
「アホやな」と言われていた僕を、愛嬌が助けてくれた
20代前半の頃、僕はよく「アホやな」と言われていました。
今こうして文字にすると、少しひどい言葉にも見えます。
でも当時の僕は、あまり嫌な気持ちになっていませんでした。
たぶん、そこに悪意がなかったからです。
むしろ、少し笑われながらも、なんだかんだ可愛がってもらっていた感覚がありました。
もちろん、自慢できるような話ではありません。
仕事のスキルが高かったわけでもないですし、気の利いたことをバシッと言えるタイプでもありませんでした。
それでも、当時の僕にはひとつだけ意識していたことがあります。
場の空気を悪くしないこと。
挨拶だけはちゃんとすること。
できるだけ明るくいること。
今振り返ると、それが僕なりの世渡りだったのかもしれません。
スキルがないから、せめて空気だけは明るくしたかった
20代前半の僕には、仕事で胸を張れるようなスキルがありませんでした。
何かを任されても、うまくできる自信はない。
言われたことを理解するのにも時間がかかる。
周りの先輩たちと比べると、明らかに経験も知識も足りない。
そんな状態だったと思います。
でも、何もできないからといって、ただ黙っているのも違う気がしていました。
だから僕は、せめて人との関わり方だけは大事にしようとしていました。
たとえば、
朝はちゃんと挨拶する。
呼ばれたら明るく返事をする。
飲み会ではできるだけ場を盛り上げる。
先輩にいじられても、なるべく笑って返す。
分からないことは素直に聞く。
今見ると、特別すごいことは何もありません。
でも当時の僕にとっては、これが精一杯でした。
仕事ができないぶん、せめて「感じの悪いやつ」にはならないようにしたかったんです。
飲み会では、モノマネも一発芸も怖くなかった
当時の僕は、飲み会でも怖いもの知らずでした。
モノマネを振られたら、とりあえずやる。
一発芸を求められたら、深く考えずに前に出る。
たぶん今なら、いろいろ考えてしまってできないと思います。
「すべったらどうしよう」
「変に見られたら嫌だな」
「無理してると思われないかな」
今なら、そんなことを考えてしまいます。
でも当時は、そこまで守るものもありませんでした。
変なプライドも、今ほどなかった気がします。
だからこそ、勢いで飛び込めたんだと思います。
もちろん、全部がうまくいったわけではありません。
すべったこともあったはずです。
思い出すと、ちょっと恥ずかしい場面もあります。
それでも、場が少しでも和むならいいか。
誰かが笑ってくれるなら、それでいいか。
そんな感覚でした。

「アホやな」は、受け入れてもらっていた言葉だったのかもしれない
よく言われていた「アホやな」という言葉。
今思えば、あれは単なる悪口ではなかった気がします。
もちろん、言葉だけ切り取れば褒め言葉ではありません。
人によっては傷つく言葉ですし、関係性がなければ普通に失礼です。
でも当時の僕にとっては、少し違いました。
「お前、ほんまアホやな」
「でも、なんか憎めんよな」
「またやってるわ」
そんな空気の中で言われる言葉でした。
つまり、下に見られていたというより、
人間関係の中に入れてもらっていた言葉だったのかもしれません。
僕には、愛嬌があると言われることがありました。
自分ではあまりピンときていませんでしたが、今なら少し分かります。
完璧ではない。
抜けているところもある。
でも、話しかけづらくはない。
失敗しても、どこか憎めない。
そんな雰囲気があったのかもしれません。
そして、その愛嬌に何度も助けられてきたんだと思います。
愛嬌は、スキル不足をごまかすためのものではない
ここで勘違いしたくないのは、愛嬌があれば何でも許されるわけではないということです。
仕事である以上、スキルは必要です。
責任もあります。
いつまでも「若いから」「愛嬌があるから」で済むわけではありません。
でも、スキルが足りない時期に、愛嬌が人間関係のクッションになってくれることはあります。
たとえば、
