『スティーブ・ジョブズ』を読んで考えたこと:自由と独裁のアイロニー
単行本の執筆中、スティーブ・ジョブズについて数行だけ触れる必要が生じた。アップルの創業者であり、iPhoneやMacを生み出した人物という程度の知識しか持ち合わせていなかったぼくは、このまま書くのは不誠実だと思い、ウォルター・アイザックソンの評伝を読み始めた。
ところが、読み終えたときに考えていたのは、ジョブズという人物ではなかった。「自由」と「独裁」の奇妙な関係についてだった。
単行本執筆のために読み始めたが・・・
ウォルター・アイザックソン『スティーブ・ジョブズ』。
現在取り組んでいる単行本で、新たにスティーブ・ジョブズに触れる必要が出てきたために読んだ。
ほんの数行か、多くても1~2ページほど触れるだけになると思うけれども、この単行本にはアインシュタイン、チャップリン、野坂昭如、フロイト、ユング、ムッソリーニ等、他にもたくさん触れる人を登場させている。
この人々については、少なくとも何冊かの著作や関連書籍を読んで、ある程度理解しているつもりであるが、スティーブ・ジョブズに関してはアップルの創業者で、コンピューターのマックやアイポッド、アイフォンやアイパッドを創造したという以外にほとんど何も知らない。
そのまま触れたのでは、表面をなぜた程度にしかならないことが気になって、2週間かけて読み終えた。
最初は、ネタを拾うつもり程度であったのだけれど、読み進めるうちに圧倒され、読み終わるのがもったいないような寂しいような気分に次第に捉われていった。
天才という複雑な人格
このスティーブ・ジョブズは、とても複雑な人物である。
自分は特別な存在であると強烈に自負している。
だから、自分は社会のルールに縛られる必要がないとさえ思っているし、そのように行動し、軋轢を引き起こす。
また、世の中には「優れた者」と「間抜けな者」の2種類しかいないと二分法で考えているし、優れた造形物とばかげた造形物の2種類しか存在しないとも考えている。
そして、彼自身は他者をコントロールする術を様々に身に付けている。
鋭い眼光で睨むとたいていの人がすくみ上ったり、その魅力に引き込まれたりする。
そして、それを彼は意図的に行使することができる。
また、ミーティングや対談で、相手をひどく攻撃し罵倒する。
かと思うと、会議の席で自分の弱さをさらけ出して泣き出したりもするのである。
そのような彼の美意識とは、若い頃のLSD体験やインド思想、さらには日本の禅への傾倒やバウハウス運動への共感などから形成されているようだ。
究極のプロダクトアウト
そのような彼が、20代でアップルコンピューターを創業する。
そして、今では当たり前となったが、当時としては革命的なGUI(グラフィック・ユーザー・インターフェース=コマンドではなく画面で操作できる)マッキントッシュ・コンピューターを開発する。
しかし、彼は自ら創業したアップルコンピューターを追われるが、CGアニメのピクサーのCEOとなり、驚くべきことに当時落ち目だったディズニーの再建においても中心的な役割を果たす。
そしてアップルコンピューターに復帰するのである。
しかし、彼が復帰したアップルコンピューターは今にも潰れそうな状態で、カウントダウンが始まっていた。
そこから彼は、iMacをリリースし、iPod、iTunes、iTunes、iTunesストア、iPhone、iPad等を次々とリリースしていく。
そして、潰れそうだったアップルは新製品をリリースする度に強く巨大になっていくのである。
重要なことは、これらの製品が、マーケティングから生まれたものではない、ということだ。
何故なら、これらの製品は人々(消費者)がまだ経験したことのないものだからである。
マーケットイン的には生まれようがない製品群なのである。
つまり、究極のプロダクトアウトだ。
そして、その究極のプロダクトアウトとは、スティーブ・ジョブズが見つけ出し、磨き、徹底的に煮詰めていくプロセスによってもたらされる。
彼は、技術とデザインとを一体的・統合的に開発する。
普通の企業であれば、エンジニアがまず最初に機能と製品内部の設計をおこない、その後にデザイナーが外部のデザインをおこなう。
ところが、アップルではこれを一体的・統合的に進めるため、デザイン的な要請からエンジニアリング的な設計変更や新機能の開発、新素材や新部品の開発までがおこなわれるのがふつうである。
そして、そこには一切の妥協が許されていない。
このため、製品の発売が予定よりも半年、1年、ひどい場合には2年も遅れることすらあった。
「これでよし!」と許可できるのはスティーブ・ジョブズだけである。
そうなるまでには、「絶対にできない」と思われるような無理難題をエンジニアたちは悪無限のように繰り替えさなければならない。
スティーブ・ジョブズに毎日のように罵倒されながら、である。
独裁者だから実現できたもの
彼は、その意味では正真正銘の独裁者だ。
ぼくは、こんな人物は歴史上、もう1人しか知らない。
唐突かもしれないが、そのもう1人とは織田信長である。
ここでは多くは説明しないが、ぼくなりの確信だ。
しかし、それでも多くの優秀なデザイナーやエンジニア、経営者がスティーブ・ジョブズを支え続けた。
何故か。
それは、スティーブ・ジョブズが独裁者であったとしても、それは「良い製品をつくる」という理念の求道者だったからである。
その理念を、アップルの人たちは共有していたからだ。
製品だけではなく体験をつくる
当然、共有できない人たちは去って行った。
