
きみと私をつなぐ線
(※写真は、まだ0歳だったときの子です)
今日、子(中1)は、2泊3日の移動教室から帰ってくる。
学校のHPに逐一、先生方が「今日はこんなことをしました」「今こんな状況です」とアップしてくださっている。“いいね”ができる仕組みになっているので、PCとスマホの両方から“いいね”していた。先生方、ほんとうにありがとうございます。
でね、16時ごろに「学校に着いて解散しました」とアップされていたのに、40分経っても彼はうちに帰ってこない。学校から家までだらだら帰っても15分なのだがな。はて…。
きみはもうすぐ、ティーンである。ティーンとは、親元から社会へとだんだんと漕ぎ出していく時期だと思う。これから思春期に彼と私の間にどのような荒波が待ち受けていようとも、それはそれで仕方がないと覚悟している。
でもまだ今は、彼は、よくしゃべる。学校の授業のこと。お友達のこと。習い事の先生とのやりとりのこと。黙っていても、私が今日はどうだったかと尋ねるとまあまあ話してくれる。これがいつまで続くのか、子ども期の終焉という見えない締め切りが、視界にいつもチラついているような気がしている。
とにかく、話したいと思ったときにそばにいること。話そうと意識する前に、論理的思考回路を経ずに、秒で、発声が届く場所にいられるようにしたい。うちは食卓が円卓で、彼の隣が私の席なのだけど、私が食卓についていなくても彼の席から見えるキッチンで私はだいたい支度をしている。基本、iPadでTVerやYouTubeを見ながら料理をしているが、彼の方向に向いている右耳はイヤホンを外して、「ねぇあのさ」という声をキャッチできるようにしている。
この、話したいという意志がいつまで有効なのかわからない。母と娘なら、大人になればまたおしゃべりするんだろうけど、息子だと思春期で離れたらもうそれが最後のような気がしている。なので今はとりあえず、放課後から夕飯、寝るまでの時間になるべく同じ空間で、なるべくピリピリせずにのんきでいられるようにと思っている(なかなか難しいのだけど)。
彼は、0歳半ばで保育園に通い始めた。とてもアットホームな保育園で、0歳児クラスは12人、クリーム色の園舎の2階のいちばん奥にお部屋があった。毎朝、家からベビーカーで連れてきた子を玄関で抱っこして、玄関を通って階段を上がり、廊下を通って0歳児さんのお部屋まで行って先生に引き渡していた。
抱っこをしていると、彼の目線はおのずと私の後方になる。
そのうち彼は1歳になり、おぼつかないながら歩けるようになった。ある日、いつものように抱っこで園舎に入ってそのまま階段を上がったが、もう歩けるかなと思って、0歳児さんのお部屋へ続く廊下の手前で彼を床に下ろした。すると彼はそのまま私を見もせず、裸足でとぽとぽと、でも迷いなくお部屋へと歩き始めた。
それは初めて見る光景で、何気なく下ろしてみただけなのに、思いがけない衝撃があった。まるでこの瞬間に、私と物理的に決定的に離れたような気がした。抱っこしている限り、彼の視界には自分が移動してきた景色が見えているけれど、今は前方の景色が広がっている。私が介在しないで、自分が行くところへ進むその様子を見て、あ、これからもう生涯にわたって私から独立していくんだ、自分で歩いていくんだとわかった。
子どもが生まれて、不思議に思ったことがある。体は物理的に離れたけれど、まだ自分の意志で動けなかった時期は、胎内でへその緒でつながっているのとあまり変わらないなという感覚があった。特に、抱っこひもに入って私にぴったりくっついているときは、胎内にいた状況とほぼ同じだと思っていた。個体として世の中に出現はしたけれど、まだ、見えない線で私とつながっているような。もちろん、保育園に預けている時点ですでに離れているのだけど、いつも一心同体な感じがしていた。
それが「今、離れたのだ」と、廊下で彼が自分で歩みだしたとき、ズガンと理解した。写真はないけれど、これが「胸に焼き付いている」ということなんだと思うくらい、その光景と気持ちをよく覚えている。私と、こんなに小さいのに立って歩く子の後ろ姿、裸足の足、彼が歩む廊下、その先にある0歳児さんのお部屋の引き戸。戸にはめ込まれたガラス窓から漏れる白っぽい光。部屋までの廊下は大人の足だと10秒だけど、記憶の写真では、彼の足元からすごく遠いように感じる。
それ以降、抱っこ移動の時間はだんだん減り、いつしか抱っこひももベビーカーも卒業して、何にも制御されずに自由に動く時間が増えた。未就学児の間は、常に誰かしら大人が彼を見ていたのに、小学生になれば通学や習い事で大人の目を離れて行動するようにもなり、どんどん私の視界に入らなくなっていった。さらに、私の出張や、子どもキャンプなどで夜をまたいで一緒にいないことも出てきた。私のほうは最初はすごく気になったけれど、今は最初ほどではない。子のほうはそもそも、一緒にいない間に私を思い浮かべることなどは今や1ミリもないだろう。
これがもっとね、どんどんどんどん離れていく。幾晩も会わないことも出てくるだろうし、いつか巣立ったら場所によっては年単位で会わないかもしれない。今はまだ、離れていてもどこで何をしているのかはわかるけれど、いずれそれもわからなくなっていく。また、これから待ち受ける思春期には、物理的な距離とは比較にならないくらい深い心の距離ができるのかもしれない。それでも、私と一心同体だったころの線は形を変えて、今もずっとつながっているように私は思う。どこにいても、つながっている。親の側はこんなふうに感じるんだな。同時に、この感覚を、強要してはいけないのだな。
そんな、0歳からこれまでのことを、移動教室の解散から「帰ってこないなー」と思いつつ考えたりしていたらやっと帰ってきた。ああだった、こうだった、とよくしゃべる。しゃべるうちは、なるべく、声が届くところにいたい。