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小説『彼女にしか鳴らせなかった音』


    あらすじ

     大学四年の主人公は、黒いギターケースを背負う宮下紗季に心を惹かれていく。ロックバンド「SPUUL(スピュール)」のボーカルとして夢を追う彼女は、フライヤーを配りながら必死に前へ進んでいた。
     主人公はライブへ通うようになり、紗季の歌に胸を揺さぶられ、その存在は少しずつ自分の中で大きくなっていく。紗季の音に支えられながら、就職活動や卒論にも向き合い始める。
     やがて紗季はワンマンライブを成功させるが、オーディションは実を結ばず、新たな人生を歩む決意をする。
     卒業式の日、主人公は胸に秘めてきた想いとともに、紗季の音が自分を前へ進ませてくれたことを伝える。
     別れのあと、主人公は自分自身の音を鳴らし始める。



    一章 ギターケースの娘

     その日、客席には、俺を含めて五人しかいなかった。
     それでも彼女は歌い始めた。
     あの日の音が、俺の人生を変えることになるなんて、そのときはまだ知らなかった。

     ◆


     大学の正門を入ってすぐの坂道で、その娘を見かけることがあった。黒いギターケースを背負っている。それで、すぐにわかった。髪は長い黒髪のストレートだった。歩くと、髪の先が背中のあたりで小さく揺れる。人の流れの中にいても、目で追ってしまう、そんな娘だった。
     周りの学生たちは友達と話しながら歩いているのに、彼女だけは前を向いていた。肩のあたりでギターケースがわずかに揺れて、その重さを受け止めるように体が傾く。その仕草が、なぜか印象に残った。
     俺はその娘の名前を知らなかった。同じ学科ではないし、講義で一緒になったこともなく、話したこともない。向こうも俺のことを知らない。それでも、学内で何度か見かけたことがある。朝、正門から坂道を上がっていくとき。昼休み、学食の前を横切るとき。

     俺は大学四年だった。卒業論文の題目は、まだ仮のままだった。就職活動もしていた。説明会には行った。履歴書も書いた。面接も何度か受けた。黒い革靴の底は少し減っていた。スーツの肩にも慣れてきた。けれど、面接帰りに駅のホームに立つと、いつもネクタイを少し緩めたくなった。
     ホームの風は少し冷たくて、電車が入ってくるたびに書類の端が揺れた。図書館の静けさも、バイト帰りの夜の匂いも、全部が同じように感じられた。毎日が同じ形をしていて、どこを切り取っても同じ色をしているような気がした。そういう日が続いていた。

     ある日、窓の外に、黒いギターケースが見えた。
     坂道を上がってくる学生たちの中に、その娘がいた。今日は白いブラウスに、薄いグレーのカーディガンを着ている。肩に黒いギターケース。片手にはスマホ。少し急いでいるのか、歩く速度が周りより速い。古い棟の方へ曲がっていった。俺はペンを持ったまま、その後ろ姿を少しだけ見ていた。

     講義が終わると、学生たちはすぐに立ち上がった。椅子の脚が床をこする音が、あちこちで重なる。俺は急いで出る理由もなかったので、ゆっくりノートを閉じた。

     外へ出ると、午後の光がまぶしかった。
     向こうの棟の方から、かすかにドラムの音が聞こえた。一定のリズムで鳴っている。少し遅れて、ギターの音が重なった。古い棟は、中庭の奥にある。白かったはずの壁は、少しくすんで見える。窓の隙間から、薄い音が漏れていた。湿った木の匂いが風に混じっていた。
     ドラムの音が止まった。誰かの笑い声がした。それから、ギターの音が短く鳴った。


    二章 フライヤー

     次の日の昼休み。駅から大学までの道は少し暑かった。歩道の端に、雨で黒くなった葉が何枚か張りついていた。正門を入る。
     空気は少し湿っていて、遠くで工事の音がしていた。大学の建物の白い壁が、日差しを受けて少し眩しかった。

     三限までは時間があった。学食は混んでいたので、売店でおにぎりを一つ買った。中庭の端のベンチに座る。俺はおにぎりを半分ほど食べた。
     風が少し吹いて、紙ナプキンの端が揺れた。中庭の向こうでは、サークルの学生がテントを畳んでいた。

     そのとき、数人の学生が歩いてきた。その中に、彼女がいた。今日はギターケースを背負っていなかった。
     片手に黒い紙の束を持っていた。
     彼女は近くを歩いていた男子学生に一枚差し出した。
    「ライブやります。よろしくお願いします」
     男子学生は「あ、はい」と言って受け取った。
     彼女は次に、二人組の女子学生に声をかけた。一人は受け取った。もう一人は手を軽く振った。
     彼女は小さく頭を下げて、また別の学生へ歩いていった。断られても、表情はほとんど変わらなかった。
     黒い紙の束は、まだかなり残っている。彼女は一枚ずつ配っていた。

     俺は残りのおにぎりを口に入れた。立ち上がるかどうか迷っているうちに、彼女がこちらへ来た。
     目が合った。
     彼女は一瞬だけ俺を見て、それから黒い紙を一枚差し出した。

    「こんにちは。よろしくお願いします」

     いつも遠くから見ていたから、近くで見ると、思わず緊張してしまった。
     声は落ち着いていて、思っていたよりも少し低かった。

     俺は少し遅れて手を出した。
    「あ、はい」
    「ありがとうございます」
     彼女はそう言って、すぐに次の学生の方へ向かった。歩くたびに紙の束が揺れた。
     俺は受け取ったフライヤーを見た。黒い紙に、白い文字が印刷されている。上の方に、バンド名があった。

     『SPUUL(スピュール)』

     その下に、ライブの日付と場所。開場十八時。開演十八時半。チケット代は二千円。ドリンク代別。場所は、駅から少し離れたライブハウスだった。

     下の方に、メンバー名が小さく並んでいる。

     『Vo/Gt  宮下紗季』

     宮下紗季。さっき紙を渡してきた彼女の名前だった。
     ボーカル兼ギター。
     SPUULのSNSのアカウントも印字されていた。

     俺は顔を上げた。彼女は、少し離れたところでまたフライヤーを差し出していた。
     一枚ずつ渡し、断られるたびに小さく頭を下げていた。
     その姿は、昨日坂道で見たときよりもずっと近く感じられた。

     俺はフライヤーを折らないように、ノートの間に挟んだ。

     三限の時間が近づいていた。立ち上がって、教室の方へ向かう。
     途中で一度だけ振り返った。
     彼女は、別の学生にまだ紙を差し出していた。
     その声が、少しだけ聞こえた。


    三章 迷い

     フライヤーは、その日の夜までノートに挟んだままだった。家に帰って、机の上にノートを置く。開くと、黒い紙の端が少し出ていた。俺はそれを引き抜いて、机に置いた。
     場所は、大学から電車で三駅先だった。駅名は知っている。でも、その駅で降りたことはほとんどない。地図アプリを開いてみても、ライブハウスの位置は細い路地の奥にあって、写真も暗かった。