質問しやすくなる。
注意されても関係が壊れにくい。
失敗しても次のチャンスをもらいやすい。
周りが教えてくれやすくなる。
「こいつ、伸びそうだな」と思ってもらいやすい。
これは、かなり大きいです。
特に若い頃は、実績よりも先に人柄を見られる場面があります。
「こいつは素直に聞けるか」
「一緒にいて空気が悪くならないか」
「教えたらちゃんと吸収しそうか」
そういうところを、意外と見られているんですよね。
愛嬌は、スキル不足をごまかす魔法ではありません。
でも、スキルを身につけるまでの時間を支えてくれる力ではあると思います。
今は、昔みたいな怖いもの知らずではいられない
今の僕は、当時のように飲み会で勢いだけで一発芸をするタイプではありません。
家族がいて、守るべきものがある。
仕事でも責任が増えてきた。
軽いノリだけで動けない場面も増えました。
昔より慎重になったと思います。
それは少し寂しくもありますが、悪いことではありません。
年齢を重ねれば、立場も変わります。
勢いだけで飛び込めた若さは、少しずつ別の形に変わっていきます。
でも、あの頃の自分から学べることもあります。
それは、人との距離を縮めようとする姿勢です。
うまく話せなくても、挨拶する。
スキルが足りなくても、素直に聞く。
場が重くなりそうなら、少しでも明るくする。
自分から相手に近づいてみる。
これは、今でも大事にしたいなと思っています。

大人になってからの愛嬌は、「安心感」に変わる
若い頃の愛嬌は、どちらかというと「可愛がられる力」だった気がします。
ちょっと抜けている。
勢いがある。
いじられても笑って返せる。
場を明るくしようとする。
それはそれで、すごく大事な力でした。
でも、大人になってからの愛嬌は少し変わります。
今は、ただ明るければいいわけではありません。
無理に盛り上げる必要もないですし、必要以上に自分を下げる必要もない。
大事なのは、相手が安心できる空気を作ることだと思います。
たとえば、
話しかけやすい。
相談しやすい。
ピリピリさせない。
ありがとうをちゃんと言える。
ミスを認めて、次に活かせる。
でも、やることはちゃんとやる。
こういう人は、やっぱり一緒に働きやすいです。
昔の僕は、スキルがないぶん、愛嬌でどうにか人との距離を縮めようとしていました。
今の僕は、経験を積んだからこそ、相手を安心させる愛嬌を持っていたいと思います。
愛嬌は、ちゃんと世渡りの力になる
「愛嬌は世渡りに必須だな」
最近、そんなことを思います。
世渡りというと、少しずるい言葉に聞こえるかもしれません。
でも僕が思う世渡りは、人に媚びることではありません。
人とぶつかりすぎず、でも自分をなくしすぎず、少しずつ関係を作っていく力。
その中に、愛嬌は確かにあります。
挨拶する。
笑顔で返す。
分からないことを素直に聞く。
感謝を伝える。
場を少しだけ明るくする。
どれも地味です。
でも、こういう小さな積み重ねが、人間関係を少しずつやわらかくしてくれます。
20代前半の僕は、たぶん何も分かっていませんでした。
ただ、スキルがないなりに、なんとか周りに受け入れてもらおうとしていたんだと思います。
その結果、たくさん可愛がってもらいました。
たくさん助けてもらいました。
そして今になって、あれは自分なりの努力でもあったんだなと感じます。
若気の至りだった部分もあります。
恥ずかしい思い出もあります。
でも、あの頃の怖いもの知らずな自分を、今は少しだけ肯定してあげたいです。
スキルがない時期でも、できることはあります。
元気に挨拶する。
素直に聞く。
場の空気を少し明るくする。
ありがとうをちゃんと伝える。
それだけで、すぐに人生が変わるわけではありません。
でも、人との関係は少しずつ変わっていきます。
そしてその小さな変化が、いつか自分を助けてくれることもあるはずです。
愛嬌は、未熟さをごまかすものではなく、人とつながるための小さな入口なのかもしれません。
今の自分にできる形で、その入口を大事にしていきたいですね。