! 腕利きのカメラマンをかび臭い資料室に閉じ込めるって言うんだ。」
菜摘 「べつにいいじゃん。このご時世で、毎月きちんとお給料をもらっている人がどれほどいるって言うのよ。」
貝塚 「会社を辞めても生活は守れるよ。俺のカメラマンの腕があれば。」
菜摘 「どうかしら。」
貝塚 「信じないの。」
菜摘 「大新聞社の写真記者として乳母日傘でやってきた人が、フリー・カメラマンと争える? 営業しなきゃならないのよ。営業なんかできないでしょ。」
貝塚 「やれるよ。やってみせる。だから。」
と、菜摘の手からバッグを奪おうとする。菜摘、それを避け、
菜摘 「わたしが実家に帰るのは、あなたが失業したからじゃないわ。」
貝塚 「じゃあ、なぜ。」
菜摘 「速達が来たのよ。」
貝塚 「速達?」
貝塚、菜摘の視線を追ってテーブルを見る。
貝塚宛ての封筒が載っている。
貝塚、封筒を手にとり、ひっくりかえす。
「吉川葉月」という差出人の名前と、封が切られていることが分かる。
中からは「吉川葉月 ピアノ・リサイタル」というコンサートのチケットと便箋が1枚出てくる。
菜摘 「あなた、まだ吉川さんと付き合っていたのね。」
貝塚 「(便箋を読みながら)付き合っていないよ。」
便箋には「リサイタル終了後、必ず楽屋に来てください。葉月」とある。
菜摘 「じゃあ、どうしてここの住所を知っているの。」
貝塚 「俺の実家にでも聞いたんだろ、お袋には昔から可愛がられていたから。(はたと気づいて)人の手紙を勝手に開いたの。ひどいじゃないか。」
菜摘 「話をそらさないで。付き合っていないなら、どうしてコンサートのチケットを送ってくるのよ。」
貝塚 「日本で久しぶりのリサイタルだから、じゃないか。」
菜摘 「久しぶりだけなら、終わったら楽屋にきて、なんて手書きのメモまでつける?」
貝塚 「……」
菜摘 「行くつもりなんでしょ。」
貝塚 「いや、行かないよ。」
菜摘 「じゃあ、チケットを破れる? 捨てられる?」
貝塚 「もちろん。」
と、チケットを手にとる。が、途中で躊躇。
貝塚 「(口の中で)3万円もする席だしな。」
菜摘、眉を逆立てる。
菜摘 「ほら、みなさい。」
と言って、貝塚に背をむけ、玄関へ出て行く。
貝塚、あとを追う。
貝塚 「菜摘、菜摘!」
貝塚の眼前で、玄関ドアがぴしゃりと閉まる。
貝塚、立ちつくす。
貝塚 「なんだよ。勝手に嫉妬して。失業した男を夫に持ちたくないだけだろ。失業? 俺はフリーのカメラマンになっただけだ。」
{5}コンサート・ホール―2日後の夜
吉川葉月が「乙女の祈り」を弾いている。
客席に準礼服姿の貝塚がいる。
貝塚 「(心の中で)アンコールが乙女の祈り、か。なにを祈っているんだ?」
スウエットの上下を着たソラが貝塚の隣に座っている。
貝塚、ソラの目から涙が次々とこぼれ落ちているのに気づく。
ソラ、涙を拭くものがなく、少し困っている様子。
貝塚、ポケット・チーフを出してソラに渡す。
ソラ、涙を拭き、ポケット・チーフを返そうとするが、貝塚、吉川を見つめていて気がつかない。
演奏、終わる。
客席から盛大な拍手。
ソラ、ハンカチを握りしめたまま拍手。
吉川、退場。
拍手が鳴りやまず、ソラも叩きつづけているが、貝塚は立ちあがって会場を出ていく。
それに気づいたソラ、慌てて貝塚を追いかけようとするが、人波に阻まれてなかなか追いつかない。
{6}コンサート会場の外
貝塚、ゆっくりした足取りでコンサート会場から遠ざかっている。
背後から声。
ソラ 「あのぉ、もしもし。」
貝塚、立ち止まり、ふり返る。
ソラ、荒い息を吐きながら貝塚に近寄る。
ソラ 「これ、ありがとうございます。」
と、ポケット・チーフを差し出す。
貝塚、ポケット・チーフとソラを見比べる。
ソラ 「あ、厭ですよね、僕の涙まみれのハンカチなんて。」
と、ポケット・チーフを持つ手をひっこめかける。
貝塚、微笑してポケット・チーフを受け取る。
貝塚 「いや、ポケット・チーフはこれだけだから、返してもらうよ。わざわざありがとう。」
と、軽く会釈し、ソラに背を向けて歩きかける。
ソラ 「あの。」
貝塚、再び足を止め、ソラを見る。
貝塚 「なにかまだ?」
ソラ 「クラシック・コンサートって、立派な格好で来なきゃいけないものだったんですか。僕、ピアニストさんに失礼だったでしょうか。」
貝塚 「いや、そんなことはないよ。僕は、コンサートの前に結婚式に出たから、こんな恰好で。コンサート、初めてだったの?」
ソラ 「はい。一度でいいから生で聞いてみたくて、無理して。」
貝塚、ソラのはいているくたびれきったスニーカーに目をとめる。
貝塚 「…昨今のコンサートは値段が張るからねえ。」
ソラ 「あの、よく聴きに来るんですか。」
貝塚 「そうでもないけれど、吉川さんからチケットをもらったんで。」
ソラ 「えー、吉川さんと知り合いなんですか。」
貝塚 「まあ、昔、ご近所だったから。」
ソラ 「(憧憬の眼差しで貝塚を見て)吉川さんって、どんな子だったんですか。ちっちゃいころからピアノを弾いていたんですか。」
貝塚 「うん、お父さんがピアノ教師だったから。でも、友達ともけっこう遊んでいたよ。ピアノに真剣になったのは、大学に入って日本の名だたるピアノ・コンクールを総なめするようになってからだなあ。プロでやっていく決心がついたんだろうな。」
ソラ 「大学生になってからなのか。」
貝塚 「きみ、よほど吉川さんのファンなんだね?」
ソラ 「え、いや、その、そんなでも、そうだけれど……」
貝塚 「こんなところで立ち話もなんだ。どこかで酒でも飲みながら話そうか。いや、酒を飲める年齢じゃないね。」
ソラ、うなずく。
貝塚とソラ、肩を並べて歩きながら、
貝塚 「名前は? 俺は貝塚。」
ソラ 「ソラ、です。」
貝塚 「(夜空を指さし)空のソラ?」
ソラ 「分かりません。」
貝塚 「ふーん。」
{7}喫茶店
貝塚とソラ、テーブルをはさみ、むかいあって座っている。
貝塚の前にはコーヒー、ソラの前にはアイスクリームが置かれている。
ソラ 「最初が月光、二番目が悲壮、そして三番目が熱情。でも、最後の曲、聴いたことがありません。なんていうんですか。」
貝塚 「乙女の祈り。ベートーヴェンの曲じゃなくて、ボンダジェフスカというポーランドの女性作曲家の作品。今日はオール・ベートーヴェンだと思っていたから、ちょっとびっくりした。」
ソラ 「そうなんですか。吉川さんは、ベートーヴェンが得意なんですか。」
貝塚 「ああ。ベルギーの有名なコンクールで優勝した時に弾いた曲がベートーヴェンの皇帝だったからね。日本のファンも彼女がベートーヴェンを弾くのを待っている。五年ぶりに帰国して弾くのもベートーヴェンのみだろうと言われていた。」
ソラ 「乙女の祈り……ボンダなんとかいう人は、なにを祈って作曲したんですか。」
貝塚 「恋の祈りとか神への祈りとかいろいろ言われているけれど、さあ、本人じゃないから分からないな。」