     俺はライブハウスに行ったことがなかったので、受付で何を言えばいいのかも、ドリンクをいつ受け取るのかもわからない。
     知らない場所へ行くときの、あの胸の奥のざわつきが少しだけあった。

     翌日の午後の講義では、あまりノートが進まなかった。卒論の資料を開いても、就職サイトを見ても、途中でSPUULのアカウントを開いていた。
     画面の向こうで、彼女の名前が白い文字で並んでいるだけなのに、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。

     SPUULのアカウントには、ライブ告知がもう一度投稿された。
    『今週土曜です。よろしくお願いします』
     いいねは六つだった。
     俺はしばらく見ていた。押すかどうかで迷って、押した。
     指先が画面に触れた瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。

     俺はライブに行こうと思った。


    四章 五人の客

     ライブの当日。
     壁に、黒い看板が貼られている。ライブハウスの名前。俺は足を止めた。階段の下から、低い音が少しだけ聞こえた。
     駅から歩いてくる間、少しだけ緊張していた。

     スマホの画面を見る。地図の青い丸は、目的地の上にあった。俺はスマホをポケットに入れた。フライヤーを鞄の中で確認する。指先に、薄い紙の端が触れた。
     紙は少し湿っていて、角がわずかに丸まっていた。

     階段を下りる。少し湿った空気がした。下の方に、黒い扉が見えた。扉の向こうから、ドラムの音が鳴った。
     俺は一度だけ息を吸った。それから、もう一段下りた。階段の手すりは冷たく、壁の黒い塗装は少し剥がれていた。

     階段を下りきると、受付の小さな机があった。机の上には、出演バンドの名前が書かれた紙と、ペンと、透明な箱が置かれている。奥の壁には、今日の出演者のフライヤーが何枚か貼られていた。
     受付にいた女の人が、俺を見た。

    「予約ですか?」
     俺は少し遅れて答えた。
    「いえ、当日で」
    「どのバンドを見に来ました?」
     聞かれると思っていなかった。俺は鞄の中のフライヤーを出そうとして、少しもたついた。黒い紙の端が指に引っかかる。
    「あ、SPUUL です」
     女の人は紙に何かを書いた。
    「二千円と、ドリンク代六百円です」
    「はい」
     財布から千円札を三枚出した。お釣りと、細長い紙のチケットを受け取る。
    「ドリンクは中のカウンターでお願いします」
     俺は頭を下げた。黒い扉の前に立つ。中から音が漏れている。ドラムの音と、ギターの音。誰かがマイクで何かを言っているようだったが、言葉までは聞き取れなかった。
     俺は扉を押した。中は暗かった。最初に、音の大きさが来た。床から低い音が上がってくる。壁は黒い。天井は低い。空気が少し湿っていて、照明の熱が混じっていた。
     奥にステージがあって、そこに知らないバンドが立っていた。ギターの男が、マイクに近づいて歌っている。ドラムの音が、胸のあたりに当たる。俺は扉の近くで一度止まった。
     どこに立てばいいのかわからなかった。客席には、数人しかいない。ステージの前に二人。後ろの壁際に一人。バーカウンターの近くに一人。
     俺を入れて、五人だけだった。
     俺はバーカウンターへ行った。カウンターの中の男の人にドリンクチケットを渡す。
    「何にします?」
    「あ、ウーロン茶で」
     声が少し小さくなった。男の人はプラスチックのカップに氷を入れ、ウーロン茶を注いだ。カップを受け取ると、氷が中で小さく鳴った。

     俺は後ろの壁際に立った。前へ行く勇気はなかった。演奏が続いている。音は大きい。歌詞はほとんど聞き取れない。
     前にいる二人は、ステージを見ながら少し頭を揺らしていた。バーカウンターの近くの人は、スマホを見ていた。

     俺はカップを両手で持った。氷が少し溶けて、手のひらが冷たくなった。一曲が終わる。拍手が起きた。俺も少し遅れて拍手した。手の音は、思ったより小さかった。

     バンドの人が「ありがとうございました」と言い、ステージを下りる。すぐに別の人たちが機材を動かし始めた。ギターのケーブルを抜く音、ドラムのスタンドを直す音、アンプのつまみを触る音がした。その音が、ライブハウスの暗い空気に吸い込まれていくように聞こえた。俺は壁際に立ったまま、ウーロン茶を少し飲んだ。

     ステージの横から、男が出てきた。黒い服を着ている。長いケースを開け、ベースを取り出す。肩にかけ、弦を軽く鳴らした。
     次に、もう一人、男が出てきた。奥の椅子に座り、ペダルの位置を直している。スティックでスネアを軽く叩く。乾いた音がした。

     少し遅れて、宮下さんが出てきた。髪はポニーテールだった。
     黒いTシャツに、細いジーンズ。右手首に黒いゴム。肩にはギター。

     大学では柔らかな雰囲気だった彼女が、なんというか、キリッとした雰囲気に変わっていた。
     照明の光が髪の先を少しだけ照らしていた。

     彼女はマイクの前に立った。ギターのシールドを差し、足元の機械を見て、つまみを少し回す。マイクの高さを直す。それから、客席を見た。左から右へ。その目が、客席を一度なぞった。

     俺の方を見たのかどうかはわからない。ただ、彼女はすぐには笑わなかった。少し遅れて、口だけを動かした。

    「こんばんは! SPUUL です」

     ぱらぱらと拍手が起きた。
     ベースの男が弦を鳴らす。ドラムの男がスティックを上げる。宮下さんがギターを構えた。
     最初の音が鳴った。ギターは少し荒い。ベースは低くて、床から来る。ドラムは細かく刻んでいて、音が体に当たる。

     宮下さんが歌い始めた。
     俺は息を呑んだ。

     その第一声は、前に話したときの落ち着いた声とは全然違い、前に飛んでくるような、そんな声だった。
     マイクに近づいて、ギターを弾きながら歌っている。
     歌詞は全部は聞き取れなかった。けれど、いくつかの言葉だけが耳に残った。
     夜。歩道橋。信号。鳴らす。
     俺はカップを持つ手に力を入れていた。
     歌っている途中で、彼女は一度だけ目を伏せた。ギターを弾く右手は止まらなかった。左手の指が少し光って見えた。汗なのか、照明のせいなのかはわからない。

     曲の最後、ドラムが止まる。ベースの音が伸びる。ギターの音だけが少し残った。宮下さんは右手を止めた。
     客席に、短い沈黙があった。それから拍手が起きた。俺も拍手した。手のひらが少し痛かった。

