
生まれた土地で異質であること
十代のとき、日本人に生まれていなければ日本で生きられたのに、と思っていた。日本の文化や歴史への興味は幼い頃から強くて、小学生のときは卑弥呼や聖徳太子関連の本ばかり読んでいた。友だちはほとんどいなかったようなもので、放課後は決まって図書館に通った。帰国子女ということもあるかもしれないが、だから「外国に行って初めて日本のことを何も知らないことに気づいた」という体験はしたことが無い。学校は嫌いだった。
今わたしは、日本が居心地良くて仕方ない。
刺繍をしているとき、たまにYouTubeを流す。できるだけ勉強を兼ねてベンガル語の番組を観るようにしているけれど、頭が疲れているときは日本語に切り替える。だけど日本語でもいちばん観るのは、母語が日本語でないけれど日本語が流暢な人が出ている動画。なぜかそういった日本語が心地良い。
わたしはたぶん、なんでも混淆のものが好きだ。もっと言えば、混淆の中にこそ光る本質のようなものが好きだ。純粋な混じり気の無いものがあるとしたら、それ自体混淆や混沌であるような気がする。わたしの日本語を豊かにしているのは、他の言語で耕された体験や記憶だ。だから、と結論づけて良いものかは迷うところだけど、他の言語の響きや味わいがほのかに、あるいは大いに光る日本語が楽しい。方言にあって標準語で失われているものがそこにはあるような気すらする。
だけどそれはここでの本題ではない。彼らは大体、日本のことが好きで、日本の良いところを挙げ連ねたりする。そういう話題は特別おもしろいものでもないけれど、日本語に恋して日本に住むことを選んだ彼らがそんな風に語るのは自然なことだろう。学ぶ文化への敬意としても、わたし自身、他の国の文化を学ぶ身だから理解できる。
わたしがここで主題としたいのは、後天的に主体的に日本を選んだ彼らは(より大きな世界史の流れで日本に居合わせてしまった人はこの限りではない)、もちろん個々の性質に日本の文化土壌が合ったのだと思うけれど、日本が素晴らしいとか逆にひどいとかいう以前に、ただ「生まれた土地や集団に合わない人」が人類には一定数存在するということだ。
十代のわたしは、いわゆる日本的な同調圧力だとか、普通という目に見えない規準などに苦しんでいて、日本に住み続けることは考えられなかった。だけど日本の文化や自然は好きだったから、外国人としてだったら、そうしたプレッシャーを受けずに日本で生きていけるような気がしたのだ。
そうした環境で生き延びたことで身に付けた観察力があるし、我の強いわたしにはそういう教育環境でちょうど良かったのかもしれないと、いまとなっては思うけど、ただの結果論とも言える。
いまのわたしが日本が楽になったのは、たぶんわたしが、ある種日本人から自分を異化しきってしまったからだ。いま、一見してわたしを日本人だと断言する人はほぼいないのではないかと思う。関われば日本人だと納得するにしても、それであっても「少し違う」と感じられているのではないかと思う。期待される日本人度は相対的に低くなる。そこまで意識してやってきたわけではないけれど、でもやっぱり、わたしはそのように自分を形成してきた。
日本にいて楽な理由のひとつにはもちろん、国籍を保持しているということもある。大学時代を過ごしたオーストラリアを去ったのには、ビザを定期的に更新しなければならない身分で、外国人として生活することのストレスも大いに寄与した。
日本は保守的で差別的だと思って日本を出て、幼少期を過ごしたオーストラリアに改めて行ったわけだけれども、数年住んでみれば、オーストラリアもその点は別に変わらないと分かった。日本に二年ほど戻ったあとにインドに移り住んでみたら、インドも同じだった。そこに至ってようやく、この世はどこも地獄であり人類皆等しく差別主義者でありそれぞれの形で同調圧力行使者なのだと諦めがついた。
諦めがついたら、どこに行っても優しくされることが増えた。いまは日本とインドを行き来しているが、どちらの国でも良い人にばっかり出会う。
印象的な出来事があった。
わたしはインドのベンガル地方でバウルという行者たちのもとで学んでいる。あるとき、師匠に縁ある行者の奥さまが入院されたということで、お見舞いに着いて行った。公立病院だった。大部屋というか、ひとフロア全体に仕切りも無くベッドがたくさん、間隔を開けて並んでいるという感じ。そこに、師匠ひきいるわたしたち一行が足を踏み入れた。
わたしのような外国人や、他州のインド人の弟子もいるし、我々が目立つのは分かる。当たり前だ。師匠自体、床まで届くドレッドヘアーだし、目立つ人なのだ。
もうひとり、ゆかりある別の行者も同行していた。地元の行者だ。
わたしの心に楔を打ち込んだのは、この行者のその場での異質さだった。
ベンガルに行くと、わたしは基本的に師匠のところにしか行かず、周囲の村の村人であったりバウル行者たちのコミュニティとばかり関わって過ごすから、彼のような行者の存在や佇まいは、わたしにとって当たり前で、わたしにとってのベンガルとは彼らのような人々であるとすら言える。
だけど公立病院に集まる一般人の中に放り込まれると、彼は全く異質に見えた。おそらく、わたしたちがいなくて、彼ひとりで来たとしても、周囲の人々はちらちら、ジロジロと注目しただろうと思う。
行者というのはそういう存在なのだと、初めて理解したのかもしれない。
師匠はドレッドヘアーと書いたけれども、インドの修行者の中にはドレッドヘアーの人たちも一定数いて、女性も、相対的には少ないとしても、いる。だいたいインド人の髪というのは、ちょっととかずにいるとうっかりドレッドベイビーたる髪の塊ができてしまうらしいので、放棄の象徴のひとつなのだろう。ただ、そうした髪の人々は基本的には行くところに行かなければいないので、街で見かけるとやはり、異質だということになる。師匠は本人の存在感がそもそも桁違いなので、あまりそういった外観の要素をわたしは考えたことが無かった。
インドで行者は社会構造の中に組み込まれていると言えるし、マイノリティとは言えども集まればそれなりの集団を形成し、文化的にインドを象徴している一面すらあり、そのことを誇りに思う人々すらいるだろう。
言ってしまえば、受け入れられている異質——予定調和的な異質。かつて日本を漂泊した人々もこのようであっただろうか。
もしも、敢えて現代日本社会の硬直したところを言ってみるなら、そうした制度的な異質の割合があまりにも少ないことなのかもしれない。異質を普通だと見做す必要は無いけれど。
そんな風に考えたことはなかったけれど、わたしがインドの師匠のもとで学んだことのひとつは、異質な存在としてただ社会に存在するということなのかもしれない。
わたしが日本や日本人ということを思うとき、古代世界の混淆や交流を考える。だからわたしにとっての日本の定義は、たぶんそもそも、一般的なものとは違う。
わたしは結局日本に戻って来て、もし生き続けるのならいづれ完全に日本に居着くだろう。きっと調和した異質として。