ソラ 「吉川さんは、なにを祈って乙女の祈りを弾いたんでしょう。」
貝塚 「ますます分からないな。(ソラのアイスクリームを顎でしゃくって)それ、溶けちゃうよ。」
ソラ、慌ててアイスクリームをスプーンですくって口に運ぶ。とろけるような笑顔になって、
ソラ 「こんなおいしいもの、初めて食べた。」
貝塚、驚いたふうにソラがアイスクリームを食べるのをしばらく眺めている。アイスクリームを食べ終えたのを見て、
貝塚 「さて、そろそろ帰ろうか。あまり遅くなると、家族が心配するだろう。」
ソラ、首をふりかけ、やめる。
ソラ 「はい。あの、僕。」
と、アイスクリームの容器を一瞥し、貝塚の顔に視線を移す。
貝塚 「ああ、これくらい奢るよ。誘ったのは、僕だからね。」
ソラ 「ごちそうさまでした。」
と、丁寧に頭を下げる。
{8}渋谷駅周辺
貝塚とソラ、並んで歩いている。
渋谷駅につく。
貝塚、改札口を通ろうとするが、ソラは動かない。
貝塚 「この辺に住んでいるの?」
ソラ、少しの間をおいてうなずく。
貝塚 「そうか。じゃ、縁があったら、また。」
貝塚、手を振って改札口を通っていく。
ソラ、小さく手を振り返す。
ソラ、辺りを見回し、方向を定めない感じで歩きだす。気分が悪い様子。
ソラ、駅前の交番を見つけ、建物に寄りかかるようにしてうずくまる。
{9}駅構内
エスカレーターに乗っている貝塚のズボンの尻ポケットから軽やかな電子音が流れる。
貝塚、ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面には電話番号しか記されていない。
貝塚、ホームの隅に立ち、スマートフォンをタップする。
吉川 「もしもし、貝塚志郎さんですか。」
貝塚 「そうだけれど。」
吉川 「よかったあ。17年前の番号だから、もう変わっているかと思っていた。」
貝塚 「葉月なの? どうしたの。」
吉川 「いまどこにいるの。」
貝塚 「どこって、駅だけれど。電車に乗るところ。」
吉川 「どうして。なんで楽屋に来てくれなかったの。ずっと待っていたのに。」
貝塚 「楽屋に行ってどうするの。旧交を温める?」
吉川 「そうじゃなくて……お願いがあるの。」
貝塚 「お願い?」
吉川 「あなたにしか頼めないの。来て。コンサート・ホールのすぐそばのホテルにいるから。そこの26階のバーで待っている。」
{10}ホテル内
貝塚、バーに入ってくる。
夜景の見えるテーブル席は満杯。
貝塚、吉川がカウンターのスツールに座っているのを見つけ、近づく。
貝塚 「やあ。」
吉川 「Hi。」
貝塚 「なんのお願い?」
吉川 「まず、なにか飲んで。」
貝塚 「急ぎの用じゃないんだね? (バーテンダーにむかって)ウイスキーをシングルで。」
吉川 「テーブル席があいていないなんて思わなかったの。日本って、不景気じゃないのね。」
貝塚 「金のあるところにはある。」
貝塚の前にウイスキーが置かれる。
貝塚が数口飲んだところで、
吉川 「じゃ、行きましょうか。」
と言って、スツールをおり、出口にむかっていく。
貝塚、驚きながらも吉川のあとを追い、廊下に出る。
二人、エレベーターホールへむかって歩きながら、
貝塚 「なんなんだよ。」
吉川 「人の耳のあるところじゃ話せない。」
貝塚 「で?」
吉川 「1756号室、わたしの部屋。」
貝塚 「外からの客は入室禁止だろう?」
吉川 「バーからなら入れる。」
二人、エレベーターに乗り込む。
{11}1756室
吉川と貝塚、部屋に入ってくる。
吉川、部屋に鍵をかけるなり、貝塚をふりむき、
吉川 「沼田に会えるように手配して。」
貝塚 「沼田って、どこの沼田?」
吉川 「沼田亜紀子よ、総理大臣の。」
貝塚 「は? 戸主制の復活をやめろとでも直訴するの?」
吉川 「馬鹿、そんなんじゃないわ。空也の行方を聞きだすのよ。」
貝塚 「空也って、誰? 話がさっぱり見えないんだけれど。」
吉川 「わたしの息子よ。沼田賢治との間の。」
貝塚 「ちょっと、ちょっと待って。葉月、子供がいたの、それも沼田亜紀子の夫との間に?」
吉川 「そうよ。」
貝塚 「スーパー・スキャンダルだ。」
と、応接セットの椅子にへたりこむように座る。
吉川 「そうね、スキャンダルね。でも、妊娠したのは猛烈に忙しかった時期で、堕ろす暇がないまま時間が経ったの。」
貝塚 「堕ろす暇があったら、堕ろしていたんだ。」
吉川 「そうよ。子供よりピアニストとしての仕事が大事だったもの。」
貝塚 「葉月らしいよ、恋人よりピアノが大事だったんだからね。」
貝塚と吉川、瞬時、見つめ合う。
吉川 「あの時は、どこかのご令嬢から横恋慕もされたじゃないの。」
貝塚 「どこかのご令嬢は出ていったよ、2日前、きみの手書きのメモのおかげでね。」
吉川 「そう。わたしの息子が消えたほうがよっぽど一大事よ。」
貝塚 「息子さん、消えたの? そもそものはじめから話してくれよ。」
吉川 「そうね。」
と、貝塚のむかいの椅子に腰をおろす。
吉川 「沼田賢治は、わたしのファンでね。17年前、まだわたしがドイツに拠点を移していないころに、よくコンサートに来てくれたの。食事にも誘われた。」
貝塚 「で、深みに。」
吉川 「あなたが結婚して寂しい時期だったし、それに無下にはできなかったわよ、名のある政治家だったから。」
貝塚 「もっと言えば、若くて、ハンサムだったしね。きみは面食いだもの。」
吉川 「(貝塚を軽く睨んで)あなた、まだ自分の顔に自信があるでしょ。沼田亜紀子にも覚えがめでたいんじゃない。」
貝塚 「どうだろう。17年前なら、賢治はとっくに亜紀子につかまっていただろう。」
吉川 「ええ。10歳も年上の亜紀子がどうやって賢治を籠絡したのか、当時、政治面じゃなく、芸能面を賑わしたよね。」
貝塚 「でも、きみとの関係は爪の先ほども出なかった。」
吉川 「賢治は滑稽なくらい神経を使っていたからね、なにもなかったころから。」
貝塚 「(口の中で)初手から下心ありか。」
吉川 「なんですって。」
貝塚 「なんでもない。出産の時はどうしたの。16、7年前、きみがコンサートに穴をあけた記憶がないんだが。」
吉川 「おかげさまで超安産でね。出産前は前日まで、出産後は1週間でステージに立てた。」
貝塚、口笛を吹き、吉川、睨む。
貝塚 「で、赤ちゃんは?」
{12}吉川の回想
産院の個室。
吉川、ベッドで目をつぶっている。
ドアが開き、誰かが部屋に入ってくる音で、吉川、目をあける。
入ってきたのは、冷たい表情の亜紀子、その後ろからおどおどと賢治。
吉川、思わずベッドに起き上がり、腹部を押さえる。
吉川 「いたっ。」
亜紀子 「しっ。」
吉川 「はあ?」
亜紀子 「時間がないから、単刀直入に聞く。あなた、赤ん坊をどうするつもり。」
吉川 「どうって……」
亜紀子 「賢治に責任をとらせる気はない、そう賢治に言ったんですって?」
吉川 「……」