    「ありがとうございました。SPUULでした」

     照明が少し明るくなる。ステージの上で、三人が片付けを始めた。俺は壁際に立ったままだった。ウーロン茶は、ほとんど減っていなかった。

     カップの中で、氷が小さく音を立てた。


    五章 CD-R

     少しして、ステージ横に小さなテーブルが出された。黒い布がかけられている。上には、CD-Rが何枚か並んでいた。白い盤面に、黒いペンでSPUUL と書かれている。宮下さんはギターをケースにしまってから、そのテーブルの後ろに立った。額のあたりに少し汗が残っていた。ポニーテールの毛先が、肩の後ろで少し乱れている。右手首の黒いゴムを外して、もう一度結び直していた。俺はまだ壁際にいた。ほかの客は、前の方で次のバンドの準備を見ていたり、カウンターの近くで話していたりした。物販のテーブルに向かう人はいなかった。ウーロン茶のカップを捨てる。ゴミ箱の場所がわからなくて少し探し、カウンターの横にあるのを見つけた。
     それから、テーブルの方へ歩いた。宮下さんが顔を上げた。
    「え」
     短い声だった。俺はテーブルの前で止まった。近くで見ると、ステージにいたときよりも小さく見えた。
    「あの」
     俺は言った。
    「大学でフライヤーもらったので来ました」
     言ってから、少し変な言い方だったかもしれないと思った。でも、それしか言えなかった。宮下さんは一瞬、目を大きくした。
    「え、大学で?」
    「はい」
    「ほんとに来てくれたんですか」
     宮下さんは、少しだけ笑った。フライヤーを配っていたときの笑い方とも、ステージで客席を見たときの笑い方とも違った。
    「嬉しい! ありがとうございます」
    「いえ」
    「大学で配ったフライヤー見て来てくれた人、たぶん初めてです」
     宮下さんはそう言った。
     テーブルの前に立っているあいだ、俺は自分の呼吸が少しだけ速くなっているのに気づいた。ライブハウスの空気はまだ音の余韻を含んでいて、照明の熱がゆっくり冷めていく匂いがした。ステージでは強く見えた彼女が、近くで見ると、思っていたよりもずっと普通の人のように見えた。その普通さが、なぜか胸の奥に残った。
    「けっこう配ったんですけど」
     俺は昼休みの中庭を思い出した。黒い紙の束。断られるたびに下げていた頭。
     俺はテーブルの上のCD-Rを見た。
    「これ、買えますか」
    「あ、はい。五百円です」
     三曲入り、と小さな紙に書かれていた。俺は財布を出した。小銭入れを開ける。百円玉が三枚。五十円玉が一枚。十円玉が何枚か。足りなかった。千円札を一枚出した。
    「すみません、大きいですけど」
    「全然大丈夫です」
     宮下さんは小さな箱から五百円玉を取り出し、俺に渡した。それから、CD-Rを一枚選んで、両手で差し出した。
    「ありがとうございます」
     俺は受け取った。透明な袋の中には、CD-Rのほかに、四つ折りにされた白い紙が入っていた。
    「歌詞カードも入ってます」
     宮下さんが言った。
    「あ、はい」
    「字、ちょっと小さいかもしれないです」
    「大丈夫です」
    「家のプリンターで出したので、少し薄いところあるかも」
     そう言って、彼女は少し恥ずかしそうに笑った。俺は袋を見た。
    「聴きます」
     そう言うと、宮下さんは俺を見た。
    「ほんとですか」
    「はい」
    「ありがとうございます」
     そのとき、横からベースの男が来た。肩にベースケースをかけている。片手にはペットボトルを持っていた。宮下さんに何か言った。声は小さくて、俺にはよく聞こえなかった。宮下さんはそちらを見て、うなずいた。
    「うん、あとで」
     ドラムの男も後ろから近づいてきた。タオルを首にかけている。スマホを見ながら、宮下さんに画面を見せた。宮下さんは少し身を乗り出して、その画面をのぞき込んだ。それから笑った。
     俺はCD-Rを持ったまま、そこに立っていた。さっきまで俺に向けられていた顔が、もう別の方を向いている。三人は同じバンドだった。さっきまで同じステージに立っていた。
     俺は今日、フライヤーをもらって来た、ただの客だった。袋を、指で少し強く持った。
    「じゃあ」
     俺は言った。宮下さんがこちらを向いた。
    「あ、はい。ありがとうございました」

     駅のホームで電車を待つあいだも、俺は何度かCDを見た。    
     SPUUL
     手書きの文字は、少しだけにじんでいた。

     家に着いたのは、二十一時を少し過ぎたころだった。靴を脱ぎ、部屋の電気をつける。
     鞄を床に置き、机の上にCD-Rを置いた。しばらく、そのまま見ていた。それから、袋を開けた。
     俺は歌詞カードを机に広げた。
     紙は少し薄くて、折り目が細く残っていた。
     その下に、言葉が並んでいた。俺は、息を吸ってから読み始めた。


     『鳴らす』   作詞・作曲 宮下紗季

     夜の歩道橋 風が通り抜けて  
     誰もいないバス停の影が揺れた  
     名前を呼ぶ声なんて どこにもなくて  
     信号の青だけが 私を急かしていた  

     何度も諦めかけた  
     何度も立ち止まった  
     誰にも届かない音なら  
     消えてしまう方が 
     楽だと思った夜もあった  
     それでも  
     私の中でだけ  
     小さく鳴っていた音があった  

     誰にも聞こえなくても  
     あなたに届かなくても  
     私は  
     私のために  
     鳴らす  
     震える声でも  
     ひどい音でも  
     それが  
     私が生きてきた証だから  

     鳴らす  
     もう一度  
     鳴らす


     読み終わった。
    「私のために鳴らす」
     その一行だけが、胸のどこかに残った。どういう気持ちで書いたんだろう。俺には、まだよくわからなかった。
     ライブでは聞き取れなかった言葉が、紙の上でははっきりしていた。

     すぐにCDを再生できるものを探した。ノートパソコンにはディスクを入れる場所がなかった。引き出しを開ける。ない。棚を見る。ない。押し入れの奥に、古いポータブルCDプレーヤーがあったことを思い出した。段ボールを一つ出す。使わなくなったイヤホン。古い充電器。保証書。大学一年のころのプリント。底の方に、黒い丸いケースがあった。取り出す。ポータブルCDプレーヤーだった。電池は入っていなかった。机の引き出しを探すと、単三電池が二本あった。いつ買ったものかわからなかったが、入れてみる。電源を押すと、液晶に薄く数字が出た。動いた。CD-Rを入れる。ふたを閉める。イヤホンを差す。再生ボタンを押した。
     少し間があった。小さく、機械の回る音がした。それから、ギターが鳴った。録音は粗かった。ドラムは少し遠い。ベースも、ライブハウスで聞いたときほど体には来ない。ギターはところどころで音が割れている。でも、宮下さんの声は入っていた。俺は歌詞カードを机に広げたまま、イヤホンを押さえた。さっきライブハウスで聞いた声より、近い。けれど、録音の中に閉じ込められているようにも聞こえた。
     一曲目が終わる。俺は停止しなかった。二曲目に入る。歌詞カードの上で、目が言葉を追う。宮下さんの声が、その言葉を通っていく。ライブでは聞き取れなかったところが、少しわかった。それでも、全部はわからなかった。三曲目になった。俺は歌詞カードを指で押さえた。紙が少し動いた。曲が終わる。イヤホンの中で、短い無音があった。そのあと、また一曲目に戻った。俺は止めなかった。机の上には、透明な袋と、歌詞カードと、黒いフライヤーが置かれていた。