そして、彼はプロダクト(製品)に徹底的にこだわっただけではなく、パッケージにまで徹底的にこだわり、さらに商品発表のプレゼンテーションと宣伝にまで徹底的にこだわりつくした。
ぼく自身は、アップル製品と言えば、1990年代に末に大学生の娘にiMacを購入してやったことを除くと、自分ではiPodminiとiPad airしか買ったことが無いのだけれども、パッケージを開く際の演出されつくしたワクワク感は今でも覚えている。
そして、スティーブ・ジョブズの新商品発表のプレゼンテーションは、「プレゼンテーションにおけるアンドリュー・ロイド・ウェーバー」とまで評されていた。
CMにしても、Macintosh発売時の1984年にリリースされたものはジョージ・オウェルの『1984年』をモチーフとしたもので、これの製作にも深くスティーブ・ジョブズは関わっていたし、またiPodの白いイヤホンケーブルをモチーフとしてテレビCMもしかりである。
1984年のCMは本書を読んでyoutubeで初めて見たが、ものすごいクオリティだと感じた。
スティーブ・ジョブズがなくなってもアップルはティム・クックCEOのもとで順調に成長したかのように見える。
しかし、スティーブ・ジョブズのようなイノベーションやブレークスルーは起こせていない。
それも無理はないと思う。
彼にしか出来ないことなのだから。
「交点」に立つ思想
ところで、彼を評して「〇〇の交点に立つ」という言葉が多用されている。
例えば初期では「カウンターカルチャーとテクノロジーの交点に立つ」と評され、自分でも好んでそう語っていたようだ。
次に、「創造性と技術の交点に立つ」とも評され、最後の頃には自らのプレゼンテーションにおいても「リベラルアーツとテクノロジーの交差点」という表現を、アップルの立ち位置としてよく使用したという。
アップルという結界
そのことを踏まえて、本レビューの最後にアップルとウィンドウズやアンドロイドの関係を考えておきたい。
初期のスティーブ・ジョブズの立ち位置は、「カウンターカルチャーとテクノロジーの交点に立つ」というものだった。
つまり、反体制的な自由をこそ志向していたのである。
1970年代の初期は、コンピューターは官僚的な道具とみなされ、カウンターカルチャーからは目の敵にされていた時期である。
しかし、コンピューターこそが反体制的な自由を実現するツールであるという転換が起こりつつあった。
そこにスティーブ・ジョブズとアップルは登場するわけだが、ここではスティーブ・ジョブズは自らをカウンターカルチャーの側に位置づけている。
当時、彼がアップルに呼び掛けたスローガンは「海軍になるな、海賊になれ!」だ。
そして彼はアップルにおいて、徹底的に垂直統合にこだわった。
消費者と製品との接点のすべてを、アップルが管理しコントロールすることに固執したのである。
だから、マイクロソフトがウィンドウズOSをライセンスすることで、横に結合して主流となっていった道を、アップルも取るようにと多くの同僚が勧めても断じて拒否し続けた。
その結果、マイクロソフトはOSの主流となり、アップルは少数派に留まる。
スマホのOSに関しても同じことが起こった。
アップルのOSは断固として垂直統合を維持し、他者にライセンスは一切行わない。
グーグルのアンドロイドはマイクロソフトの道を進む。
だが、その結果として、アップルは独自の結界を生み出している。
アップルファンにとっては痺れるような世界であるに違いない。
自由と独裁というアイロニー
だが、ここでぼくは2つのことを考えざるを得ない。
反体制的でカウンターカルチャー的である「自由」を実現するために、どれほどの不自由と独裁が必要とされるのかというアイロニーである。
自由を求めて資本主義とたたかおうとすることが、不自由と独裁をまるで必然的であるかのように生み出すのに似て・・・。
そしてもう1つは、なぜぼくがアップルファンにならなかったのか、という問題である。
先にも書いたように、最初にiPodを手にした時に、凄いと感じた。
iPadもしかり。
ぼくが、ウィンドウズマシンを最初に使い始めたのは1994年の秋、NEC98ノートにウィンドウズ3.1が搭載されていた。
以後、ぼくの周りには仕事柄デザイナーが多くいて、彼らはほとんどがMacであるが、ぼく自身はウィンドウズを使い続けている。
このエッセイを書いているのも、コモディティ化された某社のデスクトップPCである。
もし、このデスクトップPCがMacだったとしたら、どうだろうとぼくは思う。
ぼくのデスクの上は乱雑で、資料やプリントアウトの束、書籍、筆記用具やモバイルバッテリー等々が積みあがっているけれど、きっとMacを使っていたらそうした机の上の状況が許せなくなってしまうのではないだろうか。
つまり、Macとスティーブ・ジョブズにぼくは支配されてしまうのではないか、ということだ。
スティーブ・ジョブズはPCがコモディティ化することを嫌ったけれど、コモディティであるからこそぼくの机の上の乱雑さが許されているような気がするのである。
もし仮に、世の中に垂直統合されたアップルの世界しか無かったとしたら、それはそれで洗練されたファシズムのように恐ろしい世界だろう。
ウィンドウズやアンドロイドがあってこそ、Macの世界が意味を持つのだ。
おそらくそこには、自由と抑圧や束縛との深遠で不可思議な関係が潜んでいるような気がするのだが、それはまた別の機会に。
しかし、そうしたことを考えさせてくれるという意味でも、スティーブ・ジョブズは稀有な存在である。