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『浮舟物語』 (6)あとがき

     本作『浮舟物語』は、『源氏物語』宇治十帖の登場人物のひとり、浮舟を主人公とし、彼女の視点から描いた物語となります。
     宇治十帖は五四帖ある『源氏物語』の最後の十帖の物語であり、光源氏が亡くなった後の、次の世代の話となります。その主人公は、光源氏の息子(実は女三の宮と柏木の間の不義の子)である薫の君と、光源氏の孫で今上帝の皇子でもある匂宮の二人です。薫の君と匂宮は時に親友として、時にライバルとして、美しい女性を巡って競い合います。
     浮舟が登場するのは宇治十帖の中でも後半、「東屋」から「夢浮橋」までのわずか五つのエピソードです。それでも浮舟の存在は『源氏物語』全体を通しても非常に印象的なものであり、紫の上や六条御息所といった数々のヒロインたちの中でも一、二位を争うくらい人気のある登場人物です。
     本作のプロットは基本的に、原作である宇治十帖のそれを忠実に踏襲しています。ただ原作と異なるのは、本作は浮舟の一人称で叙述されているため、浮舟が登場しない場面はすべて省略されています。例えば京都で薫の君と匂宮が会話を交わすシーンは、浮舟が見ることが出来ない訳ですから、この物語では語られていません。

     さらにいくつかの点で本作には原作にはないオリジナルのエピソードが含まれています。そのひとつは「蜻蛉」の帖です。
     原作の「蜻蛉」には実は浮舟は登場しません。この間、浮舟は宇治川に身を投げて行方不明となっているのです。本作ではその間に浮舟が経験した出来事として、巨大な魚の胃袋の中で三日間を過ごしていたというエピソードを付け加えました。
     続く「手習」における浮舟と横川の僧都のやり取りも、オリジナルの要素を取り混ぜています。横川の僧都は『源氏物語』の登場人物の中で唯一、実在の人物をモデルにしたとされており、それは「恵信僧都」「横川僧都」と呼ばれた天台宗の僧侶、源信(九四二〜一〇一七)です。源信は『往生要集』を執筆し、日本の浄土教の祖とされる人物です。

     本作のテーマは「救済」です。それはもちろん浮舟の出家を意味するのですが、本作ではいくつかのキリスト教的な要素を配置しています。
     その中心はやはり浮舟の入水です。浮舟は宇治川に一度、身を投げることによって死に、三日後に生還することによって、救いの道にあずかるようになります。これは、キリスト教におけるバプテスマ(洗礼)が、元々はヨルダン川の水の中に身体を浸すことで擬似的な死を迎え、新たに生まれ変わった人生を歩むという意味を持っていたことと呼応しています。またイエスが十字架の上で一度死に、三日目に死人の内より蘇ったこととも呼応しています。
     本作の「蜻蛉」に登場する巨大な魚は、浮舟の推測するところによると常陸国の鹿島神宮の伝説に登場する、地震を引き起こすオオナマズということになりますが、大きな魚に飲み込まれるというモチーフは『旧約聖書』の「ヨナ書」からの引用でもあります。なお「ヨナ書」のこのエピソードは、『新約聖書』においてはイエスの死と復活に関連付けて解釈されます。ちなみに童話『ピノキオ』の物語の中に、ゼペット爺さんが巨大な魚に飲み込まれるというシーンが出てきますが、これも「ヨナ書」からの引用です。
     そして「手習」の中で横川の僧都は、「出家というものは、人間個人の意思だけで成されるものではありません。そこに御仏の御心があって初めて成されるものなのです」、「人は人を救うことは出来ません。人を救うのは御仏だけです」と浮舟に説きます。これらはいずれも原作にはない台詞ですが、私なりの「救済」に対する見解のひとつです。
     最後に、本作には「その後の浮舟」についての短い文章を付け加えました。浮舟は当時としては非常に長生きをして、生涯を恵まれない女性のために尽くしたと記されています。彼女にとっては、出家するまでの薫の君と匂宮との間で繰り広げた一見すると華やかな一時は、彼女の長い信仰の人生にとってのきっかけに過ぎなかった、ということなのだと思います。なお原作では「夢浮橋」の帖は唐突に終わっており、浮舟の行く末については何も語られていません。
     儚くも、強く生き抜いた浮舟の人生。本作を読まれた方々にも、共感を頂くことが出来れば、本作の著者としては望外の喜びです。

     最後に、本作の浮舟のイメージを捉え、それを装画として表現してくださった上地式さんに感謝いたします。このビジュアルがあって初めて、本作は完成したと思っています。

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