     その夜、俺は三曲を何度も聴いた。
     ステージで歌っていた彼女と、ベースの男と笑っていた彼女が、交互に浮かんだ。
     胸のあたりが落ち着かなかった。それでも、イヤホンの中では、彼女の声が俺の部屋で鳴っていた。


    六章 横顔

     週が明けて、大学へ向かう道を歩いていた。空は薄い雲がかかっていて、日差しは弱かった。昨夜、寝る前にずっと聴いたせいか、イヤホンの中の声がまだ耳の奥に残っていた。
     正門をくぐる。坂道を上がる学生たちの流れに混ざる。胸の奥が、落ち着かないままだった。
     古い棟の前を通りかかったときだった。前方に、黒いギターケースが見えた。宮下さんだった。白いシャツに、薄い青のカーディガン。髪は下ろしていて、背中のあたりで揺れていた。
     歩く速度が自然と落ちた。追い越すのが怖かった。追い越したあと、振り返ってしまいそうだった。
     宮下さんは古い棟の入口の前で立ち止まり、スマホを見ていた。その横顔が、昨日の照明の下で見た横顔と重なった。
     呼吸が、ほんの少しだけ浅くなった。視線を逸らした。けれど、またすぐに追っていた。
     宮下さんが入口に入っていく。扉が閉まる。俺はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
     古い棟の前を通り過ぎたあとも、歩く速度はすぐには戻らなかった。周りの学生たちの足音が、いつもより遠くに聞こえた。胸の奥が、ゆっくりと波のように揺れていた。昨日のライブハウスの暗さと、朝の光の中の横顔が、同じ場所に重なって見えた。

     講義が始まっても、ノートはほとんど進まなかった。教授の声は聞こえているのに、言葉が頭に入ってこなかった。ペンを持つ手が、何度も止まった。
     昼休み、中庭のベンチに座った。売店で買ったパンの袋を開ける。風が少し吹いて、木の枝が揺れた。パンをちぎって口に運ぼうとして、手が止まった。
     さっき見た横顔が、また浮かんできた。もう一口食べるまで、少し時間がかかった。
     午後の講義でも、黒板の文字を写しながら、頭の中では別の映像が流れていた。ライブハウスの赤い照明。ギターを弾く右手。歌いながら目を伏せた瞬間。そして、朝の横顔。
     帰り道、駅へ向かう坂道を歩きながら気づいた。今日一日で何度も浮かんだのは、朝、古い棟の前で見た、あの横顔だけだった。


    七章 歌詞

     大学へ行くと、掲示板に卒論提出の案内が貼られていた。提出期間。印刷形式。表紙の付け方。その横には就職ガイダンスのポスター。
     その前で立ち止まっていたとき、階段の方から宮下さんが歩いてきた。
     目が合った。鼓動が早くなる。
    「こんにちは」
    「…こんにちは」
     声が少し遅れた。
     宮下さんは小さく笑った。それだけで終わると思った。
     でも、彼女は続けた。
    「この前、来てくれてありがとうございました」
    「あ、いえ……」
     自分でも驚くほど、声が小さかった。
     歌詞のことを聞きたい。でも、声が出なかった。
     廊下の向こうから声がした。
    「紗季、行くよー」
     宮下さんが振り返る。
    「あ、あの!」
     彼女が歩き出そうとしたとき、俺は呼び止めていた。
     宮下さんが足を止めて、こちらを向いた。
    「はい」
    「……歌詞、読みました」
     宮下さんの目が、少しだけ丸くなった。
    「えっ、歌詞?」
    「はい。なんか……一行だけ、残ってて」
    「どこですか?」
     少し迷ってから言った。
    「“私のために鳴らす”ってところ。なんか……よくわからないんですけど」
     宮下さんは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

     彼女が言葉を探しているあいだ、胸の奥がゆっくりと波のように揺れていた。昨日の歌詞カードの白い紙と、ライブハウスの暗い照明が、同じ場所に重なって見えた。宮下さんが目を伏せた一瞬の静けさが、紙の上の一行と同じ重さを持っているように思えた。何かを言おうとしても、喉の奥で言葉がほどけてしまった。

    「うん……あれ、ね」
    「どんな気持ちで書いたんですか?」
     気づいたら、そう聞いていた。
    「うーん……届かなくても、書きたかったんだと思います」
    「届かなくても?」
    「はい。誰かに届くかどうかより、書かないと自分が自分でいられなくなるような気がして、苦しくなるときがあって」
     俺には、その感覚がまだよくわからなかった。でも、その言葉だけは胸のどこかに残った。
    「そうなんですね」
    「はい。でも読んでくれて、嬉しいです」
     宮下さんはそう言って、前を向いた。
    「じゃあ、また」
    「はい」
     彼女の髪が揺れて、光を受けていた。俺はしばらく、その背中を見ていた。
     彼女の言葉は、まだ理解できなかった。
     でも、忘れられない気がした。


    八章 距離

     宮下さんと別れたあとも、あの言葉が胸の奥に残っていた。
     “私のために鳴らす”
     意味はまだわからなかった。でも、ライブに行くたびに、その一行がふと浮かんだ。
     俺は二回目、三回目とライブに通うようになった。
     ステージの上で歌う宮下さんの声に、前よりも強く耳を傾けるようになった。
     歌詞カードで読んだ言葉が、音になって目の前に現れるような気がした。

     客はどんどん増えていった。三回目のライブでは、もう三十人を超えていた。黒い壁のライブハウスが、前よりも狭く感じた。SPUUL のSNSの投稿へのいいね数も、フォロワーも増えていった。コメント欄には「次も行きます」「最高でした」と知らない人たちの言葉が並んでいた。

     ライブが終わると、物販のテーブルの前には人が列を作った。俺はその列の後ろで立ち止まった。話しかけようと思っても、タイミングがつかめなかった。前に並んでいる人たちは、宮下さんと楽しそうに話していた。