亜紀子 「赤ん坊が賢治の子だと公表する気もない、と。」
吉川、賢治を一瞥。
賢治、吉川にむかって小さく両手を合わせる。
亜紀子 「子供を一人で育てるつもり?」
吉川 「それは……」
亜紀子 「あなた、海外の音楽学校に留学なさい。」
吉川 「は?」
亜紀子 「資金はうちが出します。ピアニストとしてもっと研鑚を積めば、世界でも一流のピアニストになれるだろうと、(賢治を顎でしゃくって)言っているわ。」
吉川 「条件はなんでしょう。」
亜紀子 「頭の回転が速いわね。赤ん坊をわたしたちによこして、二度と会わない。」
吉川 「ああ。」
{13}1756室
吉川 「亜紀子はもう子供を産める年齢じゃなかったから、自分たちの子として育てるつもりだ、そう思ったのよね。」
貝塚 「だから、手離した?」
吉川 「まあ、自分で育てるのも大変だろうと思っていたしね。母でも生きていれば、ピアニストをしながら育てられたかもしれないけれど。音楽のことしか知らない父と二人じゃ、ね。」
貝塚 「でも、沼田夫妻に子供がいるという話は聞かない。」
吉川 「産院を出ると、すぐにどこかの誰かに養子にやったそうよ。」
貝塚 「腹が立たなかったの。」
吉川 「とくに。実際にドイツの音楽学校に留学させてくれたし、子供には一切かかわらないと、念書をとられていたし。」
貝塚、低く唸る。
吉川 「なにか飲みたい?」
と立ちあがり、冷蔵庫にむかう。
貝塚 「ビールがあるなら、ビールを」
吉川、冷蔵庫から缶ビールを2本取り出して、1本を貝塚に渡す。自分の缶ビールをあけ、一口飲んで椅子に座り直す。
貝塚もビールを何口か飲む。
貝塚 「でも、きみは息子さんが行方不明になったことを知った。どこから?」
吉川 「わたしは名のあるピアニストよ。沼田夫婦と近い人と知り合う機会もあるわ。」
貝塚 「その人物は亜紀子から情報を引き出せないの?」
吉川 「亜紀子とは犬猿の仲なの。」
貝塚 「ふーん……なんで今ごろになって、息子さんの消息を知りたくなったの。」
吉川 「気がついたのよ、自分の年齢に。もう43。子供を産むには遅すぎる。」
貝塚 「でも、16年前に子供を産んだことがあった。」
吉川、深く息を吸ってから、
吉川 「だからね、あなたに聞きだしてほしいの。あなたなら、亜紀子の会見の場に出入りできるでしょ。なんなら、私邸にでも。」
貝塚 「俺が?」
吉川 「記者証って、万能鍵みたいなものなんでしょ?」
{14}戸外
夜空を背景にホテルのシルエット。
貝塚、ぶらぶらとホテルから遠ざかっている。
吉川の声が貝塚の脳裏にこだましている。「記者証って、万能鍵みたいなものなんでしょ?」
貝塚 「(口の中で)記者証なんて、そんなものないよ。だけど、スーパー・スキャンダルだしなあ。」
貝塚の脳内で会話が再生される。貝塚「金目当ての誘拐の可能性は?」、吉川「高校生の男子をお金目当てで誘拐する? わたしならもっと小さな子を狙うわ」
{15}貝塚の空想①
貝塚の声 「改憲反対派が空也を拉致して、改憲をやめるよう沼田に迫る。」
空也、猿ぐつわをはめられ、椅子に縛りつけられて、うつむいている。顔はおぼろ。
労働者風の身なりの二人の若者がソラを見張っている。
そこへ貝塚がドアを押し破って入ってくる。
若者二人を殴り倒し、ソラの縄を解く。
貝塚 「さ、来るんだ。」
場面が新聞社の副社長室に変わり、大森と貝塚、デスクをはさんで固い握手をしている。
大森 「よく戻ってきてくれた。」
貝塚の声 「改憲反対派がそんなマッチョなことするわけはないよなあ。」
{16}貝塚の空想②
貝塚の声 「もしかして、敵国のスパイが……」
空也、猿ぐつわをはめられ、椅子に縛りつけられて、うつむいている。顔はおぼろ。
金髪碧眼の男がソラを見張っている。
そこへ貝塚がドアを押し破って入ってくる。
男を殴り倒し、ソラの縄を解く。
貝塚 「さ、来るんだ。」
場面が新聞社の副社長室に変わり、大森と貝塚、デスクをはさんで固い握手をしている。
大森 「よく戻ってきてくれた。」
貝塚の声 「日本の改憲にそこまで危機意識を抱いている国なんかあるのか?」
{17}貝塚の空想③
貝塚の声 「亜紀子に改憲をさせたい勢力が拉致した?」
空也、猿ぐつわをはめられ、椅子に縛りつけられて、うつむいている。顔はおぼろ。
人相の悪い男が二人、ソラを見張っている。
そこへ貝塚がドアを押し破って入ってくる。
二人の男を殴り倒し、ソラの縄を解く。
貝塚 「さ、来るんだ。」
場面が新聞社の副社長室に変わり、大森と貝塚、デスクをはさんで固い握手をしている。
大森 よく戻ってきてくれた。
貝塚の声 「空也を使う必要はないか、亜紀子は初めから改憲派なんだから。」
{18}渋谷駅前
貝塚、スクランブル交差点を歩いている。
貝塚 「(口の中で)想像力の欠如だ。」
遠くで救急車のサイレンの音。駅に近づいてくる。
救急車、駅前の交番そばで停まる。
野次馬が寄ってくる。貝塚もその中に混じっている。
巡査 「どいて、どいて。」
救急隊員、担架を運んで交番から出てくる。
貝塚、野次馬の間から担架に乗った人物の顔を見る。
真っ青な顔色のソラ。
貝塚 「ソラ!」
救急隊員 「親御さん?」
貝塚 「え、いや。」
と言ったものの、救急隊員には聞こえなかったらしい。
救急隊員 「乗ってください。」
救急車、貝塚と担架を乗せて走りだす。
{19}救急車内
救急隊員がソラのバイタルを調べている。
救急隊員 「対光反射維持。血圧101の54。脈拍53。酸素濃度97。」
貝塚、ソラの脇に座っている。
貝塚 「一体なにが。」
救急隊員 「交番のそばにうずくまっていたんで、おまわりさんは家出少年だと思ったらしいですよ。中に入れて質問をしていたら、急に倒れた。」
貝塚 「おまわりさんに乱暴されたなんてことはないんですよね。」
救急隊員 「(苦笑して)意識を失うほどの暴力を受けたら、どこかに怪我をしていますよ。息子さんはふだんから失神することがあったんですか。」
貝塚 「知りません。さっき知り合ったばかりなんで。」
救急隊員 「え。」
車内、会話が途切れ、気まずい雰囲気。
{20}救急病院内
救急車、病院に到着。
医者、看護師の園(40代)と看護師の諏訪(20代)の3人が走ってきて、ホールで救急車の担架を迎える。
医者と看護師、ソラをストレッチャーに移し換えながら、
医者 「(貝塚に)お父さんですか。」
貝塚 「いえ。」
医者 「患者さんの病歴をご存じない?」
貝塚 「まったく。」
医者 「ご家族の連絡先を……」
貝塚 「ついさっきコンサートで知り合って、住所も家族も分かりません。名前はソラ、と。」
医者、胡散臭げに貝塚を見てから、ストレッチャーを診察室に運び入れる。
貝塚が診察室の前に立っていると、先刻の看護師たちがソラを乗せたストレッチャーを押して、どこかへ行く。
看護師たちバタバタと診察室へ戻ってきたり、またどこかへ行ったりし、それが繰り返されたあと、診察室から先刻の医者が出てくる。
