私たちは活きているか?
私は職場で「活きている」のだろうか。
それとも、単なるリソースとして消費されているのだろうか。
使用と活用
手元にハサミがある。
ハサミはモノを切るための道具だ。
封筒を開け、テープを切る。
私はハサミを使っている。
だが、同じ「切る」という行為でも、そこには違いがある。
紙ゴミを細かく刻むために紙を切る
紙アートを作るために紙を切る
どちらもハサミを 使っている。
私は、1 は 使用、2 は 活用 だと捉えている。
前者は、ハサミに元々備わった「切る」という機能を消費しているに過ぎない。
後者は、「切る」という機能を、新しい何かを創り出すための力へと昇華させている。
当初の想定を、ほんの少しでも超える。
それが「使用」と「活用」の境界線だと考えている。
名刀の主
さて、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で好きなセリフがある。
第28回「名刀の主」での梶原景時(演:中村獅童)の言葉だ。
「刀は斬り手によって名刀にもなまくらにもなる。なまくらで終わりたくはなかった。」
現代社会において、私たちの斬り手は誰だろうか。
そして、その斬り手は私たちを名刀にしてくれるだろうか。
誰の「手」に握られているか?
私たちは誰の手に握られているのだろうか。
会社という組織に所属しているとき、私たちを握っているのは会社だ。
さて、会社はその刀をどう扱っているだろうか。
私たちの持ち味を理解し、研ぎ澄まし、歴史に名を残す「名刀」として振るってくれているだろうか。
それとも、替えがきく「なまくら」として、ただ使い潰しているのだろうか。
今いる会社は私たちを「活用」しているだろうか。
今いる会社は 名刀の主だろうか。
組織での活き方
最近の自分の仕事を振り返ってみると、私の持っている知識の範囲で、私の能力でできることをやっている。
日々の業務をこなしている。
組織から見れば、私は「正しく使用されているリソース」だ。
しかし、私は活きていない。
なぜなら、そこには想定を超えた自分はいないからだ。
できることをなぞるだけの日々。
今まさにこの瞬間にも、私は鞘の中で錆び始めている。
常に新しいことを知りたい。
未知のものに触れたい。
想定外の私に出会いたい。
その上で新しい役割を演じ、新しい価値を提供したい。
それが出来たとき、あるいは出来そうな仕事に取り組めているときにこそ、私は活きている。
活きて生きるための条件
私が、そしておそらくあなたが「活きている」と確信できる瞬間。
それは、単に役割を全うしているときではない。
想定外の自分に出会える何かに取り組めているときだ。
もし今、自分がただの「リソース」として消費されていると感じるなら、問い直すべきだ。
自分は今、誰の手に握られているのか。
そしてその主は、名刀の主なのか。
私たちは、なまくらで終わるために生きているわけではない。