     列の後ろで立っているあいだ、俺は自分の足が少しだけ重くなっているのに気づいた。前に並ぶ人たちの笑い声が、いつもより遠く聞こえた。宮下さんが誰かの質問にうなずくたび、肩のあたりで髪が揺れた。 
     前の人が楽しそうに話す声が続く。俺は一度だけ列を離れようかと思った。けれど、足は動かなかった。胸の奥が、ゆっくりと沈んでいくような感覚だけが残った。

     俺は、ただの一人の客だった。
     距離ができていく。
     喜ばしいことなのに、素直に喜べなかった。
     彼女が人気になっていくことは嬉しいはずなのに、胸の奥がざわついた。

     ステージの横で、宮下さんがベースやドラムのメンバーと笑いながら話しているのを見た。その笑顔は、俺に向けられたものとは違って見えた。
     肩を軽く叩かれて笑う宮下さん。スマホを見せられて、身を寄せて覗き込む宮下さん。その距離の近さに、胸の奥が少し痛くなった。
     嫉妬だと気づいたとき、少しだけ自分が嫌になった。

     帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、俺はポケットの中で拳を握った。ライブの余韻がまだ耳に残っているのに、心は落ち着かなかった。
     電車の窓に映る自分の顔は、少し疲れて見えた。


    九章 中庭

     ライブの帰り道に感じた胸のざわつきは、次の日になっても消えなかった。授業を受けていても、ノートを取っていても、ふとした瞬間に宮下さんの横顔が浮かんだ。ベースの男と笑っていたときの、あの距離の近さ。物販で話しかけられなかった自分。胸の奥が、まだ少し痛かった。
     大学生活はいつも通り続いた。講義室のざわめき。食堂の行列。中庭のベンチ。全部が同じはずなのに、どこか落ち着かなかった。

     ある日の昼休み、中庭を通りかかったとき、宮下さんがベンチに座っているのが見えた。スマホを見つめている。表情は、ライブのときのような明るさではなかった。どこか思い詰めたように見えた。
     声をかけようか迷った。でも、足は止まらなかった。通り過ぎたあとも、歩く速度はすぐには戻らなかった。中庭のざわめきが、いつもより遠く聞こえた。胸の奥で、昨日までのざわつきと、さっき見た横顔がゆっくり混ざり合っていく感じがした。ライブハウスの暗い照明の中で歌っていた彼女と、昼休みの光の中で俯いていた彼女が、同じ人だと思うと、足が少しだけ重くなった。何か言えたはずなのに、言えなかった自分が、また胸の奥で静かに響いた。ただ、その横顔を少しだけ見て通り過ぎた。

     彼女も何かを抱えている。そのとき、そう思った。
     ライブで客が増えているのは、彼女にとっては嬉しいことだろう。バンドメンバーは、彼女を支える仲間だ。
     俺が勝手に嫉妬していたことが、急に恥ずかしくなった。
     中庭を抜ける風が少し冷たかった。俺は深く息を吸った。
     どうかしていた。そう思った。
     ライブで感じた距離。嫉妬。自己嫌悪。それらが全部、胸の奥で静かに混ざっていく。
     俺はベンチの横を通り過ぎながら、もう一度だけ宮下さんを見た。彼女はスマホを握ったまま、動かなかった。
     風が彼女の髪を揺らした。

     その姿を見て、思った。
     俺は、彼女のことを何も知らない。ステージの上の姿しか知らない。歌詞しか知らない。
     でも、それでも惹かれている。その理由が、自分でもまだよくわからなかった。
     中庭を抜けると、空が少し曇っていた。俺はそのまま講義棟へ向かった。
     歩きながら、胸の奥のざわつきがゆっくりと静まっていくのを感じた。


    十章 オーディション

     中庭で宮下さんを見かけたあの日から、俺は少しだけ落ち着いて大学生活を送れるようになった。
     彼女がスマホを見つめていた、あの思い詰めたような表情が胸の奥に静かに残っていた。

     その週の金曜、大学の廊下で宮下さんを見かけた。スマホを持ったまま、少し急いで歩いていた。声をかけようか迷った。
     でも、足は自然に前へ出ていた。
    「宮下さん、この前のライブ……すごくよかったです」
     言った瞬間、胸が少し熱くなった。宮下さんが立ち止まり、こちらを向いた。
    「えっ……ありがとうございます」
     その声は、ライブハウスで聞くよりも少し柔らかかった。
    「なんか……最近、表情が少し違う気がして。何かあったんですか?」
     言ってから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。
     でも、宮下さんは驚いたように目を瞬いたあと、ゆっくり口を開いた。
    「……今、オーディション、応募してるんです」
    「オーディション?」
    「はい。レコード会社の。一社目に送ったんですけど……だめで」
     宮下さんはスマホを握り直した。その指が少し震えているように見えた。
    「でも、次の選考に通るように、ちゃんと録り直そうと思ってて。スタジオでレコーディングするんです。今週」
    「レコーディング……」
    「お金、けっこうかかるんですけど……バイトも増やして、なんとかしたいと思って」
     言葉は淡々としていた。でも、その淡々さの奥に、強い決意があった。
    「就活もあるし……正直、いろいろ重なってて。でも、やれるだけやりたいんです」
     宮下さんは少し笑った。
     その笑い方は、あのとき“届かなくても書きたかった”と言ったときの笑い方に似ていた。
     胸の奥が静かに熱くなった。
    「……すごいですね」
    「すごくないですよ。出すだけなら誰でもできますし」
    「でも、出すだけじゃなくて……ちゃんとやろうとしてるじゃないですか」
     宮下さんは少しだけ目を伏せた。
    「……ありがとうございます」
     その声は、ほんの少しだけ震えていた。

     言葉を交わしているあいだ、廊下のざわめきが少し遠く聞こえた。宮下さんがスマホを握り直すたび、指先がわずかに震えているのが見えた。その震えは、緊張というより、何かを掴もうとしている人の震えに見えた。
     ライブハウスで歌っていたときの強さと、今ここで話しているときの不安が、同じ場所に重なって見えた。
     彼女は前に進もうとしている。届くかどうかじゃなくて、進まないと苦しくなるから進んでいる。
     その姿を見ていると、胸の奥がゆっくり熱くなった。

     俺は言った。
    「応援したいです。ライブも、音源も……全部聴きます」
     言ってから、少し恥ずかしくなった。でも、宮下さんはゆっくり顔を上げた。
    「……嬉しいです」
     その一言が、胸の奥に深く落ちた。廊下の向こうから声がした。
    「紗季、なにしてんのー?」
    「あ、うん」
     宮下さんはスマホをしまい、軽く頭を下げた。
    「じゃあ、また」
    「はい」
     彼女が歩き出す。その背中を見ながら、俺は思った。
     “届かなくても書きたかった”
     あの言葉が、少しだけわかる気がした。
     彼女は、届くかどうかじゃなくて、
     “自分が自分でいられるために”進んでいる。
     そう思った。