医者 「(ちらっと貝塚を見て)いたんですね。そのままいてください。」
貝塚 「はあ?」
医者、行ってしまおうとする。
貝塚 「待ってください。ソラの容体は?」
医者 「原因はいま調べています。とにかく入院するしかないでしょう。」
と去る。
貝塚 「(口の中で)俺がなんでここにいなきゃいけないんだ。袖すりあっただけなのに。」
貝塚、照明が絞られた無人の待合室で、スマホをいじっている。
スマホの画面に連絡先の頁があらわれ、貝塚、スクロールして「なつみ」の電話番号で止める。
貝塚、「なつみ」の番号をタップする。
発信音のあと、プツッと切れる音。
貝塚 「おい、出てくれよ。」
貝塚の指が滑って、スマホの画面が連絡先に戻る。
貝塚、「なつみ」の下に「沼田賢治(私)」の電話番号があることに気づく。
貝塚 「電話なら、記者証がなくても話せる。」
{21}病院・待合室―翌日の明け方
朝焼けの空。
貝塚、待合室の椅子で居眠りしている。
看護師の園が奥からやってくる。誰かを探している様子。
貝塚に目をとめ、立ち止まる。
貝塚、気配に気づき、目をあける。
園 「(感心したように)ちゃんといたんですね。」
貝塚 「(少し寝惚けて)なんですか。」
と言ってから、立ちあがる。
貝塚 「あの子はどうしました。」
園 「意識が戻っています。手当が早かったので、大事に至りませんでした。窓口があき次第、退院できます。」
貝塚 「どこが悪かったんです。」
園 「糖尿病です。この数日、インシュリンを打っていなかったそうで、危ないところでした。それから。」
と、言い淀む。
貝塚 「ほかにもあるんですか。」
園 「空腹、でした。」
貝塚 「……言ってくれれば、ステーキでも食べさせたのに。」
園 「やさしいんですね。でも、ステーキは駄目。タンパク質の急な大量摂取は、重大な症状を引き起こしかねません。」
貝塚 「そうなんですか。」
園、白衣のポケットから紙とボールペンを出し、貝塚に差し出す。
園 「こちらに住所とお名前を書いてください。」
貝塚、言われるままに書いて園に渡してから、
貝塚 「なににするんです?」
園 「とりあえずお名前とご住所を知っておかないと。」
貝塚 「だから、なんのために。」
園 「ソラさんは、家族がいないそうなんですよ。帰る家もないとか。だから、退院したら、貝塚さんのところに行ってもらわないと。」
貝塚 「えー。僕は彼とはなんの関係もないんですよ。」
園 「善管注意義務、だそうです。」
貝塚 「なに?」
園 「ドクターがおっしゃっていました。病院につきそってきた人は善良な管理者として最後まで患者の面倒をみなければならない。民法644条の援用。ドクター、医師免許だけでなく、弁護士の免許ももっているんです。」
と、にっこり。貝塚、呆気にとられてその顔を見つめている。
{22}貝塚家―数時間後―
貝塚家の入っているマンションの全景から貝塚家の玄関、廊下、寝室のドア。
{23}同・寝室
ベッドが2台ある。一方のベッドは寝た形跡がなく、一方は布団やシーツが乱れている。ほかにナイト・テーブルやダンスなど。
貝塚、整理ダンスの引き出しをあけ、パジャマを出す。貝塚から少し離れて立っていたソラにパジャマを放る。
貝塚 「とりあえず着替えて、休みなさい。」
と言ってから、ベッドのうちの乱れたほうを指さす。
貝塚 「そっちを使ってね。」
ソラ、パジャマを抱えて、小さくうなずく。
貝塚 「じゃ。」
と、寝室を出ていく。
{24}貝塚の書斎
4畳ほどの洋間、デスクトップパソコンの載った大きなデスクや書棚でほとんど空間がない。
貝塚、スマホに耳を当てている。
書斎の外にパジャマ姿のソラがいて、脱いだ衣類を持ってドアノブに手をかけようかどうしようか迷っている。
貝塚 「もしもし。」
{25}総理大臣執務室および貝塚の書斎
沼田賢治、総理大臣の椅子に座って、誰もいない空間に指を突き立てている。
賢治 「きみ、国会でのあの答弁は、いかがなものかね。論点を外しすぎると、SNSがやかましいことになるよ。」
背広の胸ポケットの電話が鳴りだす。
賢治、スマホを取りだし、耳を当てる。
賢治 「もしもし。おお、貝塚君。この間の総理の写真、バッチリだったね。総理が喜んでいたよ。大きく伸ばして官邸に飾りたいって。」
貝塚の声 「さようですか。では、そのうちに。今日は、伺いたいことがありまして。」
賢治 [なに? 忙しいから手短にね。]
貝塚の声 「息子さんの行方についてなのですが。」
賢治 「息子?」
賢治の声 「どこの息子のこと。」
貝塚 「沼田さんと吉川葉月さんとの間に生まれたお子さんのことです。」
ドアの外のソラ、驚いた様子。
賢治の声 「なんの話だ。」
貝塚 「数日前から行方不明なのでしょう。吉川さんが非常に心配しています。」
賢治 「吉川が心配?」
執務室のドアが開く音。
亜紀子と秘書の杉山(50代男性)が入ってくる。
賢治、亜紀子を見やり、電話を切る。
亜紀子 「(猫なで声で)賢治くん、わたしの椅子に座ってなにしているの。」
賢治 「(急いで立ち上がり)いや、ちょっとね。クッションの具合を確かめようかと。ほら、柔らかすぎると腰に悪いでしょう。」
亜紀子 「(にこやかに)んなこと言って、総理選に立候補していたら、椅子は自分のものになったと思ってるんでしょ。」
賢治、ちらっとスマホと杉山を交互に見る。亜紀子、それに気づき、
亜紀子 「杉山さん、あなたは下がっていいわ。」
杉山 「はい。失礼します。」
と、出ていく。
亜紀子、仏頂面になり、賢治に近づく。
亜紀子 「なんの電話。」
賢治 「あの、空也の行方を知っていますか?」
亜紀子 「空也? なんでそんなことを聞くの。」
賢治 「行方知れずみたいなんです。」
亜紀子 「帯広の家を出たみたいね、三日か四日前に。」
賢治 「知っていたんですか。なんで教えてくれなかったんです。」
亜紀子 「知りたかったの? 関心がないかと思っていた。天の道の信者が大勢で探しまわっているから、すぐ見つかるわよ。」
亜紀子、デスクの上の箱から電子煙草を取り出して、咥える。
亜紀子 「衣食住ちゃんと与えてやって、パソコンも使わせてやって、なにが不満なんだか、家出したそうよ、学校帰りに。」
賢治 「学校に行ったまま帰らなかったんですか? じゃあ、家出とはかぎらないんじゃ。交通事故に遭ったとか、学校のボス・グループに拉致されたとか。」
亜紀子 「心配なの?」
賢治 「心配、じゃないけど、嗅ぎつけられたんで、新聞記者に。」
亜紀子 「なんですって。」
{26}執務室の外
杉山が執務室のドアに耳を当てている。「あの貝塚が」「戸主法案反対デモにいたし」と言った声が漏れ聞こえている。
{27}貝塚の書斎
貝塚、憮然と切れたスマホの画面を見ている。
ドアがあいて、ソラが入ってくる。目に涙をためている。
貝塚 「なに。」
ソラ 「吉川さんが心配しているって、本当ですか。」
