
ヤンヤン誘拐事件 第10話 吹き飛ぶ
慎重に、綾にコーヒーカップを渡す。
「南燿人が増えたな」
「飲食店も変わったね」
「スパイスが刺激的で…」
極彩色に輝くローンの中央通りで、崔の足が止まった。綾が振り返っても、携帯を見たまま、崔は動かなかった。
「どうしたの?」
崔は一歩下がった。通行人に軽くぶつかり、謝りながらも、落としたコーヒーを見ることもなかった。
「お袋がまた倒れた」
「え?」
「おばあちゃんからメッセージ…多分病院の人が打ってくれた…病院に今いるって」
「手術? 戻らないと!」
「どうだろ、戻ってもさ、できることないし、ここにいた方が金が…」
綾が両肩を掴んだ。
「帰りなよ! 私も行くよ」
崔は唇を強く噛んだ。
「飛行機代も無いんだぞ。お前のとこだって、お父さん入院したとこじゃんか」
綾の視線が足元に落ちた。崔は大きく息を吐いた。そこから出る声は弱々しい。
「ゲオルグさんに聞いてみるよ」
崔が言い終える前に、綾は強く首を振る。
「ダメだよ」
「大丈夫。なんか簡単な仕事しか任せられないって言ってたしさ」
崔の肩を、大柄な男達が突き飛ばした。
「東威に帰れ、バカ」
彼らを睨む綾の頬を、崔は掴んだ。
「もういいだろ、ここも」
崔の言葉は妙な速度で自信をつけ始めていた。
「パッと稼いで、さっさと帰ろうぜ、こんなとこ」
***
窓が砕けた。家中が飛沫を上げた。
綾が伏せた。床に転がりながら、崔は扉を蹴って閉じた。
玄関、窓ガラス、壁の粉末と破片が圧倒的な銃撃音と共に二人に降りかかった。
撃ち返そうとしても、崔の手は硬直して動かない。視界はぼやけて、音はくぐもり、全身は悪夢のように重い。
耳元で、綾の銃が唸りをあげた。
「立たないで! そのまま下がって!」
弾倉を入れ替えながら、綾は崔の襟を引き寄せた。
扉が倒れ、ゲオルグの手下達が雪崩れ込んできた。男達は、外に、狂ったように撃ち続ける。
一方で、崔達は床から裏口に這い進んだ。
「綾!」
崔は裏口の取手を回し、綾を振り返った。
「開けて!」
綾の後で、男達が一つの影に切り裂かれていた。誰もその影を相手に数秒ももたなかった。
崔は扉を押し開いた。
バッ! 何かが崔の頭を打った。
「崔!」
朦朧とする視界。胸から血を吹き出して倒れる綾。燃える家。
暗闇から進み出る影。冷たい目。
「…東威人…?」