    十一章 レコーディングとワンマン告知

     宮下さんと話したあの日から、SPUUL のSNSの投稿が少し変わった。
     スタジオの写真が増えた。防音材の貼られた壁。マイクスタンド。ヘッドホンをつけた宮下さんの横顔。その全部が、前よりも少しだけ緊張して見えた。
     投稿を見ているあいだ、スマホの画面の光が指先に反射していた。深夜のスタジオの写真は、どれも少しだけ疲れた色をしていたけれど、その疲れの奥に、前へ進もうとする熱が確かにあった。
     録音の合間に撮られたであろう横顔は、ライブのときよりも静かで、でも強かった。画面をスクロールするたびに、胸の奥がゆっくりと押されるような感覚があった。
    『今日はコーラス録り』
    『ギターの音、もう少しだけ詰めます』
    『深夜まで頑張ります』
     そんな短い言葉が添えられていた。
     俺は毎日その投稿を見た。授業の合間に、帰り道に、寝る前に。スマホの画面に映る宮下さんの姿は、ライブのときよりもずっと真剣な表情だった。

     レコーディングが進むにつれて、フォロワーはさらに増えていった。
     コメント欄には「音源楽しみです」「絶対聴きます」「応援してます」と言葉が並んだ。

     ある夜、SNSを開くと、新しい投稿があった。
    『来月、ワンマンやります』
     胸が少し跳ねた。画像には、あのライブハウスの黒い壁が写っていた。最初に行ったときと同じ場所。五人しかいなかった客席。ステージに出てきたときの、少し遅れた笑顔。その場所で、ワンマン。
     日付が添えられていた。来月の土曜。時間は夜。チケットのURLが貼られていた。
     俺はしばらく画面を見つめた。指先が少し震えていた。

     行こう。
     そう思った。迷いはなかった。

     投稿の最後に、短い一文があった。
    『全部出し切ります』
     その言葉を読んだ瞬間、あの声が蘇った。
     “やれるだけやりたいんです”
     その延長線上に、このワンマンがある。そう思った。
     画面を閉じると、部屋の静けさが戻った。でも、胸の奥は静かではなかった。何かがゆっくりと動き始めている。そんな感覚があった。

     ワンマンまで、あと一ヶ月。
     その日が近づくたびに、心臓の鼓動が少しずつ早くなる気がした。


    十二章 SOLD OUT

     ワンマンの告知が出てから、俺は毎日のようにSNSを開いた。
     レコーディングの投稿は続いていた。深夜のスタジオ。譜面の写真。マイクの前で目を閉じている宮下さん。

     ある日の夕方、大学の食堂で席に座ったとき、通知が一つ届いた。
     SPUUL の新しい投稿だった。
    『ワンマン、SOLD OUTしました』
     その一文を見た瞬間、スマホを持つ手が少し震えた。
     通知を開いた瞬間、食堂のざわめきが一気に遠くなった。
     “SOLD OUT” の文字は、ただの結果なのに、なぜか胸の奥を強く叩いた。
     自分が買った一枚が、その中の一枚として並んでいることが、急に現実になった。
     画面を閉じても、心臓の鼓動だけがしばらく速いままだった。
     画像には、ライブハウスの黒い壁と“THANK YOU SOLD OUT” の文字。
     その下に、宮下さんの短いコメントが添えられていた。
     画面の文字だけが、やけに鮮明に見えた。俺は、チケットを買っていた。
     その席が、もう埋まったのだと思うと、胸の奥が熱くなった。
     ライブ当日まで、あと二週間。その間も投稿は続いた。

     俺の生活も少しずつ変わった。授業の合間に、彼女の曲を聴くようになった。
     帰り道、イヤホンをつけて歩く時間が増えた。夜、机に向かう前に必ず一曲流した。 音が流れるたびに、胸の奥が少しだけ前へ押される気がした。
     でも、SPUUL の投稿は、ある日を境にぱたりと止まった。ライブ告知の投稿を最後に、更新が途絶えた。理由は書かれていなかった。
     レコーディングが終わったのか、準備に集中しているのか、それとも何かあったのか。わからなかった。
     でも、俺は毎晩CDを聴いた。机に向かう前に、必ず一度再生した。音が流れると、胸の奥が少しだけ落ち着いた。

     ワンマンまで、あと一週間。
     彼女は、どんな音を鳴らすんだろう。
     どんな声で歌うんだろう。
     どんな表情でステージに立つんだろう。
     考えるたびに、胸の奥が熱くなった。

     SOLD OUT。
     その言葉が、ずっと頭の中に残っていた。


    十三章 ワンマンライブ

     ライブハウスの前には、見たことのないほど人が並んでいた。
     黒い壁に貼られた「SPUUL ONE-MAN LIVE」のポスター。
     その下の SOLD OUT の赤い文字が、夜の光を受けて少し滲んで見えた。

     俺は列の最後尾に並んだ。周りの人たちは興奮した声で話していた。
    「今日、絶対すごいよ」
    「レコーディングの動画、鳥肌だった」
     その熱が、まだ始まっていないのに胸の奥へ届いた。

     開場すると、客が一気に流れ込んだ。ステージ前はぎっしりと人で埋まった。最初に来たときは五人しかいなかった場所だ。黒い壁が、今日はやけに近く感じた。
     照明が落ちた瞬間、空気が一度だけ深く息を吸ったように静まった。

     暗闇の中で、コツ、コツ、と足音がした。
     ステージに影が現れる。
     宮下さんだった。
     ライトが一斉に当たる。白いシャツが光を反射し、黒いパンツが照明に浮かび上がった。
     ポニーテールが光を受けて揺れた。
     客席が一斉に沸いた。その熱が、胸の奥まで押し寄せた。

     宮下さんはマイクの前に立ち、深く息を吸った。
    「来てくれて、ありがとうございます」
     その声は、照明の熱をまとって、ライブハウス全体に静かに広がった。

     ギターが鳴る。
     ドラムが入る。
     ベースが低く響く。
     そして、宮下さんの声が始まった。

     最初の一音で、胸が熱くなった。音が空気を震わせて、体の奥まで届いた。歌詞の一行一行が、文字で読んだときとはまったく違う意味を持って聞こえた。
     “私のために鳴らす”
     その一行が、初めて音になって胸へ落ちた。

     曲が進むにつれて、宮下さんの声はどんどん熱を帯びていった。高音で少し震えた瞬間もあった。でも、その震えさえも美しかった。
     照明が赤から青へ変わるたびに、彼女の横顔の影が揺れた。
     ギターの弦が光を反射し、ドラムのスティックが空気を切る音がした。

     全部出す、という言葉が、そのまま音になっていた。

     最後の曲が終わると、ステージの照明がゆっくり落ちた。
     メンバーがそれぞれ深く頭を下げ、袖へと消えていく。

     暗闇の中で、拍手が続いた。止まらない。誰も帰ろうとしない。
     やがて、その拍手がゆっくりと一つのリズムになった。
     アンコールだった。
     ライブハウス全体が揺れるような熱だった。