貝塚 「立ち聞きしていたの? え、だからって……」
貝塚、ソラの顔を見つめ、
貝塚 「まさか。きみ、空也君?」
ソラ、うなずく。
貝塚 「なんで行方をくらました……」
貝塚のスマホが音をたてる。
貝塚、眉をひそめながらスマホをタップする。
貝塚 「もしもし。」
女性の声 「もしもし、わたし、看護師の諏訪ですが。」
貝塚 「諏訪さん?」
諏訪の声 「救急車で運ばれてきたソラさんをお世話した。」
貝塚 「ああ、その節はどうも。」
諏訪の声 「ソラさん、お宅にいますか。」
貝塚 「ええ、いますけど。」
諏訪の声 「これ、わたしが伝えたこと、うちの病院には内緒にしていただきたいのですが。」
貝塚 「は?」
諏訪の声 「実は診断結果の一部をお伝えしていないんです。」
貝塚 「どういうことです。」
諏訪の声 「いま、病院はどこも経営難で。治療費が払えそうもない人は、ええと、厄介払いというか。」
貝塚 (絶句)
諏訪の声 「ソラさん、肝臓に腫瘍が見つかったんです。早く治療しないと、かわいそうなことになる……」
貝塚、絶句したまま。
諏訪の声 「なんとかしてあげてください。お願いします。」
電話、切れる。
貝塚 「もしもし、もしもし。」
応答はない。
貝塚、ソラをふり返る。
貝塚 「きみ……」
悟りきった様子のソラ。
{28}天の道教会
背後に雑木林のある、総2階のモダンな建物。
敷地の入り口に「天の道教会」という立て札が立っていて、教会だと分かる。
{29}カラスの執務室
重厚な家具が置かれた部屋。
右手の壁面に、富士山に似た山と箱舟に乗って山を目指す4人家族の大きなレリーフが施されている。
左手の棚には、壁のレリーフと同じデザインの大小さまざまのブロンズ像が置かれている。
カラス、応接セットのソファにふんぞり返って女性のヌード写真集を眺め、にやついている。
いきなりドアが開き、秘書が入ってく。
秘書 「まずいことになりました。」
カラス、慌てて本を閉じ、秘書をふり返る。
カラス 「ノックくらいしなさい。」
秘書 「それどころではありません。いま杉山から電話が来たのですが。」
カラス 「?」
{30}貝塚家・ダイニングキッチン
貝塚とソラ、ダイニング・テーブルにむかって座っている。
二人の前には、コーヒーの入ったマグカップ。
ソラ、ぽつりぽつりと語っている。
ソラ 「家族が僕と血のつながりのないことは、早くから感づいていました。父も母も僕には妙によそよそしかったんです。妹のことは叱ったりするのに、僕が悪いことをしても見て見ぬふりをして。病気をもっているから甘やかされているのかとも思ったけれど、字が読めるようになって血液型のことを勉強したら、両親から僕が生まれるわけはないと知りました。」
貝塚 「(口の中で)血液型の勉強。」
ソラ 「僕、猛烈に本当の両親に会いたかったんです。だから、家族が留守の時に、なにか手がかりはないかと家の中を捜すようになりました。」
{31}ソラの回想
小学生のソラが、小物入れや箪笥の引出しをさぐっている。
ソラの声 「でも、これといったものは見つかりませんでした。そんな時。」
ソラの養父が電話しているのを、ソラが物陰に隠れて聞いている。
養父 「これだけじゃ、やっていけませんよ、物の値上がりが激しいし、医療費だってどんどん上がっていますからね。このままじゃ、空也を病院に診せることもできなくなります。せめてあと五万、いや、十万、アップしてくださいよ。」
ソラの声 「それで、銀行の通帳に毎月入っているお金が、養父の給料ではなく、僕の養育費だと分かったんです。」
通帳を調べているソラ。
貝塚の声 「通帳に記入されているのは振り込み人の名前だけだろう。それで、実の親にたどりつけたの?」
ソラの声 「いいえ。振り込み人の名前はカラスとあって、偽の名前なんじゃないかと。」
貝塚の声 「偽名じゃ銀行口座を開けないよ。」
ソラの声 「その頃はそんな知識がなかったので、なんとかして振り込み人の正体をつかもうと、必死で勉強しました。」
パソコンにむかっているソラ。
{32}貝塚家・ダイニングキッチン
{30}と同じシチュエーション。
ソラ 「5年かかりました、銀行に侵入できるようになるまで。」
貝塚 「銀行に侵入した?!」
ソラ 「はい。それで、カラスというのがユージン・カラスという実在の人物で、天の道という新興宗教を率いる教祖だと分かったのです。それで、すうっと育ての親とカラスがつながりました。うちには富士山みたいなおかしな像があって、それを育ての親が朝晩拝んでいるんです。カラスは、信者に僕を預けたにちがいありません。」
貝塚 「ユージン・カラス。どこかで……」
ソラ 「はじめ、カラスが僕の親かと思いました。信者か誰かの女性に産ませた僕を公にできなくて、別の信者に預けたのかな、と。彼の書いた本を読むと、姦淫するな、とか、人間の性は男と女のみ、とか、宗教によくある教義で一杯だったから。でも、さらに銀行口座を調べると、養父に振り込まれていたお金は、カラス自身に振り込まれたお金のほんの一部だと分かったのです。」
貝塚 「沼田だ。沼田から振り込まれていたんだね?」
ソラ 「はい。カラスは、一時期、沼田亜紀子の秘書をしていたそうですね。」
貝塚 「そうそう。亜紀子には議員になった当初、香良洲勇人と名乗る秘書がいた。日本国籍を取得した40代半ばの白人で、議員秘書としては異色だと思っていたけれど。いつの間にかいなくなった。」
ソラ 「それで、沼田夫妻が親なのかと思ったけれど、亜紀子の年齢からいってちがうだろう、と。それに結婚しているのだから、なにも僕をよそに預ける必要はない。」
貝塚 「で、沼田賢治の隠し子だろう、と。」
ソラ、うなずく。
貝塚 「吉川さんがお母さんだと知っているんだろう。彼女にはどうやって辿りついたの?」
ソラ 「育ての親の奇妙な振る舞いからです。」
貝塚 「奇妙な振る舞いって?」
ソラ 「沼田賢治を徹底的に探ったら、彼の趣味がクラシック音楽で、吉川葉月のCDはすべて持っていることを知りました。それが養父母の奇妙な振る舞いと結びついたんです。彼らは、僕が音楽を聴くのをとても嫌がりました。4歳の時ピアノを習いたいと言ったら、その時からテレビの音楽番組を見せてもらえなくなりました。それで、僕の母親は吉川葉月なんじゃないかと推測したんです。」
貝塚 「育ての親が音楽をとめなければ、葉月にたどりつけなかったかもしれないんだね。」
ソラ 「ええ。賢治は、葉月のCDだけじゃなく、いろんなアーティストのCDをコレクションしていますから。(皮肉っぽく)自慢なんですよ、クラシック音楽愛好という高尚な趣味をもっていることが。」
貝塚、ソラに合わせて皮肉っぽい笑みをこぼしてから、真顔になり、
貝塚 「吉川さんに会いたいんだろう。」
ソラ、目を一杯に見開いて返事をしない。
貝塚 「会いたいから、コンサートに行ったんだろう。」
ソラ 「(うつむいて)生まれてすぐよそにやってしまった子供なんか、会いたくないと思う。」
