猫の予定表には、時刻の欄がない
朝、手帳を開いて今日の予定を確認します。
10時までにメールを返して、午後は買い物。
夕方までに洗濯物を取り込んで、夜は、あれとこれと、それから……。
我ながら、なかなか立派な段取りです。
分刻みとまではいかなくても、頭の中にはすでに小さな時刻表ができあがっています。
そこへ、足元でやわらかい気配。
猫です。
ひらりと机に飛び乗って、開いたばかりの手帳の上に、どすん。
今日のページのど真ん中で、きれいに香箱を組みました。
「10時までにメール」も「午後は買い物」も、全部お腹の下です。
猫は、こちらの予定表を見ていない。
……いえ、見えてはいるのかもしれません。
見えたうえで、
「ちょうどいい座布団があるな」
と思っている顔をしています。
「ごめん、これ終わったらね」
と言ってみても、猫は動きません。
ゆっくりと、まばたきをひとつ。
「今です」
という声が、聞こえてくる気がします。
声というより、目の奥から圧が出ています。
パソコンを開けば、キーボードの前。
先日は、書きかけのメールの上を歩かれて、「お世話になっております」のあとに「jjjjjjjj」が並んでいました。
猫からの、丁寧な業務妨害です。
洗濯物をたためば、たたんだ山の上。
出かけようとすれば、玄関で待ち構えている。
ここまで続くと、もう偶然とは呼べません。
「あとで」も「終わったら」も、猫の辞書には載っていないようです。
載っているのは、たぶん「今」の一語だけ。
しかも、かなり分厚い。
不思議なのは、猫の「今」が、たいてい私の「いちばん忙しい今」と重なることです。
統計は取っていませんが、体感では九割。
残りの一割は、私が寝ている時間です。
ふと、猫にも予定表があるとしたら、と考えてみました。
日なたであたたまる。
窓の外を眺める。
気が向いたら、走る。
(できれば、人が寝ついた直後に)
眠くなったら、寝る。
甘えたくなったら、甘える。
甘えたくなくなったら、急にやめる。
時刻の欄は、どこにもありません。
書いてあるのは、ぜんぶ「今」。
一日の終わりの「振り返り」欄も、たぶんありません。
反省会は、開かれません。
それでいて、猫は一日をきちんと使い切っています。
それにくらべて、私は。
ご飯を食べながら、明日の予定を考える。
お風呂に入りながら、返しそびれた連絡を思い出す。
布団に入ってから、朝いちばんの段取りをもう一度なぞる。
体はここにあるのに、頭だけが半歩先を歩いている。
予定どおりに進まなかった日は、それだけで負けたような気がしてくる。
やることが三つ残っただけで、「今日は何もしていない」と言い切ってしまう。
一日の中で、「今」にちゃんと立っていた時間を数えたら、意外と片手で足りてしまうかもしれません。
猫は日だまりを眺めるとき、日だまりだけを見ています。
午後の光がカーテンの端を透かして、床に細長い四角をつくる。
猫はその中で、体の向きをゆっくり変えながら、光の動きに付き合っている。
光が少し動けば、猫も少し動く。
しっぽの先だけが、ときどき、ぴくり。
窓の外では、洗濯物が風に揺れています。
遠くから、下校する子どもたちの声。
何も生み出していないのに、やたらと満ち足りて見えるのが、少し悔しいところです。
ある夕方、いちばん慌ただしい時間に、猫が膝に乗ってきました。
夕飯の支度も、洗濯物の取り込みも、まだ手つかず。
それなのに、膝の上でごろごろと喉が鳴りはじめます。
振動が、じわじわと太ももに伝わってくる。
「ちょっとだけ」と決めて、撫でました。
猫の背中は思った以上にあたたかくて、毛並みに沿って手を動かすうちに、肩の力がいつのまにか下がっていました。
10分後、猫は満足そうに降りていき、私は10分遅れで、夕飯の支度を始めました。
世界は、何も変わりませんでした。
夕飯は、いつもより少し遅れただけ。
誰にも怒られませんでした。
ただ、あの10分間のことだけは、なぜかやけにはっきり覚えています。
もちろん、猫のように全部を気分で決めるわけにはいきません。
仕事もあれば、約束もあります。
でも、予定表の中にほんの少しだけ「今」を入れておくことなら、できるかもしれません。
たとえば、何も書かない15分を、あらかじめ予定に入れておく。
空欄だと落ち着かないなら、名前をつけてもいい。
「猫」と書いておけば、猫がいない日でも、そこだけは予定を詰め込まずに済むかもしれません。
お茶を飲むなら、お茶だけを飲む。
猫を撫でるなら、猫を撫でる。
その間だけは、次の段取りを玄関の外に立たせておく。
半歩先を歩いていた頭を、少しだけ待たせてあげる。
それくらいなら、できそうです。
そういえば、去年の今日の予定は、まったく思い出せません。
でも、膝の上で猫が丸くなっていた午後の、あのぬくもりと重さは、不思議とまだ手のひらに残っています。
予定表に書けない時間が、案外いちばん、心に残る時間なのかもしれません。
猫は、こちらの予定表を見ていない。
だから今日は、猫が座ったら、そこで手帳を閉じてみます。
🌙 今日も、あなたの心に小さな灯りがともりますように。🌿