     ステージに、宮下さんが一人で出てきた。
     その瞬間、満場の拍手が一気に広がった。ライブハウスの壁が震えるほどの拍手。
     でも、宮下さんがマイクの前に立つと、その音は自然に、すっと消えていった。

     ストラップを肩にかける。
     静寂が落ちた。

     本当に、音がひとつもない静けさだった。
     誰も動かない。
     ただ、彼女を見ていた。

     宮下さんは、しばらく黙っていた。

     ギターを抱えたまま、客席をゆっくり見渡した。
     その沈黙が、胸の奥を締めつけた。

     やがて、彼女は小さく息を吸った。
    「……アンコール、本当に、ありがとうございます」
     声は少し震えていた。でも、まっすぐだった。
    「レコーディングも、ライブも、うまくいかない日ばかりで。
     それでも続けてきて……今日、こんな景色が見られて、ほんとうに嬉しいです」
     客席の誰も動かなかった。
     ただ、聞いていた。
    「届くかどうかわからなくても、私は歌いたかったんです」

     宮下さんは、ギターのネックをそっと握り直した。
    「その歌を聴いてください」
     照明が一筋だけ落ちる。彼女の肩とギターだけを照らす光。

     弦を押す小さな音がした。
     そして、弾き語りが始まった。

     曲は『鳴らす』だった。

     バンドの音がない。
     ドラムも、ベースもない。
     ただ、彼女の声と、一本のギターだけ。

     音が空気を震わせるたびに、胸の奥が熱くなった。
     歌詞の一行一行が、まるで初めて聞く言葉のようにまっすぐ胸へ落ちていった。
     照明が彼女の横顔を照らし、影がステージに長く伸びた。
     ギターが光を受けて揺れた。
     声が少しだけ震えた瞬間、胸が締めつけられた。
     気づいたら、涙がこぼれていた。
     音は小さいのに、なぜか体の中心だけが強く震えた。ギターの弦を押す指の動きが、照明の細い光の中でゆっくり浮かび上がった。
     歌詞の一行が届くたびに、胸の奥で何かがほどけていく感じがした。ライブハウスの黒い壁も、周りのざわめきも、全部が遠くなった。
     宮下さんが少しだけ息を吸う音まで聞こえた。
     “届かなくても書きたかった”
     あの言葉が、音になって目の前に立ち上がっていた。
     気づいたら、呼吸が浅くなっていた。涙が落ちるたびに、視界の光が少し滲んだ。
     でも、目を逸らせなかった。
     彼女が鳴らす音を、全部受け止めたかった。
     涙を拭うこともできなかった。ただ、落ちるままに任せた。


    十四章 できること

     ワンマンライブの翌朝、目が覚めると胸の奥がまだ熱かった。
     昨日の音が、体のどこかに残っているような感覚があった。
     『鳴らす』が、頭の中で何度も反復された。
     その音が、俺の中で鳴っていた。

     布団から起き上がると、机の上に置いた就活サイトのパンフレットが目に入った。
     ずっと開いていなかったページ。
     昨日まで、どこか遠い世界のものだと思っていた。
     でも、今日は違った。
    「……やるか」
     小さくつぶやいた声が、自分でも驚くほど自然だった。

     その日から、俺は就活を始めた。履歴書を書き、企業を調べ、説明会に申し込んだ。慣れないスーツを着て、鏡の前でネクタイを整えた。
     面接ではうまく話せないこともあった。
     でも、帰り道にイヤホンで彼女の歌を聴くと、胸の奥が少しだけ前へ押された。   
     俺にも、できることがあるはずだ。そう思えた。

     就活の帰り道、駅へ向かう坂を歩きながら、胸の奥の熱がゆっくりと形を変えていくのを感じた。ライブのときのような強い熱ではなく、もっと静かで、でも確かに前へ押す力だった。スーツの肩が少し重くても、歩く足は自然に前へ出た。
     彼女の歌が、イヤホンの奥で小さく響いた。昨日まで遠くにあった世界が、少しだけ自分の手の届く場所に近づいたような気がした。
     やれることをやるしかない。

     数週間後、内定のメールが届いた。画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。胸の奥がじんわり熱くなった。
     その勢いのまま、卒論にも取りかかった。図書館に通い、資料を読み、ノートに書き込んだ。夜遅くまで机に向かう日が増えた。
     ページが少しずつ埋まっていくたびに、胸の奥の熱が静かに続いていた。

     でも、ワンマンライブ以降、SPUUL のSNSは更新されなくなった。ライブの告知も、スタジオの写真も、何も投稿されなかった。タイムラインは静まり返っていた。理由は書かれていなかった。ただ、静けさだけが続いた。

     俺は毎晩、CDを聴いた。机に向かう前に、必ず一度再生した。音が流れると、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
     彼女の音は、まだそこにあった。でも、彼女自身はどこにいるのかわからなかった。
     静かな日々が続いた。
     でも、その静けさの中で、俺は少しずつ前へ進んでいた。
     ワンマンの夜に始まった熱は、まだ消えていなかった。


    十五章 届かなかった音

     卒論の資料を抱えて大学の廊下を歩いていたとき、前からスーツ姿の女性が歩いてきた。
     宮下さんだった。
     白いブラウスに黒いジャケット。
     髪はいつものポニーテールではなく、後ろでまとめられていた。
     ライブのときの光を浴びた横顔とは違って、少しだけ疲れているように見えた。
    「宮下さん」
     声をかけると、彼女は気づいて立ち止まった。
    「……こんにちは」
     その声は、ライブのときよりもずっと静かだった。
    「就活ですか?」
    「はい。面接、行ってきました」
     そう言って、少しだけ笑った。でも、その笑い方はどこかぎこちなかった。
     数秒の沈黙が落ちた。
     俺は迷った末に、聞いた。
    「最近……SNS、更新してないですよね。ライブも、なくて」
     宮下さんは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。その仕草が、胸に引っかかった。
    「……オーディション、十何社か送ったんですけど」
     声が少しだけ震えた。
    「全部、だめでした」
     俺は息を呑んだ。
     その言葉は、廊下の静けさの中でやけに大きく響いた。
     宮下さんは続けた。
    「レコーディングも、全部出し切ったんですけど……それでも届かなくて」
     唇を噛んだ。目が少し赤くなっていた。
    「悔しくて……でも、止まってるわけにもいかないから」
     その瞬間、涙が一粒だけ落ちた。彼女は慌てて指で拭った。
    「ごめんなさい。こんなところで泣くつもりじゃなくて」
     俺は何も言えなかった。言葉が見つからなかった。
     でも、宮下さんは続けた。
    「就活、ちゃんとやろうと思ってます。音楽は……続けたいけど、今は前に進まないと」
     その声は弱くなかった。
     言葉を失ったまま立ち尽くしていると、廊下の窓から差し込む光が、彼女のジャケットの肩を静かに照らした。面接帰りの疲れがそこに薄く滲んでいるのに、背筋だけはまっすぐだった。