貝塚 「会いたいと思っていなければ、きみが行方をくらましたのを知って僕に相談したりはしない。」
ソラ 「相談、したんですか。」
貝塚 「そうだよ。会えたら、喜ぶよ、絶対。」
と、立ちあがって、椅子にかけてあったジャンパーを持つ。
貝塚 「行こう。」
ソラ 「どこへ。」
貝塚 「吉川さんのところ。」
ソラ、椅子に座ったまま、貝塚を見上げる。
貝塚 「早く。今日、彼女は次のリサイタルで北海道に行くと言っていた。夕方の飛行機だというから、まだホテルにいるにちがいない。」
ソラ、立ちあがる。
{33}ホテル・吉川の部屋
吉川、部屋をうろうろ歩き回っている。
時折立ち止まり、スマホを眺める。
スマホには「空也くんが見つかった。一緒にホテルへ行く」とある。
吉川、時計を見る。2時30分になろうとしている。
吉川 「なにしているのよ。もうじき出なきゃならないのに。」
{34}貝塚の車
貝塚の車、激しい渋滞につかまっている。
前方には救急車や警察車両が何台も見える。
貝塚 「駄目だ、動きそうもない。」
ソラ、助手席で不安そうにしている。
貝塚、スマホを取り上げ、吉川の電話番号をタップする。
吉川の声 「もしもし、いまどこ。」
貝塚 「普通ならホテルまで15分の場所。でも、いつ着くか分からない。事故で車がまったく動かない。」
吉川の唸り声。
貝塚 「何時の飛行機?」
吉川の声 「4時よ。そろそろ行かないと乗り遅れる。」
貝塚 「俺たちも札幌に行く。」
吉川の声 「え。」
ソラ、驚いて貝塚を見る。
貝塚 「同じ飛行機には乗れないかもしれないけど。札幌のホテルを教えて。」
吉川の声 「……親切ね。」
{35}総理執務室
亜紀子がぐったりとソファに座り、そのむかいで賢治が頭を抱えている。
ドアにノックの音。
秘書の杉山が入ってきて、亜紀子に声をかける。
杉山 「そろそろお支度を。」
亜紀子 「支度って、なんの。」
杉山 「18時から、BSAワンの座談会に出演する予定が入っています。」
亜紀子 「ああ、キャンセルして、わたし、持病の片頭痛で寝込んだの。」
杉山 「いけません。生ですよ。ここでアピールしなくてどうするんです。支持率が少し下がってきていますからね。」
亜紀子 「なに、秘書のくせに。出たくないと言ったら、出たくないのよ。」
賢治、口をあけかけ、閉じる。
杉山 「(声をひそめ)空也の件なら、ご心配なく。」
亜紀子・賢治 「え。」
杉山 「カラス教導師がすでに手を打っています。」
亜紀子 「どんな。」
賢治 「なぜ教導師が。」
杉山 「政府に反対している有名どころのスマホからは、ほとんど位置情報が入るようになっています。もちろん、貝塚のスマホからも。」
賢治 「貝塚の居場所を知って、どうするつもりだ。」
杉山 「空也は貝塚と一緒にいるはずです。善処します。」
賢治 「善処……」
{36}羽田空港・搭乗待合室
貝塚とソラ、並んで椅子に座っている。
貝塚はスマホでさかんに「天の道」について調べている。
「信者は公表一万人」「最近、急速に数を増やしている」「教義はキリスト教からのパクリ」「教導師カラスとは」という文字が並んでいる。
ソラ 「(口の中で)あと1時間……」
貝塚 「疲れた? 15分早ければ、吉川さんと同じ飛行機に乗れたんだけどね。」
ソラ 「札幌行きの飛行機って、少ないんですね。」
貝塚 「昔は、というほどでもないか。最近までは多かったんだけれどね。円が安くなってからは、だんだん減ってきた。」
ソラ 「そうなんだ。でも、テレビが見られる。」
眼前のテレビに、「日曜座談会」の文字が映る。
亜紀子の姿が映しだされる。
貝塚とソラ、身を乗り出してテレビを見る。
{37}BSAワンテレビ局
司会者 「今日はいま問題になっている法案について、特にお伺いしたいと思います。」
亜紀子 「(にこやかに)どうぞ。」
司会者 「いわゆる戸主法案ですね。」
亜紀子 「戸籍に戸主欄をもうける法案ですね。これ、みなさま誤解しているようですが、いわゆる昔の女子ども的な風潮をつくるための法案では決してございません。むしろ、女性や子供の権利を増大させ、少子化を防ぐための法案です。」
司会者 「とおっしゃいますと?」
亜紀子 「法案をよくご覧になっていただくと分かると思うのですが、戸主を男性に定めるとは書いてございません。女性も戸主になれるのです。」
女性ゲスト 「女性もなれるとおっしゃいましたが、戸主になる要件として、婚姻時に選択した名字を婚姻前から名乗っている側、とありますね。多くの場合、男性側の名字を選択している現在、戸主イコール男性になるのではありませんか。」
亜紀子 「いえいえ。婚姻時、男性の側の名字を名乗らなければならないという法律はないのですから、男性に有利というわけではございません。というか、今回の戸主制度は戦前の旧民法とはまったくちがいます。旧民法は戸主に権利ばかりを与えていましたが、今回の案では義務を課しているのです。」
男性ゲスト 「円満な家庭を運営することとか、戸主は家庭内ですべての面において配偶者と協力しあうこととか、子供を健全に育てること、といった努力義務ですね。」
亜紀子 「その通りです。」
女性ゲスト 「べつに戸主法を制定しなくても、当然のことでは。」
{38}搭乗待合室
ソラ、白けた表情でテレビから目をそらし、椅子から立ちあがる。
ソラ 「トイレ。」
貝塚 「ん。」
貝塚、ぼんやりテレビに目をやっている。
テレビからは低く声が漏れ出ている。
亜紀子 「現実の家庭が異なってきているからこそ、必要な法律なのです。家庭環境を整えてこそ、素晴らしい子供が育ち、また自分も親になりたいと思うようになるのです。これは究極の少子化対策なのです。」
貝塚 「(口の中で)あほらしい。」
不意に、貝塚、横から声をかけられる。
男1 「おつれが大変ですよ。」
貝塚 「え?」
男1 「トイレで倒れています。」
貝塚、びっくりして立ちあがり、男1の誘導でトイレに走る。
{39}トイレ
男子トイレの前に「清掃中」の立て札が出ている。
中に入ると、ソラが大きな目をあけて車椅子に座っている。
背後に男2が立っていて、ソラの首筋に万年筆のペン先を突きつけている。
トイレに入ってきた貝塚、ソラと男1を見比べる。
貝塚 「なんの真似だ。」
男2 「ただの万年筆だと思うなよ。さきっぽには猛毒が塗られていて、ちょっとでも皮膚に傷がつくと、今夜のうちに心臓が止まるぜ。」
気がつくと、男1により貝塚の首筋にも万年筆のペン先が突きつけられている。
男1 「札幌へ行くのはやめましょう。空也君のインシュリンの薬を忘れたんで取りに戻らなければならないんで。」
{40}搭乗ゲート前
搭乗が始まっている。
貝塚と男1がカウンターの案内係と話している。
数メートル離れて、車椅子に乗ったソラと男2が控えている。
男2、外から見えないようにソラの首に万年筆の先を当てている。
グランドスタッフ 「4名様、ご搭乗をお取り消しということですね。承知いたしました。」
グランドスタッフ、パソコンの操作をしてから、貝塚を見て、
グランドスタッフ 「なにかお手伝いすることはありますか。」
男1 「大丈夫です。3人もついているんで。」
{41}車内
男2が運転している。
後部座席に、男1、ソラ、貝塚の順で座っている。
ソラと貝塚は両手を縛られ、目隠しをされている。
{42}総理官邸
テレビが「日曜座談会」を映し出している。
男性ゲスト 「同じ名字の人同士が結婚したらどう……」
女性ゲスト 「(男性ゲストを遮って)正直におっしゃってください。戸主法案は、夫婦別姓を阻止するためのもの、すなわち戸籍制度を守るためのものだと。」
亜紀子 「それは曲解というものです。」
女性ゲスト 「でも、戸主法が制定されたら、絶対に夫婦別姓はできませんよ。」
賢治、テレビの前を行ったり来たりしている。
脳裏には、16年前の自分が生まれて間もないソラを抱いてカラスに渡している過去がちらついている。
いたいけないソラの顔。それにかぶせて、
賢治の声 「うちの子にするのはどう……」
亜紀子の声 「馬鹿言わない。うちの子にしたら、素性を探られて、きみの不始末が公になる。総理の夢よ、さらば、よ」
{43}天の道教会・地下室
部屋の中央に長方形のテーブルとそれを囲む十数脚の椅子。
天井に富士山とそこへむかう家族のレリーフが彫られている。
正面の壁にモニターが何台も埋め込まれている。
モニターを見られる位置にはデスクがあり、座り心地のよさそうな回転椅子にカラスが座っている。
カラス、モニターの1台を見ている。
モニターは車が正面玄関に停まるのを映している。
{44}総理官邸
賢治、意を決したようにテレビの前から離れ、部屋を出ていく。
テレビから発せられる亜紀子の声「両性の結婚による穏やかな家庭を守ることが政府の使命であって……」
{45}天の道教会・地下室
カラス、背後の壁に近づき、壁のスイッチを押す。
壁が横にスライドし、男1、2と、男たちに捕えられた貝塚とソラが入ってくる。
カラス 「ご苦労。そこの椅子に。」
と、顎で椅子を示す。
男たち、ソラと貝塚を椅子に縛りつけ、二人の目隠しをとる。
貝塚 「ここはどこだ。」
ソラ 「天の道教会。」
カラス 「よく分かったね。」
ソラ 「天井のレリーフは、教会のシンボルでしょう。」
カラス 「天の道について、勉強したようだね。」
貝塚 「天の道とは言っているけれど、キリスト教の亜流だろう。」
カラス 「知ったかぶりをするな。キリスト教と我が天の道は別物だ。既存の宗教は堕落した。見ていろ。世界はいずれ大洪水に見舞われ、ほとんどの生き物が絶滅するだろう。それを阻止できるのは、我が天の道のみだ。」
貝塚 「エコロジー? しかし、天の道は環境問題についてとりたてて発信していないようだが?」
カラス 「誰が環境問題などと言った。これは秩序の問題なのだ。家庭における正しい秩序。社会における正しい秩序。世界における正しい秩序。それを取り戻せば、おのずと地球は治まるのだ。」
貝塚 「正しい秩序……」
カラス 「家庭では妻子が夫に従い、社会では下に立つ者が上に従い、世界では遅れた国が進んだ国に従う。」
貝塚 「それで気候変動を阻止できるって?」
と、笑う。
カラス、そばにあった鞭をとりあげ、床を激しく叩いて、貝塚の笑い声をとめてから、
カラス 「だいたいアジアやアフリカまで欧米的な生活をしたがるようになったから、どんどん環境に負荷がかかるようになったんだ。」
貝塚 「白人男性中心主義ですか。」
カラス 「優秀な白人男性が導けば、世界はよくなる。」
貝塚 「しかし、あんたがくっついているのはアジア女性の沼田亜紀子。理想と現実がだいぶちがうようだが。」
カラス 「彼女は、いいしゃべり方をするんだ。声に感情を乗せられる、役者のように。だから、大衆の心をつかめる政治家になれると判断した。」
貝塚 「だから、彼女の秘書になったのか。大衆の心をつかませて、それで?」
カラス 「彼女の役割はふたつ。ひとつは天の道を広げるための資金を調達すること。いまひとつは、この国の憲法を変えること。憲法を変えた暁には。」
貝塚 「お払い箱、ということか。」
カラス 「計画は順調に進みつつある。だから、スキャンダルで失脚させるわけにはいかないのだ。」
と、ソラを見る。
貝塚 「空也君をどうするつもりだ。」
カラス 「俺をどうするつもりだ、とも聞くべきじゃないかね。」
貝塚、強く唇を結ぶ。
カラス 「失業したうえに、妻にも逃げられた男だ。世をはかなんで自殺してもちっともおかしくない。」
貝塚 「確かに、ちっともおかしく、ない。しかし、空也君は。」
ソラ 「僕も自殺してもおかくないよね、肝臓癌に冒されているんだから。」
カラス、驚き顔。
背後に控えていた男1、2も表情を変える。
ソラ 「知らなかったの? 僕を預けた人たちから、なにも聞いていない?」
カラス 「いや、まあ……おとなしくしていれば、それでいいからな。」
貝塚 「もうすぐ生みの親の吉川さんと会うことになっているんだ。せめて彼女に会わせてやってくれ。」
{46}札幌のホテル
吉川、部屋の窓辺に立って、スマホを握りしめている。
吉川 「もうすぐ。」
{47}天の道教会・地下室
カラス 「吉川、か。彼女も問題だな。」
ソラ 「吉川さんにも手を出すつもりなの!?」
カラス、無言。
ソラ 「そんなことはさせない。」
ソラ、なんとか縄をほどこうと椅子の上で激しく動く。
カラス 「待て、吉川に会わせてやろう。」
ソラ 「え。」
カラス、男1に合図。
男1、上着のポケットからスマホを出してカラスに渡す。
貝塚 「あ、それ、俺の。」
カラス、貝塚の顔近くにスマホを寄せる。
カラス 「吉川に電話しろ。そして、ここに来るように言うんだ。」
貝塚 「無理だ。明日は三時から札幌でリサイタルの予定が入っている。札幌からの飛行機はすでに終わっているし、朝一で来るにしてもリサイタルに間に合うように戻れない。」
カラス 「札幌を往復する必要はない。」
カラス、ソラを指さす。
カラス 「空也に殺されるから。」
{48}天の道教会
1台の高級車が勢いよく玄関前に停まる。
{49}天の道教会・地下室
ソラ 「僕は吉川さんを殺したりはしない。」
カラス 「産んですぐドイツへの留学と引き換えに手離したんだよ。これまでなんの連絡もしなかったんだよ。憎いだろう。」
ソラ 「憎くなんかない。」
カラス 「実際に会ってみれば、変わるさ。」
男2、壁面のモニターを指さす。
男2 「カラス様、誰か来ました。」
カラス、モニターをふり返る。
教会内に入ってくる賢治の姿が映っている。
賢治、なにか叫んでいるが、声は聞こえない。
カラス 「(口の中で)ここには来ないことになっているのに。」
{50}天の道教会・礼拝所
数人の信者が山のブロンズ像の前で祈りをささげている。