     十何社に送った音源。その全部を録り直した日々。その努力が届かなかった現実を前にしても、彼女は立っていた。
     涙を拭った指先が少し震えていた。でも、その震えは、止まるための震えじゃなくて、進もうとする人の震えに見えた。
     胸の奥がゆっくり痛くなった。
     折れた夢の重さより、折れたまま歩こうとする強さのほうが、ずっと大きく見えた。
     涙を流しながら、それでも前を向こうとしていた。

    「……応援してます」
     ようやく出た言葉は、それだけだった。
     宮下さんは小さく笑った。
    「ありがとうございます。ほんとに、嬉しいです」
     その笑顔は、ライブのときとは違う。でも、確かに前を向いていた。

     彼女は軽く会釈して歩き出した。
     スーツの背中が、廊下の光を受けて揺れた。
     その背中を見ながら、胸の奥が静かに痛んだ。
     彼女の夢は叶わなかった。でも、彼女は止まっていなかった。
     その強さが、胸の奥に深く残った。


    十六章 卒業

     卒業式の日、校舎の前には色とりどりの袴やスーツが並んでいた。
     春の風が少し冷たくて、胸の奥がきゅっと締まった。
     式が終わり、友人たちと写真を撮っていると、
     人の流れの向こうに見覚えのある姿が見えた。

     宮下さんだった。

     淡い桃色の袴に、白い着物。
     髪はゆるくまとめられていて、いつものライブハウスの光の中の彼女とは違う、柔らかな雰囲気をまとっていた。
     胸が少し跳ねた。

    「宮下さん」
     声をかけると、彼女は気づいて歩み寄ってきた。
    「卒業、おめでとうございます」
     その声は静かで、穏やかだった。
    「ありがとうございます。鈴木さんも。」
    「はい。……どうしても伝えたいことがあって」
     袴の裾が風に揺れた。校舎の影が二人の足元に伸びていた。

    「ワンマンの音、ずっと残ってます。
     あの日の『鳴らす』が、俺の背中を押してくれました」
     言葉にすると、胸の奥が少し熱くなった。
    「俺の就活も、卒論も……全部、あの日から動き始めたんです」
     宮下さんは驚いたように目を見開いた。
     そして、ゆっくり笑った。
    「……そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってもいませんでした」
     その笑顔は、涙を見せた日の彼女とは違う。
     弱さと強さが混ざった、静かな光のような笑顔だった。

     胸の奥が少し震えた。
     でも、言葉は自然に出てきた。

    「ありがとう。ほんとに……ありがとう。
     宮下さんの音が、歌が、俺を前に進ませてくれました」

     本当は好きでした。
     でも、それを言わなくてよかった。

     宮下さんはしばらく何も言わなかった。
     風が二人の間を通り抜けた。
     やがて、彼女は小さく息を吸った。

    「こちらこそ、ありがとうございます。
     聴いてくれたこと、支えになれていたこと……今、全部、ちゃんと届きました」
     その声は、胸の奥でずっと消えずにいた音と同じ温度だった。
     別れの言葉は、どちらからともなく自然に出た。
    「頑張ってください」
    「お互いに、ですね」
     宮下さんは袴の裾を揺らしながら歩き出した。
     春の風がその背中を押していた。
     その姿は、涙を見せた日の彼女よりもずっとまっすぐだった。
     人の流れに紛れていく姿を見送りながら、胸の奥が静かに温かくなった。
     宮下さんを見送ったあと、胸の奥に残った温度がゆっくり形を変えていくのを感じた。
     痛みではなく、静かな熱だった。

     袴の裾が揺れた瞬間の光景が、何度も頭の中で反復された。ライブハウスの照明の中で歌っていた彼女と、今日の春の風の中で笑った彼女が、同じ人だと思うと胸が少し震えた。
     前へ進もうとしている背中は、昨日までよりずっと遠くに見えたけれど、同時にまっすぐだった。
     その背中を見たあとなら、俺も前へ進める気がした。

     別れは寂しかった。
     でも、痛くはなかった。
     彼女が前へ進もうとしていることが、ちゃんと伝わったから。

     そして俺も、前へ進まなきゃいけないと思った。


    終章 彼女にしか鳴らせなかった音

     卒業から少し経った春の午後、街の楽器店の前を通りかかった。
     ガラス越しに並ぶギターが、陽の光を受けて静かに光っていた。

     足が止まった。
     店内には、木の匂いが満ちていた。
     壁一面に並ぶギターの中で、一本だけ、自然と目が引かれた。
     深い茶色のボディ。
     少しだけ傷があるネック。
     新品じゃない、でも丁寧に扱われてきた跡がある。
     店員が近づいてきた。
    「触ってみますか?」
     俺はうなずいた。
     ギターを受け取ると、木の温度が手のひらに静かに広がった。
     椅子に座り、弦をそっと弾いた。
     小さな音が鳴った。
     ほんの少し震えて、すぐに空気に溶けた。
     でも、その一音が胸の奥に届いた。
     彼女の音とは違う。
     あの日のライブのように強くも美しくもない。
     『鳴らす』の最後の一行のように、胸を押す力もない。
     ただの、拙い音だった。
     でも、その拙さがよかった。
     俺のために鳴らした音だった。

     もう一度弾いた。
     少しだけ強く。
     少しだけ長く。

     音が広がって、店の空気を震わせた。胸が、静かに熱くなった。
     店員が笑った。
    「いい音ですね」
     俺はギターを見つめたまま、小さく息を吸った。
    「これ、買います」
     言葉は自然に出てきた。

     店を出ると、春の風が少し冷たかった。でも、温かかった。
     店を出て歩きながら、ケースの重さが肩にゆっくり馴染んでいくのを感じた。重いはずなのに、足取りは軽かった。
     信号待ちのあいだ、ケースの表面をそっと撫でると、さっき弾いた一音がまだ指先に残っている気がした。
     拙い音でも、自分のために鳴らした音なら、それでいい。
     そう思うと、胸の奥が静かに広がった。

     春の風が頬をかすめた。
     その風の温度が、あの日ライブハウスで感じた熱と同じ方向へ、ゆっくり背中を押していた。

     ふと空を見上げた。
     あの日のライブハウスの光。
     最後の歌。
     袴姿で笑った宮下さんの横顔。
     全部が胸の奥で静かに響いていた。

     彼女にしか鳴らせなかった音が、俺の中でずっと残っている。
     そして今、俺は俺の音を鳴らし始めている。

     拙くてもいい。
     小さくてもいい。

     前へ進むための音なら、それでいい。

     春の空は、少しだけ明るかった。




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