賢治、辺りを見回している。
賢治 「誰かいないのか。誰か!」
信者たち、迷惑げに賢治を見やる。
カラス、落ち着いた様子で入ってくる。
カラス 「どうしました。」
賢治 「あ、教導師、空也はどこだ。」
カラス 「なんのことでしょう。ここは神聖な祈りの場所です。こちらへ。」
と、賢治を礼拝所から連れ出す。
{51}カラスの執務室
賢治とカラス、1メートルほどの距離を置いて向かいあっている。
賢治 「行き先を突きとめたんだろう。ここに連れてきていないのか。」
カラス 「沼田先生、なんのことか分かりかねます。私は、昔総理の秘書をしておりましたが、今はなんの関係もございません。おかしな邪推をしないでいただきたい。」
賢治 「なんの関係もない?」
カラス 「はい、なんの関係もございません。なんの関係もないのです。」
賢治 「だが、俺は……息子に会いたい。」
カラス 「沼田総理と先生は理想的なご夫婦です。お子さんこそいらっしゃいませんが、ずっと信頼し合い、助け合ってこれまでやってこられた。そのご夫婦像が崩れたら、なにもかも失ってしまうでしょう。(賢治の耳に唇をよせ)浮気したうえ子供に会いたがるとは、まったく見込みちがいだったよ。」
賢治 「俺は……」
カラス 「いいか、なにもかも失うのだよ、なにもかも。」
賢治、両手に顔を埋める。
カラス 「(賢治から離れ、にこやかに)折角おいでいただいたのです。お茶でも飲んでいらしてください。」
{52}地下室
壁面のモニターの一つに、メイドがカラスの執務室にお茶を運んでくる姿が映っている。
ソラ 「毒でも仕込んでいるんじゃ……」
貝塚 「落ち着いて。ここで総理の夫を殺すわけにはいかないだろう。(背後の男たちに首をまわして)そうだろう。」
男2 「そりゃまあ。」
男1 「しっ。」
壁面のモニターの一つには、賢治の車に何者かが近づく影が映っているが、ソラも貝塚も執務室に気をとられていて、見ていない。
{53}執務室
賢治、カップをソーサーに戻し、立ちあがる。
カラス 「(慇懃に頭をさげ)それでは、よろしくお願いいたします。」
カラス、悄然と応接室を出ていく賢治と並んで歩きながら、
カラス 「今日も国会周辺には人だかりがあるようですよ。お気をつけて。」
{54}地下室
モニターに、賢治がカラスに見送られて車に乗り込む姿が映っている。
ソラ 「ああ、帰ってしまう……」
カラス、地下室に戻ってくる。
カラス 「さてさて、すっかり番狂わせになってしまった。(貝塚に)それで、あんたはどうしても吉川に連絡しないというんだね。」
貝塚 「当たり前だ。」
カラス 「よろしい。それなら、ソラを朝一番の飛行機で札幌に送る。(貝塚に目を戻して)あんたはもう用済みだ。が、あと3時間かそこら猶予をやろう。冥土の土産に面白いものを見せてやるよ。」
貝塚 「なんだって。」
カラス 「上に並んでいるモニターはテレビ用だ。2時間もすれば、すべての画面が1か所を映し出すだろう。」
貝塚 「どういう意味だ。」
カラス 「国会周辺で、走ってきた車が爆発炎上する。総理の夫が乗っている車だ。戸主法案に反対する過激派が車に爆弾を仕掛けたんだ。」
貝塚もソラも言葉がない。
カラス 「さて、わたしは執務室の大画面で見物するかな。」
と言って、地下室を出ていく。
{55}賢治の車
賢治の厳しい顔。
賢治 「もうたくさんだ。そうじゃないか?」
賢治、車を方向転換し、もと来た道を走っていく。
{56}カラスの自室
カラス、テレビの大画面を前にゆったりとワイングラスをかたむけている。テーブルにはチーズなどのおつまみも載っている。
カラス (腕時計を見て)そろそろだな。
{57}教会前
賢治の車が裏の出入り口に乗りつける。
出入口の隣の窓はカラスの自室で、レースのカーテン越しにカラスの姿が見える。
賢治、車からおりて出入り口に忍び入る。
同時に、車の音を聞きつけたカラスが窓に近寄り、開く。
その瞬間、車が爆発炎上する。
カラスの悲鳴。
{58}地下室
轟音とともに部屋が揺れる。
見張りの男が2人ともこけつまろびつしながら部屋を飛び出していく。
男1、2 「なんだ。」
貝塚とソラ、椅子ごと立ちあがり部屋を出ていく。
{59}教会内
建物内は火が広がっている。
貝塚とソラ、なんとか出口を見つけ、外に出る。
{60}外
草地に倒れ荒い息を吐く貝塚とソラ。
十数メートル先で天の道教会が燃えている。
教会のほうから血まみれでボロボロの状態の男がやってくる。
男、貝塚とソラの間に倒れ込む。
貝塚 「沼田さん!」
ソラ 「え。」
貝塚、縛られた手で懸命に賢治の服のポケットを探る。
スマホを見つけて119を押す。
ソラ 「お父さん、お父さん、しっかりして。」
賢治 「(うっすらと目をあけ)空也?」
ソラ 「うん。」
賢治 「無事でよかった。」
賢治の首、がくりと横をむく。
{61}成田空港
旅支度をしたソラと吉川の前に貝塚が立っている。
貝塚 「じゃあ、手術、頑張ってな。」
ソラ 「うん。」
吉川 「大丈夫よ。ドイツ1の病院で治療するから。」
貝塚 「そうだな。」
吉川 「じゃ、そろそろ。」
と、ソラの肩を押す。
吉川とともに行きかけたソラ、貝塚のそばに戻ってくる。
ソラ 「いろいろとありがとうございました。お母さんと暮らせるようになったし、お父さんともほんのちょっとだけど会えたし。全部貝塚さんのおかげです。」
貝塚 「いやいや、俺はなーんにもしていないよ。最後の最後に立派だったお父さんのおかげだ。」
ソラ、かすかにうなずく。
{62}貝塚の車
貝塚、カーラジオをかけながら運転している。
カーラジオ 「沼田総理辞任にともなう総選挙の日程に関し、与党は野党の申し入れ通りに行うと発表しました。」
{63}貝塚の自宅
貝塚、玄関ドアに鍵を差し込もうとし、施錠されていないことに気づく。
貝塚、たたきに女性の靴があるのを見ながら中に入っていく。
LDKのテーブルに菜摘が頬づえをついて座っている。
貝塚 「帰っていたの。」
菜摘 「有能な秘書が必要だろうと思って。」
貝塚 「秘書?」
菜摘 「営業とか経理とか、必要でしょ、フリー・カメラマンには。」
貝塚 「フリー・カメラマンにはならない。」
菜摘 「え?」
貝塚 「叔父さんから聞いていないの。本社の写真記者に戻ったって。」
菜摘 「(首をふって)だって、写真で今回の特ダネをとったわけじゃないじゃない。吉川母子の写真だって、撮っていないでしょ。」
貝塚 「そっとしておいてあげたかったからね。」
菜摘 「じゃ、なんで。」
貝塚 「たぶん、世の中が少しマシになったから。」
菜摘 「まだ分からないのに。」
貝塚 「それは言いっこなし。」
菜摘、立ってきて、貝塚の前に立つ。
菜摘 「戻ってきて、嬉しいでしょ?」
貝塚 「……」
菜摘 「嬉しいでしょ!」
貝塚 「ああ。嬉しいよ。」
菜摘、ぐいと貝塚の両腕をつかむ。
貝塚、菜摘の腰に腕をまわし、二人のシルエット重なる。
Fin